馬車の窓からは閑散とした原風景が垂れ流され、変わり映えのしないオークの林がループ再生されるフィルムのように延々と続いている。
ジュラ・パズズとその一行は、さる農園へと向かう馬車に座っていた。
道中の護衛を引き受ける代わりに目的地近くまで寄ってもらう、そういう契約である。
サイレンス共和国も広い国だ。
カイヤンシティがいくらフェスティバム近郊に位置するとはいえ、距離にして200km程度は離れている。
燃料のことを考えると飛行船はなるべく動かしたくない。
そう考えての馬車という選択だった。
実際乗り心地は快適とは言えないし、直近の嵐で荒れた道は酷いものだったが、つくづくタダという言葉には魔力があるものである。
『うげ、またアブが飛んできやがった。てめーら見てると魔人の野郎がよぎんだよ、あっちいけオラァ。』
ジュラが小さい炎を踊らせ追い払うも、その側から集り続ける、そんな血に飢えた集団を一網打尽としたのはカブウの大口だった。
『おはようジュラ、どうも良い天気だと腹が減っていけないね。この辺りなら牧場もあるからもう少し集まって来ると思ったんだけれども。』
『ああ交代の時間か。携帯食ぐらいしか無いけど、食べるかカブさん。』
『遠慮しておくよ、向こうで安全な食べ物が手に入るかもわからないからね。』
ガコッと車輪の固定される振動が伝わる。
『旅人さん方ー、見えてきましたぜ!あそこがカイヤンでさぁ。』
馬車主から声がかかり、ジュラが外を見る。
ちょうど峠の下りに差し掛かった馬車からは、海に面したデルタに広がるその街の全体がよく見えていた。
空も海も澄み渡っているというのに、『そこ』だけが拭えない曇りに覆われている…そんな印象の遠景だった。
『あのオッサン、俺ら降ろすなりすっ飛んで行っちまったな…』
『それだけ恐ろしい所なんだろう。目的地を伝えた瞬間から正気を疑われていたしね。』
『だからって何も別れ際に十字切るこたねーよなー。不吉極まりないぜ。んじゃ寝ぼすけイオン、何から始める?』
イオンが瞼を擦りつつ手配書の束を取り出す。
『とりあえず写真の場所探しつつ、情報集めよか。後ろからポカっと捕まえられたら楽でいいんだけどなぁ。』
賞金首が賞金首でいられるのにはそれなりの理由がある。
一つは何らかの力ある組織に属している場合、一つは行方知れずの場合、そしてこの街で最もメジャーな理由は、賞金首自身が捕縛するのに高いリスクを伴う程危険な場合である。
以前と比べれば実力は付いてきた。
それは間違い無い。
しかし、手を出す相手を見誤ればそこで旅は終了、生き死にすら自分で選べない状況に陥るのは必定だろう。
パラパラと紙束をめくり、顔の特徴を把握していく。
つくづく、人間と悪魔の特徴が似ていた幸運に感謝せねばならない。
でなければ、人間が見知らぬネズミを判別できないように、ジュラもまた誰がどれだとかわからなかっただろう。
手配書と通行人の顔で目線の反復横跳びをすることにならず一安心である。
『よし、大体覚えた。』
『すごーい、私なんか1時間睨めっこしても何も覚えらんなかったよ。』
『フフン、王族的にいっぱいいる臣下の顔を覚えとくのはキホンだからな。イオンはまぁイオンだからしょーがない。』
『俺にも見せてくれるかい…ふむふむなるほど。なんと、全員同じ面じゃあないか!仲良し兄弟なのかな。』
カブウはアテになりそうもない。
『結局、俺が見つけて締め上げることになんのか。まー手っ取り早くていいけどよぉ、お前らちゃんと写真の場所探してくれよ?』
かくして、3人はカイヤンシティの中心部を目指して歩き出したのだった。
煤汚れた街並みには数メートルおきに微動だにしない浮浪者が転がっており、まるで打ち捨てられた人形師の工房のようだった。
その中の何割が命を保っているのかさえわからない。
そして、道行く人の誰も彼等に施しなどはしない。
ただ、急に襲いかかってくることへの警戒を込めて一瞥し、自分の用事をこなすのみだ。
ジュラも祖父に連れられて魔界のスラムを視察したことはあるが、そこにはまだ温度があった。
か細いながらも確実に存在する、相互関係の温度が。
しかしここにはそれさえない。
