バレンタインデー。
起源を遡ると諸説あるので割愛するが、2月14日に、欧州などで主に大切な人に贈り物をあげる日として知られてきた。
日本で流行したのは古くは昭和30年代ともいわれ、そこから様々な思惑も重なり独自の文化を形成していった結果、主に「女性から男性へ、チョコレートを贈る日」というのが定着した。
「むぅ……」
時は戻って2月13日の夜。
天王州アテネは銀皿に乗ったガトーショコラを、険しい表情で睨み付けていた。
チョコレート色の丸いケーキの上には白いシュガーパウダーが綺麗にまぶされている。その上にハート型のピンクの小さなチョコレートと「ST.Valentine」と金色に書かれた砂糖のプレート。
美しくもどこか儚い。気品すら漂う、アテネお嬢様会心の一作である。前から、横から、後ろから。あらゆる角度から見つめてはため息をつく。そんなことを、もう10分以上繰り返している。
そんなただならぬ様子には、従者の1人であるヨゾラも不安そうな視線を向けざるをえない。
「先輩、一体お嬢様はどうされたのですか」
「ここ最近出番がほとんどありませんでしたからねぇ。春先ですし、ストレスでも溜まって――」
飛んできたお盆がアイルの後頭部に直撃した。「ナイスコントロールお嬢様」と頭を摩りながら起き上がる執事。
「明日はバレンタインですから。本命の贈り物を作ったはいいものの、どうすればいいか悩んでいる、といった所でしょうか」
「ははぁ」
ヨゾラは納得したように頷きかけたが、すぐに眉をひそめて小首を傾げる。
「いや、作ったのであればお渡しすればいいのでは」
「そう単純な話ならいいんですが」
肩をすくめつつ、アイルは主人が独占していた厨房へ足を踏み入れる。
「お嬢様、作ってしまったものはもう仕方がありません。もう覚悟をお決めになっては」
「か、簡単に言わないでちょうだい。こちらの都合でずっと音信不通だったのに、いきなりバレンタインでチョコを渡しに行くなんて常識に欠けていますわ」
アテネはお菓子を見つめたまま、狼狽えたように視線を彷徨わせる。
「なら、なんでお作りになったんですか」
「お・ま・えがけしかけたのでしょうッ!」
振り下ろされた扇子を白刃取りの要領で受け止める執事。
ちょど数時間前。明日はバレンタインデーですねという世間話から、「そういえばお嬢様でもチョコ作ったりするんですか?」「侮らないで。それくらい出来ますわ」という売り言葉に買い言葉で、お嬢様のチョコ作成が始まり。「綾崎君に渡すつもりで作りましょう」「慣れない執事で苦労してる彼の為に!」などという横やりがはいり、気が付いたら本気になってしまっていた、と。
「せっかくここまで作ったなら勢いで渡してしまいましょう」
「お前、最初からこれが目的だったのね」
「いやほら、せっかくのイベントですし……」
「くっ、簡単に口車に乗った私も悪いですが」
ぎりぎりと鍔迫り合いを繰り広げる主人と執事。
そんな拮抗した状況を変えるべく、メイドは冷静に仲裁に入った。
「しかし、お嬢様。冷静に考えればこれはトキメキポイントが高いイベントと思われます」
「うぅ」
ヨゾラの意味不明な説得にも関わらず、アテネは攻撃の手を緩める。
「ずっと音信不通だった女性からある日のバレンタインデーに突然チョコレートが届く。これはもうギャルゲなら隠しヒロイン√確定演出です、転校生にも幼なじみにも委員長にも先輩にも負けない独自展開で」
「お待ちなさい、誰が隠しヒロインですか」
「そこはツッコむんだ」
わざとらしく咳払いをするアテネは頬を赤らめながらも、腰に手を当てて姿勢を正してみせた。
「分かりました、2人がそこまで言うなら、これをハヤテに渡しましょう」
「おー」
遂に邂逅か。従者2人は期待に目を輝かせ
「けれど、宛先は伏せます。私からと分からないように渡しましょう」
