朝が弱いのは生まれつき。
けれど、殊更最近は弱くなっている気がする。それはきっと、あの日々の夢を頻繁に見るようになっているから。懐かしくて、愛おしくて、哀しくて。ずっと醒めないで欲しいと無意識に願うから、きっと朝が辛くなっているのだろうか。
そんな事を考えながら、パソコンから視線を外すと、ちょうどティーキャスターを押して入ってくるヨゾラと視線が合った。彼女は軽く微笑むと、そのままディーカップを側に並べてくれて、ポットから紅茶を注いでくれ──
「お嬢様、梅昆布茶が入りました」
「……意外ですわね」
想像だに出来なかった飲み物だ。梅と昆布の香りがほのかに漂う。
「以前、先輩が急須でアップルティーを入れてくれた事がありました。これは私も負けていられないと対抗してみました」
「本当に余計なことしかしないわね、あの男は」
「いえ、それがそうでもなく。先輩曰く、急須で紅茶を入れる意外なメリットもあるのだとお聞きしました。例えば、ティーポットと比較すると蒸らす時間が極端に早くなるので、すぐに準備できるだけでなく、茶葉が痛みにくいので香りも高く、二番茶も美味しくいただけるのだそうです」
「へぇ、そうなの……」
ふざけている訳ではないと言う事らしい。癪ではあるがアレが執事としての能力は極めて優秀な部類に入ることは認めているところではある。非常に癪ではあるが。
「では、ティーポットで淹れる日本茶というのはどのようなメリットがあるのかしら」
「知りません」
思わず突っ伏しそうになるのを辛うじて我慢する。
「これは意外性に富んだ意趣返しです。強いて言うのであれば、アテネお嬢様に目で見て楽しんでもらうメリットがあるかなと」
「ま、まぁ、それもメリットと言えなくもないですわね」
誰に向けた何のフォローなのかよく分からないが、湯気の立つティーカップを一口啜る。ふんわりとした梅の風味をなぞるように昆布のほのかなアクセントが広がる。身体の芯から温まる、日本茶ならではの優しさが気分をとても落ち着けてくれた。
「ヨゾラももうすっかり天王州家のメイドになったわね」
「ありがとうございます。やはり、アテネお嬢様の的確かつ柔軟な指導の賜物かと」
「……私、何か教えたかしら」
指導、か。
そういえば、〝彼〟の執事指導は随分と手を焼いたわね。
「どうかされました?」
「いいえ。少しだけ、昔のことを思い出しただけよ」
初めて、私だけの執事になってくれた人の事を。
もう10年も経つ。まだ10年しか経ってないと言えるのかもしれない。
私が庭城に閉じ込められていた時、ふらりと訪れた男の子。綾崎ハヤテと彼は名乗った。何の因果か分からないが、彼は私の執事になることを了承してくれた。ずっと独りぼっちだった寂しさからか、つい口に出てしまったが、本当に嬉しかった。
ハヤテは一生懸命だったが、少し要領の悪い子だった。バケツはひっくり返すし、何もないところでよく転んでいた。いつも何か失敗をするから、自分に酷く自信がない性格でもあった。
天王州家の執事になるのだから、せめて心だけでも強く。
私は彼の心の矯正のため、特訓を始めた。城に入り込むのと引き換えに手に入れた神様の真似事で、彼の体の〝ズレ〟を治してあげて、あとは一つ一つ丁寧に仕事の仕方を教えてあげる。
「それは銀製のインテリアですから、このシルバーダスターをこのように使って」
「う、うん!」
「このカーペットはウール製なので、お湯を使わないで冷水に頭髪用洗剤を薄めて、少し塩を加えて」
「すごい!綺麗になった!」
慌てずに丁寧に説明してあげれば、ちゃんと覚えて実践してくれる。
「ハヤテ、やれば出来るじゃない」
「うん!」
褒めると彼は心底嬉しそうに笑ってくれた。今思えば、それが彼の置かれた境遇を現していたんだろう。頑張りすぎてひっくり返ってしまうこともあったけれど、そんな彼の姿を見るのがいつの間にか私の中でもかけがいのない時間になっていった。
「私、自分の執事が泣き虫だなんて我慢なりませんの。だから、徹底的に体に叩き込ませますわ」
「だからって真剣でやること!?」
「問答無用!」
剣の稽古にも身が入った。
「ひいい!アーたんのドS!」
「ど!?どこでそんな言葉を覚えたのですか!」
とはいえ、決してケガはさせないように。
正直、このような訓練が現代社会でどこまで意味のあるものなのか。聞かれれば恐らく、「大した意味はない」と答えていただろう。でも、直接この力を使うことがなかったとしても、日々の努力は自信に、自信が勇気に。何事でも、そうやって積み重ねていったものは必ず自分を助けてくれる。それだけは間違いないと、彼には知ってほしかった。
もちろん時々喧嘩もしたし、ハヤテがデリカシーのない行動をすれば直接〝教育〟をすることもあったが……でもどんな時も、私たちの一瞬一瞬はどれだけの宝石よりも光り輝いていて、かけがえのないものだった。
