生ぬるい風に包まれた森を、月に照らされ影が征く。
ある者はウサギの様に地を駆け、ある者はトンボのごとく空を舞う。
そこに一切の物音は無く、踏まれた枯葉や小枝も彼等を知覚はできないだろう。
ハイロバの指揮する5〜7班は一丸となって目的地の泥濘へと進軍していた。
無論、動きを気取られるリスクや全滅の危険性等も増すが、報告ではこの方向に確認されているのは少数の敵のみであり、一点突破と迅速な挟み撃ちの体勢作りを優先してのことである。
何より、敵は元々苦楽を共にし安寧を守り続けた同胞なのだ。
『里内の争い事は正々堂々と』
例え相手が物言わぬ骸だとしても、そこにあるのが別の魂でも、その原則は譲れないものだった。
故に、多少の戦略上に於ける不利があったとしても、戦士達は一丸となって舞台へと向かう。
それが今この瞬間も辱められている友への礼儀であり、彼等を仲間として扱う唯一の方法なのだから。
心に目一杯の情を持って、上っ面の冷酷さで刺してやる。
その覚悟は済ませてきたはずだった。
ただ、それでも、目の前の光景は不快極まるものであり、戦士達の内側から激情と胃液が込み上げて統率を掻き乱していた。
泥濘で生育する木はそれほど多くない。
そこが樹海の中にある、日照権など存在しないエリアともあれば尚更だ。
故にその場所は密林の空隙となっており、狂おしく冷たい月光が存分にそこを照らしていた。
泥土に満ち、羽虫の大群が耳障りな合奏を続けていて尚、その場所は聖壇のごとくある種静謐な気配を帯びている。
体が勝手に萎縮するような霊気が戦士達の思考に根を下ろしていく。
気温は21℃、この地の夜間としては中間的な温度のはずだが鳥肌を抑えることができない。
全体を飲み込みそうな狂気を切り裂き、先頭に立つハイロバの声が飛んだ。
『総員泥濘手前で停止せよ。また、速やかに「鬼追の陣形」を整えよ。』
霧が掛かりかけた戦士達の思考が洗われ、失われつつあった統率が息を吹き返す。
特別大きな声というわけではない。
むしろここは敵地、声量は極力抑えられていた。
それでも尚大勢の意識を惹きつけ、規律を伝播させるその声は、青年が持つ確かな指揮者の才覚なのだろう。
ハイロバの指令が通ったと同時に、戦士ヒルキーに抱えられていたイオンが地面にずり落ちる。
『本当にすまないが、ここからは自分での移動をしてもらう。目的地は目の前だし、人一人守って戦える相手でもない…大丈夫か?』
『そーらからチュロスがはえてるー…は!ここは天国⁉︎』
振り回され続け、遠い世界への旅路から帰還したイオンが辺りを見回す。
数秒前まで口から飛び出しそうだった夕食のせいだろうか?
少女にとってその場所は、抗い難さを覚えるほどに醜悪な神秘で満ちているように感じられた。
『どっちかと言えば地獄じゃあないかな。ホンモノは見たことないけどねェ。』
そう答えたのは、悪路をものともせずカサカサと地を爬行してきたカブウである。
本人曰く、地形の凹凸にも邪魔されず一定の速度を出し続けられる、生物の完成形的走法とのことだが、いかんせん見た目がヤバい。
『ひどい』や『おそろしい』ではなく、ただただものすごくヤバいと表現するのが適当だろう。
無理も無いことだが、日々森を駆け回る猿人の戦士達でさえも顔が強張り、なるべくその不明生存体から距離を取ろうとしているようだ。
カブさんのハートにまたキズ一つ。
月光で浮き彫りにされた実験場へハイロバが踏み込む。
戦士一同は目を瞑り、胸に手を当てて黙祷の姿勢で待機していた。
ハイロバがゆっくりと全景を確認する。
泥濘の中に整列して置かれた鏡石の台には、1人ずつ同胞であったものが並んでいた。
血潮を失った肌は乾いた魚の脂肪のようで、硬くなった関節は乳飲子のオモチャのようなわざとらしい質感をしている。
傷口の肉は固まった樹液のように黄色味がかり、脳を洗われるような芳香が鼻を刺す。
悪臭では無い、恐らく防腐防虫の薬品なのだろう。
ハエもカビも骨を埋めたがるような環境で、異様な程生命の気配を感じさせない屍がそこにはあった。
