白と淡い青を基調とした静かな病室。
一般病棟とは明らかに異なる、広すぎるほどの個室。ベッドは二つ、簡易のソファや応接セットまで揃っている。
大きく開けた窓からは柔らかな昼光が差し込み、清潔な空気にかすかな薬品の匂いだけが溶けていた。
そんな室内のベッドの一つでは──
「あーん」
ベッドから上半身を起こしたヨゾラが、目を閉じて口を開いた。まるで当然のように、まるでこれが治療の一環であるかのように。
側に座るアテネは手元のカップを持ち、そっとスプーンを差し入れる。
「……本当に、こんな事が大事なの?」
呆れ半分に尋ねると、ヨゾラはゼリーを飲み込んでから、やけに真剣な眼差しでうなずいた。
「当然です。アテネお嬢様に『あーん』をしてもらえる──この至極の栄養は、間違いなく快復を加速させます」
「どんな理屈よ……」
とはいえ、拒否して暴れられては余計に治療の妨げになる。結局アテネは観念し、スプーンをもう一口ぶんすくう。
「……はい」
「あーん」
ヨゾラは心底幸せそうに口を開き、一口受け取る。
その表情は、もはやご満悦としか言いようがなかった。
ヨゾラが満足げにゼリーを飲み込み、アテネはようやくスプーンを置いた。
「……これで最後よ。もう満足したでしょう?」
「心身ともに満たされました。ありがとうございます、お嬢様」
どこか誇らしげなヨゾラの微笑みに、アテネは深いため息をつきながらも、頬の力を少し緩めた。
ヨゾラがこれほど穏やかな顔をするのは珍しい。それだけまだ体力が戻りきっていない証拠でもあった。
ふと、アテネの視線がベッドの向こう側へ移る。
ヨゾラもつられるように、ゆっくりとそちらを向いた。
二人の視線の先──向かいのベッドでは、アイルが静かに眠っていた。
横たわる姿はきれいに整えられ、胸元の白い包帯だけが治療の跡を示している。
深く眠った彼を見ることは、アテネもヨゾラもほとんどなかった。
それほど、普段のアイルは隙など見せない。
だが今の寝顔は──ただ静かで、安らかだった。
瀕死だったはずの面影すら見当たらないほどに。
ヨゾラがぽつりと呟く。
「私が言うのもなんですが……運ばれた時に瀕死だったのに、もうあんな安らかに寝られているとは」
「医師の方も“意味不明な回復力だ”って引いてたわね」
「やはりギャグ漫画らしく、トラックにはねられても次のコマには元気100倍くらいオーバーにしないと不自然ですよね。中途半端に快復の過程とかに注目させちゃうとリアリティが──」
「ストップ!それ以上はダメよヨゾラ」
アテネは慌ててヨゾラの口元に指を当てた。
「お嬢様、やはりもう一口だけ」
「はいはい」
何回目かの「あーん」を堪能し、ヨゾラは満足げにゼリーを飲み込み、しかし次の瞬間には、何か思いついたように指先を軽く立てた。
「しかし、こういう場面では得てして刺激的な展開が欲しいですね」
「というと?」
アテネがスプーンを置き、半眼になる。
「例えば……いきなり病室の扉が開いて、先輩の元カノが飛び込んできます。そして我が物顔で先輩の身を案じたあと、『アンタたちは何なの?』と突っかかってくる、とさ」
「唐突に何を言い出すかと思えば……」
病室で昼ドラでも見過ぎたのだろうか、とアテネはため息をついた。
「というか先輩にはそういう方はいらっしゃるのでしょうか、思い込み全開のメンヘラタイプのようなヒロインが」
「さぁ、聞いた事もないわね。そんな雰囲気もないし」
アテネが肩をすくめると、ヨゾラは心底ほっとしたように胸を押さえる。
「安心しました。この旅が終わったら、先輩の奢りでお嬢様やマキナくんも一緒にネズミーランドに行く予定なのですが、勘違いから女の嫉妬で刺されたりはしなさそうですね」
「そうだったの──って、ちょっと初耳なのだけど。何故私も?」
「いえ、先輩がチーム天王洲でネズミーランドにどうしても行きたいと、奢らせて欲しいと泣いて頼むもので私も断り切れず」
「本当にそんな状況ならぜひ見てみたいものね」
もしもを叶える未来の電話ボックスでも使わなければ実現しそうにない絵面である。
「――ほぼ嘘ですよ。約束したのは本当ですが」
「え?」
二人の肩がビクッと同時に跳ねた。
向かいのベッドを見れば、眠っている──と思われていたアイルが、いつの間にか薄く目を開けていた。
