アテネちゃんの執事!   作:通行人A'

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Task83:Umbrae

 

 

 

 

「……天王州、アテネ?」

 

 その名を耳にした瞬間、ハヤテは思わず声を震わせた。

 心の奥で、十年前と同じ呼び名が蘇る。──アーたん。

 だが、それを口に出すことはできず、驚愕に満ちた表情で隣に立つヒナギクを振り返る。

 

「えぇ、そうよ」

 

 ヒナギクは夜気を帯びた静かなテラスで、落ち着いた声を返した。

 

「ハヤテくんも名前くらいは見たことがあるんじゃない?私達、白皇学院のトップの中のトップ。運営法人の若き理事長の天王州さん」

「理事長、ですか?」

 

 硬い表情のまま、全く知らなかったと首を傾げるハヤテ。

 

「そう。まぁ普段は学院にもあまりいないし、生徒の前になんて滅多に顔も出さないから……知らないのも無理ないか」

「そ、そうだったんですね……」

 

 露骨に視線が泳ぐ彼の態度に若干違和感を感じつつも、ヒナギクは夜景に目を向けながら続ける。

 

「彼女まだ若いし、国内での運営はキリカさんっていう理事が理事長代理で務めてるわ。まぁあの人も忙しい身だから『早く理事長に仕事を押し付けたいー』ってよく愚痴ってるけど」

「……」

「まぁ、白皇そのものが天王州さんの財産みたいなものだから、将来的には彼女が運営することになるでしょうね」

 

 けど。そう言ってヒナギクはハヤテの方を振り返る。

 

「ハヤテくんなら、その辺の事情を知ってるものだと思ってたわ」

「え?どうしてですか?」

 

 ドキリと、ハヤテの鼓動が高鳴る。もしかして、アテネから何かを聞いているのだろうか。自分が犯した過ちや過去の事を──しかし。

 

「だって、白皇の理事ってナギのお爺様も入ってるから。ナギからそういう話も多少は聞いてるものだと思ってたから」

「……おじいさま、が」

「でもそっか、まだ入学して半年も経ってないもんね。ナギも運営の話なんて興味ないみたいだし」

 

 ハヤテは心ここにあらずといったように、生返事を返す。

 アテネの名前を聞いてから明らかに様子がおかしい。明らかに初めて聞いた反応ではないし、二人が知り合いかどうかはともかく、二人の間にどう考えても何かがあった事は、その空気で彼女も察していた。

 

「天王州さんの事なら──」

 

 アイルさんに聞いてみれば。

 そう言いかけて、ヒナギクは一瞬ためらう。

 空港で交わした言葉が、脳裏をよぎったのだ。

 

 ──アイルから頼まれたこと。

 天王州家の執事という事実は、表向きには触れないでほしい、と。

 

 ヒナギクは唇を閉ざし、最後まで言葉を続けなかった。

 横顔のハヤテは、夜景よりもはるかに遠くを見つめているように見えた。

 

 

 

 夜の帳がゆっくりと降りて、アテネの街並みを深い藍色に染め上げていく。

 昼間は観光客で賑わっていた通りも、今は店先の灯りがまばらに瞬き、石畳の上に長い影を落としていた。

 遠く、丘の上にはパルテノン神殿が淡いライトに照らされ、浮かび上がる。人類の歴史そのもののように、黙して千年を見守ってきたかのような姿だ。

 

 ──不思議と、足が勝手に動いていた。

 

 別荘を出てから、ハヤテは目的もなく歩き続けていた。

 胸の奥にうずく感覚がある。誰に説明できるわけでもない、理屈では割り切れない感覚だった。

 

 

 彼女が、近くにいる──。

 実をいえば、そんな予感があった。期待めいたものだが。

 

 白皇は、超がつくほどのお金持ちも多く通う学園法人だ。

 で、あるならば、彼女のような人間が通っていても不思議ではない。

 そう、漠然と思っていた。

 

 十年という歳月が流れた。

 

 彼女はもう、自分を覚えていないかもしれない。むしろ──忘れてしまった方が、彼女にとって幸せだったのかもしれない。

 それでも、もし覚えていたなら。あの時の裏切りを、心の底から恨んでいるに違いない。

 

