ギリシャ。欧州の南東部に位置するその国は、エーゲ海やイオニア海に数多くの島を有する共和制国家である。最大の都市アテネは、五輪の開催地としても有名だが、かつては哲学、政治、芸術、ありとあらゆる文化が栄華を極めた古代ギリシアの中心地だった。
そんな由緒ある街の一角に、ひっそりと佇む屋敷がある。
仰々しい建築技術が屋根や柱に施されたその建物は、宮殿と言われても納得してしまいそうなほど立派な造り。周りを美しい白百合の花畑に囲まれて、巨大な黒金のアーチは来るものを見定めるかのように重々しく構えられている。
「ふぁ」
そんな屋敷のとある一室で。家主の天王州アテネは目を覚ますと、口元を押さえて小さく欠伸をかみ殺した。
ぼんやりとした視界には日の光が無遠慮に差し込んでくるので、思わずまた閉じたくなるのを何とか堪えて、壁に掛かった時計に目を向けた。
午前11時40分。
正午に差し掛かろうというところ。お世辞にも早起きとは言えないと、内心ため息を付いた。
痛んだような気がした額を軽く揉むと、脳裏には笑顔で手を出し出す水色の髪の少年が浮かび上がった。すぐにそれをかき消すように頭を振る。
どんな夢を見たのかは覚えていない。懐かしい夢か、もしくは嫌な夢か。どちらにしても、今は感傷に浸りたい気分では無かった。
アテネは白い寝衣から、黒いドレスに着替え、部屋を出た。綺麗に磨かれた窓からは、部屋同様にまばゆい太陽光が注ぎ込んでいる。別に吸血鬼という訳ではないが、何となく光を避けて廊下を進んでいくと、エントランスホールに続く階段を降りた角で、2人の黒服が何やら話している姿が目に入った。
1人は白髪の少年、齢にして10歳程度。彼に膝を付いて向き合っているのは、赤い髪をした青年だ。どちらも執事服を着ていることからも瞭然だが、この屋敷に勤める執事である。
赤い髪の男は悪戯っぽい笑みを浮かべて、少年に向けて何かを話している。
この男のことだ、また碌でもないことを吹き込んでいるに違いない。アテネは目を細めると、ゆっくりと後ろから彼の背中に近づいていく。
「だから、お嬢様の機嫌を損ねちゃいけない。ああ見えて実は凶悪な一面を隠していてな。満月になると夜な夜な身体が」
「随分楽しそうなお話ね」
「げ」
赤い髪の男――アイルは前につんのめりそうになって、素早く距離を取りながら振り返ってみせた。化け物に気付かれたような反応には実に心外である、
「変わった挨拶ね、アイル」
「いえとんでもない。おはようございますお嬢様」
「おはよう」
白々しくお辞儀をする従者にキッと睨みをくれてから、アテネの視線は白髪の少年――マキナへと向けられる。
「おはようアテネ!見てくれ、エントランスのお掃除をしたぞ!アイルもすごく綺麗だって褒めてくれたんだ」
「えらいわね、マキナ」
屈託のない笑顔で目を輝かせる少年に、自然と優しく口元を緩めるアテネ。そっと頭に手を乗せるとくすぐったそうに喜ぶ様子はどこか小動物染みている。
「では、ご飯まで部屋で休んでいて」
「分かった!」
嬉々として駆けていく後ろ姿を見送ると、彼女はすかさず隣の男に詰め寄った。
「嘘を教えるのはよしなさいと言ったでしょう」
「小粋な冗談じゃあないですか」
「生まれてまだ間もないんだから。白くて純真な子供なのよ」
ジトっと目の前の執事を睨む。
「確かに、寝る前に本の読み聞かせをせがむくらいですからね。昨日も葬式に取り立てで踏み込んだ場面は夢中になって」
「聞くのが怖いのだけれど、一体どんな本を読み聞かせてあげているのかしら」
「ミ○ミの帝王」
「オセロ感覚で白を黒にしないでくれる?」
お嬢様は頭を抱えた。
「金融の怖さを分かりやすく感じてもらおうと思いまして」
「童話みたいに言わないで頂戴」
「お嬢様にも昔読み聞かせしたじゃないですか。ほら、ナ○ワ金融道とか」
「お陰で見たこともない債務者の苦悩にうなされて起きることがあったわね」
思い出したくもないのか、こめかみを押さえながらため息をつくお嬢様。
「じゃあ明日からはウ○ジマくんとかに」
「結構。今後許可した本以外は読み聞かせないように」
