洞窟全体を震わせる咆哮が、空気を裂いた。
その巨体が一歩踏み出すたびに、床の岩盤がひび割れ、砂塵が巻き上がる。
伊澄の足元で六芒星の魔法陣が展開され、金色の線が地を這うように走った。
光は瞬時にミノタウロスの足元を絡め取り、巨大な蹄を縫い留める。
結界が軋みを上げながら耐え、巨体の動きを鈍らせた。
その隙を逃さず、ヒナギクが踏み込む。
風が裂け、刃が閃く。
次の瞬間、鋼鉄のような右腕が宙を舞い、魔力の蒸気が噴き出した。
白い靄が辺りを覆い、視界が一瞬霞む。
そして――ハヤテの影が閃光のように走った。
踏み込み、跳躍、全身の重みを一点に集中させる。
踵が眉間を正確に撃ち抜いた。
鈍い衝撃音が響く。
巨体が揺らぎ、膝を折る。
轟音と共に崩れ落ちた瞬間、全身から溢れ出す光の粒が、静かに宙へと散った。
静寂が戻った。
崩れた瓦礫の隙間から、淡い光の粒が漂いながら消えていく。
誰も声を出さない。
ただ、短く息を整え、互いの無事を確かめるように目を合わせた。
ヒナギクが刃についた黒い血を軽く振り払う。
ハヤテは一度だけ頷き、前を向く。
伊澄は光陣を解除し、静かに指先を下ろした。
足音だけが、石畳を叩く。
彼らは振り返らず、ただまっすぐ奥の闇へと進んでいった。
瓦礫を越え、崩れた通路を抜けると、空気の質が変わった。
湿った岩肌の匂いが薄れ、代わりに冷たい風が肌を撫でる。
まるで別の空間へと踏み込んだかのようだった。
進む先に、ひときわ大きな扉が見えた。
両開きのそれは、重厚な金属と白大理石を組み合わせた造りで、
表面には古代神話を思わせるレリーフが刻まれている。
女神と蛇、そして王冠――意味深な意匠が月光に照らされ、淡く輝いていた。
扉の前は小さなホールになっており、赤い絨毯がまっすぐに敷かれている。
壁際には倒れた燭台が散らばり、今はただ静寂だけが支配していた。
伊澄が足を止めた。
その瞳が、扉の向こうをじっと見据える。
「恐らく……この先です」
声は低く、しかし確信に満ちていた。
この奥に、明らかに異質な気配がある。
それは生者のものでも、完全な死のものでもない――歪んだ力の脈動だった。
ハヤテは拳を握り、息を整える。
ヒナギクは無言で頷き、竹刀を握り直した。
視線が交わる。
誰も言葉を発さないまま、ハヤテがゆっくりと両扉に手をかける。
重い音が響いた。
金属と石が軋む音が、静寂を切り裂く。
重厚な扉が音を立てて開くと、そこは異様なほど整然とした空間だった。
半円形に広がる大理石のホール。高く伸びる天井には巨大な時計機構が組み込まれ、
無数の歯車が静かに回転している。
まるで時間そのものが、この部屋で支配されているかのようだった。
中央に立つ少女が一人。
黒のドレスに銀の髪、透き通るような瞳――アテネ。
その姿を見た瞬間、空気が張りつめる。
ハヤテも、ヒナギクも、伊澄も言葉を失った。
アテネはゆっくりと顔を上げ、静かに口を開く。
「わざわざ……石を持ってきてくれて、ありがとう」
その声には微笑が浮かんでいたが、どこか遠い。
人の温度を感じさせない、氷のような響きだった。
ハヤテの喉がわずかに動く。
「アーたん……」と、その言葉がかすかに漏れた瞬間、アテネの表情がほんの僅かだけ動いた。
だが、すぐにその瞳は冷たく閉ざされる。
「その呼び方……言っても無駄ね」
言葉と同時に、背後の空気が震える。
微細な魔力の粒が舞い、空間がきしむような音を立てた。
ヒナギクが前に出ようとしたが、伊澄がわずかに手を上げて制した。
「……気をつけてください。あれは、もう普通の力じゃありません」
アテネの指先がゆるやかに動く。
その動きに呼応するように、ホールの奥で光が瞬き、何かの術式が起動した。
誰もまだ言葉を交わせない。
ただ、三人の視線と、ひとりの少女の冷たい微笑が、静かに交錯していた。
冷たい空気が静まり返る広間。高い天井から垂れ下がるシャンデリアの光が、硬質な床を鈍く照らす。
アテネの銀髪が、微かに風もないのに揺れた。
ハヤテは一歩、前に出た。背後でヒナギクと伊澄が息を詰める。
「……僕は、君と戦いに来たんじゃない。」
短く、しかし確かな声。アテネはその言葉にわずかに眉を動かす。
「そう?」
柔らかな微笑を浮かべながらも、瞳には氷のような冷たさが宿っている。
「だったら――その王玉を、渡してくれる?」
ハヤテは言葉を失い、静かに首を横に振った。
「それは……できないよ。」
