砕けた石片が宙を舞い、崩れゆく天井から光が差し込んだ。
その光を飲み込むように、闇が、形を持つ。
吹き飛ばされ、瓦礫に埋もれたハヤテは、霞む視界を必死に持ち上げた。見上げたその先――。
黒。ただ、黒。
闇そのものが意思を得て、骸骨の形をとったかのような巨影が、立っていた。
白骨の角。翼のように広がる腕。深淵の底に沈んだ瞳。
その胸の中心、脈動する黒い結晶の中には――アテネがいた。光を失い、まるで心臓に取り込まれたように沈みゆく姿。
“女神”の名を持つその
「アーたん……」
ハヤテの唇が震えた。声にならない声。それでもその名を呼ぶことだけは、やめられなかった。
地鳴りが響く。空間が歪む。耳をつんざく咆哮が、あらゆる理を吹き飛ばした。
『許さんぞ……小僧……』
闇が世界を飲み込み、すべてが悲鳴を上げる。何が起こっているのか。何が起きてしまったのか。
拘束された仲間たちの姿が視界に映る。伊澄もヒナギクも、英霊の両腕に捕えられ、まるで生贄のように動けない。
「内部からの理合が……崩壊しています……」
苦しげな息の中で、伊澄が静かに言葉を紡ぐ。
「“英霊”としての形を維持できず、外部の存在――理事長さん――を無理やり取り込むことで自己を保とうとしているんです……このままでは、もう」
要するに、失敗したということなのか。怪物の心臓部に磔にされるようにして沈んでいるアテネを見つめながら……拳を握る力さえ入らない。
――そのときだった。砕けた扉の向こうから、微かな靴音が響いた。
荒れ果てた広間の空気を裂くように、その足音だけがまっすぐに進んでくる。風が流れ、舞い上がった埃の中に影が一つ、ゆっくりと形を結んだ。
黒の執事服。くすんだ赤が混じる黒髪が、揺れる光の中で鈍くきらめく。背筋を伸ばしたその姿は、混沌の只中にありながら一点の曇りもなかった。
アイルだった。
扉を抜けた瞬間、視界に広がった惨状を見て、全てを理解する。瓦礫の山。倒れ伏すハヤテ。そして――両腕に捕えられ、身動きの取れないヒナギクと伊澄。
その全てを、わずか数秒で見て取る。巨影の胸奥に沈むアテネの姿を見た瞬間――彼の瞳に、わずかな苦痛の色が走った。
――最悪の形だ。
英霊が崩壊し、宿主を核として再構成を始めている。結末が何を意味するか、アイルには痛いほどわかっていた。ほんの一瞬、表情が歪む。だがその陰りは、すぐに消える。
「綾崎くん……!」
瓦礫を踏み越え、倒れているハヤテのもとへ駆け寄る。すると、英霊の胸奥、黒い結晶の中心で沈んでいたアテネの身体が、淡い光を帯びた。皆、その異変に吸い寄せられるように視線を向ける。結晶の奥で、アテネがゆっくりと瞼を開いた。
「アーたん……!」
震える声が漏れる。音にはなっていないはずなのに、アテネの言葉ははっきり聞こえた。
『……聞いて、ハヤテ』
弱々しい声。それでも揺るぎない意志が宿る声。
『今から……私の最後の力で、この“核”ごと英霊を消し去ります』
空気が震え、捕えられた伊澄が苦しげに顔を上げる。ヒナギクも腕に拘束されながら、必死にアテネへ視線を向けていた。
『私が消えれば……英霊が操る腕も、あなたたちを縛る力も消えるわ……だから、ここから離れなさい』
「そんなのダメだ!僕は君を助けに来たんだ!!」
ハヤテの叫びに、アテネは静かな微笑みで返す。
『これは、私が招いたこと。だから――いいの』
そして捕えられたままの二人へ視線を向けた。
『ヒナ、鷺ノ宮さん……ごめんなさい。私のせいで巻き込んでしまって』
伊澄とヒナギクは悔しさに滲む表情で歯を食いしばる。アテネはその二人の顔をしっかり見て、微かに微笑んだ。
