魔剣王正伝   作:プルプルマン

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ハイロバの槍筒に入る槍は、最大18本です。
故に足りないと判断した時は、投げた後のものをせっせと回収してます。
エコですね。


A

その出会いは神歴1405年の春だった。

きっかけはほんの小さな、どこにでもあるつまらない事件。

『暴れ馬だーァ!よけろォー!』

「バンカナ」の街を抜ける金切り声に、令嬢の横を固める警護人が臨戦態勢を取る。

令嬢は僅かに日傘を傾け、悲鳴の方向を見た。

この貴族区には相応しくない、やつれた馬が駆けている。

馬の目は焦点が定まっておらず、口からは粘ついた涎が垂れていた。

明らかに正気のそれではない。

興味本位で野次馬ポジションに徹していた令嬢と馬の目線が交差する。

途端に暴走馬車は進路を変え、令嬢の方へと蹄が割れそうな勢いで突撃し始めた。

咄嗟に護衛人が前に出る。

なんてことはない。

彼等は腕利きで、たとえ来たのが筋骨隆々の戦車馬だろうといつも通り、制圧して終了…その筈だった。

ほんの一瞬で護衛人筆頭であった腕利きの大男が蹲り、声も上げずに震えていた。

絶対に異常だった。

馬は最早同じ生物と認識できない程に変容しており、毛皮を破って膨れ上がった筋肉の表面には瑞々しく照るヒモのようなものが蠢いている。

令嬢は逃げることすら忘れ、日傘を取り落とした。

生まれて以来、舞台上のものでしか無かった『死』が五感に突きつけられていた。

家が決めた婚約者と契りを結び、カビの生えた名家を繋いで死んでゆく。

そんなレールが敷かれた人生に飽き、親の目を盗んでは街を物見に出ていた罰だとでも言うのだろうか。

日頃から、『自由を失った人間は死人と変わらない。』そう考えていた。

翼をもがれる前に死ぬのもいいかもしれない。

 

『悲劇ってのはいただけないな御嬢さん。酔うのなら、とびきりの未知がいい。』

軽く手を広げ、それを受け入れようとしていた令嬢の背後から、季節外れのトレンチコートを纏った人物が前に出た。

令嬢が驚く暇も無く、コート男が耳鳴りを起こしそうな唄を口ずさむ。

その意味を解することは敵わなかったが、それが引き起こした現象は実に明快だった。

痛みに嗚咽し地面で丸まっていた護衛人達が、針金でも入れられたようにしゃんと立ち上がり、馬車に向けて突進し始めたのだ。

その顔は直前にも増して苦痛に歪んでいるものの、ひどい解放骨折を起こした足さえ問題無く動いている。

それだけではない、先程まで一蹴されるばかりであった彼等が異常馬力に抵抗し、拮抗し、徐々に抑え込みつつあった。

しばしの後、馬は腹のあたりで2つに裂け、カエルが潰れたような声を上げて動かなくなった。

『私の被験体が失礼しました、怪我はありませんか?御嬢さん。』

降り注ぐ昏い血の雨の中、コート男はにこやかに手を差し伸べる。

日常を塗り替え現れたそれに、令嬢は熱を帯びた確信を抱く。

(これが…この人が、私の導きだったんだ。)

周囲の悲鳴や嘲り、祈祷が遠く感じる。

気づけば、手と手は重なっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ハッキリと申し上げよう。

威勢よく突撃はしてみたものの、ジュラ・パズズには何も見えていなかった。

物理的な話ではない、目の前の魔人を滅する方法の話である。

ほんの数秒前に半裂きにしたはずのそれは、まったく喜ばしいことに変わり無く宙を漂っている。

合流し、多少は戦力増強できるかと思いきや、ともに駆けてきた1〜4班は死体軍団と戦う仲間を援護せざるを得ず、参戦してくれるのは今にも死にそうなハイロバ1人だけときた。

これではむしろマイナスもいいところではないか。

ゼロも戦力に不安を感じているらしく、頬に冷汗が流れている。

相変わらずネクロの思考は読み取れない。

故に、その乾いた口が開き何を言うか予想はつかなかった。

『役者は揃ったって具合だね。せっかくだから私から皆に文句を一つ、よろしいかい?』

(((どの面下げて言ってんだこいつ?)))

ネクロの話など聞いてやる筋も無ければ、価値も無い。

徒に耳と脳が穢されるだけである、そうわかっていても下手に動けないのが歯痒かった。

ネクロは無視を肯定と解釈したらしい。

穏やかに、自らの子へ諭すように言葉を続ける。

『皆ねぇ、死者への敬意をあまりにも欠いているよぉ。この夜の始めに、キミ達なんて言ってたか覚えているかい?言うに事欠いて『彼等』を肉塊呼ばわりなんて!彼等は、魂というデリケートな情報集積体を搭載するに相応しい緻密な構造を持った、唯一無二の被造物。一つの式に帰結する神秘の髄は、何物にも変え難い宝じゃあないか!個々人の考え方は尊いものだけど、もうちょっと先人に敬意を払うことも必要だと思うなぁ〜。彼等があまりに報われないじゃないか。』

 

なぜ、魔人が里内で行われた発破を認識しているのか?亡骸を弄ぶ行いと今の発言に矛盾があるんじゃないか?