ヒナギクが思わず前に出かけるが、伊澄が手で制した。ハヤテは俯いたまま、言葉を続ける。
「だって王玉は――」
「勘違いしないで。私は別にあなたに“渡してほしい”なんて、頼んでいないわ。」
「……え?」
瞳の奥は黒く塗りつぶされた。
「渡せと――命じているの。」
その瞬間、アテネの表情から一切の温度が消えた。
「――っ!?」
ハヤテが息を呑むより早く、銀の軌跡が一直線に迫る。反射的に身を引いたその頬を、冷たい風が切り裂いた。まるで音より速い剣閃。
そのままハヤテの首めがけた横払いの第二撃が迫る。
「ハヤテくんッ!!」
金属音を響かせてアテネの剣を受け止めたのは、ヒナギクの木刀だった。
空気が一瞬、震えた。
アテネの剣が閃いた次の瞬間、ヒナギクの足元に目に見えぬ圧が叩きつけられ、体勢を崩す。
「なっ――!?」
見えない力が風のように全身を襲い、ヒナギクは一気に後方へ弾かれた。
壁を蹴って体を立て直す間にも、アテネは既に次の標的へと視線を移していた。
「――ハヤテ!」
アテネの剣が音を置き去りにして突き出される。
ハヤテは咄嗟に落ちていた剣を拾い上げ、その一撃を受け止めた。
火花が散り、金属音が空間を裂く。
だが一合で、力の差は明らかだった。
骨の軋むような衝撃が全身を貫き、防御の体勢が崩れる。
その瞬間、アテネの脚が閃いた。
風切り音と共に、鋭い蹴りがハヤテの腹部を撃ち抜く。
「――ぐっ!」
息が詰まり、ハヤテは膝を折って床に崩れ落ちた。
アテネは冷たい瞳で見下ろすと、剣を振り上げ――
「させないっ!」
ヒナギクの木刀が、空気を切り裂いて飛ぶ。槍のように放たれた一撃はアテネの剣を弾き、金属音を響かせた。
「……っち」
わずかに眉をひそめたアテネの前に、伊澄が詠唱を終えて護符を数枚投げ放つ。空中で符が輝き、連なる術式が炎の輪を描いた。
炎が爆ぜ、アテネを包み込もうとする。
だが、アテネは軽く腕を振っただけで――それを、霧のように吹き飛ばした。
「くっ……!」
護符が焼け散る。その反動で伊澄の足元に風圧が炸裂し、衣がはためいた。
アテネへと突進していたヒナギクは、
宙を回転していた木刀を飛び上がって掴むと、落下の勢いを乗せてアテネへ叩きつけた。
「せぇっ!」
だが――その一撃も、アテネは片手の剣で容易く受け止める。
「全く……人様の家に不法侵入して、挙句家主に襲いかかるなんて」
ギリギリとした鍔迫り合いの中で、静かな声が響いた。
「前世は強盗の類なのかしら?」
「悪かったわねっ」
ヒナギクも負けじと歯を食いしばる。
「こっちの方がわかりやすいかと思って!」
アテネは軽くため息をついた。
「哀しいわ。親友とこんな風に斬り合わないといけないなんて」
「〝アナタ〟と親友になった覚えはないわ!」
ヒナギクが目を細める視線の先にはアテネ──の先にある、何者かに向けられているような気がした。
「私の親友は、アナタが乗っ取ろうとしてる“本物”のアテネさんよ!」
アテネの瞳が、冷ややかに細まる。
「そう……そこまで分かってるのなら」
低く、冷たい声。
「もう邪魔なだけだ」
言葉と同時に、空間が揺れた。ヒナギクの背後――闇の中から、巨大な骨の手が這い出てくる。
「な――!」
咄嗟に振り向いたヒナギクの前に、伊澄が跳び出した。
「生徒会長さんっ!」
両手で符を展開し、光の盾を顕現させる。だが――次の瞬間、その盾は粉々に砕かれた。
「こんなにも力がッ」
伊澄は悲鳴を上げる間もなく、骨の腕に捕まり宙へと持ち上げられる。
「伊澄さん!」
その隙を狙うように、もう一本の骨の手が背後から伸び、彼女の体を絡め取った。逃れる間もなく、強靭な指が体を締め上げる。
「ごめんなさいね、二人とも」
アテネは冷笑を浮かべ、ゆっくりと歩み寄る。
「これは私と――そこの執事の問題なの。観客席から、静かに鑑賞しておいてくださるかしら?」
ヒナギクは木刀を振り上げ、骨の腕を叩く。しかし、びくともしない。
伊澄も術式を展開しようとするが、腕ごと体を掴まれ、動けない。
骨の指の軋む音だけが、静まり返った広間に響いていた。
アテネは、静かに剣を下ろした。
背後では、巨大な骨の腕がヒナギクと伊澄をしっかりと捕えたまま、微動だにしない。
「さぁ、ハヤテ」
冷えた声が、空気を切り裂く。
「寝てる暇なんてありませんわ。――早く石を渡しなさい」
その声音には、慈悲のような響きが混じっていた。だが、それは確かに“命令”だった。
