見覚えのない空間。毛布に包まれた感触。鎖で壁に繋がれた左腕。
「目が覚めたかい?」
そして、投げかけられた優しげな声。それらが、意識を通り戻したアルマが最初に認識したものだった。
身を捩って声のした方を向く。自らの寝かされていたベッドの脇に、一人の男の姿があった。髪は薄い赤色で、後ろで結って一つにまとめている。少し大きい金色の瞳はどこか優しげな雰囲気を帯びており、アルマと視線が合うと柔らかい微笑みを見せた。
会ったことはない。だが、誰なのかは知っている。
「……デイヴ・アバーナシー」
レージュア王国辺境伯。武に秀で、極めて高い戦闘能力を持ちながらも非常に聡明であり、加えて温厚で誰にでも分け隔てなく接する人格者。魔法には疎いが、それでも単騎で苦も無く一個大隊を壊滅させることができ、二国間での戦争が膠着する要因の一つでもある。
「君がアルマ・リヴォルタ君だね。話に聞く通りの……いや、それ以上だ。あの町に限らず、マーティアで防衛を担う者は私が直々に選抜したのだが、ここまで一方的にやられるとは思ってもみなかったよ」
やれやれ、といった様子で苦笑するデイヴ。まるで親しい友人を相手にしているかのようだが、これが彼の素である。部下が大量に死んだ――それも、目の前にその元凶がいるというのに随分と軽いが、役職柄ということで割り切っているのだろう。或いは、憤りというものを巧妙に隠しているのかもしれない。
さて、と息を吐き、彼はアルマを見据える。
「こうして君を捕らえた以上、私は相応の対応をしなければいけない。とはいえ、別に荒事が好きというわけでもないし、可能な限りは君を殺したくない。君もここで死ぬのは御免だろう?」
「……いえ、死ぬことに対して特には。任務を遂行できなくなるのは避けたいですが」
「おっと、訂正しよう。どのような内容かはっきりと知っているわけではないが、君も任務を遂行できなくなるのは困るだろう?」
「それならば、その通りです」
「つまりは、ここで死ねば任務を遂行できなくなるから、それは御免だということだね」
デイヴが少しばかりの溜息を吐いて、こめかみを指で叩く。率直に言えば、彼はアルマのことをどこか軽く見ていた。人形のようだと言われていることは知っていたが、まさかここまで自分の命というものに頓着していないとは思っていなかったのだ。
大馬鹿者め、と彼女の養父に心中で毒づく。この年齢になって、未だ心というものを知らないなど、一体どういう教育をしてきたのか。殴り倒して問い詰めてやりたい気分だった。
「君が望むなら、私は君の命を奪うようなことはしない。だが、私にも立場というものがあるし、無条件でというわけにもいかない」
逸らした視線を戻し、金色の双眸がアルマを見つめる。その顔に再び笑みが宿り、指を立てて、デイヴは明るい声になるよう努めてその提案を口にした。
「そこで、だ。私とゲームをしようじゃないか」
想定外の言葉のはずだが、アルマの表情に変わった様子はない。何の色も浮かべずに、続きを待っている。
「ここは私の屋敷でね。特殊な魔法によって、私が認めた者以外は外に出ることのできない結界が張られている。私が構築したものではないから詳しい原理は私にもわからないが、つまり君はこの屋敷から出ることができない」
一度話を区切り、だが、と続ける。
「脱出する手段がないわけでもない。この結界の核は私の命になっているそうだから、私を殺せば魔法は解除され、君はここから抜け出し、任務に戻ることができるというわけだ。……と、前置きが長くなったね。まあ、ゲームと言っても話は簡単さ。君に、一日に一回だけ、私を殺す権利を与えよう」
「一回の定義はどのようにされるのですか」
「君が能動的に私を殺そうとした場合なら、私が君を取り押さえるか殺されるまで。毒殺のような間接的な手段であれば、私がそれを防ぐか殺されるまで。但し、私以外に危害を加えたり、二回以上殺そうとした場合は君を殺す。そうなれば、君の任務は失敗で終わることになる」
失敗しても特にペナルティは用意しないよ、とも語るが、殺すと告げたデイヴの目は酷く冷たかった。温厚ではあれども、そうした割り切りはできる人物なのだろう。
