「――かはッ」
唐突に流れ込んでくる新鮮な空気と、一気にせり上がってくる苦しさに思わず声が漏れた。これほど追い込まれたのはいつぶりだろうか。男は身体が悲鳴を上げているのを感じていた。
「大丈夫ですか、坂本さん」
この状況で、他人を心配している余裕があるのか。
くせっ毛は乱暴に掻くと、男は息も絶え絶えに、隣で涼しい顔をしている青年をひっそりと睨めつけた。そうしてまた、枯渇寸前の酸素を目一杯肺に取り入れる。めまいがして頭が真っ白になったが、辛うじて意識を保つが、両手は迷わずに膝に一直線。
肩で息をしながら何度目かの短い呼吸を繰り返すと、ヨロヨロと視線だけを地面から上に彷徨わせる。今、渇望するものは生命活動にとって最も大切な要素のひとつ。
「あ、綾崎先輩……水、を」
「あ、うん。どうぞ」
水分を。
差し出された天然水のペットボトルをひったくるように取ると、そのまま口に流し込んだ。冷たい水は喉を通り抜けながら、全身に活力をみなぎらせていく。ことここにおいて、彼はようやく生きている感覚を取り戻しつつあった。
息を吹き返し始めたのはくせっ毛が特徴の無気力そうな顔立ちの青年、坂本。その隣には一見華奢で中性的な顔立ちの青年、綾崎ハヤテ。2人は今、自転車に跨りながら駐車場にいた。コインパーキングのような小さな空間ではなく、もっと広い、見渡す限りの駐車場だ。
「いやー、ちょっと飛ばしすぎちゃいましたね。坂本くん以外と体力あるからつい」
ハヤテはにへらと微笑みながら頭を掻いてみせる。
「けど、前半に飛ばしたおかげでかなり余裕が出来ました。この分ならもう高速は使わなくても大丈夫かな」
「えぇ、先輩の配送ルートを細かく聞かなかった僕にも落ち度があると思いますがひとまず」
平日のまっ昼間、車体も疎らな殺風景なその空間の片隅に置かれた看板にはこう書かれていた。
『代々木パーキングエリア』
「ここ、首都高ですよね?」
何度かその文字を見て、自分達がしでかした事がようやく脳裏に浸透してきた。そう、ここは首都高速道路のPA(パーキングエリア)。東京都内の駆け巡る道路に隣接する施設である。自動車専用道路である。そこに自転車に乗った2人が今いる場所が。
坂本の訴えに、彼は屈託のない綺麗な瞳を向けてくる。
「ここ、ハチミツのソフトクリームが有名なんですよ。たまに来た時にご褒美で食べることもあるんです」
「あれ?話繋がってなくない?俺の声届いてます?」
「毎回食べられるほどうちは裕福じゃないですけどね」
「ええ、まぁそれは……いやそうではなくて」
「まぁ、大丈夫ですよ」
たおやかな笑みを一切崩すことなく一言。
「逃げ切れば」
先ほどまで疲労で焼けるように熱を帯びていた坂本の体は一瞬にして冷え込んでいた。
真っ暗な液晶画面を見つめながら、天王州アテネは小さく息をついた。目の前の机に置かれた四角いその
妙だ。彼女は訝しんだ。
記憶にある携帯電話という代物は、もっとこう、小さな画面にキーボードのようなボタンが大量にあって、アンテナを伸ばして使うものだった。それが一体全体いつの間にこんな形状に変わってしまったのか。これは最早ダーウィンも想像できない突然変異なのではないだろうか。
「ほい」
端末を睨み付けながら抱いていた疑問に答えたのは、横から伸びてきた指だった。そっと画面に指が触れれば、途端に時計の文字が浮かんだかと思うと、すらすらと指が画面をなぞり、アプリが沢山並んだホーム画面へと切り替わる。
「画面に直接触れて操作するんだぞ、アテネ」
座った彼女よりも更に目線が低い少年に呆れたような視線を向けられるのは中々堪えるものだが、彼女はわざとらしく咳払いをして「そうでしたわね」とすまし顔で取り繕う。左手にひょいと端末を拾い上げたは良いものの、画面に直接触れることにもまだ抵抗がある。
「アイルから連絡はあったのか?」
「いいえ」
興味津々という感じで覗き込んでくるマキナをいなしつつ、ホーム画面を開いたままの端末を机の上にたどたどしく戻す。
「便りが無いのが良い便りとも言います。あれでも天王州家の執事、進捗は順調ということでしょう」
「ふふん、アイルが作るハンバーガーはモス並に美味しいからな!何の心配もない!」
突如、机に伝わる振動。アテネはびくっと肩を震わせて一歩後ずさる。
「マキナ、携帯が震えているわ。故障かしら」
「いやフツーに電話だぞ、ほら」