心に浮かぶ疑問・反論・拒絶全てを押し流し、一つの理解がその場に居た者に満ちていた。

 

(ああ、この『生き物』は違うんだ。)

つまるところジュラもゼロも猿人達も、魔人ネクロというものを誤解していたのだ。

その行動には散々感じてきた悪意も、呵責も、欺瞞さえ一欠片も無く、ただ『必要だったから』そうしているだけだった。

極端な話、魂の器に適するものが野菜であれば畑を耕し、未知の物質であれば錬金術を求道していたであろう存在、それが魔人ネクロだったのだ。

そりゃあ話も通じないはずだ、ソレが自身の論理に従って出力した行動は、正気の感覚なら悪逆無道としか思えないのだから。

既に先程までの嫌悪感は鳴りを潜め、代わりに道から外れたソレがまだ人型を保ち、同じ言語のようなもので語りかけてくることへの寒気が増大してきていた。

『オマケに私の自信作も壊しちゃってさぁ。それなりに手間暇かけたんだけど…ま、これはしょうがないか。なにぶん敵対しちゃってるんだもんね。』

『貴様の言い分は理解した、魔人。そして確信した。貴様は破滅だ、存在を許してはならない災厄だ。…後に栄える全ての命、その幸福のためここで往ね。』

ハイロバの頭は冷え切っていた。

相手が悪人でなくただの災厄ならば、そこに怒りは存在しない。

誇り高き樹海の民は暦が始まる昔より、知恵と勇気と団結で天災地変を越えてきた。

なら今回もそうしよう。

もはや誰の間にも会話は無く、三本の切先を向けられたネクロも投げかける科白など存在しないことを察する。

土に還るのはどちらか、或いは誰も還れないのか、アンサーは近づいていた。

 

 

 

 

魔人ネクロの輪郭がジュラ達に正しく認識される少し前、イオン・アイシクルは1人寂しく命の危機に瀕していた。

というのも、依然としてその背後には異形の屍が迫っているからだ。

屍が膨れ上がった右手を振るえば、途端に数本の木が薙がれて倒れる。

足を止める余裕は無い。

今夜が足元も見えない曇天だったなら、逃げ回ることさえもできなかっただろう。

そう確信できるほど四つ足の屍は速かった。

重なり迫る足音は死の暗喩であり、自分にとっての葬送曲。

手持ちの小道具は自信作揃いだが、人外の膂力に対するには少々心許ない。

故にイオンは特に細かい木立に自ら飛び込み、追跡者から逃れようと試みていた。

走りながら木々の棘で切れた頬にグリスを塗りつける。

後々治りは悪くなるだろうが、相手の索敵手段が未だわからない以上、血の匂いを垂れ流しているよりはマシだと判断してのことだ。

丈の長い服を着ていたのは幸運だった、でなければ既に草の汁でベタベタの手足をさらに悲惨にしなければならなかっただろう。

体格の差か、薮の中で追跡者との距離は開きつつあった。

イオンは咄嗟に地面にある窪んだ段差に隠れ、しゃがみ込んだ。

(これで視線は切れてるはず。後はなるべく情報を得つつカブさんのとこに戻る!)

四つ足の気配は依然として近い、がしかし目標を見失ったように静止している。

呼吸音すらないというのに露骨なそれが逆に不自然だった。

手探りで小石を拾い、離れた木に投げつける。

湿った音が鳴るも気配は動かない。

(耳じゃないのかな?となると目?鼻?温度だったり?それならもう見つかってるか。)

額を流れる汗が目に入り、慌てて袖で拭う。

風通しが悪い薮の中故か、灼熱の日光が不快な熱気として残留していた。

冷たい月光にそぐわないそれに辟易していたイオンであったが、ふとそれに気づく。

(そういえば…私、けっこー汗かいてるのに見つかってない?てことは臭いそのものは関係無いか、目を使ってる?もしくは…)

油紙を解き、取り出したシグナルミラーを近くにあった木の枝に結ぶ。

(ちょっと折れそうだけど、十分だよね。)

隠れ場所から鏡を突き上げる。

現在地から約6m、そこに屍は背を向けて仁王立ちしていた。

さらに鏡を動かせば、期待通りの情報が映し出され、イオンは確信を得る。

(木に映った光には反応しない…か。てことは間違いない、私はもう完璧に捕捉されてる。今仕掛けてこないのは単に不毛な追いかけっこを続けたくないから?いや…)

少女は首を振る。

(したいとかしたくないとか、そういう話じゃない。これはシステムの分解で、どこまでいっても『必要』が積まれてるだけ…なら、距離?制動が効かなくなる地点がある?…やってみる価値はあるかも。)

使えるものはないかとウエストバッグを探るイオン。

ふと『それ』に気づき笑みが溢れた。

糸口は掴んだ、賭けてみるには十分だ。

 

 

 

 

