石段を上った先は、アテネの街並みを一望できる高台だった。
遠く丘の上に浮かぶパルテノン神殿の光が、夜空に凛とした輪郭を描いている。街の灯りは星々と溶け合い、まるで地上にもう一つの天が広がっているかのようだった。
その景色を前に、アイルは二人に背を向けたまま、静かに口を開いた。
「──二人とも。最近、お嬢様の様子について……恐らく気になることが幾つもあったかと思います」
夜風が外套を揺らす。マキナとヨゾラは無意識に顔を見合わせ、小さく頷いた。
「うん。いつものアテネとは違う雰囲気が、してた」
「何か、ただならぬ力が彼女に纏わりついているような……そんな感覚がしてます」
アイルは視線を夜景から外し、静かに振り返った。
「恐らく── 今、お嬢様の身には、〝人ならざる何か〟が取り憑いています」
人ならざる何か。
その曖昧な表現にヨゾラは眉をひそめつつ、しかし自身が感じていた感覚を思い起こし、やはり、と腑に落ちたように小さく頷く。
「それが何なのか。どうして彼女がそんな事態になっているのか……詳細や経緯については、正直な所私もまだ確信は持てません。予想こそあれど、根拠のない憶測が多分に入り混じるので、敢えてここでは省かせていただきます」
それよりも──
「重要なことは、それが彼女にとって悪影響を与えるものだという事です。呪い、そう言ってもいいかもしれない。今、彼女の心の隙に付け込み、精神をじわじわと蝕み続けている」
「アテネの心、を……」
マキナはグッと拳を握りしめる。アテネの身に何かあったら。突如として浮かび上がる恐怖と緊張が、薄らと彼の表情を強張らせた。
そんな彼の頭に、アイルはそっと手をのせる。
「確かにお嬢様は、今まさに危機にある。彼女をこのまま放置すれば──心も、存在そのものも、彼女は彼女でなくなってしまう」
…沈黙。
言葉の重みを感じ取り、マキナとヨゾラは思わず息をのむ。
「けれど、そんな結末には絶対にさせない」
アイルの声は夜風に負けずに響いた。
「私たち全員が、何よりも最優先にすべきことは、お嬢様をこの状況から解き放つこと。それが唯一にして絶対の目標です。その認識を、まずは共有しておきたい」
二人は目を合わせ、そして力強く頷いた。
「当たり前だ! アテネは俺たちが絶対守る!」
「……異論などありません。そのために私はここにいるのですから」
アイルはようやく表情を和らげ、唇に淡い笑みを浮かべた。しかし、すぐに神妙な表情で二人に視線を戻す。
「お嬢様を蝕んでいる〝呪縛〟を解くには、彼女自身の心を解き放たねばならない。これはほぼ間違いないでしょう。そしてそのヒントは──恐らくは十年前の〝決別〟にある」
「十年前の……」
ヨゾラが眉を寄せ、問い返す。
「ええ。確信を持って言い切ることはできません。しかし、その因縁に決着をつけることこそが唯一の鍵になると、私は考えています」
アイルはそこで一拍置き、言葉を強めた。
「ですから、その因縁の相手……綾崎くんの力が必要不可欠です」
マキナの瞳が大きく見開かれる。
「アイツが……?」
「えぇ。彼にしか果たせない役割がある」
アイルの声音は低く、だが確信を帯びていた。
「だからこそ、私は彼を連れてきた。先程は……まぁ決して芳しい結果とはいえませんでしたが」
短く目を閉じる。アイルの表情にはわずかな苦味が走った。
「ただ、むしろあの拒絶こそが、呪いの侵食がどれほど深刻化しているかを示している。推論だった話は、より確信めいたものに変わりました」