 「……っ」

 

 思い返すだけで胸が締め付けられる。

 庭城の夜、幼い自分は彼女を裏切った。守りたいと誓ったはずなのに、自らの未熟さでその誓いを踏みにじった。

 ──間違っていたのは、自分だ。

 

 だからこそ、会えたなら伝えたい。

 謝罪でも、懺悔でもいい。彼女が望むなら、罵られても構わない。

 ただ、心の奥底からずっと言えなかった言葉を。

 

 アテネの夜風は、そんな決意を試すかのように冷たく頬を撫でていく。

 石造りの建物の影が並ぶ細い路地を抜けると、ふいに視界がひらけた。

 

 そこは、不思議なほど静かな花畑だった。

 都市の真ん中に忽然と現れたかのようなその光景は、あまりに現実離れしていて、まるで夢の中に迷い込んだかのように思えた。

 月明かりに照らされた無数の花々が、夜気を孕んで微かに揺れている。

 

月光を受けて淡く浮かび上がる花々は、夜風に揺れて小さな波を描いている。都市の喧騒が一切届かない、不思議なほど澄みきった空間。

 

 そして、その奥に。

 

 黒いドレスを纏い、真っ直ぐに立つひとりの女性の姿があった。

 月の光に照らされた横顔は、気高さと冷たさを併せ持ち、近づくことすら許さぬような凛とした気配を纏っている。

 

 その瞬間、ハヤテの全身が震えた。

 名前など聞く必要はなかった。視界に映っただけで、全身が告げていた。

 

 ──彼女だ。

 

 十年前、決別と裏切りで断ち切られたあの日から。

 時が流れ、姿も纏う雰囲気も変わったとしても、間違えるはずがない。

 そこに立っているのは、天王州アテネ、その人だ。

 

 息を呑み、胸の奥から声が漏れそうになる。

 しかし言葉は音になることなく、喉の奥で途切れた。

 

 ハヤテはただ、その場に立ち尽くし、彼女を見つめ続ける。

 十年分の想いが一気に押し寄せ、胸を締め付け、足を縫い止める。

 声を掛けることすらできずに──。

 

 

声を出さなければ。

 胸の奥で警鐘のように繰り返される。

 

 ──あの日から十年。

 やっと、やっと会えたんだ。

 このまま沈黙しているわけにはいかない。何か、何か彼女に言葉をかけなければ。

 

 だが、喉が強張り、舌が動かない。何を言えばいい?どう伝えればいい?

 心は焦るのに、声だけが出ない。

 

 そんなハヤテを見据え、先に口を開いたのはアテネだった。

 

「……花畑に迷い込むクセでもあるのかしら?」

 

 淡々と、感情の色を一切含まぬ声音。

 その素っ気ない響きに、ハヤテは「え……?」と目を瞬かせる。

 

 アテネは一歩、花畑を踏みしめ、さらに続けた。

 

「ですが、生憎ここは私の家の敷地です。どこの誰かは知りませんが──早く立ち去りなさい」

 

 外から見れば、迷い込んだ者に寛容な言葉をかける理知的な女性の姿に映っただろうだが、ハヤテにとってその態度は氷の刃のように鋭い拒絶に他ならない。

 心の奥を真っ二つに切り裂かれるような言葉に、ハヤテは息を呑む。

 

「ま、待って! 僕だよ……!」

 

 押し殺していた声が、堰を切ったように溢れる。

 必死に言葉を紡ぎ、震える声で叫んだ。

 

「僕だよ、綾崎ハヤテだよ!」 

 

 すがるような、必死の叫びが夜気を裂いた。

 だが、その言葉を受けたアテネの表情は、ほんの一瞬も揺らがない。

 

「ですから」

 

 黒のドレスを揺らし、彼女はただ冷ややかに言い放った。

 眼差しは深淵の底のように冷たく、わずかな感情の灯すらない。

 

「どこの誰か存じ上げないと言っているのです。今なら不法侵入も見逃してあげますから」

 

 その声音には、哀しみも怒りもなかった。

 ただ徹底した拒絶だけが、そこにあった。

 

「……っ」

 