「えー」
一気に落胆する従者2人。抗議の視線を送るも、それらをなぎ払うようにピシャリと扇子を開いて、口元を隠す。
「これは決定事項よ」
そうして、少し間を開けて。アテネは目を細めたまま、すっかり日が落ちた暗がりの敷地を窓越しに見つめた。
「言ったでしょう、ハヤテの幸せが私の願い。今の私は……彼にとって重りにしかならないの」
その意思は強固だ。
アイルは息をつきつつ、肩をすくめるにとどめるのだった。
翌14日。バレンタインデー当日。
「問題はどういう経緯で綾崎君の元に届けるか、ですね」
アイル、マキナ、ヨゾラ、そしてアテネはテーブルを囲んでいた。彼女らの視線の先には、オレンジ色の四角いラッピング。綺麗な赤いリボンがアクセント。何を隠そう、我らが主人が作成したガトーショコラが入っているわけであるが。
「というか、アテネも料理できたんだなー」
「人並みには、ね。普段はしないだけよ」
「流石です、その出不精なところがお嬢様らしい」
「馬鹿にしていますわね……」
茶々を入れる執事をギロリと一睨みして、再度テーブルの上に視線を戻すアテネ。
「ひとまず、贈り主は学院という事にしましょう。ハヤテはあんな状況でも頑張って編入試験を突破したのだから、ご褒美くらいあったっていいでしょう」
「まぁ嘘はついてないですが……そうなると個人びいきが過ぎるような」
「お黙り」
執事の懸念をピシャリと返す。理事長権限である。
「この手の定番は下駄箱にこっそり隠しておく、といったものでしょうが」
「そ、そういうものなの?」
ヨゾラの提案にアテネはきょとんと小首を傾げる。お嬢様はあまりベタな恋愛経験には精通していない様子。
「まぁ、確かに定番ではありますが……学院からの贈り物を下駄箱ではちょっと格好がつかない気が」
「では机の中はどうでしょう」
ヨゾラは飽くまでサプライズに拘っているようだ。まあアテネがこの様子なら面と向かって渡すわけにもいかないだろう。
「お!だったら俺がお届けにいくぞ!」
ぴょんと右手を挙げたのは小さな従者、マキナである。
「マキナ?」
「アテネの大切な用事なんだろ?俺もお手伝いしたいぞ、アテネの専属執事だからな!」
このように少年のキラキラとした純真な瞳を向けられては、無下にするのも酷というもの。
「わ、分かったわ。そうね、マキナなら小さいし隠密行動にも向いている気がするわ」
「なんかオチが見えた気が」
「お黙り」
赤髪の執事の言葉を許さずに、アテネはマキナの頭にそっと手を乗せる。
「ではお願いね、マキナ」
「えへへ、任せとけ!」
マキナは嬉しそうに四角いラッピングを受け取る。まるで初めてのお使いを頼まれた子どものようである。
「ちょうど、彼のクラスが移動教室中みたいですね。本日の移動教室がここのみなので、机に入れるなら今がベストかと」
「よしきた!」
ちょんと包みを頭の上にセッティングするマキナ。そのまま意気揚々と部屋を出て行った。
「……マキナ君の様子を見にいかなくて大丈夫でしょうか」
「信頼なさい、マキナだって私の執事よ」
お嬢様はそう言って優雅に紅茶を啜る。
1時間後。
「ただいまー」
両手にいくつものハンバーガーを抱えたマキナが意気揚々と戻ってきた。
「……マキナ?随分と遅かったけどどこに行ってたの?」
「聞いてくれアテネ!購買のおばちゃんが手作りハンバーガーの試作品をいっぱいくれたんだ!パティはアンガスビーフ100パーセント、フレッシュなレタス、トマト、 そして甘辛のソースとチーズのハーモニーが絶品なんだ!」
優しく問いかけるアテネに満面の笑みで返す少年執事。
「マキナ君、チョコレートは……」
「え?」
ハッと我に返ったように腕の中をみるマキナ。
届けるはずだったガトーショコラの入れ物もばっちりとハンバーガーの中に埋もれていた。
