時間はジュラとイオンが生前のカブウを討伐する直前に遡る。
ここトトルス村の守護天使ゼロ・ゼロは近くの木立にハンモックを張って寝泊まりし、ダメージの回復に努めていた。
とはいえそう仰々しく言うほど酷いものでもなく体の方は既に完治しようとしているが、問題はむしろ精神的な部分にある。
ただでさえ吐き気を催すような任務で遣わされてきているというのに、初っ端から何処の馬の骨とも知れぬ…いやまぁ自己紹介されたから知っているのだが、とにかくその小悪魔に惨敗を喫したのだ。
幸先が悪いどころの話では無い。
同期では戦闘技能最優秀と評され尊敬を集めていた自信が瓦解しかけている。
こんな精神状態では任務は間違いなく失敗に終わり、若くして得た守護天使という名誉ある立場を失うことにもなりかねない。
かといって悶々とした気分を晴らす方法がそう都合よく思いつくでもなく、結果的にゼロはただ無為に日々を消費していたのだ。
ふと気づけばもう朝日の頭が見えている。
たまには空を飛ばなければ翼が凝ってしまう、黒い羽根を震わせて肩甲骨周りをほぐすように伸びをしつつ垂直に舞い上がった彼が見たのは、西の森からゆっくりと姿を現した二輪台車に乗った血まみれの怪物ガエルとこれまた血まみれのジュラの姿であった。
平和な村に似合わない鉄臭さが風に乗って届き、その光景が夢や幻でないことを伝えている。
ゼロがボーッと見ている間に台車を引いてきたジュラとイオンが辺りの戸を叩いて周り、騒ぎはどんどん拡大していく。
太陽が天頂に至る頃には既にカエルは細切れになって大鍋で煮込まれ、地界に降りてからは木苺や野葡萄ばかり食べていたゼロも匂いに誘われ広場へと集まっていた。
『よし、今だ!』
シェフの掛け声で大きな鍋に見合う大きな蓋が開けられ、辺りは一瞬旨みを潤沢に含んだ湯気に覆われた。
晴天の下人々は鍋に殺到し、その圧力に思わず後退りせざるを得ないゼロ、結局彼が手をつけることができたのは鍋の中身が半分以上減ってからであった。
押し合いへし合いしながらようやく手に入れた一杯、まずはスープを啜る。
美味、圧縮された鶏のブイヨンのような複雑な旨みを数種の香草が過不足無く補強している。
香りだけでなく体内から湧き上がる熱からも味の決め手は生姜であることが窺えた。
スープを堪能した後はいよいよ本命の肉をいただこう。
水分は少ないが決してパサパサとはしない肉はスープよりも素直に味を舌に伝えてきておりこちらもまた美味である。
爽やかな脂と歯ごたえの良い筋繊維が織りなす単純で尚且つ飽きの来ない味、ここは何処の部位か想像を巡らせながら食べるのもまた楽しい。
元のビジュアルがカエルでなければより美味しくいただけるのかも知れないが、それを言うのは礼を失するというものだろう。
結局、鍋の中身を貰って仮拠点に持って帰ったゼロであったが料理を味わって尚彼の精神にのしかかる重みは余計に増すばかりであった。
天使は大地に背をつけポツリと言葉をこぼす。
『美味いもん食べたら消えてくれると思ってたが…この感覚、何にぶつけりゃいいんだ…?』
『教えてやろうか?弱き者よ。』
何気なく発した独り言に答える声が上がり、彼はハンモックから飛び降りつつ身構える。
彼の視線の先にはもうだいぶ沈んだ夕日に照らされて仁王立ちする世界最強の生物、箱の男の姿があった。
男はいかにも度数の高そうな酒を瓶から直接喉へと流し込み、真意の読めない笑みを浮かべている。
『何か用かバケモノ?お前もこの村に危害を加えるってんなら…』
予備動作すら捉えられずゼロが地面に倒れ伏した。
それも当然、これは明確な殺意を持って対象を睨みつける…ただの威圧である。
『ステイステイッ!噛みつかないのっ…と、クク…用ならもう伝えただろう?アドバイスをくれてやろうと思ってな。』
『アドバイスだと?余計なお世話だ暑苦しい。とっとと消え失せろ、さもなきゃ冷やし殺…』
次は口すら引き攣って動かせなくなる。
まるで星そのものが強く体を押さえつけようとしているかのようだ。
『噛みつくねえ噛みつくねえ、ボリボリだなぁ!だが!強気は弱音の裏返しと言う。そんなに許せないか?自分を負かした後、大ガエルとの決闘を制し、あまつさえ調理までして見せた男が!』
確かにあの悪魔はいけすかないに絶対に反りが合わない自信もあるが…。
『ぐ……あ…ち………がう……憎…いのは…自分……だ…』
『そうかなぁそうかなぁ⁉︎彼さえいなければ今頃お前は胸張ってオシゴトに迎えたんじゃあないかなぁ⁉︎』
挑発にしてはおかしな文言だ。
そう思えたらどれほど楽だろう、だが彼もまた自分の心に目を背けるなどできない愚かな勇者であった。
『弱…さは当人……の罪…だ………俺を…この…ドブ川の様な…精神から……引き上…げ…られるのはっ…自分だけだ!』
やっとの思いでそう言い終えた時、体が軽くなる。
『なんだ、わかってるじゃないか。そう、自分を変えるためには自分が変わるしか無い。1つの真理だ。そうそう、彼等は旅に出るんだとさ。なら、取るべき手段もわかっているだろう?』
直視したくなかったモヤモヤを言語化し、妙にスッキリした気分で立ち上がったゼロは懐から羊皮紙と羽根ペンを取り出し何やら書き始める。
その様子を満足げに見た箱の男はくるりと後ろを向き、歩き出した。
『時計が日の境界を示す頃、また来よう。それまでに仕上げておけ。では、俺は歌自慢大会とやらの司会を任されているのでな、失礼する。』
ゼロからの返事は無かったものの男にとっては大満足であったようだ。
ちなみに、歌自慢大会はトトルス村の歌姫of歌姫と名高いクエーツクエーツさんのワイフが優勝した。
翌日早朝、朝日も姿を見せぬうちにゼロは出発の準備を整えていた。
『随分早い出立だな、前世は雄鶏か?それも特別早起きの。』
『さあな、知りようが無い。天界じゃ自分の前世を故意に探るのはルール違反だ、消される。それよりさっき渡した手紙、ちゃんとコウモリヤローに渡しとけよ。』
『そこはもちろん抜かりなく。けしかけた責任もあるしねぇ。』
相変わらず何の気配の無い箱の男に対し警戒を緩めることなく翼の調子を確かめる。
数日ぶりのまともな食事をとったからだろうか?
