荒野の道を荒々しく駆ける幌馬車、それが不自然に急いでいるのは誰の目にも明らかだったが、もう少し観察すれば車体に残る無数の弾痕や焦げ目にも気がつくだろう。
そして、馬車の背後を整然と並んでつけ回す統率された集団の姿にも。
実際、その馬車はもう何時間も同じ場所を回っており、休憩も挟めない追い立てと強い日差しの二重苦で馬も御者も疲れ切っていた。
『あぁーもう無理だ。すまんラシリア変わってくれ…』
『いいよー、オッちゃんもう2時間だもんね。しっかり水分摂んなよ。』
ラシリアと呼ばれた少女が御者席に飛び乗り、手綱を受け取る。
入れ替わって車内に滑り込んだ男は、理想的な温度に保たれた空間で一気に脱力していた。
『うぉぉ…もう動きたくない…初めてお前が居るメリットを感じたぞ灯焆…』
極楽を作り出しているのは床に寝転がっている雪女、灯焆 燐である。
『ふっふっふ、じんわり冷やすなら雪女に勝るものナシ、なんて昔から言うでしょ?』
『いや、言わないが…』
『言うの!まぁゼロは細かい調整苦手だし、体力だって消耗するから私が適任よね。あ、でも雑に氷枕扱いとかしだしたら噛みつくわよ。』
『ああ、丁重に、尊敬をもって氷枕扱いするとしよう。…ところで、ゼロの機嫌は治ったか?』
燐が首を振り、馬車の隅を指差す。
そこだけ明らかに澱んだ空気が漂い、嫌な湿気を纏っていた。
その中心でウジウジしているのが、何を隠そうこの番外編の主人公、天使ゼロ・ゼロである。
始末対象である自身の師との対決に敗れてから早10日、ゼロの精神は未だドン底にあった。
『ゼロ…いい加減に気を持ち直せ。今の追手は時間をかけてこちらの脚を潰す算段だ。たとえ自分達がしくじろうとも、この灼熱の荒野が始末してくれることを狙ってな。その前に迎え撃つことがこっちの必要条件だ。』
『おう…わかってる…うん。』
煮え切らない返事に山威が苦い顔を浮かべる。
ゼロを戦力としてカウントすることはできない、そういう考えが透けて見えていた。
『居合わせながら何もできなかった俺が言うことでもないが、あまり気負い過ぎるなよ。皺ばかり増えてもつまらないぞ。』
『そーよゼロー、先は長いんだからゆるーく行かなきゃ。』
『灯焆はもっと急ぐべきだがな、色々と。』
山威が拳銃をチェックし、弾を込める。
『ほれ、こないだ買ったサポーターをちゃんと着けてから撃てよ。』
ずっしり重い拳銃を手渡された燐は一瞬バランスを崩すも、何とか持ち堪え外を覗く。
『ひーふーみぃ、見えてる感じ6人もいるけどどうする?』
『何遍も先回りされたことを考えると、倍は見ておくべきだな。サボテンの群生地でもあればそこに籠城できたが…』
ここまでのチェイスで、周囲には数本の柱サボテンと低い薮しか無いことはよくわかっていた。
無いものを探すのは無駄である、ましてこの炎天下なら尚更。
『ゼロ、馬車を氷で覆えるか?砲門付きの要塞みたいなのが理想だが。』
『あまり能力を使いたくは無いが…やってみる…』
馬車が突然動きを止めたことを訝しみ、剣を抜いて近づく追手の目前、突如大地は隆起する。
咄嗟に後退り、驚く馬を宥める追手達が見たものは聳え立つ即興の要塞であった。
『この気温と乾燥…地下水を利用してもこれが限度だ。』
『十分だ、これでこっちも攻勢に出られる。』
『くだらないマネを…総員を集めろ。あの氷造要塞は奴等自身の棺桶を兼ねたっ。』
追手のリーダーの指示で1人が信号弾を打ち上げ、散っていた部隊に集合を促す。
直後、白く濁った氷壁の向こうを確かめるべく目を凝らしていた1人が、軽い発射音と共に落馬した。
『総員距離を20mに保ち包囲を維持!不用意に近づくな!』
その指令に一切の動揺は無く、自らは消耗品であり最大限に運用されなければならないという、使命のみが満ちていた。
『いえい!当たったわよオッちゃん!』
硝煙立ち上る拳銃を手に、飛び跳ねている燐は無視しつつ、山威 汽穂は歯噛みする。
1人仕留められたのは幸運だった、しかし敵は重要文書を追うに相応の忠誠心と能力を持った集団だ。
恐らくもう無策での接近はしてこないし、保っている距離から山威の拳銃の性能も完璧に理解されているだろう。
『あ、コラ!そんなん舐めてっとベロくっつくぞ!』
山威が氷を舐め出した馬達を窘めるエリシャに目を向けたその時、天啓は舞い降りた。
『ゼロ、先程この氷は地下水を利用したとか言ってたな。』
『ああそうだ。』
徐に地図に目を通し、山威は笑う。
『なら上々、連中を一網打尽にする策ができたぞ。この氷は一気に解かせるか?』
『それはできない、だが、内部だけを液体に戻しておいて、表面を割ることで擬似的に再現はできる。』
『中だけを?熱伝導どうなってんのかわかりゃあしないな…だが、好都合。どうせ敵方が集合するまで動くつもりは無いんだ、ゆっくり準備してくれ。』
『能力』の定義をする上で一つの基準として使われるのは、その過程及び結果が物理法則に反するものであることだ。
そこに体系も理屈も存在はせず、ただ理の外にある作用を本人しか理解し得ないプロセスで振るうだけ。
持たざる者にとっては、模倣すら馬鹿馬鹿しくなるような理不尽である。
(まったく、何かを羨むことほど無意味なものは無いが、性格の悪い恩寵もあったものだな。)
しかし、今回は…いやこれからもゼロの異能に頼る場面はあるだろう。
(俺も少しは理解しておかなければな…)
既に、要塞の建造から20分が経過していた。
未だ立てこもった獲物には何の動きも見られない。
膠着状態ながらも、不利なのは孤立無援の獲物の方であるはずだ。
しかし、不気味なまでの沈黙と既に水分を失いつつある部下の遺体が、リーダーの頭に嫌な考えを過らせる。
(もしや、この膠着こそが狙いなのか?いや、連中が『尸喰い』の到着まで待っているとすれば…我々は網の外で追い詰められた、愚かな小魚だとでもいうのか?)
男は首を振り、余計な疑念を振り払う。
(この炎天下で不快な想像をしてしまっている。だが用心はすべきだ。隊員が集結したならば、速やかに、行動させる時間を与えず始末するっ。)
重なった蹄の音が轟き、前方で待機していた部下の姿がみるみる近づいてくる。
『集合完了ですリーダー、どう出ますか?』
『「破城法(カノン)」を使う、欠員はいるが問題の無い範疇だ。』
それは複数人でいくつかの呪文を詠唱し、莫大な破壊力を生み出す古い魔法。
完全に調律の取れた詠唱でなければ真価を発揮せず、暴発の危険性すらある要注意術式だが、幸い彼等は完全に足並みを揃えられるよう『調整』されている。
何も支障は無かった。
13人が整列し、リーダーが指揮を取ろうと腕を上げたその瞬間だった。
ニョキっと、畑の畝を突き破ってしまったミミズのように、氷の要塞から腕が生えたのだ。
その細い腕は何か一抱えもないくらいの包みを持っており、周りを少しペタペタと触った直後、それを思いっきり氷の壁に貼り付け引っ込んでいった。
『は?冷たくて腕がシビれる?我慢しろ。さて、破壊してくれるというなら歓迎だが、わざわざ危ない術を使わせるのも忍びない。こっちでやらせてもらおう。』
包みの隙間から火花が散り、焼けた紙切れがこぼれ落ちる。
閃光、轟音…包みの中に仕込まれた火薬が炸裂し、追手達の視界は吹き荒ぶ砂煙に覆われたのだった。
『総員口を塞げっ!呼吸を乱…』
馬を飛び降り身を屈めた彼等の頭上から冷たい水が降り注ぐ。
自身の頬に張り付いた札からリーダーがその意図を察知した時には、既に勝敗は決していた。
『砂漠の地下水はミネラルたっぷりで助かるな。最高の電解液になってくれる。』
水と共に降り注いだ札を伝わるスパークは連鎖し、濡れた地面が沸き立たんばかりの放電が2度目の閃光を呼び起こした。
『が……う………』
小指の先も動かすことのできないリーダーの視界に、感電防止用の氷の板から降りて近づいてくる山威の姿が映る。
『ちゃんと生きていたか。ゼロは気にしているが、貴様等は任務失敗とみるや勝手に死んでくれるからな。麻痺する程度にしてある。』
『なる…ほどな…コソ泥の能力…で、氷に札を仕込み、爆破したか…』
『その通り。手っ取り早く指示役の貴様を人質として連れて行くぞ。手足は折らせてもらうが悪く思うな。』
リーダーが倒れたまま引き攣ったように笑う。
『クック、石ころと砂糖菓子の見分けもつかないか?我々の命に価値など無い、元々安い駒なのだからな。』
少し離れた場所で、紀章をつけた馬が耳を立てて2人の様子を伺っている。
他の馬が全て散り散りに逃げたことを鑑みると、余程乗り手と離れたくないのだろうか?