まるで小学校の学級図書だ。困ったように肩をすくめる執事。深く反省している素振りはないが、アテネもそれ以上は追及する気力は無いようだった。
それにしても、と彼女は辺りをぐるりと見回した。入り口や階段に並ぶ銅像や銀製のインテリアは、手際の丁寧さを象徴するように静かに輝いている。あの小さな身体で懸命に仕事をこなしてくれたのだろうと想像をする。
「飲み込みが早いのね、誰かさんと違って」
「お嬢様?」
「いいえ、別に」
ふと、もう一人の少年執事の姿が彼女の頭をよぎった。自然とこぼれた独り言は、あまりにか細かったために執事の耳にも届かず。
少しの間、エントランスを支配していた妙な沈黙を破ったのは、そういえばと唐突に開かれたアイルの口だった。
「先日お話した屋敷のセキュリティの件、考えてくれました?」
しかし、アテネは怪訝そうな表情を返す。
「そんな話をした覚えはないけれど」
「2年前に進言しましたよ」
「それは先日とは言いませんわ」
全くの正論だが、執事は気にも留めない様子で続ける。
「ともかく、屋敷にかかるセキュリティ体制の見直しが可及的に必要です」
この屋敷、実は住んでいるのは当主のアテネを覗くと、2人の執事のみという驚くべき少数精鋭体制が敷かれていた。
広大な空間を持て余すことこの上ない。誰しもが疑問を浮かべるが、主人が必要最低限しか側におかない方針を貫いているのだから仕方ない。主人の意向は絶対なのだ。
しかし、天王州家は言うまでも無く世界最高峰の影響力を誇る家柄故に、セキュリティにはどれだけの万全を期しても足りないことは言うまでもない。
「ということで、警備人員100人ほどの宛てを手配しました。すぐにでも屋敷に住まわせる許可を」
「要りませんわ」
とりつく島もなかった。
「身辺警護のプロフェッショナルですよ、いくらいてもいすぎる事はないでしょう」
これまでも屋敷の主人、アテネは頑として屋敷に自分達以外の人間が住むことを許容しなかった。
「身辺警護は貴方の仕事でしょう」
「だとしても、屋敷全てをカバーするのは無理ですよ。私に多重影分身はできません」
全くその通りで、これだけ大きな建物を1人で警戒するには限度がある。テロ対策は数があればあるほど良い。天王州家ともなれば、今この瞬間にテロリスト集団が攻め込んできてもおかしくはない知名度を誇っているのだ。
彼女が提案を拒む理由は色々とあるのだが、簡単にまとめると「屋敷に多くの人を入れるのは面倒だから」というものだ。
いくら当主の方針が絶対的とはいえ、これには関係者が極端に心配するのも無理からぬ話である。
「セキュリティに関しては強固にしてしすぎると言うことはありません。念には念を入れないと」
言うなれば、この提案はアイルだけの意見ではなく、当家に関係するあらゆる人間たちと総意と言っても差し支えない。が、故にアテネにとっては余計に煩わしかったのである。
当家に関わる人間の全てが全て、彼女の存在を好意的に思っているならば話は別なのだが。
「敷地内なら、敵意くらい感知は出来るのだから。心配いらないわ」
そう言って、アテネは指をそっと宙に滑らせる。
第三者が聞けば突拍子もない言葉だと笑い飛ばしそうなものだが、執事は痛い所を突かれたような表情を返していた。
「出た、お約束の便利能力……完璧超人め」
「あら、もっと素直に褒め称えてもよくてよ」
褒められて嬉しくない人間はいないだろう。例に漏れず、アテネも満更でもないのか。ふふん、と自信満々な顔で扇子を開いて口元を隠してみせた。
「良いですかお嬢様。いくら貴女に魔法使いみたいな力があったとしても、核爆弾を積んだ戦闘機がこの屋敷に突撃してきたりでもしたら──」
「そうなったら屋敷どころか国の終わりよ」
国どころで済めばいいが。
「ともかく、この話はもうおしまい。仕事に戻りなさい」
「しかしですね」
ドアが開く音に足を止める。見れば、2人の前方にある扉が……誰もいないはずの部屋の扉が開け放たれていた。
「……」