一番奥に置かれていた小柄な屍の前で、ハイロバは膝を突き首を垂れる。
その体に刻まれた傷と経験の全てに敬意を向けて。
『偉大なる祖霊の皆々様に、当代のビヌヤンカから申し上げる。貴方方の御体を安寧の園より攫われ、魂魄の清廉さえも辱められる結果となったのは、全て今を生きる我等の不徳が故であり、申し開きもしようの無い。』
パキパキと乾いた音が鳴り、永遠を寝むるべき者達が動き出す。
『償いを御望みであらば、果実、肉、塩…我が命、仰せのままに差し出そう。』
冬木の枝を折るような音は軋んだドアのように変わり、徐々に瑞々しさを帯びてゆく。
『ですが、猶予を頂きたい。貴方方を再び棺に導き、侵されぬ楽土の夢を呼び戻さんために。』
既に屍は立ち上がり、おぼつかない足取りは生者と遜色無い動きへ変じている。
屍の1つがハイロバの後頭部を抉り取ろうと腕を振り上げる。
鈍い音が響く、しかしそれは振るわれた狂気の音ではない。
萎んで黒ずんだ屍は、自らの腕そのものが突き立った矢によって肘から折れている事実を咀嚼できないでいた。
『我等は葬列、御迎えにあがりました。』
ハイロバが右手を挙げると同時に、戦士達は戦闘体制に入り陣形が展開する。
『総員、関節を狙え!生者と仕組みは変わらない!…さて。』
ハイロバは背後で始まった戦闘に目も向けず、目の前でゆっくりと身体を起こした亡者を警戒する。
その小柄な男に対するのは自分であるべきだ、青年は作戦立案時よりそう考えていた。
その屍の名は先代ビヌヤンカ マカク翁、智と力をもって樹海の自治権を認めさせた英雄。
この森に彫像の文化があれば、間違い無く巨像を何個だって建てられている、そういうレベルの偉人である。
死して尚、諸国に威光が伝わる男を森へ還すのは当代ビヌヤンカである自分の役目だ。
強固な統率を顕に、力と誇りを誇示することで、『バトンを受け継いだ』それを示さなければならないのだ。
ハイロバが背中の筒から槍を取り出す。
単純なコンセプトゆえに技術の問われるジャベリンだ。
乾燥のためか、生前より皺が深くなった屍は無を湛えた表情で開手のまま構える。
尊敬という感情を心で理解したあの日と全く同じその構えを前に、青年は唇を噛み締める。
『………………お連れします。』
新世代と伝説が衝突する。
多少なり下調べができる愚者は、その男と対峙する時左右に揺れる手を注視していた。
その両手から湧き出る泥は、自身を除くあらゆるものを溶解させるという、能力の媒体であると知れ渡っていたからだ。
だが、能力頼りのマヌケならいざ知らず、その男は戦闘の達人であった。
不規則に揺れる手は全てフェイント、真の初撃は目を狙う尻尾による弾丸のような刺突である。
幾人もの光を奪った不可視の一撃を、当代のビヌヤンカはごくアッサリと掴み止めていた。
『何百回も…稽古をつけていただきました…未熟ゆえ見えずとも、魂が覚えています。』
比較的短いとはいえ槍は槍、近距離での有効性は低いと判断したハイロバは、既に足技でのカウンターに切り替えていた。
胸板に突き刺さった蹴りが屍を大きく吹き飛ばす。
先制攻撃の成功に心を引き締め直したハイロバであったが、それを無視することはできず僅かに顔を顰めた。
(左膝裏下約4センチ…僅かに触れられたか?溶かされている。)
露出した真皮層が大気との遭遇を痛みで知らせる。
泥濘で2回跳ねて着地した屍の手から泥が滴り、地面に穴が空いた。
それを捉えたハイロバは確信する。
(やはり、単純すぎる。記憶を元に適した行動を反射的に行っているだけか。或いは思考を別の何かが行っているのか。いずれにせよ…)
記憶の中にあるマカク翁は滅多に能力を使おうとしなかった。
曰く、『泥は破壊しか能が無い。森には最も要らぬもの』と。
似ても似つかない考え無しの戦法といい、故人のポリシーを無視した行動といい、その全てがハイロバの神経を逆撫でしていた。
沸き立つ心拍を抑え、ただ冷静に敬意をもって屍を見つめる。
風も湿気も肌で感じる、今日の槍は若干重いか?