『…出過ぎた物言いだな。そんなことを決められるのは貴様ではないだろうが。』
『…どちらにせよ、我等の爪先たりとも利用させる気は無いがな。』
疑問符を浮かべる山威だったが、頭上に過った影で答えを得る。
見上げれば、そこに舞っていたのは全長25mはあろうかという雄々しき飛竜の姿だった。
『尸喰い…諍いを静観し、敗者の屍を貪る老竜だが……流石にテリトリーでの爆発は腹に据えかねたようだな。どうする?アレから『エサ』を掠め取って逃げてみるか?』
『チッ!全員乗り込め!荒野の主と事を構えるのはマズい!』
山威が踵を返し、馬車が駆け出すやいなやリーダーの元へと愛馬が歩み寄る。
鼻先でまさぐられるも、麻痺した体は動いてくれそうも無い。
『任務のため…で機械のように生きてきたが…お前に看取られるなら悪くない人生だったよ。』
他のメンバーが既にそうしているように、奥歯に埋め込まれたスイッチを起動し、脳の神経回路を遮断する。
急速にブラックアウトする意識の中、リーダーはその片隅で確かに自分が生きた意義を見出していた。
『尸喰い』が舞い降り威嚇するも、その馬は離れようとしなかった。
老竜は誰かに見られている時は食事をしない主義であったが、かといってわざわざ排除に動くのはダルいし、張り付いたように逃げ出さないのだから仕方ない。
渋々その存在を無視して屍にかぶりつこうとした瞬間、突如馬が膝から崩れ落ちた。
それが、老竜の最後の記憶となった。
『なぁんだ、腰のベルトにあったんだ。わっかりにくいとこつけんなよ、ホントつっかえない。』
プポパ……
『ハイ、もしもし…恐らく番号間違…』
『ハァーイ、スズガモちゃん。そろそろ動くからぁ、アイツラの行き先調べといてよ。』
『…………了解した。だが、ただでさえこの暑さでまい…』
『あ、クソつまんない長話に興味無いから。』
一方的に通話を切られた男は、通信機を置いてもう一度深いため息を吐き、重い腰を上げたのだった。
『むぅ…どうしたものか…』
下を見つめてブツブツと呟く山威の肩越しに、エリシャが手元を覗き込む。
『おつかれー、どした〜オッちゃん。古き恋を思って、泣いてんのかぁ〜?』
山威の手に握られていたのは、絹糸で束ねた無地の札だった。
『他人の過去を悲劇で修飾するんじゃーない。ただ、また札を仕込まねばと思っていただけだ。最近予定外の消費が多すぎるからな。』
『ふーん、タイプライターでも買う?ブン屋のお古とかたまに売ってたけど。』
『活字を1から作らにゃならん、パスだ。後、微妙な濃淡だとかズレで紙屑に早替わりするからな。手書きが一番信用できる。』
『せめて馬車が揺れなきゃねー。あ、そうそう天使様もお疲れーす。』
『ああ…』
地に落とせば鈍く鳴るようなどんよりとした返事だった。
『辛気臭いなーもう。ただでさえクソ狭い馬車なんだから、空でも元気出してきやしょーぜ。ヘイ、リン!ミュージックスタートォ!』
エリシャの呼びかけに呼応し、御者席から上機嫌な声が上がる。
『あいよーぅ!やぁーっと私も操縦できるようになったからー、BPMアゲてくわよー!』
燐のアカペラレパートリーは、悉くスローモーで小節の効いた、情趣に溢れるものだった。
恐らくは彼女の生まれ(死に?)故郷で歌われてきたものなのだろう。
それ自体はいい、異国然とした響きは耳に馴染みが良く、燐自身の声域も鈴を転がしたような高音から谷底に響くような濁声まで幅広く、ちょっとしたアリアを聞いている気分にさえなってくる。
『それはそれとして何でこの曲調でヘドバンできんの?』
ゆったりと首を振る燐とエリシャを前に、ゼロの口を疑問が吐いていた。
『可笑しなジョークだね天使様!ポップなビートをヒアーでハァイ、ファンキーだヨォ!』
『エリシャのアンサーザッツラァイ!ピリカピチャチャピリヤリパッパー!』
ダメだコイツら、恐らくもう正気を失っている。
『うーん、懐かしい。ガキの頃は皆が口遊んでたものだ。』
『…マジで?お前んとこの童歌って、いきなりハイテンポスキャットパートあんの?』
山威が深く頷いているのを見るに、どうも担がれているわけではないらしい。
『いいねーエキゾチックだねぇー!ほうら天使様!あそこのトカゲもリズムに乗ってやすぜー!』
『いや、アレは馬車に威嚇しているだけだと思うぞラシリア。』
エリシャが馬車の外を指差したまま一瞬停止する。
『急にハシゴ外さないでよオッちゃーん。次やったらコレだからね〜。』
何かをフルスイングする真似をするエリシャに、山威の肝っ玉は縮み上がっていた。
『そ…そんな重罪だったのか⁉︎は…反省する!超反省しているッ!』
30分前まで命のやり取りをしていたとは思えない程、おちゃらけた3人の様子にゼロは己の緊張が解れていくのを実感していた。
『なーんだ。ゼロったら、ちゃんと笑えるじゃないの。これでまだまだタカれるぜ〜。』
ゼロが邪悪に笑う燐の頭を氷柱で小突く。
『あいたっ。』
『おいアホリン、てめーまだ飲み食いする気でいんのか。もうビタ一文てめーに使ってやる気は無いからな。』
『何でもするって言ったじゃん!何でもするって言ったぁー!』
『くそっ、こいつめ必要に応じて駄々っ子モードを…レディーとか抜かしてただろ、小賢しいぞっ。』
カラッとした荒野に似つかわしい明るい雰囲気へと変わった馬車。
その車内からは、目的とする町の時計塔が地平を越えて見えつつあった。
忙しく、絶え間なく平底の蒸気船が発着している。
無数に並ぶ桟橋は寄り付く船に不釣り合いな程大きく、そして頑強頑強だった。
大河を挟んで両岸に沿う町、ここは鉱物輸送拠点「オハンズ」の右岸街。
南方約30kmにて開拓された銅山の採掘物輸送のために作られた、新進気鋭の船場町である。
人も物も常に入れ替わるこの目まぐるしい街で、ゼロ一行は船着場の雑踏に紛れていた。
『…で、あんな方法で見つかるのか?』
『わからん、だが船乗りって人種は子供に甘い。手前の子供に会えない時間も多いからな。後は灯焆達がいかに同情を誘えるか…だ。』
ゼロと山威が顔を隠している新聞から少し目線を上げる。
2人から少し離れた場所では、頭巾を目深に被った燐とエリシャが薄い板切れを手に船乗り達を呼び止めていた。
『どなたか、お父さんを見かけませんでしたかー!もう10日も経つのに、お仕事から帰って来ないんです!』
『どなたかー!お父さんを知りませんかー!お腹が空いてるんです!じゅるり。』
2人が手に持っているのは山威謹製、大天使アド・アドの似顔絵だ。
勿論翼や光輪は省いてあるが、一目でそれと伝わる中々のクオリティーだった。
『なんか、リンのヤツ別の目的入ってないか?』
『マァ、灯焆だからな…だがこの方向にお前の師が直進したと仮定するなら、この河を横切った筈だ。』
『そして船乗りは常に空と水面に気を配っていると…悪いな、時間取らせて。』
『礼なら実働の2人に言え。…主戦力がいつまでも迷いを抱えているのは、致命になるからな。』
タイムリミットは1時間、それに満たずとも少しでも怪しい動きがあれば、即座に乗船券を入手しこの街を発つことになっている。
師に勝てる未来は見えていない、それでも何かしなければ。
ゼロのそういう焦燥感を汲んでくれたのだろう、追手のリスクが増すその提案に対して3人が異議を唱えることは無かった。
(ありがたいことだな。これ以上任務に巻き込まないよう早くケリをつけないと…)
ゼロの背中を不愉快な汗が流れ落ちていた。
『2人とも、本当にありがとう。で、1時間の成果がコレか?』
ゼロの前にはこれまた立派な大玉のスイカが4つ鎮座していた。
『いやー私ちょっと腹ペコアピールしすぎたらしくてぇ、丸顔のおじさんが仲良く食べなさいって。』
『何?お前ら象かなんかと間違われてんじゃないか?』
『アハハ、勿論ゼロにも一切れあげるわよ!』
『いらんわ!てか一切れだけかよ!
『自分からは情報いいすか?それとなく聞いてみたら、何日か前翼が片方無い天使様が船の上を旋回して下流へ飛んでいった、って話が何人かから聞けた…まではいいけど、どうにも釈然としないことがあって。』
『なんかあったのか?教えてくれ。』
『どうも、見られた日がバラバラっぽくてー、最低でも3日はおんなじことしてたらしーんすよ。……あー、大丈夫そうで?』
2人に怪訝な顔で見つめられ、ゼロは自身の顔が引き攣っていたことに気づく。
『ああ、何でもねーよ。』
『またそれだー、私に隠し事はナシだぜ相棒ー。』
『誰が相棒だ馴れ馴れしい。』
アド・アドの行為は明らかにゼロを狙った釣り針だった。
『神殺し』の弁明もしないクセに、何をわざわざ追わせるようなことをするのか?
それはゼロにはわからない。
(だが先生…それが俺の心を掻き乱すため、ってんなら予想以上の効果だろうよ…ちくしょうが…)
『うおっ、何だこのスイカ⁉︎ちゃんと元の場所に返してくるんだぞ。』
数枚のチケットを手に戻ってきた山威が、エリシャと燐を交互に見つめ首を振る。
『あー酷いよオッちゃん!今回はちゃんと貰ってきたやつなのに!』
『む、そうなのか?それは悪かった。』
『いーやゆるせませーん。自分も燐もいたく傷つきましたー。』
『普段の行いだろ…で、券は取れたのかヤマイ?』
山威が頷き各自に一枚ずつチケットを配る。
『…オッちゃん、名前違うよ?私カルコーエナ・エフペンアードじゃなくて灯焆 燐よ。』
『問題無い、コイツはダフ屋で買ったものだからな。他のも全て違う名義になっている筈だ。』
確かに、エリシャにはアキツ・カラカネ、ゼロにはエスマランザ、山威自身にもジュウイチ・カキツネの名が記されたチケットが渡っていた。
『少々割高ではあるが、身分を隠して移動するにはピッタリだ。勿論馬車も違う船にて別名義で運んでもらうことになっている。』
『へぇ、そりゃいいや。しっかしコイツら、毎回律儀にチケット買ってんのかねぇ?』
『いや、恐らくはホワイトリスト式…この名前のチケットは、何も咎めず通せとでも言われているのだろう。値段3倍するし。』
『防犯もクソもあったもんじゃあないな…それじゃリンみたいなのが乗り放題じゃねーか。』
『ねえゼロそれどういう意味?』
『おう灯焆、噛みつくなら後にしろ。…ここで全員守るべきは、船の中ではチケット通りの偽名で過ごすことだ。船側にも体裁ってものがある。』
『んじゃもっと短くて覚えやすいやつ選んでよぉ。』
不満げに全員の偽名をぶつぶつ唱え始めた燐であったが、時間はあまり無いらしい。
さほど遠くないところで一隻の船が汽笛を鳴らし、噴き上がった真っ黒の煙が316の数字に固まっていく。
『む、乗船20分前の合図か。行くぞ、はぐれないよう気をつけろよ…って、何を考えている灯焆ぅ!そんなのが入るわけないだろうがぁ!ああー!やめろ!壊れるぅぅぅぅ!』
ゼロ一行はスイカを無理矢理山威の金輪へと押し込み、船へ向けていそいそと動き出すのだった。
ザザピ…
『もしもし、こちらスズガモ。ターゲットが動き出した。316で変更無し。では、幸運を祈る。』
短いメッセージの再生が終わり、必要事項を聞き届けた人影がゆっくりと席を立つ。
そのまま人影がソファーの上の荷物を持ち上げると、再生機器の駆動音にノイズが走り始め、数瞬の後に機器そのものが大気へと帰したのだった。
人影は机に掃除係へのチップを置き、無言で部屋を出る。
そこは船着場に面したコテージの一室であり、ドアを開けたちょうど目の前によく拭かれた窓が開いている。
そして、その窓からは既に捕捉されているとも知らない、暢気なターゲット4人の姿がハッキリと見えていたのだった。
『船かぁ、誰かと乗るのは久しぶりだしワクワクするなァ〜。姉貴と乗ったのが4年前くらいだっけか。』
『ふふん、輝かしき密航歴を持つこの私が、船上作法のなんたるかを教えたげるわ!』
『それは誇るようなことじゃないだろう………ゼ…ェスマランザ、どうした?』
細いギャングウェイの途中で背中を丸めていたゼロに山威が声をかける。
その顔色は真っ青だった。
『何でも無い…この程度…うお…既に揺れるな…』
下を向き、せっかくショールで隠した翼まで広げていっぱいいっぱいのゼロは、故に山威の肩越しに何かを察して悪い笑みを浮かべている2人に気づかない。
背後につっかえた乗客の舌打ちに押されつつ、何とか甲板まで辿り着いたゼロが船縁に体を預けて座り込む。
『…すまない、船は苦手だったか?』
『いや、あー、そんなことは。ちょっと思ったより…』
はぐらかそうとしたゼロの両サイドを、碌でもないことしかしない二人組が固める。
『ハッハッハー小鳥ちゃん、お船は初めてかなぁー?』
『上手にゲロ回避できるかなー?』
『てめーら…今ちょっと余裕無いから後に…』
燐のひんやりした手が下を向いていたゼロの顎をグッと持ち上げる。
『はい目線はなるべく遠く!姿勢は楽にしてていいけど背中丸めない!』
エリシャのほっそりした手が船縁を通してゼロの背中を押す。
『ハイ深呼吸!それでもダメなら客席で寝る!』
おせっかい式お船の乗り方レッスンのおかげだろうか?
ゼロは10分後にはある程度船に慣れ、甲板を見て回れる程度にまで持ち直していた。
『どんな伏魔殿かと思っていたが、意外にちゃんと楽しいもんだな!』
先程までの顔面蒼白はどこへやら、ゼロは晴れ晴れとした面持ちで舳先に立ち、風を翼に受けて船旅を満喫している。
『よかったな。だがあまり目立つ真似はしてくれるなよ。…特にそこでカモメにちょっかいかけてる二人。』
矛先を向けられたエリシャと燐が、パンを投げ上げかけた腕をそのままに目を逸らす。
エサが飛んでこないと見るやいなや、カモメは即座に別の乗客に鞍替えしていた。
まったく逞しい生き様である。
『だってー、川にいるカモメって珍しくってー。アキツもそう思うよねぇ。』
『うんうん、何もかも薄味でエサ食べるの億劫になってそうでねぇ。』
『そういう種類かなんかなんだろう。んじゃ到着まで客席に戻ってるから、なんかあったら呼びに来てくれ。』
トントントン…パキッ、ボチャン
ゼロ達の背後で遠ざかっていく足音が、数歩で鈍い破砕音と大きな水音に変わった。
ゼロ達3人を含めた甲板の視線全てがその方向に向けられる。
そこには割れた甲板と船縁、そして水飛沫だけが残っていた。
咄嗟に備え付けの浮き輪の元に駆け、河に投げたのはエリシャ。
流石に港町の住人である。
『上がってこない…ッ。』
水面を覗き込んだエリシャの顔に焦りが浮かぶ。
大型のカメやワニだって生息している河だ、悠長にはしていられなかった。
黒い氷柱を持ったゼロが空に舞い上がり、水面に残る泡目掛けて急降下する。
『最大出力………ブラックモンブランッ!』
着水、しかし水飛沫は起こらない。
衝突の瞬間、水は即座に凍結し、舞い上がる直前で動きを停止していたのだ。
みるみるうちに氷は広がり、流れの規則が乱れ始めた。
(どこだ……確実にあるはずだ…凍結が進まない、体温のある場所…)
全神経を能力行使に注ぎ、目を閉じる。
(下流6m…動く熱源…魚の群れか。こっちは…おそらく流木。くそっ、どこまで流され…………見つけた!)