いつもより羽根の艶が良い気がする。
『あ、そういえば…おい箱の男、こんな奴を見たことはないか?』
ゼロが懐から取り出した手配書にはその物々しいデザインに似合わない優男のような顔写真が貼り付けられていた。
『ホウ、大概のお尋ね者は把握してるつもりだったがこいつは見たことが無い。何処の何奴だ?』
『「大天使」馬斬のアド・アド、先日天界にて禁忌の神殺しをやらかした大罪人だ。…俺はその討伐任務を受けてきている。』
『大天使か!そりゃあ強そうだ…ヨダレがでちまうなぁ。』
『勘違いするな、別に倒してくれと言いたいんじゃない。始末は俺がつける。手を出すなよ。』
『貴様の言葉ごときで俺を縛れると?俺が味方だと勘違いしてるのか?』
突如放たれる殺気に近くの茂みからは寝ぼけた野鳥が飛び立ち、ゼロの羽根が全て逆立つ。
『ククッ、とはいえ俺は暫くここに留まる気分だ。そうそう出会いはしないから安心しろ。お前の出世を邪魔したりはせん。』
『…出世なんざクソだ、どうでも良い。じゃあ俺は行く、色々と頼んで悪いな。』
『なぁにいくら頼まれても俺が動くかは俺次第だ。恩に報いる気があるなら精々俺好みの強者になれ。』
『やっぱそういう魂胆かよ…じゃあな、道が再び交わるならまた会おうぜ。』
黒翼の天使ゼロ・ゼロは春の朝ぼらけに舞い上がった。
『さて、まずはどこへ行くべきか…やっぱ暑がりは克服した方がいいよなぁ。加えて人口も多いと尚良し…ここだな。』
雲に寝そべりつつ地図を眺めていたゼロが目的地に決めたのは中央連合北端に位置する「オトト地区」、世界有数の貿易都市を有し世界中の物と人が集まる前衛的芸術家のパレットのような地域である。
当然、情報も立派な商材として取り扱われていることだろう。
難点を挙げるならその距離であるが、こと空での移動という面にかけて天使に勝てるものは少ない。
100km/h近い速度で長時間飛行可能であるのみならず睡眠や軽い食事程度なら速度を保ったまま難なくこなせるのだ。
あくまでゼロの見立てではあるが1週間もあれば到着可能だろう。
彼は地図を折り畳むと翼をほぼ水平に固定し速度を増し始める。
程なくして風を切る黒い弾丸は最高速に達した。
大型の蒸気船に備え付けられた汽笛が鳴り響く。
それは人によっては耳障りとすらいえる音であったが、この町にそれを気にする者はいない。
その音は日常であり、天下を回る金の象徴であり、世界が今日も平穏であることの証でもあるのだ。
接岸した船から人夫が手早く積み荷を下ろし、賑わう市場へと運んでゆく。
その中身はチラリと見えただけでもカラフルな果物や魚の干物、透き通るような布等様々だ。
そんな色とりどりの町にまた一色が加わった。
『ここが「ラッス市」か。天界でもここまで賑わう場所はそう無いな。』
裏路地に降り立ったゼロが足元で這うカニを跨ぎつつ歩き出す。
早速情報収集に取り掛かるのが理想ではあるが、まずは急速が必要だ。
何しろ8日間を移動に費やした彼は疲れ切っており、肩甲骨のあたりが痛くてしょうがないのだ。
回すとパキパキ音の鳴る肩に顔を顰めつつ彼は大通りを見渡す。
ともにもかくにもまずは食事だろう。
しかしどの建物も原色を強調したテラコッタで造られているため、どれがなんの店やら見当もつかない。
申し訳程度の看板はあったりもするが、壁の派手さに印象を吸われて言われなければ気づかない程度のものだ。
『なんて旅人に不親切な町だ…えー、スマナイ店主さん。手近の食事が取れる場所を教えていただけないだろうか。できれば繁盛している酒場がいい。』
品物の準備をしていた露店の店主が振り向くなりゼロを見て目を丸くする。
『あんれまぁ!アンタァもしかして天使様かい?初めて見たなぁ、拝んどこ拝んどこ。』
『…まぁ新米ですが。それより、この近くで良さげな酒場を…』
『ありがたやありがたや〜酒場?そんならそこをビャーっと行ってカッと曲がって宝石商のでかい店をヒュッと行ったところがいいよ。イチオシだぁ!』
『何一つ伝わらなかったがどうもありがとう…それでは俺はこれで。』
『おう!今度はぜひぜひウチでも買い物してくれよなぁ〜!』
フレンドリーだが抽象的過ぎる店主に別れを告げ、得られた少ない情報を元に歩いてゆく。
人通りが多く、肩がぶつかるたびに小声で謝罪しつつ歩き続ける。
これもまたこの町の日常なのだろう。
店主の言っていた宝石店を少し過ぎたあたりでそれは見えた。
塩の結晶で薄く覆われた看板に中から轟く罵声、壁には雑に打ち付けられた売春宿のチラシ…そこはいかにも過ぎる程に一仕事終えた海の男を迎え入れるための店であった。
情報屋の伝手が無い以上、顔の広い船乗り達を頼るのがいい。
