「わぁ!絵本みたいな景色!」
歩の弾んだ声が、石畳の路地に響いた。白い壁にブーゲンビリアの花が咲き乱れ、朝の光に照らされたプラカの街並みは、なるほど、どこか物語の中の世界と言われても納得だ。
「そうか?ちょっと街並みが白いくらいではないか」
「もー!すぐそうやって水を差す!ナギちゃんは歩き慣れてるかもしれないけど私たちは初来訪なんだから、感動も一塩なの!!」
「『一入』な」
隣を歩くナギはそう言って肩をすくめる。
言葉こそぶっきらぼうだが、その表情には不快さはなく、むしろ歩の無邪気な喜びを受けて、どこか誇らしげですらあった。
アテネ市滞在二日目。ナギや歩たちは市内観光に足を運んでいた。まず立ち寄ったのが、アテネで最も有名な観光エリアのひとつ。「アクロポリスのふもとに広がる旧市街」こと、プラカ地区だ。
「こうして朝に歩くと気持ちがいいわね」
ぐっと伸びをして空を見上げるヒナギク。アクロポリスの丘が朝靄の中に浮かび、古代の神殿のシルエットが霞んで見えていた。隣を歩くハヤテも噛み締めるように何度も頷いていた。
「ええ、本当に。日本じゃ味わえない感覚ですよね」
こんな凄い景色が拝めるなら、毎日散歩をしても飽きない。きっと、初めてここに足を踏み入れた人は皆一様にそんな感想を抱くのだろう。
「さ、皆さん。そろそろ朝ごはんにいたしましょうか」
マリアは柔らかな笑みを浮かべてみせた。
街角にある小さなカフェ。そのテラス席でそれぞれ少し遅めの朝ごはんを堪能する。
「甘い……!パンがふわふわで美味しいですね」
「オリーブも独特の味……けど、慣れたらクセになりそうかも」
「ナギちゃん、このヨーグルトすごく濃厚だよ!食べてみて!」
「子どもかお前は……ん、でもこれは悪くないな」
次第に通りには観光客が増え、楽器の音色が流れてくる。
プラカでの朝食を終えた一行は、市の象徴ともいえるアクロポリスの丘へと足を運んだ。
まず向かったのは、丘の麓に建つアクロポリス博物館。ガラス張りの現代的な建物に足を踏み入れた瞬間、歩は思わず声を上げる。
「わぁ……すごい!本物の神殿みたい!」
広々とした館内の中央には、発掘された遺物や彫像が整然と並んでいる。石膏で補われた破片の数々は、長い年月を経た歴史の重みを物語っていた。
「こちらは紀元前五世紀、いわゆる黄金期に作られたものです。当時の職人技術がうかがえますね」
「へぇ……」
邪魔にならない程度にそっと横で解説をくれるメイドさん。歩たちは時折メモを取り、展示物ごとに小さく感嘆の声を漏らす。
「皆さんと一緒に、こうやって過ごすのも良いものですね、ナギお嬢様」
「……」
少し後ろから、その無邪気な反応を微笑ましそう眺めるアイル。ナギは少し考えるように、彼女たちの様子を見つめつつ。
「ま、たまにはな」
小さく息をついて肩をすくめてみせた。素直じゃない、なんて野暮なことは言いっこ無し。
さて、展示を一通り巡った後、一行は丘の上へと登り、ついにパルテノン神殿へと辿り着いた。
「……本物だ」
白大理石の階段を踏みしめると、真っ青な空を背に、荘厳な神殿がそびえ立っている。その姿は、数千年の風雨を耐えてなお威厳を失わない。古代の神殿の代表格、ドーリア式の最高傑作とも謳われ女神アテナを祀る世界遺産である。
「こ、これがパルテノン神殿かぁぁああ!!」
両手を広げて叫ぶ歩に、ナギが呆れ顔を向ける。
「大げさな奴だな。昨日も今朝も見ただろう」
「なーに言ってるのさナギちゃんッ!世界遺産だよ!? 古代ギリシャの息吹が、いま令和の私たちに語りかけてきてるんだよ!」
「設定は平成だけどな」
「シャーラップ!現地で浴びる感動はプライスレスなの!」
熱弁である。
「それに、丘の頂上からはアテネの街が一望出来るんだよ!この景色も世界遺産の一つと言えるくらい素晴らしいんじゃないかな!」
「確かに……これは絶景ですね!」
ハヤテはそんな二人に苦笑しつつも、感嘆を隠せずに眼下に広がるアテネの市街地を見つめる。突き抜ける青空の下、両手を目一杯広げれば、地平線まで広がるアテネの街並みを抱きしめられそうと錯覚しそうになるほどだ。
だというのに──
「本当に最高の景色ねー」
「ヒナさん、それは神殿ですよ?」
ヒナギクはといえば、市街の一心不乱にパルテノン神殿の方だけを見つめていた。
「この神殿が世界遺産よ。古代の叡智が私たちに語りかけてきてくれるのよ、景色よりもこっちに集中すべきよ」
「いやいやいや」
歩はため息をつくと、ぐいっと手を引いた。