周囲の人間は敵かそれ以外か、或いは死体かの3択で、自身の持てるものはその一片に至るまで自身のためにのみ使われるべきである…そういう空気が支配していた。
灼熱の溶岩洞窟や暗澹たる樹海、『死』の存在感で言えば文明の下にある街と言うよりそれらの方がずっと近いだろう。
雲一つさえ無い晴天の下とは思えないほど溟い街の中にあって、ジュラは本能からの不快感を覚えずにはいられなかった。
『えーと、んじゃ適当にそこの角曲がってみよーよ。細かい路地に入るのはまた後にしてさ。』
気づけばイオン&カブウとの距離が離れてしまっていた。
ジュラも小走りでそちらへと向かう。
『オイ!順応早すぎんだろ!人がそこいらに転がってんだぞ。一家に一つ、ご当地の置物じゃあねーんだから…どうした?』
角を曲がった先で、2人は呆気に取られ固まっていた。
ジュラも自然と2人と同じ方向へ視線を向ける。
そこには、写真で見たものと同じ歪んだ建物があった。
石と木の家屋はその形そのものが蛇の這うように変形し、隣の家を貫いて天を向くものさえあった。
そこに住民の気配は無く、家の壁に這う斑入りのアイビーでさえ例外無く歪んでいる。
家一軒見ても異常な状態ではあるが、問題はその数だった。
『いや、多すぎんだろ‼︎』
一つの通りにある全ての物体の中に、およそ正常と呼べる形状のものは無かった。
放置された南瓜畑のツルより複雑怪奇に捩れた家々を見ていると、さながら悪夢の街に迷い込んだような錯覚を覚えずにはいられない。
『アーティスティックで気合いの入った町おこし…って感じじゃあなさそうだね。』
カブウの言葉に警戒の色が差す。
いきなりかち合った目的地、程なくして3人の調査が始まった。
くの字に曲がったレンガを撫でれば、ヒビの入った表面がぼろぼろと崩れる。
『無理な形だからかな、すげー脆い。』
『あんま壊すと弁償代取られるよ〜、さてこの原因をどう見る?ジュラ。』
『レンガも木材もガラスも、全部繋がったままひん曲がってやがる。無理矢理歪んだならあるはずの破壊も見当たらない。残留エネルギーも感じれないし、正直魔力は関係してないだろーな。』
目の前の木材もミシミシと嫌な音を立てるばかりで、放っておく限りではすぐに折れる様子も無い。
『大規模な魔力災害があれば全魔連が出張ってくるだろうしね。俺も同意見、残念ながら求めるモノじゃあなさそうだ。』
『だとすりゃ、あとはもう神の御業か強力な能力者かってところか?そういう魔物の可能性もあるけど。』
『だねぇ、どちらにせよ深入りすべき案件じゃあない。絶対に危ない事情が絡んでいる。さっさと小粒の賞金首探して…』
『うわぁーー!』
フラフラと歩いていた老人を捕まえ、ジュラの数歩先で話していたイオンが声を上げた。
即座に魔剣を実体化し戦闘体勢へと移行する。
しかし、彼女の視線が向けられていたのは敵ではない。
そこに居たのは先程までイオン自身が話していた、ただ見窄らしいなりをしている老人であった。
地面に這いつくばる老人、その両足は丁度血肉を求める獣のそれのように逆方向へと曲がっており、皮膚は魚のそれのように折り重なった鱗状へ、足先は木の実を啄む鳥のそれのような対趾足へと変形していた。
鼓動に合わせて震える異形の足を前に言葉を失う3人、何より不気味だったのはその足に骨折や打撲の痕は無かったことだ。
少々骨は浮いているものの、まるで『産声を上げたその時からそういう形状で、今まで頑張って生き延びてきました』と言わんばかりの自然体で存在している。
世界一の怪盗だって、こんな生々しい変装はできないだろう。
『ヒィィィ!何も!何もぉーー!』
自身の体を起こしたイオンを見ることもなく、裸足で跳ねるように逃げ去ってゆく老人を3人はただ見送っていた。
『さっきの爺さん、竜人でも獣人でもねーよな…』
剣を納めつつジュラが呟く。
触手を格納しつつカブウが頷いた。
『ああ、ニオイからみてほぼ確実に人間だね。しかし、俺の見識が広いとは思わないけど、あんな人間は見たことがないなぁ。』
『うんうん、あれじゃ履ける靴無くて大変だよね…』
『そんなレベルかぁ?てか、お前何したらあんな逃げられるんだよ、かわいそうに。』