酒の一杯でも奢ってやればいい情報が掴めるかもしれない。
潮風で錆びついた扉を開けた彼が見たのは荒れに荒れた店内と大笑いする男達、そして店員に取り押さえられた子供であった。
『うわー!何をするー!はなせー、こちとら客だぞー!』
『チィ、ふてぇガキだ!散々飲み食いしやがって…カネを払えないってんなら金貸しんとこ行くかぁー⁉︎』
『だーかーらー!ツケにしろって言ってるじゃん⁉︎死ぬまでには返すって!噛み付くぞ!』
深く帽子を被った子供が歯をガチガチ鳴らしている。
『ああ、罵声の正体はコレか…店やんのも大変なもんだ。まあ俺にゃ無関係だが。手始めにそこのテーブルの兄さん達、この男を知りませんか?俺と同じ天使なんだが…』
騒ぎを無視して手配書を取り出し、手近なテーブルに向かうゼロ。
『あ、それ知ってるかもー』
男達より先にそう答えたのは床に押さえつけられた子供であった。
『…マジか?』
『マジマジ、大マジ。てか、こないだお金借りたかもー』
『何処での話だ?』
『それ以上聞くならホラ、ネ?わかるでしょ?』
『助かりたいから適当こいてるんじゃないだろうな…まぁそういうわけだ、悪いがウェイターさんソイツを一回解放してやっちゃくれないだろうか。』
『お言葉ですが、いくら天使様といえど我々の店の問題に首を突っ込まないで頂きたい。このガキは食い逃げ未遂で店荒らし、確実に損害分は取立てねばいけません。』
『ああ、子供だろうと罪人が野放しなんて世は不条理だ。俺もそう思う。では、俺が借金を肩代わりする代わりにコイツの身柄を預かりたい。借金の担保は…そうだな、この天使ゼロ・ゼロの名誉では不十分だろうか?』
『…店主に確認します、しばしお待ちを。』
店員が子供から手を離し奥へと姿を消した。
子供は押さえつけられていた手をプラプラさせた後、ゼロに向けて親指を立てた。
『べりーさんきゅー!今回も皿洗いくらいで許してもらえると思ってたけど流石に食べ過ぎたかな。』
『おんなじ手口繰り返してんのか。そのうち殺されるぞ?』
『そこは大丈夫、問題ナッシング。こんな見るからに幼気な子供を殺すなんてアリエナイアリエナイ。』
『うーん嫌なガキ…で、さっき言ってたことは本当だろうな?この男を知っているのか?』
『うん、ここに来る船の中でお金貸してくれてさー。まぁもう飲み食いしてスっちゃったんだけども。』
『刹那的に生き過ぎだろ。それはいつの話なん…』
『おっと、続きは確実な自由をゲットしてからね。』
店員が戻って来る。
『店主曰く、それで構わないとのことです。カネさえ払うなら等しく客であると。』
『話のわかる方で助かる…して、金額のほどは?』
『えぇ…ワイン6樽ブランデー5本ロブスター10尾その他酒・料理諸々…締めて345万6273コンスになります。』
『え、うん、いや、ちょっと待って、うん?』
明らかに本人の体積より多い食材に理解が追いつかない。
『天使様…信じがたい気持ちは理解できますが、コレは紛れもない事実なのです。』
100歩譲って食べた量はいいとしよう、その分の体積はいったいどこに消えてしまったのだ?
この世には質量保存の法則というものがあるのだが?
店員の持つ伝票と子供を何度も交互に見た上で彼は理解を諦めた。
『わかった…払う…ああ、養成院時代から貯めた貯金が…』
この件も上に申請すれば予算として通るだろうか、などと考えつつ小切手を切るため財布を取り出そうとするゼロであったが、肝心の財布がどこにも無い。
最初は別のポケットにでもしまったかとあちこち探るも徐々にその消失が決定的なものとなり顔が青ざめていく。
『どうかなさいましたか、天使様?』
『いや、その、ちょっと…財布が中々見つかんなくてなーアハハ。』
店員の目つきが険しくなってゆく。
もはや万事休すかと思われた時、1人の客が声を上げた。
『ああ、天使様よ。アンタもエリシャにやられたらしいな。この辺じゃ有名なスリだぜ〜よっぽど間抜けに歩いとったんと違うかぁ?』
テーブルから笑い声が巻き起こる。
揶揄われたのは癪だが彼らに頼らざるを得なかった。
『その話、詳しく頼む!』
一時間後、ゼロと子供は店近くの大通りで木箱の陰に身を隠していた。
許された時間は明朝までの半日、それまでにエリシャなるスリから財産を奪い返し代金を支払わなければどちらかは高利貸しor憲兵詰所行きである。
最悪、子供は放っておいて新たな情報提供者を見つければいいのだが間の悪いことに財布には任務のために開設した口座の証文や身分証が入っているのみならず守護天使であることを示す紋章が刻まれており、悪用されれば始末書では済まない。
かくして2人は互いの利益のため、共同戦線を張ることとなった。