イオンの隠れる段差近くの樹上で、ソレは虎視眈々と構えていた。

既に獲物の居場所は判明している。

ほんの少しでも頭を出せば刺し貫いて終幕となる計算だ。

張り巡らせたセンサーに動体を検知、速やかに情報が伝達され、整然たる思考回路は攻撃の判断を下した。

するりと枝を離し、蠢く獲物に刃を突き立てる。

皮の無い生首から無数の糸束だけが伸びるその姿は、いよいよ尋常からかけ離れていた。

何度も何度も振り下ろし、入念に丹念に生命の火がかき消えるまで暴威は止まらない…

 

 

 

無縁の執念すら感じる攻撃を側から眺め、イオンは若干引いていた。

(ひぇーこわ。そんなにしなくても私十分死んじゃうと思うんだけど。)

屍が一心不乱に突き刺しているそれは、イオンの着ていたシャツにその辺りの落ち葉や土を詰め込んだだけの粗雑な案山子である。

肝心の中身は既に背後へ回り、その場から離脱しつつあった。

(やっぱりあっちは抜け殻の囮、木の上にいた方が本命だったんだ。)

今夜の月は明るい、白い糸を束ねた姿はよく目立っていた。

ほぼ間違い無く視覚が省かれている。

自身を観ることができないのは、ネクロの見落とした抜け穴か?

(いや、そうじゃない。たぶん、情報処理負荷の軽減のためなのと始めっから隠す気なんて無いだけなんだ。)

では、如何に周囲を知覚しているか?

答えは彼女の掌にあった。

くすみ縮れた糸切れ、それは追われる前に塩水で覆ったあの断片だった。

もはやそれに元の性質・機能は面影も残っていない。

(ならカギは浸透圧!塩漬けの野菜がしんなりするみたいに、機能を壊せばいい。)

細かい糸を空中に漂わせ、触れたものの成分からそれがなんであるか判定する。

おそらくはそういうシステム。

ハイロバとマカクの間で会話が成立しネクロの言葉に破綻が無い以上、音は認識しているがそれは優先されるものではないはずだ。

イオンは囮を突き出す直前、札を起動した余りの塩水を全て頭から被っていた。

もはや屍は彼女を認識できていない。

詰め込まれた土の中にいる小動物の挙動に反応し、延々ボロ切れと戯れるのだろう。

イオン・アイシクルは堂々と立ち上がり、元の道を悠々と歩いてゆくのだった。

『あだっ!』

太めの枝にぶつかった額をさすりつつではあったが。

 

 

 

 

 

 

 

『と、このように擬似霊魂…専門的に言えばファクトソルムを用いて、魂の代替を行う中でも完全な自由意志の確立は未だ…御嬢さん?おーい御嬢さん、大丈夫ですか?』

『ええどこも、ちっとも不具合はありませんの。ただ、この時間が心地良くってつい。』

『まぁ貴女に雇われている身ゆえ強くは言えませんけどね、せっかくなら私じゃなく黒板を見て欲しいなーって。』

『そのことなら心配はございませんわ。わたし、少々優秀ですので!』

令嬢が差し出したノートは必要事項が過不足無くまとめられており、後にぶつけるべき質問や理論の予想される応用法についても有意義なものが記されていた。

ちらりと目を通した『先生』が感心し眉を動かす。

『相変わらず完璧に近い。好ましい知識が仕上がっています。もっとレベルを上げた方がよろしいですか?』

令嬢が誇らしげに胸を張る。

『もちろんですこと!ゆくゆくは先生の助手目指して、バッチリ予習しておりますので!』

『私が言うのもなんですが、走屍術って学びにくいですよ〜。ここ「チャンカチャカ」でもじきに規制が入るでしょう。……禁書指定されてるのも多いですが、どこから教材を?』

『御父様の財力様々ですわ!勿論、他の魔法書に紛れ込ませてましてよ。』

先生が呆れつつ微笑む。

『知識は上等な甘味のようなものですからねぇ。ごまかしは感心できませんが、最上を求めてやまない姿勢私は嬉しく思いますよ。次からは私に一度見せてくださいね、写しでも呪いがかけられてることもありますから。』

『了解ですわ。時に先生、お昼のご予定などは?』

『いや、特には。今日は講義の予定も無…』

令嬢が一瞬にして距離を詰め、先生を壁に追いやる。

『であれば!こちらで食べていかれませんか⁉︎わたし、腕を振るいますので!』

Noとは言わせない圧がそこにはあり、先生は無意識に首を上下させていた。

『ふふ、よかった。たっぷり召し上がってくださいまし。』

令嬢が指を鳴らすと、どこからともなく現れた使用人達が先生の両脇を固め、滑るようにダイニングへと連行する。

抵抗する間も無く調度の細やかな椅子に導かれ、畳んだナプキンとよく磨かれたカトラリーまで配された先生は、ただ苦笑いする他に無い。

もはや強制連行(おもてなし)を受ける以外の道は閉ざされたのだ。

『畏れながら申し上げますと、私始め使用人一同は貴方に感謝しております、アルハザード教授。』

見張りのように椅子の側へついていた老爺がそうこぼした。

『あれほど内気であった御嬢様は、貴方と出会って変わられました。今となっては信じ難いことですが、一月前までは御嬢様の声を知らない使用人さえいたのです。それがあんなに快活になられて…』

老爺が目元にハンカチを当てる。

『…お喜びなら幸いです。私も、素晴らしく意義のある時間を過ごさせていただいていますよ。彼女のレベルは既に我が教室の生徒と比較しても見劣りしません、驚くべき吸収速度です。』