『今回は変なことなんてしてないよ!なんでここがこんなになっちゃったか聞いただけだもん。』
そんなわけはない、老人の混乱は明らかに異常な反応だった。
泡吹くような勢いで逃げ出すということは、自身の命に関わるような事案か、はたまたそれより恐ろしい事案か…いずれにせよ尋常のことではなさそうだ。
『ホントかよ〜。ま、ここは一つ頭脳明晰人望高騰真っ最中のデビルプリンスが、会話ってもんの手本を見せてやる。おーいそこ行くガキンチョ〜!』
ジュラが細い路地からこちらを覗いていた子供に呼びかける。
中々の隠密力ではあったが、人の域を超越した悪魔的感覚器官の前には無力なのだ。
子供は一瞬逡巡した末に降伏を選び、おずおずと3人の前へと姿を現した。
ジュラが膝を突き子供と目線の高さを合わせる。
『別に取って食ったりはしねーから安心しな。後でお菓子作ってやってもいい。俺たちはこの街のこと知りたいだけで〜』
ジュラが町の話題に触れた瞬間、子供は顔を真っ青に染めて蹲ってしまった。
額を地面に打ちつけかねない勢いで背中を丸め、両手で耳を固く覆い拒絶の意思を示す。
カチカチと歯を鳴らす音が続き、体は耐え難い怯えに支配されているのが見て取れた。
『ど、どうした?大丈夫か⁉︎くくく、果物でも食べるか⁉︎』
しかし子供は答えてくれない。
もはや会話どころか、目を合わせることさえできず、ほとほと困り果てたジュラが立ち上がる。
『スマンイオン、疑って悪かった。』
『ふへへ、分かればよろしい!それじゃーカブさん、あの子の口塞いで適当な路地裏まで引っ張り込んで〜。』
カブウの目が丸くなる。
『気は確かかいイオン。戸籍のある子だったらどうするのさ。』
『いやいやそこじゃあねーだろ⁉︎児童誘拐なんて見損なったぜイオン!』
悪魔に倫理を咎められたイオンが慌てて手を振る。
『ちがうちがう!誤解誤解!ちょっと2人とも耳貸して…』
その不運な子供は、関わってしまったおかしな3人?組が何やら話し込んでいる隙に、忍び足でその場を退散しようと試みていた。
敵意は無いようだが、『立ち蛇通り』に首を突っ込む奇特な連中には変わりないし、まだ今日の夕飯も確保できていない。
しかし家には逃げ込めない、丁度今時分は母親が客の相手をしているころだ。
何一つ盗れずにノコノコ帰り、おかしな連中まで連れ込んだりしたら殴られるだけでは済まないだろう。
瞬時に入り組んだ無秩序な路地を思い浮かべ、着けられにくそうな経路をシミュレーションする。
(あそこで曲がって、こう行って、もいっかい曲がれば…きっと逃げ切れる!)
子供は、今だけはこの大嫌いな街に生まれたことを感謝していた。
そのおかげで今夜のトラブルが回避できる。
そして、逃走経路の始点たる路地めがけて飛び込んだ次の瞬間、子供の視界と口は完全に塞がれていた。
同時に、前へ進み出した体も柔らかく受け止められ、空気を詰めた風船のように軽々と持ち上げられる。
時間にして3〜4秒、何が起きたかを考え始めるより早く子供は解放され、しっとりした地面に座り込んでいた。
そこは丁度廃屋に挟まれたうす暗い路地、色を持つのは頭上で一本の線となった空のみ。
顔を上げた子供の前には、差し込む日の光を背に堂々たるイオン・アイシクルが立ちはだかっていた。
少女は子供の側でしゃがみ、慣れた手つきで塗装の少し剥げたバールを取り出す。
『いい?これから、お姉ちゃんはあなたを脅す。だから、これからあなたがしゃべったことは、ムリヤリ言わされたこと。しょうがなかったこと。だから誰にも怒られないし、痛いこともされない。悪いのは全部お姉ちゃんなの。わかった?この町で、何が起きてるのか教えて?』
子供は優しく首元に添えられたバールの冷たさと、少女の背後から差す日差しの熱の落差に少し眩暈さえ覚える。
(お空…久しぶりに見たなぁ。)
そこに蔓延る恐怖は無く、ただ優しい光と言葉があった。
外開きのドアが開けられ、錆びたベルが鳴る。
何人かのごろつきが口へジョッキを運ぶ手を止め、ドアの方へと目をやり怪訝な表情を浮かべる。
それもまたせんないこと、そこに居たのは血と酒の臭いが染み付くその場所にはあまりに似つかわしくない、華奢な少女だったのだから。
