崩れかけた白い柱に、夜風がやわらかく吹き抜けていく。
雪のように降る石片の中で、アテネはゆっくりと振り返った。
「貴方が居なくなったあの夜から――ずいぶん、時間が経ったわね。ハヤテ」
その声音には、どこか懐かしさと、少しの寂しさが混じっていた。アテネは一歩だけ近づき、静かに続けた。
「十年前……どうして私が“あの城”から出られたのか。貴方にも、きちんと説明しておくべきよね」
その言葉を言い終えたところで、アテネはふっと視線を落とす。
細い眉がわずかに寄った。
「とは言ったものの……実はね、私自身、どうやって外に出られたのか――肝心な部分の記憶が曖昧なのよ」
「え?」
ハヤテが戸惑いを浮かべるが、アテネの表情はどこか申し訳なさげだった。説明しようとしている本人が、答えを持っていないとは。
「あなたが城を後にしてからの私は……本当に、何日も何週間も……ただ、虚ろに時間を過ごしていたわ。絶望の淵で、呼吸をするだけの存在みたいに」
語る声は淡々としている。けれど、その淡々さが逆に、彼女があの場所で抱いていた孤独を強調していた。
「その間の記憶がね……霧がかかったみたいに、ほとんど思い出せないの」
アテネは胸元に手を添え、そっと息を吐く。
その仕草が、彼女がいまだにその空白に苦しんでいることを示していた。
「覚えているのは、断片的な感覚だけ」
「感覚?」
「えぇ、多分。それも城を出る直前……なんだと思う」
ハヤテの問いに、アテネはかすかに頷いた。
「誰かに、手を引かれる感覚。崩れかけた回廊を通って、外に向かうあの長い階段を。暗闇の中を歩くたびに、冷たい風が頬に当たって……その感触だけは、今も覚えているわ」
その時のことを思い返すように、アテネは指先を見つめる。
手を繋がれていた感触を辿るように。
「あの城の仕組みを考えたら、私が今こうして外に出れている以上――私を城から出してくれた誰かがいた」
確信めいたその声色に、ハヤテは小さく息を呑んだ。
「でも、その人って……」
「分からない」
アテネはゆっくり首を振った。雪のように落ちる瓦礫片の中で、その表情には僅かな痛みが走る。
「顔も、声も、背丈も……どんな背中だったのかすら、私は覚えていないの」
「……」
「感覚だけで、映像はモヤがかかったように塗りつぶされてしまっている」
そもそも、その人物がどうやって自分の元に来たのか。
覚えているのに、覚えていない。もどかしいその感覚に、アテネは不甲斐なさそうに拳を握りしめる。
「何度も、ありとあらゆる方法を試したわ。
記憶を取り戻す魔術も、心理療法も、お爺様の研究資料も……全部」
そこまで言って、アテネは自嘲気味に笑う。
「けれど、手掛かりは何ひとつ見つからなかった。――まるで、最初から存在しなかったかのようにね」
「そんな……」
「でもね、ハヤテ」
アテネはほんの少しだけ顔を上げた。
その青い瞳は、夜空の残光を映して揺れている。
「〝その手〟が確かに私を救ってくれたことだけは、覚えている。だから私はずっと、誰なのか探し続けていた」
言い終えると、彼女は静かに息を吸った。
優雅で落ち着いた仕草の奥に、十年分の想いが滲み出ていた。
アテネはふと視線を横へ流し、崩れた壇上の向こう――かつて庭城があった方角を静かに見つめた。風がドレスの裾を揺らし、十年前の記憶をそっと呼び起こすように鳴る。
「……だから私は、あの石を求めるようになったの」
「石を」
ハヤテが問い返すと、アテネは淡く微笑みながら、小さく頷いた。
「庭城に戻れば、手掛かりがあるんじゃないかと思ったの。
私を外へ導いてくれた、その誰かのことを……」
その声音には、希望と不安が入り混じっていた。
十年前の空白を埋めるための唯一の糸口――彼女は、ずっとそれだけを頼りにしてきたのだろう。
「私はてっきり、その人も一緒に城を出たのだと思い込んでいたわ。
でも……ある時、私の中であれが目覚めて、声が聞こえた」
もし、まだ閉じ込められているのだとしたら?