そうこうしているうちにドアがゆっくりと開き、室内に香ばしく焼かれた鴨の香りが広がる。

『先生、お待たせしましたー、ご賞味くださいませ。』

『ありがとう、ではいただきます。』

カトラリーを手に取り、鴨のローストを一切れ口に運ぶ。

『私は、味覚の殆どを昔の実験で失っています。その上で火加減も、香草の配分も、器との色彩的相性も考え抜かれたこの一品は、とてもおいしい。そう感じさせてもらいましたよ。』

令嬢が満面の笑みを浮かべる。

『褒めすぎですわ先生ったら。これから毎回お作りしますので、絶対一緒に食べていってくださいね!』

『あ、ああ…ありがとう…』

使用人達は、気圧される先生とブレーキを取り払った令嬢のやりとりを、暖かい目で見守るのだった。

 

 

 

 

 

ジュラ・パズズの唱えた【フロン】が赤い炎を生み出し、地を覆ってゆく。

囲まれる前に脱出を試みるネクロであったが、体を曳くため木に巻きつけた糸束は回転する槍に引きちぎられた。

自分の戦法での討伐は困難、そう認識したハイロバは援軍到着直後から既に武器をサポート用に作り変えていた。

といってもそう大層なやり方ではない。

ジャベリンの先端近くに、ほんの少しナイフで切れ込みをつけるだけだ。

だが、回転を加えて投げることで僅かな傷は空気抵抗で拡大し、特効の糸車となる。

無論精緻な加工を施す暇など無く、振りかぶった感覚で瞬時に投げ方を調整可能なハイロバの技術あっての代物ではあるが。

『今だ天使様、叩き潰していただこう!』

既にゼロの手中には氷の戦鎚が形作られている。

切っても治る相手なら、いっそ潰して修復を遅らせた方がいい。

ネクロの周囲に魔法陣が描かれ、ゼロに照準を定めるもその全てが魔法の発動直前に破壊される。

(よしっ!限界距離ギリギリだがなんとか届いたっ。)

遠隔操作されたジュラの魔剣によるアシストである。

『舗装は十分だぞ。ジュラ!氷鎚スリーセブンッッ!』

氷鎚そのものが砕け散る程の打突は、ネクロの胴体その中心を確かに捉え、瞬時にそれを5つの肉塊に変えてしまう。

しかしネクロの戦力に依然として影響は無い。

潰された部位込みで修復に多少の時間はかかるだろうが、何千と受けてきた退屈な攻撃の域を出るものでは無かった。

故にソレが警戒するのは、今まさに魔力を集中させているジュラである。

(この面で使うなら割れてる弱点だよねぇ。さっきの火に並ぶのが来るか、それ以上か。何せまだ2度目だからね。)

 

修復で動きの鈍ったネクロに撃ち込む最大火力をどうするか。

ジュラの選択は必然【テラバチン】、現時点での電気系最上位術一択だった。

練り上げた魔力を電気エネルギーに変換したまさにその時、

 

【ウーズ・マギパルン】

 

ほんの瞬き程の間に、膨大なエネルギーの津波がジュラの視界を覆い尽くしていた。

もはや小山に等しいそれの前には、ジュラの呪文など存在しないも同然だった。

悪手も巧手も全てを押し流す面制圧を目にし、ジュラはようやく思い知る。

『魔人』、元となるヒトと明確に区切られた名称、その意味を。

 

 

 

(いちち…多分数秒だが意識トンでたなこりゃ…)

ジュラが上体を起こし、辺りを確認する。

吹き飛ばされた距離は約50m、その上周囲の木々の多くが薙ぎ倒されていることからも、あの術を至近距離で受けて尚打撲で済んでいる自身の幸運に感謝すべきだろう。

(【テラバチン】の衝撃を間に挟んだのがよかったかな…ん?)

積み重ねた年月でなんとか持ち堪えた巨木の洞から、小さな顔が覗いていた。

ニラミヒョウソ、ついこの間ジュラ達にも一杯食わせた気弱な樹海の番人である。

『うげ、さっさと離れ…いやまてよ、共闘に興味はねーか、親友?』

何しろ精神を直接揺さぶるような光だ、その威力は身をもって体験している。

魔人とはいえ、顔に当てれば数秒くらいは動きを止められるかもしれない。

共通の敵と認識しているのか定かではないが、その小動物はジュラの顔と魔剣を数回交互に見た後誘いに乗り、差し出された手を駆け上った。

洞からこちらを警戒するもう1頭は番か何かだろうか?

