本日天気は晴天、しかしそれはジュラの気分が良い理由では無い。
ジュラの精神コンディションを決定づけているのは、いよいよ明日に迫った給料日の存在である。
この浮かれたジュラ・パズズは、卑しくも魔界の王子という立場だ。
幸運なことに、それは望んだ物大抵が与えられる身分だったし、ジュラ自身もそれに慣れきっていた。
しかし明日は、地界にて持たざる者となったジュラ自身の奮闘に対し、初めて有形の対価が渡されるという記念すべき日となるのだ。
…非合法のストリートファイトで集めた賭け金を除けば、だが。
与えられる者から掴み取る者へ、その実に偉大な一歩には内から込み上げるものがあった。
今日くらいは、鼻唄なんて歌いつつ仕込みをしても良いだろう。
理解とまではいかないが、ようやくその存在を許容できるようになった食材を捌きつつ、足でリズムを刻み始めるジュラ。
楽しげな気配を察知したか、カウンターの向こう側からイオンが顔を出す。
『ふへへ、ご機嫌だねジュラ〜』
『わざわざしゃがんで来たのかー?ちゃんと仕事しろよなイオン。』
『はーい、でも夜の間にアヤカシさんが全部終わらせちゃったらしくて。』
奥で食材の具合を確認しているアヤカシの方へ目を向ける。
表情から寝不足や体調不良の兆候は窺えない、だって鉄仮面だから。
『…ホントに大丈夫かよあの人。マジに正規のスタッフ増やさないと、あんまり残酷だぜ。』
『心配だねー。コトネさんに言ってみようかな。』
その必要性は大いにあるだろう、本人は『コトネさんに焦がれるライバルを増やす⁉︎正気じゃない!』と面倒なことを言うだろうが。
『まー…そんでもまだ様子見でいいんじゃねーかな。コード卿とおんなじ体質なら、疲れとかどうなってんのか想像もつかねーし。いよいよヤバそうだったら俺が気付けると思う。』
『わかった〜私もなるべく気をつけるね。…ところで!明日貰えるお給料、いくらになるか試算してみたんだけど、知りたい?』
実に耳寄りな話である。
『さっきからその話をしに来ました、って顔だな。いいぜ聞きましょう。当然興味津々!』
『いくよ〜、まず基本が日当6万コンスで、それが15日分でしょ。さらに、『お天気悪くて大変ですけど頑張ってね手当て』とか、『遅くまで働いてくれてありがとうございます手当て』とかを付けて〜〜一人当たり102万5900コンス!』
文字通り桁外れの金額を提示されたジュラであったが、意外にも絶叫し喜ぶ気にはなれなかった。
『…なんか、やっぱ怪しすぎるよな。いやまぁハナから承知でマルつけたけどさ。』
『だねー、どこからお金出てるんだろ。』
『まさかアヤカシさん、通貨偽造とかやってねーよな…いざとなったら普通に完全複製できそうなのがなぁ。』
ジュラは地界の法に詳しいわけではないが、それでも経済への侮辱が重罪であることは察せられる。
何せ魔界では処刑対象だった、こちらでもきっと似たような処罰が下るだろう。
『よう、朝っぱらから面白え話してんな。偽造(つく)んのか?幾ら?』
のそのそと現れたライコも、今日はどこか上機嫌だ。
『んなわけ。俺たち待望の給料の話してただけだよ。』
『うんうん、ライコくんの場合だと、『不審者逮捕ありがとうございます手当て』ってのが付くらしいから、112万5900コンスかな。』
寝起きで半開きだったライコの目が、途端に爛々と輝きだす。
『マジにそんだけ出んのか⁉︎ウォォ!リターンしやがれパーム・コーパルゥーー!』
『不審者を使い回すものじゃないよライコ。にしても、驚くべき金額だね。既にちょっとした船くらいなら買える額面だよ。』
『うん、前の大当たりもあるし、もう出発してもいいかなぁ。ライコくんはどうする?』
ライコが腕を組む。
『ここで半年ぐれぇ稼ぐのも手だな。…まぁもう発情期共のノロケ見たくねぇし、タライロンへ戻るか。』
『わかった〜そんな感じでコトネさんに相談してみるね。』
イオンが去り、給与を皮算用し始めるライコとカブウ。
その幸せな空間に絶望で満ちた眼を向ける過労者一名、ジュラはその存在を意識の外へ追いやることで対処に成功したのだった。