本来であればこのまま殺される身だったはずであり、これに乗らない手はない。だが、アルマには彼の思惑がわからなかった。はっきり言って、デイヴに一切のメリットが存在しないのだ。
「ああ、普段は自由に過ごしてもらって構わないよ。この屋敷のことは何も知らないだろうから使用人も付けよう。男性と女性ではどちらが良いかな?」
「まだ受けるとは言っていませんが、どちらでも」
「それもそうだ。まあ、同性の方が何かと接しやすいだろうし、女性をあてがうことにしよう。……さて、ここからが本題だ。私を殺してこの屋敷から出られるまで、君には私の講義を受けてもらう」
「……講義?」
唐突に出たこの場に似つかわしくない言葉に、アルマが首を傾げる。無論言葉としての意味は知っているが、何故講義を受けることになるのか。
「人の思考や感情というものについての講義だ。これでも、私はうちの学生達に講演を行ったこともあってね。わかりやすいと評判さ」
「いえ、そういったことを聞いているのではないのですが」
微笑むデイヴに淡々と告げる。変わらず何を考えているのかはわからないが、アルマにとっては好都合である。任務を完遂するには、それしか道はないのだから。
アルマは彼の目を見据え、提案を呑む旨を示す。
「わかりました。現在時刻がわからないため、始めるのは明日からでよろしいでしょうか」
「受けてくれてありがとう。始めるのも明日からでも問題ないよ。一度君にこの屋敷を案内する必要があるからね。私を殺そうとするのなら、武器も必要だろう? 好きなものを使うと良い」
そう言いながら、デイヴがアルマの左腕を拘束している鎖を外していく。特に警戒した様子もなく無防備にも見えるが、今アルマが攻撃を仕掛けることはないという確信が彼にはあった。
彼の見たアルマ・リヴォルタは、一般的な知識や常識といった日常生活を送るのに必要なもの、そして人を殺す術を身に付けただけの、無垢な子供である。一見すれば、常に落ち着いて年齢に見合わぬ程に聡明な印象を受けるが、その実情緒や心の豊かさという点での教養は全く育まれていない。感情の起伏が極めて少なく、心といったものに対する理解が乏しい。自分が人や物事に抱く感情を把握しているかすら怪しく、人形と呼ばれるのも納得してしまえるような人物だった。
「ちなみに、今は夜だ。君の寝る部屋を用意しておいたから、先にそちらに行こうか。その後にディナーとしよう。他の部屋の案内は食べ終えてから。それも終わったら、とりあえず今日は寝なさい。ゲームは明日君が起きてから始めるということで頼むよ。……それと、私のことは先生とでも呼んでくれ」
「わかりました、先生」
アルマが頷く。言われたことに素直に従うのも、本当に人形のようだなとデイヴは考える。酷く整った容姿の人形。可愛らしいというよりかは、美しい、綺麗といった言葉が似合う。恐らく、もう少し感情豊かになっても、それはそのままだろう。そう思わせるだけの美貌を、彼女は持っていた。
――そしてそれが、彼女と相対した人間の恐怖をより引き立たせるのだろうと、心中でぼんやりと呟いた。
*
セシル・マティスはアバーナシー家に仕える使用人である。普段は若くして屋敷の管理補佐を務める身ではあるが、今の彼女には主直々に命じられた特別な業務があった。
鏡の前に立ち、身嗜みを整える。薄紫色の長い髪をポニーテールにし、ホワイトブリムとエプロンドレスを身に着けていく。その際、幾つかの『小道具』を袖やスカートの中に入れ、いついかなる時でも新たな主の要望を遂行できるように準備をした。
自分の姿に問題がないことを確認し、移動式のハンガーラックを持って部屋を出る。長い廊下を歩き、一つの部屋の扉の前に立つ。この扉の先に、彼女の新たな主がいた。丁度起きたところなのか、部屋の中で人が動く気配があった。セシルは四度ノックをし、声をかける。
「おはようございます、アルマ様。御部屋に入ってもよろしいでしょうか」
「どうぞ」
「では、失礼します」
