魔剣王正伝   作:プルプルマン

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最近ブリーチーズにハマっています。
えもいわれぬ至福、丸齧り。


番外編 貴方に捧ぐ創世記

時は神歴1947年に遡る。

場所はサイレンス共和国が首都フェスティバム、その中心からやや外れた住宅街の一軒家。

いつにも増して空はカラッと、人はじめっとした朝に1人の少女がドアを開けた。

『ハンカチ持った、エプロン持った…よしホントのホントに忘れ物無し!んじゃお兄行ってくるわー!そっちも代議士サマなんだから遅れないでよ〜!』

少女の名はカシュアナ、ごく近くのパン屋で働く元気印のアルバイターである。

『ハッハッー!幸いこの街には飛行制限が存在しない。心配せずとも、お兄ちゃんなら5分で議事堂について、シガレットを一服嗜むことも余裕なのだよ。』

答えるは彼女の兄、フランマリウス…今年から共和国議会の下院議員に収まった燃える若者である。

『すぐ咽せるくせによく言うわ。んじゃまた夜ねー。』

『はいよ、晩ご飯は何が良い?』

『鶏!』

ざっくりとした答えを返して少女はドアを閉めた。

バードフィーダーに顔を突っ込むフィンチに挨拶し、いつも通り無視されたことにほんの少しむくれる。

そんないつもの朝だった。

 

 

 

フランマリウスはつい一年前までさる上院議員の秘書を務め、下積みを重ねていた。

そして、今年その恩師の後援を得て晴々しい政界デビューを果たしたのである。

そんな若手のホープは就任数日目にして、早くも嫌気に満ちていた!

 

口に力を得た彼が最初に受けた言葉は、歓迎でも激励でもなく、形式ばった祝福と『君は誰に付く?』の一言だった。

あらゆる手を使った派閥争いに公然と行われる談合、貼り付けた笑顔の裏で罵り合う先輩方。

賄賂や不正はいわば毒性の潤滑油で、多少は社会の必須成分だ。

少なく回せるに越したことは無いが、あった方が動かしやすい事は否定できないし理解していた。

実際に、恩師はそういった現場にも触れさせてくれていた。

それでも尚、あまりに目に余るドス黒さだった。

どこもかしこも煤け、澱みネバついている。

明らかに油は過剰だった。

 

『くそっ、俺達はピルチャードじゃあない!こんなにも、こんなにもギトギトしたものが議会なのですか、先生!』

初日にしてかつてない精神的消耗を覚えたフランマリウスは、師を訪ね思いの丈をぶちまけていた。

この時間、師は1人晩酌を楽しみ邪魔が入ると著しく不機嫌になることも、不用意な接触が議会で勘繰りのタネとなることも知っている。

だが、疑念をぶつけたかった、失望を聞いてほしかった。

子供のように言葉を綴る男の訴えを受け止め、彼に背中を向けたままブランデーを一口含んで、老議員は言った。

『君には才能がある。己の思考を適切に出力し、しかもそれを人心に差し込むテクニックを生得している。だからこそ惜しい、その美しい人間の心さえ、輝きを止めない正義の精神さえ無ければ、11年…いや6年で大統領にだってなれるというのに。…上手に付き合いたまえよ、壊れぬよう染まらぬよう。しくじれば私のような傾奇者と呼ばれることになる。もう行きなさい、そして私を訪ねるのは控えなさい。フラム君の道にて小石となりたくは無い。』

師はもう語ろうとはせず、ついにフランマリウスと目を合わせることも無かった。

『御恩と啓示は忘れません。先生、今まで本当にありがとうございました。どうか、どうかお元気で。』

その日の帰り道はやたらと空気が冷たかった。

 

それ以来、一度も話をしていない師を想いつつ、フランマリウスは何度も時計を見ていた。

今日も退屈な議論が始まる。

いや、それをそう呼ぶのは辞書的に間違っているか。

その形式と題目だけを整えた『議論』は、最初から結果が決まっていた。

2つある議会のどちらでも、回された裏金で賛否の比率は一定である。

力ある者が書いた台本通りに進められる官公文楽。

そこにあるものは私財の充実と保身の徹底のみ。

背広姿の人形達も、次の謀略に勤しむフィクサー達もそこだけは変わらない。

まったく、中身の無い時間とはどうしてこうも遅く過ぎるものなのか。

(家に帰って天井スクワットでもやってる方が有意義だな。明日から空気椅子で出るか。)

気づけば、自分の『セリフ』が近づいていた。

挙手し、打ち合わせと一言一句違わぬ問いに対する、反復練習で何度も聞いた答えを受け取る。

勿論、真剣な表情は崩さないのがミソである。

 

 

 

 

『おうお兄おかえりー。』

家のドアを開けたフランマリウスを迎えたのは、花瓶の水を変えていたカシュアナだった。

『ただいま〜珍しい、先に帰ってたのか。パヤラさんは?』

『早退けするんだって。なんか忙しそうだったわ。あとお客さんは無かったって。』

『そうか確か…弟の結婚式に出るとか言ってたか。書類の方は…完全に整理されてるな、流石だ。』

パヤラ・スタルジョナ、選挙前に恩師より紹介された信頼できる人物である。

いずれ人員は増やさねばならないだろうが、今はまだこの侘しい事務所権自宅を1人で回せる頼もしい男である。

『しかしやっぱりというかなんというか、日に日に書類は増えてくな。早いとこ人員を増やさなけりゃあいけないが、資金がなぁ。』

『大変そうねー、でも安心して。私もうじき窯の火加減任せて貰えるから、給料上がるの!』

カシュアナが誇らしげに胸を叩く。

『いや、それは自分のために使いなさい。さて、それじゃ晩餐にしよう。チキンステーキでいいか?』

『うん。』

 

『あ、お兄また焦げ多めの方取ってる。ずるい。』

『なんだ、食べたかったのか?先に言っておいてくれ。』

『いや、そんな事は別に無いけど。』

『なんじゃそりゃ。』

少々足のガタついたテーブルに、裾の解けたクロス。

最高とは言えないが、故郷と比べれば格段に良い環境であった。

『いやー幸せ、毎日肉が食べれるなんて革命だよね〜。』

フランマリウスが頷く。

『師が仰っていたな。普段の食事に妥協はするなと。それでも…過ぎた食卓だ、そう思ってしまうのは田舎者マインドかな。ご馳走様、少しおやつを食べ過ぎたかな。』

ステーキの残る皿を妹の方に押す。

『またぁ?くれるのは嬉しいし、もう返せって言われても返さないけど…太るよ?』

『どっちが、かな。そっちこそパンをつまみ過ぎるなよ。あと、代わりに皿洗いよろしく。』

面倒事を拒否しようとしたカシュアナは気づく。

時既に遅し、彼女は己の口でステーキの残りを返さないと明言してしまっていた。

故に後片付けを拒否できない。

うっかり墓穴を掘った妹は歯噛みし、兄は高らかに笑う。

ビキーラ下院議員事務所は今宵も平和だった。

 