「マーキーナー!」
「うわぁぁ、ごめんアテネぇ!!」
ご主人様に両頬を引っ張られ怒られるマキナ。アイルとヨゾラはそっとアイコンタクトを取った。
「お嬢様。ここはやはり、直接お渡しになるのが最善手ではないかと」
「うぅ」
アテネは痛いところを突かれたように、眉を下げる。が、ヨゾラも神妙な表情で一歩踏み出す。
「私は事情を把握しているわけではありませんが。お嬢様が丹精込めて作られたのを知っています。それだけの思いを伝えたいのであれば、やはり本人からお渡しになった方が」
「………」
アテネは黙ったまま、暫く俯いて腕に抱いた〝贈り物〟を見つめる。じっと。
「確かにそうですわね、自分で作ったものですし、最後まで責任を持たないとダメよね」
「つまり?」
「わ、分かりました!やってやりますわ!」
やがて、決意を込めた瞳で顔を上げた。
数十分後。
「お嬢様」
「何かしら?」
「ご自分でお渡しになる決意をなさったのでは」
「えぇ、そうよ」
やや戸惑ったようにアイルが向ける視線の先には、いつもの黒いドレスを着たご主人様――ではなく。
「では、どうして変装していらっしゃるので?」
白皇学院の制服を身につけ、顔にはぐるぐる模様の大きな丸メガネ。自慢の長く艶やかな金髪は黒いキャスケットにしまい込んである。一見して、これが白皇学院の理事長とは、天王州アテネとは誰も思うまい。
「甘いですわね、誰がそのままの格好で渡すと言ったのかしら」
「いや自慢げに言うところじゃないでしょ」
ドヤ顔をしてみせるご主人様には、さしもの執事もたじろぐしかない。
「それにヨゾラさんまで、どういう展開ですかこれは」
アテネの隣には、これまた学校の制服を着たメイドさんがいた。同じように大きな丸メガネに、翡翠色の髪をおさげにしている。髪色以外は昭和の女学生のようだ。
「これは白皇学院の顕彰事業部のメンバーという設定です」
「いや設定を聞いてるのでは無く」
「ご自身では渡したい、けど正体が知られるのは恥ずかしい。その乙女心の機微を汲んだ折衷案です。学院からの贈答として、お嬢様が自ら、しかし身分と正体を偽って渡す、という」
「はぁ」
それでは『自分で渡す』意味が限りなくないのではないだろうか。
そんな言葉が喉元まで出かけたが、アテネ本人がそれで納得しているらしいので、留めておいた。
隣ではマキナがもらったハンバーガーを一生懸命にもぐもぐと堪能している。もとより、この場においては議論の余地もなさそうだ。
「分かりました。私はこれから生徒会に用事がありますので離れますが……」
「お嬢様はお任せください。ばっちり決めてみせますので」
変装したヨゾラは自信満々に胸を叩いてみせる。慣れない変装からの突撃。あまり安心できる要素はないが、これ以上は本当に〝本人の問題〟だ。主人が選択したのであれば執事が口を出すことでも無い。
「あ、そうですわアイル。生徒会に行くのであればこれを」
アテネはおずおずとハート型のラッピングを差し出した。
「その、ヒナへのチョコレート、ですわ。友人同士でも渡すというのを聞いたものですから。日頃の慰労もかねて、わ、渡しておいてもらえます?」
「分かりました。しっかりとお渡ししておきます」
アイルはそっと口元を緩めると、心の込められているであろうチョコレートを受け取り、部屋を後にするのだった。
そんなこんなで放課後。
すっかり変装して様変わりしたアテネとヨゾラは時計塔の近くまで足を運んでいた。時計塔にハヤテが来ていると、アイルから連絡があったためだ。
「冷静になると、いいように踊らされてる気がしてきましたわ」
「大丈夫ですお嬢様。白皇のス-パーコンピューターを用いた計算によれば、98.2パーセントの確率で正体がバレないとの予測が出ています」