数値化、というわけではない。
がしかし、自身の内に確かな目盛りは存在し最適な投げ方を瞬時に導き出す。
それが槍を投げ続けたハイロバが手にした感覚である。
ハイロバは導かれた軌道に沿わせて槍を投げ、それは寸分の狂い無く屍の膝を貫き完全に破壊したのだった。
屍がいくらもがけども元は精密にできた身体だ、可動の要を破壊すれば動かすことは叶わない。
残り3本、手足を折りなるべく傷つけないよう連れ帰ろうと、ハイロバが歩み寄る。
それは誰が叫んだ声だったか、一手遅れた今となっては考えるだけ無駄だろう。
『ビヌヤンカァァ!下を!』
胸から肩にかけて熱が走り、身体が反射的に背後へと転がる。
一瞬遅れてやってきた痛みに脂汗を滲ませつつ、ハイロバは事態の確認のため顔を上げた。
それは、『手』だった。
絶え間なく泥を溢れさせる手だけが大地から突き出ている。
いや、正確には大地に繋がれているというべきか。
手首の断面からは白い繊維の束が伸び、大地との間で蠱惑的に揺らいでいる。
いつのまにか屍の膝は修復され、槍も綺麗に取り去られていた。
『溶かして…繋げ直したか…』
自分には適用できない能力のはずだが、死体となれば別判定なのか、そうと考えるより他に無かった。
行動不能に陥れば、一度破壊して修繕する。
機能性という点で見ればきわめて合理的なやり方である。
だが、これは悪意だ。
結果がどうであろうと、キレイな亡骸を持ち帰らせはすまいというドス黒い悪意。
魔人ネクロが意識したかは定かでないが、少なくともハイロバはそう受け取った。
一層強く噛み締めた唇から血が流れる。
『ネェクロォォォォー!』
口を吐いた怒号はまだ罪禍の源に届かない。
すなわち、人生とは何かから逃げ続けるものなのではないか、イオン・アイシクルは戦場の最中にあって真理を見出していた。(ような気がする)
材木を素手で割るような連中の中にあって、少女はあまりに無力だった。
幸いにして位置取りにさえ気を配れば、流れ弾は凌げそうではあるが、並の肉食動物より高速で動き武器を振るう戦士達の戦いはとても近寄れるものではない。
あまりにも強靭な烈火軍の兵士達に対しては一周回って恐怖を感じなかったが、この戦士達に近づくことを思うと確かな質感を持った死を突きつけられている様なピリつく気分になる。
薮の中から頭を出したイオンの頭上を雷を纏った矢が掠め、背後の樹皮を炭化させた。
『うひー、ちょっとこれどうしよかなぁ。』
このまま暗い茂みで縮こまっていても、『頼まれごと』はこなせない。
大いに危険は高まるが、自身の役割が戦術的に要となり得る以上、少女はその遂行を迷わなかった。
飛行船から持ってきた一番分厚いヘルメットを目深に被り、立ちあがろうとしたイオンは気づく。
『あれ?なんか足元ぐらぐらするよーな…』
ずり落ちかけたヘルメットを押さえつつ下を見ると、確かに足場が不安定…というよりは完全に消失していた。
『ナンデェ!ふぃっ!ふぃっ!』
慌てて空中で手足をばたつかせるイオンであったが、当然抵抗虚しく垂直に落下する。
重力加速度定数は全存在に等しく設定されているのだ。
しかしイオンの辞書は落丁パレード、諦めるなんて言葉は当然載っていない。
5点着地初挑戦に備えようと足を揃えた彼女であったが、思ったより穴は浅かったらしい。
審査席があれば最高点が掲げられるであろう、前衛芸術的フォームで背中を強かに打ったイオンが悶絶していると、突如視界が開け顔に月光が浴びせられた。
『打ち合わせとかそういうの抜きですまないなぁイオン。だがご存じ、俺の口内は宝石輸送馬車より安全さ、大船に乗った気でいるといい。』
背後の暗闇全体から声が届き、彼女は自分がカブウの口に居ることを理解する。
『カブさん!あっちの班はいいの?』
『もちろん申告はしてきたともさ、返事はもらってないがね。とはいえ、彼も元よりそのつもりだったろう。』
『お嬢さん、そして蛙の御仁に折り入って頼みがある。』
配属通達後に話を持ちかけてきたのはハイロバだった。
『む?俺達にですかい?あとカブさんでいいよっ!』
『二方の配属理由にも関わる話だ。』
『えーと、ジュラと天使様を逃がさない人質みたいなものだと思ってたんですけど…もしかして違うんですか?』
『それもある。が、我が真に求めるのは異邦の目と思考。それが革命だ。我等とて、手を尽くして奴を調査したがかの忌まわしき術を暴くことはできていない。…奴の屍兵はある程度砕くことで自壊する。しかし、我等は祖霊の亡骸を形ある状態で取り戻したい…その手法を確立せねばならぬ。…それが使命だ。』