 

 

 

重々しい扉を開けたフランマリウスの鼻を、濃厚な肉の香りが突き抜ける。

『ビーフステーキに用いられるのは通常肉用種だ。角の長い栗色の毛のやつだよ。しかし、私は最も旨い牛とは乳用種だと考えている。それも、一度も妊娠したことのないのびのびと育てられた3歳の雌だ。本来乳に回す栄養を、余すことなく肉に注げるわけだからな…ビキーラ君、先日の話は考えてくれたかな?』

カウンターの向こう、覆面をつけたシェフは何も言わない。

ここはフェスティバムでも随一の高級ステーキハウス。

会員制で個室型、無論スタッフには秘密保持の呪いがかけられている。

『私のような若輩に声をかけていただき、深く感謝しております。大変失礼な申し出とは存じますが、例の『アイランド計画』に私は賛成致しかねます。加えて、一連の話は忘れるつもりです。どうぞご容赦ください。』

ステーキを食らう壮年の男が、フォークでフランマリウスの顔を指した。

『んーそれだよそれ、その声だ。心の深くにまで入ってきそうな、危険な色香がある。ま、座りなよ奢りだからさ…』

口調こそ柔らかだが、フランマリウスに拒否権は無い。

頭を下げ、自分の家が半分買えそうな高級椅子に腰掛ける。

『今日で就任3週間だっけ?めでたいねェ〜。いや若者からは元気がもらえていい。』

男は心にも無い言葉を紡ぎながら肉にナイフを突き立てる。

『もう一度申し上げますが、私は…』

『ここはレストランだ、何か食べなよ。』

『…ではモモと一昨年仕込みの「シャイナー・ワイン」を。』

覆面シェフが頭を下げ、調理にかかり始めた。

『庶民派だね。いやぁ実にいいことだ。』

少なからず嘲りの含まれた男の言葉に、フランマリウスは愛想笑いを浮かべ頭を掻く。

『お恥ずかしい、無知な田舎者ゆえ高級品には狼狽してしまうのです。…ご馳走していただいても、私の意思は変わりません。お誘いいただき、ありがとございました。』

肉の焼ける音が無闇にうるさかった。

『まぁよく考えてみたまえよ。『アイランド計画』の顧客候補は世界中にいる。そして、我が国の海運における強さは今更論ずるまでもない。これは巨大な金脈だよ。』

『ですが、取り返しのつかない不幸を生みます。』

フランマリウスの表情は固い。

『倒錯を持て余した富豪共なら何億だって出すし、国庫ははち切れんばかりに潤う。そういう巨大な幸福の前では瑣末なことだろう?ウチは民主主義なんだから。それに、間違っても僕やビキーラ君の家族がそれを受けることは無い。』

決め手はその言葉だった。

フランマリウスが席を立つ。

『こんな若造にも………絶対に譲れない一線というものがあります。そこを超えては己が崩壊する一線が。本当に、今までありがとうございました。』

壮年の男が首を振る。

『こうなってしまったか。残念だ、もう少し賢い男だと思っていたけどね。知性と理性を分けられないんじゃ仕方が無い。まぁ、色々と頑張りたまえよ。』

フランマリウスが部屋を出たことを確認し、男はベルを鳴らしボーイを呼びつけた。

『1つ電報を頼むよ。宛先は法務局、要件はコードブレッドの実行で。』

 

 

 

 

『遅いなカシュアナのやつ…うら若きレディが夜遊びなんて、ちょいと厳しめに叱っておかねばだな。』

妹を心配し、意味もなく机の周りをウロウロしていたフランマリウスが安心できたのは、それから2時間も経ってのことだった。

カシュアナは、少なくとも外面だけは何事も無く帰宅した。

しかしその顔に生気は無く、トートバッグから垂れたエプロンの紐が泥まみれになっていることも、まったく気にしていなかった。

『おかえりっ、まったくこんな遅……どうしたんだ。』

フランマリウスは、一目見て異常な妹の様子に産毛が逆立つのを感じていた。

カシュアナがフラフラと椅子に腰を落とし、雨垂れのように話し出す。

『お店、潰されちゃった。店長さんたち、蕾売りの斡旋やってたんだって。』

『バカな!あのご夫婦は善良な市民だった!自らの仕事に誇りを持ち、他者のために行動できる本当の人間だった!』

カシュアナが顔を上げた。

『知ってるよッッ!私が一番わかってるッ!』

暗い電灯の下で、こぼれ落ちる大粒の涙だけがひどく浮かんで見えた。

その剣幕に思わず言葉が詰まる、フランマリウスにとって初めての経験であった。

『私さ、明日からロールパン売っていいよって言われてたんだ。自分で粉から選んで焼き上げまで1人でやったの。昨日のリハーサルのやつは、パヤラさんも美味しいって言ってくれた!』

カシュアナがトートバッグに顔を埋める。

『ホントはさ、今日言うはずだったのに『お兄絶対明日は焼きたて買いに来て、どんなに忙しくても!』って。なのに、もう言われちゃった。関係者だった私はもう一生食べ物に関わる仕事しちゃいけないんだって。面白いよね。なんで?なんでなの?私何したの?あぁぁぁぁーーーー!』

フランマリウスは、何度もテーブルを叩く妹にかけるべき言葉が分からず、ただ硬直したように立ち尽くしていた。

『店長さん、そのうち私にお店任せるとか言ってくれてたのになぁ…おやすみお兄。逆ギレしてごめん。』

老いた鶏のような足取りで部屋へと消えてゆく妹に、固まってしまった兄はついぞ一言もかけてやれなかった。

 

 

 

 

 