「そんなこと言ってないで、ほら!来てください!この景色は絶対に見ないと損です!私が保証しますから!」
「保証なんて要らないわ!今この瞬間に大地震が来たらどうするの!?私たち真っ逆さまよ!」
かもしれない運転──ならぬ、かもしれない観光。災害が起きるかもしれない。
「せっかく、ヒナさんと旅行に来たんだもん。綺麗なものは一緒に並んで見たいなーって思うんです。もっともっと、ヒナさんと仲良くなりたいから」
「うぐっ……」
「私がしっかり支えてあげますから。ね?」
ニッコリと微笑む歩。頬を赤らめて視線を逸らすが、やがて観念したように小さく息をついて、ヒナギクは手を握り直した。
「……どこからの眺めなら綺麗ですって?」
「こっち、こっちに来てください!」
歩は屈託のない笑顔で手を引き、えへへっと照れ笑いを浮かべる。
側からみれば、女子高生2人がイチャイチャしているようにしか見えない。そんな百合の波動を横目に、若干呆れつつもナギは腰に手を当てて、従者たちの方に振り返った。
「そういえば、あの三人はどうしたのだ?」
「ええ。疲れたからお昼過ぎまでお休みになられるそうです。夕方くらいに合流されるのが良いかと」
パルテノン神殿?幼少期に見飽きたわ。と、イキる訳でもなくさも当然とそう言い放っていたブルジョワ娘たちである。
「ふむ。なら、次の観光地にもこの6人で良いか。移動手段は──」
「既に手配してあります、呼べば五分以内に参りますが」
「……自分で言っておいて難だが、お前ホントに抜かりないな」
「光栄です」
軽く微笑んで会釈する執事。マリアとハヤテという超絶優秀従者たちに加えて、エドモンド、もといアイルというこれまた優秀な執事が加わり、三千院ナギの布陣は盤石さに磨きがかかるというものだ。
「今ならあの三千院帝を潰すことも……可能か?」
「そのクーデターにだけは巻き込まないでくださいね?」
実行されたら実質国家転覆罪に問われるといっても過言ではない。過言である。
「いやぁ、見ごたえあったねー」
観光を終えても、まだ余韻に浸ったように目を輝かせる歩とは対照的に、ナギはさっさと切り替えて手をひらひらさせる。
「んじゃ、次はデルフィにでも行くか。昼飯は道中で軽く食べるくらいでもいいか?」
「そうですわね。簡単なものでしたら、すぐご用意いたしますわ」
マリアも頷いて続くが、歩は腑に落ちないように小首を傾げる。
「なんだハムスター、まだ見たないのか?」
「いやいや、そうじゃなくて。デルフィってガイドブックだと電車で三時間くらいかかるって……書いてあるけど、お昼食べてる時間あるかなって」
時刻はちょうど12時半を回った頃合い。確かにここからすぐに移動を始めても向こうに着くのは夕方だが。
「……お前」
ナギは呆れを隠そうともせず、肩をすくめて歩を一瞥した。
「私が電車とか詳しいと思っているのか?」
「へ?」
その瞬間、轟音がアテネの空に響き渡る。風が巻き起こり、観光客が一斉にざわつく中、黒塗りのヘリがゆっくりと降下してきた。
「……」
唖然とする歩。口がぱくぱく開閉するが、言葉が出てこない。構わず、我らがお嬢様は当然のように操縦士へ声をかけた。
「デルフィまではどれくらいだ?」
「三十分もあれば」
マリアは穏やかに微笑んで続ける。
「では、中で簡単な昼食にいたしましょう」
「あ、侮ってた……お金持ちの思考を……」
歩は膝から崩れ落ちそうになりながら、空を仰ぐしかなかった。
「……あれ?でも、これ……ヒナさんは大丈夫なのかな?」
皆の視線が一斉に移る。そこには──笑顔を浮かべたまま、固まって動かないヒナギクの姿。まるで石像である。
ナギは頭を掻き、軽く空を見上げるが。
「まぁびっくりしすぎたら気絶するだろ。問題ない」
「~~~~っ!!」
ヒナギクの声にならない抗議は、ローター音にかき消され、アテネの青空に虚しく消えていった。
──山岳に抱かれた聖地。乾いた風が吹き抜け、陽光を受けて石柱の残骸が白く輝いていた。
かつて神託が下されたという神殿跡。その場に足を踏み入れるだけで、数千年の時を隔てた重みが肌を刺すように伝わってくる。大地の「へそ」と呼ばれ、かつて世界の中心とされた──
「うおおおおおお!!!」
最初に叫んだのは歩だった。両手を広げ、まるで自分が神託を授かるかのように。
「ここが世界の中心だよ!本物のアポロン神殿だぁぁぁ!!」
「観光客丸出しだぞ、お前」
ナギの呆れ声も、歩のテンションには届かない。
「だってすごいんだもん!古代ギリシャよ!?ソクラテスもプラトンも、きっとこの空気を吸ったんだよ!」
「まぁ吸っただろうけどな」
