「うわー!お嬢様、見てくださいエーゲ海ですよエーゲ海!」
「見りゃわかるよ」
「なんでそんなテンション低いんですか!見てくださいよ、海に浮かぶ白い宝石の数々を!こんな絶景日本ではお目にかかれませんよ!」
「いやだって昔から見てるし……お前、帰省のたびに実家の近くにある海見てテンション上がれるか?」
温度差こそあれ、ナギ達はジェット機の窓から日の光をアクセサリーのように添えて広がるエーゲ海地平線に輝くミコノス島の白い建物の数々を一望していた。
「ナギ、水を差さないの。初めて絶景を目にする感動は何ものにも代え難いんですよ?」
「えー?だってお前、日本海側真ん前の田舎に住んでた奴が上京して一人暮らし始めたとするじゃん?そんで都会で出来た友達と旅行しようって話になって、都会組の要望でそいつの実家に帰ることになったとしてさ、友人が「日本海すげー」ってなっても私と同じ返答すると思うぞ」
「何の誰の例えですか」
マリアのジト目から避けるように、ナギはキョロキョロと辺りを見回す。
「しかしマリアよ、エドモンドの姿が見えないが」
「えぇ、彼はコックピットですから」
「なんだそう──ん?え?」
コックピットで何をしてるのだ?
そんな疑問に先回りするように、マリアはさらりと付け加える。「彼、今操縦士ですから」と。
「いや当たり前のように言うなよ!?え、私たち今アイツに命預けてるの?」
「まさかパイロットの資格までお持ちだとは……これは三千院家の執事として負けていられませんね」
「これ以上執事のハードルを上げるのは辞めてやれ」
内なる闘争心を燃やすハヤテに釘を刺すご主人様。彼らのせいで執事は特殊能力の10個や20個は求められる職種になりつつあるのかもしれない。
『皆様、本日は三千院エアラインにご搭乗いただきまして、誠にありがとうございます。当便は巡航高度に到達し、安定した飛行を続けております。』
「噂をすればだ。何本格的にアナウンスしてるのだアイツは」
「ていうか三千院エアラインって名前なんですね」
『目的地のアテネ空港までの飛行時間はあと4時間ほどを予定しております。引き続き、空の旅をお楽しみください。機長はアイル、副操縦士は田中でございました。ご用の際はご遠慮なくお声をおかけくださいませ』
「誰だよ田中」
ナギは呆れとも恐れとも似つかない表情でため息をつくと、投げるようにしねソファに背中を預ける。
「良いじゃないですか、アイルくんに任せておけばハイジャックとかテロの心配もないでしょうし」
「ま、それもそうだな」
それで納得してしまう辺り、流石の大富豪である。
「というか、ミコノスに直で乗り入れる予定ではなかったか?」
「えぇ。さっきアイル君に聞いたんですが、向こうの空港の都合で難しくなったので一度アテネ空港に入るそうです」
「ほーん。ならそのまま市内回るのでもいいか」
「そうですわね、ハヤテくんは初めての海外ですし。世界遺産とか色々観光したいでしょう」
2人の視線に応えることなく、ハヤテはぼんやりと窓の外を眺めている。
「ハヤテ?」
「え?」
「どうかしたのか?ボーッとして」
「すみません、ちょっと思い出した事があって」
小首を傾げる2人に、ハヤテはどこかバツが悪そうに頬を掻きながら振り返る。
「〝アテネ〟ってこの星で1番偉大な女神の名前なんだよなーって」
顔を見合わせるナギとマリア。
「ふふ、随分と詩的な表現ですね」
「どーしたハヤテ。何かのアニメにでも影響を受けたのか」
「あ、ははは……実は、少しだけ」
苦笑まじりにハヤテはまた窓の外に広がるエーゲ海に目を向ける。
──アテネ
──だって。名前がアテネでしょ?だったら、略して、アーたんだよ!