『そこで俺やイオンの視点から観察してほしいと…俺達は魔法の専門家ではないし、戦場で冷静を欠く可能性だってありましょう。だが、やってみよう。過度な期待はしないでいただきたいが。』
『カブさんはともかく、私じゃあんま戦力にならないですし。他に道無し異議なーし。』
『配属は決めているがある程度独自に動くことも許そう。…恥ずべきことだが、我等は手詰まりである。故に貴君等が光明を見出すことを願う。……………それが切望だ。』
ハイロバの顔には影が差していた。
『早いとこカラクリを解かないとねぇ。あんまり待たせちゃ、ビヌヤンカの眉間の皺が戻んなくなるよ。』
カブウの口からイオンがひょっこり顔を出す。
『問題は十中八九あの白い糸!最初はワイヤーか何かかと思ったけど、カブさんは?てかどやって喋ってるの?』
『ふむぅ、俺は植物質の繊維だと考えていたが…材料はいくらでもあるしね。どちらにせよ、駆動に必要な動力源が見当たらないのは不可解かな。あと発声器官は咽頭を加工して別に作ってある、心配は要らないさ。』
『すごー、カブさん成長が止まんないね。…となると、別のもの…ジュラ曰く走屍術ってのは魂もどきを作って死体に搭載するものらしいけど、それがあの糸だったり?』
『それも考えづらいかな。魂の基礎的な性質として、見えもしないし触れもしないってのがあるけど、俺の触手が実体を捉えている。』
『何かに入ると認識できる、アミンと似たような感じだねぇ。触れるなら神経とかなのかなぁ。』
『可能性はある。ここからは確認パートかな、だいぶ候補は絞れたことだしね。』
『じゃ、私は…別の神経を回路代わりに埋め込んでるってのに5000コンス!』
『大きく出るじゃあないか、なら俺は大穴狙いの伸縮自在鉱物繊維に賭けようか。とくればまずは…イオン、もうちょいと右に寄ってくれるかな?』
言われた通りに移動したイオンの横を緑色を帯びた液体が通過する。
それは強酸性の消化液、内臓など無いカブウのどこかから湧き出てくるフシギな液体である。
上空にそれを打ち上げたカブウは直後に口を閉じ、一直線にその後を追った。
当然、消化液は重力に従って落下し、自らの顔にそれを浴びることとなる。
だが何も問題は無い、カブウの頭は脳みその隅々に至るまで防腐処理が行き届いており、酸も酵素も対して影響を及ぼさないのだ!
消化液を纏ったカブウが得意げに触手を伸ばし、カサカサと戦場へ切り込む。
意思無き屍でさえちょっと距離を置きたくなる、その姿はまさに蛇蝎の権化(カエルだけど)。
しかしカブウにメンタルブレイクしているヒマは無し、体外に出た消化液は急速に変性しつつある。
分泌だってタダではない、なるべく省エネで済ませたいのだ。
『どこを狙うイオン?』
『尻尾!よく動いてるけど、手足よりもガードが薄い!』
『なるほど、秘密を暴くという意味ならこれ以上無いチョイスだ!』
『でしょー?あと、これから私が何やっても驚かないでね。』
カブウがその言葉の意図を聞き返そうとした瞬間、イオンが口の中から転がり落ちた。
大いに戸惑ったカブウだったが、口に残った塩味からその意図を理解し、触手を地面に突き刺す。
孤立した獲物は見逃さない。
それは狩猟者の習性であり、たとえ魂と思考を失っていても…体に刻まれた経験が攻撃性を奮い立たせてしまう。
いやむしろ、最重要な2つを失ってしまったからこそ、獲物のわざとらしい隙に疑問を覚えることができないとも言える。
転げ落ち倒れ伏すイオンに、何かの牙を縫い付けられた戦士の屍兵が容赦無く飛びかかった。
人間の少女など瞬時に刻まれ、泥沼にバラ撒かれる…そういう攻撃だった。
だが、あろうことかイオンはその攻撃に向かって逆にバールを突き出し突進したのだ。
端的に言えば自殺志願、擬似霊魂に意識があれば死体と心中しようとするイカれ野郎だと感じただろう。
結果から言えば、シチュエーションに反して少女は引き裂かれず生還を果たした。
イオンはバールの先端にゼロから配られた札を貼り付けていたのだ。
これによって擬似霊魂を破壊された屍兵は、すぐさまただの亡骸へと戻り地に落ちる。
同時にカブウの触手(先端鋭利形態)が亡骸の尻尾を切り落とし、肉片が血の一滴も流さずに宙を舞った。