訝しむ視線を意にも介さず、自信で満たした足取りで店の奥へと進む少女は、10歩目にして差し出されたブーツにつまづき盛大に転ばされた。
『おっと悪い悪い!あまりにチビこかったもんだから、ネズミかなんかかと思ったんでなぁ!』
足を差し出したヒゲ面の男がダミ声で笑う。
『そうだねえー、店をお間違いらしいねー。個人営業?ちゃんと話通してるかねー?』
ヒゲ男の連れらしき頭巾の男も笑っている。
ここは「パブ・キャッツウォーク」、カイヤンシティでも最悪と名高い暗黒街「タライロン」屈指の凶悪犯御用達酒場である。
だから、これはあくまで日常の一部であり、一切の意味と神秘性とを取り払った洗礼なのだろう。
『ありがとう、でも間違ってないんです。』
そして、そんなことは転ばされた少女も承知のうえで来店しており、今正に目的達成のための第一ステップを終えたところであった。
ちょっかいをかけて満足したヒゲ面の男が、再びアルコールを摂取しようとジョッキへ向き直ったその時、男は上からの強い衝撃を受けてテーブルに熱烈なキスをかまし、意識を失う。
『わりーわりー、けど先に手を出したのはあんたら、こいつは立派な正当防衛だぜ。ちゃんと峰打ちにしといたしな。(両刃剣だけど。)』
少女の直後に入店した少年が、全く心のこもっていない謝意を示す。
『てめー!よくもわいの朋輩をやってー!っづぁひぃぃぃ!』
ピストルを構えた頭巾男の手が、音も無く接近していた肉の触手に締め上げられ、宙吊りにされる。
『ちょっと狭いなぁここのドア。勝手を申すようだが、バリアフリーを推進していただきたいね、マスター。』
少しつっかえつつも顔の大きい男が入店し、流石の荒くれ達も少しギョッとする。
既に店内の相当数が3人を認識していた。
どうやら、この店で発言するには誰かぶちのめすのが早い…という話は本当だったようだ。
全く物騒な不文律である。
立ち上がりズボンのホコリを払った少女は、カウンターの前まで邪魔も無く歩み、鋭い眼光を飛ばすマスターに堂々と言い放った。
『初めまして、私はイオン!ノンアルコール、ありますか?』
少女は、漂う酒気だけで割と限界であった。
『どうぞ、新鮮ではあるオーツミルクです。それと、吐くならば店内はご遠慮願います。』
『どうも…』
『そちらの御仁方は?』
『俺は失明しない程度に安い酒で頼む。』
『俺は〜そうだなぁ、卵酒をバケツで頂こうか。ベースはお任せしよう。』
『畏まりました。』
マスターが樽のコックをひねる姿を横目に、カブウが耳打ちする。
『いいのかい?安いので。』
『高けりゃ美味いってもんでもないだろ。それに、あくまで今日は情報収集で来てんだ。出費はできるだけ抑えたいだろ?バケツで注文するようなヤツもいるらしいけど。』
『そんな食い意地の張った奴がいたのかい。コワイねぇ。』
いつも通りのらりくらりと構えつつも、カブウの体には緊張が満ちていた。
それもその筈、ジュラ達3人の背中には現在進行形で数多の視線が突き刺さり、その一挙手一投足をつぶさに観察されていたのだから。
そのいずれも暗黒街を闊歩する曲者達、ここでは1秒たりとも油断は許されない。
(しかも…何人か別格のもいやがるな…あの中の誰かじゃなきゃいいが。)
しかし、全体が彼等の話に耳を傾けていながらも、ガヤガヤと話す声が止まない状況は彼等の『作戦』に好都合だった。
『本日はなんのご用件で?』
マスターの言葉でジュラ達に緊張が走る。
(来た…早速!)
イオンがコップをちびちび口に運びつつ答える。
『ちょっと気になったことを調べに来ただけなんです。私、どうしても知りたくて。『立ち蛇通り』ってなんですか?』
その質問は小さな声で何気ない調子だったが、『立ち蛇通り』という単語が出た途端に背中を向けていたマスターの動きが止まった。
『すぐにこの店を、いやこの街を出られなさい。それでも命は無いやもしれないが、少なくとも私共は巻き込まれたくない…』
とても暗黒街でごろつき相手に店を切り盛りする傑物とは思えない、怖気を孕んだ声だった。
いつのまにか、言葉が聞こえたらしい周囲の客も彼等と距離を置こうとしていた。
実に賢明で機敏なことである。
(動くのは…どいつだ?)
