アテネちゃんの執事!   作:通行人A'

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Task99:10年後の君へ

 

 砕けた王玉の欠片に夕陽が反射し、細かな光がハヤテの指先で揺れていた。

 

「……あの、アーたん」

 

 ハヤテがふと顔を上げる。

 アテネは視線を瓦礫に落としたまま、そっと顔だけを向けた。

 

「そういえばさ。さっき“聞きたいことがあった”って……言ってたよね?」

 

 その問いに、アテネは一瞬だけ言葉を探すようにまつげを伏せた。

 胸の奥で、知られたくない小さなざわめきが波紋のように揺れる。

 けれど、それを表情に出すほど彼女は弱くない。

 

「……ええ。でも、聞きたかったというほどではないのよ」

 

 そう前置きしてから、ほんの少しだけ、水面の揺れみたいに声色を柔らかくして続けた。

 

「ただ――貴方は、今の生活……どうかしら?」

「僕の……?」

「ええ。三千院家でのこと。貴方が、どんな日々を過ごしてきたのか。聞けるなら、聞いてみたいと思っただけ」

 

 アテネは優しく微笑む。

 その笑顔には、寂しさも未練も一切含まれていない――ように見える。

 

「もちろん、話したくなければいいのよ。ただ――」

 

 アテネはそっと視線を上げ、夕陽に溶けるような声で続けた。

 

「貴方が歩いてきた十年を、知っておきたいだけ」

 

 ハヤテは一瞬きょとんとしたあと、ゆっくりと微笑んだ。

 

「……うん。分かったよ。ちょっと長くなるけど……聞いてくれる?」

「ええ。いくらでも」

 

 アテネは静かに頷いた。ハヤテは、王玉の欠片をそっと握ったまま、懐かしむように目を伏せた。

 

「僕の十年なんて、大したものじゃないよ」と言いながらも、

話し始めれば、その声音にはどこか照れと苦笑が混じる。

 

 両親に捨てられ、途方に暮れ、生活のために働き続け、逃げながら、また働いて──幼い頃から無茶ばかりしてきたこと。

 まともな家もなく、寝る場所もなく、自分が消えても誰も困らないような日々を過ごしてきたこと。

 それでもなんとか、ひとりで立っていたこと。

 

 アテネは一度も口を挟まない。

彼の言葉の端々に滲む孤独が、十年前の自分の姿と重なり、

胸に薄い痛みのようなものが広がる。

 

 でも、それを悟られないように、ただ静かに聞いていた。

 

「――そんな感じでさ。気づいたら、あっという間に十年経ってた」

 

 照れ隠しの笑みを浮かべるハヤテに、

アテネは胸の奥がぎゅっと締まるのを感じた。

 

 あの城で泣きながら抱きしめた少年は、

彼女の知らない場所で、彼女の知らない十年を――たったひとりで歩いてきたのだ。

 

 ハヤテは少し照れ臭そうに頭をかいた。

 

「……まぁ、その後の僕は、ただ必死だっただけだよ」

 

 語り口は軽い。けれど、内容は軽くない。

 

 ひとりで働き、走って、転んで、それでも起き上がって、また働いて。

頑張れば状況が良くなるわけじゃないと分かっていても、頑張るしかないから頑張り続けた十年。

 

 アテネはただ黙って聞いている。彼の声音には湿っぽさはまったくない。けれどその淡白さがかえって、彼がどれほど長い時間を“ただしがみつくように”生きてきたのかを物語っていた。

 

「もちろん、友達もできたしね。西沢さんとか……みんなにはいっぱい助けられたよ」

 

 その言葉だけは、どこか誇らしげだった。たとえどんな日々でも、彼は人との繋がりを力に変えてきたのだ。

 

「でも─―」

 

 そこでハヤテは、呆れたように笑った。

 

「うちの両親、僕のことヤクザに売っちゃったんだよね。はは……もう、その時はさすがに“やれやれ”って気分だったよ。悲しいとかも無くてさ」

 

 あまりにも簡潔に、あまりにも軽く言うので、その無感情さが逆にアテネの胸を強く刺した。

 十年前、城の中で泣きながら決別してしまった少年。その彼が、こんなふうに笑って話すまでに、どれほどの絶望を越えてきたのか。

 アテネは表情を変えないよう、指先にそっと力を込めた。

 

「それでね。無一文になるし、追われるし……もういよいよダメだ、って思った時」

 

 ほんの一瞬、ハヤテの瞳に柔らかい光が宿った。

 

「お嬢様に、拾われたんだ」

 

 その瞬間、アテネは息をのみそうになった。ハヤテの声はどこまでも優しかった。

 

「だから、僕は今ここに立ってられる。アーたんも、助けることができた。お嬢様が何も言わずに、『やるべきことをやれ』って送り出してくれて」

「貴方の、お嬢様が?」

「うん」

 

