浅倉透と言えば、彼女の通っている高校では指折りの有名人だ。ガラスを幾重にも重ね合わせたような氷肌玉骨の顔立ち、響き渡りそうな玲瓏なる透き通った声もさることながら、クールで物静かで、捉えどころのない立ち振る舞いを見聞きした者たちは皆、神秘的な予感をせずにはいられない。その高貴なる雰囲気に、誰もが羨望を抱き、そして畏敬の念を以って遠巻きに跪拝するのである。
一方、彼女の幼馴染である樋口円香という少女にとっては、透という少女とはそのような神のお告げを受けた巫女みたいなものではなく、どちらかと言えばただぼんやりしているだけの少女に近かった。円香の他、市川雛菜と福丸小糸の二人の幼馴染も同様に、透に対して大した幻想は抱いていなかった。
この幼馴染たちだけだと、円香もそう思っていた。
「あっ、ハチだ。おーい、ハチー」
いつものように四人で下校する放課後の時間。グラウンドを横切ろうとしたところで、誰かを見つけた透は、その人に向かって手を振った。黒髪の頭頂部からアホ毛を伸ばした、身長が高く、目つきの悪い猫背の男子生徒である。
呼ばれた彼の名前は比企谷八幡。透の従兄弟であるらしい。透とは幼少のころから何度も会っているらしいが、円香ら幼馴染組が彼の存在を知ったのは高校に入ってから。
その彼は、やおら透に顔を向けると、逸るでも、まごつくでもなく、面倒くさいのに絡まれたと言わんばかりに渋面を浮かべた。驚くべきことに。
透が声を掛けると、いつも顔をしかめてシカトする。それでも彼女は、
「そういうもんだよ、猫なんだし」
と、いつもそう言って、気分を害した様子もなく、見かける度に彼に声を掛けては、にべもなく無視されている。このやり取りは透の知名度に伴って、悪い方向に有名だ。何せ学校の高嶺の花に声を掛けられて、こともあろうに袖にしているのだから、当然。
そんな彼の態度を見て、誰が言ったのか、いつの間にか彼はこの学校で『黒猫』とあだ名されていた。
黒猫が横切ると不吉――という迷信になぞらえて。
このあだ名のせいで、彼の評判の悪さに拍車が掛かった。ものの、他方で、どんなに釣れない態度を取ろうとも透に構ってもらえている彼の立場を羨んでいる生徒も、男女問わず少なからず居る。幸運なのか不運なのか分からないものだ。
で、今日も例によって、比企谷はシカトしてさっさと行ってしまうのかと思いきや、
「おっ……。来た、来た……」
ところが比企谷は、そのまま去っては行かず、足を透の方に向けて歩み寄ってきた。
「おう、ちょうどよかった。お前アイドルやらね?」
あまりにも唐突な、スカウトの言葉であった。いきなりすぎて、本当にアイドルへのスカウトの言葉なのか、それとも、言葉足らずなだけで別の意図の言葉であるのか判然としない。
「あは~♡ 喋った~。雛菜、ハチ先輩の声初めて聞いた~」
と、仮にも二年生の先輩に向かって、一年生の雛菜が何やら失礼なことを言うが、当の彼はジロリと眼を彼女の方へ動かしただけで、取り立てて追及はしなかった。
代わりに、雛菜の横に居た小糸が、
「ぴぇ……」
彼の目に怯えた反応をした。それを聞いて比企谷は動揺した。
「あ……、え……と……、す、すみません……」
先輩に無礼な態度を取ってしまったと小糸は、ただでさえ消え入りそうな声を更に尻すぼみにさせながら、涙目で謝罪をした。
「あー……、いや、別に……。俺も、態度が悪かった……」
比企谷は訥々と謝罪を返して、気まずげに小糸から目を逸らすように、透に視線を戻した。
しかし、雛菜の言う通り、円香らが比企谷の存在を知り、透が彼に声を掛けるようになって一年、彼の人となりはおろか、声すら聞いたことがなかった。初めて聞く彼の声は、とにかく低いの一言である。愛想とか、聞き取りやすいとか、声を飛ばすとかを考えないで、声帯を震わせるだけの声だ。くぐもっていて、気だるげな声。
しかしその愛想の悪さとは裏腹に、小糸が怯えた時には、微かにだが声が高く、柔らかくなっていた。人相の悪いように見えて、意外に気は強くないようだ。
「それにしても、突然じゃん、アイドルにスカウトなんて。何だっけ……キャッチっていうんだっけ? そのバイトでも始めたの?」
「そりゃ新宿とかでボッタクリ飲み屋に誘ってくる連中のことだ。この場合は女衒だろ」
