アテネちゃんの執事!   作:通行人A'

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Task92:Villa

 

 夜の帳がアテネの街を包み、ホテルの灯が一つ、また一つと消えていく。その静寂の中で、ハヤテは静かに市内を歩いていた。黒い執事服の襟を整え、白手袋をはめる手には、微かに緊張の色がある。

 

 アテネを救うために、そして自分の罪に決着をつけるために。

 鏡越しに見える自分の姿に、ハヤテは小さく息を吐いた。

 

「……僕は、三千院ナギお嬢様の執事だ。」

 

 それは誓い。脳裏に浮かぶのは、昨夜のナギの言葉。

 

「だから、今は何も聞かない。お前が決めたことを、最後までやれ。そして笑顔で、皆で日本に帰る。ちゃんと輪の中に入ってな」

 

 あの小さな背中に、どれだけ救われただろう。

 ――だからこそ、もう迷わない。

 

「彼女を助けて……必ず帰ります」

 

 夜風がカーテンを揺らし、月光が静かに彼を照らす。

 伊澄の別荘の前に着くと、その木造の門を見上げる。ハヤテはネクタイを締め直し、襟を正した。

 

 

 門をくぐった瞬間、空気が変わった。

 石畳の上に夜露の匂い、灯籠の明かりはやわらかいのに、影だけが濃い。伊澄邸はいつも清浄だが、今夜はさらに張り詰めている。

 

 応接間。障子越しの明かりが、円卓の縁を白く縁取る。

 伊澄たちは静かに座り、彼を待っていた。深呼吸をひとつ置いてから、一歩、また一歩と彼女たちの元へ踏み出す。胸元には三千院家の徽章。瞳に躊躇はない。

 

「結論は、出ましたか?」

 

 言葉より早く、ハヤテは懐から“欠けた石”を取り出す。

 掌で受けると、伊澄は眉根を寄せた。砕けた王玉の破片が、灯りを受けて鈍く光る。

 

「――壊したのですね、王玉を」

「はい。僕の答えです」

 

 伊澄は短く目を伏せ、頷く。

 

「……ハヤテ様の意志、確かに受け取りました」

 

 その声に重なるように、応接間にいた咲夜やヒナギクも立ち上がり、中庭へと降りてきた。

 

「ほんまに……壊したんか、ハヤテ兄」

「……はい。これしかありませんでした」

 

 言葉とは裏腹に、妙に落ち着いた様子でハヤテは返す。

 

「……そっか。じゃあ――」 

 

 ヒナギクが息を吸い込み、まっすぐに言い切る。

 

「ここからが本番ね」

 

 その言葉に全員が頷く。アイルもまた何も言わず、ただ静かにハヤテに向けて頷いてみせる。

 しかし、一行が屋敷を出たちょうどその時だった。

 

 後方から荒い息と慌ただしい足音が響いた。四人が振り返ると、ひとりの小さな影がヨロヨロとこちらに向かって来る。

 

「あれって……」

「マキナくん!?」 

 

 アテネの屋敷にいたはずのマキナだ。

 今にも倒れそうなその身体を、アイルが即座に駆け寄って抱きとめた。

 

「何があった?お嬢様は――」

 

 マキナは荒い息のまま、震える声で言葉を搾り出す。

 

「アテネが……突然暴走して……ヨゾラが……必死で止めてるけど……」

 

 小さな手が、アイルの服をぎゅっと掴んだ。

 アイルはその頭を軽く撫で、静かに息を吐く。

 

「ありがとう、よく伝えてくれたな」

 

 そして顔を上げ、咲夜の方へ向き直る。

 

「咲夜さん、すみません。彼をお願いできますか? 私たちはすぐに向かわねばなりません」

「ま、ウチは伊澄さんたちみたいな力はあらへんからな」

 

 咲夜が肩を竦めながら苦笑する。そんな彼女にアイルは柔らかな微笑を浮かべて言った。

 

「咲夜さんのように、細かい気遣いや相手を思いやることが得意な方にしかお願いできませんから」

「……自分、褒めるの上手いなぁ。ま、任せとき!」

 

 咲夜は笑い、そっとマキナの頭を撫でた。

 

「さぁ、後はお姉さんに任せとき。みんなを信じて待っとような」

「うぅ……俺も……アテネを助けに……」

「はいはい。今はゆっくり休んで、美味しいモン食って待つのが一番や」

「うぅ……ハンバーガー……ハンバーガーがあれば……」

「なんや元気そうやな」

 

 ため息をつくと咲夜は腕まくりをして軽くウインクを一つ。

 