「いえそんな心配をしているわけでは……というか何の計算ですの?」
さて、時計塔近くで待ち伏せすること5分。入口から制服を着た女子が勢いよく飛び出してきた。少女はそのまま一目散に学院の出口に向かって駆けていく。
随分と鬼気迫る様子だったが一体何があったのか。アテネとヨゾラは顔を見合わせていたが、更にその直後。
今度はハヤテが慌てたように入口から飛び出してくる。彼はキョロキョロと辺りを見回すと、少女が走り去った方に向かって賭けだしていく。
「西沢さん!」
「え?」
そして、出口付近で少女――西沢歩に追いついた。声をかけると、彼女はびっくりしたように振り返る。
ただならぬ事態を直感し、すぐに近くの茂みに隠れていたアテネとヨゾラ。そんな彼女たちの目に飛び込んできたのは。
「私、綾崎君が好きです……!!」
「に、西沢さん」
歩がハヤテに抱きついている場面だった。あ然としたまま、2人はその様子を見守ることしかできない。
「返事は、返事は言わなくていいから……ただ想いを伝えたいだけだから」
「え、えっと」
「だから、これを受け取ってください」
ただがむしゃらに、ただ真っすぐに。彼女は想いをぶつけ、彼の手にチョコレートを手渡していた。
「なんとまぁ……」
なんて間が悪いのだろうか。そっと隣を盗み見ると、ずっと押し黙ったまま俯いているアテネの姿が。
「……戻りましょうか、ヨゾラ」
かと思えば、彼女はまっすぐ前を見据えて口を開いた。
「ですが、チョコレートは」
「良いのよ。それに、勝手に聞いては悪いでしょう」
アテネは力なく笑うと、見つからないようにと屈んだままその場から離れる。
少し距離をとってから振り返ると、まだハヤテと歩は向き合って何かを話しているようだった。声までは聞こえないが、
「……あんな風に、まっすぐに気持ちをぶつけることができる人が、報われるべき日ですから。もともとこんなやり方は間違っていたのね」
「お嬢様」
「ごめんなさいね、こんな事に付き合わせてしまって」
ゆっくりと遠ざかっていくアテネの背中。残念ながら、ヨゾラはかける言葉を持ち合わせていなかった。
理事舎に戻ると、アテネは「執務があるから」と部屋に戻ってしまう。テーブルには贈り主を失った紙袋が寂しそうに置いてある。
彼女は思案する。このままでいいのだろうか。何もしないままただ、主人の想いのつまった贈り物を放置しておくのが従者として正しい行動なのだろうか。
「先輩!」
故に彼女は先輩従者を頼ることにした。
「どうされました、ヨゾラさん?」
先輩――アイルは時計塔を見上げながら、資料片手に何かを調べているらしい。しかし今の彼女にはそれはどうでも良いことだった。
「お嬢様から何か言づてでも?」
「いえ、先輩にこれをお届けに」
その前に、メイドさんは2つの四角いラッピングに包まれたものを差し出した。昨日のチョコ作成の時に、余った材料でアテネと一緒に作ったチョコレートである。余り物ではあるものの、一応先輩従者への贈り物。
なんだかんだと渡すタイミングがないまますっかり失念していたが、相談するのだから手土産くらいは、と持ち出した次第である。
「チョコレートです。本日はバレンタインデーと聞きましたので、お嬢様と私からです」
「そうですか、それは。ありがとうございます」
少し驚いたように目を丸くする執事。意外に思われるのはいささか心外な彼女だが。考えてみれば忘れていた代物なのでそれもやむなしか。
「ちなみにお嬢様の分は本命の方用とマキナくん、ヒナギクさん用のチョコレートを作った余り物で作ったそうです」
「そういうのは本人には言わない方が良いと思いますよ?」
そう言いつつも、全く気にしていない様子で受け取るアイル。さて、前置きは済んだ。ここからが本題だ。
「それで、先輩。少しご相談が」
「相談?」
「はい、これの事です」