そこから出てきたのは、緑色の風呂敷を背負った、白いスーツ姿の男。風呂敷はいっぱいいっぱい膨らんでおり、男は目深に被った白いハットの下から、ぎこちない笑顔をみせた。
ひくついた頬とは裏腹に、白く綺麗な歯がきらりと光る。
そのまま深々とお辞儀をされたので、ひとまず2人も軽く会釈を返す。
男はそのまま「では失礼!」とすたこらさっさ、廊下を駆けて行ってしまった。
「お嬢様、知り合いですか?」
「いいえ、貴方の友人ではなくて」
「まさか」
お互いに顔を見合わせる。3秒ほどの沈黙が流れた後、執事は猛然とその得体の知れない男を追走することになった。
「さて、辞世の句は詠めたかな」
薄暗い部屋には、台に置かれた一つばかりの蝋燭が灯っている。壁に掛けてあった剣を手にした執事は、男の首筋に刃先を押し当てた。
「⁉︎」
男は必死に悲鳴を上げようとするが、口に巻かれたガムテープがそれすらも許さない。両手両足もロープで堅く締められているので身動きすらとれない。ぶんぶんと首を横に振ろうとするのみ、しかしそんな相手には小さじ一杯の慈悲すら施す意思もなく、彼は剣を振り上げて──
「お待ちなさい」
執事の後頭部を、扇子の柄がコツンと捉えた。
「何をとんでもない絵面を作ろうとしているのお前は」
アテネはスイッチを押して部屋の明かりを付けると、近くの椅子に腰掛けた。そのまま「状況を説明しろ」と、静かに細めた瞳を従者に投げかける。
「屋敷に不法侵入なんて世間に知られたら一大事ですからね。根本を絶って事実無かったことにしようかと」
「そんな物騒な現場を私の屋敷に作らないでくれる?」
「ノープロブレム。本来ギャグなのにシリアスが加速してしまう展開なんて今時普通ですって」
「なんの話をしているのよ……」
相変わらずよく分からない例えをする執事から、無理矢理凶器を奪い取る。そもそも銀製の飾りなので、仮に殺傷能力は極めて低い代物だが。
「ともかく、まずは縄を解いてあげなさい」
「いや、しかし」
「良いから、解きなさい」
反論を許さない物言いに、アイルは渋々といった感じで男に巻かれた縄やガムテープをほどいていく。
「いつも言ってますけど。些か甘いんじゃないですかね、天王洲家の当主ともあろう方が」
「あら、いつも言われていたかしら」
ジーっとした視線を送ってくる従者にも何処吹く風と受け流す。
「自分の命を狙ってくる相手にだって情けをかけるようじゃ、いざという時命取りになるかもしれないんですよ」
「そうなったら、貴方も今の生活を失ってしまうものね」
約束された地位や立場も、この潤沢な生活も。
しかしその言葉に、執事はいつになく真剣な表情でアテネへ向けた。思わず彼女が面を食らってしまうほど、真剣な──
「舐めないでください。お嬢様の身なんて気にしてるんじゃない、俺が気にしてるのは手前の世間体と名誉で」
「は?」
「違った逆だ、すみませんつい口が滑って」
アイルは視線を泳がせるとわざとらしく咳払いを一つ。
「ホントいい度胸ですね」
タイを掴んで引き寄せると、アテネは至近距離でにこやかにガンを飛ばす。セキュリティ強化を提案していた理由も恐らくこれだろう。
「そんな怖い顔しなくても。せっかくの美人が台無しですよお嬢様」
「その歪みきった性根、私がもう一度たたき直してあげてもいいのだけれど。天王洲家の健やかな未来のために」
「私ごとき、栄光ある天王州家の未来に勘定して頂くのは恐れ多いですよ」
一触即発の雰囲気になりかけたまさにその時。
「あ、あの……私はどうなって、しまうのでしょう」
おずおずと挙げられた右手に、2人はやっと状況を思い出したのだった。
物語の終わり方について
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エンディングは一つのみが好ましい
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各ヒロインのルート分岐などがあっても良い
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どうでもいい