彼がいれば他のモノなんていらない。一生、こんな日々が続いていくものだと。きっとハヤテもそう思っていてくれたと思う。でも、それ以上に私の方が、自然とそう望んでしまうようになっていた。
「一緒に、外で暮らさない?」
だから、彼がそんな事を言い出したのは、何も唐突なことではなかった。
ハヤテには予め外に出る方法を教えておいた。私と違って、ずっとこの城にとどまらなければいけない定めはない。だから時々、彼は外の世界に出かけることもあった。
当初は、いついなくなっても仕方がない、くらいに考えていたけれど、彼と過ごす時間が多くなればなるほど、次第に外にいる時間、私が独りぼっちで城にいる時間がたまらなく辛くなってきた。必ず、城には帰ってきてくれるけど、もし外で他の人と仲良くなって私のことを忘れてしまったら……そう思うと恐ろしくて眠れないさえあった。
でも、言えなかった。城と外の時間の流れは違う。そんな大事なことさえ、彼には伝えていなかった。
私のわがままで、彼を城に縛り付けることだけはしたくなかったからだ。
でも、そんな私の些細な表情を、彼は見過ごしていなかった。
──彼が外に出て帰ってこない時間は、恐ろしく長く感じられた。
天井の飾りも、机に並んだ本も、いつもは退屈で仕方のない城の景色が、その時ばかりはやけに寂しく見えた。
戻ってくるのだろうか。もしかして、今度こそ戻ってこないのではないか。そんな不安が胸をよぎるたび、私は両手を強く組み合わせて祈るようにしていた。
──そして、ある日。
「アーたんっ!」
息を切らせて、扉を開け放ち、彼が戻ってきた。
顔も服も泥にまみれ、膝には擦り傷。けれど、笑顔だけは太陽のように明るくて。
胸を撫で下ろす間もなく、彼は両手で小さな箱を差し出してきた。
「これ……」
差し出されたのは、宝石店の指輪の箱。
鼓動が跳ねる。けれど震える手で開けると──中は空っぽだった。
「……これは?」
「ご、ごめん!まだ中身はないんだ!」
彼は必死に説明を始める。
「僕、アーたんに指輪をプレゼントしたかったんだ!だから外で働いて、掃除とか荷物運びとか、できる仕事を片っ端からやったんだ。でも子供の僕には全然稼げなくて……。お店で笑われたけど、『頑張ったね』って箱だけくれたんだ!」
小さな手が、空っぽの箱を誇らしげに握りしめる。
その必死さが、あまりに真っ直ぐで、愛おしくて。
「だから!まだ箱しかないけど……これからいっぱい働いて本物を買うから!その時は、一緒に外に出ようよ、アーたん!」
熱を帯びた瞳と、空っぽの箱。
その対照が、あまりに可笑しくて──でも胸が熱くて。
「ふ……ふふっ……あはははっ!」
気づけば、涙がにじむほどに笑ってしまっていた。
「な、なんで笑うの!? 真剣なのに!」
彼がぷくりと頬を膨らませるのを見て、さらに可愛さが込み上げる。
ひとしきり笑った後。私は奥の部屋にある机の引き出しの奥から、小さな箱を取り出した。
開けば、中には一つの指輪。大切な、本当に大切なたった一つの指輪だった。大切な人達から譲り受けた、それは私の宝物だった。誰かにこれを渡すことなんて考えた事もなかった。
「……いつか、ハヤテからの指輪を楽しみにしていますわ。だから、これは私からの気持ちです」
そう言って、私は彼の掌にそっと載せた。
「アーたん……!」
彼は信じられないほど嬉しそうに目を輝かせた。
──きっと、それは『一緒に外に出る』という約束の証だと受け取ったのだろう。本当はそんなことできないと知りながら、私は否定できなかった。嬉しそうに外の世界を語る彼の表情を、今だけは崩さないようにと。どうかこの時間が、永遠に続きますように、と。
⸻
終わりはいつだって、呆気ないものだ。
それから数日後のことだった。
彼はまた外に出て戻ってきた。
「ねえアーたん、聞いてよ!お父さんとお母さんに聞いたんだ、アーたんと一緒に暮らして良いかって!」
嬉しそうに話す彼の声とは裏腹に、私の心は冷え切っていた。
「そしたらね!勿論良いよって!僕の大切な人は、父さん達にとっても大切な人だよって!そう言ってくれたんだ」
無邪気な善意が、冷たく凍りついた胸の奥を突き刺すかのように。
「……指輪は?」
辛うじて搾り出した私の声は、どれほど冷たかったのだろう。ハヤテも戸惑ったように小首を傾げる。
「私の指輪は、どうしましたの?」
「あ!大丈夫だよアーたん、指輪は両親に預けてきたから。大切に保管するって言ってくれて」
彼の顔はまだ希望で輝いている。けれど私の胸を締めつけるのは、言いようのない怒りと、そんな自分の怒りに対して抱く恐怖だった。
分かっていた。外の世界の様子は、城からでも確認できるのだから。
だから知っていた。あの両親がハヤテから指輪を言葉巧みに奪い取り、そしてそのままハヤテに知らせずに質屋で売り払ったことも。そのお金を娯楽に消し飛ばした事も。