『みなさん、話はお聞きしました。わたしには旅立たれるみなさんを止める権利はありません。ただ、無事をお祈りするばかりです。ですが、わたしたちには新しいお手伝いさんを探す時間が必要です。どうか、後2日間だけ力をお貸しいただけませんか?』
『頼むよ〜〜おれを助けると思って!な?』
アヤカシの叫びは悲痛であった。
『そういうことなんだけど、ジュラとカブさんはいい?』
『要は明後日までに次のバイト収穫するから、それまで居てくれって話だろ?別にいいぜ、てか元々1週間は勤めなきゃって気でいたんだし。』
『ウム、むしろこちらがスピーディな対応に感謝したい所存です。微力ながら出し切りましょう。』
アヤカシが地面にぶつけそうな勢いで頭を下げる。
『感謝感激の至りだぜおれはぁーーーー!ああ、輝いて見えるっ。コトネさんがっ!』
Dが呆れたように眉間を押さえる。
『愚かな、いつでもそうだろう。』
仲良く取っ組み合いを始めた2人を尻目に、ノリスケがバイト組の法へ歩み寄る。
相変わらず迫力満点のデカさだ。
『ありがとう、よくこちらの都合に合わせてくれた。給料日翌日の分は2倍で計算してお渡しします。』
『そりゃありがたい話ですけど、太っ腹すぎやしません?この店傾かないですか?』
『若者の遠慮など、毒でしかない。可愛がられていると思って、受け取っていただきたい。』
給料の怪しさとは対照的な、なんとも安心したくなる声色だった。
コトネが手を叩き、場は静粛を取り戻す。
『朝のミーティングはこのくらいにしておきましょう。みなさん、今日も1日、元気に頑張っていきますよ!』
元気の良いものから欠伸混じりのものまで、7人分の返事が響き渡った。
『ジュラ〜』
『4番と5番、あと11番の皿なら左から順に並べてある。気をつけて持ってけよ。』
『ジュラ、忙しいところにすまないが、泣いてる子がいるんだ。俺が幾ら聞いてもうずくまるばかりで。』
『それ、カブさんが怖いだけなんじゃ。…そういうのが得意なのはイオンだな、向こうに居るし呼んできなよ。』
『…何やってんだライコ。』
『怪しげなビン持ってる奴がいたんで、捕まえてきた。こいつ1匹で10万コンスだぞ!』
『匹言うな。後、それ多分牛乳売りだ。』
ジュラが額の汗を拭う。
空調設備はあるものの、数時間炎(今日はレモンイエロー)にほど近いキッチンに閉じこもりっぱなしというのは堪える。
『すみませんアヤカシさん、ちょっと涼んできていいですか?』
『おーう、倒れる前に休んどけよ。丁度今なら裏口出たら日陰だぞ。』
『んじゃ、ありがたく休憩いただきまーす。』
すれ違ったコトネに会釈し、裏口のノブを捻る。
すぐ側に備え付けられたベンチに腰掛け伸びをすれば、足の関節が鳴る音が聞こえてきた。
(今日はちょいと忙しいな。まぁ、変人に類するようなのは来てないあたり、重たさは控えめか。)
考え事をしつつ体を捻るジュラの耳が、極々わずかな水音を拾った。
動きを止め、空を見上げる。
朝と変わらぬ、不気味な青を湛えた晴天だった。
(確か、昨日も雨は降ってねーな。どっかのパイプが漏れてんのか?)
この厳しい環境、パイプの劣化も早いのだろう。
(どうせだし場所特定してから報告上げるか。)
壁に耳を当てがって音の出所を探る。
デビルイヤーはやっぱり地獄耳なのだ。
(壁からじゃないか…となると地面?排水管か何かか?)
地面にそっと寝そべり角を当てがう。
相手が土ならこうした方が聞き取りやすい。
(思ったより先だな、15mくらいかな。)
ここまで確認できれば充分だ。
立ち上がったジュラが狙いを定め、体内の魔力に働きかける。
『気をつけねーと、パイプごと吹っ飛ばしちまったら大事だからな…【グラーラ・バリシン】』
それは大地を割る魔法。
這うように伸びるヒビから少し湿った層が露出し、小石の上で日光浴中の小さなトカゲが慌てて逃げ出す。
そのヒビの向かう先に問題の箇所はあった。
『ビンゴ、やっぱここか。』
地中から露出したパイプ、その周囲のみが明らかな水気を帯びている。
(さて、どこがひび割れてんのかな。見たところはわからないし、触るしかないか。)
土と水分を纏ったパイプなど、調理担当としてはあまり触りたくない代物である。
オマケに、そのパイプは特別鉄臭かった。
(こりゃ気合い入れて手ぇ洗わねーと………ん?)