「……人が悪いわね。起きてるなら、そう言ってちょうだい」
アテネが咎めるように言うと、アイルは枕の上でわずかに体を動かす。
「申し訳ございません。お嬢様とヨゾラさんがあまりにも仲睦まじかったもので。お邪魔するのも憚られて」
「聞きましたかお嬢様。先輩がそう仰るのですから、これはもう“公認”ですね!」
「意味が分からないから、あなたは少し落ち着きなさい」
何故かヒートアップするヨゾラは半ば無理やり押さえつけるようにして寝かせて、横になったままの執事へと目を向ける。
アテネはヨゾラを布団に沈めたあと、わずかに視線をそらしつつ、向かいのベッドのアイルへと歩み寄る。
「……体の具合はどう?」
言ってから、少しだけ唇が引き結ばれる。だがアイルは、ほんのわずかに眉を上げた。
「おや珍しい。そんなストレートに心配くださるなんて」
「茶化さないで。こういう時は素直になるものよ」
そんな主人の気遣いに、アイルはいつもの笑みで優しく返す。
「ですから、今のが素直な心の声といいますか」
「お前の中で私のイメージはどうなってるのよッ」
さもありなん。
アテネの問いに対して、ヨゾラが布団から勢いよく身を起こした。
「アテネお嬢様、良いですか?ここは──『べ、別にアンタのことなんてどーでもいいけど?私が後味悪いから聞いただけなんだから!』みたいな、世話焼き幼馴染ムーブを決められると最優かと」
「貴女が何を言っているのか1ミリも理解出来ないのだけれど」
「さらに、普段と髪型を変えてきて、本当はそれに触れてほしいのに自分から言えなくて、そわそわ視線を送る……そういう繊細な演出も足したいところですね」
「……」
誰の何の願望なのだろう。
「そして仕上げに、お弁当をたまたま持って来てるんですけど照れ臭くて渡せなくて、背中に隠しちゃう……これでFAです」
「……ねぇヨゾラ。仮に今の私がそんな行動をしだしたら怖くない?どう考えてもホラーじゃない?」
そんな主人の冷静なツッコミに、向かいのベッドから更に冷静な声が続く。
「確かに。そうなったら今すぐお寺に連れていきますね。お祓い的な意味で」
「お黙り。お前は寝てなさい、永遠に」
「えぇ……」
理不尽すぎると思った。
アテネはこめかみを押さえ、深くため息をつく。
「なにか飲み物でも持ってくるわ。あなたたちは大人しく寝てなさい」
「私もほぼ快復したので一緒に──」
「いいから、寝てなさい」
渋々とベッドに沈むヨゾラを見届けて、アテネは小さく息を整え、扉を開ける。
と、ちょうどこちらへと向かってきていた女性と目が合った。
「……セレネさん」
「やぁ、アテネくん。体調はもう大丈夫かい?」
「えぇ、お陰様で」
アテネは軽く会釈し、セレネも歩みを合わせる。そのまま二人は並んで病院の中庭へ向かった。
昼下がりの光が降り注ぎ、噴水の水音が静けさを揺らす。ベンチに並んで座ると、柔らかな風が二人の間を抜けていった。
アテネは姿勢を正し、隣のセレネへ向き直る。
「改めて……この度の一連の対応、本当に感謝いたします」
「やけに堅苦しいな。私たちの仲じゃないか」
「それは肯定しかねますが……」
「相変わらずつれないな」
セレネは肩をすくめ、穏やかに続ける。
「だが、これは本心だよ。病院についても気にしなくていい。前にも言ったように、100%の善意として受け取ってくれたまえ」
アテネは少しだけ眉を寄せ、ため息をひとつ。
「……わざわざそこを強調すると、何か裏があるのかと勘繰られますよ?」
「これは手厳しい」
「……ごめんなさい。そういう性格なので」
アテネは深く頭を下げ、丁寧に非礼を詫びた。
「ありがとうございます。ヨゾラやアイルを助けていただいて……本当に」
彼女は目を細め、そっと病室の方へ視線を向ける。
「今回は私の未熟さ故に、彼らを巻き込んでしまい……傷付けてしまった。もう少しで取り返しが付かなくなる所でした。主として、大きく信頼を失うに等しい」
「……真面目だね」
「どうでしょうか……不真面目だから、こんな事態を招いてしまったのかもしれません」
「ふふ。気負いすぎだよ、君らしいが」
珍しく弱みを見せそうになる。そんな彼女に、柔らかく笑いかける。
「主人だからといって、強くあろうと、完璧であろうとし続けるのは肩が凝る。たまには素直に寄りかからないと保たないよ」