即座に下敷きになっているであろうイオンの救出に移るカブウであったが、救護対象は自力で這い出てくるタフガールである。
『うひー、泥となんかの汁でべとぐちょ。バールをつっかえ棒にしてなきゃもっと酷かったかも。』
『おつ〜しかしもうお札を切ってよかったのかい?ワイルドカードだろう?』
『ジュラと天使様が言ってた通りにネクロさんも同じシステムで動いてる可能性が高いなら、条件は早いうちに絞らなきゃ。たぶん私じゃネクロさんに近づくのも難しいし使いどきかなーって。』
『まったくぅ、このカブさんがあウルトラ天才空気読み検定特級標本じゃなきゃ失敗してるぞぅ?だが、成果は大いにあった。見なよ。』
カブウの触手が指差す先では、崩壊しかけた尻尾を断面から伸びた糸がいそいそと縫合していた。
『消化液を纏わせた触手だからね、当然肉は泡立っているが…糸の方は溶けるどころか活動への支障も無さそうだ。今の消化液は強酸で肉食用だから、動物質繊維と一般的金属の線は消えたと言っていいだろう。あとは擬似霊魂関係の線も。』
『こうなると細いガラスとかも考えるべきかなぁ。もしくはシンプルに植物の繊維?』
イオンが蠢く糸を一本千切り、黒ずんだお札にくるむ。
『あ、そんなに硬くないんだ。意外かも。』
『なるほど、塩水に晒して縮めば植物由来の可能性大か。けっこうしっとりしてるしね。』
『うん、でも柔らかかったから違うかも。』
『水草とかやらかいよ?わざわざ使う意味はわからないけど。』
『どっちにしても4.5分待ちかな。縮んでなかったら…そん時はそん時でまた考えよ。…そうだカブさん、消化液の中和ってできる?』
『ふむ、ビヌヤンカの願いはなるべく綺麗な亡骸だったね。わかった、中和液を産生しよう。新しい器官が要るから1.2分時間を貰おうか。』
深呼吸でもするノリで臓器を新生するカブウに対し、何の疑問も覚えなくなった自分に言い知れない悔しさを覚えるイオンであったが、呻き声と共にぐちょりと背後に落ちたモノに全ての意識が引き込まれる。
振り向いた少女の目に映ったのは、全身に泥を浴び、赤黒い煙を上げるハイロバの姿だった。
そして、半死の戦士を追って歩み寄る影が一つ。
ハイロバは確かにやり遂げたのだろう、その手足関節は全て蕩けており、何度も修復を繰り返したことは疑いようがない。
だが、戦士の誇り一点では折れない程システムは煮詰まっていた。
泥か肉かもわからない何かを垂れ流しながら、かつての英雄は死を運ぶ。
度重なる修復のせいだろうか?
その表情は酷く引き攣っていた。
時は少々遡る…
冷静を取り戻したハイロバは手近に生える薬草を手で潰し、蒸気を上げる傷口に塗りつけていた。
衛生的に好ましくは無いが、放置はより致命的である。
(ここが泥濘で幸運だったと言うべきか…血止草ならいくらでもある。問題はむしろ…どう制圧するか?天使様より賜った切り札を使うか…?)
ハイロバは一瞬考え込んだ後首を振る。
(いや、この札はネクロの確実な討伐に用いるべきだ。根を絶たなければ禍は殺せない…)
マカクの屍の姿勢が揺らぎ、姿が消える。
それを認識した瞬間、ハイロバは槍を逆手に持ち、左へ振り抜いていた。
最初からそうなることが必然であったかのように槍は屍の左肘を貫く。
『フェイントからの低空跳躍による急接近、我が師は視点の高い生物に有効であると教えてくれた。少なくとも、今ではない。』
直後にハイロバは刺さった槍を横に捩り、関節を完全に破壊する。
反射的に右手で槍に触れようとする屍であったが、安易なリカバーを咎めない理由は無い。
腰のナイフを一閃し、泥に塗れた右手首が地に落ちる。
それを認識するより速く、屍は強烈な前蹴りによって上空に飛ばされたのだった。
制御不能の空中で屍はなんとか右手首を探し求めるも、探知範囲にアタリは無い。
それは明確な異常だった、どれほど細かく刻んでも細胞1つあれば場所は分かる、そういう仕組みだった。
故に搭載された擬似霊魂は処理不全を起こし、全身から力が抜け落ちる。
優れた能力は地面を溶かして自ら右手を隠し、導入後日の浅い魂モドキは調整不足でエラーを起こす…全てがハイロバの背中を押していた。
『教えを御返しいたします。師よ…どうぞお眠りください。そして願わくば、この槍がネクロの生命に届くよう見守っていてください。…それが祈念です。』
ハイロバが回転しつつ跳び上がる。
回転は徐々に勢いを増し、その姿がただ回転する円錐のようになった時、ハイロバの腕が唸った。