拾い上げると、マキナは通話をオンにしてひょいとパス。彼女は怪訝な表情を崩さないまま、端末を耳に。
「天王州ですが」
『……マジですか』
聞こえてきた驚嘆の声色に、アテネは思わず眉をひそめた。
「なんですの?」
「いえ、まさかお嬢様が最初にお出になるとは思わず」
「これは私の携帯よ?」
「ええ、まあそうですね……」
煮え切らずに言葉を濁す電話主。彼の言いたい事が分かってしまう事はどうにも癪であるが、今は優先すべき話がある。
「言いたいことはありますが、まあいいでしょう。それよりも首尾の方はどうですの」
「その件ですが、──か?」
受話器から一瞬強い摩擦音がして声が途切れる。風が強い場所にでもいるのだろうか。心なしか轟々と奇妙な音も聞こえるような。
「貴方今どこから電話してるの?」
「ああ、お気になさらず。アクアラインは今日も混んでますが」
「車で移動を?」
「いえ、まあ車両といえば車両ですが……」
意味不明な事を言うのはいつもの事だが、決して捨て置いていい発言でもないような気がするのは彼女の思い過ごしか。アイルは何でもありませんと、もう一度間を置いて、今度こそ真剣に潜めた声色に端末を握る手にも自然と力が入る。
「で、例の件ですが。当たりです」
「つまり」
「ええ、予想通り。お嬢様が探し求めている人物に間違いないかと」
思わず息を呑む。声にならない声、自分でも少し震えているのが分かる。
期待していなかったわけではないが、いざ目の前に突きつけられるとどう受け止めていいのか困惑してしまう事もまた事実だった。可能であれば今すぐにでも――
「っと、すみません!また連絡します」
「アイル?」
「ちょっと国家権力に追われてまして。それ振り切ってから、また」
「は?」
言い終わらぬうちに通話は切れてしまった。
「どうしたアテネ」
きょとんとしている彼女を心配そうにのぞき込むチビっ子執事。「通話終了」と表示された画面を見つめていたが、やがてふと小さく息をつくと椅子に身体を預ける。
「マキナ、ひとまず紅茶を淹れてくれるかしら」
「わかったぞ!」
駆け足で部屋を出て行く小さな背中を見送ると、そっと目を閉じて額をもんだ。待ちに待ち望んだ、渇望してしすぎることもない結果がすぐ目の前に転がり込んできたのだから。少しでも冷静に頭を整理するために、今は紅茶の香りを望むしかあるまい。
あぁ、しかし。それよりも自分の執事が何をやらかしているのか。どんな厄介ごとに巻き込まれているのやら。近くの窓に目を向けると、青空は皮肉なほどに澄み渡って広がっていた。
それからさらに時は流れ。夕刻。どこかの河川敷。
「先輩、今日限りで辞めさせてください」
「えぇ!?」
素っ頓狂な声を発するハヤテを、残った僅かな気力を振り絞り睨め付けたのは坂本だった。
「ど、どうして?まだ初日だよ?」
「まだ初日なのに、首都高を自転車で爆走させられ、挙げ句警察とのカーチェイスという欲張りセット叩きつけられたから言ってるんです」
疲れを隠そうともせず、草の生い茂る斜面に大の字に寝そべる彼に対して、ハヤテはといえばペットボトル片手に、仕事終わりに一息ついてるくらいの軽い様子で自転車に跨っている。
「だ、大丈夫!確かに警察にあそこまで追い回されるのは予想外でしたけど。何とかまけたし、慣れていきますよ」
「その頃には人生が詰んでますよねそれ」
坂本の容赦ない一言にガッカリと肩を落とす。
「他の人は新しく来ても長続きしないんですよ」
「でしょうね」
「せっかく初めて僕と一緒に仕事を終わらせられる新人が来てくれたと思ったのに……」
「採用基準見直しましょうよ」
坂本ーーの仮面をかぶった執事は徐に目を閉じて息を吐いた。
振り返ってみれば、配達業者という仕事の過酷さが身に染みて叩き込まれる結果となった。否、この業者の過酷さというべきか。リサーチが甘かったと、彼は己の浅はかさを悔いた。
バイト初日は先輩に付き添いながらの配達業務を言い渡された。量を聞いたときはそのあまりの多さと、そして配達場所の広範囲さに十数人のグループで回すものだとばかり思い込んでいたが、その考えは所長の一言で脆くも崩れ去った。「綾崎くんとペアで頼むよ。分からないことがあれば彼に聞いてね」と。早速〝先輩アルバイト〟のハヤテのみとペアの配達業務を言い渡された訳である。