ジュラも明らかに変わった空気の中、神経をより鋭敏に研ぎ澄ます。
『私は、新聞記者です。この街の闇を掴みたいんです。』
引き金はその嘘だった。
背後の動きに気づき、ジュラが剣を振り抜く。
予想通り、イオン目掛けて一直線に迫っていた不穏な人影は、その剣に触れるなり明後日の方向へと弾かれ、テーブルの上に着地した。
『わりぃ2人とも!一手遅れだ…『アタマ』抑えられた!イオンは隠れてろ!カブさんはサポート頼む!』
イオンがカウンターを飛び越え陰に隠れる。
『ボンクラの杖にしちゃいいワザモンだった。手相が変わっちまったぜ。』
テーブルに立つ長髪の人影が掌から流れる血を振り払う。
目深に被った無地の帽子を脱ぎ捨て身を震わせる男の頭には、深山幽谷の支配者オオカミと同じ三角の耳が生え、舌舐めずりする口元から覗く鋭い歯は攻撃性を隠そうともしていない。
砕け散ったガラス瓶の中で金色の目を輝かせるその男は、人畜有害なプレデター「人狼」だった。
金の眼光が瞬いた刹那、先程の子供から聞いたことがフラッシュバックする。
曰く、この街は罰を受けなければならない。
曰く、それは神聖なる天意である。
曰く、抵抗は許されない。
曰く、分を弁えない者は最大の罰を受ける。
曰く、逃走者や謀反者…そして探究者は恐ろしい獣に始末される。
『こわ〜い狼が来るってのは比喩じゃあなかったワケか。こっちもそのつもりではいたけどよ。』
『あ?なんだテメェ等オレに会いにきたのかよ。サインか噛み痕(キスマーク)ぐらいならくれてやってもいいぜ。地獄でいい自慢になるだろーよ。』
徐に狼男は足元から赤い石の灰皿を拾い上げ、コンコンと叩いて硬さを確かめると、ジュラの右脇腹目掛けて腕を振り抜いた。
ただ魔獣的膂力に任せた、技のワの字もない円盤投げ(フリスビー)。
しかしそれは、その単調さと灰皿自身が持つほんの少しの重量ゆえに、無類の速度と威力を誇っていた。
並の人間なら理解も及ばずに肝臓や腸管の破裂で悶死する、そういう攻撃だった。
ジュラは優れた感覚を持つ悪魔として産まれたことと、実戦が強引に磨いてくれた直感に感謝しなければならないだろう。
暗黒街で磨かれた、目の前の人間を殺すための一投をなんとか避けることができたのだから。
直後、背後で散弾銃の如き音が鳴り響き、大量の木片が撒き散らされる。
足に突き刺さる木片にほんの一瞬意識を裂いた次の瞬間、ジュラの首にはカブウの触手がめり込み、少年を強引に背後へと引き倒していた。
角が風を切るのを感じる中で、庭師の使う大鋏が打ち鳴らされたような音が耳に届き、目前を通った金色の点が狼男の眼光であると、かろうじて認識できた。
狼男は一度カウンターにぶつかり跳ねると、僅かな凹凸に指をかけ、壁を駆け上って静止する。
『モゴモゴ〜ブェッ!』
狼男が口に含んだ何かを吐き出す。
それは滑らかに切り取られた木片であり、男の衝突したカウンターから一噛みで食いちぎられたものだった。
『いけねえいけねえ、噛み癖は治さないと。木ぃ齧るなんざウサギじゃあるめぇしよ。しかし…やっぱ『違う』だろ、テメェ。』
金の光がジュラを見据える。
『何の話だ半畜生。』
『人畜が半端にオレ真似てんだよ、猿臭せぇ物言いも大概にしろよヒトモドキ。オレはバカで嗅いだことねー臭いだが、テメェが人間じゃないことはわかる。オマケに、そっちのデカ頭は気取った金持ち(ネクロフィリア)の大好きな綿詰め死体とおんなじ臭いがしてやがる。雑なおめかししてるみてーだが、「祖霊節」にゃはえーだろ。』
狼男の顔に浮かぶ笑いは、純然たる嘲りからのものであった。
しかし、男が悪魔の臭いを知らなかったのは幸運である。
もしこの場でジュラの正体を看破されるようなことがあれば、客の一部か悪くすると全部が敵に回りかねない。
『しっかしどっから漏れたかね。独創的な家の連中から告げ口でもされたか?いや、この臭い…慣れ親しんだオレの手配書(ブロマイド)から追って来た。或いはそのどっちもか?何にせよ、知りたがりのバカは全員始末すんのがシゴトだからな。』
金の光がイオンの隠れた場所へと向けられる。
次の瞬間、狼男の筋肉は爆発的出力を生み出し、石の壁を陥没させてイオンへと襲いかかった。
咄嗟に数発の【マノン】を放つジュラであったが、またしても一手が遅れ魔力弾は虚しく空を貫くのみである。