『なるほど、そりゃー絶対負けらんないわな。よしいこうぜ、夜明けに向けてよ!』

『おーいこーいこー、私も混ぜて〜。』

踏み出そうとした途端、背後から投げかけられた気の抜ける声に思わずつまづくジュラ。

『つぉっとっと…お互い、まだ生きてたみたいだな、僥倖ぜ。』

『んへへ、私もうれしーよ。ところで一個考えがあるんだけど、聞いてかない?』

声の主は降り注ぐ月光の中、不敵に笑った。

 

 

 

 

ゼロが氷塵を展開し、無数の【ミパルセン】を無理矢理屈折させる。

指向性を捻じ曲げられた呪文の挙動を制御し切れないリスクはあったが、直撃だけは避けなければならない。

(何を油売ってるジュラ・パズズ…奴の呪文が最大の打点である以上、ムカつくが今は攻められない。)

幸い、ネクロが使ってきている呪文は魔力を宇宙由来のエネルギーと同質として扱う「パルン系」のみである。

物質や反応を介さないそれは、氷と大気を挟むことで容易に屈折させることが可能であり、呪文はゼロが糸はハイロバが抑えれば、少なくとも千日手には持ち込むことができるだろう。

尤も、所詮は一手で崩壊する拮抗には変わりなく、底無しの修復と兵力を有するネクロに対する以上、緩やかな死と同義ではあるが。

せめて札を使うことができれば、決定打になり得るものの…

(オマケにあの強力な魔法…あと何発が、いつ襲ってくる?クソッ、札を使うべきタイミングが見えない。)

焦燥のみが積もってゆく2人をよそに、ネクロが不意に空を見上げる。

『んー、なんか飽きちゃったし、もういっかな。』

ネクロの周囲で急激に魔力が流動し始める。

異常に気づいたゼロが上空を見上げると、そこには巨大な魔法陣が展開され全体が仄かに光を放っていた。

『なにかわからないがあの光を浴び続けるのはヤバいッ!即刻影に隠れ…』

その違和感に気づいたのは言葉の途中だった。

『影が無くなっている…だと?』

木も、人も、飛び散る血さえもその下になくてはならない影を失っていた。

景色が立体感を失い、目の前の危機がチープな紙芝居のようにさえ思えてくる。

その『無』に圧倒され、上下感覚の喪失に陥りかけたゼロであったが、慌てて姿勢を立て直し魔法陣を破壊しようと上空へ向かう。

『ああ、もう間に合わないと思うよー。どこいても変わんないから、近づくのも一手かもしれないけど。』

『いや、そうでもないだろうぜ。大層な呼ばれ方してても、見識は狭いんだな。』

影を失いのっぺりとした世界の中で、唯一輝くものがあった。

パチパチと乾いた音を立てるそれは、どこまでも冷たい月光とは対照的で、赤く活力に満ちている。

それは、揺れる炎を纏ったジュラ・パズズであった。

『この熱源…成程、バレちゃったかな色々と。けど、近づくほど網の目は細かくなるよぉ。』

『んなこた百も承知ぃ、俺はお前に近づくつもりなんざハナからねーよ!』

ジュラが何かを乗せた腕を突きだす。

『あれは…ニラミヒョウソか?天使様、目を伏せられよ!』

ハイロバの呼びかけで慌ててゼロが目を覆う。

(あーここ固有のキノボリ類かぁ。素材としては使いにくかったなぁ。確か光で知性体の魔力循環を壊すんだっけね。まったく、体験できないのが残念だよ。)

情報はネクロにも伝わっていた。

素直な迎撃で問題無いと判断し、糸を束ねた幾つもの見えない刃を作り出す。

詳細な位置がわからずとも、大部分を薙いでしまえばいい。

振りかぶられた鋭利な一閃は、命を刈る寸前に直感で唱えた【プロトン】に防がれるも、ジュラは炎から弾き出され、呆気なくネクロのセンサーに引っかかった。

『みーつけた、【ミパルセ…』

『カブさん!キャッチしてやってくれ‼︎パーン・アメーリオ!』

空中に残る炎の中から魔剣が飛び出し、細く鋭く形状を変えてゆく。

ただの刺突など、ネクロにしてみれば薄皮が切れるより些細な攻撃だろう。

だからこそ、とびきりのスパイスを炎に隠したのだ。

伸びた柄を握り、鍔に足をかけていたのはイオン・アイシクルであった。

生まれてこの方、剣など握ったこともない本物のドシロウト、そんな彼女が自らに課した役割はただ体重をかけること…そして、変化後の刀身にジュラの札を突き刺すことである。

(よしっ、イオンの仕事に取りこぼし無し!なら、ここで俺がミスるわけにゃいかねーよなぁ!)

地面が迫っていることはわかっている、だがそれはもう問題ではない。

ニラミヒョウソの模様を見つめ、狂気の光を目から脳へと巡らせる。

瞬間、頭蓋に蘇る地獄の苦痛。

体内魔力は乱痴気騒ぎを起こし、夕飯どころか五臓六腑を残さず吐き捨てたくなる衝動に襲われる。

(だが、少なくとも墜落の恐怖は消えたぞっ、必要な魔力は既に送った…操作自体に魔力は必要無い!)