ゼロの着水地点より下流20m、そこに力無く流れる熱源があった。
他の乗客が船員に知らせてくれたらしく、既に船は減速しつつあり、叫べば届く距離を保っている。
『俺から見て北西に78°!深さ1.4m!』
声は無事に届いたらしい。
エリシャが風に乗って空を蹴り、凍った河面へするりと潜り込む。
長い20秒が過ぎ、ヤマイを担いだエリシャが浮き輪を掴んだ時、船は動きを止めつつあった。
『精度・出力ともに良好。作戦進行は…依然恙無し。』
引き上げられた山威を確認し、一つの人影が客席へと戻ったのだった。
『船長から詫びで10枚綴りのチケットをもらったが…整備不足で死にかけた船にまた乗りたがると思うかねフツー。オマケに全部偽名じゃ気が休まらない…』
船員から借りた服に着替えた山威が大きなため息を吐く。
結局、船の破損は『通常考えられないレベルの構造劣化』によるものだった。
それも山威が踏み抜いたごく一部だけがそうなっていたらしい。
ゼロ達としては納得のいかない理由であり、船員達も一様に首を傾げていたものの、面倒を嫌った船長に口止めチケットを押し付けられてお開きとなったのだ。
『どうせなら、一生タダ乗りパスとかくれたらいいのにねー。私ならもっとゴネてるわ。』
『だろうな。とはいえこの先乗る機会も無いとは思うが…はぁ、オキニの眼鏡も無くすし散々だ。』
『そういやかけてないな、ちゃんと見えてんのか?』
『問題無い、伊達メだからな。』
『いや度入ってないんかい。』
そういえば、初めて出会った日も眼鏡を叩き割ったが、その後問題は無さそうだった。
山威が目に見えて肩を落とす。
本人なりに、最も注力したオシャレポイントだったのかもしれない。
『ともかく、やっぱ変では?自分の記憶だと、船の点検てだいぶ丁寧だったんだけど、1箇所だけボロとかありえんの?』
『気にかかるところではある。ましてやこの船の本命は鉱石輸送、採掘会社が特に気を使う所の筈だが。』
『せっかく掘った石が河に沈んだら勿体無いもんねー。』
『現場が工程をすっ飛ばしたのかもな。天使界隈でもよく聞くはな………いや、訂正する。今、答えが出た。』
ゼロの声に緊張が混じる。
窓枠に置いていた木製のコップが粉々になって崩れつつあり、中身のコーラが床へと溢れ落ちていた。
『これは明らかな攻撃、だ。おそらくはミクラミ王国の。』
山威が立ち上がり船内を見渡す。
客席は対となり向かい合った長椅子が、窓に沿って左右10基ずつ設置されているシンプルな構造だ。
あくまで鉱石のオマケ、他に余計な設備はドリンク用の保冷箱ぐらいだった。
乗客は三十数名、うち何人かが突然立ち上がった山威をチラリと見やるも、不審な動きは誰にも見られなかった。
『どう?怪しいヒトいた?』
『いや…わからない。ただ、船員ではないように思う。鉱山側に登録されている筈だし、配属というのは我々が訪れるずっと前から決まっているからな…』
エリシャも立ち上がって船内を見回す。
『三十三人…1人足りないけど、他の連中はここに揃ってるかな。』
『わかるのかラ…ァキツ!』
『何なら顔と名前も多少合うよー、ちょいと路銀をくれそうなのがいないか、乗船名簿こっそり見てたからさぁ。』
『おう早めに自首しろよ。……やっぱ、消えた1人ってのが怪しいか?』
『まだなんともいえないが、仮に消えた1人が追手だとして、どこからこちらを捕捉しているか、そもそも何人いるのか…一刻も早く暴かなければ。』
『最悪のパターンは乗客を巻き込んで乱闘になることだ。何人犠牲が出るかわからないし、船そのものだって危なくなる。…一旦甲板に出よう。』
ゼロの提案に全員が頷く。
4人が立ち上がり、ドアへ向けて歩き出した瞬間、処刑人はニヤリと笑った。
『ビンゴ、まずは腕の一つも持っていけるといいが。』
ドアノブに手を伸ばしたゼロが、手に伝わる不快な感触に顔を顰める。
(なんだ?なんかヌルッとするような…)
違和感に目線を投げると、自身の手は黒々とした血で濡れていた。
『なっ………!』
『どしたー天使様…って、血ィ出てる!どっかで切った?』
エリシャの声に振り向いたゼロは再び目を見張る。
今まさに『しょうがないな〜』なんて言いながらポケットのハンカチを探すエリシャ自身の手も、黒い血に濡れていたからだ。
彼女もまた痛みは感じていないらしく、黒く染まったハンカチに目をやって初めて異変を認識したらしい。
『えっ?なんで?』
山威と燐にも警戒を促そうとした瞬間、腕を鑢で撫ぜたような感覚が走り、ゼロの視界は赤一色に染まった。
反射的に背を丸めかがみ込む。
混乱した頭でなんとか認識できたのは、腕のあちこちから血が滲み出ていること…そして、しゃがみ込み腕を押さえる他の3人が同じ症状に見舞われていることの2点だけだった。
『ウォォォォッ!ヤマイッ、エリシャ!警戒態勢を取れっ。リンはドアを開けて、道を確保しろっ!』
もはや偽名がどうのなど言ってはいられなかった。
3人が騒ぎ始めた船内を注視し、1人がドアを開ける。
甲板に出て仕切り直しのつもりだった。
しかし、ドアノブがキイキイ鳴るばかりでドアが動く気配は無い。
『リン、どうした。なるべ…』
『開かないの!押しても引いても!蝶番がサビすぎてる!』
そんな筈はなかった。
確かに自分達はそのドアを使った。
それもほんの少し前にだ。
その時は開閉になんの問題も生じることは無かった。
『バカな!俺達がドアに向かってから30秒程度、それだけで機能不全にまでなるものか⁉︎』
銃声が二発轟いた。
最早役目を果たさない蝶番は脆くなった周囲の木材とともに吹き飛び、ドアが外に向けて勢いよく倒れる。
『なら、読まれていた。というだけのことだろう…我々がこの部屋に入ってから、全ての行動をな。』
硝煙立ち上る拳銃を構えた山威が、苦々しく呟く。
今度こそ船内に恐慌が広まった。
動転した乗客は我先に窓に群がるも、金網が張られており押し潰し合いになるばかりだ。
しかし、発砲者が山威だったためだろう。
ゼロ達には誰も近寄らず、脱出が邪魔されることは無かった。
ドアを抜けると攻撃されている感覚は無くなり、天使であり再生力の高いゼロに至っては出た側から血が止まり始めている。
『やはり、だ。この攻撃は別に特定の誰かを狙ったものじゃないッ!距離か、或いは指定した場所、そういう方式で狙いを定めているっ!』
であれば得策は逃げることだ。
さすれば自ずとチャンスも見えてくるだろう。
しかし敵とて自身を知っている、故にそれを許さない。
更に距離を取ろうとゼロ達が立ち上がった瞬間、単なるパニックのそれとは違う苦痛を伴った悲鳴が白昼の熱気をつんざいた。
それは船内から聞こえてきたもので、風通しの良くなったドアからそちらを見ると、乗客が通路に倒れ伏している。
症状は皮膚からの出血、数は4人。
明らかに1人を釣り出すための人質だった。
『行っちゃダメよゼロ。』
自分が息の一つも吐かない内に釘を刺されたことに驚くゼロであったが、すぐに気を取りなおし足を前に出す。
次の瞬間、後頭部に硬い金属筒が触れた。
『冗談じゃ済まないぞヤマイ…』
『冗談?それはゼロ、お前が言われるべきことだ。なんとか出られた敵の射程にわざわざ逆戻りするだと?一番できの悪いロバでもやらない判断だが。』
『あの人たちは、俺やお前たちの代わりに理不尽な責苦を受けることになっている。んなこと、許せるわけねーだろうがァ!』
『お前が根っから実直な天使なのは見ていればわかる。他人を巻き込んだ負い目も理解するッ。だがそれとこれは話が別だ、誘われているんだぞ!他でもないお前がだ!』
『自分も賛同できねーですよ。こっちは考え方まで分析されてて、確実に仕留めるためのプランを準備されてるんだから。止めさせる方法があるとすれば、文書置いて、全員で首括るくらいしかないんじゃ?』
天使の性か、全員の反対を受けても譲れないものがゼロにはあった。
『善良なる者を助けるのは天使の最も基本的な務めだ。そこまで抜かしたら…任務も果たせない俺はもう、天使ではなくなるんだ。』
意思の固さに反して、思いの外弱々しい言葉尻だった。
山威は怒りと理解が混ざった複雑な表情を浮かべ、エリシャが小声で悪態を吐く。
軽い溜め息を吐いて、燐がゼロに背を向けた。
『あーあ、約束破られたー。行きましょエリー、オッちゃん。やりたいことやって死ねればラッキー、てのもアリなんじゃないかしら。』
『そだねー、少なくとも自分らは命惜しいし、救命ボートでも奪って逃げちゃおか。』
『しかしだな灯焆………いや、わかった。ゼロ、これからこっちはボートを奪い走らせるが、5分だけ待つ。見つけ出し、叩くならその時までだ。………じゃあな。』
再び、死地の境界を跨ぐ。
倒れた人質の1人が起き上がり、急に症状が消えたことを訝しがっている。
恐慌状態の乗客の足音に掻き消されないよう、ゼロが大きく声を張り上げた。
『おいクソ外道!どこかでニヤついてられるのも今のうちだ、精々地獄で使うおべっかでも考えておけ!』
呼応するようにゼロの体にビリっとした感覚が走り、視界が赤に染まっていく。
(どいつだ…どいつが敵だ?さっきの感じだと耐えられて2分…なら…)
『処刑人』はじっくりとゼロを観察していた。
(奇妙だ。もう2分は過ぎたはずだが、なぜ奴の崩壊が進まない?とっくに骨までダメージが届いている頃合いだが。)
ゼロは乗客1人1人の顔を覗き込み、犯人を探っていた。
多少なり口内や皮膚からの流血はあるものの、大きなダメージとはなっていないらしい。
これまでの経験上、前例の無い事態だった。
(恐らくは目線の僅かな動きで焦りの真偽を見ている。天使には訓練所があり、そこで戦闘技能だとかを学ぶらしいが…心理的テクニックもカリキュラムにあるのか?)
処刑人が手を動かす。
獲物を隠れて仕留められるならそうするべきだ、それが自らフラフラと檻に入り込んできたなら尚更のこと。
背後に気配を感じ、ゼロが振り向く。
(なんだ?どうして民間人への攻撃を辞めている…?………何か、『ヤバいのがくるっ』!)
ゼロの体温が急激に上昇し、抑えきれない血潮が溢れ出した。
『ヒィ!あ…あの、大丈夫でしょうか?』
突如、黒い血を噴いて姿勢を崩したゼロに駆け寄ったのは、つい先ほどまで人質として床で喘ぎ苦しんでいた老婦人だった。
『ご心配無く、マダム。お召し物が汚れますのでそれ以上は…』
近づこうとした老婦人を制止する。
『でもあなたこんなに血が出てるわ。大変なことよ!』
老婦人は、ゼロが発砲した山威と行動していたのを見ているはずであり、またいつ謎の症状に襲われるのか不安にも思っているはずだ。
しかし、それでも目の前のゼロを慮り介抱しようとしてくれている。
(やはり、だ。こんな素晴らしい人間たちが、たまたまそこに居ただなんて反吐が出そうな理由で、巻き込まれていいはずが無い。)
ゼロの全身に義憤の力が滾る。
(何故突然攻撃が強まった…?俺は確かに氷の膜で表面を覆いガードしていたし、実際に効果もあった。だが、今や膜ができない!正確に言えば作った側から消えてゆくっ。温度に変化も無いというのにだ。俺1人に集中したからか?)
気づけば、周囲の乗客数人が騒ぐことを止め、遠巻きにゼロと老婦人を見ていた。
おそらくは、自身の言葉が彼らの理解に届く最後の機会。
咄嗟にゼロは2つの出入り口を指し示す。
『どっちでも…いい。今すぐこの部屋から出て、甲板に待機しててくれ。すぐに問題は解決するっ!誰にも死んでほしくないっ!』
あまりにも説明が足りないと、自分でもそう思う。
ただ、それが逆にノーと言わせない迫力ある声色を強調したらしい。
誰が始点というわけでもなく恐慌の沈静が伝播していき、乗客は怯えつつもしかし慌てずまだ残っている方のドアへ向かい出していた。
そして、1人の乗客がドアに手をかけた直後、血の気が引いた顔で呟いた。
『開かない…錆びついてやがる…』
その一言は、囚われた人々の恐怖を呼び起こし、心にナイフを突きつけるのに十分だった。
我先にと山威が吹き飛ばした入り口へ向かい始める乗客達、その動きに処刑人はほくそ笑んでいた。
(既にどちらにも仕掛けは施してある…天使様、貴方はご自分で守るべき人間に傷を負わせるのだ。)
処刑人は既に出入口前の床に細工をしていた。
数人の人間が慌てて通ればごっそりと抜け落ち、船倉の鉱石目掛けて落下する仕掛けだ。
結果、ゼロは精神に揺さぶりをかけられ、乗客からは不審を向けられるだろう。
そして、最初の乗客の足が罠に差し掛かり…何も起きはしなかった。
次々と脱出していく乗客を見て、一転焦りを覚えたのは処刑人である。
(バカな…この人数、絶対に床は抜けるはずだ。どうなっている………!)