パイプを撫でながら気づく違和感、それが『向き』によるものであることはすぐに分かった。
『このパイプ…地下からだ。ずっと地下から伸びているっ。直線に引くのが資源の面でも手間の面でも最良なのは、誰だってわかる。石でも迂回したか?いやこの浅さと距離、石をどけた方がずっと早いはず…』
普段であれば別に気にも留めない配管のミスが、やたらと意識に刷り込まれたのはライコの拾った無臭の黴がよぎったせいか、はたまた頭が痛くなりそうな鉄の臭いのせいか。
切らないようゆっくり沿わせていた指先に、何かパイプとは違う手触りのものが当たる。
思わず引っ込めた手を、慎重に戻して引き抜いたそれは、わずかに黄ばんだ滑らかな乳白色の塊…何らかの生物の奥歯だった。
反射的にそれを投げ捨て、手を庇うジュラ。
(何だありゃあ⁉︎一体、どうして…こんな…)
滝のような冷や汗を流すジュラの後ろから、かけられる声があった。
『おーいジュラー、いつんなったら帰ってきてくれるんだー?サボりかー?』
アヤカシの声だった。
振り向いたジュラの形相から、異常を察知したアヤカシがその場に立ち止まって周囲を見渡す。
『何があったんだ?』
『…水音がするんで見に来たら…配管に変な歯が刺さってました。』
アヤカシがパイプに駆け寄り確認する。
『確かに跡はある…その歯はどこに?』
『すいません、そこらへんに投げ捨ててしまいまして。』
ジュラの指差した方向にアヤカシが向いた瞬間、反対側に投げ捨てた歯を回収する。
たっぷり濡れていたおかげで、水魔法を利用した実にスムーズな運送が可能であった。
だが自分でも、その行動の意味はわからない。
説明はできないが、なんとなくアヤカシには知られない方が良いものである、と感じていた。
3分程草間を凝視していたアヤカシであったが、それで諦めがついたかジュラの方へと向き直る。
『この辺りにゃ野牛がいてな、鉄分補給で旅人の装備とかを齧るんだ。お前が見たのは多分ソイツの歯じゃないかな。怖い思いをしたなら休んどけばいいけど、復帰するときゃ手を洗えよ。』
その瞬間ジュラをチクリと刺したのは嘘の罪悪感か、ポケットの中の硬い奥歯か、アヤカシのらしくもない適当な推測か。
パイプの亀裂は中から生じたものだった。
つまりは、問題の歯は中を通ってきたものということであり、そんなことは損傷部を確認したアヤカシも理解しているはずだ。
それを、雑な慰めで対応するなど…精緻な仕事をマルチにこなす、普段のアヤカシからは考えづらいことだった。
小さな疑念が心にシミを付けてゆく。
『んじゃ、パイプの工事もじき始めるから、近づいたりイタズラするなよー。』
手を振り厨房へと戻ってゆくアヤカシの背中を、ジュラ・パズズは引き攣った態度で見つめていた。
アヤカシが去った後、ジュラは素早く辺りを見回しつつ壁を叩く。
ほんの軽いノックを決まったリズムで4回という簡単な手順。
しかしイオンフライヤーならば、どこでやっても心強い友に呼びかけられるテクニックである。
もう2週間も滞在しているここなら、きっと…
『どうしたんだいジュラ、あまり他所様の壁でやるものでもないよ。』
壁のわずかなヒビからカブウの触手が伸びて来た。
その先端は二又に分かれ、それぞれ目と発声器官をつけている。
『他所様の壁に潜り込んでるアンタが言えたことかよ。悪いなカブさん…今いいか?』
その一言は、話題が深刻なものであることを伝えるに十分だったらしい。
『もちろん、友の相談以上に優先されるべきことなど、ありはしないさ。』
『ありがとよ、じゃあまずこれを見てくれ。』
ジュラがハンカチ越しにポケットの中身を摘み、カブウに見せる。
『歯だね。しかも、素人目ではあるが人間…もしくはそれに近い霊長類のものと見た。』
『アヤカシさん曰く、野牛が鉄を齧ることがあるらしいけど、これは配管の中から突き出してた。そんなこと、ありえないんじゃねーか。』
『つまり、この店の内部から出たものである可能性が高いと。確かに奇妙だ。それに、野牛というのもちょっと違和感があるね。』
『どういうこと?』
『その歯には草食性動物の多くが持つ、セメント質構造が無い。これは重要な特徴だよ。』
ジュラが息を呑む。
いくらアヤカシという不思議生物が居て、店長がおおらかだとしても、食材の歯を間違えて流すなんてことはしないはずだ。
『…その配管の出本はわかるかい?』
『わからねー、地下から縦に伸びてるパイプだ。でも、この店に地下室なんて無くないか?』
『俺も全てをマッピングしているわけじゃないけど、少なくとも図面上では無いことになっているね。…そこが秘密の格納庫かい。』
『カブさん…今更かもしれないけどな、これは触れるべきじゃないエリアな気がする。というより、すでに危険な領域に片足突っ込んでる感覚というか。』
『わかった、そのカンを信じよう。俺もなるべく大人しく、草花のように過ごすこととする。イオンには知らせるかい?』
『そうしてくれ、後からどう動くにしても、情報共有しといた方がやりやすい。それに、今回ばかりはあいつも薄々ヤバいってのを感じてると思う。主に給料面で。』
『ハハハ、まあ彼女なら真に越えるべきでないラインも対処できるさ。よし、俺も動けるように準備しておくよ。後、その歯をもう少し詳しく見てみたい。借りていくよ。』
歯を受け取り、壁の中に触手が引っ込んでゆく。
ジュラは再び周囲を見回し、疑惑の食材とシェフの待つキッチンへと戻るのだった。
『よう!落ち着いたかジュラ。』
『おかげさまで、アヤカシさん。もう助手につけるくらいには。』
『そりゃ大いにけっこう。にしても、お前みたいな冒険野郎もビビったりするもんなんだな。』
『そりゃ俺だって生き物ですもん、本能が叩く警鐘にゃ敵いませんよ。それに、俺はイオンに引きまわされてるだけなもんで。』
『あ、やっぱり?あの子、何か有無を言わせないところがあるからなぁ。それに迷いってものが無い。』
『普段からそういうやつです。おかげで散々酷い目に遭ったり、助けられたりしてますよ。ところで、今すべきことは?』
『特に無いな。今日は晴れの満月、夜間行軍しようとしてる奴等が多いんだろう。昼以降はヒマもできそーだな。』
『そりゃ残念、もうラストなんだから、仕上げとして大波で来てもらっても良かったんですけど。』
『やめろい、おれのメンタルまで霧散しちゃう。』
苦笑するアヤカシの態度に、先程のことを気にかけている様子はあまり無い。
(この店の不可思議は大体この人の管轄だと思ってたが…考えすぎか?)