懐かしい響きだった。いや、懐かしいけれど、片時も忘れたことはなかった。
でもそれは、決して褒められた理由なんかじゃない。後悔と懺悔の念が、僕の胸の中にずっと重しのようにして沈んでいる。だから、忘れることはなかったんだ。
そして今も、またこうして記憶が蘇ってくる。
あれから10年。たった10年か、もう10年も、か。
間違っていたのは僕で、正しかったのは彼女だ。だから僕は君に、どうしても君に……
「僕の給食費がない!」
「きっと綾崎くんが盗んだんだよ!」
「だって綾崎くんの家、ビンボーだもん!」
僕の家は貧乏も貧乏で。父も母もおよそ堅気の仕事をしている様子はないようなろくでもない家庭だった。
そんなとある幼稚園時代の話だ。クラスの皆の給食費が盗まれるという事件が起きた。案の定疑いは僕に向けられた。クラスでも貧乏で知られてたし、周りの親も「綾崎くんとは付き合っちゃいけません」と子供に教えてたに違いなく、あっという間に僕は泥棒のレッテルを貼られてしまった。
僕は盗んでなかった。まだ善悪の区別がつきにくい年頃だったけれど、それでも盗みは悪い事だということくらい分かっていた。
当然僕は無実を主張したけど、あろうことか幼稚園の先生までもが僕を疑った。当時は誰も味方がいない絶望感に打ちひしがれたものだが、今考えれば無理もない話だ。それほどまでに、ウチの家庭は異質だったのだ。
家に帰って父と母にことの顛末を打ち明けると、2人とも珍しく怒ってくれた。僕がやっていない事を信じてくれた。嬉しかった。父が、次に口を開くまでは。
「だって盗ったのは、父さんだから」
酷い話もあったものだ。誰も味方がいない中、唯一差し伸べてくれたと思ったその手は、どんな悪魔の手よりも醜悪なものだったのだから。
僕は家を飛び出し、無我夢中で走り続けた。車道に飛び出していたかもしれない。信号も無視していたかもしれない。もう何でも構わない。死んでも良いとさえ、その世から消えてしまいたいとさえ。
気が付けば、僕は見知らぬ花畑に立っていた。見たこともないその場所は子供心に天国にさえ思えた。「それならそれでいい」。僕は疲れ果てて、その場に倒れてしまった。どこかも分からぬこの地で、このまま朽ち果ててしまうのも悪くない。そんな風に思い目を閉じたその時だった。
「ダメよ、そんな哀しい事を言っては」
綺麗な声だった。だから僕は、考えるより先に顔を上げていた。
艶やかな金髪をたなびかせたその少女は、今まで見た女性の中で恐らく最も美しかったと思う……まぁ、幼稚園児なんだけど。
「……僕、死んだの?」
だから、その人は天使だと思った。僕を迎えに来た天国からの使者なんじゃないかって。
少女は可笑しそうに微笑むと、軽く首を振ってみせる。そしてそのまま、そっと手を差し伸べた。
「心が折れても大丈夫。私が支えてあげるから、もう一度お立ちなさい」
「でも……君は、僕の友達じゃないよ?」
「ええ、でもね」
少女は広げていた日傘の下で、優しく微笑んでくれた。
「アナタの心がずっと、「助けて」と叫んでいるのが聞こえるわ」
じわりと、目頭が熱くなるのを感じた。今まで、こんな言葉をかけてくらた人なんていなかった。差し伸ばされた希望がこんなにも美しく光り輝いていることなんてなかった。
「私が左手を貸してあげますから。ほら、最後の勇気を振り絞って」
あまりにも眩しくて、思わず手を伸ばすのを躊躇ってしまうくらいに。それでも、本当に最後の最後に残った一滴の勇気を何とか絞り出して、僕はその手を握った。
「貴方、お名前は?」
「えっと、綾崎ハヤテ」
「そう、良い名前ね」
そんな事を言われるのも初めてで、僕はドギマギと相槌を返す。
「君は?」
「アテネ」
少女は日傘をおもむろに畳むと、地平線の先に目を向ける。
「天王州アテネ。この星で最も偉大な女神の名前よ」
なるほど、女神と言われて腑に落ちた。彼女の美しさは神々しいという表現がピタリとくる、それでいてどこか神秘的な雰囲気もある。この名前は彼女にこそ相応しい名前だと。
「それで、そろそろ貴方の目的を聞こうかしら」
「へ?」
「隠してもムダよ。貴方も〝願い〟を求めて来たのでしょう?」
そういえば、この場所はどこなのだろうか。そんな呑気な疑問は彼女の指さす先を見て深刻さを増すことになる。
永遠に続くと思われた花畑の先、丘の上にそびえるは天にまで届くのではと錯覚するほど巨大な〝城〟だった。
「何……あれ」
「貴方まさか……何も知らずに入ってきたの?」
おとぎ話の世界でしか見た事がないようなその城は、白百合の中にあって美しくも幻想的な光景なはずだった。だけど、子供心に僕にはどうしても少しだけ気味悪くも感じていた。
「一体どうやって迷い込んで……誰かに指示されたとかではなく?」
「指示?わ、分からないよ……走ってたらいつの間にかここにいたんだ」
