「では、取り敢えずこれを全部解いてみましょうか」
どさり。
机の上に置かれた大量の冊子に、ハヤテは目を丸くしていた。
たかが紙でも、ここまで数を積めば軽く凶器にはなるのかもしれない。そんな不毛な考えが頭をかすめつつ、数回瞬きしたのち、ゆっくりと後ろを振り返る。
「大丈夫です。量は多いですが、内容は基礎的なものばかりですわ。まずは数をこなしましょう」
屈託のない笑顔を向けるのは三千院家メイドさんだ。
なるほど、やはり数をこなして基礎を固めることは必須なのだろう。
だがしかし。彼には解せないことがある。
彼は1枚の用紙を改めてまじまじと見つめて、やはり小首を傾げた。
「これ日本語じゃないんですけど」
「えぇ、ドイツ語ですよ?」
さも当然というように返すメイドさん。
紙に羅列されているのは見たことがあるアルファベット、なのに内容はさっぱり入ってこない。
「マリア様、一般的な編入生はいきなり独語は酷ですよ」
すかさず助け舟を出したのはアイルだ。
「え、そうですか?」
「せめて英語とかならまだ」
「いや僕あの、英語すら怪しいんですが」
ハヤテは青ざめた顔で顔をひきつらせる。
「すみません。入学後の試験も考えて外国語の方が良いかと思ってしまって」
「え、白皇の試験って、外国語なんですか」
「はい、基本的に。あと、難度の高い語学だと得点も上乗せされるものもありますね」
どこの意識高い学校だよ!
と喉元まででかかったツッコミも、「白皇ですが」と返されればあっさり散るなと飲み込むに留める。
「あの、ちなみに赤点とかとっちゃうと……どうなっちゃうんでしょう」
マリアもアイルも一瞬で目を反らして。
「ひ、ひとまず、編入試験は日本語もありますから。それで対策しましょう」
「そ、そうですね!まずは入学しないと」
明らかに取り繕ったような笑顔でそくさくと準備を始めた2人。
赤点=死、らしいことはこの反応だけでも十分に理解できた。できてしまった。
「あの、アイルさん。ありがとうございます。試験勉強までお手伝いしていただいて」
「いえいえ」
三千院家の一室。
白皇の執事である彼がここにいるのは、言わずもがな主の指令を受けて、編入試験のサポートに来たからである。
遡ること、ほんの数時間前。
「ほう、ハヤテの勉強をサポートを?」
「はい。昨日は学院でご迷惑をおかけしてしまったので、そのお詫びと言うことで」
ドリフ○ーズの2巻をめくりながら、ナギは視線だけを向けてきた。
「そんな、アイル君が気になさらなくても。説明しなかったハヤテ君にも非はあったわけですから」
マリアが紅茶を淹れる手を止めて申し訳なさそうに口を開くが、来訪人であるアイルは軽く首を振ってみせた。
「まぁ、学院側も綾崎君のような優秀な人材を欲しているのではないでしょうか」
「ふふん、そうだろうそうだろう。クソじじいが理事をやっている割に理解のある学校ではないか」
「ナギ、貴女も通っているのだからそういう事を言わないの」
アテネの命令である、とは口が裂けてもいえない。
「ところで、エドモンドは学力の方は大丈夫なのか?もう卒業して結構経っているのだろう?」
「お任せ下さい。研鑽は日々積んでおります故、昨年比も学力8%増(当社比)ですから」
「どこの社だよ」
ソースは俺、というやつである。
「大丈夫ですわナギ。彼はこれでも3年間主席でしたから。私が同学年だったらそうはいかなかったでしょうけど」
「花を持たせてあげたとは思いますが」
「言いますねー。なんなら今から勝負しますか?」
くすくすと悪戯っぽく微笑むマリアに、アイルも挑戦的に返す。
「あー、イチャついてるところ悪いんだが」
「誰がイチャついてるんですかっ!」
ナギはぱたりと漫画を閉じると、わざとらしく咳払いを一つ。
「ヒナギクの手前、ハヤテは余裕だとは言ったが。今の成績を見るに、受かるかは現状ギリギリな所だと思う」
「そこは冷静に分析していたんですね」
「さすが天才」
腕を組んで吟味するように言葉を紡ぐお嬢様。
「だから、まあその、学校に通わせてやる為に協力してくれて、助かるというか。ハヤテも学校には通いたがっているしな、主人として教育の機会を奪うことは看過できないし」
「えぇ、お任せ下さい。可能な限りサポートさせていただきます」
素直に一緒に通いたいと言えばいいのに。
執事とメイドは、微笑ましくも顔を見合わせるのだった。
とはいえ、試験は来週。正確に言えば、週末を挟んで2日後である。