イオンは、その瞬間を認識する間も無く地に押し付けられ、少し遅れて首に硬い指が食い込む感覚を認識する。
後頭部から滲むように広がる痛みに明滅する意識に、その声はより侮蔑的に届いた。
『なんだ、せっかく女もいるってのに凹も凸もねーガキかよ。ハァー、空気読めよなあ。』
イオン・アイシクルはキレた。
沸点を超越し、一周回って心が凪となるまでに。
『一応言っとくが動くなよ、人間の首ぐれー藁より楽にへし折れ…』
『ライコ・フォン・トルバーフロス、ここ生まれで趣味はレコード屋巡りだけど絶対に買わない。緑の野菜全般が嫌いってとこはちょっとシンパシーかも。懸賞金は140万コンスで、ずっと上がりっぱなし…合ってる?』
『…………あ?ストーカーか、テメェ等。』
人狼ライコは、自身が命を握っているはずのイオンが一切の恐怖を見せていないないことへの困惑を浮かべていた。
『私、お金が要るの。』
この女との無駄話は危険、そう人狼の直感が言っていた。
ライコが腕に力を込めようとしたその時、イオンの髪に隠れた何かが砕け散る。
途端にライコは手を離し、まるで火薬を入れ過ぎたネズミ花火のように転がり始めたのだった。
『オギャモペヤャャーーーーッ!!!!』
それはもはや、悲鳴にさえなっていない絶叫だった。
一つの咳が出ていく前に次が込み上げ、涙も鼻水も涎も壊れた噴水の如く垂れ流されている。
喉をさすりつつ立ち上がったイオンが、バラバラになった木片を投げ捨てた。
それは、安い肉を安いなりに美味しく楽しくいただくための安いミックススパイス…それが、たっぷりと詰め込まれていたペッパーミルであった。
木片に混じって切り離されたカブウの触手がウネウネ動いている。
それがミルを圧壊させた仕掛けだった。
徹底的な分析と対策は狩りの定石であり、獲物が自身を狩る側と誤認しているなら殊更に有効。
これぞ、住民に吐いてもらった情報から3人が組んだ対策の1つ、胡椒(或いはそれに準ずるもの)爆弾なのである!
ゆえに、この後のイオンの行動も賞金首を捕えるために最適と判断された、恣意の混じる余地など無いものである。
『だーれーがぁ!一生断崖女だゴラァァァァ!』
ジュラやカブウ、ガヤと化したごろつきすら引く程全力で振りかぶられたバールが首を捉え、ライコは新世界を垣間見た。
繰り返すが、恣意の混じる余地は無いものである。
『うわぁ、躊躇なく喉仏いったぞ。痛そう。』
『なるほど、彼女の腕力で確実に痛手を与えるなら、顔か喉。顔を狙って鼻血でも出されたら作戦の効果は半減、故に喉を選択したと。これは、極めて理知的且つ合理的なインテリジェンス輝く一手だよ、おそらくたぶんね。』
『そうかな…………そうかなぁ。うわ、こっち来た。』
ジュラが思わず半歩下がる。
『むー、そんな猛獣見るみたいな目しないでよー。』
『ナハハーナンノコトカナー…けど、後は任せろよ。ヤツが弱った今、一気に仕留める…!』
イオンが頷き、カブウの後ろへ避難する。
あくまで、成功したのは用意した策の1つである。
ここで無力化できなければ、別の策に誘い込むか正面からぶつかる他は無い。
しかし、これだけ酷い目に遭ったライコの警戒心レベルはハネ上がったはずだ。
逃走の可能性も視野に入れ、確実にここで捕らえるべきだろう。
ジュラが魔剣を上段に構え、一気に距離を詰めて振り下ろす。
腕には剣から伝わる肉を裂いた感覚…そして、頬には獰猛な蹴りが骨を打つ感覚が確かに伝わっていた。
カウンターを合わせられ、酒瓶の並ぶ棚に叩きつけられるジュラ。
頭から割れたガラスと千紫万紅の酒をかぶりつつ、立ちあがろうとするジュラであったが、肌感よりダメージは深いらしく膝を地面から離せない。
それでも振るわれた魔剣は鋭かったらしく、ライコもまた肩からの滝のような出血を押さえ膝を突いていた。
(また……だ。感覚とヤツの動きに、ほんの少しだけ誤差がある………)
最初の噛みつきも、イオンへの攻撃も、圧倒的優位から振った剣へのカウンターにも、全てに対して対処が遅れていた。
『動きが掴みにくい』その原因はこれに尽きるのだが、そうさせられている確実な理由までは思い至らない。
(攻撃は直線的、速度自体はなんとか追いつける。多分だが、武術の類でもない…)