炎の探知妨害も、小動物でのブラフも、それの巻き込みをハイロバに危惧させたのも、全てはこの一撃のため。

加速し一筋の光となった魔剣は糸の防壁を突き破り、一直線にネクロの体内へと札が撃ち込まれる。

ネクロは剣が突き立てられた箇所を分離し、その奔流から逃れようと試みるも、時既に遅し。

術は正確に刻み込まれ、体内から光が漏れ迸り…魔人は音も無く弾けたのだった。

 

必然空中に投げ出されるイオンであったが、体が落下を感じ始める前にカブウの触手によって受け止められる。

『まったくぅ、気取られたくなかったのはわかるけど、主語は大事だよジュラ!』

『わりぃ!けど、察してくれて嬉しかったぜ!後はイオンの話聞いてやってくれ!』

触手が手繰り寄せられ、イオンの手を離れた魔剣が主の元へと帰ってゆく。

『ありがと〜カブさん!で、さっそくだけど探知は糸、確実に感じてるのは音と触れた物の種類。音は一回別の形に置き換えてると思う。光は多分感じてない。あとこれ塩水につけたやつね。』

イオンが差し出したくしゃくしゃの糸を一瞥し、カブウの歩んで来た歴史は既に答えを導いていた。

『ひとつ確認するよ、この糸が柔らかさを失ったのは塩水に浸けてすぐかい?』

『それは追われてたからわかんない。けど、塩水被ったらすぐ探知を外れたから、そうだと思う。

『ありがとう、ならおそらくこの糸の正体は…』

 

『なるほど、コレがさっき撃ち込まれた術だね。大元は藍染式かな。』

弾けて散らかったはずの魔人が再構成されてゆく。

絶望を絵に描いたような光景…だが、夜明けは確実に近づいていた。

 

 

 

 

 

 

 

『あら、バーデンさん。お体はもうよろしいので?』

ダンスホールにて声をかけられた女性が振り向く。

『あら、ルート子爵の奥様じゃありませんか。その節はどうもお世話になりまして、お礼のしようもございませんわ。』

彼女の名はリブル・フォリリ・バーデン、貿易商バーデン家の現当主にして魔法学者アルハザードの妻である。

あの時、導きを感じた令嬢は外堀を完璧に埋めて半ば強引にアルハザードを婿入りさせ、望む物は全て手に入れていたのだ…一つを除いて、ではあるが。

『本当に、息子さんの件は残念でしたわね…あんなに待ち望んでいらしたのに。』

いささかデリカシーには欠けるものの、同情を向けられたのは理解できる、が掘り返されたく無い傷だった。

2人の間に生まれて来てくれた、珠のような男の子、アマト・リニニ・バーデンはごくごくありふれたなんてことない理由…流行り病の魔に魅入られ、眠りについた。

誕生日を目前に控えた、2歳10ヶ月で。

それが半年前のことである。

『ありがとうございます、ようやく受け入れることができまして…何卒これからもよろしくお願いいたします。』

 

『バーデン様、御宅に到着致しました。』

御者の声で目を覚ます。

久々の社交界に当てられたのと、溜まっていた仕事をまとめて片付けた反動だろうか、馬車に揺られて眠っていたらしい。

出迎えた使用人に荷物を預け、御者にチップを弾むよう言いつけておく。

『やあおかえり、疲れてるだろう?夕食はサッパリめのにしといたよ。』

『ただいま戻りましたわ、せーんせ。ご自分で用意されたんですの?珍しい。』

『せっかく味覚を再構成できたからね。新しいことしなきゃ脳が腐っちゃうよ。』

ダイニングを通り抜け、サンルームの小さなテーブルに並んで腰掛ける。

生気の無い使用人達によって運ばれた料理は、どれも温かな湯気を立ち上らせており、見るだけで満足感を与えてくれる。

『まぁおいしそう。これはシェフも青くなってたんじゃありません?首切られるかもーなんて。』

『ああ、だから言っておいたよ。首切られたらおいで、再雇用もとい再利用するからーってね。』

顔を突き合わせクスクス笑う。

側からはシャレになっていないジョークであるが、ここに眉を顰める者も顰められる者も居はしない。

欠月の光の中、食器が小さく音を立てる。

それはリブルにとって愛しく幸せな2人だけの時間だった。

『そういえば、最近ずっと研究室に篭られてますけど、ちゃんとお休みになってます?』

『いやーキミ程根を詰めてはいないよ。体調も安定したばかりだろうに、無理はおすすめできないねぇ。』

『あら、時間とタスクは適量で薬になりましてよ?』

『恐れ入るねえ、うん。でも今度の研究はキミも新鮮な驚きを感じてくれると予想、いや断言するとも。そのためにはどうするか?おや、ここに睡眠とかいう暇な時間があるじゃないかってね。』

『ふふふ、最近はもうこの冷え切ったコープスジョークを聞かないと眠れませんわ。…ごちそうさまです、大変良いお味でした。』

『はいお粗末様です。さて、今日もキミと夕餉を共にできたことだし、私は知的探求に邁進しようかな。』

『はいお気をつけて、死なない程度に。』

軽い足取りで研究室に消えるネクロに手を振り、ベルを鳴らして秘書を呼ぶ。

この屋敷の数少ない生きた従者だ。

『お待たせしましたリブル様。こちら、明日の御予定表でございます。』

いつも通り、僅か数秒で秘書が現れる。

一体どこで待機しているのだろうか?