「しゃーない。お姉ちゃんがとびっきり美味いハンバーガー食わせてやるさかい。大人しく待つんやで?」

「……は、はい!」

 

 その日、マキナはとびきり力強い返事をしたのだった。

 

 

 

 

 その屋敷は、まるで夜そのものを閉じ込めたように静まり返っていた。

 門の前に立った瞬間、空気が変わる。風が止み、月明かりの色までもが僅かに褪せていく。

 

 ヒナギクは思わず足を止めた。

 

「……何、この空気……」

 

 息を吸い込むだけで、胸の奥がざわつくような感覚。冷たいわけではないのに、肌の内側を誰かの指でなぞられるような感覚があった。

 伊澄は静かに目を細め、屋敷全体を見上げた。彼女の瞳には、淡い蒼光の膜がゆらゆらと揺れているのが見える。

 

「……結界です。どうやら、屋敷全体が包まれているようです」

 

「結界……?」とハヤテが問い返すと、伊澄は静かに頷いた。

 

「この規模で張られるものは、外敵を拒むための防御のように使われることがほとんどです。理事長さんが意図的に張った可能性もありますが、理事長さん以外の何者かが作り出した可能性もある」

 

 ──理事長さんに、私達を近づけさせない為に。

 

 アイルが一歩、前へ出る。結界に触れた瞬間、指先に微かな抵抗が走った。見えない膜が、水面のように揺れる。だが、さらに手を押し込もうとしても固まったようにして動かない。まるで見えない壁がそこにあるかのように。

 

「……力が抑えきれなくなっている」

「はい。もう暴走し始めてると考えて間違いないでしょう」

 

 伊澄はハヤテたちを見回す。

 

「中に侵入すること自体は私の力があれば可能です。しかし、皆様の身の安全までは保証できません。結界の影響も未知数ですし、中にいる理事長さんの容態も分かりません。もし、引き返したい方は──」

「構いません。僕は行きます、今行かなければ一生後悔し続ける」

 

 ハヤテは被せるようにそう言うと、力強く拳を握りしめた。ヒナギクもまた、じっと屋敷を見つめていたが、やがて小さく首を振った。

 

「そうね、元々安全だなんて思ってないわ」

 

 その言葉に一同は黙って頷き、屋敷の門を見据えた。

 

「それでは私の後に付いてきてください。鷺ノ宮家に代々伝わる宝具『結界版CANインベーダー』を使って一時的に結界に穴を開けますので」

「ねぇそれ、色んな意味で法律的に大丈夫なやつ? 捕まらないわよね」

 

 伊澄は胸元の小さな銀色のケースを取り出し、結界にかざしてみせた。ピコピコという電子音とともに、結界の表面に光のドットが並び、やがて「GAME START」の文字が淡く浮かび上がった。

 次の瞬間、「ピコーン!」という間抜けな電子音とともに空間の一点が破れ、小さな穴がぽっかりと開く。

 

「……開きました。今のうちにどうぞ」

 

 伊澄の言葉に、ハヤテたちは顔を見合わせ、小さく息を整える。

 アイルが一歩前に出て先頭を歩き、ヒナギク、ハヤテ、伊澄の順にその光の穴をくぐる。

 膜のような光が背後で静かに閉じ、夜の音が遠のいていった。

 

  扉を押し開けた瞬間、一行は思わず息を呑んだ。

 かつての優雅な屋敷の面影は、そこにはもうなかった。

 

 床の大理石は蜘蛛の巣のようにひび割れ、壁の装飾は無惨に砕け落ちている。赤い絨毯には焦げ跡と黒ずんだ染み。崩れた柱の破片があちこちに転がり、まるで巨大な獣が暴れた後のようだ。

 

「……ここ、本当にアテネさんの屋敷なの?」

「そのはずですが……これは」

 

 ヒナギクたちは小さく息を飲みながら、慎重に変わり果てたエントランスホールを見回す。

 屋敷の空気は外よりもさらに重く、息を吸うたびに肺の奥が冷たく締めつけられるようだった。

 伊澄がそっと指先を掲げると、微細な光の粒が空気中を漂い、彼女の手の周りにまとわりつく。

 

「……やはり強力な霊的干渉があるようです。信じがたい力で、主の精神と同調して、屋敷全体が変質しています」

 

 ヒナギクは眉をひそめる。

 

「つまり……アテネさん自身が、こんなふうにしてしまったってこと?」

「……分かりません。ご本人に会わなければ」

 