夜空を見上げると、星々は瞬いていた。だが、その光はどこか冷たく、遠い。
「再び二人を会わせ、互いの心を真正面からぶつけさせる必要がある。私はそう考えております」
ヨゾラは静かに頷いた。
「なるほど……大体話は分かりました」
つまり──
「私たちが二人の橋渡しをする……そういうことですね」
「えぇ。非常に重要なミッションです」
マキナも強く拳を握りしめ、力強く答えた。
「任せてくれ。アテネのためなら、全力でやる!」
アイルはわずかに微笑み、その瞳に決意の光を宿す。
「では、これから作戦概要の説明します」
冷たい夜風が、三人の間に新たな覚悟を刻み込んだ。
「わぁぁっ!見て見て、全部白いお家だよ、ほんとに全部が真っ白なんだ!」
「ふ、いつ見ても良いものだな……まさに白い宝石だ」
「風が気持ちいい〜!やっぱりギリシャ最高だね!」
朝の陽光を浴びながら、歩と三人娘は甲板の手すりに身を乗り出していた。
白い壁に青い屋根──どこを切り取っても絵画のような街並みが視界いっぱいに広がっている。
観光3日目。エーゲ海に浮かぶミコノス島。
世界有数のリゾート地として知られるその島へ、一行はナギ所有の大型クルーズ船で朝から向かっていた。
一般の観光客が利用するフェリーとは違い、白亜の船体を誇る豪奢なクルーズ船はまさに「動く別荘」。
甲板には広々としたデッキチェアや日除けのパラソルまで整えられ、吹き抜ける潮風と相まって、非日常の贅沢な時間を演出していた。
「アンタたち、あんまりはしゃぐと落ちるわよ」
呆れたように呟きつつも、ヒナギクもまたその景色に瞳を奪われていた。
その隣で、ナギは帽子を押さえながら、欠伸を噛み殺していた。はしゃぎまくる周囲とは対照的なローテンション。当人曰く、例によって「実家へ帰省中にテンション上がるやつがいるか」とのこと。
陽射しに照らされた海面がきらきらと光り、船はゆるやかに港へと近づいていく。観光気分に浮かれる仲間たちの声が甲板に響き渡る中、ただ一人、ハヤテの表情は曇ったままだった。
手すりにもたれ、視線だけを遠くに向けている。
胸の奥に残る昨夜の光景──アテネの冷ややかな拒絶が、何度も脳裏をよぎって離れない。
「……ハヤテくん?」
心配そうな声が横からかかった。歩だ。
「さっきから元気ないけど、大丈夫?」
気づけば、三人娘もこちらを振り返っていた。
「ハヤテくん、船酔い?」
「それとも寝不足か?」
「まさか、夜中にヒナに襲われちゃったとか?」
「なんで私が襲う側なのよッ」
口々に覗き込まれ、ハヤテははっと我に返った。
「あ、あはは……大丈夫ですよ。ちょっとだけ船酔いしたみたいで。でももう気分は落ち着いてきました!」
わざとらしいほどに笑顔を作り、手を振って見せる。
その笑みに安心したのか、泉たちは「ならいいけど〜」と再び甲板の縁へ駆け戻っていった。
歩も一度は「ほんとに?」と問いかけようとしたが、ハヤテのぎこちない笑顔を見て、結局は小さく頷くだけに留めた。
──心配をかけたくない。
そう思えば思うほど、無理な笑みが張り付いていく。
だが胸の奥の重さは、誤魔化しても消えてはくれなかった。
「お嬢様、そういえば今日アイルさんは?」
「ん?あぁ、急遽予定が入って別行動だそうだ。ま、奴なら特段心配もあるまい」
つまるところ、執事はハヤテ一人ということになる。
(そうだ、何をずっとぼーっとしてるんだ僕!!バカンスとはいえ、僕はお嬢様の執事!今日はアイルさんもいないんだし、しっかりしないと!)