アテネは胸元に触れ、指先をぎゅっと握りしめる。
「もし私の代わりに、城に囚われてしまっていたら?ずっと、そこに閉じ込められ続けているのだとしたら」
「アーたん……」
「私は助けてもらった恩義すらも忘れて、のうのうと生きている。顔も、声も、存在すらも忘れて……」
ハヤテが息を呑む。アテネは苦しく笑うように、ほんのわずか肩を落とした。
「そこから、恐らく
「伊澄さんが言っていたよ。アーたんほどの力の持ち主なら、よほどの心の隙が出来たり、利害が一致でもしない限り、乗っ取られたりはしないはずだって」
「その通りね。心の隙も、そして利害すら図らずも合致してしまった。全ては未熟な私が招いたこと」
そこまで語ると、アテネは一瞬だけ目を閉じた。
その表情は決して大げさではない。けれど、胸の奥に沈んでいた動揺が静かに滲み出ている。
「囁く声は日に日に増していった。『戻らなければならない』とか、『探さなければならない』とか……
そんな、心の隙間を撫でるような声が」
アテネはわずかに目元を伏せる。
英霊の声であったと、今でこそ分かる。だが当時の彼女には、それは自分の罪悪感の形にさえ思えたのだろう。
「不思議よね。恐怖よりも、焦りの方が大きかったの。助けなきゃって……その想いばかりが膨らんでいった」
青い瞳が揺れる。そのゆらぎは、十年前の孤独がまだ彼女を離していない証だ。しかしすぐに首を横に振る。
「いいえ、違うわね。助けなきゃっていうのは、綺麗事」
どこか力のないその言葉を続ける。
「私自身が、楽になれる。あるかも分からない罪悪感から、解放される。そう思ったのよ。閉じ込められてるかも分からない。私が思ってた通り、一緒に城の外に出てるかもしれない。結局私は、自分が楽になりたかっただけ」
「アーたん……」
「そして、まんまと英霊に乗せられて……この有様。」
彼女は何も悪くない。悪いはずがない。
ハヤテはそう思いながら、アテネの前に一歩近づく。
「誰だって、そう思うよ。僕だって、君と同じ立場ならきっとそうした。それに、助けたいって気持ちに嘘なんてない。それは君の目を見てれば分かるよ」
ハヤテの呼びかけに、アテネは僅かに微笑んだ。
「ありがとう。ハヤテにそう言って貰えると、少しは救われるわ」と。けれどその笑みは、十年前に失われた時間の重さを隠そうとする、弱い強がりのようにも見えた。
ハヤテは胸の奥の引っかかりをそっと押し出すように口を開いた。
「けど、アーたん。ずっと気になってたんだけどさ」
アテネが静かに視線を向ける。
「アーたんの中に入り込んでた英霊って……結局、何者だったの?」
その問いに、アテネはわずかに目を伏せ、さっきまでの感情の揺れを静かに霧散させるように、淡く息を吐く。
「ハヤテ。ギリシャ神話にミダス王という人物がいるのは知っているかしら?」
「触れたものが金になるっていう、あの話だよね。名前だけは……」
「ええ、その人物よ。けれど――実際の伝説は、少しだけ残酷なの」
アテネはゆっくりと言葉を紡ぎ始めた。
「ミダス王は、富を手に入れる力を神から与えられた。触れたもの全てが金に変わる……いわゆる黄金の手ね」
夜風が吹き抜け、崩れた柱がカラリと音を立てる。
「けれど、それは祝福ではなかった。彼は食べ物にも触れられず、娘を抱きしめた瞬間でさえ……その子を金に変えてしまったと言われているわ」
「……」
「欲を手放せなかった彼の最期は、伝承によって違うけれど――共通しているのは、強欲の象徴として孤独に消えたということ」
淡々とした声だからこそ、伝説に宿る悲劇性が際立った。
「庭城に残っていた英霊の正体は、そのミダス王よ。正確には、彼が生涯求め続けた力と富への欲望だけが、概念として残ったもの」
「欲望だけが……残ってた?」
「ええ。遺物や魔力の濃い場所には、ごく稀に概念が宿ることがあるの。庭城ほどの魔力溜まりなら、それも不思議な話ではないわ」
アテネは静かに視線を落とす。
「ミダス王は、生前に叶わなかった永遠の力を欲し続けていた。そして――私の心が弱っていたところに入り込み、隙を広げた」
先程のように、アテネを利用して力を取り戻そうとしていたという事になる。
「特に、私の周囲にいる〝不要な存在〟を排除しようとしたわ。孤立させて、より傀儡しやすくする為に。特に……アイルには過剰な敵意を見せていたように思う」
「アイルさんに……?」
「ええ。ずっと傍にいた彼は、ミダス王にとって1番目障りな存在だったのでしょうね。だから──『距離を置け』『信じるな』と、囁き続けられていたわ」
しばしの沈黙のあと、ハヤテはふと何かを思い出したように顔を上げた。
「そういえば……アーたんの執事って、アイルさんだったんだよね。
いや、分かってるつもりだったけど……改めて思うと、やっぱりちょっと驚くよ」
アテネは軽く眉を上げる。
「驚くほどのことかしら?」
「だって、この前まで三千院家で一緒に執事をしてたんだよ?