扉を開け――そして、息を呑んだ。長い銀髪は窓から差し込む光によって一本一本が煌めいており、扉へと顔を向けたことで揺れた前髪から覗ける深紅の双眸は、まるで二つの紅玉のよう。起こした上体は白いネグリジェに包まれており、銀色の髪も相まって触れば溶けてしまう雪のような印象を受けた。艶のある黒い左腕は不似合いのようで、しかし作り物めいたその容姿と調和している。義手の調子を確かめているのか手の開閉を繰り返しているが、その際に鳴り響く金属音がより彼女を彩っている。
人形のような雰囲気を身にまとい、人間離れした容貌で、アルマ・リヴォルタがそこにいた。
「……何か?」
首を傾げて発せられた、彼女の透き通るような声で漸く現実に引き戻される。セシルはアルマと比べて大して長く生きているというわけでもないが、こうも長くの間見惚れるといった経験は初めてだった。いや、長い間見惚れていたというのは錯覚なのかもしれない。だが、少なくとも、セシルがそれ程までに心を奪われたことは事実である。
頭を振るい、呼吸を整える。改めてアルマの方を向き、平静を取り戻して口を開く。
「いえ、何でも。不躾にも申し訳ありません。……改めまして、自己紹介を。本日付でアルマ様の身の回りの御世話を担当させていただきます、セシルと申します。つきましては、お召し物についての相談をさせていただきたいのですが、よろしいでしょうか」
「はい」
「ありがとうございます。幾つかこちらの方で見繕わせていただきましたが、ご希望はございますか?」
「動きやすいものであれば特には」
かしこまりましたと一礼し、部屋の外に置いていたハンガーラックを中へと入れる。動きやすいものとなると、あまり長い丈のものは良くないだろう。屋敷に運び込まれた時の服装から判断するに、袖や上着は丈が長くとも問題ない――寧ろ暗器を隠せるためか都合が良いようだが、下半身全体を覆うようなスカートは論外だ。吊るしてある衣服はアルマに似合うか否かという基準で用意されたものであるため、条件を加えて絞り込んでいく。
動きやすい服装で、しかし露出の激しいものはよろしくない。彼女は気にしないかもしれないし、彼女に対しそういった感情を抱くような不埒な輩はこの屋敷にはいないが、だから良いというわけでもない。
(……となると、むやみに着飾るようなことはせず、ワンポイントとして装飾を付ける程度で良いでしょう。普段着にする以上着やすさを重視して、上半身はブラウスに上着――ブレザー辺りが無難ですね。デイヴ様の目的も考慮し、何着か追加で持ってくるとしましょう。その場合、下半身は――)
衣服に向けていた視線を一度アルマへと向かわせ、すぐに戻す。動きを阻害せず、違和感なく合わせることのできるもの。加えて、『少女らしさ』を強調できるようなものが良い。美しく無機質であるかのような印象を服装によって和らげ、年相応の女の子に見えるように。
難しくはあるが、セシルにとっては得意分野でもある。従者は主の品格を落とさぬよう、身嗜みにも気を配る必要がある。そのため、些細なことで印象を変える術や、人の魅せ方というものを熟知していた。
(――キュロットスカート。外から見た際には柔らかなスカートという印象を与えられ、丈を調整すれば暗器を隠すことも可能ですね。動き回っても下着が見えないのも良いことです。これならば御二方の意に沿えますし……色に関しては、御自分で選んでいただくことにしましょう)
ブラウスの上にブレザーを羽織り、キュロットスカートを穿いたアルマの姿を想像する。ミステリアスな雰囲気を醸し出しながらも、可憐さを前面に押し出した年相応の女の子。それでいて精神的にはまだ幼く、綺麗さと可愛らしさの両立した『少女』。
「……破壊力が高い」
「…………?」
小さく漏れた言葉にアルマが首を傾げる。その様子も今のセシルには刺激が強いものだったため、何でもありませんと返しながらも目を逸らす。既に衣服の選定は終えているが、まだ選んでいる振りをしているのである。その間に一度思考をリセットし、平静を取り戻して再びアルマへと視線を向けた。
「投げナイフのような暗器用のホルダーはこちらで取り付けてしまってもよろしいでしょうか」
「お願いします」
「かしこまりました。取り付ける箇所のご希望等がございましたら、いつでも仰ってくださいませ」