『聞いた話じゃエリシャってのは軽装の若い女らしい。ソイツがもう一度犯行するところを押さえる…』
『了解〜でも、ここでやるとは限らないんじゃ?』
「だが、可能性は高い。ヤツはこの町において顔が知れている。なら狙うのは旅行者や行商人が多いこの通りだと俺は睨む。』
『はえ〜なるほど…あ、そうそう私、灯焆 燐(トーエツ リン)見た目はこんなだけど立派なレディーよ、よろしく。』
『突然どうした?別にアンタの名前に興味はないが。』
『まー恩人への最低限の礼儀ってヤツ?食い逃げで捕まるってのも格好がつかないし助かったわ!あ、友達からは燐々って呼ばれてたんだけど、ゼロもそう呼んでいいわよ。』
『わかった、ではリン、最初に頼みたいことがある。静かにしててくれ、潜んでる意味が無い。』
とりつく島もないゼロの態度に燐が頬を膨らませて黙り込む。
楽しい夜にはならそうもない。
彼等が張り込んでから既に数時間が経過していた。
時計は完全に夜を示し、町のガス燈が煌々と輝いている。
燐は呑気な物でゼロの肩掛け鞄を枕にして寝息を立てており、眠気と疲労でゼロの集中力も緩みそうになっていた。
その時、ふと一陣の風が彼の鼻をくすぐる。
今日だけで飽きるほど浴びた潮風とは違うそれが吹いた時、彼はなぜか確信していた。
『ヤツが来る。』
人混みの中をするりと抜けつつ裏路地へと滑り込む旋風、ゼロはそれを追って木箱の陰から飛び出し、燐は枕をすっぽぬかれて頭を打った。
『へっへー、もうけもうけ〜!今日はマヌケが多くて助かりますなぁ。』
風の中から姿を現した彼女の名はエリシャ。
世界各地を練り歩きスリを生業とする皮相浅薄の権化のような若者である。
いつも通り仕事を終えて今日の儲けを数えようとする彼女の首筋に奇怪な冷気が走った。
『その間抜けってのはこんな顔をしてなかったか?』
『へぇ、めんどくさ。端金にこだわっちゃうタイプ?』
振り向いた彼女の目に飛び込んできたのはもう初夏に差し掛かろうというのに霜で覆われた路地とこちらに向けて歩を進めてくる黒い翼の天使であった。
天使は何やら体中から氷柱をぶら下げており、どう見ても迂闊に怒らせていい対象ではない。
彼女は一瞬思案すると、それ以上会話を続けることなく逃走を開始した。
『チィ…逃がすかっ!まさかヤツが風の精霊「シルフ」だったとは…!どうりで気づけないわけだ畜生!」
風を味方にする彼女の身のこなしは軽い、さながら自由意志を持った真綿といったところか。
重力を感じさせない体捌きと庭のように闊歩してきた裏路地という環境のせいか、ゼロは全く彼女に追いつかことができずむしろ徐々に見失いつつあった。
壁を蹴って駆け上った彼女は通り過ぎざまに干してある洗濯物をばら撒いていく。
高速の鬼ごっこ中にそれは決定的な目眩しとなるのみならず、正しさの象徴でもある天使ならば世間体を気にして破壊等の手法が取れないと踏んでのことだった。
予想通りゼロは顔に張り付いた生乾きの洗濯物に視界を遮られ、次の瞬間彼女は隙を逃さず風の中へと消えていた。
肝心なところで相手を逃したゼロは自身の顔に張り付いたものが布オムツであることに気づき、さらに気を落とすのだった。
風が渦を巻きエリシャが離れた路地に降り立つ。
厄介な追手を撒いた彼女は上機嫌だった。
だからこそ、その声はあとはアジトに帰るだけと高をくくっていた彼女を驚かせた。
『見つけたー!我ーが免罪符!神妙に捕まれ!』
子供のような高い声で呼びかけられ、咄嗟に前へと駆け出す。
しかしこれは下策であろう。
何せこの場所から彼女のアジトまではそう遠くないのだ。
たとえ今撒いたところで追い詰められるのは時間の問題だろう。
エリシャはなんとか利用できるものがないか辺りを見回し、前方から歩いてくる人影に気づく。
『お、ラッキー!すみませぇん!あの子供がウチの店から万引きしたんです!捕まえてください!』
相手が体格の良い男であることを確認した途端縋るように助けを求めるエリシャ、元々容姿は良い方と自認しており実際色仕掛けで窮地を脱した経験もある彼女だったが、今回ばかりは目論見が外れた。
『え………?なんで…?』
燐が目を見開く。
彼女の目の前でその男はどこからか取り出した拳銃でエリシャを撃ち抜いたのだ。
硝煙を上げる銃を携えた男の目は鈍く光っていた。
鳴り響く銃声、消音装置によってごく小さいものに抑えられてはいたが天使の耳はその物騒な音を聞き逃さなかった。
すぐさま周囲に洗濯物集めを途中抜けすることを謝罪し、銃声のした場所に向かう。
直後、2発目の銃声が轟きゼロの心中にも焦りが生まれる。
どうにも嫌な予感がするのは気のせいだろうか?