『おはようビキーラ君。なんだか具合が悪そうじゃないか。』

議事堂の廊下で声をかけてきたのは、昨晩決裂した壮年の下院議員であった。

『どうもおはようございます。情けない話ではありますが、少々寝不足でして。勿論、業務に支障は出ないよう努めます。』

壮年議員が腕を組む。

『それはそれは、感心感心。ところで、今結婚に興味は無いかい?』

突拍子も無い話題の転換に、フランマリウスの重い瞼がグッと引き上げられる。

『はぁ…結婚ですか?今は特段考えておりませんが…』

『ハハハ違う違う、妹君のことだとも。』

『………………………は?』

『甥が花嫁を探していてね、これは優秀な君と権威ある僕の繋がりを設ける、またとない機会じゃあないか。ことによっては昨日の無礼を忘れてもいいとさえ思っている。』

フランマリウスが口元だけで愛想笑いを浮かべる…本人は浮かべているつもりである。

『……………妹はまだ15です。なにより、私が妹の人生に口を出す権利などどこにもありはしませんし、そのつもりもありません。失礼します。』

『いいじゃないか。勤め先が潰れて御傷心なんだろう?少しでも紛れるんじゃないかな。』

急ぎ足で去ろうとしていたフランマリウスが硬直する。

『なぜ…それを…』

『君は本当に優秀な男だ、天与のカリスマと言ってもいい気質に、人心を正しく測る術を持っている。我等の党の理想的な広告塔となるだろう。』

『なぜそれを知っているのだっ⁉︎夫妻の名は出されたが、従業員の名は伏せられていたはずだ!まさか…貴方は…っ!』

男は大袈裟に首を傾げてみせる。

『おやそうだったかな、しかし人の口に戸は立てられぬものだよ。夢破れた彼女のこともいずれ知られるようになる。全ての口を消し去ることも、不可能ではないがね。』

その言葉に含まれるのは『間違えるなよ』のニュアンス。

『そうまでして…そうまでして、このフランマリウスを引き込みたいのか。』

『なんのことかわかりかねるが、君が欲しいというならそうだね。確か君は最初の質問の答えを濁したのだろう?それじゃあ上には行けない。たとえどれほど優秀な男だろうとね。』

男が肥えた手を差し出す。

それは、飢えてどうしようもない魚に差し出された、一筋の糸と擬似餌だった。

本能から食いつくように仕向けられた、明け透けな罠だった。

『なぁ、いいだろう?妹君が『蕾売り』に関わっていた、なんて知られたら君自身議会の敷居を跨ぐことも許されなくなるよ。仲良くしようじゃあないか。』

火を噴きそうな魂を抑え込み、フランマリウスは穏やかに微笑んだ。

 

 

 

 

『おはよーお兄…』

新聞を眺めていたフランマリウスがピクンと震える。

『お、おはようカシュアナ…落ち着いたか?』

昨日よりはずっと良くなったが、カシュアナの顔色は以前曇ったままだった。

食パンを一口齧って、バターの不足に気づいた彼女が樽の方へと向かう。

『うん、落ち込んでてもお腹は減るしお金は必要だし。毛織物工場で募集あるみたいだから行ってくるわ。』

『流石我が妹、タフだな。…辛くなる前に言うんだぞ。』

『ありがとお兄、そっちもじゃんじゃん泣きついていいよ。んじゃ行ってくるー。』

『…ちょっと待った。』

ドアノブに手をかけたカシュアナを呼び止める声があった。

『なに?お兄。』

短い沈黙の後、フランマリウスは満面の笑みを浮かべた。

『特に何も。お兄ちゃんはいつでもお兄ちゃんだからな!』

『はあ…?ま、行ってきまーす。』

静まり返った部屋の中で、フランマリウスはコーヒーをぐいと飲み干し、ネクタイを翻した。

『さて、行くか!』

 

 

 

 

 

サイレンシア共和国最大の反社会組織、サルバタージョ。

その力と威光は、フェスティバムの表通りに堂々と構えられた巨大な事務所の様相から窺い知ることができる。

その事務所の一角、南に向いた格別の部屋に大柄な男が君臨していた。

扉や本棚に施された金色のエングレーブ、大きく冠羽を広げた巨鳥の剥製…

決して悪趣味な豪奢ではない、しかし調度品の全てに細やかな意匠と深い背景がある、厳かな部屋だった。

男の名はロリータ・ファントム、この国の裏全てに名を轟かせる冷酷無比な無法の王である。

創立からわずか15年足らずで一つの裏社会全てを支配した、サルバタージョの絶対的象徴にして底の底からギャングに浸かった傑物にして怪物。

ただ座っているだけとは思えない、全身を刺すような気迫に、新入りの伝令係は心底萎縮しその評判の真を理解していた。

『い、以上!チーム・ヤビーからの報告です!』

『ご苦労だった。リーダーに英気を養っておくよう伝えておけ。』

男が仕事の証として届けられた耳の束をゴミ箱に投げ込み、報酬の小切手に押印する。

『もう一つご報告なのですが…現在下に訪問者がおりまして、あなたとの面会を求めています。』

ぐるりと王の目が動いた。

『表の馬車か。身元は?』

『それなりに社会的地位のある人物でして、もう判明しています。名はフランマリウス・ビキーラ、先日当選した下院議員です。加えて御者はパヤラ・スタルジョナ、訪問者の補佐官です。他にはいません。』

ロリータが部下の差し出した写真と議員登録証に目を通す。

鮮血滴る耳を見ても変化の無かった顔に、皺が寄った。

『殺せ。』

冷た過ぎるその声色を理解できず、部下の口から気の抜けた声が発された。

『へ?ぁ…』

『こいつの目は市民でも兵士でも、ましてや奴隷でもない。地の底に潜む魔物のソレだ。善悪を隔てなく食い潰すプレデターが我々だとすれば、こいつはそれさえ呑み込む災害。ソレが同じ舞台に上がった後、何が残る?答えは何も、何も残らん。勝者も、敗者も、舞台さえもだ。こいつは、なんとしてもここで殺しておかねばならん。』

男の眼光に赤黒い意志が宿った次の瞬間、建物全体が大きく揺らいだ。

『じ…地震!こんな日に限って…』

ロリータの首に汗が滲む。

『違うな、やはり最初からそのつもりだったか。』

ロリータが振動で落ちた灰皿を踏み割り、壁のパイプの蓋を引きちぎる。

『兵を全て動かせ!賄い婦もだ…侵入者は背広の男1人、身長は180センチ前後!サルバタージョの全霊をもって、この世から消せ。』

ロリータ・ファントムの勅令は張り巡らされたパイプを伝ってアジトの全てに行き渡り、場の空気そのものが殺意を剥き出しにする。

もはやそこは激昂した蟻の巣、侵入者が取れる選択は2つしかない。

1つ、中身を抜かれてどこかの下水に沈む。

そしてもう1つは…

 