「ひとまず、私とマリア様で手分けをしましょう。基礎突貫は私が、その後の詰め込みや応用はお願いします」
「えぇ、分かりましたわ」
マリアは頷くと、くるりと背を向ける。心なしか楽しそうにみえるのは気のせいか。
「では、私は紅茶とお茶菓子を用意してきますから。頑張ってくださいね、ハヤテ君!」
「ありがとうございますマリアさん」
軽い足取りで出て行った彼女を見送りつつ、ハヤテとアイルは向かい合う。
「では、突貫になりますが基礎固めを始めていきましょうか」
「はい!お願いします」
元気の良い返事にアイルはニッコリと微笑んだかと思うと
「時間もないので――少し厳しくいきますね」
「え」
一瞬で、その瞳の奥から光が消えた。
翌日。
「ハヤテくーん?大丈夫ですか?生きてますか?」
机に突っ伏したまま微動だにしないハヤテ。
何回か頬を突かれて、彼はぼんやりと瞼を開いた。
うっすらと入り込んでくるのは、暖かい光と甘い香り。
そして美しい栗色の髪の美女。
「……ここはどこ?エリュシオン?ということは、貴女はここの天使さんですか」
「違いますよ?」
「あれ、マリア、さん?」
徐々に覚醒してくる意識と共に、脳内になだれ込んでくるのは公式や数字、アルファベット、古語の数々。大雨の際に氾濫した濁流のように彼の意識もろとも覆い尽くさんばかりにあふれ出してくる。
「うぅッ、頭が」
ハヤテはこめかみを押さえて項垂れてしまう。
そんな様子を見て、マリアはベッドに腰掛ける執事に呆れた視線を向ける。
「アイル君、やりすぎですよ」
「突貫ですから、多少は荒療治になるというか」
アイルは悪びれる様子もなくそう言うと、バインダーを閉じて立ち上がった。
「でもこれで、骨格はOKです。元々地頭が良いんでしょうね、予想より早いペースですよ」
「そうですか……なんか呪詛を唱えてるみたいなんですが」
ハヤテは机とにらめっこしながら、恐らく日本語ではない何かをぶつぶつと何かを呟いている。
「すぐ治りますから」
「変な催眠術とかかけてないですよね?」
「してないですよ、今回は」
以前はしたことがあるのだろうか。
「ともかく!一旦休憩しましょう、お茶を用意したので」
メイドさんから振る舞われた焼きたてのアップルパイと紅茶。ふんわりと香る甘さと温もりにハヤテは自然と涙をこぼしていた。
「うぅ……おいじいでず」
「えっとハヤテ君?嬉しいですが、泣くほどですか」
「もう一度食べ物が食べられるなんて思ってなかったですから。僕みたいなウジ虫は地面に這いつくばって泥水をすするくらいしか能が無いですから」
自虐的に乾いた笑いを溢すハヤテ。瞳は完全に飛んだままである。
「アイルくーん?一体どんな突貫工事したんですか?」
「いやぁ、時間がなかったので。多少厳しくはしましたが」
元凶の執事に非難めいた視線を向けるマリアだが、
「ですが、あとはマリア様の『1日で志望校合格!絶対受験攻略メソット』があればカンペキです」
「免許センター周辺の裏校みたいに言わないでください」
「私は屋敷の仕事はこちらで引き受けますので、これにて」
「あ、こら!アイル君!」
軽くいなしてさっと部屋から出て行ってしまう執事。
「まったく……ハヤテくん、大丈夫ですか?」
「サー。自分は大丈夫でありますッ」
「……まず洗脳を解かないとですねぇ」
やや間をおいて。
「では、さっそく後半戦始めていきましょうか」
机に戻り、どっさりと問題集を積み上げるメイドさん。
「あの、マリアさん。気のせいか楽しそうに見えるんですが」
「それはそうですよ!だってこんなに問題があるんですよ?解く方も教える方もそれぞれの視点や解き方があって、それを摺り合わせたり議論したりするのも楽しいじゃないですか。
「は、はぁ……なるほど」
「それに、人に教える事って様々な発見もあるんです。だから好きなんですよ」
ニッコリと微笑むマリア。
彼女にとって勉強とは、学生にとってのテレビゲームと同じ感覚なのかもしれない。
「では、張り切っていきましょう」
なるほど。マリアの教えは非常に明快かつ分かり易かった。
先ほどまで基礎固めの効果が十分に発揮されていることは言うまでもないが、それにもましてかゆいところにまで手の届く分析と伝え方で、着実に疑問点を解消して進歩していることが手に取るように分かる。
1夜漬けなんて意味が無いという意見もあるが、勉強法や教え方次第ではむしろここまで効果的なのかとハヤテは驚くほどだった。