強く首を振ると、強めに両手で頬を叩いて気合を入れる。そんな従者の様子をナギは横目に見るのみで、敢えて声はかけなかった。
石造りの桟橋に足を下ろすと、潮の香りと眩しい白壁の街並みが一行を包んだ。青と白のコントラストは絵画のようで、歩とヒナギクは胸いっぱいに深呼吸する。
「島に到着!なんだか空気が更に美味しい気がしますね!」
「えぇ、ホントね。何より地に足が付いているって本当に素晴らしいわ」
「海の上は良いんだ……」
海の上も不安定で危険なのだが。それは突っ込まないのが彼女の優しさである。
石畳の細い路地を進めば、左右に連なる白壁の家々と、鮮やかな青い扉や窓枠が目に飛び込んでくる。壁に絡みつくブーゲンビリアの花が鮮烈な赤や紫を添えており、どこを切り取っても絵画のようだった。
「わぁ〜……すごい! ほんとに真っ白なお家ばっかり!」
「まるでおとぎ話の舞台みたい!」
歩や泉たちが声を揃えて歓声をあげる。その後ろでヒナギクも「色合いがすごく綺麗」と目を輝かせていた。
「日差しが強いから、壁を白くして熱を反射させてるんだよ。ブーゲンビリアはこの島では育ちやすい」
「はえー。しっかし、ナギちゃんは実家に帰ってきたみたいに冷静だねぇ」
「実際実家みたいなもんだしな」
言うまでもないが、この島にも彼女の別荘がある。むしろアテネ市の別荘よりもミコノス島の別荘の方が彼女が過ごしていた期間は遥かに長い。
「じゃあ、今日の観光も退屈……かな?」
珍しく気をつかうような歩の上目遣いに、ナギは思わず目を逸らした軽く咳払い。
「……ま、まぁ、こうやって賑やかなのもたまには悪くない、とは思うぞ」
「良かったー!ナギちゃんほんとに大感謝だよ!ありがとー!!」
「分かったから引っ付くな!子犬か!!」
微笑ましいゆりゆりに一行はほっこりしつつ。
路地を抜けると、青い海に張り出す木造の建物が立ち並ぶ「リトル・ヴェニス」が現れる。波打ち際に寄り添うように建てられたカフェやレストランは、観光客で賑わっていた。
更に丘を登ると、青空の下で回る風車が見えてくる。白い石造りの円筒に木製の羽根が広がる姿は、島の象徴そのものだった。
「これがかの有名なカト・ミリの風車群だ。元々は小麦を挽くために造られたものだな」
「ナギちゃん、これって今は回らないのかな」
「さぁ、回ってるところは見たことないな……今は回す意味もないし」
骨組みだけの風車は時折風に揺れはするが、海の方に顔を向けたまま静まり返っている。
と、歩がストールをパタパタと風車に向けて扇ぎ始めた。
「……何やってるのだ?」
「いや!こうやって!風を送れば!回るかと!」
「人力でどうこう出来るわけないだろ」
「甘いよナギちゃん!100回叩くと壊れる壁があったとするでしょ?
でもみんな何回叩けば壊れるかわからないから、90回まで来ていても途中であきらめてしまうんだよ!そんなの勿体無い!」
「松⚫︎修造かお前は」
そうツッコミながら、ナギはふと思い出したように空を見上げる。
「そういや昔、母も同じような事をしてたなぁ」
「え、ナギちゃんのお母さんも松⚫︎語録を?」
「違ぇーよ。回らないのが不満でいきなりストールで扇ぎ始めてな」
えい!えい!と必死にストールで真剣に風車を煽ぐナギの母。当時物心がついたばかりのナギはそんな様子を呆れたように眺めながら、こう言い放ったという。
『母よ、それはセイルウィング型といって、帆を張らないといくら風を送っても多分回らないと思うぞ?』
「その時振り返った母の顔と言ったら……」
和やかに思い返すナギだが、一行は何とも言えない表情で顔を見合わせる。
「な、なんていうか……随分と愉快なお母さんだったんだね」
「あぁ、ホントに愉快な母上だったよ」
さて、回らない風車を堪能しつつ、お待ちかねの土産物屋探索である。女子高生たちは最高潮に目を輝かせながら買い物に勤しむことに。
「この猫の置物かわいい〜!」
「ホントね、素敵。あ、こっちのペンダント、歩に似合うんじゃないかしら」
「え!?ホントですか、ヒナさん!」
やはり女の子は買い物が好き。確認。