同じ屋敷で働いてて、アイルさんが“アーたんの従者”だったなんて思わなかったし……」
思い返したのか、ハヤテは苦笑を浮かべる。
アテネはその言葉に、ほんの僅かだけ肩を落とし、呆れを含んだため息をつく。
「……アレは本当に、いろいろ余計なことをしていたみたいね」
けれど口調はとげとげしいものではなく、どこか諦めにも似た柔らかさが含まれていた。どうせ、言っても聞くような相手ではない事は長い付き合いだから分かっている。
「ごめんなさい、うちの従者が迷惑をかけたわね」
「とんでもない!」
ハヤテは慌てて手を振った。
「迷惑どころか、助けられてばっかりだよ。むしろ感謝しかないくらいで……」
そこで、ふとハヤテは言葉を止めた。
「そういえば、アイルさんはいつからアーたんの執事なの?」
「そうね……貴方が泣き縋る私を捨てて城を出た後──」
「あの、言い方に悪意がありませんか」
「ふふ、ごめんなさい。冗談よ、冗談」
ついイジめてしまいたくなるSっ気を覗かせるアテネお嬢様。
「城から出た私は、2年あまりも昏睡状態だったらしいの。それで、目を覚ましてから、お爺様に引き合わされたから……もう十年くらい経つかしら」
「そっか……そんなに長いんだね」
「本当に、ファーストコンタクトは最悪だったわね。とにかく失礼だしデリカシーもないし、けれど……それは今もあまり変わってないわね」
「そう──あれ?今は信頼してる、みたいな流れじゃないの?」
「仕方ないじゃない、現にそうなんですもの」
悪びれもなくそう言ってのける。
「けど、信じられないな。あんなに丁寧で腰の低い人、そういないと思うけど……」
「アレは仮面を被るプロですから。人を欺き、おちょくる……どこに本音があるんだか分かったものじゃないわ」
長年そばにいた従者に対しての言葉とは程遠い気がする。
「天王州家の従者の人って、その……変わった人が多いんだね」
「……それは、言わないでちょうだい」
2人の脳裏には恐らく同じ人物が浮かんでいた。
クールに見えて意味不明なことばかり繰り返すメイドさんとか。
「……でも、ちょっと待って」
「なにかしら?」
「十年も前からって……僕やアーたんがまだ子供の頃の話だよね?」
「そうなるわね」
アテネは落ち着いた声で答える。
一方のハヤテは眉を寄せ、記憶の中のアイルを思い返した。
「でも、アイルさんって、すごく若く見えてたけど……」
その問いに、アテネは静かにまばたきをしてから、「貴方にだけは、言っておくわね」と言葉を選ぶように口を開いた。
「アレは……恐らくだけど、ほとんど歳はとっていないわ」
「……え?」
ハヤテが思わず聞き返す。当然だ、歳を取らない生物など、この世に存在するわけもない。冗談かとも思ったが、アテネは至って真面目な表情で続ける。
「外見も、多分年齢も……十年前とほとんど変わっていないもの」
「そんなことって、あり得るの?」
「あり得ないわね。けれど……現に、そうなっている」
「……だとしても、そんなことって」
ハヤテが戸惑いを隠せずに言うと、アテネはわずかに視線をそらし、慎重に言葉を選んだ。
「ひとつだけ、心当たりがあるとすれば──」
アテネはそう言って言葉を切ると、思案するように指を口元に当てる。
「ハヤテ。貴方、庭城から外の世界に出た時のこと、覚えてるかしら。何か違和感を覚えなかった?」
「違和感……」
そりゃあんな場所、違和感しかないような世界だけど。
過ぎ去りし日のことを脳裏から引っ張り出そうと視線を彷徨わせる。
「例えば……何週間も城の中にいたのに、外の世界では、ほとんど時間が経っていなかった。とか」
ハッとしたように顔を上げる。
「あった。確か初めてアーたんと暮らしてから、2ヶ月以上お城で過ごしてたのに……両親は二、三日しか経ってないような事、言ってたよ」
おもむろに頷いて、アテネは視線を空に投げる。橙色に染まった空には、うっすらと黒ずんできている。
「そう。貴方が私と過ごしていた、王族の庭城。あそこは、外の世界とは時間の流れが異なっているの」