 胸を突き刺すその一言に、ハヤテの喉が詰まる。

 何か返そうとしても声にならない。十年の想いも、後悔も、謝罪も──氷の言葉に遮られて、すべて霧散してしまう。

 

 彼女は振り返ることもせず、背を向けた。

 黒のドレスが花畑を横切り、静かに闇に溶けていく。

 ハヤテは、その小さくなっていく背中をただ呆然と見送るしかなかった。

 膝が震え、足は地面に縫い付けられたように動かない。

 

「……アー、たん」

 

 弱々しい声が宙に消える。

 彼は俯き、肩を落としたまま、重い足取りで花畑を後にする。

 

 ──何を期待していたのだろう。

 

 花畑を離れ、ハヤテは俯いたまま夜の街を歩いていた。

 石畳を踏む靴音だけが、冷たい夜気に吸い込まれていく。

 

 十年ぶりに会えたのだから、きっと言葉を交わせる。

 あの日の続きが、ほんの少しでも取り戻せる。

 無意識のうちに、そんな淡い希望を抱いていた。

 

 だが現実は、氷のように冷たい拒絶だけ。

 名前すら呼ばれず、存在すら知らぬ者として切り捨てられた。

 

「……よく考えたら」

 

 自嘲が漏れる。

 十年前──たった一瞬の時を共に過ごしただけ。

 子供じみた約束を交わし、守れぬまま背を向けた。

 そんな過去を、彼女が大切に覚えているはずがない。

 

 むしろ──忘れてしまっていた方が、彼女にとっては幸せだったのかもしれない。

 辛い思いをした。きっと、沢山傷つけてしまった。

 だからこそ。

 

「今更……僕が何を求めてたんだろう」

 

 期待していたのは彼女の笑顔か、赦しの言葉か。

 肩が震え、握り締めた拳に爪が食い込む。

 謝罪も、懺悔も。もう遅すぎるのかもしれない。

 忘れられた存在のままでいれば、彼女は穏やかに過ごせたのではないか。

 

 胸に渦巻くのは、後悔と自己嫌悪だけだった。

 

 ハヤテは夜のアテネ市の片隅で、すっかり灯りの落ちた通りをひとり歩き続ける。

 頭上には、千年を見守る神殿の光。皮肉にも、自分の罪を照らし出しているように見えてならなかった。

 

 

 

 ──冷たい夜風が、花畑を揺らす。

 アテネとハヤテの背中がそれぞれ闇に消えて、暫く沈黙だけが残されていたが、ふと月明かりの届かぬ茂みの中から、ひそやかな声が漏れる。

 

「……あれ? 追い返しちゃったぞ」

 

 マキナだった。枝を払いのけて顔を出し、ぽりぽりと頭を掻く。

 その表情は呑気さすら漂っていて、今見た拒絶の場面がまるで信じられないと言いたげだった。

 

「アテネは、アイツと会いたかったんじゃないのか?」

 

 問いかけに、隣のヨゾラは答えなかった。細めた瞳でアテネの背を見送りながら、口元に指を当てて沈思する。

 

「……ふむ。もっと素直になれず、ツンツンからの雪解け──そんな展開を予想していましたが」

「雪解けとはほど遠い感じだったなぁ……」

 

 マキナは腕を組んで、ハヤテが消えてしまった方向を見つめる。

 

「どうする?アイツ追いかけて、呼び戻してみようか?」

「……いえ」

 

 ヨゾラは短く首を横に振った。

 

「今ここで私達が介入するよりも──」

 

 言葉を切ると、彼女はゆっくりと顔を上げた。

 夜の花畑を見渡すようにして、やがて視線を一つの方向に定める。

 

 月光の差さぬ、木陰の闇がわずかに揺れる。

 そして静寂を切り裂くように、草を踏む柔らかな足音。

 ゆっくりと姿を現したのは、いつもと変わらぬ無駄のない仕草で歩む青年──アイルであった。

 

「では、今後の計画について。私たちにも説明していただきましょうか。先輩」

 

 観念したように吐息をもらし、彼は出口の方に顔を向けた。

 

「では、少し場所を変えましょうか」

 

 

 

物語の終わり方について

  • エンディングは一つのみが好ましい
  • 各ヒロインのルート分岐などがあっても良い
  • どうでもいい
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