最初の槍は右肩を貫き、屍を大樹に打ちつけた。
2本目の槍は左手首を貫き、泥はただこぼれ落ちるのみと化す。
3本目、4本目…合計して6本の槍が昆虫標本の如く屍を固定し、全ての抵抗を封じ込めていた。
完全なる捕縛のためハイロバが再びナイフを抜き、屍の左手に向かって振り下ろそうと掲げたその時、それはか細く呟いた。
『よい…よい…イン…ドラ……』
ハイロバの顔から血の気が引き、直後に顎が砕けそうな力で奥歯を噛み締め額までもが紅潮する。
『なぜ、なんで、どうなったら今あの野郎の名前が出てくんだよ‼︎ざけんな、ざけんなよ…ざけんなぁ‼︎俺はまだなのか?どいつもこいつもぉこれ以上どうすりゃいいんだよクソがぁ!』
戦乱の中でもその声は一際轟き、戦士達に困惑と乱れが伝播してゆく。
直後、我を取り戻したハイロバであったが、逃した一手はあまりに大きく…
大樹が傾いた、ハイロバの目にはそう映っていたことだろう。
だが、実際は一部だけを溶かされていたのだ。
樹木を支える幹、その一部分がごっそり失われたならば上は倒れるしかない。
同時に、屍そのものも行動を開始する。
関節ごと肉を裂いて強引に脱出、修繕すらすることなく体のしなりのみで左腕を振るい、膨大な量の泥を放出。
それは肉薄し且つ激情に駆られていたハイロバには防ぎようも無く、脳裏にはただ遅い世界の中で、気を張ってばかりだった日常がリピート再生されていた。
視界の隅に右手が独立して動き、幹に張り付いている方のが見え、ハイロバはひっそりと納得する。
誰かが叫んだ呪文も戦いの喧騒も、ハイロバには全て遠くに聞こえ、やがて視界は黒に染まったのだった。
頭であるビヌヤンカのダウンは、強固な戦士達の陣を崩すのに十分すぎる衝撃だった。
先程までの芸術的でさえあった連携は見る影も無く、1つまた1つと攻防の度に粗が滲んできている。
確実に、趨勢は逆転しつつあった。
ハイロバを下した屍との距離僅か5m、猿人の身体能力であればただの跳躍どころか、スキップの1回で詰められるレベルだろう。
思考の猶予は長くない。
触れられでもすれば、間違い無く泥濘と見分けがつかない程に溶かし殺される。
器官生成中で動けないカブウに注意を向けさせてもいけない。
オマケに、有効打となりそうな道具は軒並み修理中だ。
イオンは静かに息を吸い、左右どちらにも動けるよう姿勢を屈める。
答えは出せた、そして決意に時間は必要無い。
イオンが急斜面に向けて走り出し、それを追い始めた屍がつんのめって倒れる。
その右脛には深々と槍が突き立っていた。
『誰かが魔法で吹き飛ばしたか、直撃は避けられた。だが右手も戻ってきているか…傷も全て修復されている。それが苦境だ。』
『ハイロバさん!生きててよかった!術の正体はもうちょっと待ってください!』
ハイロバが槍筒に手をかける。
『理解した…が、長くは持たない。それは確実だ。』
地面でもがく屍に追撃を加えんと構えるハイロバの肩をカブウの触手が叩いた。
『いつまでも泥に塗れるわけにはいかんでしょう?触手の先っちょを切り落とせば清潔な体液が出てきますよ。』
『恩に切る、カブさんの御仁。』
ハイロバのナイフが光り、泥が流れ落ちると同時に屍の修繕も完了したらしい。
『ただのカブさんでいいんだけどなぁ〜メンタルの方はいかがで?』
『…………戦士達には伝えるな。十分とは言えない、戦闘は精細を欠くことになるだろう。』
『38秒、それが過ぎれば微力ながら援護いたしましょう。』
『理解した。』
折れかけた槍を繋いで留めて、男は強引に立ち上がる。
イオン・アイシクルにハイロバの背負う重圧を想像することはできない。
何故なら彼女はこの里の長になったことがないのだから。
…まぁしごく当たり前のことである。
だが、彼女は思う。
いついかなる時も迷いは弱さだと。
今の…いやハイロバはずっと迷いの深層から出られずにいる、そう立ち振る舞いが物語っていた。
故に彼女は考えた、真の勝利の必須条件はハイロバを迷宮から引き上げることであると。
方法はシンプル、たった一手で勝負はまたひっくり返るだろう。
ハイロバは近距離を避け、中距離を保って逃げに徹していた。
(ビヌヤンカの務めを果たせよ。)
誇りある戦法では無いことなど重々承知だが、この一戦だけは絶対に勝たねばならない。
(本当にそれでいいのか?)
今の守護と過去の礼、優先されるべきはどちらかなど目に見えている。
(デキの悪い恩知らず?)