 ハヤテがそう答えると、アテネはわずかに視線を伏せ、胸の奥がそっと揺れた。

 

(貴方を救ったのは……その人なのね)

 

 言葉にはしない。けれど、その考えがひとしずく落ちて波紋になる。

 

 雪片のような瓦礫がひらひらと落ちる中、アテネはそっと問いを紡いだ。

 

「……その方は」

 

 声は驚くほど落ち着いていた。けれど、その奥底には自分でも気づきたくないざわめきがある。

 

「貴方の“お嬢様”というのは……どんな方なの?」

 

 ハヤテは少し考えるように目を細める。

 

「えっと……三千院ナギお嬢様のこと?」

「ええ」

 

 アテネは静かに頷いた。

 

「貴方を拾って、守って……いまの貴方を支えてくれたその人が、どんな方なのか。ただ……聞いてみたかっただけよ」

 

 それはまるで、十年のあいだ空白になったページを一行だけでも埋めようとするような声音だった。

 

「そうだなぁ……お嬢様は」

 

 そう言って、ほんの少しだけ空を見上げた。夜の入り口の光がハヤテの横顔を柔らかく照らす。

 

「基本的には、いつも怒ってるよ」

「えっ……怒ってる?」

「うん。「なんなのだ!」って。この世のありとあらゆるものに対して「なんなのだ!」って文句を言ってる感じかな」

 

 ハヤテは困ったように頬をかく。

 

「朝っぱらから太陽に向かって『お前は分かってない』『前に出てくんな!』って怒るし、海に向かっては『人は泳ぐように出来てないから空気を読め』って怒るし、山には『登ると疲れるから平になれ』ってね」

「………」

「ほかにも、コップの水がこぼれれば『裏切った!』とか言うし、ご飯が少し冷めてれば『世の中は不公平だ』とか言うし……」

 

 語りながらも、ハヤテの表情はどこか楽しそうだ。その様子を見つめながら、アテネは少しだけざわついた気がした胸に、そっと手を添えた。

 

「なんだか……とても大変そうな方なのね」

 

 ハヤテは「はは」と柔らかく笑って頷く。

 

「うん……すごく大変な人だ」

 

 アテネの心臓が、ほんの一瞬だけ跳ねる。

 

「でも──」

 

 その言い方が、あまりにも優しくて──温かさすら滲んでいて。

 

「本当は優しくて、強くて……誰よりも頑張り屋で。お嬢様がいなかったら、僕は今ここに立ってない」

 

 風の音より静かな声だったのに、彼女にははっきりと届く。

 

「毎日が大変で、振り回されてばっかりなんだけど……でも、お嬢様のおかげで、僕はたくさんの人と出会って、たくさんのものをもらったよ」

 

 アテネは黙って耳を傾ける。それは、彼の言葉の一つひとつを、心の奥で丁寧に受け止めている沈黙だった。

 

 ハヤテは星が瞬き始めた空を見上げて、ゆっくりと目を細めてみせた。

 

「だから……僕にとって、お嬢様は──」

 

 

 ──命そのものなんだ

 

 

 夕陽が完全に沈む直前。

 ハヤテの笑顔は、どこまでもまっすぐで、どこまでも優しかった

 

 アテネの胸の奥で、なにかが静かにほどけた。崩れるわけでも、落ちるわけでもない。

 

 ただ──

 

(あぁ……やっぱり)

 

 そっと、優しく悟るように、目を閉じる。

 

 心のどこかでずっと分かっていた。彼の十年は、自分の知らない世界で、誰かに照らされながら積み重ねられてきたものだと。

 

 悲しみがなかったわけではない。胸の奥が少し締めつけられるような、そんな切なさは確かにあった。

 

 でもそれ以上に──

 

(良かった。貴方が……そんなふうに笑える場所を見つけられて)

 

 アテネはほんの一瞬だけ顔を伏せる。そして、夕闇の風に揺れた金の髪をそっと押さえた。

 

 もし今、泣いてすがれば変えられるのかもしれない。行かないでと叫べば、もしかしたら──アテネは脳裏によぎった考えをすぐに打ち消した。

 

 

 アテネは、閉じていた目をそっと開き──そして、微笑んだ。

 

 まるで、幼い頃の彼を抱きしめた時のような……誰かの幸せだけを祈る、あたたかな微笑み。

 

「……ハヤテ」

 

 呼ばれた名に、ハヤテは不思議そうに顔を上げる。

 

「アーたん?」

 

 アテネは一歩だけ彼に近づいた。

 すぐ触れられるほど近い距離。

 けれど、触れはしなかった。

 

「──ありがとう」

 

 その一言は、あまりにも優しかった。

 

「貴方が歩いてきた十年を……聞かせてくれて。そして……笑って話せるようになっていてくれて。本当に、嬉しかったわ」

 

 もうすべて分かってしまっている。

 

 彼がどこに帰るべきなのか。誰を想って立ち続けているのか。

 そして、自分がそこに〝入れない〟ことを。

 