ゼロは攻撃が激しさを増した後、少なくとも片方の手は地面に着けていた。
氷の膜の生成ももう止めている。
(そうか…床を氷で裏打ちしたのか…!)
処刑人は仕方無く立ち上がり、他の乗客に紛れて脱出するため出口に向かう。
(1人ずつ誘い込むつもりだったが、まんまと追い出されてしまった…外では戦いたくないが致し方ないか。…だが天使様、貴方だけはここで仕留めさせてもらうっ!)
目の前を通りざまに頭を一撫で、いや手をかざすだけでいい。
(それだけで終わる。貴方はここで、最初からそうだったように、苦痛も無く逝くことになるだろうッ!)
処刑人が蹲るゼロに手を伸ばしたその時、小型内燃機関の駆動音が船内に響き渡った。
(ありえない…この音は、救命ボートのエンジン…決して逃げられないよう壊しておいたはずだ…使えるはずが無いっ。)
手に伝わる凍えるような感触で処刑人はようやく自身の状況、そのマズさに気づく。
『もう5分、か。おいアンタ、後ろがつっかえてるだろ。どうして、立ち止まったりしたんだ?』
ガクンと引かれる感覚があり、気づけば処刑人の腕は氷で長椅子と接着されていた。
『まるで、なにかマズい音でも聴こえたみたいじゃねーか?』
処刑人は紺色のスーツケースを長椅子に下ろし、素早く別の手を伸ばす。
『そういうこともさせない。』
少女の一声と共に胴体へと弾丸が突き刺さり、処刑人が呻き声をあげて倒れる。
援護の一矢は、封じられたドアの真ん中から半身を出しているエリシャによるものだった。
『いえーい、当たったぜオッちゃん!天使様も生きてる!』
『そうかよかったな、今開けるからどいてろ。』
接合部の劣化したドアは、成人男性が本気で体当たりすれば簡単に外れた。
熱気が一気に駆け抜け船内を席捲する。
『てめーら〜、来るのが遅いんだよ!』
依然身動きの取れないゼロであったが、漏れ出る笑顔を隠そうとそっぽを向く。
声色にも安堵と歓喜が滲んでいた。
『あらー、照れちゃってー。ゼロってばかぁわいー。』
その異変に気づいたのはエリシャだった。
『ん?なんかあの椅子だけ革の色が…‼︎オッちゃん!』
跳ね上がるように起き上がり、背後からゼロに触れようとした処刑人が追加で二発の弾丸を受け、壁まで吹き飛ばされる。
『既に自分を縛る椅子を酸化させていたか、よく気づいた!そして今、能力の正体も見えたぞっ!』
船内のどこかから持ってきたのであろうか、燐が蝋燭に火を灯し前に突き出す。
持ち主の移動に合わせ、炎が大きくなったり元に戻ったり…通常ではありえない挙動を示している、奇妙な蝋燭だった。
3人は不自然にジグザグしながら進み、なんの支障もなくゼロの元へと辿り着いたのだった。
『まだ心臓は動いてるわね、ゼロ!よくがんばった、あんたぁえらい!』
『おかげさまでな。よく俺の身勝手に付き合ってくれた…ありがとう。』
『いやー、少なくとも自分は放っておくつもりでしたけど、オッちゃんがどーしてもって言うからームギュ。』
山威がエリシャの口を押さえる。
『オホン、そんなことより、ゼロも手酷く体験させられたようだが、我々を攻撃していた能力に目処がついた。タネは燃焼…いや正確に言えば酸化、だ。』
『酸化……っていうと、コインが錆びるあれか。』
『ああ、もっと言えば強制的に酸素と他を反応させる空間を特定の場所に広げる…ってところだろう。人工かはわからん、俺の知識には無いからな。』
『なるほど…な。考えてみりゃすぐ思いつきそうなもんだったか…情けない話だ。』
『おそらく、脳に回る分の酸素も血液から放出されなかったんだろう、気にすることじゃない。大事なことは、能力が生きてる以上、ソイツもまだ生きているということだ。…正当防衛だからな。』
山威がリボルバーに弾を込め、ピクリとも動かない追手の頭目掛けて構える。
程なくして引き金が引かれる直前、小さな異変に気づいたエリシャが叫んだ。
『オッちゃん!そいつ、カバンみたいなの持ってる!何かしてくるかもしれない!』
持ち主の手を離れた荷物が大好物の彼女だからこそ成せた、有能な警告である。
しかし一手遅かった。
山威が引き金を引き、虚しく響いた金属音に思考が一瞬遅れる。
(俺の銃が砕けている……酸化を一極に集中させたのか⁉︎)
山威と処刑人、初めて視線が交差する。
その瞬間、山威はその男を前にも見たことを思い出した。
(こいつは…!だとすればマズい、完全に読み違えた!どうする?防御か?即死は免れる。回避…は狭すぎる。なら…)
『こいつじゃあない!もう1人だァーー!』
勢いよく立ち上がった処刑人に突き飛ばされ、山威が後ろに倒れる。
なんてことはない、開手なうえ近距離で十分な威力も乗っていない一撃だった。
しかし、倒れた山威は胸のやや下を押さえて、呼吸もままならない様子で苦しんでいる。
『オッちゃん!どうしたの?何をされたの…⁉︎』
『ガボ…ゴァ…ラシ…リア、肺…静脈…だ。詰まり…を…』
苦悶の声が聞こえなくなる、山威が意識を失ったらしい。
しかしゼロはそちらに気を回してやることもできない。
『コイツ…不死身か…?3発の銃弾を胴に受けたんだぞ、体内はメチャクチャのはずだ…』
スーツケースを持って立ち上がった処刑人は、目元の隈が濃い男だった。
その服に確かな弾痕は残っているが、血はほとんど出ていない。
『物事は早い方がいい、互いのために。文書はエリシャ・ラシリアのカバンの中か?』
男が一歩ずつ距離を詰めてくる。
下がりたくとも、ゼロと山威が2人に支えられて逃げるというのは無理がある。
(一か八か速攻をかけてみるか?いや、ヤツには謎が多すぎし、第一体が動いてくれるかわからない…なら!)
氷が床を突き破り、急な傾きに対応しかねた男が転ぶ。
素早く立ち上がった男が見たものは、客席の幾つかを巻き込んで形成された、氷のドームだった。
『ぐ…これでヤツからこちらの居場所は特定できない。薄く広く、時間をかけた攻撃しか選べないはずだ…山威は大丈夫そうか?』
エリシャが山威と同化し、体内を探っていた。
『肺静脈…肺静脈…なんて、急に言われてもわかるわけないだろオッちゃぁーん…』
心配ではあるが、ゼロにできることは本格的にヤバくなった時、コールドスリープで延命させてやるくらいだ。
であれば、今は脅威の排除に努めるのが己の役割というものだろう。
時間的余裕が生じ落ち着いたからだろうか?
山威が意識を失う前に放った言葉が脳内で反復する。
(酸化の能力者が別にいる、ということならヤマイが昏倒している理由がヤツ自身の能力によるものか。強力な能力だが、これまで使ってこなかったのは何かしらの理由があるはず。距離か、時間か…何が制限かはわからない以上、悠長にしてはいられない…)
『ねーゼロ、なんか…攻撃こないね。』
『本格的に俺たちをロストしたのかもな。だが油断はするなよリン、依然俺たちは獲物側だ。』
燐が頷く。
事実、誰にも油断は無かった。
だからこれは単に敵が一枚上手だった、そういう話なのだろう。
『ハァハァッ、くそっなんか息苦しい。吐き気もしてきた。天使様、もっとちゃんと換気して!』
『悪い、今なんとかす…』
喉の奥に痛みを感じ、言葉が途切れる。
『ケホッケホッ、どしたのゼロ?』
やはり空気が悪いのか燐が小さく咳き込む。
『いや、なんでもない。中を覗けない穴が必要だからな、少し時間がかかるぞ。』
『いいよー、ゼェゼェなるべく急いで欲しいですけど。』
氷のドームはそれなりの広さを持った空間だ、空気もそれなりの量がある。
だというのに、みるみる内にエリシャの顔色は悪くなってゆく。
進行が早すぎる、そう感じながらも換気口を作ろうとドームに手を当ててゼロは気づいた。
ほんの少しではあるが、ドームが薄い。
確かに外は太陽が燦々と照らす灼熱だが、氷の温度を一定に保つことのできるゼロの能力には関係の無いことであり、自然に厚みが減るなんてことは考えにくい。
(俺自身が弱っているのが原因か?初めての経験だが、集中を切らさなければどうにかなるか?……いや待てよ。)
熱を持った痛みが無意識に感じていた違和感を蒸し返してくれた。
攻撃が止んだままになっている。
それ自体は結構なことだ。
しかし、位置がわからないにしてもやりようがあるのではないか?
ランダムに領域を作り出し引っかかるのを待つ…強く小さい領域を作り出し動かし続ける…今日初めて存在を知ったゼロでさえも、これぐらいは思いつくのだ。
いわば敵は本家本元、手札だってまだ何枚もあるはずである。
(なら、なんでそいつを切ってこない?どうして立て直しの機会を与えてる?まさか…既に攻撃しているのか⁉︎俺たち以外の何かを!)
ゼロの視線が上を向く。
『天使様ァ…手が止まってますぜ…ああ喉まで痛くなってきた。』
エリシャには悪いが通気口は作れない。
(氷の減少…それが、水を無理矢理酸化させたからだとしたら?空気より軽いソレは、容易くドームの上に溜まる。)
椅子に乗り、上の空気を少し吸いこんでみる。
途端に流れ込む、肺を焼くような刺々しい気体。
先程氷の膜を剥がされた理由も理解できた。
『間違いない…これは静かな罠だ。今、このドームは、毒ガスで満たされつつあるッ。』
もし換気口を開通させていたら、流れ込んだ熱気に押され、高濃度の過酸化水素が下方のゼロ達を直撃していただろう。
あと少し勘づくのが遅ければ、舗装された黄泉比良坂を案内のままに転がり落ちるところであった。
その事実を認識し、冷や汗が流れ落ちる。
『物騒だわぁ、毒ガスなんて。ケホッ…本当なの?』
『残念ながらな。エリシャの症状が重いのは、同化している山威の分多く取り込んでしまっているんだろう。今上にガスが溜まっている。』
『んで、換気したらそれが落ちて来るのね。もしかして、どうしようもないんじゃないの?』
『床を破って貨物庫に逃げる手はあるが、船の機関部が近いから避けたい。』
『ガスは止められないの?』
『既に試した、が俺が操れるのは所詮温度だけ。強引に進む化学反応までは止められない。』
悩んでいる間にもガス濃度はジワジワと増してゆく。
『見つけたァ‼︎』
エリシャがそう叫び、山威の体から小さな赤い塊を抜き取る。
『なんだそりゃ。ヤマイの体ってミミズでもいるのか?』
『知らん!一つ言えるのは、オッちゃんの太い血管にコレ詰まってたってコト!』
『血栓ってことか?それがあの男の能力…ヤマイの意見が聞きたい。起きそうか?』
『ちょっとまっててよ、今起こすから。』
再びエリシャが山威と同化し、体内を弄る。
『えーと心臓は…あったあった。ごめーん、ちょっと起きてー!』
体内から直接心臓を掴まれ、山威は叩かれたニワトリのような声を上げて飛び起きる。
『ポゥエー‼︎あ…新しい世界!』
『おはよーオッちゃん。苦しいとことかあったりしない?』
『へ?あ、ああーうん。問題無い…多分。』
『そりゃ僥倖。寝起きのとこ悪いが状況はこうだ。ここは氷のドームで上に過酸化水素が溜まってる。敵はこちらの位置を把握していないが、こちらからもどこにいるかわからない。床をぶち抜く手はある。…どうすべきだ?』
『なるほど、通りで喉が痛いわけだ。そして俺が蘇生したということは、連中の能力を理解したんだな?なら一つ提案だ。このドーム、ぶっ壊してしまおう。』
男は腕時計に目を落とす。
既に敵が閉じこもってから3分が経過した。
にも関わらず動きが見えないのは、既に全員中毒状態なのか、単に愚鈍なだけなのか。
念の為、標的の情報を綴ったメモを今一度読み返す。
(やはり過酸化水素耐性のある種族はいない。灯焆 燐も…特殊な例ではあるが、受肉している以上効果はあるはずだ。警戒すべきはエリシャ・ラシリア、氷と同化して抜け出すか、ガスそのものと同化して害を避けるか。どちらにせよ単独なら集中酸化で詰められる。)
男は勝利を確信しつつも、一切の油断無く攻撃の手を緩めない。
なればこそ、その急変に対応できたのであろう。
突如、ドームが爆裂し鋭く尖った薄氷の欠片が四方に撒き散らされる。
しかしそういうヤケっぱちも想定の範囲内、既に男は客席の外へと逃れ頑丈な金網に守られていた。
どれほど鋭く冷たかろうと所詮は氷、金属の網は切れないし隙間を抜けるほど小さくもない。
男に焦りは無く、姿を現した標的を捉え再び酸化攻撃の狙いをつけようとさえしていた。
(なんだアレは…無数の氷が浮いている?)