「ヒナちゃん!ヒナちゃん!このアクセ私に似合うかな?」
「ヒナ!このバングルは私に相応しいと思わないか?」
「ヒナよ!この得体の知れない不気味な置物、生徒会室にピッタリではないか!」
「ちょっ、なんで全部私に聞くのよ!ていうか最後は絶対いらないわよ!」
そんなキャッキャとはしゃぐJKたちを後ろから眺めながら、ナギは肩をすくめる。
「いやー、若者は元気だなぁ」
「アナタが一番若者なんですよ?」
マリアのツッコミもそこそこに。
観光に明け暮れていると、辺りはすっかり朱色に染まり始めていた。
陽はゆっくりと海へ傾き、白い壁の家々を朱に染めていく。石畳の路地には長い影が伸び、昼間の喧噪も次第に落ち着きを見せ始めていた。
観光を堪能した一行は、港近くの広場に集まり、ベンチでひと休みしていた。
「ふぅ〜、いっぱい歩いたね!足が棒だよ〜」
「だが、素晴らしい旅路だった。お土産もたくさん買えたし、悔いはない」
「ま、まだ3日目だけど」
三人娘は袋を抱えて満足げ。歩も微笑みながら相槌を打っていたが、ふと視線を遠くに向けた。
──ハヤテが一人、少し離れた場所に立っていた。
港の灯りが点り始める桟橋の上で、手すりにもたれてじっと海を眺めている。昼間と同じ、どこか曇った表情のまま。
「……ハヤテくん、やっぱり何か元気なさそうだね」
昼間からずっと気になっていた。無理に明るく振る舞ってはいたけれど、やっぱり元気がない。
「そうね。確かに、心ここにあらずって感じ」
「ですわね……何か憂鬱になる事でもあったんでしょうか」
ヒナギクとマリアも同意するように頷く。
ナギもまた、口を挟まないものの、帽子を被り直しながらジッとハヤテの姿を見つめていた。
観光を終えた一行は、港で夕食をとったのち再びクルーズ船に戻っていた。
夜の海は昼間とは全く異なる顔を見せている。甲板から眺めるエーゲ海は漆黒に沈み、遠く島々の灯りが点々と宝石のように浮かんでいた。
「……綺麗だな」
クルーズ船のデッキに立ち、ハヤテはひとり欄干にもたれながら暗い水平線を見つめていた。
港町の明かりが遠ざかり、漆黒の水面には月と星々の光が揺らめいている。けれど、その美しさも彼の心には響いてこなかった。
胸の奥に重く沈んでいるのは、昨夜の記憶。
冷たく拒絶するアテネの姿が、何度も脳裏に蘇る。
「──やっぱり、僕じゃ……」
思わず漏れそうになった言葉を、ハヤテはすぐに飲み込んだ。
そのとき。
「なーに浮かない顔をしてるのかなぁ、ハヤテくん」
不意に背後からかかった声に振り返ると、泉・理沙・美希の三人娘がこちらへ歩み寄ってくるところだった。
「え、あ……いや、別にそんなことは……」
「嘘つけ嘘を。そんな長年連れ添った妻に離婚届を叩きつけられた中年サラリーマンのような表情になってるぞ」
「いやどんな顔ですかそれ」
妙に現実的な指摘に思わず苦笑いしてしまう。だが、それだけ明確に態度を出してしまっていたらしい。
ふと思い返す。そういえば、彼女は白皇学院の理事長と言ってたっけ── ハヤテは夜空を仰ぎ、そしてぽつりと口を開いた。
「……そういえば、皆さん。白皇の理事長に会ったことって、ありますか?」
あまりに唐突な振りに、彼女たちは単純に困惑したように口を開く。
「理事長って、キリカさんの事じゃなくて?」
「はい、あ──天王州さんのことです」
三人娘は再び顔を見合わせる。
「天王州さん、あの若き理事長さまか」
「まぁ知ってるっちゃ知ってるが……」
「有名人だもんねー」
ただなぁ、と美希はミコノスの夜景に目を向ける。
「我々のようなパンピーでは、正直畏れ多くて声もかけられないよ。というか、直接話したこともないわね」
「そんなに、凄いんですか」
「ま、そりゃな……近づくことも躊躇うレベルだよ」
理沙も思案するようにデッキの欄干に背中を預ける。
「正直、白皇が輩出した天才の中でも頭ひとつ飛び抜けた存在だろうな」
「強いし頭も良いし、美人だし。何よりちょー大財閥の天王州家の当主さんだもんね」
雲の上の存在かなー。
泉の言葉に同意するように頷く美希たち。