『ほいイオンちゃん、このお皿お届けよろしくぅ!』
『承りましたキャプテンイオン!迅速確実にお届けに上がりまーす。』
カブウから事情は伝わっているはずであるが、イオンは脈の一つも変えずいつも通り明るさを振り撒いていた。
(まったく、その面の皮分けてほしいぜ。)
ジュラの緊張が少し緩む。
この店に何かが潜む、言ってしまえばそれは、状況証拠も出揃っているとは言えない、お粗末な推測に過ぎないのだ。
もしかしたら、全ては杞憂で、あの歯は本当に力加減を間違えた、哀れな野生動物のものなのかもしれない。
『ほぼ100で人間だね。』
ジュラは便座に腰掛けつつカブウの触手からの報告を聞いていた。
『…マジか。えらく似た魔物とかじゃ?』
『残念ながら。歯のここんところ、治療を受けた形跡がある。魔物社会に歯医者がいるなら別だけどね。持ち主さえもわかってしまう重要な証拠だ。』
『わかった。じゃあ次の問題だな。なんで、そんな穏やかじゃないモンが、排水パイプから出てきたんだと思う?流石に人間は食材庫に入ってねーぜ。』
『食事中に抜けた客の歯が、残飯に混ざっていた…という解釈は?』
『流しには篩がある。歯なら間違いなく引っかかるだろーぜ。そもそも、あのパイプから漏れる液はキッチン関連じゃない。臭いが違う。』
タイルを踏む足音が響き、触手がするりと壁に入り込む。
直後に、ジュラの個室が三回ノックされた。
『アヤカシの使いで来た。体調は大丈夫か?』
Dの呼びかけは、心配しているような、そうでもないような声に聞こえた。
『ありがとうございます。もうじき出られると思います。』
『伝えておく。…無茶はしないことだ。』
再び足音が遠ざかっていく。
『なんでも怪しく聞こえちまうな。』
この店のメンバーは『いい人』である。
しかし、『いい人』と『悪人』であることは簡単に両立するのだ。
それが人間の味わい深いところでもあるのだが。
『この場所も安全圏じゃないね、何か違う連絡手段に変えた方がいい。』
『信号はどうだ?俺も多少わかるようになったし、イオンなら完璧に通じる。』
『うーん…確立された手法である以上、聞かれたくない相手がそれを知っているリスクが除外仕切れない。それよりはむしろ…』
触手の発する音が奇妙に高いものになる。
『人間の可聴域を外してみたよ。聞こえるかい?』
『………マジで何者なんだろうな、カブさんって。よく考えなくても一番謎だぜあんた。』
『もしかしたらライコくんにも伝わるかもしれないね。』
『それはそれで心配だな。あいつまだ嗅ぎ回ってるだろうし。……ま、他に手も無いか。なるべく周りに誰もいないとこで頼むぜ。』
『了解、イオンとの連絡法はまた別に調整しておくよ。』
『頼むぜ。じゃ、お互い波風立てないように過ごそうな。』
ジュラが重い腰を動かし、キッチンへと戻る。
この店にどんな怪奇が潜んでいようと、眠れるままならなんのことは無い。
『みなさん、本日もお疲れ様でした。みなさんどんどん頼もしくなられるものですから、明々後日にはお別れしなければならないのが、残念な限りです。…正店員募集中ですよ。』
『そうそう、どうだいカンクーペの代わりに!』
アヤカシの冗談は切実である。
イオンが笑いながら頭を下げる。
『ごめんなさい。次の冒険が私達を呼んでるんです。』
『すいません店長、俺たちの首輪コイツに握られてるんです。』
『気の毒だがな、このライコは縛れねぇ。』
コトネが表情をそのままに、寂しげな所作で首を振った。
『この上ない理由です。明日からは早めに切り上げて、支度をしてもらっても大丈夫ですよ。』
『ありがとうございます!それまでは全力でお仕事頑張ります!』
『ふふふ、よろしくお願いしますね。…さて、今日何か伝えておきたい人はいますか?』
特段声は上がらない、今日は概ね平穏な1日だった。
『わかりました。何か思い出したなら私を起こしてくださいね。』
『お前等!尊き店長の夜を邪魔するなよ‼︎まずおれか義父(ノリスケ)を頼れよ!』
『アヤカシを信用するな。これはケダモノだぞ。』
『筋金入りですねぇ…』
ジュラが苦笑いを浮かべる。
直後、コトネの手拍子でミーティングは解散となり、全員がぱらぱらと寝室へ戻っていく。
今日も、カフェを照らす日は静かに没していくのだった。
ジュラ・パズズの安眠を妨げるものがあった。
気配さえも存在しないそれを知覚できたのは、それが極限まで接近した時にようやく鼻をくすぐった、どこか香ばしい香りだった。
そして、ジュラはその正体を知っている。