一礼し、傍にあった椅子に座る。袖やスカートの中に入れていた『小道具』――縫い針や鋏、切れ地に糸といったものを取り出し、ブレザーの裏地に取り付けるために手を加えていく。このような作業は手慣れたもので、手元を見なくとも形を整え、正確に針や糸を通すことができた。
不意に、窓から差し込んでいるものとはまた別の光を感じ、セシルは手を止めずに顔をそちらへと向けた。見れば、アルマの左手の人差し指の先端に、小さな光の球が出来ていた。魔法で作ったものだろう。
「綺麗ですね」
「綺麗……という感覚は、私にはよくわかりません」
「今はわからなくとも、きっとわかる日が来ます。アルマ様は人間で、生きておられるのですから」
アルマがセシルを見つめる。表情から内面を読み取れはしなかったが、その仕草から微かに何を考えているかが理解できた。
「私は、人間なのでしょうか」
「人間ですよ。どこにでもいる、普通の女の子です」
「普通の女の子とは、何なのでしょうか。私は一般的な女子とはかけ離れた生活を送っていると思いますが」
「この御時世では、女子であろうとも戦争に駆り出されることは珍しくありません。殺しの技術を学んでいることも、感情が希薄なことも。数で言えば少数かもしれませんが、それでも一般的で通じるものです」
「どこにでもいるのですか?」
「全員ではないでしょうが、一つのコミュニティに一割から二割はいるのではないでしょうか」
きっと彼女は、困惑しているのだ。
「私は、人形と呼ばれています」
「ええ、存じております」
「
「それも存じております」
「一般的……なのですか?」
「多いとは言いませんが、貴族や軍人の家で育てられれば少なくないでしょう。戦争がなくとも、魔法生物の被害を食い止めるのも彼らの務めですから」
心というものを知ることなく、殺しの技術や一般的な知識を与えられて育った。自分にかけられる言葉にも温かみというものはなかったのかもしれない。少なくとも、レージュアの兵からは恐怖や怒りの感情しか浴びせられなかっただろう。それどころか、味方であるはずのアミュレイトの人間が向ける態度も同じだった可能性すらある。
セシルのように、彼女を人間だと評した者は限りなく少なかったのだろう。だから優しい言葉に慣れておらず、困惑している。
「義手は」
「流石にそれは少ないかと」
苦笑して返す。長引き、泥沼化したこの戦争では、腕や足を失うことは死に直結する。互いに過激な思想に囚われやすくなっているのだ。五体満足で生還するか、戦場で命を落とすかのどちらか二つに寄ってしまっているのも無理はない。
「その義手はアルテア侯の作成したものなのですか?」
「はい。私はどうやら体質に異常があるらしく、この義手を通してでなければ魔法が使えないのです」
アルマの言葉に対し、セシルがよく理解できなかったかのような声を漏らす。
「異常、と申されますと」
「魔力の生成や制御は問題なく行えるのですが、外部に出力することができません。身体の内側で暴走した魔力が弾けるのだとか」
魔法は生成した魔力を制御し、命令を与えることによって初めてその形を成す。しかし、魔力を肉体の外側に放出する機能に欠陥があるため、魔力は身体の内側で魔法としての形をとろうとし、行き場を失って暴走した挙句にそのまま弾けてしまう……というのがアルマの弁だった。
アミュレイト王国アルテア侯爵――ジェント・リヴォルタ。爵位持ちの騎士でありながら、かの国における魔法の発展の八割は彼の功績として讃えられる魔法研究家にして魔法学の第一人者でもある。その養子というだけあって、彼女の説明は魔法に疎いセシルでも理解しやすいものだった。指先に灯した光で描いた図形を交えて語り、どんな小さな質問にも律義に、そして淀みなく返す。彼女の気質故か冗長になることもなく、短く簡潔に話してはいたが、それがセシルの理解を助けていた。
「アルマ様はこれからデイヴ様の講義を受けられるという話でしたが……どうやら、アルマ様にも講師としての才能があるようですね」
「そうなのでしょうか」
「ええ。魔法についても、貴女様についても、非常にわかりやすいお話でした」
そう口にしながら、アルマへと笑いかける。それに対して彼女が特に何か反応を示したわけではないが、心なしか穏やかな空気が流れているような気がした。