『御苦労様、相変わらず完璧な仕事ですわね。………明日も研究室で使える時間は無い…か。』

『アルハザード様も残念がっておられました、もう少しルーズになるよう調整致しましょうか?』

『その必要はありません、「バーデン貿易商会」が滞ればそこいらの港町で背骨の伸びた方々が溢れることになるでしょう。何より、後々本格的に先生と研究するなら、貯えがあって困ることも無いでしょう?』

『承知しました、ではタイトに調整させていただきます。』

『頼りにしてますわ、わたしが辞めたら貴女に任せたいぐらいには。』

『お戯れを…凡俗の身には余る御役目です。本日も御疲れ様で御座いました。』

秘書が一礼して退室した後も、リブルは1人暗いサンルームで月を眺めていたのだった。

 

 

(まさか、逆方向へ馬車を走らせてしまうなんて、「ガラナド」の職人頭さんもお茶目なところがありますのね。おかげさまで交渉のペースを握りやすくなったのは僥倖ですけど。)

翌日、リブルは突然開いた予定の穴をどうやって過ごそうか思案していた。

(港の抜き打ち視察でもしたかったところですが、この嵐では海も荒れていることでしょう。とりあえず、屋敷に戻ってから考えましょうか。)

そのうちに馬車は邸宅へと到着し、使用人が傘を持ってリブルを出迎える。

一言労いを述べつつ、リビングのソファーに腰掛けて目を瞑る。

雨音が実に心地よい。

夕食前の一眠りには至高の環境だった。

夢の世界へ肩まで浸かろうとしていたその時、リブルの頭に閃きが走る。

(そうですわ!どうせなら先生を手伝いましょう。あんまり離れていると、知識も抜け落ちていくと言いますし。)

部屋着に着替え、研究室のドアをノックするも返事は無い。

『あら?先生、おられませんか?入りますよ?』

合鍵を差し込み、錠を開ける。

分厚いドアを押すと、薬品臭のカクテルが鼻をくすぐり、体の緊張がほぐれていくのが実感できた。

やはり中にアルハザードは居ない、講義にでも出ているのだろう。

白衣に袖を通せば、数日振りの研究室に心が躍る。

器具でもチェックしつつ夫の帰りを待とうと、棚に近づいた彼女はすぐそれの存在に気づいた。

棚の隅、暗幕が施された箇所に何か見慣れない瓶が置かれている。

中の液体では肉塊のようなものが蠢いており、何かの実験中であると察したリブルはすぐに暗幕を戻そうとする。

瞬間、彼女と肉塊の視線は交差する。してしまったのだった。

 

 

 

 

雨はより一層酷くなり、石畳を打っては飛び跳ね人々の足を濡らしてゆく。

どこかの山が崩れたか、泥水混じりになった水が流れる家路をアルハザードは急ぎ足で歩いていた。

もうすぐ、リブルの仕事が終わる時間だ。

先に帰って片付けておかないと、サプライズが台無しになってしまうかもしれない。

愛しい人へのプレゼントを未完成のまま隠し損ねるなど最早天罰モノだ。

安寧の象徴、バーデン邸の玄関を開け、傘を畳んで使用人に預ける。

『おつかれさま、彼女はもう帰ってる?』

『ええ、お帰りでございます。何やら物音がしておりましたので、研究室におられるかと。』

『ずいぶん早いなぁ。』

『なんでも、商談が1つ先送りになったとのことです。』

リブルが気づいていないことを祈りつつ、研究室へ向かう。

ドアを開けると、肉塊の浮かぶ瓶が置かれたテーブルと、それをじっと見つめているリブルの姿があった。

『あーバレちゃったかぁ。いやすまないね、まだ未完成なんだよ。サプライズにするつもりだったんだけど…』

アルハザードが頭を掻きつつ近づくも、リブルは視線を向けようともしない。

『なんでなんですか?』

ただ押し殺すような声で呟く。

『なんでコレの目をわたしは見たことあるんですか?コレは、一体、なんなんですか⁉︎』

リブルが急に声を張り上げた。

『びっくりしたなぁもお。コレなんて言わないだげてよ、私たちのかわいいアマトじゃないか。』

思えば、あの時顔を上げたリブルの目は知らない色をしていた。

『…………………………………は?』

『今はまだ真の魂魄には程遠いけど、いずれ完璧に再現して、私たちの傷は塞がるよ。そしたらどうしようか、湖の見える別荘を建てて、賢くした犬なんかも飼っちゃったりしてさ。アマトと一緒にいろんなものを見に行こう。…どうしたの?』

『ハハ、先生は相変わらずジョークがお下手ですね。ハハ…………ハ……ッッーごめんね、アマト…』

瓶に額をつけたリブルの唇からは、乾いた笑いだけが漏れていた。

『キミ、ホントに今日は体調が悪いんじゃないかい?すぐに医者を呼ぼう。』

伸ばしたアルハザードの手が払いのけられる。

『わたしに触るなーー!ばけも…………いや、ハハ…そうでした。そうでしたね。先生のそういうところにわたしは…ハハッ!』

青ざめた顔のリブルが立ち上がり、風に揺れる布切れのようなぎこちない足取りで扉に向かう。

『待った待った。私が、何か気に触ることをしてしまったというなら謝りたい。話をしてくれないか?』

『ハハ、いえ…貴方の場合、コレに関しては絶対に着地点の見つからない話ですから。………………もう、傷は塞がりませんわ。』

ドアをゆっくり開けて退室するリブルの姿には、いつも飄々としたアルハザードに声一つかけさせない程の『圧』があった。

はるかな昔、母親に抱きしめられながら言われた言葉が何度も脳内を反響している。

今の今まで思い出すことなど無かったというのに。

『***、貴方は清い子よ、はずなのよ。だからもうそんなことはやめて。おねがいだから…』

あの時は確か、ニワトリとハトの頸部を付け替えていた時だった。

何がそれの動静を分つのか、何故違う構造の生物がいるのか不思議で不思議で、知りたくてたまらなかった。

記憶とはまこと不可思議なものだ…

 