男が氷片の隙間から見えた白い塊に注意を向けた瞬間、その右肩に折れ曲がったボルトが突き刺さった。
男が驚いたのはダメージに対してではない、それが実に既視感のあるサビ具合だったからである。
『グハッ…これは…ボートのエンジンの…なら、今鳴り続けるこの音は…2隻あったとでもいうのか?』
男の思考に一瞬の混乱が生じる。
天使の身体能力であれば、敵を見つけ距離を詰めるのに十分な一瞬だった。
ゼロが窓から覗く男に向けて全力で駆け出す。
攻撃が止んだ数分の間に、走る程度なら問題無いレベルにまで回復していたのだ。
『あの男の名はケッセンQ、触れた生物或いは自身の体から10cm以内の血球を操作する能力…そう作られた人工能力者だ。』
山威から既に情報は得た、酸化能力も素早く扱えるものではない。
ゼロの突進に迷いは無かった。
一手遅れたケッセンは、金網から一歩離れるのが精一杯である。
(だが問題は無いッ、この金網が最終防衛ラインだ。ごく一瞬でも破るには時間がかかる…山威 汽穂には『ずらされた』が、その隙に脳動脈を…)
ケッセンの予想に反し、ゼロが生成したのは氷柱ではなく水の塊であった。
『やっとお近づきになれたんだ。テメーには、一呼吸の隙も与えねーぞケッセンQ。オフクマック!』
ゼロが水塊を金網目掛けて叩きつける。
その中身は過冷却水、ほんの少しの衝撃で結晶化してしまう、変容の境界にある物質である。
衝突の瞬間、水は金網に裂かれつつも瞬時に氷へと変じ、巨大な剣山のような氷柱がケッセンの脇腹を貫いたのだった。
『ぅうおぉぉぉぉーー!』
『急所は外しているっ!知っていること、洗いざらい吐いてもらうぞ!』
『グ…なるほど、流石にノーカンZから生き残っただけのことはある…だが、一度追い詰めた程度で図に乗るべきじゃあない。…………【バラン】』
ケッセンが斬撃の呪文を唱える、しかしゼロ達のうちの誰かに対してではない。
対象は今まさに貫かれている自身の脇腹だった。
当然腹部が丸く抉り取られ、呻き声を上げて倒れるケッセン。
しかし少なくとも拘束からは外れている。
『ヤマイ達はそっちから周りこめ!俺はこっちを!挟み撃ちにするぞっ!』
ようやく追い詰めた敵だ。
この機会を逃せば、またじわりじわりと体力を削られることになるだろう。
その上、平穏を確認できるまで船も進みはしないだろう。
それだけは避けなければ。
客席を飛び出し、ケッセンの倒れた場所を覗き込む。
そこには倒れたケッセンどころか、血痕さえも存在していなかった。
ただ、倒れた紺色のスーツケースと反対側から覗き込む3人の顔が見えるのみである。
『バカな、あの重傷で移動したのはいいにしても、血痕すら残らないってのはどうなっているんだ⁉︎』
山威が船縁の外を覗き込み、張り付いていないことを確認する。
『血球操作で即座に止血したのかもしれない!だとすれば銃撃が効かなかったのも理解可能、点だとか線のダメージなら威力ごと血球で止めてしまえばいいんだからな。』
『となると上か…よし、俺がそっちへ行くから攻撃されたら位置の特定を頼む。』
ゼロがゆっくりと歩き出す。
(まさか、奥の手まで切らされるとは。油断も慢心も、していたつもりは無かったが、手強い。)
それでも、確実に1人を持っていける位置に陣取ることができた。
足音が、近づいてくる。
燐は1人ずっと船縁の外を覗き込んでいた。
どうも何か引っかかっていたのだ。
いくら見れどそこには顔を出したカメしかいないというのに。
『カメだけかぁ、勘違いかしら。まぁこんなとこ居たらわかるわよねぇ。でもなんでこんなに集まってるん………』
カメ達は一ヶ所に集まり、水面から首を伸ばし虚空を噛んでいた。
その場所で、視線を少し上げて目を凝らす。
本当にごく僅か、最初からその場所を意識しなければ存在すら気づけないであろうゆらぎが、そこにあった。
それは魔除けの祭事で、子供達が扮する丸いシルエットのオバケに似た形をしており、その直下から微量の液体が途切れ途切れに滴っている。
カメはそれに群がっているようだった。
手段だとかはわからない。
しかしそれでも、そこに居るのはケッセンQで、狙われているのがゼロだということはヒシヒシと伝わって来る。
そしてゼロは、もうあと数歩でその場所に到達しつつあった。
『ゼローー!そこでストップ!カメが集まってるとこ!いるー!』
ゼロが氷柱を作り出し、山威が拳銃を向けるより素早く甲板を踏み鳴らす音が響いた。
『上がられた!全員防御だけ考えろぉぉ!』
ゼロは細かい氷を周囲に浮かべ、エリシャは甲板と同化し潜り込む。
山威も残り少ない札を切って結界形成を急いでいる。
『灯焆、この中に入れ。やられるのが脳だろうが心臓だろうが、死にはしないのかもしれないが…痛いぞ。』
あれから物音はしていない。
つまりケッセンは這い上がった場所から動いていない、もしくはごくゆっくりと慎重に動いていることになる。
辺りを見回せば、どうせ動かないからと爆弾代わりに使ったボートのエンジン、その大きめの欠片で破壊されたガラスがあった。
その鋭い切り口に右手を当てがう。
『やめろ灯焆何をする気だ⁉︎』
『心配無用よオッちゃん。私は正しく死ななかったユーレイ、ニセモノの体に痛いことなんか何も無いのよ!』
押し当てつつ左に動かすと、腕の先はいとも簡単に床へ転がった。
自然と溢れ出る鮮血、燐は切断面に息を吹きかけると、躊躇いなく右手を振り抜いた。
圧力と遠心力で膨大な血飛沫が舞い上がり、凍り固まって降り注ぐ。
冷たいガーネット色の細氷は、そこにある見えないモノをくっきりと浮かび上がらせていた。
自分の姿が気取られていることを察知し、ケッセンがその範囲から逃れようと走るも、ゼロがそれを許さない。
『僅かな魔力の流れ…何の術か知らないが、姑息な真似しやがって。だが、いくら能力で止血をしようと、関係無い方法もあるんだよ!』
ゼロの手に氷の戦鎚が成形され、振りかぶられる。
『氷鎚スリーセブン。』
かくして、ケッセンQは戦鎚と壁の間で挟まれ、決着となったのだった。
『光学迷彩マントは…壊れてしまったか。全身の骨も砕けている。我が能力でどうにかなるレベルじゃあないな。見えていた結果ではあるが、悔しいものだ。』
氷の手枷を着けられたケッセンが目を閉じる。
『覚悟しろよ。これからお前を待つのは尋問だ。どれほどの痛みを苦しみを受けるか想像もできないような。』
『そんなことはできないだろう?お優しい天使様。お仲間さんならともかく貴方には。』
黙り込んだゼロを見てケッセンが頭を下げる。
『失礼した、だが本当にワタシを生かすことの意味は無いよ。自嘲するようだが、ワタシは所詮木端で貴方達が理解していることを貴方達以上に詳しくは話せない。1つ教えてやれるとすれば、この船にワタシ達2人以外の敵は乗り込んでいないことぐらいか。』
『そのもう1人が問題なんだ。この局面でも気配の全く無いソイツはどこに潜み、どうやってこちらを捉えている?言えよケッセンQ!』
少しの沈黙があった。
『天使様、ある事件があった時貴方は銃とそれを使った者、どちらが罰せられるべきだと思います?』
『唐突に、何を言い出してんだテメェ。』
『無回答か、それも悪くない。』
藪から棒なクエスチョンではあったが、ケッセン的には必要なことだったらしい。
『チッ当たり前だ、使用者に決まっている。』
『では、猟犬とその飼い主なら?』
『…飼い主だろう。過程で犬は命を落とすことになるかもしれないが、少なくとも罪は無いと…考える。』
『では…………子供と大人なら?』
左目に氷柱を突きつける。
『いい加減にしろよケッセンQ、テメー自分が囚われの身だっての忘れてないか?さっさと!仲間のこと吐くんだよ!身長は?年齢は?どんな格好でどこに潜んでいる⁉︎』
しかしケッセンは答えない。
ただ目配せでゼロに回答を促すばかりである。
『…………ハァ、わかった、わかったよ。罰せられるべきは使役した大人だ。子供には罰よりむしろ、未来に輝きを見出せるまで寄り添ってやれる人間が必要だ。…これで満足か?』
ケッセンが目を閉じ頷く。
『十分だ、十分すぎる。羨ましいよ、その善性。【ワルプ・バラン】』
咄嗟に氷の盾を構えるゼロ、しかし術の対象は彼ではなかった。
斧のような斬撃がケッセンの両腕を切り落とし、加速して真横へと向かう。
その先にいたのは、スーツケースを開けようと四苦八苦していた燐達3人である。
『お前らッ、離れろォー!』
スパッと小気味良い音が鳴る。
幸い、呪文は誰にも届かずスーツケースの一部を切り裂いただけであった。
『テメェこの後に及んで何をす…本当に何をしている?危険だぞ、降りろ!』
両腕を失ったケッセンは、流れを受けて揺れる船縁に立っていた。
『貴方方が持つ文書が本物なら、『彼女』についても書かれてあるだろう。ワタシが迎合できたらベストだが、貴方方も発信機付きとは同行したくないだろう?無下に扱うようなことは無いと考えたいが、そこは委ねるしかあるまいね。』
『わけのわからないことを…いいから降りてこい!』
ケッセンの腕から流れ出ていた血が止まったのを見て、ゼロも歩みを止める。
『ご覧の通り今、ワタシは能力をフルパワーで発動している。それ以上手を伸ばせば瞬く間にどこか壊死することになるだろう。じゃ、頼んだよ。』
男は河の方へと向き直り、深呼吸する。
『そうだ、もし『彼女』がワタシを覚えてくれていたら…ケッセンQはずっと貴方の幸せを願っている、とそう伝えてくれると嬉しい。』
ゼロが止める間も無く、男は大きな水飛沫を上げて河に飛び込み、そして2度と浮かんでくることは無かった。
『どうして連中は、揃いも揃って簡単に死にやがんだクソッ!』
ゼロが血に濡れた船縁を叩く。
山威が未だ氷で固められたケッセンの腕を拾い上げ、河へと落とす。
『これも返しておこう。…死ぬために生きてる奴ってのは、どこにでもいるもんだ。ケッセンは後を濁さず逝った。死の原因が氷の拘束にならないよう、切り落としていたりな。』
金属音が肩を落とすゼロの耳に届く。
『お!開いた。さっきの呪文でロック壊れたのか?さてさて何かお役立ちアイテムは…何コレ?』
エリシャが首を傾げたのも無理はない。
スーツケースの中に入っていたのは、一抱えほどもある大きな薔薇水晶に似た石と、船のチケット一枚だけだった。
石はチカチカと瞬き、ほんのり熱を秘めている。
何度も宝石をスリ盗ってきたエリシャでさえも、初めてお目にかかるシロモノだった。
『わー綺麗ね。上陸したら髪飾りでも作ろうかしら。えーとチケットの名前は、餐禍?変な名前ねぇ。』
『サンカ、ねぇ。まぁ名簿にはあったけど、やっぱ出てこないもう1人なのかな?』
『……なるほどな。これが、いやこいつが置き土産かケッセンQ…』
スーツケースを覗き込んだゼロは完全に理解する。
『単刀直入に言うぜ。この宝石の様な物体こそ、34人目の乗客だ。』
ふかふかのフェルトが張られたスーツケースの中で、『彼女』はチカチカと輝いていた。
『うーん…あったあった。たぶんこの辺りじゃない?』
燐が紙の束を持ち上げて振る。
どうせ再発進まで時間があるのだ。
ゼロ達はケッセンの遺言に従って文書中の『彼女』を探していた。
『お、んじゃヤマイ、解説してくれ。専門的なところはいい感じに噛み砕いてもらえると助かる。』
『要約の難しさを知らないらしいな。まぁ、やってみよう。えー、プロジェクト名魂魄の集積に際する能力強化実験。本実験は全く異なる魂の集積体を作り、能力と魂の関連性をより深く解明するものである。素となる検体は、握った銅貨を錆びさせる能力を有して生まれた嬰児19番とし、他に……ウッ…いくつかのクリーンな魂とその未熟な器を原料とする。まず、19番から脳と生存に必要な器官以外を除去し、次に他の器から摘出した間脳を…すりつぶし、ノルド氏液中で撹拌…すまない、もうやめていいか?読むに耐えない…』
山威の満面に嫌悪が満ちていた。
『ああ、ありがとうよ。つまるところ、この子もまた黒子鷺の被害者だった、というわけか。』
文書に書かれた内容は、明らかに魂そのものの改変であり、理のタブーに触れるモノだった。
だと言うのに、理の守護者たる天使の自分がそういう事案を聞いたことも無い。