 アテネは、ふっと小さく笑いながら言った。

 

「ねぇ、ハヤテ。私はね……貴方が幸せであるなら、それでいいの」

 

 夕闇の光に照らされたアテネの表情は、どこまでも穏やかだった。

 

「だから──ここでお別れしましょう」

 

 その言葉は、涙の代わりに微笑みをまとっていた。

 静かで、痛いほど優しい別れ。

 

 ハヤテの瞳が大きく揺れる。

 

「え?お別れって……どういう」

 

 アテネはゆっくりとかぶりを振った。

 

「大丈夫。私が貴方を嫌いになったわけじゃない。許せなくなったわけでもないわ。ただ……」

 

 愛しげに、そしてどこか誇らしげに、彼を見つめる。

 

「貴方の未来に、もう私の〝左手〟は必要じゃないみたいだから」

「あ、アーたん……」

 

 初めて会ったあの日。

 絶望の淵にいた彼を、優しく引き上げてくれた彼女の左手──その役割はもう、終わったのだと。

 

「け、けど……」

 

 ハヤテの声が震える。

 それでもアテネは――ただ微笑んだまま。

 

「私ね……貴方が幸せでいてくれるなら、もうそれで十分なの。それはきっと、あの頃も、今も──ずっと、ずっと」

 

 優しい声。

 それなのに、なぜか胸が締めつけられるほど痛い。

 

「だから……ここでお別れしましょう、ハヤテ」

 

 その瞬間。

 彼女の微笑みは、祈りのように美しかった。

 ハヤテは何か言おうとしたけれど、言葉にならない。

 

 アテネはそっと一歩、後ろへ下がる。

 まるで、彼の未来を邪魔しないように道をあけるように。

 

「行きなさい。貴方には……帰る場所があるでしょう?」

 

 風が二人のあいだを通り抜けた。

 その風に揺れる金の髪は、泣いてはいないのに、どこか儚かった。

 

「アーたん」

 

 一歩。ハヤテはアテネの方へと足を踏み出す。そしてもう一歩──

 

「ねぇ、ハヤテ」

 

 彼女の瞳には、うっすらの雫が滲んでいた。

 それが彼の足をピタリと止めてしまう。

 

 

「私ね……貴方のことが好きだったのよ」

 

 

 ──アテネ。天王州アテネ。この星で最も偉大な女神の名よ

 

 ──私の左手くらい、貸してあげますから

 

 ──貴方、私の執事をやりません?

 

 

 拳を握りしめる。脳裏に過ぎる、彼女との思い出がとめどなく。

 

 ──本当に、仕方ない子ね……ハヤテは

 

 ──やればできるじゃない。偉いわ、ハヤテ

 

 ── いつか、ハヤテからの指輪を楽しみにしていますわ

 

 

 胸が張り裂くように突き上げ、ついに目頭からは熱いものが溢れ続ける。

 

 

 ──アーたんは、お父さんもお母さんもいないから……ッ

 

 ──ハヤテなんて、ここからいなくなっちゃえばいいんだ!!

 

 

 堰を切ったように、後悔が、懺悔が、想いが。

 

 

 ──私ね……貴方のことが、好きだったのよ

 

 

「僕も……ッ!!」

 

 ハヤテは躊躇っていたもう一歩を踏み出した。

 

「僕も、君のことが好きで……!!ずっとずっと、大好きで……!!」

「──ッ」

「だから!!だから……ヒドいことを言ってしまったのを……ずっと謝りたくて……」

 

 だから……

 ごめん……

 

「ごめんね……アーたん」

 

 とめどなく溢れる想いは、あの日の景色を滲ませる。

 2人が出会った、庭城の花畑──

 

 

 少年は、ひたすらに涙を流す。

 少女は、優しく微笑みかける。

 

 

「相変わらず……泣き虫なのね、ハヤテは」

「アーたん……」

「別にそんな事、怒っていませんわ」

 

 少年はどこまでも優しくて。それは少女も痛いほど分かっていて。

 

「でも、ありがとう。私は貴方のそういう所が、大好きよ」

 

 かつての約束。

 いつまでも一緒だと信じて疑わなかったあの日から──

 

「だけど、私はもう大丈夫だから」

 

 少女は少年の頬に触れると、目を閉じた。

 

「私の為に流す涙は……これで最後」

 

 重なる二人の影が、そっとふるえた。

 どちらともなく寄り添うように形を変え、夕闇の色にゆっくりと溶けていく。

 

 風が静まり、世界が一拍だけ息をひそめる。その短い沈黙に、十年分の言葉が触れあった。

 

 やがて――影はまた二つに分かれた。けれど、別れ際のあたたかさだけが、指先に静かに残っていた。

 

 

物語の終わり方について

  • エンディングは一つのみが好ましい
  • 各ヒロインのルート分岐などがあっても良い
  • どうでもいい
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