 

 

 

『ウチの30倍は広い、いい家を構えていたんだな。特に、カーペットがいい。これ一枚でしっかりした馬車が買えそうだ。』

穴だらけになった事務所の一角、血染めのフランマリウスは椅子に浅く腰掛けたロリータと対面していた。

もう一つの選択肢、それは全員を返り討ちにし、最奥部の支配者に見えることである。

ロリータが両手を持ち上げ、パチパチと鳴らす。

『まずは賞賛しよう、どんなジャンキーでもやろうとさえしない愚行をやってのけた、その蛮勇と力量を。そして問おう、何をしにきた?』

200人近いギャングと休み無く戦ったフランマリウスは著しく消耗していた。

その立ち姿からも蓄積した疲労と負傷の度合いが容易に窺える。

明らかに満身創痍の一歩手前だった。

しかし男はネクタイを整えながら、世間話でもするかのように目を細めながら言った。

『1つ、国でも滅ぼそうと思ってな。お誘いにあがった次第。』

『なるほど気狂いか。手に余る。』

ロリータが背もたれに椅子を預け、頭に手を当てる。

『それで?きさまの望みはなんだ?聞いてやる。』

『心配するな、そう難しいことは言わない。ひとま…』

フランマリウスの胸がパックリと裂け、同時に喉から血が噴き出した。

誰も何も無かった空間から、2つの人影が現れていた。

フランマリウスが呻き声1つ上げずに倒れる。

『何も与えんがな。紹介しよう、シェル・アリアとドー・ウィルホンだ。覚えて逝け。』

鉄扇を携えた振袖の女と槍斧を構えた猿人の男が、冷たい目でフランマリウスを見下ろしていた。

王座を守る特大の伏兵に集られた侵入者は、何か言いたげに手を伸ばし…血も凍りそうな笑みを浮かべた。

『やっぱ、そっちの方が通じるかぁ⁉︎』

明らかに致命的だったはずの傷がギュッと塞がり出血が止まる。

筋肉の異常な緊張が成せる、強引な応急処置だった。

身の毛もよだつような人の業を見てきたサルバタージョの重鎮達が、呼吸を忘れるほどの戦慄を覚えていた。

『何者だ、きさま…』

『自己紹介が遅れ、誠に申し訳ない。フランマリウス・ビキーラ下院議員、気軽にフラムと呼んでくれていい。さぁまずは踊ろうぜ、互いの共通言語でな。』

 

 

 

 

砕けた壁の向こうに横たわるシェル、ダウンから5分が経過しても彼女が起きる気配は無い。

そして今、槍斧を握ったままドーが意識を失った。

敗北を喫してなお、主君の前に仁王立ちしていた男を大きく迂回し、フランマリウスはロリータの前に立つ。

ロリータは既に上着を椅子に掛け、戦闘体勢に移行していた。

『流石に良い部下だな。我が見識の中でも5本指に入る強さだった。シェル嬢のアシストも一々的確だ。』

『武人気取りか?その余裕、癪に障る。』

『フフフ、噂に名高きジャックデンプシーの喧嘩小僧、その腕前とくと拝見しよう。』

フランマリウスがついと背を反らせば、拳が鼻先を掠める。

カウンターとして合わせた一蹴は、吸い込まれるように男の胸を打った。

奥義『グゼリ』、一時的な心室細動を誘発し敵を全く無力な存在へ変える一撃である。

しかし男は止まらない。

一瞬目を見開いたものの、引き起こされた不調を全く意に介さず、逆の拳をフランマリウスの鼻っ柱に叩き込んだのだ。

男が次に叩いたのは砕けた壁だった。

中から引き摺り出した電線を己の胸へと押し当てる。

『がうぐぐぐゥ…なるほど奇妙な技だ。想像の及ばぬ領域だ。だが、同じものは受けんぞ。』

フランマリウスの額に汗が滲む。

『ッー!グッドだ、燃えてきた。』

 

 

 

 

 

足先から伝わるぐにゃりとした不快な感覚、吼え顔を庇うロリータ。

確実に潰した、左だった。

『追撃させてもらうぞっ、覚悟はいいかロリータ・ファントム!』

ロリータはなんとか相手を捉えようと目を見開くも、フランマリウスは既に左側へと回り込んでいた。

男は視認を捨てる判断を下した。

歴戦の勘に従って防御体勢を取る。

しかし15分にもわたる攻防の中で、2人は互いの戦闘におけるクセを理解していた。

それは無意識下に存在し、修正しようとしてもどうにもならないもの。

故にロリータ・ファントムは、その一撃をまともに受け、そこで戦いは終わるはずだった。

何万回と繰り広げた戦いの経験が男に『チェックメイト』を伝える。覚悟はできていた。

 

シェル・アリアが笑みを浮かべ、再び気を失う。

鈍く轟いた銃声、それはサルバタージョという強大なイタチの最後っ屁であり、ロリータ・ファントムが築いてきた力の結晶が、最後に上げた咆哮だった。

体勢を崩したフランマリウスの腹に重い前蹴りが突き刺さる。

『感謝するぞッ!シェル・アリアッ!』

男が吼え、流れは変わった。

 

打つ方も打たれる方も息ができないような連撃。

もはや互いに相手は眼中に無かった。

ただ手足を動かし、この時間を生きるのみ。

痙攣する肺の痛みに震え血反吐を吐きながら、ロリータは組織の長に収まる以前の、熱く鋭利だった己を想起していた。

酸素不足で霞がかった意識に、浮かんでは消える追憶のキネマ。

チカダイ湾の青く豊かな海が、魚のワタが好きだった父が、はぐれ者の救済を目指して盃を交わしたあの夜が、当時最大の裏組織を潰し勝鬨を上げた日が、つらつらと流れていく。

思い返せば口も、拳も、あの時の方がキレていた。

なぜならそこには果たすべき大義があり、力を振り下ろしたい確かな対象がいたからだ。

久しく立ち会っていない、骨の髄まで沸き立つような強敵が、男の熱を呼び覚ましていた。

(いつからだ…いつからこのロリータ・ファントムはただの無法者に堕ちた?誰とも交われない乾いた人間を拾う大義を捨て、サルバタージョを陳腐な犯罪集団にしたのはなぜだ?)