そして、アテネの瞳が、ほんの一瞬だけアイルへ向けられる。言葉とは裏腹に穏やかで――哀しいほど優しい表情。
『アイル。皆のこと、お願いね……』
ただ、それだけの短い言葉。だが、その一言が彼女の結末を現しているようだった。対して、アイルはほんのわずか目を細めて眉を上げるのみ。
黒い結晶の奥で、アテネの身体が淡い光に揺らいだ。震える瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちる。脈動する心臓部が強く彼女を引き寄せ、伸ばされた指先は宙を掴むように震えた。――しかし、その手が触れられるものはもうどこにもない。
金の髪が闇に飲み込まれ、輪郭が薄れ、光が消えていく。最後に残った涙の軌跡だけがかすかな痕跡として揺れ――アテネの姿は完全に結晶の中へと沈んだ。
脈動が弱まり、黒い結晶は静かに閉じる。広間を満たすのは、ただ押しつぶされるような静寂だけだった。誰も声を出さない。誰も動けない。ただ、その絶望だけが、全員の胸にのしかかっていた。
沈黙だけが残された広間に、アイルが息をつく音がした。結晶へと沈んだアテネの最後の気配を見届け、彼は少し大袈裟に嘆息する。
「ずいぶん勝手なご主人様ですね」
静寂を破るその言葉は、あまりに淡々としていた。アイルは深くため息をひとつ落として、場にいる全員を見回す。
「さて、うちの主人はそのように申しております。もう、見たところ勝ち目はなさそうですし……彼女に任せて、我々はむざむざと尻尾を巻いて逃げ帰りましょうか?」
その瞬間――カチンッ。鈍く、しかしはっきりした“切れる音”が、確かに聞こえた気がした。
「幸い、惨めなこの惨状を知る人間は、ここにいる四人だけです。我々で口裏を合わせれば……他の皆様には、救出断念もやむなしと納得してもらうことは可能かと」
ヒナギクは額に青筋を浮かべ、拘束された腕の中でギリッと歯を噛み締める。伊澄も珍しく険しい顔で、アイルを睨み返した。
「……まだ……終わってませんよね、伊澄さん……?」
「ええ。こんな屈辱のまま終われるはずがありません」
ふたりは視線だけで確認し合い、同時にアイルへと鋭い視線を突き刺す。
「「まだ――負けてませんけど?」」
その瞬間、アイルは一度だけ目を細め、ほんのわずかに口元を緩めた。
ハヤテもまた、今の挑発を受けて拳を固める。瞳の奥に炎のような光が宿る。その彼に、アイルは視線を向ける。
「……綾崎くんは、諦めるつもりですか?」
静かな声。だが、その静けさは刃のように鋭く、ハヤテの胸を刺す。
「彼女に――あそこまで言わせておいて。君はそこでただ、頭を垂れているだけだと」
次の瞬間、ハヤテの拳が瓦礫の地面へ叩きつけられた。鈍い衝撃音と共に石片が四散し、地面に深い亀裂が走る。肩が震える。だが、悔しさではない。悲しみでもない。胸の奥から燃え上がるものが、ついに溢れた。
ハヤテはゆっくりと顔を上げる。瞳は、烈火のように燃えていた。絶望に飲まれた光ではない。たったひとつの願いを、どうしても捨てられない者の瞳だった。揺らぐ足を踏みしめ――自分の力で立ち上がる。
「助けるに……決まってるじゃないですか」
アイルはその姿を見て、小さく息を吐く。どこか安堵の色があった。
わずかに目を細め、確かな決意を宿した光をその瞳に灯した。彼はゆっくりと、首元へ手を伸ばす。次の瞬間、パツン、と小さな音。胸元に下げていた細い皮紐を、迷いもなく引きちぎったのだ。
先端には、碧く小さな丸い石。透明な水滴のような輝き。だが中心には、金色の刻印――歯車のような輪郭の中に、芽の形を象った紋章が浮かんでいる。
それをそっと、しかし強い意志で握りしめる。