『で?あんたまさか、戦闘用のバッチい刃物をキッチンに向けてるんじゃないよな?アヤカシさんよ。』
ベッドから跳ね起きつつ匂いの元に布団を押し付ける。
途端に倒れ込む襲撃者、その体から発された金属が叩きつけられる音は不気味に消えてゆく。
ジュラの振るう魔剣が、襲撃者の籠手ごとその獲物を吹き飛ばす。
今日の昼間にも散々見た刀だった。
『やっぱ、ありゃ都合悪いモンだったか。しっかし、仕込み場通ってくるたぁちょっとナメ過ぎなんじゃねーか?スパイスの香りが付いちまってるぜアヤカシさん。』
ジュラがベッドの下から引っ張り出した一斗缶を、バタつく襲撃者の上で切り裂く。
必定、その中身たるサラサラとした液体は、布団の全体に飛び散り染み込んでゆく。
『あんたがコード卿と似たような存在なら、大した効果もないだろうけどな、先制攻撃だぜ。【フロン】』
ジュラの指先から出た小規模な炎が、襲撃者に届く寸前で膨れ上がり、ターゲットの全てを炎に包んだ。
パニック状態で転がり回る襲撃者を見下ろしつつ、ジュラが魔力を集中させる。
『キッチンから失敬した菜種油だ、使っちまった分は給料から引いといてくれ。』
激しく燃える炎は床を焦がさず、物音も叫び声も決して響きはしない。
これでは仲間も手の出しようが無いだろう。
感嘆すべき防音、防火性能がその作成者本人にとって、完全に仇となっていた。
ダメージこそ無いものの、得物を奪われ相当な形成不利を実感しているのか、慌てて全身を靄に変えて逃走を図る襲撃者。
しかしジュラはすでに、仲間への援助要請を送信済みである。
無論、元人間のアヤカシには認識し難い手法で。
ドアか床板か、どこかの隙間を通り抜けるため霧散しようとした襲撃者を暗闇が包んだ。
『捕まえたよ、ジュラ。さあ後は…』
襲撃者を口に含んだカブウが誇らしげに笑う。
『ああ、不便かけるなカブさん。【カチン】』
カブウの口と鼻が氷で塞がれる。
もはや襲撃者が脱出する術はどこにも無い。
『自分で考え出した作戦だけど…やっぱちょっと心が痛むな。氷の猿轡なんて悪趣味だ。』
カブウの触手がジュラの肩を叩く。
『気に病むことはないさ。お互い外傷も無く相手を制圧する、偉大な勝利だよ。』
『流石、マントル級に心が深いぜ。…ところで、カブさん擬態なんかできたんだな。』
そう、このカブウという生物は、襲撃に備え部屋の調度品に溶け込むように形状と色彩を変え待っていたのだ。
『皮膚を操るのはカエルとして当然の嗜みだよ。まぁ、通常のオオキバツノガエルはその機能無くしちゃってるけどもね。』
『そうですか。さて、話は変わるが荒事になった以上、のんびりはしてられないよな。』
『ウム、イオンにも知らせてずらかるのが賢いだろう。口の中の彼は……食あたり起こしそうだしどこかでペッしよう。』
『いや食べるって選択肢あったのかよ。こえーなおい。』
ジュラがノブに手をかけ敷居を跨ぐ。
カブウの鋭く制止する声を聞き、振り向いた時にはもう…扉は無かった。
『……は?』
ひんやりとした湿気が、肌を舐めてゆく。
ほんの少しだけ酸素が薄まったような、使い古されたような大気だった。
何気なく手を着き、壁材が冷徹なコンクリートになっているのに気づく。
思わず一歩後ろへ下がる。
踏みしめた床もまた、冷血的感触だった。
駆け足気味の己の呼吸音がやけに残響するのが、ありもしない気配に囲まれるようで不快だ。
カツンと、虚無から前触れなく現れたような足音が響く。
思わず振り向こうとしたジュラの膝に生じる違和感。
急に硬直した膝を見やったジュラは顔を引き攣らせる。
そこには、関節に深々と突き刺さるダガーと、いっそ楽しげな様子でリズミカルに吹き出す赤い生命があった。
『ぐおぉぉぉぉーーーッ‼︎』
『おはようございます、ジュラさん。あなたが今苦しい思いをしているのは……いや、やっぱりこの部屋立ち入り禁止、そう書いておかなかったわたしの責ですね、ごめんなさい。』
冷たいコンクリート張りの密室、その中央に立っていたのは、いつもと何ら変わらない様相のコトネだった。
『店長…ここは…』
『アヤカシさんから話は聞いています。わたしの不手際であなたにかんづ……いくらなんでも傷つきますよそんなの。』
ジュラが傷を庇うふりをして投げ返したダガーを、コトネがミックスナッツでも摘むかのように受け止める。
確かに、慣れない技術ではあったし、狙いを定めるための不自然な間もあったのかもしれない。
しかし、間違い無く不意の一撃ではあったし、人外の膂力が全力で投げた鉄塊でもある。