ハヤテは思わず息を呑む。
アテネは静かに夜空を仰ぎ、淡々と説明を続けた。
「外の一日が、庭城の中では一ヶ月以上にも相当するの。あの場所は時が歪んでいる……王族の血を守るためにね」
「じゃああのお城にあったやけに進みが遅い時計って」
「あの時計は、外の世界の時間を示す時計」
思い返せば、お城のホールには全く針が進まない巨大な時計が掛けられていた。壊れているのかと思ったが、あれは外の時間を刻む指標だったのだ。
「それ故に、あの城の中では人の身体的成長がほとんど進まなくもなっているの」
「どういうこと?」
「考えてもみて」とアテネは人差し指を立てる。
「あの城で例えば5年を過ごしたとしても、恐らく外の世界ではせいぜい数ヶ月しか経ってないことになる。もし城の中での時間の経過がそのまま身体にも反映されるのだとしたら、仮に外に出れてしまったときに、辻褄が合わなくなるでしょ?」
「確かに」
「だから身体や年齢的な成長は、城の中にいても外と同じになっている。そんな魔法の力が、あの城にはあるの」
つまりは、ほとんど成長を止めると。ハヤテは、理解が追いつかないまま呟く。
「つまり……セ⚪︎に対抗するための、精神と◯の部屋……みたいな感じ?」
「それが何なのか分からないけれど、色々危険そうだからそれ以上その例えば広げないでね」
神殿の奥にあるというその空間は中での一年が外界のたった一日だけだという。
「アーたん、そういえば初めて会った時も『ずっとお城に閉じ込められた』って言ってたけど」
「……えぇ。外の世界的には、私が行方不明になってもさほど時間は経っていないことになるわね」
同い年くらいなのに、初めてあった幼少期から彼女はあまりにも大人びていた。けれど、それもそのはず。身体の成長は止まると言っても、何年もお城の中にいるのだから、見た目以上に精神は歳をとってゆくはず。
「そうか、見た目が変わらないって」
「心当たりというのは、庭城のその仕組みのこと」
アテネは小さく頷き、視線をハヤテに戻す。
「もしかしたら、不老に近いあの現象の手がかりが、城の中にはあるかもしれない──というか、それしか心当たりがないというのが正直な所だけど」
「だから、君は城に」
ハヤテは彼女の行動にようやく合点がいったとばかりに、大きく頷いてみせた。
「アレは記憶を失って、お爺様──三千院帝に拾われてきたの。来歴も年齢も不明。分かっているのは、〝十年前と姿がほとんど変わらない〟ということだけでしたから」
アテネは指先を胸元に当て、そっと呟くように続ける。
「まぁ、振り出しに戻ってしまったのだけれど」
「うぅ、ごめん……僕が石を壊しちゃったから」
アテネは優しく微笑んで、首を横に振る。
「謝らないで、ハヤテは私のためにそうしてくれたのは分かってますから。それに」
足元の瓦礫の残骸を一瞥する。
「どのみち、あの英霊に取り憑かれたままでしたら、私の目的なんて叶えられてもいないでしょう」
物事には優先順位がある。ハヤテの取った行動は、誰の目にも最優先すべきことだったと誰もが理解している。彼に感謝こそすれ、責める人間はいないだろう。
「庭城の件は、また調べ直しますわ。幸い、もう英霊の邪魔はら入りませんし……石のアテもないことはないですし」
「そっか」
少し安堵したように息をつくハヤテ。そのまま彼はまだ首にかかっていた革紐を、そっと手にかける。砕け散った王玉の破片がキラリと夕日を反射する。
夕陽が静かに落ちていく。残された光だけが、欠片の上で細かく瞬いていた。
物語の終わり方について
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エンディングは一つのみが好ましい
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各ヒロインのルート分岐などがあっても良い
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どうでもいい