さて、と呟き、立ち上がる。
「お待たせいたしました。本日はこちらのブラウスとブレザーをお召しになってくださいませ。スカートはこちらからお選びください。朝餉はその後、食堂にてお願いいたします」
加工を終えた衣服を畳んでアルマの座っているベッドに置く。その後、ハンガーラックを移動させると共に吊るしたものの並びを変え、彼女の方へ複数のキュロットスカートが来るように調整した。
アルマが身体を寄せて衣服を手に取る。まずはブラウスとブレザー。使われている素材の性質や強度を確かめるかのような触れ方で、特にそれらのデザインを気にした様子はない。まだ彼女の内面に変化があったわけでもないため、この段階で『少女らしさ』を彼女に求めるのも酷な話だろう。
一度手を放し、次に様々な色のスカートの方へ動かし――そこで、彼女の手が止まった。
「どうされましたか?」
その理由はセシルにも推測できるが、敢えて尋ねる。
「どれを選べば良いのか、わかりません」
アルマの言葉はセシルの予想していた通りだった。
恐らく彼女には、自主的に何かの選択を行うという経験がない。あったとしても、精々任務を遂行する為の判断や選択といったものだろう。だが、今回はそういった目標があるわけではない。彼女の指針となる命令は与えられていない。
だからなのだろう。今の彼女は何かを求められているというわけではない。故にどうすれば良いのかがわからない。彼女を縛っている命令という鎖は、彼女の行動原理でもあったのだから。
(ですが、それがアルマ様に最も必要なこと。誰かから言われたからではなく、自分の意思で。誰かの為でもなく、自らの為に。自分だけの歩みを見つけ、踏み出さなければならない)
それはいつか、彼女にとって大きな財産になるだろう。心を育み、一人の女性として成長する為の糧となる。
(……とはいえ、まだ早過ぎるかもしれませんね。今のアルマ様は何も知らない無垢な子供にも等しい。流石にヒントくらいは出しても問題ないでしょう)
そう結論付けて、セシルは彼女の方へと足を運ぶ。失礼しますと告げて手を拝借し、スカートへと触れさせる。顔の向きも僅かに変え、全体が見えるように動かす。
「あまり難しく考える必要は――いえ、そうではありませんね。私の意見ではありますが、
「目に留まったもの……それに……心の、声」
言われことを全て理解しているわけではないだろう。それでも、ぼんやりとスカートを見つめ――そして、その裾を握る。彼女が手に取ったのは、蒼のキュロットスカートだった。
「考えなくて良い、などと言った身でお尋ねするのも気が引けますが……何か、それをお選びになった理由でも?」
セシルが問う。それに対し、アルマは手に取ったスカートを見つめたまま、小さな声で呟いた。
「わかりません。でも……これを見て、養父様の瞳が頭をよぎりました。これと同じで、空のように蒼い瞳が」
*
何本かの銀食器が宙を舞う。勢い良く向かってくるそれらを、デイヴは指で挟んで器用に掴み取り、即席の武器として用いるかのように構えた。
「
テーブルの上を駆けるアルマが小さく言葉を発すると共に、その左手の指に挟んだ二本の短剣が輝き始める。魔法による強化だ。それを確認し、デイヴは溜息を吐きながらも小さく笑って見せた。
「やれやれ。食器が破損すると朝食を摂れなくなってしまうのだがね」
「武器の指定はされなかったので」
右手に持った小皿を投擲しながら返す。左の手の甲に触れた瞬間、器用にも全身を使い衝撃を和らげるようにすることで受け止められたが、その間にテーブルから滑り降りるようにして懐へと潜り込む。勢いを殺すことなく腕を振り上げ、短剣でデイヴの首を掻き切ろうとするも、彼は右手の指の間に挟んだ食器でアルマの腕を押し、軌道を横へずらして回避する。
その直後、アルマが短剣を手放した。一本はデイヴの顔へ、もう一本はアルマの右手へ。即座に右手で握り直し、もう一度デイヴの首を斬るべく振るう。顔に迫る短剣に対処すればもう一本の短剣への対応は間に合わず、だからと言ってそちらを放置すれば、殺傷力の向上した短剣は彼の整った顔を容易く抉るだろう。