何か、が隠されている。
あくまで憶測だが、そう考えずにはいられない巨大な闇がそこにはあった。
『うわぁ、イカれてる…目的だけ見りゃ成功してるっぽいのが、余計に胸クソ悪ぃや。』
自身も罪に塗れ、それを恥じてもいなかったエリシャや燐でさえ、眉を顰めるようなやり方だった。
悍ましい記述を反射的に読み飛ばしつつ、ページをめくっていく。
『…あった。管理方法は、スリープモードとやらで運用するのが便利らしい。専用のケース…つまり今この子が入っているそれの取手の下にある金属のスイッチで切り替えると。そして、スリープモードであれば付属の注射器で栄養液を1日あたり2ml中心部に向けて投与しろ…と。ついてるか?』
燐がゴソゴソとスーツケースを漁る。
『あら、底が二重になってるわ。てことはーうん、あった!』
どうやら管理用具は全てそこに収納されているらしい。
幸いにも道具に欠けは無く、手入れも行き届いている。
正しく消毒すればすぐにでも使えそうだ。
むしろ問題は…
『おぉ…栄養液ってこれっぽっちなの?これじゃいいとこ3日分だろ…』
箱を丸ごとひっくり返して探すも、見つかったのはエリシャの手の中にある小さなアンプル3本のみ。
『任務をミスった時…誰かの手に渡った時…技術を盗まれる前に始末するためか。どこまでも腐ったやり口だなミクラミ王国…!』
『文書に書いてないの⁉︎無くした時の対処法とかに!』
燐が珍しく真剣に問いかけるも、ゼロは首を横に振った。
『ああ…全く無い。十中八九、周辺機器や薬剤込みで売り出すつもりだったんだろうよ…クソ。』
せっかく、闇に弄ばれた人間に手を差し伸べることができたというのに、その人間は死ぬことが決められていたなど許せるわけが無い。
だが、湧き上がる怒りをどこにぶつけようが、必要なアンプルが生えてくるなんてことは無い。
少なくともゼロ達の能力ではどうしようも無かった。
いつに無く鎮痛なゼロと燐の面持ちに耐えきれなくなったエリシャが、居心地の悪さを誤魔化そうと目線を移す。
ふと、二重底の隅から飛び出た紙切れのようなものに気づく。
なんの気無しに引っこ抜いてみれば、それは明らかに後から作られた隠しポケットに納められた、一枚の羊皮紙だった。
それを畳んでいた紐が解けた瞬間、紙は青白く輝き、光の中に半透明のペンが出現する。
『うわっ、「無欲の書記官」じゃん!それも最高級の!』
『なんだそれは。魔法道具の一種か?』
『流石天使様、良い勘してるぅ。んーと、一言で言うなら押し固めた本、ってかんじ?なんか質問したら、あらかじめ入ってる情報の範囲で回答してくれる便利なヤツ…とりあえず試してみよ。右の反対は?』
書記官は答えない。
『アレ?んじゃガラスを叩くとどうなる?』
光に浮かぶペンは微動だにしていない。
『あーもしかして初期状態なのかも?だったら高く売れそうでラッキーだけど。』
その時、燐が何か思いついたように書記官を手に取り問いかけた。
『餐禍ちゃんの栄養が切れちゃったの、どうすればいい?』
質問が終わらないうちから、待ち侘びていたかのようにペンが素早く動き出した。
時間にしてほんの10秒、それが過ぎた後の羊皮紙には完全な代替栄養液のレシピが記されていた。
最後に、発見者ケッセンQがレシピの正確性を保証する、との文言を付け加えて。
ケッセンは備えていたのだ。
恐らくは標的の情報を与えられたその時から、自身の勝敗生死に関わらず彼女だけは生き延びられるように。
衛生上の注意も、代謝の管理も、キャンプとロックミュージックが好きな8歳の女の子であることも、必要な全ての情報が紙一枚に内包されていた。
『これで、彼女を生かしてやれる…受け取ったぜケッセンQ、こいつのことは守り抜く、誇りあるお前の行動を敬いそう誓おう!』
餐禍…ずっと能力兵器として運用されてきた彼女は今、ようやっと光の中にある真っ直ぐな道を歩き始めたのだ………
『いや水を差すようで悪いが、これ以上重たいモノを背負うとか正気か?彼女の境遇には同情するが、それはそれとしてどこかへ預けて行くべきだ。』
吐き気から立ち直った山威が冷静に言う。
『だが……ケッセンQはこの子を『俺たち』に託した。敵対関係にあり、挨拶すらも交わしたことの無い俺たちの善性を頼ってくれた。それを雑にあしらうなど、できない!』
『感傷も過ぎれば愚昧だぞ、ゼロ!誰しもに手の届く範囲があり、そこを超えた領分に踏み込めばより多くを失うっ。主義主張の問題じゃない、それがこの世の道理だ。』
『わー、オッちゃんてば薄情ー。なんて冗談は置いといて、自分も連れてくのは反対。カワイソーだけど、そこらの教会の前にでも置いてった方がいいんじゃない?』
山威とエリシャの意見には合理的理由があり、情だけで『彼女』を守り切れる保証などどこにもないのも事実であった。
それでもゼロは2人を納得させられる言葉を探す。
書記官には、会話もできない『彼女』の好みや性格についてまで、事細かに記録されているのだ。
相応に関わりを重ね、深く愛されていたのだろう。
どんな改造を受けようと『彼女』は8歳の子供なのだ、そんな子供が愛を注いでくれた人を失って、訳もわからず違う環境へ送られる。
ありきたりな悲劇だが、ゼロには受け入れ難いモノだった。
『……私も、連れて行きたいかな。この子。』
燐のその言葉に3人が各々意外そうな反応を示す。
ゼロにとっては思わぬ援軍であったが、それでも絶対気楽をモットーにしている彼女が発したものとは思えない発言だった。
『リン?結構珍しいこと言ってんね。』
『まぁね、私だってそういう気分の時もあるわよー。内なる博愛主義が囁くの、餐禍ちゃんを救いなさいってね。』
『…実に素晴らしい精神性だな灯焆 燐。だがその子を連れ回してどうするつもりだ?今、ここにいる誰1人として、どこの国であろうが安住の地は無いんだぞ。ミクラミ王国と敵対している…その意味を!理解して言っているのか⁉︎』
燐が目を閉じて考え込む。
考えて
考えて
考えて
考えに考え…
乗客が落ち着き客席へと戻り始めた頃、灯焆 燐は答えを出した。
『じゃ創っちゃいましょ、安住の地。私達や餐禍ちゃんが安全に暮らせる国とか、あったら問題解決じゃないかしら!』
『は?……………は?』
あまりに突飛な話で、山威の理解が追いついていない。
そして、他2人も目を丸くしていた。
『せっかく手元にいいカードがあるんだから、じゃんじゃん切って勝ちをもぎ取らなきゃ。情報そのもので取り引きするのもいいし、売りつけたお金で事を進めるのもいいわね。』
その口振りに一切憂慮は混じっていない。
灯焆 燐は、頭から爪の先まで突拍子も無いその目標が、実現可能であると信じていた。
『プッ…だっははは!ああもう、ほんとリンてば面白いこと言うなぁ。国ねぇ…姉貴接近禁止の法律でも作ろうかな。』
『おまおまお前…できることか考えて喋れ灯焆!たった5人で国づくりだぁ⁉︎石器時代じゃあないんだぞ!どれほどの金と力をもってしても、妨害と圧力で潰されるに決まっている!もはや敵はミクラミ王国だけじゃない、世界に喧嘩を売る気か!』
『大丈夫大丈夫、もう文書に載ってる世界中の有名人から睨まれてるじゃない。それも、いい感じに唆したら使いやすい後ろ盾にできるかも。あと、前にオッちゃんも言ってたじゃない。国を創れも壊せもするって。』
『いやまぁそれはそうなんだが…ってそういう問題じゃないだろう⁉︎』
危うく納得しかけた山威の肩をエリシャが叩く。
涙を浮かべるほど笑っていた彼女は、目元を拭いながら親指を立てていた。
『いいね、自分は賛成。こんな面白そうなことそうそう無いし、カネだけ持ってて四六時中暗殺怖がってちゃつまらんつまらん。オッちゃんも座ってみたくない?玉座。』
『ラシリアお前もか⁉︎いやまあ文書はお前の物で、俺はとやかく言えないが…ううむ…あまりにも大それている…』
『やろーよーオッちゃーん。国名は神聖オッチャン独裁国とかにしたげるからさぁ。』
『いや印象悪すぎるだろその名前‼︎…ハァ、マジにやるのか…』
呆れ返ってはいるが、山威もそれを受け入れたらしい。
燐がポカンと口を開けたままのゼロに向き直る。
『てなわけで、ゼロには神聖オッチャン独裁国の守護天使になってもらうから、ヨロシク!』
『へ?俺ぇ?』
『いいわね今の。守護天使像に刻みましょ、建国の言葉として。』
昼真っ盛りの河、ようやく運行を再開した船の上を不思議と心地良い風が吹き抜けていた。
『そういや、救命ボートは動いたのか?エリシャから聞いてた分には、動力機関が壊れてたってハナシだが。』
山威が首を振る。
『いや使い物にならなかった。まぁ動く部分だけ集めて、札術で通電したが…役に立ったか?』
『ああ、大いにな。…ほんと悪いな世話になっちまってばかりで。』
『気にするな。どうせ今後はこれまで以上に迷惑をかけることになる。お互いにな。ハァ、銃の新調、高くつきそうだ。』
山威が船窓に肘を突き、遠くで揺れる蜃気楼を眺め始めた。
一方の燐とエリシャは気楽な物で、スイカを齧りながら理想国家のビジョンについてにこやかに語り合っていた。
『やっぱ言い出しっぺだからねぇ、私が女王様やりたいわ!』
『いやいややっぱり大衆が望むのは、脳を焼くようなサクセスストーリー!ここは路地裏のスリから成り上がる自分の出る幕でしょ!』
『うぐう、うちは鍛治工房だからなぁ…対抗するにはちと弱いかしら…!』
『おっほっほ、財務大臣くらいにならしてあげないこともなくてよ。金勘定得意そうだものー!』
『なおさらうぐう〜。』
『取らぬ獣の皮で経済回すな、気が早すぎるだろ。』
『お、守護天使様。国王のスイカ食べる?』
『…それは食べるが。』
差し出されスイカを両手で持ち、齧る。
少々生温かったが、戦いを終えた体に糖分が染み渡っていくのが実感できた。
しかし大変なことになってしまったものである。
守るべきものは増えるわ、途方も無い目標ができるわ…ハッキリ言って、自分達の未来は九割九分暗雲に覆われているだろう。
しかし、或いは、この愉快で心地良い連中となら…そういう一抹の希望が、向かいあった長椅子の間に見えた気がした。
ゼロ一行が軽い足取りでギャングウェイを降りてゆく。
先鋒を務める燐の両手には、箱入りの新しい道連れが抱えられていた。
『船旅も中々悪くないもんだったな。』
『あら、ゼロも気に入ったの?じゃ独裁国内船舶一生無料チケットあげるわ。』
燐がサラサラと適当に書いたチケットをゼロに手渡す。
『おーおー、ありがとうよ。そりゃなるべく早く使えるようにしないとな。』
桟橋に降り立った4人を見つめる目があった。
『既に言った通り、ケッセンQは行方不明となり、餐禍はターゲットの手に落ちている。作戦開始だ、燃え残るのは文書だけでいい。』
『オッケー、じゃ蹂躙したげよ〜っと。』
最初に気づいたのは、船酔いを誤魔化すためにたまたま上を向いていた青年だった。
『ん?なんか、空にゴマ粒みたいなのが…え、鳥?』
凄まじい速度でこちらへ飛んできているのか、黒い粒はどんどんと大きさを増してゆく。
町の人々にも異様な存在に気づく者が現れ始めた頃、第一発見者の青年は地図を広げていた恋人の手を引いて走り出していた。
『逃げよう!あれは竜だ、竜が来る!』
広がりつつある騒ぎに気づいたエリシャが辺りを見渡す。
『なんか騒いでるなぁ。事件でもあったのかね。』
ゼロが人々が指差す空へと目を向ける。
その目前に炎が迫っていた。
咄嗟に燐と山威を抱え桟橋の上を転がる。
直後、噴き上がる火柱と煙。
轟音と共に揺れる桟橋で、ゼロは氷で足を押さえ体勢を立て直そうとしていた。
(ぐっ…ヤマイとリンは無事か。エリシャは……‼︎)
エリシャが桟橋と同化し潜り込んだ、それは倒れ込む直前に確認できた。
しかし、今エリシャが潜り込んだ場所は大穴が空き、丸ごと炭化した木材が残るのみである。
とめどなく上がる煙の中に大きな影が蠢く。
ゼロは本能でソレの危険性を理解していた。
一瞬にして桟橋から氷柱が垂れ下がり、煙すら凍って河へと落ちてゆく。
能力の出力を限界まで引き上げ、巨大な黒い氷柱を作り出す。
(後のことは考えるな…一撃、ただそれだけを入れて逃げるッ!)