再び差し出したのは紙袋。中にはアテネが作ったガトーショコラが入っている。アイルは何かを察したように小さく頷いてみせた。
「お渡しにはなれなかったんですね」
頷いて、先ほどの状況をかいまんで説明するヨゾラ。なんと間の悪い、話を聞いていた彼の表情にはありありとその言葉が浮かんでいた。
「なるほど……それで、ヨゾラさんはこれを持ち出してどうする気ですか?」
「分かりません」
首を振りながらも、きっぱりとそう宣言する。
「ですが、このままではいけないと思いました」
「それは、従者として?」
「いいえ、女の勘です」
またもきっぱりと言い切るメイドさん。女の勘って意味が違うんじゃ無いだろうか。そんなツッコミも野暮だと思わせるほど、彼女の瞳は確信に満ち満ちている。
これは何を言っても聞かなそうだ。
「……分かりました。それ私に預けていただけますか」
軽く息をついてから、アイルは紙袋を受け取る。
「なんとかできそうですか」
「執事ですから」
全く答えになっていないはずなのに、彼がそう言って微笑むと、大抵のことはなんとかなりそうな気がするから不思議だ。
「……なんだか、今日は先輩がとてもまともに見えます」
「ははは」
一言余計です。
夜。三千院家別邸。
「あれ、これは一体」
仕事に一区切りつけたハヤテが部屋に戻ると、彼の机の上には綺麗なラッピングが置いてあることに気が付いた。
「お嬢様?それともマリアさん、かな」
いや、お嬢様には何故か僕からチョコをあげたし、マリアさんからはもう既にチョコをもらっていた。
(そういえば、マリアさんはどこに行ったのだろう……)
「そういえばハヤテくんにチョコを渡し忘れていたので」。外出していたかと思うと、帰ってきたマリアはそう言ってハヤテにチョコを手渡した。そして「また外に出てきます。今日は遅くなりますので」と言い残し、再び屋敷を出て行ってしまったのだ。何があったかは全く分からないが、あの決意を秘めた背中には声が掛けづらいものがあったのだが。
「でも、だとしたら誰だろう……まさかクラウスさんやタマってわけでもないだろうし」
包みを手に取ると、裏にカードが挟まっていた。綺麗な文字で『白皇学院』と書かれている。
「あれ、これは……手紙だ」
拝啓 綾崎ハヤテ様
遅ればせながら、ご入学おめでとうございます。
平素より、白皇の生徒として日々邁進されていることと思います。学院生活も少しずつ慣れてきた頃合いでしょうか。
編入試験合格を祝してささやかながら、学院から贈り物を差し上げます。
バレンタインデーなので、チョコレートです。綾崎様のために、学院唯一の特別なシェフが精一杯の想いを込めて仕上げた一品でございます。お口にあえば幸いです。
綾崎様のますますのご多幸とご健勝をお祈り申し上げます。
敬具
「へー、僕なんかのために!良い学校だなぁ白皇って」
ハヤテは目を輝かせて、包みを解く。現れたのは丸い形をした手のひらサイズのガトーショコラだ。
満面の笑みで、彼はフォークですくって一口。
「うわぁ、とっても美味しい……」
ほどよう甘さが舌の上でとろけて、しつこすぎず口いっぱいに広がっていく。
(本当に優しい味だ。作った人の優しさがあふれてるような。優しくて、それで……なんだろう、とても懐かしい感じがする。懐かしい、なんでだろう)
じんわりと心に広がる温かさ。包み込まれるような温もりのなかに、妙な既視感が彼の全身を駆け巡っていた。
気が付けば、ハヤテの頬を一筋の涙が伝っていた。
「あれ?なんで僕泣いてるんだ」
慌てて涙を拭うハヤテ。
「本当に美味しいモノを食べたら人って泣くこともあるんだ……」
彼はそう言って、さっきの涙は嘘のようにまた満面の笑顔に戻った。そうしてまた、そのガトーショコラを丁寧に堪能するのだった。
部屋の窓の近く、そっと離れる気配には一切気が付くこともなく。