偏見は愚物の十分条件だが、それでもなおジュラにはライコが行動タイミングを意図してズラすような技巧派だとは思えなかった。
だがわからない以上、とやかく考えても仕方がない。
肝要なのは、問題にどう対処するかである。
(先を読め…腹立たしいが、総合的に優れていやがるのはおそらくヤツの方。それでも、いつもの感覚で振ることさえできれば…)
よろよろと立ち上がったライコが、懐から取り出したナックルダスターを着けそこね、取り落とす。
『チッ………オレを一回で仕留めなかったのは、テメェのヒトモドキ生最大のミスだったな。来世(つぎ)に活かせよ。』
脂汗を滲ませつつも、ライコが軽口を叩く。
大方、人狼の生命力で傷口に薄皮が張るまでの時間を稼いでいるのだろう。
実際、出血の勢いは目に見えて落ち着きつつあった。
だが、これは脳震盪から回復する時間が欲しいジュラにとっても好都合なハーフタイムである。
『上等な発想は半獣にゃわかんねーかな。生け捕りは賞金五割増なんだぜ?』
あえて、その煽り口上に応じよう。
全ては次の一閃のために。
ライコの額に僅かな青筋が浮かぶ。
沸点はけっこう低いらしい。
『頭の中身がちと軽いのは、そういう習性かヒトモドキ。体の中身も仲良しのデカ頭とオソロにしてやるか。』
『半獣がキャンキャン鳴いてるな。去勢がまだなら病院付き添ってやろーか?』
しばしの沈黙…
両者が駆け出したのは同時だった。
ライコは最も多くの敵を屠ってきた右拳に意思を集中し、何があってもジュラの内臓を打ち抜くと決めていた。
対するジュラは剣先で床板を引っ掻きつつ、下から襲う不可避の切り上げを狙う。
両者共に、その眼光には獣の凶猛と狩人の理性を同時に宿している。
5歩…4歩…3歩、みるみる縮まる2人の距離が臨界に達しようとしたその直前、ジュラは狂い無く剣を振った。
距離を見誤ったわけでは無い。
その証拠に、魔剣から伸びる半透明の刃は確かに深々と、ライコの腹を裂いていた。
『がっ………おっ…』
内臓まで達する刀傷を受けて尚、弛まない拳をすれ違いざまに肩で受けつつ、剣を振り抜く。
血と混じり深い朱を帯びた透明な刃が崩れるのと、ライコが前のめりに倒れ込んだのは殆ど同時だった。
『【ヒドロマ・ブレディオ】、溢れた酒を刃にした。…勝ったのは俺たちだ、ライコ・フォン・トルバーフロスッ。』
絶対的勝利宣言、しかしそれを受けてもライコの闘志は全く折れてはいなかった。
地面に五体が伏そうとしたその時、ライコは全力で足を踏み出し、バケツ一杯分にもなりそうな血を溢しながらも敗北を拒否する。
『フゥ〜ゥッウゥ〜!チョビィッ〜〜とだけ、意識飛んでたぜぇ〜。だが、このオレに同じ手は…』
ライコの意識にモヤがかかり、視界に霞がかかり始める。
原因を失血に求め、必死に腹を押さえるライコに、そのアンサーはどうしようもない『敗北』を突きつけた。
『てめーを切ったのは酒そのもの。血と混ざって体内のアルコール濃度が急速に高まれば、あらゆる機能に障害をきたす。たとえどんな蟒蛇でもな。』
ライコの首に剣が当てられる。
『勝ったのは俺たちだ、OK?』
砕けそうな程に噛み締めた顎から、絞り出すような敗北宣言が出たのは、ライコが完全に拘束された後だった。
『ギャーッハッハッ!話せるじゃねーかポヤポヤしたガキのくせによー!』
『でしょでしょ!それでー、そん時のクエーツクエーツさんが傑作だったんだけど〜』
縄で縛られたままのライコとイオンが、互いの一言一句に腹を抱えて笑っていた。
敗北宣言からほんの数分で2人は意気投合してしまったらしく、どちらとも相手に差し向けた刃のことなど気にする様子も無い。
『さすが、我等の船長はコミュニケーションのなんたるかを心得ているね。』
『いやぁ…似た者同士、通じ合っただけじゃねーかな。アホっぽいとことか。』
ライコの首がジュラの方へ向く。
『聞こえてんぞこの野郎、人狼(オレ)の聴覚舐めんなよ。しっかし、こんなにオレを恐れねぇ奴ぁ初めて見たな。尻尾でも触ってみるか?フワフワ度合いじゃちょっとしたモンだぜ。』
ライコが自身あり気に胸を張る。
『いいの⁉︎みたいみたい〜触ってみたーい。』
『1000年に一度も無い機会だぜ、光栄に思えよ。ちょっとベルト緩めるから、縄の方をだな…』
笑って溢れた目尻の涙を拭いながらイオンは首を振った。
『それはダメ。』