『あの通りかっ!』
最初の銃声から1分も立たぬうちに現場に到着できたおかげか犯人と思しき人物はまだ姿をくらましてはいないようだ。
だが、そんなことよりもっとずっと衝撃的な光景がそこにはあった。
それは胸元を赤く染めて倒れる燐の姿である。
見とめた瞬間、彼は急降下し激しい気流と共に少女の側へと降り立つ。
『大丈夫か⁉︎クソッ、なんでここに…』
肩を揺さぶっても反応は無く、首筋に手を当てても脈は感じられない。
医学的に彼女の肉体は完全に死んでいると言える状態であった。
彼の心にドス黒い不快感が渦巻く。
『オイ、待て…角刈り野郎。ソイツは置いていけ、必要だ。』
彼は一瞥もせず自身の背後でエリシャを担ぎその場を去ろうとしていた黒スーツの男を呼び止めた。
男の足が止まる。
『お互い、何も見なかったことにすべきだ。進んで寿命を縮めることは無い。』
『腐ってるのは耳か?頭か?普段なら財布だけ置いてってくれりゃそれでいいが、今はそんな気分じゃない。』
確かにこの少女はこす狡い悪党だ。
食い逃げだって踏み倒しだって何の罪悪感も無くやるだろう、これまでも、これからも。
だが、それでも、正当な理由も無く冷たい鉛弾で殺されていい理由があるはずは無い。
『財布?金が欲しいならもっと頭の弱そうな奴を狙え。此方は仕事中だ。』
振り向いた男の横を細い氷柱が通り過ぎ、石壁にぶつかって砕けた。
『まぁどっちにせよお前はぶちのめすが。俺はガキ撃って平然としてるようなゴミが悪魔より嫌いだからな。』
氷柱の発射と同時に駆け出し距離を詰めていたゼロであったが、彼は失念していた。
男が先程2人を撃った筈の銃を体のどこにも持っていないことを。
少しでもそのことに思考が向いていれば警戒はできただろう。
しかし、頭に血が上った彼は止まれなかったのだ。
男の体が少し揺らぎ、右手が一瞬木箱に隠れる。
次に右手が見えた時にはそこに黒光りする銃が握られていた。
意識の外から割り込んできた黒い死神にゼロの戦闘経験が警鐘を鳴らすも、男との距離はすでにブレーキが効かない程に短くなっていた。
『では仕方が無い。貴様も死んでいけ。』
何十回と繰り返してきたのであろう動きで放たれた銃弾は慣性に従い、飛び込んできた天使の胸に突き刺さったのだった。
豪速球をバットで打つように後ろへと弾かれるゼロ、男は胸元を赤く染めたその姿に眉ひとつ動かすことなく凶器を手元で浮遊する金属輪に潜らせる。
輪を通り抜けた途端、銃は痕跡すら残さず姿を消してしまった。
すぐに人が来るだろう、そう判断した男は速やかにその場を離れようと再び後ろを向き歩き出し…その背中に声がかかった。
『なるほどな、東方式の魔法か。余った次元に隔離された小世界をつくる方式に長けているとは聞くが、タネが割れたならそれほど怖くないな。』
立ち上がった天使の裾から穴の空いた赤い氷がゴトリと落ちる。
氷は緩衝材の役割を果たし、銃創は皮膚を抉る程度にとどまっていた。
すぐさま金属輪から銃を取り出し、2発の弾丸を放つ男であったがもうそれらが届くことは無い。
弾は空中に出現した氷に埋まり完全に勢いを殺されていた。
冷や汗を浮かべた男の頬に拳がめり込む。
『がわっ!』
天使の腕力で放たれたその一撃はいとも容易く男の眼鏡をヘシ折り意識を刈り取っていったのだった。
男の沈黙を確認後、地面に転がったエリシャの傷口を氷の膜で止血し、手足を氷の枷で拘束する。
上着の背中に穴が空いているにも関わらず銃創は下腹部、つまり入った側にしか見られないのは不可解だが今の彼にはどうでもいいことだった。
最後に己の傷口を塞いだ彼は沈痛な面持ちで離れた場所に横たわる燐の元へと向かった。
『アンタも大概ワルだが、死なせてしまったのは一重に俺の注意不足だ…本当に申し訳ない。いずれまた巡り会うことあればなんとしてでも埋め合わせを果たそう。貴女の魂魄に安寧のあらんことを…』
『え?今なんでもするって言った?』
硬く閉ざされていた燐の目がパッチリと開いた。
パニックを起こしそうな頭を押さえつけ、もう一度手首から脈を計る。
依然変わりなく、脈は無かった。
『いや〜何頼もうかね〜、何をおいてもまずは高級レストラ…』
『いやいやいや、そこはヒトとして!大人しく成仏しとけよ!心臓止まって生きてるヤツがどこにいる!』
『ヒドイ!私にまた死ねと言うのね⁉︎あ〜傷つきましたぁー』
2人は全く気づいていなかったが、この時彼等の背後でのびていた黒スーツの男の体が突如痙攣しむくりと起き上がっていた。
男の胸元から焼けこげた紙切れがハラリと落ちる。
それは呪文が書かれた魔法のお手軽起動スイッチ、男は全身の筋肉が弛緩した時気つけに十分な電流を発生させる術を仕込んでいたのだ。
背後を取った有利な状況、先程まで使っていた拳銃はゼロに奪われてはいるが問題はない。
金属輪から2丁目を取り出し、静かに弾を込める。
そして、ゆっくり狙いを定め…
バタリと何かが倒れる音がした。
すぐさまゼロが後ろを振り向き、起き上がった燐はその背中に隠れた。
彼等が目撃したのは股間を押さえて倒れ伏す男とその後ろで得意げに何かを蹴り上げる真似をしているエリシャであった。
『どうやって枷を…!』
『そんなのどうだっていいじゃない?それより、このオジさんに撃たれるとこだったんだし、もっと感謝してくれない?』
『ああそうだな、ありがとう。で、なぜ助けた?そのまま逃げればいいものを…』