そしてこの量をどうやって1日でさばくのかと先輩に聞いたところ、「首都高を使えば大丈夫ですよ」とさも当然というような顔で帰ってきた回答がこれである。そして指さされた先には2台の自転車。
その後はもうがむしゃらだ。考えることを放棄して、ついでに道交法も放棄した結果。気付けば、途方もない精神的な疲労にさいなまれながら、河川敷に寝転がっていた。配達のノルマだけは達成していたと、ハヤテからは後で聞いた。
「せめて原付を導入するとか、設備投資は必要では」
「いや、お金なくて免許は取れてなくて……無免許で運転したら流石にアウトですし」
「現状も間違いなくアウトなんですが」
「まあそれは、ケースバイケースで」
へらっと笑うハヤテに、坂本は突っ込む気力すらも投げ捨ててしまいたかった。
「まあまあ!とにかく所長に報告にいきましょう。近場だけの配達グループもありますから。ゆっくり経験を積んでいけば絶対大丈夫ですよ」
なんとしても新人を確保しておきたいらしい。ハヤテは笑顔を崩さず、事務所への帰路をやんわりと促してきた。
しかし所長らには申し訳ないが、明日には坂本という人間はこの世から一切消えてなくなる。〝彼〟は目的を達成するためだけの被り物でしかないのだ。目的というのは第一にこの綾崎ハヤテへの接触。そして第二の目的はといえばーー
「そういえば、先輩は今高校生だったりするんですか」
「いえ、高校は去年卒業しました。今年19になります」
「そうだったんですか。いや、本当に若く見えるのでもっと年下かと思いまたよ」
「あ、ははは。よく言われます」
ややひきつった笑みを返すハヤテ。
その反応に違和感を覚えた坂本は、少しいたずらっぽく追求してみることにした。
「えー、実は年齢偽ってバイトしてるとかだったり?」
「そそ、そんな訳ないじゃないですか!急にやだなあははは」
「冗談ですって」
先程よりも明らかに狼狽した反応が。違和感を確信した彼は、別の話を振ってみる。
「ちなみに高校はどちらに通ってたんですか?こっち出身です?」
「都内ですよー、向こうの区にある忍馬酢(しのばず)高校です」
よどみない回答がすらりと出る。まあ出身校を聞かれたら回答に詰まるようなケースは珍しいので当然といえば当然だが。
「へえ!奇遇ですね、実は僕も同じ『しの校』なんですよ。ということは僕の翌年の卒業ってことですよね」
「え」
「生徒指導の刈谷先生覚えてますか?あの角刈り頭の、皆から角刈谷なんて呼ばれてて。僕はしょっちゅう遅刻して怒られてたなぁ」
「えーと、いたようないなかったような」
懐かしむように目を細める坂本に反して、曖昧な笑顔で頬をかくハヤテ。
「ほら、刈谷が不倫してるみたいな噂を不良グループが流したとかで大問題になって、新聞部も騒ぎ立てたもんだから、先生が怒り狂って叫ぶ倒す学年集会にもなったじゃないですか。僕が3年だったから綾先先輩は2年だったと思いますよ」
「あー。言われてみれば」
言うまでもなく坂本の振った話は何から何までデタラメだ。出身校でもなければ刈谷なる人物がいるかどうかも不明である、ハヤテが出身校かつ年も一個違いなら「そんな人いたか」と疑問が先行する可能性が高い。曖昧な返答になっているのは意図的に記憶が不明瞭なのか
「そういえば、坂本さんはどうしてこのバイトに」
「ああ、実は僕は家族を見返すためにーー」
そしてあからさまに話題そらし。
出身校は嘘。おそらくやむにやまれぬ事情があって、年齢も偽ってバイトをしているのだろう。
坂本は確信した上で、適当にハヤテの雑談に応じつつ、自転車を押して帰路につくことにした。
所長への報告に、事務所に向かったハヤテ。その場で別れると坂本はすかさず、バイト用の個人ロッカーが並んだ別室へ足を運んでいた。
「隠したいものは、やっぱりロッカーだよな」
両手に白い手袋をするが早いか、ハヤテのロッカーをピッキングで手際よくこじ開ける。中にかかった上着を取り出すと、ポケットから彼の写真が貼ってあるカードが出てきたではないか。
『都立潮見高校』
そのカード、学生証にはそう書かれていた。写真の横にはハヤテのフルネーム、学年は1年とある。特殊な事情がなければ15、16歳ということになる訳だ。年齢偽ってる時点で特殊な事情はあるのは明白だが。
彼の第二の目的。それはハヤテの現環境である。今どんな場所に住んでいて、どういった生活をしていて、そしてどんな人と交流があるのか。接触初日にどこまで探れるかは未知数だったが、幸運の女神は勿体ぶらずに微笑んでくれたらしい。
