砕けた王玉の欠片に夕陽が反射し、細かな光がハヤテの指先で揺れていた。
「……あの、アーたん」
ハヤテがふと顔を上げる。
アテネは視線を瓦礫に落としたまま、そっと顔だけを向けた。
「そういえばさ。さっき“聞きたいことがあった”って……言ってたよね?」
その問いに、アテネは一瞬だけ言葉を探すようにまつげを伏せた。
胸の奥で、知られたくない小さなざわめきが波紋のように揺れる。
けれど、それを表情に出すほど彼女は弱くない。
「……ええ。でも、聞きたかったというほどではないのよ」
そう前置きしてから、ほんの少しだけ、水面の揺れみたいに声色を柔らかくして続けた。
「ただ――貴方は、今の生活……どうかしら?」
「僕の……?」
「ええ。三千院家でのこと。貴方が、どんな日々を過ごしてきたのか。聞けるなら、聞いてみたいと思っただけ」
アテネは優しく微笑む。
その笑顔には、寂しさも未練も一切含まれていない――ように見える。
「もちろん、話したくなければいいのよ。ただ――」
アテネはそっと視線を上げ、夕陽に溶けるような声で続けた。
「貴方が歩いてきた十年を、知っておきたいだけ」
ハヤテは一瞬きょとんとしたあと、ゆっくりと微笑んだ。
「……うん。分かったよ。ちょっと長くなるけど……聞いてくれる?」
「ええ。いくらでも」
アテネは静かに頷いた。ハヤテは、王玉の欠片をそっと握ったまま、懐かしむように目を伏せた。
「僕の十年なんて、大したものじゃないよ」と言いながらも、
話し始めれば、その声音にはどこか照れと苦笑が混じる。
両親に捨てられ、途方に暮れ、生活のために働き続け、逃げながら、また働いて──幼い頃から無茶ばかりしてきたこと。
まともな家もなく、寝る場所もなく、自分が消えても誰も困らないような日々を過ごしてきたこと。
それでもなんとか、ひとりで立っていたこと。
アテネは一度も口を挟まない。
彼の言葉の端々に滲む孤独が、十年前の自分の姿と重なり、
胸に薄い痛みのようなものが広がる。
でも、それを悟られないように、ただ静かに聞いていた。
「――そんな感じでさ。気づいたら、あっという間に十年経ってた」
照れ隠しの笑みを浮かべるハヤテに、
アテネは胸の奥がぎゅっと締まるのを感じた。
あの城で泣きながら抱きしめた少年は、
彼女の知らない場所で、彼女の知らない十年を――たったひとりで歩いてきたのだ。
ハヤテは少し照れ臭そうに頭をかいた。
「……まぁ、その後の僕は、ただ必死だっただけだよ」
語り口は軽い。けれど、内容は軽くない。
ひとりで働き、走って、転んで、それでも起き上がって、また働いて。
頑張れば状況が良くなるわけじゃないと分かっていても、頑張るしかないから頑張り続けた十年。
アテネはただ黙って聞いている。彼の声音には湿っぽさはまったくない。けれどその淡白さがかえって、彼がどれほど長い時間を“ただしがみつくように”生きてきたのかを物語っていた。
「もちろん、友達もできたしね。西沢さんとか……みんなにはいっぱい助けられたよ」
その言葉だけは、どこか誇らしげだった。たとえどんな日々でも、彼は人との繋がりを力に変えてきたのだ。
「でも─―」
そこでハヤテは、呆れたように笑った。
「うちの両親、僕のことヤクザに売っちゃったんだよね。はは……もう、その時はさすがに“やれやれ”って気分だったよ。悲しいとかも無くてさ」
あまりにも簡潔に、あまりにも軽く言うので、その無感情さが逆にアテネの胸を強く刺した。
十年前、城の中で泣きながら決別してしまった少年。その彼が、こんなふうに笑って話すまでに、どれほどの絶望を越えてきたのか。
アテネは表情を変えないよう、指先にそっと力を込めた。
「それでね。無一文になるし、追われるし……もういよいよダメだ、って思った時」
ほんの一瞬、ハヤテの瞳に柔らかい光が宿った。
「お嬢様に、拾われたんだ」
その瞬間、アテネは息をのみそうになった。ハヤテの声はどこまでも優しかった。
「だから、僕は今ここに立ってられる。アーたんも、助けることができた。お嬢様が何も言わずに、『やるべきことをやれ』って送り出してくれて」
「貴方の、お嬢様が?」
「うん」
ハヤテがそう答えると、アテネはわずかに視線を伏せ、胸の奥がそっと揺れた。
(貴方を救ったのは……その人なのね)