それを喋りながら受け止められるとは、考えていなかった。
『ちくしょう、何だって俺たちの針路にはこうバケモノがのさばってるんだ。』
ジュラの悪態に興味は無いのか、コトネは返されたダガーの刃を撫で、1人納得していた。
『やっぱり、浅いですね。関節を壊すまでに至ってない。となると、考えうるのは不可視処理を施された防具か、当たりどころが悪かったか…いや、ここは初心を大事にしないといけませんね。ジュラさん、あなたは何者ですか?』
『質問の意図がわかりかねるぜコトネさん…俺は昨日も明日も俺だ。』
『あ、申し訳ありません。わたしの聞き方が悪かったです。あなたの『種』はなんですか?』
『………人間だよ。』
『ばれる嘘つきはいけませんよ。体組織の配置も運動も、わたしの知る人間とはかなり違ってるじゃないですか。』
『ははっ…2択、だな。あんた医者か?』
『いいえ、ただ見る機会が多くて詳しくなってしまっただけです。門前の小娘というやつですね。』
『じゃ殺人鬼の方か。…知りたきゃ正式に履歴書でも書かせるべきだったな!』
『そんなに噛み付かないでください。ボロが出てますよ。』
コトネが背後を見ることもなくダガーを投擲する。
研ぎ澄まされたその刃は、壁伝いに奇襲を仕掛けようとしていたカブウの触手を射抜き、そのままなめし革のように壁へと打ちつけた。
『最近、床の感触がおかしいと思ってたんです。まさかこんなのが入り込んでるとは……シロアリ用の薬で何とかなりませんか?』
貫かれた触手が不敵な笑い声のようなものを上げる。
『お嬢さん、知っての通りプロに任せるべき仕事ってのはあるのだよ。何しろ、俺の体はこの店中に侵食しているのだから。…逃げるよ、ジュラ!』
別の隙間に潜んでいた数本の触手がジュラに向けて突進する。
しかし…目の前の『プロ』はそれを許さない。
『コトネが消失した。』、ジュラは一瞬本気でそう感じた。
実際は、悪魔の動体視力が追いつかないほどに、彼女が速かっただけなのだが。
カブウの触手が2本、ほぼ同時に切断される。
攻撃の一瞬、鬼神の如き殺意を撒き散らすコトネの姿が見えた。
その顔は、いつもと何ら変わらない鉄面皮だった。
4本、6本と触手が切断され、体液と刃の反射光が舞う。
(だめだ、確実に俺が救われるまでに触手が全部無くなるっ。だが、コイツは逆に好機だ。店長が効率よく2本ずつ切ってくるなら…)
カブウも同じ考えに至ったらしい。
触手を束ね、コトネを挟んで一対の太い肉塊を作り出す。
そしてそれは、ジュラの元へと鉄道のレールのように伸びていた。
『室内だったのが災いしたね、今だっジュラ!』
凝縮された肉塊が解け、網状に展開する。
狩人が檻に誘い込まれるなんて、世話無い話ってものだ。
『完璧だぜカブさん!【マノン・パラグロル】』
ジュラの周囲に出現した複数の魔法陣より、魔力エネルギーの塊が乱射される。
当然消耗を考え、1つ1つの弾は小粒である。
しかし、それは相手が箱の男のような外れ値でない限り、人体を削り倒すのに十分な威力を秘めている。
言い訳をさせてもらうなら、その時のジュラに別段殺意は無かった。
ただ、至って真剣に未払いの給料のことを考えていたのだ。
(腕の1つでもぶち折って、慰謝料も一緒にもらっていくか。)
当然、いきなりナイフを突き立てられた怨みもあれど、そういった判断をとったのは間違いなく暗黒街での滞在の影響であり、大いに反省すべきところだろう。
尤も、その時ジュラが使い得たどんな手を使えど、その結果を変えることは難しかっただろうが。
迫り来る弾幕を前に、コトネは相変わらず表情を動かすことも無く、ただ姿勢を低く取る。
次の瞬間、豆の鞘が弾ける音にも似た、乾いた音が響いた。
それが、目の前に居た1人の人間から発されたものであることを認識した瞬間、ジュラの眼前にダガーの切先があった。
きわめて正確に左目を狙っていたそれを、咄嗟に弾き落とすことができたのは、これまでの経験の賜物であろう。
しかし…ほぼ同時に体の奥へ響く衝撃。
全ての魔力弾を躱し接近したコトネのブーツが、剣を振り上げ無防備を晒したジュラの腹部、その芯を捉えていた。
濁った息を漏らしながら、ジュラが膝を突く。
別段、特別な攻撃ではない。
恐らくブーツに金属類は仕込まれているだろうが、重さで言うならヒノ国の王子達が適当に振り回した手足の方が上だし、刃も魔法もそこには無い。
だが、その一撃は理不尽なほどに極大の苦痛を少年に与えていた。
『ジュラさん。この世で一番治りの悪いケガって、何だと思いますか?』