「……本当に、僅かな可能性ですが」
その声は、もう執事としての柔らかいものではなかった。
「現状を変えることが出来るかもしれない」
ハヤテが息を呑む。だがアイルは視線を逸らさず、真正面から言葉を続ける。
「だから綾崎くん。君は決して目を逸らしてはいけない。何が起ころうと、誰がどうなろうと――」
握りしめた小さな碧石が、きゅ、とわずかに鳴った。
「彼女だけを見て、彼女だけに全てを集中してくれ」
その声には、命令でも懇願でもない。ただ、覚悟と信頼だけが込められていた。アイルは一歩前へ踏み出し、確かめるように問いかける。
「……出来るか?」
迷いなどない。そんなものはとうに捨て去った。
「勿論です」
その返事を待たずに、アイルは駆けた。
ただ、一直線に。英霊へ向けて、最短距離を踏みしめるように。
その瞬間、怪物が反応した。黒い胸の奥の結晶が深く脈動し、英霊の影がゆらりと歪む。空気が重圧を帯び、広間全体を押し潰すような圧が走った。
次の瞬間――天井、壁、地面。あらゆる方向から、無数の刃が生まれる。重力に逆らうように浮き上がり、雨を逆流させる軌道で一斉にアイルへ向かった。外敵を近づけさせまいと、英霊が世界そのものを敵に回したのだ。
しかし、彼は止まらない。
一歩。さらに一歩。降り注ぐ刃が腕を裂き、肩を抉り、脇腹を切り裂く。布が裂け、血が迸り、歩いた軌跡に鮮やかな赤が点々と残っていく。それでも彼の足取りは揺るがない。
ただ、前進あるのみ。
「アイルさんッ!!」
拘束されたまま、ヒナギクが身体をひねり、全身の力で木刀を投げた。軌跡は英霊の影を割くようにアイルの前へ飛ぶ。アイルは視線も動かさず、伸ばした手でそのまま木刀を掴んだ。掴んだ瞬間、降り注ぐ刃との衝突で空気が震え、金属が擦れるような緊張が場を締めつける。
アイルは木刀を横に払う。迫る剣影がはじけ、砕け散った残滓が光に溶けて消えた。だが攻撃は弱まらない。弾くたびに刃は増し、鋭さを増していく。木刀で防いでも、別の刃が容赦なく肉へ食い込む。脇腹に新たな切創、背に深い傷。腕からは絶えず血が滴った。
この世には、奇跡的な均衡というものが存在する。
外界の雑音が消え、時間の粒子ひとつひとつがゆるやかに解けていく瞬間。極限まで研ぎ澄まされた意識が、世界を単純な線と点だけの構造へと変えてしまう――人がときに“到達”と呼ぶ、あの静かな境地。
彼は、いまそこで呼吸していた。
降り注ぐ剣の軌跡は、もはや殺意の奔流ではない。ただ、空間を満たす細かな線として見える。一筋ごとに角度・速度・質量が読み取れてしまうほど、視界は静謐で、透き通っていた。
当たるか否かではない。避けるかどうかでもない。ただ――前へ進むために必要な動きを選ぶだけ。世界が彼の意識に追いつかず、置き去りにされる。肉が裂け、骨が軋む。しかし痛みさえ置き去りにする世界で。
気がつけば、すぐ眼前には英霊の心臓部。脈動し、黒い光を噴き上げる塊へ、彼はためらいなく碧石を押し当てる。
瞬間、世界が止まった。あらゆる空間が温度を失い、色を失い、モノクロとなる。世界がまるで、未知のエラーを感知したかのように――処理しきれない現象を前に、ピタリと固まってしまったように。
やがて、碧石は悲鳴を上げるかのように、砕け散った。
直後、英霊のつんざく絶叫が広間を貫くと、色は瞬く間に戻った。全身が震え、ヒナギクたちを拘束していた巨腕も、もがき呻くようにしてその場に倒れ伏す。地面に投げ出されたヒナギクと伊澄。
「伊澄さん……、大丈夫!?」
「えぇ……なんとか」
見上げた彼女の視線の先、心臓部の奥で何かが鳴動する。刹那、漆黒の槍が弾けるようにしてアイルへ襲いかかった。一撃、二撃、三撃――腹部、肩、腕を容赦なく貫く。