「ぶっちゃけ財産の規模でいっても、お宅の三千院家と肩を並べるレベルよ、きっと」
「そ、そんなに……」
けど、と美希は小首を傾げる。
「なんだって急に理事長の話を?」
「あ、いえ。その、昨日ちょっとヒナギクさんに聞いて、興味があったというか」
「なんだ、ならヒナに聞けば一番確実だぞ。この学院で理事長さまと直接交流がある数少ない生徒だろうからさ」
数少ないどころか、多分唯一かもしれないな。美希のその言葉にハヤテはやはり、と内心頷いた。
ヒナギクの様子から、彼女がアテネと多少なりとも親しいことはその口調からも察する所があった。
「おっ、噂をすれば……」
理沙が欄干の向こうを指差す。そこには、夜風に髪を揺らしながらデッキに現れたヒナギクの姿があった。
「アナタたち、そろそろアテネの港に着くみたいよ?」
「おー、もうそんな時間かー」
「ホテル着いたら枕投げしよーよ!」
「ふ、枕投げで私に挑もうとは笑止千万」
ヒナギクの呼びかけに、三人娘と軽い返事をして船室の方へ駆けていった。
「あの……ヒナギクさん」
「ん?」
おずおずと口を開くハヤテ。
「その……天王州さんのこと、少し教えていただけませんか?」
「天王州さん?」
そういえば、昨日も彼女の話を少ししたが……彼はその時もただならぬ反応はしていたなと思い返すヒナギク。
「あ、いえ!深い意味とかはなくて!先程花菱さんに聞いたもので、理事長の天王州さんと唯一交流がある生徒は、ヒナギクさんだって」
「唯一って……そんなに大げさなものじゃないってば」
まぁ、確かにあまり生徒と接点がある人じゃないけど。
ヒナギクは少し考えるように視線を落とし、それから欄干に軽く背を預けた。
「私が天王州──アテネさんと知り合ったのは、入学して間もない頃よ。敷地を散策していたときに偶然出会ったの」
「入学……ヒナギクさんは高校からの編入でいらっしゃいましたよね」
「ええ。だからまだ一年ちょっとね。最初はあんな美人な人いるんだなぁって、正直な話理事長だって知らなくて話しかけちゃったんだけど……まぁなんというか、不思議と話が弾んだの。それから少しずつ顔を合わせるようになって、気づけば自然と話す間柄になったというか」
どこか懐かしむように続けるヒナギク。
「理事長って立場だから、周りからは近寄りがたいと思われがちだけど……私が知っているアテネさんは、むしろ気さくな人よ。真面目で、時には意外と冗談も言うし……普通に笑ってくれる」
そこまで言ったところで、ヒナギクはふと首を傾げ、ハヤテの表情をのぞき込む。
「でも、どうして急に彼女のことを?」
「……」
「昨日もそうだけど……もしかして知り合いとか?」
ヒナギクの問いかけに、ハヤテの胸が強く締めつけられた。
言葉を返そうと口を開きかけるが、何をどう説明していいやら。上手い文言が見つからず、喉が塞がったように声が出てこない。
「──って、ごめんなさい。詮索するつもりはなくて、別に話したくなかったら無理しなくても」
「あ、いえ!そんな……僕の方から話を振ったわけですし。何というか、うまく説明するのが難しくて」
訳ありの関係であると言っているようなものである。
「彼女は──昔の知り合いというか……とても、大切な人だったんです」
「え?」
ヒナギクはその言葉に思わず目を瞬かせ、少し驚いたように息を呑む。
大切な友達、ではなく、大切な人。わざわざそう口にするということは本当に特別な存在なのだろう。ハヤテからそんな言葉を聞くのは意外だった。
ハヤテは苦笑いを浮かべながら、曖昧にうなずく。
「その、元カノというか、何というか」
「あ、そういうこと──って、えええ!?」
思わず二、三歩後ずさる。いきなり直球できたから余計に。
「は、ハヤテくん!アテネさんと、付き合ってたの!?」
「あ、でも幼稚園の時ですよ」
「……え?」
彼氏彼女という年齢よりはかなり幼い、まだそんな概念もないくらいの年齢ではないか。
とはいえ、そういう表現をするからには、単に仲が良かったとかその程度の関係では無かったのだろう。
「10年前、僕は色々あって……ほんの一時期ですが、彼女と一緒に暮らしてたんです」