「ああ、何だか知性が溢れて気がするよ!今なら定期考査も楽勝に乗り切れるかも!!」
「そりゃ何より」
冷淡なツッコミにもめげず、歩は一人で盛り上がっていた。
「確かに……かつては巫女が神の声を伝えたと言われていますね」
マリアが微笑みながら補足を入れると、ハヤテも素直に頷いた。
「歴史の教科書で読んだことはありましたけど……やっぱり、実際に来ると迫力がありますね」
思わず空を仰ぎ見る。山々に囲まれ、乾いた空気が流れる遺跡は、まるで別世界のようだった。先人達の足跡に、各々人生観を重なるようにして想いを寄せる。
ただ一人を除いては──
「ヒナさんヒナさん!」
歩は目を輝かせ、遺跡の石段を駆け寄る。
「ここが世界の中心なんですよ! 昔は神託が下されてたんです! せっかくだからお願いごと、してみません? ここで叫んだら叶うかもしれないですよ!」
「そうねー」
ヒナギクはにっこりと微笑んで、慈愛に満ちた表情で言い放った。
「だったら、この世からヘリコプターを無くす、とかどうかしら」
「世界の中心で何を願ってるんですか!?もっとあるでしょ、世界平和とか金運上昇とか!」
満面の笑みで、どこぞの魔王のような事を言い出す生徒会長。ナギは、呆れたようにため息をついた。
「まったく、心外な奴だな。ヘリは大統領だって使っているんだぞ。その辺の車よりよっぽど安全なんだから、少しは信用しろ」
「ヘリが地面を走ったら信用してあげるわ」
「逆に信用ならねーわ、そんなヘリ」
さて、アポロン神殿の観光もそこそこに次の目的地は。
「次はメテオラにでも行っておくか」
デルフィから更に北へ。移動手段は──
「もうヘリは乗らないわよ!私、走って行くから!」
「何日かける気だよ……」
「かつての人類、グレートジャーニーが辿った道のりを考えたら、こんな距離散歩レベルだわ」
抗議も抗議。ヒナギクはヘリコプターにだけは乗らないという決意は確固たるもののようだ。
ナギは頭を押さえてため息をつくが、次の言葉は意外なものだった。
「安心しろ、ヘリにはもう帰ってもらったよ」
「え?」
「こういう観光地にローター音は耳障りで風情もないからな。それに、なんだかんだ乗り慣れてないと怖いだろう」
「……ナギ」
ヒナギクは思わず目を潤ませ、両手を胸に当て──
「だから次はジェット機で行く」
数十分後──
眼前にそびえるは天にそびえる巨岩群。その断崖の上に修道院が点在する、天空の絶景が彼女たちを出迎える。
「すごい……!!これがメテオラ、奇岩絶壁の世界遺産!!」
「まるで天空の城ですね!」
見るもの全てが新鮮。歩とハヤテはあっちにこっちに、スマホのカメラをひっきりなしに向けて回る。
一方、ヒナギクは近くの長椅子に座り、静かに目を閉じて俯いていた。
その姿はさながら、15Rをフルで戦い抜いたプロボクサーのごとく、真っ白に完全燃焼している。
「どうぞ、冷たいお水です」
「ありがとう、ございます」
アイルはキンキンに冷えたペットボトルをそっと彼女に手渡した。口元から伝わる冷え切った心地よさが脳や身体の隅々まで行き渡り、少し顔色が戻ってくる。しかし、ヒナギクは暫くペットボトルの口を見つめていたが、やがてアイルへと視線を送る。
「ごめんなさい、アイルさん。本当はあまり弱音を言いたくないんですけど、今だけ、ほんの少しだけわがままを言っても良いですか?」
「えぇ、勿論。私にできる事であれば何なりと」
ヒナギクは少しだけ潤んだ瞳でアイルを見上げる。紅潮した頬と少しだけ震える唇が、普段は決して見せない彼女の──
「当て身で、私のこと気絶させられますか?首とか、もうホント遠慮なくやっちゃっていいので」
「……」
乙女チックな表情と内容がここまで乖離することなど、いまだかつてあったのだろうか。
「もしくは介錯人を務めてもらうこととか……あ、刀は別に斬れにくいものでも最悪大丈夫です」
「マリア様、急患です」
トリアージの結果は赤。さしもの執事もお手上げで、我らがスーパーメイドさんにバトンパスするのだった。
物語の終わり方について
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エンディングは一つのみが好ましい
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各ヒロインのルート分岐などがあっても良い
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どうでもいい