どれほどの間堂々巡りの思索に足を取られていただろうか、初めての経験だった。

ふと、リブルが白衣を身につけたまま出てしまったことを思い出す。

『何か薬品がついてちゃいけない、ひとまず連れ戻そう。その後話はゆっくり聞くとして…』

その時、研究室のドアが激しく叩かれる。

『うん、居るよ。秘書クンか…』

『旦那様!リブル様がっ!リブル様がぁぁ!』

その狂乱した声を聞くのも初めてだった。

 

 

降りしきる雨の中、傘を畳んでドアをノックしたアルハザードを、漆黒の背広に身を包んだ男が出迎える。

『お悔やみ申し上げます。…申し上げにくいことではありますが、御本人様である確認を。』

台にかけられた布が捲られる。

商会の印が縫い付けられた白衣は上部が赤黒く染まり、下の方まで僅かにピンク色を帯びた熱帯魚のような色合いになっていた。

靴も選ばず飛び出したのだろう、パンプスとタイツには泥水が染み、無難なグラデーションを形成していた。

頭部に強い力を受けたのだろう、右側は眼窩を巻き込んで陥没しており、左側の損傷も道路で擦れたか皮膚が一部失われていた。

それでもコレだけはハッキリと解る、静かに目を閉じる彼女は、唯一無二の愛しい人の顔をしていた。

『間違いありません、私の妻リブル・フォリリ・バーデンです。』

『………心中、お察しいたします。改めて、詳しい説明をさせていただきます。死因は乗用馬車との接触事故に伴う頭部損壊…恐らく、即死なされました。その…損傷が酷く悪天候も重なり、遺体全てを回収することは叶いませんでした。誠に申し訳ございません。』

『あの日の馬車が追いついたかぁ…いや、十分ですよ。感謝します。』

普段と何もトーンの変わらないアルハザードの言葉に男は少々不気味な感触を覚えつつ、続ける。

『もったいないお言葉です。心身の整理がつかない等ございましたら、葬式等の準備も私共で代行いたしますが…』

アルハザードが血と泥に塗れた彼女を抱き上げる。

『葬式ですか…いや、遠慮しますよ。もったいないので。』

傘がフワリと浮かび上がり、1人でに開く。

そのままアルハザードは大雨の中へと姿を消し、2度とバーデン邸にも魔法学園にも姿を見せることは無かったのだった。

 

味覚はいらない、感想の共有をもうしないのだから。

視覚はいらない、そこから得たい情報はもう無いから。

聴覚はいらない、声を声として聞く必要はもう無いから。

…偽名もいらない、いつか明かそうと思っていた者はもう居ないから。

 

それから20年後、1人の魔法使いが世界的に指名手配されることとなる。

その名はネクロ、真っ当な人間とは感性・思考・行動の全てがかけ離れた『魔人』と認定されての措置であった。




ネクロは今もリブルが怒った理由をわかっていませんし、たぶんこれからもわからないままです。

登場人物

リブル・フォリリ・バーデン
バーデン貿易商会の6代目会長にして、ネクロが唯一愛を向けた人間。
非日常に憧れながら自分の周りの平穏は保ちたい、そういう善良な小市民だった。

アルハザード
ネクロが使っていた偽名の1つ。
結婚したのも子を授かったのもこの時代だけである。

アマト・リニニ・バーデン
ネクロとリブルの息子。
直接の死因は流行り病であるが、元々ネクロが体をいじっていたためその悪影響が出て免疫が生まれつき弱かったのも大きい。

秘書
リブルのとっても有能なビジネスパートナー。
彼女亡き後は38年間会長の代役を務め、投票で選ばれた後任に全てを託した。
指名手配されたネクロがアルハザードであることにはすぐに気づいたが、リブルの名誉のためその秘密は墓まで持って行った。

用語集

バンカナ
本編より170年前まではチャンカチャカ王国の首都だったが、内乱からの疫病の流行で遷都された。
街の区分けにその名残がある。

チャンカチャカ王国
中央連合ができるまでは世界の中心的な役割を担っていたが、近年は落ち目の国。
しかし強国には違いない。

ウーズ・マギパルン
波状に成形した強力な光を広範囲に放つ魔法。
消費は大きいが殲滅に向く。

パルン系
魔法の属性的分類の一つで、宇宙由来のエネルギーと同質に変換した魔力を操る。
その性質には未だ謎が多く、魔力の根源に近い形ともされるが、適合者はごく少ないため解明は遠いだろう。

バーデン貿易商会
船乗りだったバーデン一族が興した海運貿易会社。
一時は複数の港町に絶大な権力を誇ったが、神歴1508年に倒産し解体されている。

ガラナド
現代まで続く陶磁器の有名ブランド。
庶民にはちょっと手が出ない。
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