だというのに心中の雑音は消えてくれない。
『2頭の獲物を追うな』この樹海に伝わる狩猟の基礎であり、どんな若者であれまずはそれを頭に叩き込まれる。
基礎から揺れるハイロバの視界から屍の姿が消える。
『しまっ…』
僅かに反応が遅れたハイロバだったが、彼に死の泥が降りかかることは無かった。
ハイロバに到達する直前、屍は大地から伸びる無数の蔓…いや触手に縛り付けられていたのだ。
『お待たせしたね、カブさん張り切っちゃうぞ。』
屍の両腕から泥が吹き出し、瞬時に触手は溶かされる。
『アツツ…どう動きます、ビヌヤンカ?』
『…両手首を切断し、隔離する。それさえできれば拘束は容易。それが決着だ。』
『ふむ…自慢じゃございませんが俺は悪食な質でしてな。手首だけなら食べてしまうこともできるでしょう。そうすれば、少なくとも戻ってくることは無い。』
『それは…有効だが…』
ハイロバの顔に影が差し、カブウが躊躇いを察する。
『失礼、今の提案は忘れてくださいな。後味の悪い物を残すことになりそうですゆえ。』
『ッ……』
面と向かって『構わん』と言えない自分が歯痒かった。
いつだって無理矢理決断してきた。
周囲から好き勝手言われながらも、向けられる期待に応えようとひた走って来た。
その傍らにはいつだって師マカクの存在があり、彼亡き後もその威光に恥じぬよう背は丸めなかった。
それももう限界だった。
『なぜ、俺なんです、なぜ、俺じゃないんです…』
1人呟くハイロバの前に出ようとしたカブウの耳にその声が届く。
『皆さん!ハイロバさんが勝ちましたー!もう一息です!』
突如イオンが叫んだそれは、まったくの虚偽である。
しかし、月は雲に覆われ辺りの闇は深まっていた。
加えて、頭が倒れたという詳細不明の情報だけが蔓延していた中で、その言葉は太陽にも匹敵する程暖かい。
それは、戦士達の血を沸かせる起爆剤には十分すぎた。
ビヌヤンカの名の下に即興で陣が組み直され、誰かが考案した拘束方法が瞬く間に伝わってゆく。
『ビヌヤンカに続け!』
『勝利は近いー!』
『四肢を泥と縄で固めろ!尻尾も忘れるな!』
『雷が有効だ!はっきりわかった!』
『エイプリルフールにはもう遅いんだけどねえ。どうされます、ビヌヤンカ?確実に勝利を収めつつ、誇りを通さざるをえなくなりましたが。』
『悪手だ。民の命が最優先である以上、もはや亡骸の損壊具合になど拘ってはいられない。』
『…それではビヌヤンカ、貴方が救われない。この先の貴方の人生に於いて、過去に刃を向けるようなしこりを残す…それを我等が船長は勝利と呼ばない。』
『手厳しいことだ…優しく、容赦無く、何より強欲だ。』
『僭越ながら言わせていただくと、エゴを貫くからこそ生命なのだと思いますよ。俺もう死んどりますけども。』
戦士達の咆哮が傷だらけとなった樹海の槍を補強する。
活力が内から湧き上がり、槍を握る手に力が戻った。
『ビヌヤンカ、雷魔法の御経験は?』
『ほぼ無い、が忌々しくも魔人を探るうちに基礎魔法の大半には触れた。』
自分はリーダーであり、皆がそれを認めてくれている。
欲しかった証明は得た、もう少しだけ立ち上がってみようか。
またしてもフェイントを絡め、カブウから仕留めようとした屍の両肩に槍が突き刺さる。
初動を潰され、両腕の自由も奪われた屍に再び消化液を纏ったカブウがのしかかり、対処をさせる前に槍が大地に手を打ちつけた。
『俺ごとで構わない!カッコよく決めなよビヌヤンカ!』
ハイロバの槍に青白い火花が走る。
そもそもとしてハイロバは魔法が得意ではない。
練習はしてみたものの、師に適性があると言われた風の術でさえもついぞモノにすることはできなかった。
ましてや齧ったことも無い雷魔法を、それも武器に纏わせるなど無鉄砲と呼べる域さえ越えている。
魔人についての調査過程で得た魔法知識が、ああしろこうしろと頭に響くも、一旦全てを無視する。
意識するのは一つ、どの資料にもあった一節『魔法は意志で研ぐ刃である』それだけでいい。
渾身の敬意を込め、槍を振りかぶる。
『ッッヅァァーー!』
真っ直ぐに地上を目指す稲光のように、輝く槍がカブウの脳天と屍の胸を纏めて貫き、その熱で泥濘は激しく沸き立つのだった。
『カブさん!カブさん大丈夫⁉︎カブさーーん!』
走り寄ったイオンが焼け焦げたカブウに呼びかける。
肌に生気は無く、体からは焦げ臭い煙が漂っていた。
無理もない、脳天を貫かれ全身を電気で焼かれたのだ。
恩人にそのような仕打ちをしてしまったことに、ハイロバの心がまた落ち込みそうになり目を背ける。