無論、反復が将来的な定着に必須なのはいうまでもないが、反復するための入り口を、彼女は的確に積み上げていってくれる。
そんな2人の成果もあって。
試験前日の夜には彼のペンを動かす手つきも見違えるように速くなった。
「はい、いい調子です。回答時間も随分余裕になってきましたね」
「ありがとうございます!数学でこんなに自信を持って回答できるなんて思いませんでした」
「ふふ、ハヤテ君の飲み込みが良いからですよ」
そんなことはない。
思わずそう返しそうになったが、せっかくなので素直に誉められておくことにした。
「ただ、アイル君に教わった繰り返しをおろそかにすると途端に抜けちゃいますからね?そこは注意です」
「はい、肝に銘じます」
頷くハヤテは、最後の問題にマルがついたのを確認して、ほっと一息ついた。
「マリアさん、本当に教えるのがお上手ですね。現在進行形で教えて貰ってる僕が言うのもアレなんですが」
「まぁ、本来の仕事はそっちですからね」
きょとんと、ハヤテは小首をかしげてみせるが。
「私の元々の仕事は、ナギの家庭教師だったんですよ」
「家庭教師?」
彼女は、軽く頷いて続ける。
「えぇ。あの子、幼い頃から無駄に頭は良かったんですが、今以上にひねくれ者だったので。『自分より頭が悪いやつに教えて貰うことは無い』とか言ってて」
「な、なるほど」
「なのでチェスで勝負して、結果次第で私の言うことを聞いて貰うことにしまして」
そのときの光景を想像する。
チェス盤を挟んで、今にも泣き出しそうなナギと、にぱーっと微笑むマリア。
2人とも幼いながら、今の構図が出来上がっているだろうことが容易に想像できる。
「それで、勝って家庭教師に?」
「えぇ。手加減する気もなかったので」
案の定である。
「それから、あの子の身の回りの世話とかもするようになって。メイドとして側にいることになったわけです」
「確かに、お嬢様ほどの方だと、並の方では務まりませんもんね」
「最近はハヤテくんも来てくれて、だいぶ丸くなったんですけど」
マリアは懐かしむように笑うと、そうそうと付け加える。
「ちなみに、私の家庭教師はアイル君だったんですよ」
「アイルさんが?」
「えぇ。お爺さまのところにいた時は私の執事さんだったので」
もっとも。
「今では私の方がお料理も学業も勝ってますけれど。出藍の誉れですわ」
「元々マリア様の方が優秀でしたでしょうに」
噂をすれば。
ドアが開き、件の執事さんが顔を覗かせた。
「あら、アイルくん」
「ナギお嬢様がご心配してますよ。試験勉強は大丈夫そうかって」
そう言いながら、アイルがティーキャスターを押して部屋に入ってくる。
「ええ、順調に。過去の入試問題でも合格ラインは余裕をもって取れていますわ」
「ありがとうございます。お二人のおかげで、明日の試験も自信をもって挑めそうです」
ハヤテは口元を緩めて、力強く頷いてみせる。
それを聞いて、2人も安心したように顔を見合わせる。
「しかし、あと少し時間をいただければ優秀なソルジャーを完成させられたんですが」
「貴方はなにを成し遂げようとしているんですか」
そんなこんなで試験当日。
ハヤテはナギと共に白皇学園に訪れていた。
「よく来たわね、少年」
試験会場である教室の前には、1人の女性が。
「あ、門番の人」
「桂雪路先生よ。テストには出ないけど覚えておきなさい」
世界史教師、桂雪路先生である。
「けど、桂先生が何故ここに?」
「良い質問ねナギちゃん。キリカ先――理事長代理に怒られて監督官を命じられたからよ」
「自信満々に言い切れるそのメンタルだけは尊敬します先生」
やれやれとため息をつくナギ。
「ま、そんな口上はさておき。さっそく試験を始めるわ。席に着きなさい、綾崎君」
「あ、はい」
ハヤテは教室の中央にある机へと移動する。
「ではハヤテ。気負わずにな。マリアたちのお墨付きだ、心配なかろう」
「はい!頑張ってきますお嬢様!」
ナギと分かれ、教室は閉め切られる。
机には1台の電子端末が置かれている。
「では試験用紙を配るわよー。といっても一人だけど」
「よろしくお願いします!」
「解答は電子端末のマークシート形式だからね。時間は90分、1秒も遅れたら入力はダメよ。カンニングと見なして失格にします。で、問題は英国数と社会理科に分かれてて――」
説明する雪路を驚いたようにまじまじと見つめるハヤテ。
「……何よ?」
「いや、なんか教師らしいなーって」
「先生だって言ってんでしょ!バカにすんなッ」
早く帰りたいからさっさと始めるわよ!