『傷塞いでもらったしょ?借りは作りっぱにするなって姉貴から言われてんの。それに…』
エリシャはゼロに財布を投げ渡す。
『お人よしの天使様にちょっと頼みたいことできたし。』
男が目を覚ましたのは硬いゴザの上であった。
『お、やっと起きた。へーい、天使様ー出番ですぜー!』
エリシャの声で本格的に覚醒した男が当たりを見回す。
そこは薄汚れた暗い掘立小屋の中で、周囲には自分が心臓を撃ち抜いた筈の2人と土手っ腹を撃ち抜いた筈の1人が座っていた。
『なんだここは?彼の世か?』
『違うな、尤もこれからそこに行くかどうかはお前自身の態度で決まる。正直に答えろ、なぜコイツやリンを撃った?コソ泥はともかく無関係の子供まで撃つのは理由がある筈だ。』
枕元に座ったゼロの冷たい視線を男は鼻で笑う。
『機密事項だ。言うことは無い。』
首筋に氷の刃が突き立てられる。
『もう一度だけチャンスをやる…言いな。』
『くどい、この業界は『信頼』で回る。雇い主への裏切りは最も唾棄されるべき行為だ。』
『それが答えでいいんだな?』
『吐かせられるものならやってみろ。拷問程度に屈することは無い。』
『そうか、残念だ…というわけだ、やっちゃっていいとさ。』
『しょうち〜』
エリシャが有刺鉄線の巻き付いた木の棒をスイングしている。
本能が逃避号令を発しているが、体は床に張り付いたように動かせない。
『…一応聞いておこう、これからその棒で何をするつもりなのかを。(震え声)』
『今度は機能停止になってもらおうかと。ダイジョーブダイジョーブ、オジさんにはもう一個あるから。明日はいいことあるって〜』
『ホント…博愛の天使として残念に思うぜ。来世は頑張れよ。1〜2の…』
男が手を挙げた。
『さる高貴な相手からの依頼でな…機密文書及びそれを盗んだ犯人を確保し連行せよとのことだ。(早口)』
『信頼が大事なんじゃなかったのかよ…それで?具体的にはどこが?』
『それだけは言えな…「ミクラミ王国」の貴族だっ!障害となる者の抹殺も仕事のうちだったのでお嬢さんも撃ちましたぁ!』
エリシャが棒を振り上げたのを見て即座に返答が変わる。
無論出鱈目の可能性は残されているが、必死さからなんとなくそうとは思えなかった。
『なんか、しぶとそーなヤツだなアンタも。』
『潰されたら仕事どころではないからな…しかしこれで私も抹殺対象だ…しばらく身を隠すか。』
『そこでお2人さんに相談をば。この私、エリシャのボディーガードやりません?報酬はコイツで。』
エリシャがいつのまにか引っ張り出してきていた高そうなカバンを開ける。
『例の機密文書?かと。薄々ヤバそうと思ってはいたけどそこまで大事なモノだったとはってカンジで。自分は学もないもんでなんのこっちゃわかんなかったけど報酬には十分かと。』
そこにはミクラミ王国他と兵器開発売買グループ「黒子鷺」との間で行われていたであろう闇深い貿易の記録が事細かに記されていた。
表向きの理由はあるが、中身は忌むべき目的で使われるであろうモノばかりだ。
『間違いなく本物だ。この文書だけで数百人は首が飛ぶだろう…いや、使い方によっては国を創るも壊すもできるシロモノだ。』
男の青い顔と見開いた目が文書の価値を示していた。
『これをどうやって?カバンにも魔法的防御が幾重にもかけられていた筈だ。』
『これは自慢だけど、自分ピッキングに関しちゃ一流ですから。こう女侍らせててマヌケで金持ってそーなのからスリ盗ってちゃいちょいと。まああんときは金入ってないからムカついて机の下突っ込んだんだけど。自分じゃ使い方もわかんないしたぶんこれ素直に返しても消されるじゃん?だったら使うのはオジさんと天使様に任せて代わりにほとぼりが冷めるまで守ってもらおうかと。』
『だが、上は犯人の死体が無ければ満足しないだろう。』
『そんなもんその辺でくたばってるので誤魔化せるって。ほら、みんなシアワセ!』
『ちょっとまて、俺は別にやる意味が…』
『ハイハーイ!ゼロも参加を表明してまーす!』
燐がゼロに断りもなく賛同する。
『ちょっ、おま…何勝手に決めて…』
『なんとしてでも埋め合わせするとか言ってたの誰だっけぇ〜』
『チクショウ‼︎クタバレ‼︎2時間前の俺‼︎』
『金の卵の養鶏場をゲットしてしまったわ‼︎遊んで暮らせるわよぉ〜!』
『いよぉーし!それじゃまずはこの町を出てなるべく田舎へ逃げるぞー!』
2人で盛り上がる燐とエリシャ、男衆が口を挟む間も無く彼女達によって明日出発の予定が決められたのだった。
『まず予定はこう、本日明朝天使様はリンの身柄を解放するために代金を支払いに行く!』
『同時に、おじさんは依頼人と会って文書の複製を渡しに行く!その前に犯人役の死体が要るけど…これはまぁ今夜外れの墓地から掘り出してきましょ。確か3日前に港で死亡事故があったから新鮮なのが手に入るはずだわ。』
『いや、文書自体にも様々な魔法印やら加工が…』
『ヘイヘイオジさ〜ん、ここはあらゆるものが集まる港町。贋作師もゴロゴロ居るし仕事も速いよ!ツケOKだし!』
『『準備終わったら適当に出発‼︎』』
行き当たりばったり過ぎる彼女達のエネルギーに反論する気力も失せた男2人は顔を見合わせて互いの不幸を分かち合うのだった。
今宵は曇り空、月も星も100%の光を地上に届けることは難しいとみえる。
いつもより少し暗い夜道をスコップを担いだ不審者集団が歩いていた。
集団の先頭は夜風を楽しむエリシャである。
『このひどい道をよく明かりもなくスイスイ歩けるな。』