イオンが触れるとカブウの体はボロボロと崩れ始め…
『そんな…こんなこと……カブさーーん!』
『ふぅ、脱皮成功!たまにはやっとかないと、不衛生だからね。』
なんか、普通に目を覚ました。
『おはよーカブさん、すっきりした?』
『まったく生き返るねぇ。ん?ほらビヌヤンカ、時間はあまり無さそうだ。ポカンとしてないでお行きよ。消化液は中和してあるから触れても大丈夫ですぜ。』
カブウが指した場所には静かに亡骸が横たわっていた。
ハイロバは敬愛する師に近づき、膝を突く。
『お久しゅうございます、マカク様。』
亡骸の開き切った瞳孔に光が灯る。
『堅苦しいのは抜きにせんか。聴覚は死の直前まで残るというが、本当らしい。しっかり聞こえるよ。立派にやっとるようで何より何より。若者はすーぐ大きくなるんだからもう…』
ハイロバが言葉を遮る。
『マカク様、何故私だったのです。ふさわしい者なら他にもおりました。何故、私のような若造を次代のビヌヤンカに指名してしまったのですか!不平不満も溢れました、あらぬ疑いをもかけられました。何故いろはもわからぬ私なのですか‼︎教えてください…』
『………おんしには明日があった。単なる夜明けの向こうではない。麦があれば空腹を堪えて畑を耕し、幼獣あれば狩らずに見逃し、豊漁あれば興じず干物作りに精を出す。今日を生きる我々には貴重な考え方だ。』
『俺はそんな大層なもんじゃありません。明日がある?単に毎日狩りに出るのが面倒だと、そう感じていただけなんです!』
『それでもおんしは幼少より皆に明日を説き、音頭をとった。我は若い頃に世界を旅したが、革新を齎すのはいつも面倒を嫌う者だった。それに、皆からも信頼を寄せられているではないか。』
『…そんな理由があんなら何故言ってもらえなかったのです。あんたの遺言にどんだけ振り回されたと…皆に説いた?あれは…あれは…』
残された時間は短い、今際の際に戻ったマカクの意志はもう消えかけている。
それを感じた瞬間、言葉を選ぶことも忘れ、本音は口を吐いていた。
『あれは…皆を良くしようとか使命感だとかで成したことじゃない!俺は……………ただ、あんたに褒めてもらいたかったんだ。親を失ったあの日、俺の明日を見てくれたのはあんただけだった。血反吐吐きそうな訓練だって…折れなかったのはあんたがご褒美の果物を持って、頭を撫でてくれたからだ!俺は目先しか見てない愚か者なんだよ!』
『結構なことだ、誰だって認められたいもの。そのために真面目にここまでやったなら偉いじゃないか。それに後ろめたさなど覚える必要はないとも。…ハイロバよ、手を握ってはくれないか?』
青年は無言で枯れ木のような亡骸と手を重ねる。
『最後の組み手より7mmも大きくなっている。見えないのが残念だが、声の変化から察するに顔も精悍になっておろう。…本当に、大きくなったなあハイロバや。』
『ふざけんなよ、そんなやっすい言葉で…言葉なのに…なんでこんなクるんだよぉ…』
『もう頭は撫でてやれんが、おんしの成長に心よりの祝福を送ろう。スッキリできたら行っておいで。戦いを決めたのは自分の意志だろう?それならきっと、皆付き添ってくれるとも。』
目元を拭い、ハイロバが立ち上がる。
単純だと自嘲したくなるが、その短い会話だけでずっと心を蝕んでいた自身への不信感は無くなっていた。
『言われるまでもないこと。我はハイロバ・ビヌヤンカ、誇り高き戦士の長として必ずや樹海の害異を取り除くことを誓おう。故に祖霊の皆々様におかれては、ただ安らかに御眠り願う。』
『…様になってるじゃないか。次に逢う時を楽しみに待たせてもらうとしよう。ずっと、待っているからたっぷり楽しんで、土産話をたんと持っておいで。…ありがとう、ハイロバ。』
目に見える変化は一切無い、にも関わらずハイロバには師の魂が立ち去ってしまったことがはっきりと感じ取れた。
だが、全てを晒した長に迷いは無い。
戦況は優勢で次々同胞が奪還されていく様子を確認し、ネクロを討つ準備を整えようと槍のチェックを始めた瞬間、臓腑の奥まで凍りつきそうなその声は告げた。
【ミパルセン】
何本もの青白い光の槍が地形を抉り、里からその軌跡を見た長老会は感じ取っていた。
『始まった』と。
SBRアニメと東方新作が連チャン発表…血圧上がるぅ。
登場人物
マカク
魔閣樹海の名の由来にもなった英雄。
広い見聞に基づく知識で立ち回り、きわめて平和的に区の自治権を手に入れた。
用語集
鬼追の陣形
強力な人型生物を相手取るために作られた兵法の一種。
始まりは遥か古代、武里国での鬼退治戦争にある。
ミパルセン
パルセンの威力を増した魔法。