「アイルさんッ!!」
アイルの身体が後方へ弾かれ、虚空で血を散らしながら落下を始めた。
伊澄はほぼ条件反射的に護符を展開する。
光が奔流のように走り、床一面の光陣が衝撃を吸収して彼の身体を受け止める。腕へ落ちてきた彼は重く、血は止まらず、かろうじて温もりだけが残っていた。
静まりゆく広間の中心で、黒い心臓部が弱々しく明滅する。やがて――揺らめく光の奥に、人影が見える。アテネだ。深い闇の底で、頼りなく揺れる光のように。
その瞬間、ハヤテは地を蹴った。全身の力を一点に集め、世界を置き去りにする速度で走り出す。
ただアテネへ、彼女の元へ。床が裂け、風が悲鳴を上げる。黒い槍が立ち上がり、腕が振り抜かれ、影が襲いかかる――すべてが遅い。彼の速度には、何一つ追いつけない。
疾風のごとく一直線に心臓部へ突っ込む。次の瞬間、ハヤテの手は黒い殻に食い込み、そのまま全力で打ち砕いた。砕け散る結晶。光が爆ぜ、黒い膜が裂け、中の空間が露わになる。
そこには――深い闇の底で、揺らめく光に包まれたアテネ。手を伸ばせば届きそうで、しかし届かないほど遠い場所で。
「アーたん!!」
叫びながら、ハヤテは腕を伸ばす。喉が裂けるほどの声で、必死に、迷いなく。
「助けに来たよ!!」
光が揺れる。閉じられていたアテネの瞼が微かに震える。彼の声だけが、広間に響いた。
――ずっと、言わなきゃいけなかったんだ。
この十年間、胸の奥に刺さったままだった言葉がある。
あの時。庭城から逃げるように去ってしまった、あの瞬間。君を傷つけたまま、僕は背を向けた。何が正しいのかもわからなくて、ただ怖くて、どうすれば良かったのかさえわかっていなかった。
本当は、あの時の君の気持ちを疑っちゃいけなかったのに。
……でも、君は。それでも僕を助けようとしてくれた。怒りに任せて剣をぶつけてきて、僕も必死で応えて。息ができないほど衝突して、それでもどこかでわかっていた――君は君なりに、僕を守ろうとしてくれていたんだと。あの城から、僕を逃がすために。
君がくれたあの一撃のおかげで、僕は自由になれた。本当はずっと、あの日のことを――君の優しさを、僕は忘れたことなんて一度もなかった。
だから言わせてほしい。ずっと言えなかった、この言葉を。
ありがとう。本当に……ありがとう、アーたん。
そして――
「だから今度は、僕の番だ。今度こそ……僕が君を守るんだ。」
ハヤテはそのまま、叫ぶように――いや、願うように名を呼んだ。
「アーたん!!」
その声が、深い闇の底まで届くように響き渡る。閉じられていたまぶたが、わずかに震えた。長い眠りから呼び戻されるように、うっすらと瞳が開く。焦点の合わない視線が揺れながら、やがて、目の前で必死に手を伸ばす少年を――確かに捉えた。
「……ハヤ……テ……?」
その微かな囁きが、闇を割るように空気に漂った。
色々とやりたいことを詰め込んだ結果、ごちゃごちゃしてしまったかもしれません!決戦もクライマックスに……とはいえ、アテネ編はもうしばらく続きます。よろしくお願いします。
物語の終わり方について
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エンディングは一つのみが好ましい
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各ヒロインのルート分岐などがあっても良い
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どうでもいい