「暮らし……アテネさんの家に」
「はい」
次々と出てくる衝撃の真実に、ただただ話についていくのがやっとな生徒会長。
幼稚園の時の彼氏彼女で、同棲してて──なんて話を聞かされたら彼女でなくても混乱は必至だろうが。
「……僕と彼女が出会ったのは、まだ小さい頃です。家から逃げ出して、行き場もなくさまよっていた時に……偶然、彼女に出会ったんです」
夜の海を見つめたまま、ハヤテの声は少し震えていた。
「当時の僕にとって、彼女は唯一の居場所でした。優しくしてくれて、一緒に笑って……あの時間は、僕にとって本当に宝物だったんです」
ヒナギクは、言葉を挟まずじっと耳を傾ける。
「でも……最後は、僕が裏切るような形になってしまって。本当は、守らなきゃいけなかったのに……何もできなかった。あの時のことが、ずっと胸に残ってるんです」
欄干を握る指先に力がこもる。
「だから、もしまた会えるなら……謝りたい。それから……彼女が笑ってくれるなら、何だってしたいんです」
そこまで言って、ハヤテは自嘲するように小さく笑った。
「──こんなこと、今さら言っても仕方ないんですけどね」
でも。そう言って彼は天を仰ぐ。夜空には彼らの事情も知らずに敷き詰められてた星々が満面の笑みでも浮かべるかのように煌めいている。
「……それは、どうして?」
「昨日、彼女に会ったんです」
ハヤテはまた視線を夜景に戻す。
「本当に偶然10年ぶりに。彼女に会って……どうしても謝りたかったんです。だけど、僕のことを忘れてしまっていたのか。その、無視されてしまって」
「……」
「だから、その……もう何もかも遅かったなぁって」
また力なく笑うハヤテ。
全て合点がいった。今朝からずっと浮かない顔をしていた理由も、心ここにあらずといった雰囲気だった理由も。
何か、何か言わなくては──彼女は必死に言葉を探そうとする。
「って、すみませんこんな話。忘れてください。もう終わった話なので」
「待って!」
戻りましょうか。そう踵を返したハヤテを呼び止める。
「明日──少しだけ、私に時間をくれない?」
「え?」
「その、今は難しいけど……私からも、話しておきたい事があるの」
イマイチ要領を得ないハヤテだったが、真剣な彼女の表情に頷いて返した。また連絡するから、そう言ってその場を離れた彼女は、すぐに携帯端末を取り出す。
チャットアプリを開くと、宛先の欄から目当ての人物のチャットへと移動する。
『夜分にごめんなさい。明日、なるべく早い時間にお会いできませんか?出来れば、二人だけでお話したい事があります』
素早くメッセージを入力して送信。30秒も経たないうちに、返信が返ってきた。
『承知致しました。では、明日の7時に別荘近くの高台で、お待ちしております』
ヒナギクはその相手──アイルにお礼のチャットを送ると、そのまま遠ざかるミコノスの街並みに目を向ける。
彼女の中に生まれた妙な胸騒ぎ。ざわつく胸中とは裏腹に、エーゲ海上に浮かび上がるその島は、見惚れるほど幻想的だった。
アテネ編は原作でもあったビーチバレーとか楽しいイベントをもっと盛り込む予定だったのですが、本筋(ハヤテとアテネの物語)を優先するために泣く泣くカットに……せっかく書いてはいるので、番外編とかでやりたいと思います。
また気が早すぎますが、アテネ編が終わったあと、ヒナギクさんに降りかかる呪いの話も、既に書いてしまってます。今回は〝ロバ耳〟ではないですが笑
そんな日常のドタバタコメディも早くやりたいので、アテネ編は気合い入れて駆け抜けていきます。引き続きよろしくお願いします!
物語の終わり方について
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エンディングは一つのみが好ましい
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各ヒロインのルート分岐などがあっても良い
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どうでもいい