言葉にはしない。けれど、その考えがひとしずく落ちて波紋になる。
雪片のような瓦礫がひらひらと落ちる中、アテネはそっと問いを紡いだ。
「……その方は」
声は驚くほど落ち着いていた。けれど、その奥底には自分でも気づきたくないざわめきがある。
「貴方の“お嬢様”というのは……どんな方なの?」
ハヤテは少し考えるように目を細める。
「えっと……三千院ナギお嬢様のこと?」
「ええ」
アテネは静かに頷いた。
「貴方を拾って、守って……いまの貴方を支えてくれたその人が、どんな方なのか。ただ……聞いてみたかっただけよ」
それはまるで、十年のあいだ空白になったページを一行だけでも埋めようとするような声音だった。
「そうだなぁ……お嬢様は」
そう言って、ほんの少しだけ空を見上げた。夜の入り口の光がハヤテの横顔を柔らかく照らす。
「基本的には、いつも怒ってるよ」
「えっ……怒ってる?」
「うん。「なんなのだ!」って。この世のありとあらゆるものに対して「なんなのだ!」って文句を言ってる感じかな」
ハヤテは困ったように頬をかく。
「朝っぱらから太陽に向かって『お前は分かってない』『前に出てくんな!』って怒るし、海に向かっては『人は泳ぐように出来てないから空気を読め』って怒るし、山には『登ると疲れるから平になれ』ってね」
「………」
「ほかにも、コップの水がこぼれれば『裏切った!』とか言うし、ご飯が少し冷めてれば『世の中は不公平だ』とか言うし……」
語りながらも、ハヤテの表情はどこか楽しそうだ。その様子を見つめながら、アテネは少しだけざわついた気がした胸に、そっと手を添えた。
「なんだか……とても大変そうな方なのね」
ハヤテは「はは」と柔らかく笑って頷く。
「うん……すごく大変な人だ」
アテネの心臓が、ほんの一瞬だけ跳ねる。
「でも──」
その言い方が、あまりにも優しくて──温かさすら滲んでいて。
「本当は優しくて、強くて……誰よりも頑張り屋で。お嬢様がいなかったら、僕は今ここに立ってない」
風の音より静かな声だったのに、彼女にははっきりと届く。
「毎日が大変で、振り回されてばっかりなんだけど……でも、お嬢様のおかげで、僕はたくさんの人と出会って、たくさんのものをもらったよ」
アテネは黙って耳を傾ける。それは、彼の言葉の一つひとつを、心の奥で丁寧に受け止めている沈黙だった。
ハヤテは星が瞬き始めた空を見上げて、ゆっくりと目を細めてみせた。
「だから……僕にとって、お嬢様は──」
──命そのものなんだ
夕陽が完全に沈む直前。
ハヤテの笑顔は、どこまでもまっすぐで、どこまでも優しかった
アテネの胸の奥で、なにかが静かにほどけた。崩れるわけでも、落ちるわけでもない。
ただ──
(あぁ……やっぱり)
そっと、優しく悟るように、目を閉じる。
心のどこかでずっと分かっていた。彼の十年は、自分の知らない世界で、誰かに照らされながら積み重ねられてきたものだと。
悲しみがなかったわけではない。胸の奥が少し締めつけられるような、そんな切なさは確かにあった。
でもそれ以上に──
(良かった。貴方が……そんなふうに笑える場所を見つけられて)
アテネはほんの一瞬だけ顔を伏せる。そして、夕闇の風に揺れた金の髪をそっと押さえた。
もし今、泣いてすがれば変えられるのかもしれない。行かないでと叫べば、もしかしたら──アテネは脳裏によぎった考えをすぐに打ち消した。
アテネは、閉じていた目をそっと開き──そして、微笑んだ。
まるで、幼い頃の彼を抱きしめた時のような……誰かの幸せだけを祈る、あたたかな微笑み。
「……ハヤテ」
呼ばれた名に、ハヤテは不思議そうに顔を上げる。
「アーたん?」
アテネは一歩だけ彼に近づいた。
すぐ触れられるほど近い距離。
けれど、触れはしなかった。
「──ありがとう」
その一言は、あまりにも優しかった。
「貴方が歩いてきた十年を……聞かせてくれて。そして……笑って話せるようになっていてくれて。本当に、嬉しかったわ」
もうすべて分かってしまっている。
彼がどこに帰るべきなのか。誰を想って立ち続けているのか。
そして、自分がそこに〝入れない〟ことを。
アテネは、ふっと小さく笑いながら言った。
「ねぇ、ハヤテ。私はね……貴方が幸せであるなら、それでいいの」