本当に、本当にどこまでも──
「どこまで、愚かなら気が済むのですか貴方はッ!!」
振り払った剣は宙を切り、ハヤテは慌てて後ろに尻餅をつく。だか、私は我慢ならなかった。
「本当に、本当に大切な指輪だったのに……」
「だ、だから大丈夫だよ!両親には大切な指輪ってちゃんと説明したから!だから」
あの両親に。子供の純粋な気持ちですら、搾取することしか考えていない人間に。そして、そんな両親に何度となく騙されているハヤテにも。
私の……両親が残したたった一つの形見を。
「良く聞きなさいハヤテ!貴方の両親は正真正銘のクズよッ‼︎人の優しさを喰いものにして不幸を撒き散らすだけの存在」
「あ、アーたん……」
どれだけの罵詈雑言を放ったのか、幼いハヤテにしてみれば私が気でも触れたのかと思ったに違いない。
「そんな奴らにいつまでついて行く気⁉︎心と体もボロボロになるまで分からないの⁉︎」
「わ、分からないよ!な、何でそんな酷いことを言うんだよ!」
本当に、何故私は……あんなに酷いことを。彼にぶつけても仕方がないのに。でも、だったら私のこの哀しさは一体どこにぶつければいいのか。私もきっと分かっていなかったのだと思う。
「両親が預かってくれてるから大丈夫だよ!」
「大丈夫なものですか! あの人たちは貴方の心を食い潰すだけの人間です!!」
思い返せば、ちょっとした子供の言い合いで済んだかもしれない。とてつもなく酷い仕打ちだったけれど、私とハヤテの間の衝突だけは、まだ引き返すことが出来たのかもしれない。でも──
「あんな連中のことは忘れなさい!もうずっと私とここで暮らせば──」
「イヤだよ!」
──アーたんには、両親がいないから!だからそんな酷いことが言えるんだよ!
その一言が、全てを切り裂いた。
我慢ならなかった、その一言だけは。
視界が真っ赤に染まる。
怒りと哀しみが混ざり、剣を振り下ろす。
──何が分かる!私がどんな思いでここにいるのか、何も知らないくせに。
「ハヤテェェェ!!」
金属のぶつかる音が響く。
互いの幼い体は必死で動き、必死でぶつかり合う。
やがて二振りの剣は同時に折れ、私たちは床に倒れ込んだ。
涙で視界が滲む中、私は叫んでしまった。
「もういい! 私の言うことが聞けないなら……ハヤテなんて……ハヤテなんていなくなってしまえばいいんだ!!」
その言葉は、彼を真っ直ぐに打ち抜いた。
顔から笑顔が消え、血の気が引く。
彼は絶望の色を瞳に宿し、立ち上がると──城を去った。
残された私は、膝を抱えて泣き続けるしかなかった。
──違う、違うのよハヤテ。私はこんな事をしたかったんじゃないの。
そりゃね、大切な指輪をあんな簡単に売られてしまったら、腹立って立つじゃない。でも、私はそれでも、貴方さえいればそれで良いって。なのに貴方ったら、まだあんな両親の味方をして。だから、少しは怒ったって良いじゃない。それでも仲直りして、そしたらまた私の隣で
振り返っても、もうそこには誰もいない。
「ごめんなさい……ごめんなさい……ハヤテ……」
声が枯れるまで、涙が枯れるまで。
何度も、何度も。
「もう一度……私を呼んでよ……ハヤテ……」
「アテネ」
不意に呼ばれた名前に、思わず視界がクリアになる。ふと顔を上げると、ヨゾラがこちらを覗き込んでいた。
「……名前を呼んでくれるなんて、珍しいわね」
「何度お呼びしても反応がなかったので、イケボでASMRがごとく語りかけてみればスパチャ貰えるかなと思いまして」
「……お前が何を言っているのか、1ミリも理解できませんわ」
全く。呆れるハズなのに、どこか安心したように口元は緩んだ。
湯気の立つ梅昆布茶を、ヨゾラが黙って差し出してくれている。
温かな味が口に広がる。だが、心の奥の冷たさは消えない。
「ハヤテ……本当に、貴方はここに来るの……?」
消え入りそうなその囁き声が、広い部屋に溶けていった。
引っ張りすぎました、ごめんなさい!
この辺で2人の過去編やっておかないと、アテネ編が意味不明なものになりそうだったのでねじ込みました(とはいえ原作の話なので、敢えて2人視点で前後編にしてみました。)
次回からまた皆のギリシャの旅が再開します。原作同様、シリアス展開がどうしても多くなりがちですが、メリハリつけて書いていきたいと思います!引き続きよろしくお願いします!
物語の終わり方について
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エンディングは一つのみが好ましい
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各ヒロインのルート分岐などがあっても良い
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どうでもいい