自然と湧き上がる原点回帰の探究心。

男は巡る追憶の中に答えを見た。

それは、己の血を分けた愛しい赤子が生まれた日。

同時に産院が襲撃を受け、男が弱点を自覚した日でもあった。

それから、男と組織は変貌した。

何者ももう家族を脅かせぬよう賄賂を流し、怪しい動きはその真意を確かめることなく徹底的に潰した。

更なる財のため、麻薬を流し外道の手で土地を奪った。

己の名が恐怖の象徴となるよう、信念無き力も数えきれない程振るった。

いつしか男は、椅子の上から全てを支配し、完成された組織を作り上げていた。

救いたかった者達は、そこでは良くて鉄砲玉か、快楽の虜となったお得意様だった。

反旗を翻したはずの腐敗した社会に、自ら果汁を注いでいた。

咆哮と共に事務所の一角ごと敵を殴り飛ばしたロリータ・ファントムは、1人ポツリと呟いた。

『何だ、俺』

『いいな、人間って感じだ。』

フランマリウスが宙を舞っていた。

いや、正確には大気そのものを足場としてロリータ・ファントムの部屋へと舞い戻ってきていた。

『き、きさまは人間か…⁉︎』

フランマリウスが空中で体を捻る。

『勿論、家族を愛し隣人をそれなりに愛する、人間さ。まだあんたが腐ってなくて安心した。奥義『迷い鳥』。』

互いの距離は実に10m以上。

しかしロリータには見えていた。

フランマリウスの左足から撃ち出された衝撃の塊が、何度も進行方向を変えながら迫る揺らぎが。

身を引こうとしてみても、呼吸を忘れていた体は硬直し言うことを聞かない。

最初のヒットは横隔膜、まず呼吸が奪われた。

体を通り抜けた衝撃はそのまま背後で折れ曲がり、延髄を叩く。

もはや体の制御はできない。

右手首・左腎臓・右膝・右肺・下顎・左三半規管…ロリータ・ファントムは、付きまとう衝撃の檻に囚われていた。

全身を打たれ意識を失う直前、狭くなった男の視界には、血みどろで地獄から来た悪魔のようなフランマリウスの姿だけが焼きついていた。

 

 

 

 

(何分だ、何分眠っていた…?)

ロリータが目を覚ましたことに気づいたフランマリウスが、もたれかかっていた壁から背を離す。

『ハッピーバースデー、ちょっと借りてるぞ。』

和やかに語りかけるその手には、壁に飾られていた直剣が握られていた。

未だ四肢に力の戻らないロリータの首に直剣が当てられる。

『あんた方の決着ってのはこれでいいのか?別の作法が必要なら教えてくれ。』

『殺せ。俺の…いや、サルバタージョの負けだ。ロリータ・ファントムが認める、これで十分。証人が必要なら下の運転手を呼んでもかまわん。』

フランマリウスが剣を崩壊途中の壁に戻す。

代わりに、瓦礫の中から骨組みのあちこち飛び出たソファーを引きずり出し、腰掛けた。

『そっちも座れロリータ・ファントム。既に硬直は解いてある。』

気づけば、手足が動くようになっていた。

『憐れみなど俺は受けん…いや、違うか。』

重い体をなんとか椅子の上まで持ち上げる。

丁度天井が崩落し、2人の間に落下する。

何の啓示か、円卓のような形になった瓦礫を挟み、一国の表裏が向かい合う。

『茶の一つも無いのは悲しいが、これから征く隘路を思えば甘口の洗礼かな。さぁ、明日の話を始めようか。』

クッションに深く腰を預け、足を組んだフランマリウスは不敵な微笑みを浮かべていた。

 

 

 

 

『まず言い切っておこう。このフランマリウスの最終目標は、王無き国。差し当たってそちらにやってもらうのは、俺を大統領にすることだ。』

ロリータ・ファントムが額に手を当てる。

『大それた男に目をつけられたものだ。この国をサバンナにでも変えるつもりか?』

『何も無道の集団を作ろうってわけじゃない。欲しいのは、民衆が己自身で国の在り方を決められる体制だ。君主的な役割は残すにしても、象徴としてある程度のな。』

『愚かな。歴史を動かすのは、1人のカリスマだぞ。衆愚が幅を効かせる国など、10年後には地図から消える。』

フランマリウスが深く頷く。

『才人の必要性は間違いない。だが、歴史を動かすのがそいつなら、積み上げるのは常に人々だ。膨大な経験則と集束した知性は、安定してベターを選ぶ。』

『経験と知性か、この国の対義語のような言葉だ。理解しているか?連中は今だけを見ている。浅ましく短絡的な生き様でな。故にそれをやるには、ノイズにしかならん思考が多すぎる。』

フランマリウスが手を広げる。

『だから変えるのさ、根底から。意思と教養を等しく配れば、深慮のある者は増え、あんたの言う才人もより出てくる。』

『その空想を世が受け入れるのに、何十年かかる?何兆コンスが湯水と消える?それが国のモーターたる特権階級に理解されると思うのか?』

『だからとりあえず立場と後援を手に入れるのさ。…とある異国には山道を行く者に空腹を齎し行動を奪う魔物がいて、猟師や行者は対策として常に食糧を一口分残しておくという。現代医学的には低血糖がその正体だと言われているが…その解明以前、既に彼等は知識を見つけ遭遇に備えていたわけだ。無数の経験からヒントを得て。知識はランタンなんだ、それが正解かは知るべくも無いが、少なくとも道は照らしてくれる。我々は蝙蝠や梟じゃない。全くの暗闇では道を選ぶことすらできないからな、違うか?』

少しの沈黙の後、ロリータが口を開いた。

『きさまの主張は理解した。元より我々は敗者、きさまに首を垂れて膝を突かねばならないことには相違ない。まずは4年後、上院の選挙に向けて…』

フランマリウスが手を振る。

『そんなまどろっこしいことしてられん。子供を外れ値としても、この国の平均寿命57だぞ?あんたもこっちももう半分過ぎてる。やるんならストレート、一年後には大統領公邸のバルコニーでティータイムだ。』