夕闇の光に照らされたアテネの表情は、どこまでも穏やかだった。
「だから──ここでお別れしましょう」
その言葉は、涙の代わりに微笑みをまとっていた。
静かで、痛いほど優しい別れ。
ハヤテの瞳が大きく揺れる。
「え?お別れって……どういう」
アテネはゆっくりとかぶりを振った。
「大丈夫。私が貴方を嫌いになったわけじゃない。許せなくなったわけでもないわ。ただ……」
愛しげに、そしてどこか誇らしげに、彼を見つめる。
「貴方の未来に、もう私の〝左手〟は必要じゃないみたいだから」
「あ、アーたん……」
初めて会ったあの日。
絶望の淵にいた彼を、優しく引き上げてくれた彼女の左手──その役割はもう、終わったのだと。
「け、けど……」
ハヤテの声が震える。
それでもアテネは――ただ微笑んだまま。
「私ね……貴方が幸せでいてくれるなら、もうそれで十分なの。それはきっと、あの頃も、今も──ずっと、ずっと」
優しい声。
それなのに、なぜか胸が締めつけられるほど痛い。
「だから……ここでお別れしましょう、ハヤテ」
その瞬間。
彼女の微笑みは、祈りのように美しかった。
ハヤテは何か言おうとしたけれど、言葉にならない。
アテネはそっと一歩、後ろへ下がる。
まるで、彼の未来を邪魔しないように道をあけるように。
「行きなさい。貴方には……帰る場所があるでしょう?」
風が二人のあいだを通り抜けた。
その風に揺れる金の髪は、泣いてはいないのに、どこか儚かった。
「アーたん」
一歩。ハヤテはアテネの方へと足を踏み出す。そしてもう一歩──
「ねぇ、ハヤテ」
彼女の瞳には、うっすらの雫が滲んでいた。
それが彼の足をピタリと止めてしまう。
「私ね……貴方のことが好きだったのよ」
──アテネ。天王州アテネ。この星で最も偉大な女神の名よ
──私の左手くらい、貸してあげますから
──貴方、私の執事をやりません?
拳を握りしめる。脳裏に過ぎる、彼女との思い出がとめどなく。
──本当に、仕方ない子ね……ハヤテは
──やればできるじゃない。偉いわ、ハヤテ
── いつか、ハヤテからの指輪を楽しみにしていますわ
胸が張り裂くように突き上げ、ついに目頭からは熱いものが溢れ続ける。
──アーたんは、お父さんもお母さんもいないから……ッ
──ハヤテなんて、ここからいなくなっちゃえばいいんだ!!
堰を切ったように、後悔が、懺悔が、想いが。
──私ね……貴方のことが、好きだったのよ
「僕も……ッ!!」
ハヤテは躊躇っていたもう一歩を踏み出した。
「僕も、君のことが好きで……!!ずっとずっと、大好きで……!!」
「──ッ」
「だから!!だから……ヒドいことを言ってしまったのを……ずっと謝りたくて……」
だから……
ごめん……
「ごめんね……アーたん」
とめどなく溢れる想いは、あの日の景色を滲ませる。
2人が出会った、庭城の花畑──
少年は、ひたすらに涙を流す。
少女は、優しく微笑みかける。
「相変わらず……泣き虫なのね、ハヤテは」
「アーたん……」
「別にそんな事、怒っていませんわ」
少年はどこまでも優しくて。それは少女も痛いほど分かっていて。
「でも、ありがとう。私は貴方のそういう所が、大好きよ」
かつての約束。
いつまでも一緒だと信じて疑わなかったあの日から──
「だけど、私はもう大丈夫だから」
少女は少年の頬に触れると、目を閉じた。
「私の為に流す涙は……これで最後」
重なる二人の影が、そっとふるえた。
どちらともなく寄り添うように形を変え、夕闇の色にゆっくりと溶けていく。
風が静まり、世界が一拍だけ息をひそめる。その短い沈黙に、十年分の言葉が触れあった。
やがて――影はまた二つに分かれた。けれど、別れ際のあたたかさだけが、指先に静かに残っていた。
物語の終わり方について
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エンディングは一つのみが好ましい
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各ヒロインのルート分岐などがあっても良い
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どうでもいい