そんな気の抜けた合図と共に、試験はスタートした。
試験自体は腐っても白皇だけあって、簡単なものではない。
しかし、ハヤテの電子ペンは、迷うこと無く回答の番号を押していく。悩む問題もいくつかはあったものの、3日間の対策で培った思考力で納得のいく答えへと導いていけた。
90分の時間、20分を残して回答は終了。残りは回答がずれていないかの確認する余裕すらあったほどだ。
試験終了が伝えられたとき、ハヤテの心の中は満足のいく手応えを、確かに感じていたのである。
――良かった。これでマリアさんたちの助力に報いることが出来そうだ。
「どうだったハヤテ?」
教室を出ると、いの一番にナギが駆け寄ってくる。
あまり心配する素振りはなかったが、それは彼に気を遣ってのことだったのかもしれない。
「精一杯やりました。どうなるか分かりませんが、手応えはあるかなーって」
「そうかそうか、なら大丈夫だな!うむ!」
「心配してくださってありがとうございます、お嬢様」
「ふん!心配などしているものか、三千院家の執事ならこの程度は当たり前なのだ!」
そういって顔を背けるナギだったが、耳はしっかりと朱に染まっている。
そんな様子が可愛らしくて、ハヤテは思わず笑みをこぼした。
「では、さっそく帰って合格記念パーティーを準備するか」
「え?流石にまだ決まってもいないのに」
「心配ない。ハヤテなら大丈夫に決まってるさ」
お前の満足げな顔を見れば分かる。
ナギの言葉に、彼も少し照れたように頭を掻く。
「そ、そうですか?では、お言葉に甘えて……」
「よーし!早速マリアに電話だな、あとエドモンドも呼ぶか」
橙色に染まる空の下、2つの影は少しだけ浮かれ気味に伸びていった。
一方、白皇学院では。
「お、雪路」
「んー?薫先生、どったの?」
「体育教官室に物取りにな。それより、無事編入試験終わったのか?」
廊下を歩く雪路に、男性教師が駆け寄ってきた。
ジャージ姿で、首からはホイッスルをぶら下げている様子はいかにも体育教師らしい。
「滞りなくねー。満足のいく出来だったって顔に出てたわよ」
「つーことは、噂の三千院家の執事君も白皇に来るのか」
「確かに、」
「いやお前何してんだよ、」
呆れたような視線をおくる男性教師だったが、そういえばと口を開いた。
「お前、ちゃんと問題は取り替えてるよな?」
「……ん?問題?」
はてと首を傾げてみせる雪路。
「おいおい、一昨日入試課長が言ってたじゃねーか。今回の試験問題を間違って、去年の10月の編入試験の問題そのまま出しちゃったから、最新の問題をお前の宅配ボックスに入れておきますって。届けた連絡も来てたろ?」
「……」
「お、おい?雪路?まさか」
固まっていた雪路だったが。
「と、当然でしょー!いくら私でもそんなミスはしないわよー」
「だよなぁ。驚かせんなって」
大げさに首を横に振ってみせた。
男性教師はほっと胸をなで下ろしてみせる。
「ウチは不正防止強化でデータ入力式の試験にしてるけど、手集計だったときみたいに融通効かなくなったのが怖いんよな。回答はデータで一括して、白皇のセキュリティセンターのサーバーに送られるから。今更ミスしたって分かっても遅いけどさ」
「そ、そうよねー。文明が進んでも良いことばかりじゃないわよねー」
和やかな夕暮れ。
2人の教師はのんきに笑い合い。ただし、片方の笑い声を心なしか乾いているようにも……
「ま、すぼらなお前の事だし、万が一って思ったけど。杞憂だったみたいだな」
「HAHAHA、トウゼンジャナイ」
「学生1人の人生棒に振る可能性のあるミスだし、ヘタしたら首だしなぁ」
はっはっは。
男性教師は朗らかに笑いながら、別れをつげて体育館の方へと去って行った。
残された雪路はひきつった笑みでそれを見送りながら、力なく天井を見上げる。
「えーっと、えーと」
そうして、何度かの逡巡をした後。
「たたたた、助けてヒナえもんッ!!」
大慌てで駆け出すのだった。
試験にトラブルはつきもの。
というわけで、次回は編入試験編後半です!
物語の終わり方について
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エンディングは一つのみが好ましい
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各ヒロインのルート分岐などがあっても良い
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どうでもいい