ゼロが氷柱を構えて吼えた瞬間、ソレはごく単純な尻尾の一振りで煙を裂き、炎を断ち、氷を砕き…ゼロの意識を完全に奪い去ったのだった。
燐と山威がその事実を認識したのは、2人の真横を弾丸のように吹き飛んでいったゼロが、河に落ちた音を聞いてからであった。
山威が術を使うべく札を取り出し、その姿勢のまま倒れる。
『が…体が……【ピララーナ】だと…⁉︎どこから…』
『彼の名誉のために言っておこう。彼は私が船内にいることは把握していなかった。よって、彼は正直者だったが君達へ情報を届けることはできなかった。それだけのことだ。』
狂騒に満ちた桟橋の上で、その乾いた足音はやたらと存在感を持って耳に届いていた。
燐が声のした背後に振り向く。
そこにはギャングウェイを一歩一歩踏み締め降りる、気怠げな痩せぎすの男がいた。
『バカな…乗客に貴様のような男はいなかった!どこから現れたんだ…』
山威の体が一度大きく震え、上体が起き上がる。
『回復が早いな山威 汽穂、電気の応用か?言っておくが、私は密航者ではないぞ。正式な配属ではないが、船員の立場で乗せてもらっただけだ。』
痩身の男が胸につけた連合保安官のバッヂを示す。
確かにその身分なら捜査という名目での乗船が許されるだろう。
しかし、保安官1人が出張って来るというのは納得がいかない。
文書は世界の闇に直接触れる、いわば最上のタブーである。
仮に、ここ中央連合王国が介入するならば国家直轄の諜報機関、若しくはそれより『上』が…
『上…まさか、カタミチ屋か⁉︎』
男が返答の代わりによこしたのは高速で飛来する釘だった。
船の側面から不可視の力で引き抜かれた2本の釘が、山威の左手を地面に打ちつける。
『ウォォオォォォー‼︎』
『オッちゃん!』
『それ以上は喋らないで頂こう。後の仕事に支障が出たら困る。』
『ねーぇー、まだレクリエーションやってんの?さっさと終わらせて帰りたいんですケド?』
巨大な『何か』が一対の翼をはためかせ煙を吹き払う。
暴力的なまでの風圧に揉まれ転んだ燐の目に飛び込んできたのは、桟橋が狭く見えるほどの巨大な飛竜の姿であった。
『な…奴は、荒野で見た尸喰いとかいう…』
その見覚えある風貌に山威も燐も驚きを隠せない。
『ハァーイ、初めましてーさよーならー!てか何?このトカゲちゃん名前とかあったの?くっだらね。アタシにはジクサクAI(アル)って識別名があんの、そっちで呼んでよねー。』
低い唸り声と少し高い求愛音、それぐらいしか出せない筈の竜が、口の端を歪めて甲高い声で嗤う。
その仕草はどこまでも人間的で、違和感を一瞬見失うほどに不自然だった。
大気を震わせる笑い声に怯む山威の荷物から、何かが奪い取られた。
そのまま船のてっぺんまで駆け上がったのは、身を潜めていたエリシャであった。
『エリー生きてた!よかった〜!』
エリシャは目を輝かせる燐に手を振りつつ、その場の全員に見せつけるように、山威からスリ盗ったものを掲げる。
それは、2人の追手が回収を命じられている文書そのものだった。
『クックック、油断してんなぁお二人さん!自分はシルフ、紙束くらいならわけなく持って逃られるんだよ!』
2人の追手は何も言わず、目配せをしている。
『おっと、なんかツーカーみたいだけど、付き合ってもられないね。ここまで追って来るヘドロみたいなしつこさに免じて、分け前くらいはくれてやってもいいけど!』
エリシャが10枚程度の紙を空中へばら撒く。
シルフの読みによって完璧に風を捉えた10枚は、瞬く間に舞い上がり町の方へと流れ始めていた。
『ホラホラ、早いとこ追っかけた方がいいんじゃないかな〜ぁ!町の皆さんに見られちゃ都合悪いんじゃないのぉ〜。』
軽く舌打ちしたジクサクが翼を数回動かし…迷い無く宙を舞う紙に炎を吐きかけた。
『………え?』
当然跡形も残さず焼失する紙、ただ雲だけが浮かぶ元通りの空を見て、ジクサクがニンマリと笑みを浮かべる。
『ワオ、スズガモちゃんの言う通り。ほんとにニセモノ囮にしてきた。ホンモノならこんぐらいで燃えるワケ無いもんねー!キャハハ…ナメやがって。』
口から炎を漏らしたまま、ジクサクがエリシャに狙いを定める。
『テメェから灰になれや、便所で生まれた羽虫女が。』
竜の顎が大きく開かれ吸気音が響いた瞬間、俯瞰していたスズガモと呼ばれた男はそれに気づいた。
『……‼︎注意しろジクサク!山威が術を組んでいるぞっ!』
しかしその警告は頭に血が上ったジクサクに届かない。
かと言って敵方最大戦力のゼロの姿が見えない以上、2人揃って隙を晒すわけにはいかない。
スズガモは静観するしかなかった。
取り込まれた大量の空気は体内器官で爆発性のガスと混じり合い、極めて危険な気体へと性質を変える。
後はソレを高圧で吐き出し、歯の摩擦で生まれた火花に引火させるだけ…その大事なタイミングでジクサクも山威の不穏な動きに気づいた。
『バレたか…しかし問題無いッ、通常の飛竜と同じなら炎を吐く寸前は動けない筈だ!』
山威が腹の下で準備していたのは、自身の扱える最大火力、莫大な電気を秘めた雷の弓であった。
しかしジクサクに焦りは無い、敵は片手を地面に打ちつけられているのだ。
弦を引くどころか、照準だって維持できるか怪しいものである。
『片手で弓なんてバカじゃないのって顔だな。生憎、貴様と違って俺にはある程度信頼できる仲間がいる…灯焆!頼む!』
既に燐は動いていた。
能力兵器『餐禍』、ケッセンが目線も言葉も動作も無い彼女と、いかにして共に戦っていたのか?
秘密は彼女が収められたスーツケースにあった。
側面にある小さなモニターを叩くと、スーツケースを中心とした3軸の仮想空間が展開され、座標を打ち込むことで対応した現実の場所に能力を作用させられるのだ。
そして今回燐が指定した場所は、山威の手を押さえ込む釘2本であった。
赤錆を撒き散らしながら釘がへし折れ、山威が弓の弦を引く。
負傷もあり、決して速さは無いものの流麗な動作だった。
緊張した弓に殆どのエネルギーを込めた矢が形成され、周囲の大気に火花を散らし始める。
『カケリカケリコリシシュウバク…抜けろ、【藍染式 三浦頸落弓】』
落雷にも似た音が鳴り響き、神速の矢が竜の頭部を正確に捉える。
直後、電流により引火したガスは竜の口内で大爆発を起こし、鉄の如き鱗に覆われた巨体は血の混じった煙を吐きながら倒れ込んだのであった。
『うおおぉー!スゲェ!スゲーよオッちゃん!』
『見直したわよオッちゃん!』
『黄色い声援ありがとう。だが、もう札は無い。スズガモとかいう男の方はもっと苦しい戦いになりそうだ…』
山威がスズガモを睨みつける。
(とはいえ状況は4対1、オマケにラシリアは上を取っている。ベストを期すならゼロの復帰を待つべきだが…安否がわからない以上期待はできないか。)
だがようやく見えた光の道も、あれこれ練った策略も、全てはその一声で灰燼と帰した。
『いってーなあ、舌三寸しか取り柄の無いコウモリ男のクセにゴミみてーな攻撃してくれやがって。んなもん効かねーんだよ!いくらゴミみたいでもな!』
急所である頭部に理想の角度で直撃させ、体内での誘爆まで繋げられた。
それでも尚、敵の命へは届きもしていなかった。
手元に残った武器は拳銃一丁のみ、それも竜の鱗の前では豆鉄砲に等しい。
再びジクサクが吸気を始める。
『いいか灯焆、俺が合図したら全力で走り河へ飛び込め。お前と餐禍は左、俺は右だ…そうすれば、もしかするとどちらか片方は生き残れるかもしれない。ラシリアは…あの位置ならどうとでもなるだろう。』
『オッちゃん…それって…』
事実上の敗北宣言だった。
ハッキリ言って、どんな手を打とうとも3人纏めて灰にされ、エリシャも逃げ切れず始末される可能性が高い。
だから、これからやることは、ヘビに噛まれたネズミが最後に見せる、痙攣のような蹴りなのだ。
弱者が振るう、一太刀と呼ぶのも烏滸がましい最後っ屁なのだ。
『いくぞ…3、2、1…今ッ!』
山威と燐が走り出そうとした瞬間、空から舞い降りた何かが竜の横っ面に一撃を加え、桟橋の上から叩き落とした。
『なっ……【シャガ・マ・バラフロン】‼︎』
スズガモの魔法陣から飛び出た特大の火球群が、不規則なジグザグ軌道を描きながら乱入者を始末しにかかる。
しかし、乱入者はその全てを見切っていた。
1mも無いであろう隙間を高速で潜り抜け、手に持った巨剣で火球そのものを両断していく。
『くっ…【ディアブルア・プロトン】!』
トゲに覆われた魔力の盾が展開され、コンマ数秒遅れて振り下ろされた巨剣の一撃を防ぐ。
直後、衝撃を吸収し伸びるトゲでの反撃…しかし乱入者はもうそこにはいなかった。
武器だけを残し、下から盾の中へ潜り込んでいた乱入者の上段突きがスズガモの胸に突き刺さり、成す術なく河へと転落していく。
2つの水飛沫が上がった。
乱入者はそのままふわりと山威と燐の前へと降り立ち、手を差し出す。
『ケガは…そりゃあしてるか。後で治療しよう。そうそう、その後ゼロとは仲良くしてくれてるかい?』
乱入者の正体はゼロの追い求める標的、片翼の大天使アド・アドだった。
柔和な笑顔で差し出された手を取りかけて、考え直したように引っ込める山威。
その失礼にもアド・アドは困った笑顔を浮かべるのみであった。
『まぁ…ゼロはいい友人に恵まれたようだ。…やっぱり、切れないか。』
大きな水音が響き、桟橋の上に怒り狂ったジクサクが這い上がってくる。
『キャハ!なーに?ワザワザブチ殺されにきたの?そのバランス悪そうな翼、もぎってあげよっかー⁉︎』
もう一つ大きな水音が上がり、水中から巨大な泥のナメクジに乗ったスズガモが姿を現す。
どうやら、攻撃を受ける寸前に自身へ肉体強化魔法を施していたらしい。
『承知しかねるぞ大天使。天界が今更介入か?答えによっては面白く無い結果になる、言葉は慎重に選べ。』
堅牢な城壁のように並びドスを利かせる2人に対し、アド・アドの答えはただ一つ。
『手のかかる弟子でな。可愛くてしょうがないんだ。』
横薙ぎに振るわれた鋼の鞭の如き竜の尾を巨剣で弾き、大地を蹴る。
一瞬にして距離を詰め、竜の横腹を切り付けると数枚の鱗と共に血が舞った。
体を捻り翼を噛みちぎろうとした竜の顎を蹴って逸らし、背後に迫っていた泥のライオンを切り刻む。
僅かに手を伝う違和感。
愛剣を見れば、泥の中に混ぜ込まれていたであろう古い漁網が剣に絡みついていた。
剣を封じたことを確認したスズガモが泥のナメクジを分解、貝殻の牙と釣り針の爪を持つゴーレムを作り出す。
次々と飛びかかるゴーレムの狙いは致命傷を与えることではない。
狩りには常に追う者と待つ者が存在する。
真の狙いは竜の吹く炎、その中心部に敵を囲い込むことである。