それに。
「彼らだって、きっとそれを望んでいるだろうさ。今回だって、分かっていて尚、君に付いてきてくれているのだから」
アテネはそっと目を閉じ、噛み締めるように数度うなずいた。
「そうですわね……今だって、二人とも、私に気を遣ってわざと明るく振る舞ってくれている」
セレネはゆっくりと立ち上がり、空へと背伸びをする。
「分かっているなら、それでいいじゃないか。従者たちの好意に素直に甘えてあげるのも、主人の役目だよ……アテネくん」
「……」
「むしろ、主人と従者というより──人と人の付き合いとして、の方が正しいかもしれないな」
アテネは少しだけ視線を揺らし、逡巡ののち、薄らと微笑んで頷いた。
ふと、噴水の向こう側から静かな足音が近付いてきた。
反射的に視線を向けると、少し離れた場所で、ハヤテがこちらに気付いたように立ち止まり、ぱちりと目が合う。
空気を読むのもまた、淑女の嗜みである。セレネはわざとらしく、腕時計に視線を落とした。
「では、今日のところはこの辺で。近々、また会うことになると思うけれど……身体を大事に」
「ええ、ご機嫌よう」
セレネが軽く手を振り、中庭の出口へと消えていく。
その背を見送りつつ、アテネは胸の奥に残るざらつきをひとつ飲み込んだ。
──やはり、彼女は何か意図を持って動いている。
そう思うものの、今は追及すべきではない。ただ静かに息を整えたとき。
足音が近づく。
アテネが顔を上げると、少し離れた場所にハヤテが立っていた。
「……アーたん」
呼ぶ声は控えめで、でもどこか安心した響きがあった。
驚きでも戸惑いでもなく──“ちゃんと会いたかった”人間の声。
「……ハヤテ。もう歩いて平気なの?」
アテネが自然に問いかけると、ハヤテは少しだけ照れ臭そうに笑った。
「うん。なんか、気付いたらほぼ治っててさ。
ま、ギャグコメだからね――次の話になれば、ケガなんて飛んでっちゃうんだよ」
「それ、笑って流していい話なのかしら」
「だよねぇ」
二人の声が重なって、ふっと空気が緩んだ。どちらからともなく、笑いが溢れる。
「そういえば……帰国、少し延びたんだ。明日の夕方に。ナギお嬢様が“今日は好きに過ごしてこい”って言ってくれてさ。だから……うん、実はちょっと暇で」
普段忙しなく動く彼には珍しい“ぽかんとした時間”。
それを自分で持て余しているのが見てとれた。
「ふふ、変わらないわね。あなた、急に自由になるとどうしていいか分からないタイプだものね」
「えっ、そ、そうかな……?」
「そうよ」
迷いなく返すと、ハヤテは子どものように頬を赤くする。その反応が可笑しくて、アテネは小さく息を吐く。
「……なら、ひとつ提案があるのだけれど」
小首を傾げるハヤテに、彼女は小さく微笑みかける。
「これから市街を歩いて、買い物でもしません?」
「え、どうして?何か必要なものが──」
言い終わる前に、アテネの指先がハヤテの頬をつまんだ。軽い力なのに、言葉がそこでぷつりと途切れる。
「相変わらず鈍いですわね。わざわざ“デートしましょう”と言わないと分からないの?」
「……あっ」
ようやく意味が落ちて、ハヤテの表情が真っ赤に染まる。その照れを見ているだけで、胸の奥がくすぐったくなる。
アテネは立ち上がり、そっと手を差し出した。余計な言葉を加えず、ただ視線だけで“今”の気持ちを伝える。
「では──エスコートしてくださいませんこと?」
「うん、喜んで」
敢えて口にはしなかったが。いつか成し遂げられなかった、君の執事に戻ったみたいだ、と。
その想いを汲んだのか、アテネの目元がわずかに和らぐ。
執事はお嬢様の手を取り、二人は静かに並んで歩き出す。
ストックが切れたので、ここにて一旦ストップします。
また書き溜めてかられんとしていきます!
物語の終わり方について
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エンディングは一つのみが好ましい
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各ヒロインのルート分岐などがあっても良い
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どうでもいい