ロリータの目に呆れの色が浮かぶ。

『通例の無視は余計な反発を生むぞ。そもそもきさま、現大統領の任期がいくら残っているか知っているのか?』

『ああ、だから適当な弱み使って、辞めさせるなり弾劾するなりしよう。ネタはこっちで調達してもいいが…あんた方のことだ、幾つか握ってるだろう?』

『気軽に言ってくれる…どれだけの敵を作るつもりか。』

苦言を呈しつつも、不可能とは言わない辺りが国内一の裏組織たる所以である。

『頼もしい返事だな。それじゃあまず…』

突如、外れかかっていた部屋のドアがぐにゃりと歪んで横にずれる。

その向こうには肩で息をする少年がいた。

破壊されきった部屋の中、堂々と腰掛ける侵入者、少年は瞬時にその意味を察していた。

『何やってんだよオヤジィ‼︎』

少年の顔がナイフでも突き立てられたかのように歪む。

『護衛は…また出し抜いたか。下がっていろレディース、きさまの出る幕だと思うか。』

『出るとか出ないとか、そんな話じゃねぇよ‼︎何で、オヤジの組織にケンカ売ったそいつが!まだのうのうと息吸ってんだよぉ‼︎』

少年の目尻は熱く潤み、声はポトポトと落ちていきそうなほど震えていた。

『…今はこの男と話している。部屋に戻って、鍵をかけていろ…』

『うるせえぇぇぇ!認めるか、認めるもんかんなことぉ!おい!この小汚い侵入者!おれの名はレディース・ファントム!闇を統べる偉大な王の子だ!正々堂々勝負しろっ!』

フランマリウスが首だけを回して背後を見やる。

両手でクロスボウを構えた少年は、赤が混じり霞んだ視界の中でさえわかるほど、震えていた。

フランマリウスの変化を感じ取ったロリータが椅子からずり落ちる。

『やめろ…無知なガキ相手に何を本気に…』

『本気?本気なのはお宅の御子息もだろ?ありゃあ撃てる目だ、確実に憎い敵を倒すって目だ。本気には本気で返すのがマイルールなんだ。よく狙えレディース・ファントム、ただしその指を引き金にかけた瞬間、己の頭蓋骨は卵のように砕け散ると覚悟しろ。』

滝のように流れ落ちる汗が眼球を伝っても気づかない程に、少年は緊張していた。

制御不能に上がり続ける心拍数は限界を叫び、両の鼻からはサラサラとした血が流れ落ちていた。

歯の根が合わないほど怯えながらも、少年は叫ぶ。

それは己の誇りに対する激励であり、この世への離別宣言だった。

 

『やめろっやめてくれ!俺はお前まで失ったらもう…!』

そのとき、レディース・ファントムの自刃を止めたのは、這いずりながら裏返った声で叫ぶ父親の姿だった。

『オヤジ…?』

見たことの無いくしゃくしゃの顔で、下衆の侵入者の足元に伏せるその姿は、少年が願望を抱いていたある種の理想的で絶対的な強者のビジョンとかけ離れていた。

男を知る者は言うだろう、あれはロリータ・ファントムという男ではないと。

男をより深く知る者は目を伏せて言うだろう、あれがあれこそがロリータ・ファントムであると。

レディース・ファントムがどっちに当てはまるのかはわからない。

しかし、少なくともその光景は少年のギャングスター幻想を、粉々に打ち砕いた。

光も音も恐怖も、その場にあるものの全てが受け入れ難かった。

何もかもが停止した少年の首に細い腕が回されたのはその直後だった。

『無礼を致しますっ、若!』

何とか意識を取り戻していたシェルが、背後から少年の頸動脈をギリギリと抑え込む。

やっと動いた左腕と、振袖を裂かんばかりに噛み締める口で成った、極限のチョークであった。

一瞬もがき、首を締め上げるものに手を伸ばそうとしつとしたとした少年であったが、結局何にも触れることなく体の力を失う。

フランマリウスがパチパチと拍手を送る。

『良い部下だ。レディース…なるほど、ビルのそこかしこにあったスタチューは彼の作品か。一部は壊してしまったが…どれも作り手の豊かな感受性が窺える、素晴らしい作品だった。故にもったいないなぁ。』

ロリータが再び椅子に這い上がる。

『勝者に世辞は必要無い。嫌味で言っているなら話は別だが。…もったいない、とは?』

フランマリウスが前屈みとなり腕を組む。

『あれほどの腕前なら、ひとかどの彫像師として羽ばたく目があるだろ?なのに、この国は美へのセンサーが錆びつき過ぎている。』

『…そうだな。』

『アートってのは精神的に富んだ社会に必須のものだ。せっかくだし手始めに美術館でも造ろうか、どうせならスカルノーズ財団あたりのビッグネームと提携したい。』

『裏金か?』

フランマリウスが笑みを漏らす。

『発想が乏しいぞ闇の旧主。物々しい手回しは必要無い。ただ裏に出回ってる美術品や古代遺物を回収し、正当な学術機関で管理することさえできれば良い。この国に集まる宝の価値を、連中が気づかないわけが無いからな。こいつは4年以内の招致を目標としよう。』

フランマリウスの言葉は、雲を掴むような理想論ばかりだった。

しかしそれが、聞かせる力と希望の暗示を伴っているのだから恐ろしい。

『どうだ?御子息の夢、応援させてはもらえないか?』

『口から先に生まれたらしいな、きさまは。くだらんマネをせずとも、腹は決めている。』

『失礼、では差し当たり…この写真の男を始末し、その1週間後に体のどこかをこの住所へ送ってほしい。』

差し出されたものに写っていたのは、ロリータの知らない青年だった。

表裏問わず社会に大きな影響のある人物であれば、男はその名前と顔と弱味を把握している。

故にその見知らぬ青年1人の始末という行為の意味を測りかねていた。

『残酷趣味だな。…この男を生かしておくデメリットは?』

『国が消える。歴史にすら残らないかもな。』

ハッタリにしてはあまりにあっけらかんとした言葉で、その突拍子もないスケール感が逆に発言の真実味を補強していた。

『メリットは…そうだな、十数人の雇用が生まれることか。彼等も命は危ういが。』

『…理解した。請け負おう。』

『ありがとうよ、結果は後で教えて…く…れ…』

一息吐いたフランマリウスがそのまま体勢を崩し、ソファーの横側に倒れ込む。

その背広と背もたれは一面が赤黒く染まっていた。

崩壊した天井からの陽光に照らされたフランマリウスの顔には大粒の汗が浮かび、肌は不自然に乾いた土気色をしている。

背広に丸く開いた銃創の位置はちょうど腰の中心だった。

フランマリウスの手袋から飛び出した何かが、ロリータの横をすり抜け窓へと飛び立つ。

オクリカンターヴィレ、小型で飛行距離は短いが、長時間の録音が可能なタイプであった。

つまり、そこに記録されているのは襲撃の一部始終と先程の会話内容…裏におけるサルバタージョの権威を一瞬で崩壊させる情報だった。

送り先であろう馬車が遠ざかってゆく音が聞こえる。

『これみよがしに…どこまでも心中のつもりか…』

ロリータが目線を下に戻す。

死んでいないだけ、のような状態に陥って尚フランマリウスの顔は微笑んでいた。

 