『自分、夜目は効く方だし。天使様も夜行性になったら変わるよー。』
『…できれば規則正しい生活を推奨する。』
『今更ではあるが、全員傷の方は大丈夫なのか?タフなゼロはともかく貴女方は確かに心臓と肝臓を撃ち抜いたはずだが。』
『ゼロもそうだけど酷いわー、皆そんな私を殺したいの⁉︎ヨヨヨ…』
『あー!オジさんがリン泣かせた!これはもう許されませんなぁ。』
『勘弁願う…』
『ま、種明かしすると私は人間じゃなくて「雪女」っていう魔物でーこっちじゃスノーチカって呼ばれてるんだっけ?まぁそういうもので、どっちかっていうと霊体に近いから肉体的なダメージはあんま気にしなくていいの。多少は血も出たりするけど。』
『雪女…聞いたことがある。たしか強いう…』
『自分も同じようなモンで精霊の一種ってのが理由ってことにしといて。』
男が言葉を中断したのはエリシャが遮ったからではない。
にこやかに語っていた燐が笑顔のまま彼を冷たい目で睨みつけたのだ。
決して割れない薄氷のような瞳が男の心を芯から射竦め、その内なる豹変に思わず口を噤んでしまったのである。
ゼロは怪訝な表情を浮かべているものの彼女の変貌には気づいていない。
『魔物が食い逃げなんかしてるなよ…しょうもない…』
『後で払うっつってんのに聞かないんだもんあの店員。絶対払うのに、100年後くらいに。』
寿命の長い魔物ならではのタチが悪いやり口である。
『そういや、お互い名前も知らなかったな。俺はゼロ・ゼロ、さる村の守護天使を務めている。』
『これから嫌でも一緒に動くことになるしねー、私灯焆 燐。燐々って呼んでくれていいわっ!』
『エリシャ・ラシリアよ、苗字は姉貴に伝わると嫌だから他言無用でよろ。』
『これ、どうしても言わなければダメだろうか。』
『あったりまえじゃん。これからずっとオジさん呼びじゃ味気ないでしょ?』
『山威 汽穂(ヤマイ オチボ)だ。どうも灯焆とは同郷らしい。』
『あら〜、じゃおじさんは雪男?』
『一生人間だ…‼︎』
『じゃあ渾名はオッちゃんね!いい響きだわっ!』
『オッちゃん!オッちゃん!』
『大して変わっていない…』
そうこう話しているうちに一行は墓地へと着いていた。
燐が墓碑銘を見て探し当てた水夫の墓は確かに真新しいものでハッキリと3日前の日時が刻まれている。
『じゃ、明るくなる前にやっちゃいますか!』
ザクザクと土を掘る音が静寂を乱していく。
『やっててなんだが…天使が墓暴きなんてかなり終末的な絵面なのでは?』
『いや、誰がやっても墓暴きは終末的だろう…それより気にすべきは複製品も死体偽装も全て浅知恵でしかない点だ。上の怒りを買うまでそう時間はかからない…ハッキリ言って無鉄砲だ。』
『ちょっとだけ誤魔化せればいーの、明日の今頃にゃ自分らこの町いないし。お、なんか硬いの当たった!棺っぽい。』
『よし、もう一踏ん張りよー!』
周囲にちょっぴり湿気った木の匂いが漂い始めた。
『確かに、受け取りましたよ。貴女は出禁ですが、天使様はいつでもまたのご来店お待ちしております。』
お辞儀する店員に見送られ、ゼロと燐は店を後にする。
嫌味を言われる度噛みつこうとする燐を止めるのが大変であった。
『こっちの準備はこれで終わりか。さーて、洗いざらい全部話してもらうぞ。そのために貯金ほとんどはたいてきたんだからな。』
『わかってるって〜、あれは1月半くらい前私が密航中に船内賭博で全財産スッた時のこと…』
『お前想像以上にカスだなぁ。もう逆に尊敬するよ。』
『なにせ魔物ですから。オケラ状態でパン一つ手に入れられない私、もう厨房に棲みついて残飯漁って凌ごうかと思ったその時!私の前に天使が現れたのよ、文字通りの!』
『勿体ぶらなくていいから続けろよな。』
『一等船室で食べかけのスコーンを漁っていた私に片翼の天使様は何も言わず紙幣を手渡して見ないフリをしてくれたわ!私は早速久々のまともな食事にありつき、到着までをその人の部屋で過ごすことにしたの。』
『一等船室ってあたりが実に浅まくて好感が持てる。片翼か…なら俺の探す相手でほぼ間違いないな。どこへ行ったとかはわからないか?』
『えーと、地図だとサーペルタ自治区ってところの「ゴンドワナ」って場所に印付けてた気がする。』
『なるほど…じゃあ他に希望がなければ当面の目的地はそこでいいな。まったく、有力な情報だが対価に見合わんぜ。』
『こんな美少女を連れ歩ける役得を味わってるくせに、この贅沢さんめ。』
『言ってろチンチクリンめ。』
『フム、流石はヤマイ君仕事が早いね。』
海辺が見えるホテルのスイートルームで小太りの男が椅子に腰掛けたままテーブルの上の文書を眺めていた。
『見たところ欠けも無さそうだ。それで、カバンを盗んだバカはその背中の袋に入ってるのかい?』
『はい、ここで申し上げるのは憚られるような方法で殺し、運河に落としてしまったので非常にグロテスクにはなってしまいましたが…ご覧になられますか?』
小太りの男は山威が布に手をかけるのを慌てて制止した。
『えぇ、おん、オホン…それは後で部下がやっておこう…ともかく、ご苦労だった。もう暫くは滞在するからよく骨を休めてくれ。』
『はい、御言葉に甘えて休息を取らせていただきます。何か御用がありましたらいつでもお呼びください。それでは、失礼します。』
恭しく一礼して退室し、自分用の一等室に向かう。
高級志向なホテルだけあって廊下には監視精霊が点々と配置されているためすぐに玄関へ向かうような怪しい行動はできない。