 ハヤテはぎゅっとズボンの端を握りしめた。一刻の猶予もないどころか、もしかしたらもう取り返しのつかない事態にまで及んでしまっているのではないか。

 

 やがて一行はエントランスホールへと足を踏み入れる。

 高い天井から吊るされていたはずのシャンデリアは床に落ち、粉々に砕け散っている。

 燭台は倒れ、壁の鏡は全てひび割れ、まるで屋敷そのものが苦しみの叫びを上げているようだった。

 

 

 階段を下り、ホールの奥へと足を進めると――

 崩れた柱の影の中に、何かが横たわっていた。

 倒れた家具の隙間から、白い“足”がのぞいている。

 

「……あれ……アーたんじゃ……!」

 ハヤテが息を呑み、駆け出しかけた。

 

 その腕をアイルがすっと掴み、静かに制止する。

「待ってください。罠の可能性もあります」

 

 その低く落ち着いた声に、ハヤテの動きが止まる。

 アイルは静かに周囲を見渡し、足元の瓦礫をひとつ拾い上げた。

 軽く手のひらで重さを確かめると、それを影の中へ投げ込む。

 

 ――乾いた音。何も反応はない。

 

 次にアイルは腰のベルトから小ぶりのナイフを抜き取り、倒れた家具の脚を軽く突く。崩れかけた木片がずれるだけで、仕掛けや反応は見られなかった。

 

 彼は一度だけ頷くと、低く声を落とした。

 

「大丈夫です。気配はありません」

 

 ヒナギクとハヤテが頷き、三人で近づく。

 そこに倒れていたのは――ヨゾラだった。

 

 翡翠色の髪が床に広がり、メイド服は裂け、腕や頬に無数の傷。肋骨の辺りが不自然に歪み、口元から血が滲んでいる。

 

「ヨゾラさん……!」 

 

 ハヤテ達が急いで駆け寄ると、ヨゾラのまぶたが微かに震えた。

 

「先輩……皆様、も」 

 

 掠れた声が漏れる。アイルは膝をつき、彼女の体を支えた。

 

「喋らないでください。今は安静に」

 

 ヨゾラは苦しげに息をしながらも、唇にかすかな笑みを浮かべる。

 

「アテネ様が……突然、苦しみ出して……屋敷の中に……怪物が。マキナくんだけでも……皆様の元に」

 

 言葉が途切れ、咳がこみ上げる。アイルは静かに頷いた。

 

「ありがとう。もう喋らなくていい」

「ふふ、先輩の……そういう言い方……ずるいですよ……」

 

 冗談めかす声が掠れながらも、無理に口元を緩めてみせるヨゾラ。しかしすぐに目を細めて、ハヤテたちを見上げる。

 

「皆様、早くこの場から……離れて。まだ、怪物が……」

 

 刹那── 奥の闇で、鈍い音が響いた。

 全員が一斉に振り向く。

 闇の中から、巨大な牛の頭部と黒光りする筋肉が姿を現す。

 

 2メートルは裕に超えるその怪物。さながら、古の時代に迷宮に封じられた忌み子。人と獣の血を併せ持ち、怒りと孤独だけを糧に生きた存在。後にその怪物は、人々からこう呼ばれた──ミノタウロス、と。

 

 

 危機本能が警告するよりも早く、響き渡る咆哮が地面を鳴動させる。血に濡れた斧を引きずり、鉄と瓦礫が鈍く軋む。その足音が響くたびに、古びた石壁がびりびりと震えた。

 闇の奥で赤く光る瞳が、侵入者たちを確かに捉えている。

 

 

 その姿を見た瞬間、誰よりも早く前に出たのはヒナギクだった。

 

 「下がってください!」

 

 鋭く言い放ち、木刀を構えてアイルたちの前に立つ。

 闇の中でも迷いのない動き。全身を覆う殺気を正面から受け止めながらも、ヒナギクの瞳には一切の怯えがなかった。

 

 「アイルさん、ヨゾラさんを安全な場所へ!」

 

 続けてハヤテも前に出る。 声に力がこもる。

 アイルが何かを言いかけるより早く、ハヤテが彼女の隣に並んだ。

 

 「ここは僕たちで何とかします。アイルさんは、お願いします!」

 

 真っ直ぐな視線。

 アイルは一瞬だけ迷うように視線を泳がせたが、腕の中で苦しそうに息をするヨゾラを見て、小さく息を吐いた。

 

 「……分かりました。くれぐれも、無茶はしないでください」

 

 静かな声とともに、アイルはヨゾラを抱きかかえたまま踵を返す。

 足音も立てず、崩れた柱の影を抜けて奥へと消えていった。

 