彼女は品定めするように僕の全身を見つめた後、今度はぐっと身を乗り出して瞳を覗き込んできた。
多分彼女はあの時、僕を何か別の目的の人間と勘違いしていたんだと思う。でも当時の僕は、ただただ神々しい女神様のような少女が至近距離にいて、とにかく照れてしまっていた。
「……なるほど、別にお爺様の差金という訳でもなさそうね」
「えっと?」
「こちらの話よ。では、せっかくだから少し見学させてあげましょう」
彼女はもう一度城を指差してみせた。
「世界の中心、カルワリオの丘に立つは神が棲むとも言われている……あの
城内はまさにイメージしていたものだった。荘厳華麗な装飾の数々に大きな螺旋階段がエントランスを突き抜ける。巨大な文字盤の時計は僕の身長の何倍もあるような圧倒的なサイズだ。つい最近見た、野獣とお姫様のラブストーリーに出てくるようなそんなお城。
僕の貧乏な家と違うとはしゃぐ様子を、彼女はどこか嬉しげにどこか気の毒に見ていたように思う。
「それで、貴方はこれからどうしますの?」
「えっと……」
行く宛なんてあるはずもない。あの両親の所に戻る気などさらさらない。だけど、そんな事を彼女に言ってどうするのか。当時の僕にも遠慮みたいな感情はあったみたいで、答えに窮していると彼女はわざとらしく「そういえば」と切り出した。
「このロイヤルガーデンは慢性的に人手不足なんでしたわ」
「え、そうなの?」
「ええ。ですから、もし都合が良ければなのですが」
──私の執事をやってくださらない?
執事。映画で見た事があった。その映画の中では、かっこいいスーツを着た髭の似合うダンディな男性がお姫様の世話をしたり悪者から守ったりしていた。
唐突な問いかけではあったし、僕はまだ幼くて執事がどう大変なのかさっぱり分かっていなかった。でも……
「しつじって、このお城に住むことになるの?」
「えぇ、そういう事になりますわね」
私と暮らすのは嫌?
少しだけ不安そうな表情の少女を、1人残しておくことは直感的に出来なかった。どのみち、両親の元へ帰るつもりなんてない。
「ううん、僕帰っても何もないし。だからこんな素敵なお城に住めるなら願ってもないよ、僕の夢は3LDKのお家に住む事なんだけどこれなら夢が叶うよ!」
「夢のない話はやめてちょうだい、こっちが泣きそうになるから」
「でも、その、僕に出来るかな?執事なんて……」
こんなに大きなお城だし、人だって少ないとはいえ色々いるだろうし。そう呟くと、少女は目を細めながら、頭上のシャンデリアを見上げた。
「人は、いませんわ……誰も」
「へ?誰も?お父さんとかお母さんも?」
「……そうね、誰もいません。ここには私1人だけ」
寂しくないの?
そう問いかけると、彼女はどこか諦めたような表情で笑って見せた。「もう、慣れましたわ」と。そんな訳がないのに、でも当時の僕はそこまで察しがいいタイプではなかったから。
「それで、私の執事になってくださいます?」
「うん、やってみるよ!アーたん!」
「そう、では……って待ちなさい、アーたん?」
「うん、名前アテネでしょ?だから略してアーたん!」
呆れたように半目になる少女。
「略してるはずなのにどうして文字数が増えているんですの?」
「え!?」
指折り数えると確かにその通りだった。3文字から4文字。でも、何故だかどうしてか、その方が呼びやすい気がしていた。
僕が何度も指を折っていると、彼女は堪えきれなくなったのか笑い始めた。
「ホントに、仕方のない子ね……ハヤテは」
「え、えっと」
「けど許してあげる」
そう言うと、満面の笑みを僕に向けてくれた。
「私の執事ですもの。だから、ハヤテにだけはどんな呼び方でも許してあげますわ」
「……」
お城に住めるとか、両親の元からいなくなりたいとか、執事って格好良さそうとか。そんな理由なんかどうでも良くて。
この人の笑顔を、ずっと側で見ていたい。それが、僕の背中を大きく押したように思う。それだけは間違いない100%の思いだった。
改めて思う。
その思いだけを、何よりも大切にしなければいけなかったんだ。ずっとあの城で、彼女と2人だけでいれば。一生あの人の側で、あの人の笑顔だけを考えて生きていければ。
彼女を傷付けることも、無かったかもしれないのに。
物語の終わり方について
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エンディングは一つのみが好ましい
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各ヒロインのルート分岐などがあっても良い
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どうでもいい