自室に入り、必要な荷物を金属輪の中に放り込むと男は大きく窓を開けて垂らしたロープを伝い降りる。
幸いにも窓は海に面しているので通行人に見られる心配は無い。
男は辞表くらい書いてくるべきだったかと妙な後悔に後ろ髪を引かれつつ、エリシャのアジトに向かうのだった。
『やーやー全員ご苦労!こっちもちゃんと幌馬車借りれた!』
エリシャがクルクルと番号札を指で回す。
彼女のアジトには既に全員が揃っていた。
『食料とかは積み込んだるし、今すぐにでも出発できるよ。』
『では行き先を提案したい。サーペルタ自治区のゴンドワナ地域、異論が無ければここを第一目的地としてもらいたい。』
『自分はいいけどなんで?』
『本来の仕事とだけ言っておく。関わらない方が良い。』
『へぇ、頑張ってねぇ。じゃそこでいいや、バレない内に出発しますか!』
数十分後、一台の馬車が町を出た。
南南東に向かって進路をとった馬車はすぐに未整備の野へと消え去り、誰も追う者はいなかった。
『あの賤しい拝み屋くずれめが…目をかけてやったのを忘れおって…まだかなノーカン君!早くヤマイを追ってブチ殺してくれ!』
小太りの男が山高帽を被った男を語気強めで急かす。
ノーカンと呼ばれた男は歩くたびに体が不自然に揺れていた。
『少しお静かに。現場見聞は正確さが命ですので。』
2人はゼロと山威が交戦した場所を既に突き止め、一行の行き先を掴めないかと痕跡を探していた。
地面を舐めるように観察していたノーカンが落ちていた不自然な物に気づき拾い上げる。
それは何か硬い物に当たったらしいひしゃげた弾丸の残骸だった。
『こちらをご覧ください。合計5発、型番はEDEN-0261PE、ヤマイ氏のリボルバーで利用可能な弾です。』
『おお、ではやはりヤマイはここに居たということか!近隣住民の世間話にも発砲音のようなものが聞こえたとあったが、ホラではなかったわけだ。』
『いえ、断定するにはまだ早い…もう少し裏付けが欲しい…』
這いつくばるように地面を見ていたノーカンが徐に緑色の水が溜まった排水溝に手を差し込んだ。
『何をしているのかねノーカン君⁉︎ああまったくこれではクリーニングも不可能だ…』
ノーカンが腕を引き抜いた時、その手には焼け跡のある紙切れが握られていた。
男は何を思ったかそれを口に含み舌の上で転がし始める。
息つく間も無い奇行に小太りの男が引き攣った顔を浮かべていると、彼は丸めた紙を吐き出し言葉を続けた。
『間違いありません、ヤマイ氏が多用する魔法的処理を施したインクが使われています。残念ながら文字は読み取れませんでしたが、周囲に薄く残る血痕や強く踏み込まれた足跡、石畳の隙間に残った木屑…これらを鑑みて氏がここで何者かと交戦した可能性は高い。雑草が霜に当てられたように萎れているのを見ると氷系の魔法が使用された可能性もあります。しかし被害は軽微であり、決着はつかなかったようです。つまり、ヤマイ氏とその敵が手を組んだ可能性がある。』
『お…おう、そんなものかね…』
『至急、船・馬車…その他諸々の出入門記録の確認を。加えて、部隊から2名の優秀な兵と馬を派遣していただきたい。』
『う…うむ、速やかに準備しよう。キミはどこへ?』
体を揺らしながらどこかへと行こうとするノーカンに男は呼びかける。
『この偽造文書の下手人を突き止めて参ります。つきましては少々のお時間と原始的な手段をとる許可を頂ければと思います。』
『ああ、多少は揉み消そう。自由にやってくれ。』
『感謝致します、それでは。』
一礼して去っていくノーカンの背中に男は言い表せない戦慄を覚え、表情がさらに強張るのを感じるのだった。
もーいくつねーるとーひなまーつりー
今年は菱餅作ってみようか
歌自慢大会、イオンも参加しましたが15位でした。
登場人物
クエーツクエーツさんのワイフ
うん、まあそういうこと。
昔は本当にどこかの国の姫君だったらしい。
馬斬のアド・アド
大剣を得物とする片翼の大天使。
殺した神は直接の上司。
露店の店主
説明スキルが突き抜けてる人。
酒場の店員
店長が昼行燈のため実質店長の苦労人。
灯焆 燐(トーエツ リン)
ひんやり冷たい雪女。
その割に名前には火へんが多い。
エリシャ
スリで生計立ててるロクでもないヤツ筆頭。
姉のことが大嫌いらしい。
山威 汽穂(ヤマイ オチボ)
武里国系の魔法を得意とするフリーの魔法使い。
眼鏡は伊達。
小太りの男
山威の上司、ミクラミ王国の貴族。
ノーカン
小太りの男の虎の子。
その正体や経歴を知る者はごく僅かである。
用語集
大天使
天使の中でも上位に位置する者。
オトト地区
海沿いで貿易国として栄えたが、近年海流が変化して貿易が立ち行かず経済難のため中央連合に編入した。
旧名はオトト国。
ラッス市
虹の港と称される程カラフルなテラコッタ製建造物が所狭しと立ち並ぶ町。
シルフ
風と話し、風と共に住む精霊。
ミクラミ王国
武里国と古くから交流があった数少ない国のひとつで、彼等の武力により他国の侵略を牽制していた。
黒子鷺
はぐれ者のイカれた研究者や技術者の兵器開発・売買組織。
存在を危険視した国々がカタミチ屋に命じて壊滅させた。
雪女
強い怨みを持って死んだ女性が冷気を操る魔物と化したもの。
性質は亡霊に近い。
ゴンドワナ
サーペルタ自治区内で唯一中央議会とのやりとりが安全になされる場所。
バイン家領。