時計塔の最上階にある生徒会室ほどではないが、理事長室のバルコニーからも宝石をちりばめたような綺麗な東京の夜景は楽しめる。
眠れない夜、アテネはこの景色をよく眺めていた。あらゆる場所で人の温もりが灯るような光景を見ていると、妙に心が落ち着くのだ。
「風邪引きますよ、そんな格好で外に出てると」
寝間着の他には、たった1枚のストールだのみ。そんな格好の彼女は、かかってきた声には振り返らずに夜景を眺めたまま、手すりに肘を乗せた。
「少し夜風に当たりたかっただけよ」
返事はなく、隣まで来た執事もまた手すりに背中を預けていた。
「チョコレート、彼に渡してきましたよ」
「え?」
「あのまま置いておくのも勿体ないって声が一部から上がりまして。学院からの贈答品ってことで」
アテネは一瞬驚いたように目を見開いたが、悟られまいとすぐに冷静な表情を装う。
「そう……悪かったわね、手間をかけさせて」
「何も。三千院家のセキュリティは強固ですが、私にとっては訳ありません」
「お前は何をしているのよ……」
まるで不法侵入でもした物言いである。
「喜んでましたよ、とても」
「……」
「本当に優しい味がするって、そんな表情で」
「そう」
冷静に呟く彼女の口元が、ほんの少しだけ緩んでいた。
「謎のシェフ会心の一品って事になってますけど」
「何それ」
くすりと笑うアテネ。
「逃げてばかりじゃダメって分かってるのにね……〝彼女〟の真っすぐさを目の当たりにしたら、あまりにも眩しすぎて」
「いいんじゃないですか、人には人のペースがありますから」
「不覚だわ……慰められてるのかしら、私」
「こういう時は素直に受け取った方がいいですよ」
肩を竦めてみせてから。「冷え切らないうちに戻ってくださいね」。そう言い残し、彼はその場を離れようとしたが。
「待って」
「なにか?」
「その……あ、あ、ありがとう。色々と」
視線を逸らしながらも、頬を赤らめながらも、しかしはっきりとお礼を述べたご主人様。執事はといえば目を丸くして。
「まさか、天変地異の前触れか?」
「んなっ!!」
瞬間。一刀両断すべく扇子が振り下ろすお嬢様。
「そっちこそ、人が感謝してるのだから素直に受け取ったらどうなの!?」
「いやだってあまりにも珍しいから」
「人聞きの悪いこと言わないでくださいます!?」
白刃取りの要領でそれを受け止める執事。
するとがらりと窓が開き、ヨゾラが顔を覗かせる。彼女は2人の様子を見てそっと微笑したかと思えば、すぐさま呆れたような表情を作る。
「騒がしいですね、うちのマキナちゃんが寝付けないので静かにしていただけますか?」
「母親か」
綺麗にハモったツッコミが、バルコニーに響き渡った。
というわけでバレンタインはここまでです。もっとテンポ良くコンパクトにしたいのですが、自分の文章力では中々……書くことの難しさをかみしめる毎日です。
アテネが料理できるのかとふと気になって資料を漁ってみたのですが、そういった描写や言及が見当たらなかったので想像で書きました。
原作でもハヤテのケガの手当とか手際よくしていたので、基本的に一人でもなんでもこなせる(機械以外)才色兼備のスーパーお嬢様というイメージです。
次回から3部に突入します!よろしくお願い致します!
物語の終わり方について
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エンディングは一つのみが好ましい
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各ヒロインのルート分岐などがあっても良い
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どうでもいい