 残されたのは、ヒナギク、ハヤテ、そして伊澄の三人。

 ミノタウロスが低く唸り声を上げ、斧を構え直す。

 

 「……どうなってるのかしらね、この屋敷」

 「本当に……どこのRPGだよって感じですよね」

 

 ヒナギクは木刀を正眼に構え、ハヤテもまた視線を逸らさずに怪物の両眼を睨み返す。

 

 「さっさと片づけましょう。こんな所で足止めされるわけにはいきません」

 伊澄が静かにお札を構え、淡い光が指先を包む。

 

 次の瞬間、空気が張り詰めた。

 斧が、唸りを上げて振り下ろされる。

 ヒナギクとハヤテが同時に地を蹴り、閃光のように前へ飛び出した。

 

 

 屋敷の外、崩れかけた庭園に夜風が冷たく吹き抜けていた。

 アイルはヨゾラの身体を抱え、瓦礫を踏み越えてようやく安全な場所まで辿り着く。

 地面に膝をつき、慎重に彼女を横たえた。

 

 「ここなら、ひとまず大丈夫でしょう」

 

 低く呟きながら、アイルは彼女の顔を覗き込む。

 翡翠色の髪は血と埃にまみれ、頬には細かな傷が刻まれていた。

 呼吸は浅く、胸の上下が頼りなく震えている。

 

 「……先輩」

 

 かすれた声が唇の隙間から漏れる。

 アイルはその声に反応し、静かに答えた。 

 

 「動かないでください。肋骨も数本、折れていますね」  

 

 手近な布を裂き、丁寧にそれでいて迅速に応急処置を施す。

 

 「こんな目に遭わせてしまって、すみません。無理矢理巻き込んでしまった、私の責任です」

 

 その声には怒りも嘆きもなく、静かな後悔と誠意が滲んでいた。

 ヨゾラはうっすらと目を開け、かすかに首を横に振る。 

 

 「謝らないでください。あたしが勝手にやったことです」

 

 そして、ほんの僅かに唇の端を持ち上げた。

 

「ですが、今回は結構身体を張ったので……先輩からの功労章の一つでも、欲しい所ですね」

「勿論です、何なりと」

 

 苦しげな表情ながら、いつものように軽口を叩くメイドに、アイルは少しだけ安堵したように口元を緩める。

 

「では……ネズミーランド」

「はい?」

「世間一般、私くらいの年齢の子女は、某夢の国でカチューシャとチュロスを片手に青春を謳歌すると聞きました」

 

 どこからそんな知識を仕入れてきたのか、はさておき。

 

「今回の功労賞は、ネズミーランドを奢って貰うことで手を打ちましょう。出来れば、アテネお嬢様やマキナくんも……一緒に」

 

 アイルは目を細め、徐に頷いてみせる。

 

「分かりました。約束します。ヨゾラさんが回復したら、皆さんで思い切り遊びましょう」

「約束、ですよ」 

 

 ──言質は、取りましたから。

 

 そう言うと、懐からICレコーダーを一つ。しっかり録音ボタンが押してある。全く、いつの間にそんなものまで仕込んでいたのか。メイドのぬかりなさは完璧である。

 

 そのまま、ヨゾラの手は地面に落ち、瞼がゆっくりと閉じていく。風が吹き抜け、彼女の髪を撫でる。

 

 アイルは静かに立ち上がり、内ポケットから携帯端末を取り出し、短く通信を入れた。

 しばらくして、遠くの闇を切り裂くようにサーチライトが差し込んだ。

 風圧とともに、白いヘリコプターがゆっくりと降下してくる。ドアが開き、救急隊が駆け寄ってきた。

 彼はヨゾラの身体を抱き上げると、運ばれてきた担架にそっと寝かせる。

 

 救急隊に混ざり、マントを羽織り、仮面をつけた男もヘリの中から姿を現した。

 

「安心してくれ。セレネ嬢の関係先の病院で手厚く治療をしてもらえる。この程度の怪我なら、すぐに元気になるさ」

「助かりました、姫神さん」

「乗り掛かった船だよ、まぁ我々の提案についても前向きに考えて貰えると助かるが」

「えぇ……分かってます」

 

 アイルは男に会釈すると、運ばれていく担架をしばらく見つめたあと、漆黒に沈む屋敷へと目を向け直すのだった。

 

 

 

物語の終わり方について

  • エンディングは一つのみが好ましい
  • 各ヒロインのルート分岐などがあっても良い
  • どうでもいい
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