悶えるジュラをよそに、コトネが飄々と話し始める。
『わたし、昔はヤケドだと思ってたんですよ。8歳の頃、いたずらにストーブを触ってしまって、水脹れがずっと治らなかったものですから。』
『何の…話を…』
『でも、違うんです。もっとずっと、タチの悪い傷は『選択』することなんです。自分で光を求めて、道を掴み取ろうとするその行動こそが、どうしようもない傷をつけるんです。』
『…だったらこれからは、朝パンにマーマレードとジャムのどっちを塗るか、よく考えないとな。』
『永遠の命題ですね。…一度選んだ道はずっと心に残り続けます。あなたの、その素敵な好機の心も。』
ポケットの中で、件の奥歯の根が太ももを刺す。
『今を穏便に済ませても、いつの日かあなたはまたほんの少し、暗幕の向こうの舞台を覗いてみたくなるかもしれません。それはわたしたちの『日常』にとって、とても危険な事です。だから、いつも通りにするんです。』
コトネの姿が再び捉えられなくなるその瞬間、ジュラは迷わず後ろを振り返り叫んでいた。
【ムルド・プロトン】
ここは、寝室に繋げられた異常な冷酷的密室である。
そう、密室なのだ。
なら、背後にある扉に張り付き周囲全てを覆う防御壁を展開してしまえば、勝てはせずとも完璧に近い守勢には出られる。
コトネの振るったダガーが、甲高い音を立てて球形の魔力障壁の表面を滑る。
『やっぱりな!アンタの火力じゃ、この壁を割るのだって苦労するはずだと思ったぜ!』
防御壁が一瞬揺らいだ事に少々ビビりつつ、ジュラが啖呵を切る。
そして幸運なことに、闇夜対応済の悪魔の目はこの部屋に他の出入り口が無い事を確認している。
つまり、これでコトネは逆に袋のネズミと…
コトネが淡々と懐から取り出したのは、漆黒の鞘に収めた短剣と見紛うような、長い銃身のリボルバーであった。
その冗談染みた造形の先端が魔力障壁、さらにその先のジュラの鼻へと向けられる。
『冗談だろアンタ…』
『だいたいのことはそうですよ。』
必要な事を粛々と遂行すべく、その小さな弾は前へと進んだ。
いとも容易く魔力障壁を破砕し、割って入った無粋な触手も濡らした紙切れを絞るように捩じ切る。
ジュラがその存在を認識したのは、自身の背後の鉄扉に何かが当たった金属音を聞いた時だった。
『あら、アンラッキーですね。カブさんのおかげで、少し軌道がずれたみたいです。反省反省。』
一拍遅れ、脇腹から噴き出す鮮血が床に斑を描く。
人間より遥かに丈夫な悪魔の肉体が、脇腹を抉られていた。
傷を庇い圧迫するジュラの目に、鉄扉に突き刺さって潰れた銃弾が映る。
(バカなっ…!どんな威力してんだっ…)
しかし彼に戸惑う時間は無い。
コトネの銃は回転式、それも後5発の弾が込められている。
一刻の猶予も無い中、ジュラが必死に伸ばした手はノブを掴み…動きが止まった。
(何を考えてやがんだ……このドア、外側からロックされてやがるッ。)
欠陥建築と言うのもおこがましいようなシステムに、ただ呆然とするジュラ。
これでは緊急時に誰も中から出られないというのに。
『ジュラさん、ここはもうリングですよ。ギブアップはありませんが。』
ジュラの後頭部に金属入りのブーツが叩きつけられ、その勢いで哀れな悪魔は鼻から鉄扉に衝突する。
『このまま焦げ目の整ったホットサンドみたいに、あなたを挟み潰して終わりにしようと思います。因みに、見つけたものの事って、他の方に喋ったりしました?』
『ごぶ………店長、あんた勘違いした物言いだぜ。その質問は、もっと俺を痛めつけて、独りぼっちのネズミみたいな、惨めったらしい気分にさせた後にするもんだ。まだ、ぜんぜん負けはねぇ!』
部屋の壁沿いに少し窪んだ場所から、液体が噴き上がった。
液体に押し出されたか、金属製の篩のようなものが転がる。
そこは排水溝、恐らくはあのパイプの原点であり、この掃除しやすい部屋で出たあらゆる液体を外へと運ぶ出発点。
しかし今宵はその役目を果たせず、液体の逆流を許してしまっている。
薄明かりの下でもよくわかる、鼻粘膜を唸らせる滑らかな液体の正体は…
『灯油か!【フロン】ッ‼︎』
直後、ジュラの放った火の玉が、即座に引火し爆発的反応を引き起こした。
だが、その行動は見透かされていたのだろう。
コトネはジュラが魔力を僅かに集めたその時には、部屋の隅で伏せて爆炎と衝撃を防いでいた。
(くそっ、ケイマーデで闘ったいやに勘のいいヤツを思い出すぜ…けどな、この盤面に持っていけりゃ希望はある。炎と煙、有害環境で先にダウンすんのは、人間のあんたなんだからな!)