『いいねェ、そういう奴オレぁ好きだぜ。んでなんだ、イオンはオレを警官共(イヌ)に突き出して賞金を手に入れたいんだったな?だったらもっと景気良い話にしようぜ。オレを引き渡した後、脱走する手引きをしろ。』
ライコが身を乗り出し、イオンを見つめる。
『えー、いくら友達の頼みでも皆を巻き込むのはイヤかなぁ、ごめんね。』
『まぁ聞け、素人にんな大層なこたやらせねーし、モチロン対価の用意もある。他の賞金首(クズども)の居場所なんかどうだ?』
『わかってるの?結構仲良しだったり?』
ライコが鼻で笑う。
『んなわけ。ただ、生き物てなぁ1匹1匹違う『臭い』を持ってる。特に人間はわかりやすいな。普段食うモンだとかよく使う煙草の種類、どんな場所で過ごすかで面白れえ程変わってくる。そいつを追うんだよ。』
ジュラは騒動の始まりからずっと、この店に集うロクデナシ共でさえライコに関わりたくなさそうな雰囲気を醸し出していた理由がようやく理解できた。
この男は、自身さえ知らない己の弱点を対面しただけで読み取り利用してくるかもしれない。
その可能性が存在するだけで距離を置くには十分すぎるだろう。
(昔読んだ寓話に、優しい悪魔が心を読む魔法の存在を明かしたことで一人ぼっちになる話があったが、そりゃ嫌だよな。俺の変装魔法も通じなかったし。オマケに……あの性格だもんなぁ。)
不遜な性格か、効き過ぎる鼻と耳か…原因がどちらにせよ、ライコが嫌われ者の街でさえ避けられているのは確かだった。
『すっごいねー。でも、やっぱり違法なことはしたくないかなぁ。』
『服から旅人市場の屋台塗料と僅かな硝煙、バールにゃオレじゃねえ誰かの血…たぶん人間だろーが、その臭いが漂ってる。モメて追い出されたってトコか?今更綺麗事(ルール)にビビる口でもねーだろ?』
ライコがこちらの事情などお見通しだ、と言わんばかりにウインクしつつ舌を出す。
関わったが最後、いとも簡単に破滅へ向けて背中を押される、そう予感させる顔だった。
『なんなら、この素晴らしい掃き溜めをガイドしてやってもいいぜ。見たいだろ?手前を古代王族の生まれ変わりだとかほざいて物乞いしてるオッサンとかよ。』
『縄は解かないしトイレは我慢してもらうけど、いい?』
『安心しろ、下の替えなんざ拘禁所にいくらでもある。デザインは好みじゃねーのが惜しいがよ。』
かくして、不安要素を抱えながらもイオン一行とライコは手を組み、手頃な賞金首を求めて茜差すタライロンの暗がりへ繰り出したのだった。
イオン一行が店を経ち、店主が引き攣った仏頂面で見送った直後、フード付きのマントを羽織っていた1人の客が立ち上がった。
その客は足音一つ立てず喧騒の中をすり抜け、カウンターの裏手にある奥のドアを開ける。
客が見据えていたのは裏口、店主が厳重に施錠している、表よりずっと頑丈な出入り口だ。
客は迷わず店の裏へ入ると、柔らかな布でノブを拭い静かにドアを閉める。
その場にいた誰1人として、不審な動きを見せた客に気がつく者はいなかった。
いつも以上に登場人物のガラが悪い。
罵倒皮肉口撃、考えるのは楽しいのだけれども。
登場人物
農園の馬車主
ジュラ達の目的地を聞いた時、自殺は止めろと熱心に説得してくれた。
異形足の老人
2月前に『神罰』を受け、以来苦しんでいる。
元パン屋の店長。
子供
幸い登場後も『神罰』は免れている。
事情聴取後はジュラから食料を貰って家に帰った。
マスター
元軍人で剛腕且つ敏腕なパブ・キャッツウォークの店主。
でも『神罰』は恐ろしい。
ライコ・フォン・トルバーフロス
暗黒街でさえ忌避される暴力の狂犬。
どこにも属すること無く、取り込もうとした者の手を悉く食いちぎって生きてきた一流のチンピラ。
用語集
パブ・キャッツウォーク
日々危ない橋を渡る無法者共のささやかなオアシス。
来るときはネコのように、帰るときはチドリのように。
タライロン
脛に傷がある者たちが集う薄暗い街。
暴力と金のみがここではルールとなる。
人狼
狼の耳や尻尾が生えた人間によく似た生物。
進化生物学に於いて最も謎が深いとされる。
祖霊節
祖先の霊魂が帰ってくる日とされる。
毎年微妙に違う日ではあるが、天道教会が設定した正式な祝祭である。
怪物のなりをして死者の分も食器を用意し、宴を行うのが習わし。