 

 

 

 

 

鳥の声で静かに目を覚ます。

(これは…「ナガオマメノキムシクイ」の雄か。ウチの庭でよくリスと餌を取り合っている…)

ボーッと窓を眺める患者に看護人が気づいたのは、それから12分も経ってのことだった。

『センセイッ!議員が!ビキーラ下院議員が目を覚まされましたァ!』

フランマリウスとロリータの密談から、6日後のことであった。

 

 

『何してたの、お兄ちゃん。』

少しやつれた妹からのか細い質問、フランマリウスは少し返答に詰まる。

『あー、強盗に撃たれてな。ムカつくが、災害に遭ったと思って耐えるしかない。後腐れも無いよう、犯人もキッチリやっつけてやったしな。かる〜いケガだってのに医者が心配性でさ、お陰でこんな大袈裟な…』

フランマリウスは漸く気づいた。

妹から静かだが怒りに満ちた気が漂っている。

彼女が産まれて落ちて15年、一度も現出したことの無い激情がそこにはあった。

『お兄はいつもそうだ。私に何か隠す時、いっつも笑顔で固まる。お兄はさ、私のことなめてるの?まだ何もできないと思って、猫をあやすみたいにしてるの?私たち、たった2人の兄妹なんだよ?いい加減にして!…ごめん、早くよくなってね。』

ドアノブを引きちぎらんばかりの勢いで病室を出た彼女を、フランマリウスは引き止めることもできなかった。

『情けないなフランマリウス、兄貴なら足元に気をつけるんだぞ、とでもいってやれよ…』

痛いほど喉が渇いていた。

 

 

 

 

 

『随分と待ったぞ。1時間と24分、それだけの時間大声で泣き続けるとは、きさまの妹はバンシーか?』

『初めて兄妹喧嘩しちまった。…もうしのう。』

フランマリウスは、この世の終わりを何度も見たかのような顔色で項垂れていた。

『縁起でも無いことを言うな。ここは病院だぞ。…足は動くのか?』

『やはり知ってたか。』

『当たり前だ、浅はかなウソを吐きやがって。ここはサルバタージョの支配下だぞ。アクセス不可の情報は無い。』

フランマリウスが足をポンポンと叩く。

『要約するならば、半永久的な麻痺状態だそうだ。リハビリという手はあるが、そこに数年を注ぐってのは悠長だと思う。とっとと就任して、大統領権限でガトリング付き車椅子でも作ってもらうかな。』

『勝手にしろ、一生議会に入れなくてもいいんならな。…嫌な縁だ。』

フランマリウスがクスクス笑う。

『そりゃお互い様、10日前の自分が聞いたら下手な冗談だと笑うだろうよ。ギャングと手を組むなんてな。そういえば、最初の依頼はもう済んだか?』

『襲撃者の言い草かそれが。…件の男なら既に始末した。しかし、奴が何を握っていたのかまったく掴めん。完成されたサルバタージョの情報網でだ。聞かせろ、何故青年を始末し、あまつさえ親戚の元に送りつける必要があった?』

フランマリウスが満足げに頷く。

『ありがとう、胸のつかえが1つとれた。理由か、まず彼自身に何も落ち度は無かった。むしろ、国に欠かせない熱意と能力を兼ね備えた、稀有な若者だった。』

『尚更理解できん。きさまは俺の目を再び覆うつもりか?』

『彼はな、妹と婚約しかねなかったんだ。当人達の意思を無視する形でな。だから、下院の有力者である叔父上への牽制も兼ねて消えてもらった。』

フランマリウスが残念そうに目を伏せる。

『………は?』

『あんた方にも踏み込んでもらった以上、隠し事は抜きにしよう。本当はな、国の幸せだとか発展だとか、全部どうでもいいんだ。願いは1つ、我が妹カシュアナが幸せに生きられること。あらゆる危険から遠ざけられ、自由に働き食べ恋をし最後に『ああ、今日も楽しかった』と言って眠りにつく。…それだけだ。それさえ叶うなら国が無くなろうが、何百万人死のうが知ったことじゃない。』

淡々としたフランマリウスの口調は、そこに一切の偽りが無いことを示している。

『バケモノめ、御者の行方がわかればすぐにでも始末してやるものを…』

たった1人の人間以外を視界に入れていない言動。

おそらく、今この瞬間ロリータが死んだとしても、この男は冷静にナースコールを押し、何事も無かったかのように次の方策を考え始めるだろう。

どうやってこの男が社会に溶け込み生きてきたのか、数多の人間と関わってきたロリータ・ファントムでさえ読み取ることができなかった。

『後味の悪い勝ち方は人生に残り続けるぞ。安心しろ、少なくとも今はこの国が栄えた方がカシュアナにとっていい。』

『…このロリータ・ファントムも焼きが回ったか。こんな狂人の片棒を、組織ぐるみで担がされることになるとは。』

男は戦慄していた。

今ある全てを崩壊させかねない、狂人の計画に関わらされているというのに、湧いてくる感情に歓喜が混ざりつつあることに。

そして、その感情を自然体で誘い出しているフランマリウスという男の言葉に。

『どうせもう止まるものでもないんだ。楽しもうぜ、動乱を。揺り起こそうぜ、熱情を。ここが俺達の創世記、新たなる誕生、その1ページ目だ。』

柔和な笑顔の悪魔が手を差し出していた。

『ッ…やるんなら徹底的にやれ。演じろよ完璧な指導者を。信じろよ民の光たる己を。妥協は許さん。』

危険な香りは絶えずとも、その手を掴む以外に道は無かった。

組織を守るため…何より1000年後の貴方のために。

 

 

 

 

 

それらのニュースは瞬く間に世界を駆け巡った。

 