「そー、それ。で、何でそんなことやってんの?」
「親父の伝手で、芸能事務所でバイト始めさせられたんだよ。そしたら今度は、スカウトの経験と称して、断られてもいいから目ぼしい女の子スカウトして、その詳細をレポートにまとめて報告しろとのことだ。可能なら、相手に事務所の名刺を渡しておけってな」
「で、私に声を掛けたってわけね」
「顔は良いからな、お前は」
「ふーん……、伯父さんのねー……」
と呟いて透は何やら考え込み、ふと合点が行ったように、おっと声を漏らすと、
「ハチのバイト先、当ててあげよっか? 283プロダクションでしょ」
「は……」
虚を突かれたように比企谷が声を上げる時、透はスカートのポケットの中から一枚の名刺を取り出して、
「にしし、こういうこと……」
いたずら小僧っぽい声で透は得意げに掲げて言った。
「いや見えねえんだけど、紙面真っ白なんだけど」
呆れた様子で比企谷がつっこんだ。それもそのはず、表裏が反対だ。比企谷に向けられているのは名刺の裏。肝心の表は、円香のほうから見えていた。道理で比企谷には見えないはずだ。
「おっとっと……、いけない、いけない。こっちだった。へへへ……」
惚けた笑い声を上げながら、透は名刺をひっくり返して見せた。
先ほどから、その声や笑い方は、円香たちが聞いたことのないものであった。いつもは比企谷に声を掛ける声しか聞いたことがなかったもので分からなかったけど、今の透の声はあまり女の子らしくなく、むしろ悪戯仲間と会った悪ガキのそれであった。
名刺を見るや比企谷は、うわっ……とげんなりした声を漏らした。
「そ。既にスカウトされてたんだ、ハチの勤め先のプロデューサに。受けてみよっかなー、どうしよっかなーって考えてたところなんだけど、ハチが来たってことは……受けるべきってことだよね」
「おいおいちょっと待て。大体お前、今までスカウト受けてこなかったろ。それがどうして、今回は受けようか迷ってんだ」
「何って……。にしし、何だと思う?」
「知るか。あれか、お前をスカウトしたのは、例のジャングルジムのスパイダーマンだってのか」
「おっ……、正解。さすハチ」
「くそ、当たりかよ……。当たってほしくなかったってのに……」
ぼやく比企谷は、心底やりづらそうであった。解らなくもないことだ。透と対話をするのは、まるで雲や霧に話し掛けるようなもので、手ごたえがないかと思えば、不意に行き止まりにぶつかることもある。見たところ彼は人との会話は不得手であるらしいから、今まで透を避けていたのは、会話が成立しているのかしていないのか判らない彼女を相手にするのを厭ったからだろう。
そんな比企谷の心情を知ってか知らずか、マイペースに透はクスクス笑い、
「昔から……、十年前のあのジャングルジムも……、そして今度もそう。ハチが寄ってきてくれるのは、良い事の予感。やっぱりハチは、幸福を運んできてくれる――黒猫なんだね」
と結んだ。
ひどく突飛で、荒唐無稽な言葉である。が、澄んだ声調で紡がれたその言葉は、思わず信じてしまいそうな、信じたくなってしまいそうな、説得力と言うか、宣託と言うか、とにかくスッと腑に落ちるのである。
「だから黒猫じゃねえって言ってんだろ、俺は人間だ。この電波が」
ただ一人、比企谷を除いて。
「折角だ、後ろの三人もどうだ。奇しくも皆顔が良い」
と、比企谷は円香らをチラッと一瞥して透に視線を戻して言った。
「やは~♡ 楽しそ~! 雛菜、透先輩がやるなら行きた~い。あと~、ハチ先輩ともおしゃべりしてみたかったんだ~♡」
と言いながら、出し抜けに雛菜に迫られて、
「う……、うす……」
比企谷は分かりやすいくらいたじろいだ。
只者ではない。と思わせておいて、やっぱりただの陰気で冴えない眼の腐った男子高生。およそ、大物になるようには見えない。
だが、この腐った眼の男子がのちに、このアイドル戦国時代を駆け抜け、283プロダクション黎明期を支えたメンバーの一人となり、『283の黒猫』というちょっと中二臭い異名を取ることになる。
また、この出会いが、樋口円香と比企谷八幡の因縁の始まりになろうとは、誰が想像したであろうか。
今書いている隻狼と鬼滅クロス書き終わったら書くかもー。