学校なり所属機関が分かれば最低限それでいい。時間もあまりないので漁った形跡を残さないため、慎重にかつ迅速に元の状態に戻そうと
「ん?」
ぽろりと。上着のポケットから落ちたのは、『交通安全』と書かれた小さなお守りだった。しかし、袋はこんもりと膨らんでいる。触ってみると何か石のような固形物が入っているような感触。
その瞬間、彼は言い知れぬ感覚に胸が捕まった。なんと表現すればいいのか、焦燥感のような胸騒ぎとそれに平行して焦点が合ってないようなぼやけた画が脳裏をかすめていくのだ。しかししれはあまりに不明瞭で、しかしひどく既視感を覚える。
唐突に始まったそれに困惑していると廊下から複数の足音と声が近づいてくるのに気がついた。急いで上着をロッカーに戻し、鍵をかけ直す。そうして窓の開け放ち、縁に足をかけた。
「お世話になりました。」
そのままひょいと飛び出して、坂本は姿を消したのだった。
「まぁ、そんなことがありまして」
「どっから突っ込めばいいのか分からないわ」
深々とため息をついたアテネは、背もたれに身体を預けたまま額をもんでみせた。
「とりあえず、法律は遵守しなさい」
「まあまあ。彼を拘束拉致監禁しなかっただけマシですって」
「誰もそんな事は頼んでいませんわ!」
すっかり坂本を剥ぎ捨てた執事、アイルは優雅な所作で紅茶を注ぎながら、そっと微笑みをつくる。
「というか、あの子はまた大変な環境にいるのね。身体は元気みたいで安心したけれど」
「あいにく彼の経済事情まではまだ。尾行しようにも、あの自転車の速度を追うのは現実的ではないのですね」
「構いません。そんなに早くことが進むなんて思っていないわ」
アテネはカップに口を付けると、柔らかくほのかに甘いダージリンの香りに思わず瞳を閉じる。
「彼の履歴書にあった住所ですが、行ってみたら空き地になってました。最近まで誰かがいた形跡はありましたけど」
「そう」
――あの連中にまだ搾取されていないと良いのだけれど。そんな物騒な言葉は彼女の口から小さくこぼれたが、執事は何も聞かなかった事にしようと決め込んだ。
「で、明日にでも学校に潜入して調べてこようと思います」
「ちょっと早急すぎませんこと?」
「兵は神速を尊ぶと言います。敵が外堀も囲わずに油断している今攻めずしてどうしますか」
「何の戦いなのよ……」
とはいえ迅速な行動が大事な場面であること自体は、アテネも否定するところではない。
「潜入といっても誰として入るんですの?」
「ま、生徒よりは進学先に興味がある中学3年生くらいがいいかなと」
「そうね……けれど、中学生に化ける気?」
身長は180ほどの執事は成長期の中学生を演じるのはいささか目立つ気がしないでもない。今時は長身な中学生はいくらでもいる
「まあ、身長調整に足を少し削り落としても良いんですが」
「そんな世紀末な整形はやめなさい」
「まあ調べた感じ普通の公立高校ですから、大丈夫でしょう」
肩をすくめて、楽観するアイルはナイフでパウンドケーキを薄く切ると、丁寧にお皿に2枚盛り付けていく。
そんな彼の彼女はじっと見つめていたが、ふと呟いた。
「何だか楽しそうね」
ナイフを拭いていた手を止めて、執事は少し考えるように視線を彷徨わせていたが
「気のせいじゃないですか」
やがて彼は薄く笑むと、お皿を主人の前へと置いた。
本当に更新ができずにごめんなさい!仕事に忙殺されるうちに気が付ければ放置して4ヶ月も……仕事も落ち着いたのでなんとか更新をもっと早められるように頑張ります!
原作の流れも少し変えるために、細かい部分や設定がちょいちょい変わっておりますが、何卒よろしくお願いします。
次回は潮見高校へ。白皇はその次に登場するかなと思います。生徒会メンバーもやっと登場させられそうです。次回もよろしくお願いします!
物語の終わり方について
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エンディングは一つのみが好ましい
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各ヒロインのルート分岐などがあっても良い
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どうでもいい