大手国際海運会社「レザーバック社」事業縮小、海上輸送法に基づく大規模摘発の影響か。

盗難された美術品が続々発見、スカルノーズ財団が賞賛の声明を発表。

そして異例中の異例、サイレンス共和国に下院出身大統領誕生。伝統に反する選挙結果に国内紛糾。

 

『ふむ、いい狙いだ。大抵の者はどれほど精巧な銃を持っても、撃つ瞬間に理性の呵責がよぎって手を震わせるものだが、君はそれを強靭な精神で抑え込んでいた。尊敬に値する。』

大統領就任演説のその日、主役たるフランマリウスは飛び出してきた襲撃犯と対面していた。

左肩より少し上、車椅子の背もたれに開いた穴は銃弾との摩擦で少し焦げている。

『ごちゃごちゃうるせえ!よぐも、オラの仕事奪いやがったな。あんなクスリでも売らなきゃ生きてけないってのによぉーー!』

黒服のボディガード達を手で抑えつつ、大統領が少し車椅子を動かす。

『それはすまなかった。時に、君はその売り物がどうやって作られているか知っているかな?』

『しるかボゲッ!オラが無学だってバカにしてんのかッ!』

大統領が襲撃者の口を指差した。

『無学の自覚!それだよそれ!古代チャンカニヤの偉大な哲学者は言った、『真の幸福とは無知を知ることである』と!さっきの問いに対する答えは、原料となる植物のエキスに数回の化学的処理を施すこと。栽培テクニックも処理過程も確立された、簡単な技術だ。これを知っているかどうかで、得られる金は3ケタも違ってくる。』

大統領が集まった聴衆の何人かを指差す。

『君も…それから君もだ!知ることで道は変わる!変わることで未来を想える。さあ、明日はどうしたい?明後日は?来年の復活祭は?愛すべき勤勉なる者達へ、配ろう知恵を、齎そう思索を!このフランマリウスが目指すは、誰もが今日のディナーを心配することの無い日々、明日のランチに思いを馳せ子供と一緒に遊園地で過ごす休日を描ける日々だ。』

車椅子が講演台の縁で止まる。

『燃えようぜサイレンス、この国の全てが比類無き果敢な開拓者だ!』

風の音さえ止んでいた、繁殖期の鳥さえ傾聴していた。

雲の流れる音さえ聞こえそうな静寂の中、1人の民衆がポツリと呟いた。

『ビキーラ…大統領……』

釣られたように数人が同じ言葉を繰り返す。

つぶやきはざわめきへ、ざわめきはどよめきへと膨れ上がってゆく。

気づけば一丸となった民衆の声が、周囲の大気すら震わせていた。

『ビ・キ・ラ!ビ・キ・ラ!ビ・キ・ラ!』

圧倒的な声量の前に、銃を上げることすら忘れてしまった襲撃者の目と鼻の先、いつのまにか大統領は懐へと入り込んでいた。

『軍はいつでも人手を欲している。任務は苛烈だが、君も家族もキッチリ生きていけると約束しよう。いかがかな?』

涙を溢した襲撃者が銃を捨て、大統領の前に跪く。

名も無き記者はただ感銘の元にシャッターを切った。

それは後の世に、サイレンスの夜明けと呼ばれる10年間を象徴する一枚となった。

 

 

『しっかし、キミねぇ。場所を間違えてるよ。ここは大統領護衛官の試験場、決してシティガールの遊び場じゃないし、そもそも護衛官任務には5年以上の軍役経験が…え?じゃあ従軍試験だけでも受けさせろだ?はぁ…いいけど結構厳しいぞ?』

その後、試験をなんとか突破した少女は異例の速度で実力を高め、特例として4年で大統領護衛官の職に就くことになる。

少女の名はカシュアナ・ビキーラ、大統領がその事実を知ったのは、彼女が就任した後のことだった。

 

 

『あのクソ野郎が大統領になったか…』

暗い部屋の中、少年はブラインドの隙間から差し込む光で新聞を見つめていた。

その一面に載る写真では、少年のよく見知った男が大統領に首を垂れている。

『コイツはオヤジの親衛隊の…とことん汚ねぇ奴だ。こんな三文芝居(プロパガンダ)で馬鹿どものアイドルになりやがって…』

少年の手の中で、深海魚のように変形した花瓶がくねくねと蠢く。

少年の心に暗い火が灯った。

新聞の写真を深海魚が食い破る。

『こんな卑怯でくだらねえ奴は始末しなくちゃあな…そして、弱くなったオヤジも。いつも輝いていた誇り高いオヤジはもう死んだんだ。欠伸が出そうな古い時代と一緒に…纏めて弔ってやる‼︎』

陶器の深海魚が激しくのたうち、自ら壁に突撃して砕け散った。

少年の名はレディース・ファントム、その後7年間に渡って漆黒の感情を殺し、サイレンス共和国に大災を巻き起こそうとすることになる。

『待ってろよオヤジ…とびきりの墓碑に、苦艾の花を添えてやる。』

創世記はいつだって、貴方のために紡がれていた。




フランマリウスとカシュアナは元々僻地の移民村出身ですが、村が野盗団に滅ぼされたので逃げてきました。
なんだかんだタフな兄妹です。

登場人物

パヤラ・スタルジョナ
今回の時系列ではサルバタージョの弱みを持って国外に逃げている。
2年後に帰国し、現在は上院書紀。

フランマリウスの恩師
大きな流れに乗ることができなかった、上院の木端議員。
教え子の狂気には気づいていたが、何も言うことは無かった。
象徴を選ぶのは民の総意なのだから。

下院の有力議員
小物オブ小物。
現在は完全に肝を潰されてフランマリウスに媚び続けている。

ドー・ウィルホン
ロリータ・ファントムに強盗を仕掛け、なんやかんやでその親衛隊に収まった男。
絶対の忠誠を誓ってはいるが、意外とヒマなのでよく空を眺めている。
骨煎餅がきらい。

用語集

シャイナー・ワイン
サイレンス共和国シャイナー湾に面した地域で製造される赤ワインの総称。
製造量がとにかく多く、当たりの樽を見つけるのが難しい。

ナガオマメノキムシクイ
サイレンス共和国フェスティバムにおいては夏鳥に当たる小型の鳥類。
繁殖期の雄以外、尾羽は言うほど長くない。

レザーバック社
密輸で大きな利益を上げていた貿易会社。
サイレンス共和国に拠点を置き絶大な財力を誇っていたが、現在は中規模程度の企業に収まっている。
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