「あなたの選択次第では、後ろの二人が……これ以上傷つかずに済むかもしれませんわよ?」
ハヤテは歯を食いしばる。
視線の先には、苦しげに締め付けられるヒナギクと伊澄。
けれど――彼の手の中には、もう“渡す石”など存在しなかった。
静かに、首を横に振る。
アテネの瞳が、わずかに細められた。
「強情ね……二人よりも、その石の方があなたにとって大事だというの?」
「違う!」
ハヤテは声を荒げる。
「どうして……どうしてそこまで、石を欲しがるんだ!?」
アテネの表情が、一瞬だけ揺れた。
けれど、すぐにその瞳は氷のように閉ざされる。
「……そんなこと、お前には関係ない」
ハヤテは、息を呑み――叫んだ。
「君は、君はあの城から……!」
「――!」
アテネの肩が、ぴくりと震える。
「君はあの、時間が止まったような城から逃げ出したかったんじゃないのか!?」
空気が、張り詰めた。アテネの唇が、わずかに震えた。
「……城から……出たい?」
その声は、どこか戸惑いを含んでいた。
「そうさ!ずっと寂しくて、辛くて――一人ぼっちが嫌だったんじゃないのか!!」
「一人……?」
アテネの胸が小さく波打つ。何かが心の奥で、軋む音を立てた。
ハヤテは一歩、前へ出る。
「それなのに! どうして、どうして“城に戻るための石”なんて必要なんだよ!!」
「……うるさい……」
アテネの指が震え、剣を強く握りしめる。
「うるさい、うるさいうるさい!!!」
悲鳴にも似た叫びが、広間に響いた。床の大理石がひび割れ、冷気が一気に吹き荒れる。
ハヤテの言葉が、アテネの中の何かを確実に揺さぶっていた。
「……あの時の私は――」
アテネの唇がかすかに動く。
「城を出ることなんて、許されなかった。誰も、私を……」
言葉を途中で飲み込み、再びその瞳に冷たい光を宿す。
「今、僕たちは――一緒に城の“外”にいるんだ!!」
アテネの瞳が、大きく見開かれる。その光景が、まるで心の奥に刺さるようだった。
ハヤテの言葉が、静かな空気を裂いた。
「もう……君は城に戻る必要なんてないんだ」
その声に、アテネの肩が小さく揺れる。
だが、次の瞬間、彼女はこめかみを押さえ、苦しげにうずくまった。
「……違う……まだ……確かめなければ……」
掠れた声が漏れる。
その瞳の奥には、明らかに彼女自身ではない何かの気配があった。
「石が……必要なの……あれがないと……私は」
脳内で、誰かの囁きが増幅していく。
取リ戻セ 石ヲ 全テヲ
その声に抗うように、アテネは両手で頭を抱えた。
「アーたん……!」
ハヤテは彼女の元に近づくと、そっと首にかかっていたペンダントを差し出してみせる。
「石は――もう、ないよ」
ハヤテの声が、闇の中で静かに響く。
手の中の紐には、砕けた王玉の破片が光を失ってぶら下がっていた。
「君を救うために、壊したんだ」
その言葉に、アテネの表情が凍る。
「……壊した……?」
震える唇から漏れた言葉が、やがて狂気に染まる。
ワタシノ イシヲ
「え?」
目の奥に紅い光が灯り、アテネの全身が脈動した。
大事ナ私ノ石ヲ……ヨクモ……
床が割れ、空気が震える。圧力のような気配が、辺りを包み込む。
「いや、違うっ! アーたん!!」
ハヤテの叫びは届かない。頭を押さえ、苦しむ彼女の背後で――何かが動いた。
「逃げて……ハヤテ……!!」
それが、アテネの最後の理性だった。
次の瞬間、闇が爆ぜた。
無数の黒い刃がハヤテの身体を貫き、血飛沫が舞う。
吹き飛ばされ、床に叩きつけられたハヤテの視界が滲む。
痛みの中で、見上げる。
そこにあったのは――。
崩れ落ちる天井を背に、漆黒の巨影が立ち上がる姿。
白骨の角、翼のような腕、底知れぬ闇の瞳――そして胸元の心臓部、中心には、まるで取り込まれたように沈みゆくアテネの姿があった。
『許さんぞ 小僧』
地を揺るがす咆哮。
その姿は神話の英霊というよりは、あまりにも醜く、あまりにも邪悪な、悪魔そのものだった。
物語の終わり方について
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エンディングは一つのみが好ましい
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各ヒロインのルート分岐などがあっても良い
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どうでもいい