これまでとは比較にならない炎が数体のゴーレムごとアド・アドを包み込み、桟橋の一部をを丸ごと消し炭へと変えてしまう。
一瞬遅れて炎の中から飛び出したのは大天使の巨剣。
その先端には若干焼かれてひび割れたゴーレムが1つ突き刺さっている。
剣は竜の眉間にぶつかり、衝撃で砕けたゴーレムが一時的な目潰しとなる。
反射的に首を振る竜の下から光が膨れ上がり、体重10tはあろうかという飛竜を天高く打ち上げた。
その中心にいたのはアド・アド、貝殻に噛まれ釣り針に引っ掻かれてはいるが、あえてゴーレムの中心にいたことで致命的な火傷は免れている。
竜の体が落下を始めるより早く、愛剣を手に呼び戻したアド・アドがスズガモへ向けて突進。
対するスズガモはゴーレムを全て崩し、泥の盾とするも一刀の元に両断。
胴体に剣閃が迫ったその時、仕込んでおいたカウンターの爆発魔法が発動し、アド・アドを吹き飛ばした。
痛打を貰いつつも、アド・アドは見逃さない。
スズガモが何気なく取り出し、中身を飲もうとした陶器へ向けて、羽根を一本高速で撃ち出し破壊する。
飛び散る少し黄色味を帯びた液体。
ほんの一瞬、それに気を取られたスズガモの背後へ周り、巨剣を振り上げる。
咄嗟に幾重もの魔法陣で防御結界を形成するスズガモであったが、振り下ろされる超重量の一撃を堪え切れず、眼下の船へと叩きつけられたのだった。
同時にもがきながら河面へと落ちる竜の体。
戦いがひと段落した後には、大量の水飛沫が生み出した虹と、真っ二つに割れて沈みゆく船だけが残されていた。
次元が違っていた。
見ていただけだと言うのに、山威自身の死を思い描く場面が多々あった。
いつの間にか、隣に降りてきていたエリシャが引き攣った表情で乾いた笑い声を漏らしている。
おそらく自分も同じ顔をしていただろう。
体に刺さったままの釣り針を引き抜きながら歩いてくるアド・アドを見た時、山威が感じていたのは原始的な死の恐怖そのものだった。
『こんのクソひよこがァー!10センチ刻みで食いちぎって殺すッ!』
腹に傷を受けながらも這い上がってきた竜の眼は、怒りのあまり毛細血管が切れて真っ赤に染まっていた。
アド・アドが殺意の漲ったジクサクを睨みつけ牽制する。
『もう上には言い訳が立つだろう。十分に、死力を尽くして戦ったが、頭のおかしな天使に妨害されて失敗した、と。これ以上の継戦は双方避けたい…だろう?わかったら、攻撃は止めておけ。桟橋の影に隠れる魔導士殿もだ。』
潜んでいたスズガモがフワリと浮かび上がる。
しばらく睨み合った後、スズガモが深く深く溜め息を吐いた。
『行こうジクサクAI、撤退だ。』
『は?何司令塔気取ってんの?スズガモちゃんから噛み殺すけどいい?』
スズガモは踵を返して飛び去ってゆく。
『チッ、顔覚えたからなクソひよこ。』
竜の大きな翼を広げ、銃弾のように一気に上空へと舞い上がる。
程なくして、2人の追跡者は荒野の向こうへと消えていった。
『…そうだ!ゼロが落ちたんだった!探さなきゃ!』
『ヘイ、リン。ステイステイ、天使様なら落ちたとこ見えたから、拾って桟橋にひっかけといたよっと。』
アド・アドがエリシャの指差した場所からゼロを抱えて戻ってくる。
『よしよし、内臓は痛めているが、生死に関わることはなさそうだ。…とりあえず、俺の取ってるホテルに来るといい。皆、疲れているだろう?』
頭の中に、鞭を振るうような音ばかりがこだまする。
燐もエリシャも山威も…全てがそれに砕かれていくのだ。
最後は決まって不愉快で甲高い笑い声で終わる、そんな悪夢。
ああ、また鞭が振り上げられた。
今度は何が壊される?
罪無き人々の営み、振り下ろされた先にあるのは自身の護らねばならない、トトルス村だった。
『ダメだそれだけは‼︎』
叫んで飛び起きると、そこは見覚えの無い部屋だった。
ロイヤルな雰囲気の壁紙、造花の挿さった青磁の花瓶、清潔なシーツ、胸だけがくしゃくしゃになった服…そして、ゼロの大声に驚きひっくり返って目を回している燐。
ひとまず、自分は生きてはいるらしい。
腹に若干の違和感を覚えつつも、ベッドから降りて燐の肩を揺する。
『おーい、リン。おーいってばおーい。』
『う、うーんゼロおはよ…ご機嫌いかが?』
『ちょっと腹が痛いが問題無い。とにかく、状況が知りたい。俺が…その、負けた後にどうなったのか。』
燐が何か話そうとして考え込む。
『どした?』
『うーん、私だけだと正確に伝わるかわかんないから、エリー達が帰ってきてから話すね。それまでゆっくりしてて。あ、果物剥いたげよっか?1/3くらいあげるよ!』
いつもいつでも、燐は燐だった。
帰ってきた2人がとても喜んでくれたことは覚えている。
なんでも、あの襲撃から丸一日が経っているらしい。
その間、目を覚まさない俺をずっと交代で見ていてくれたそうだ。
天使ゼロ・ゼロは幸運だったのだろう。
善悪のグレーゾーンに身を置きながら、こんなにもエネルギッシュで面白い者たちとの縁ができたのだから。
敵は2人、1人は荒野の主であるはずの飛竜で、もう1人は手練の魔法使いだったらしい。
そいつらのべらぼうな実力は、身振り手振りで迫真の演技をしてくれた燐とエリシャのおかげで、よく伝わった。
最も衝撃だったのは、先生が助太刀に来てくれたことだ。
なんでも、数の不利を取りながら大立ち回りを演じ、痛み分けで撤退にまで追い込んだとのこと。
ここの部屋も工面してくれたらしい。
尊敬か、憤怒か、歓喜か、遺憾か、悲嘆か、殺意か、正直何を抱けばいいかわからなかった。
ただ1つ言えるのは、そんな超特大のイレギュラーが無ければ間違い無く俺たちは全滅し、文書は敵の手に渡っていたということだ。
惜敗?惨敗?どれも正しい表現では無い。
勝負の土俵に上がれてすらいなかった、そう呼ぶべきだ。
船の中でリンが夢を説いていたことが既に懐かしい。
あの時は心が踊る部分もあったが、今なら分かる。
あれは実現不可能な文字通りの絵空事だ。
幼子がとりとめもなく見続ける、夢の世界だ。
…少なくとも、倒すべき標的に助けられるような惰弱に成し得る夢ではないだろう。
ああ、ずっと眠っていた筈なのに、ひどく疲れてしまった。
未だ話を続けているリンたちには悪いが、眠らせてくれ…
ゼロが次に目を覚ますと、部屋は暗くなっており窓からの月光だけが中を照らしていた。
月光の中で、妙に艶めかしく浮かび上がっているのは、夢の礎たる機密文書である。
ふらふらと机の前に立ち、文書に手を伸ばす。
人の奢りで高い物食べて満足げにお腹をさする燐、スリ盗った財布にヘビの皮が入っていて喜ぶエリシャ、ぶつくさ言いつつも毎朝一品を作ってくれる山威…顔も会話も浮かんでは積もっていく。
伸ばした手が止まり、やや戻った後ほんの少し葛藤して、また伸ばす。
10秒か、10分か。
時計の秒針が刻む音をうるさく感じるようになった時、ゼロの手には文書が握られていた。
昨日まで、何の気無しに触っていた厚さ数cmの紙束が今日だけはやたらと重い。
『んゃ…ゼロ?トイレでも行きたいの?ついてったげよか?』
目をくしくしと擦りつつ、起き上がった燐が開き切った窓辺に立つゼロを見て首を傾げる。
『虫入ってくるわよ?』
『ああ、そうだな。悪いけど閉めといてくれ、俺はもう戻らないからよ。』
心臓の上辺りにキュッとした痛みが走る。
『へ?私ったら耳が遠くなったのかしら。なんか、』
『いや、間違いじゃないから安心しろ。俺はもう行く、コイツはいただいてくぜ。』
ゼロが手に持った紙を振る。
何かを感じ取ったのだろう、山威やエリシャも目を覚まし始めていた。
何とも嫌なことに、好都合だ。
『俺はさ、今日気付かされた。お前らみたいなポンコツ…下界人共とつるんでちゃカネは手に入らないってな。』
呼吸が勝手に浅くなってきた。
平常の声色を保つため、より一層口に集中する。
『てなわけで、あばよ。もう一生会うことも無いだろうが、お前らが精々逃げ切れるようお祈りしといてやるよ、天使様だからな。』
3人が止める暇も無く、ゼロは闇夜へと舞い上がる。
『じゃあな…クズ虫共!精々死ぬまで黄金色の夢見て、逃げ続けてなァ‼︎』
肺を絞って声を張り上げる。
どうせどこかで、覗き見をしているであろうミクラミ王国の刺客が聞き漏らさないように。
『文書は俺が頂いた!富も力も俺のものだ!』
体勢を変え、夜闇の中をひたすら飛ぶ。
(これで、いい。これでよかった。こうすりゃ主力の追手は俺の方へ差し向けられる。アイツらも狙われはするだろうが、ずっと追手のグレードは落ちる筈だ…)
これまで17年と少しを生きてきて、初めて誰かに嘘をついた。
一瞬弾ける高揚の後に、追いかけてくるずっしりとした悔悟の念。
もう二度と、味わいたくは、ないものだ。
ああ、知らなかった。嘘とはこんなに痛いものか。
これより約3週間後、ガムシャラに武者修行を繰り返していたゼロ・ゼロは、空の悪魔スパンドゥールの強襲を受け、とある飛行船に転がり込むこととなる。
燐の腕はくっつくまで鎹で止めています。
雑な処置ですが、本人は何も気にしていません。
登場人物
15人の追手達
ミクラミ王国の特殊部隊。
これまでに30人前後都合の悪い人物を消している。
尸喰い
生まれて落ちて80年、待っていれば迷い込んだ動物にありつける生活環境を手に入れ、完全に隠居するつもりだった。
ラクダのコブが好き。
ケッセンQ
黒子鷺の人工能力者。
餐禍の運用を任される前は空虚に生きていた。
能力の射程が狭いので魔法や格闘、武器術を手広く齧ってたりする。
餐禍
核となる人間の最小限を、すりつぶした他の材料で覆って固めた黒子鷺の試作型能力兵器。
魔人ネクロから盗んだ技術が流用されている。
スズガモ
カタミチ屋所属のエージェント。
普段は変な魔法道具ばかり売っている店で、覇気の無い店員をやっている。
ジクサクAl
黒子鷺の人工能力者。
浮き沈みの激しい性格や、人を小馬鹿にするような言動は生来のもの。
用語集
破城法(カノン)
古くは聖歌隊の合唱に着想を得た複数人用呪文。
各々が綿密に決められた節を唱えることで、本来の力量を遥かに超えた出力を得ることが可能。
オハンズ
中央連合王国クドア区に属する河の船場町。
住人の殆どは鉱山関係者。
バラン
魔力の刃が命中した対象を切り裂く魔法。
ワルプ・バラン
魔力の斧刃が動き、広範囲を切り裂く魔法。
無欲の書記官
事前に覚えさせた情報を後から検索して引き出せる魔法道具。
グレードによって記憶できる容量は変わってくる。
正規品ならば全魔連指定の禁術等、弾かれる情報もある。
ピララーナ
閃光を放ち、命中した対象を麻痺させる魔法。
シャガ・マ・バラフロン
蛇行する巨大火球を作り出す呪文。
ディアブルア・プロトン
攻撃のエネルギーを吸収し、トゲを伸ばして反撃する攻防一体の盾を作り出す呪文。