こうなればあとは、非常口なり換気口なりが開放されるのを待つばかりである。
ジュラの、そして恐らくは助け舟の主の戦略は正解だったらしい。
程なくしてジュラの背後で扉が開く音が響く。
『よしっ、も一つオマケだ【アントン】!』
部屋の内部に煙霧のごとき暗黒が満ちる。
数十秒は残り、目眩しにはなるはずだ。
傷を庇っている手間も惜しい、とジュラは出血度外視で階段を駆け上がる。
1歩でも、1秒でもコトネが来るまでの猶予を稼がなければならない。
『よう!おひさ。しかし急ぎマックスの階段飛ばしにも限度があるだろ。3段以上はオススメしないなぁ〜。』
階段を上がり切ったジュラの横に、カンクーペが影の如く追従していた。
不気味なのは、ジュラの疾走に合わせているにも関わらず、カンクーペの足音は1つも聞こえないことであろう。
『んでどしたんだ夜中にそんな急いで。怖い夢でも見たのかな?』
問いかけと同時に銀色が一閃する。
魔剣で受けたそれは、刃の湾曲した大振りのナイフだった。
『ハハっ、なんだその剣。そそるじゃんか。後で店に飾っとこう。』
想像以上の力が込められたカンクーペの一振りを止めきれず、ジュラの背中がドアを砕く。
飛び散る木屑の中、上から迫るカンクーペを蹴り真横に弾く。
『おっと、見た目より力あんじゃんかよ。対応が悪手じゃ意味無いけどな。』
ジュラの脛にできた一文字の傷から、赤が滲む。
(ナイフで受けられた…実戦慣れしてやがるっ。)
深海のような色の月光が瀟洒に並ぶ大窓から取り込まれ、部屋全体を照らし出す。
そこでようやくジュラは気づく。
ナイフを弄び、楽しげに獲物の解体法を呟くカンクーペ。
敵がその男だけではないことに。
妖気を垂れ流す刀を携えたアヤカシが、ジュラの身長以上の刃渡りの大斧を担いだノリスケが、デッキブラシを長柄の戦鎚に持ち替えたDが。
散らばった従業員達が、ホールのどこからも獲物を逃すまいと視線を向けていた。
その顔に客やジュラ達へと向けていたモノは何も無く、精巧すぎる蝋人形を見ているような悪寒が背中を駆ける。
『あんたら…あんたらは…』
『機械用燃料の管理はイオンさんにお任せしてありました。つまり処分は3人、ちょっと心苦しいかもしれませんね。』
背後からの脅威も、最早すぐそこに迫っていた。
『コトネさん、ドジっちゃってごめん。危ない目に遭わせちまった。』
『気にしないでください、アヤカシさん。それより、処置の方は?』
『もちろん!この場所からゾウリムシ1匹逃げ出せないよう、『柵』で囲ったぜ!』
窓から見える明るい月夜の大地に、柵らしきものは見えない。
しかし、ジュラはアヤカシの扱う理解不能な術の存在を知っている。
単純な空言とは思えなかった。
『ありがとうございます。本当に、アヤカシさんにはお世話になりっぱなしですね。今度みんなで慰安旅行にでもお連れしましょう。』
カンクーペが指を鳴らす。
『いいすねー賛成!じゃ、プランと手配頼んだぜアヤカシ!』
『おれの慰安なのにぃ……?』
『こういう体制から見直すべきでしょうか…さて、今夜は痛ましい満月です。あれが天頂へゆく前に、済ませましょうか。』
一瞬身体強化魔法を使い、ホールの隅へ逃げ込むジュラ。
嘲笑ものの悪手ではあるが、この人数差で背後からの攻撃にリソースは割きたくない。
傷口に気を遣いつつ魔剣を構えて立ち上がる。
『はっ、全員揃って姿見せてくれるなんてな。この店ごと吹き飛ばせば解決、なんて優しいじゃねーか。』
弱々しい虚勢だということはジュラ自身も理解していた。
それでも奮い立てなければ。
いつだって生命は心から朽ちるのだ。
従業員の前まで歩み出た店長コトネが、ジュラの方へと向き直る。
スカートをつまみ、足を1歩後ろに下げた女は、月光に濡れた髪を揺らした後、口を開いた。
『お初にお目にかかります。わたしは『合葬』の首魁を務める、白沢 古都音(シラサワ コトネ)と申します。以後…といってもあと数分かもしれませんが、よしなにお願いします。』
人の為すことを決定づけるものは色々あり、肩書きとはそのメジャーな1つである。
だから、その名乗りは日の当たる場所へ漏れ出しそうとした、愚かな好奇への宣告だった。
人生で初めて服を仕立ててもらってきました。
存外に悪くないもので、到着したら我が子のように手入れしましょう。
用語集
グラーラ・バリシン
土の塊を二分する魔法。
お宝探しから野戦での簡易トラップまで使えて実戦向き。
ムルド・プロトン
自身を中心に球体の魔力障壁をつくりだす魔法。