アルマが本能的に理解した、殺しの最適解。短剣を手放した左手でデイヴの右手首を掴み、身体を大きく動かすことも制限する。加えて互いの足を絡ませることで完全に身動きの取れない状況を作り出し――
「はい、ここまで」
――次の瞬間には、アルマの首筋にナイフが添えられていた。
一瞬の出来事だった。彼女の優れた知覚能力でも、何が起きたのかを理解できたのは声をかけられてからだった。目が、耳が、デイヴの行動を遅れて認識していく。
デイヴはアルマが手首を掴む直前には既に行動を終えていた。指の間に挟んだフォークを一本宙に放り、親指で弾いて顔へと手放された短剣と衝突させ、互いの軌道を捻じ曲げる。そしてそれとは別のフォークの叉を使い、アルマの着ているブラウスとブレザーの右袖口を絡め取った上で腕に押し当て、予め可動域を絞ることで空振りさせたのだ。
これにより、彼女は動きを制限していたはずが逆に逃げられない状況に陥っていた。攻撃が失敗に終わるまでに、デイヴは悠々と左手の指に挟んだナイフを握り直してアルマの首筋に添えたというわけである。
「……参りました」
全て把握し、手を降ろす。小皿は彼の左の手の甲に乗ったままだった。
デイヴが穏やかに笑い、アルマに声をかける。
「素晴らしい腕だ。確かに、これ程であれば殺し合いで勝てる者は少ないだろう。うちの兵士達が束になっても傷一つ負わせられないのも納得がいく」
――殺し合いであればね。そんな音のない声は、アルマには届かなかった。
「さて、朝食としよう。ここは少し荒れてしまったから、庭園の方で食べようか」
食器を元の場所に戻し、使用人に指示を出しながらデイヴがそう口にした。言われるがまま連れられて食堂を出る。昨日も通った廊下だが、視線を遮るものは少なく奥まではっきりと見えるため、身を潜めるには向かないだろう。
角を二回曲がり、エントランスホールに到着する。セシルとも食堂にいた者ともまた別の使用人が扉を開けると、白く染まった庭園がアルマを迎えた。
「最近は雪が続いたのもあって、晴れている時の景色は格別だね。積もった雪が良い味を出している。アルマ君はこういったものは好きかい?」
「よくわかりません」
「では、スラム街などと比べるとどちらにいたいかな?」
「それは……ここでしょうか」
「ほう。それは何故」
「衛生の観点から見て、こちらの方が優れているように思えます。見た目程寒くもないので、体調を崩す心配もないかと」
「ということは、ああいった場所にいる意味は少ないと」
「はい。物乞いに時間を奪われることもありますので」
成る程、とデイヴが頷く。
「覚えておきたまえ。君のその認識は、それに対して良い印象を抱いていない――つまりは、好ましく思っていないということ。少なくとも、君はそれが好きではないということだ」
これが『好き』と『好きではない』という感覚、心の動きだよと続け、彼は笑う。穏やかな笑み。その姿にどこか既視感を覚えたが、それはデイヴが背を向けたことですぐに霧散した。
振り向かずに、背を向けたままの状態で、続けて言葉をかけてくる。
「他に『好き』なものや『好きではない』ものはあるかな? まだよくわからないようであれば、今の感覚と比較してみても良いよ」
「本を読むことは『好き』……なのでしょうか。訓練や魔法の研究を行っていない時に読書をするのですが、スラム街で過ごすよりは有意義かと」
「空き時間に読書か。何かきっかけがあったりはするのかな」
「何かする習慣がなかった時に、養父様から『ロート姉弟と宝石の鍋』をいただきました。何かすることがないのならこれでも読め、と。それを読み終えたら『ザーフィルの旅』を。これは続き物でしたので、一冊読み終えるごとに次のものを貰っていました」
「『ザーフィルの旅』は普通の小説だから兎も角、『ロート姉弟と宝石の鍋』はあまり幼い子に読ませるものではないと思うのだがね」
デイヴが溜息を吐く音が聞こえた。
『ロート姉弟と宝石の鍋』はアミュレイトやレージュアとはまた別の国で生まれた有名な童話である。ある二人の姉弟が希少な宝石を求めて冒険していた時、先に進むには荷物の大半を捨てねばならない状況に陥った。進めば確実に宝石が得られることがわかっていたため、採算が合うと判断して先に進み、無事宝石を手に入れる。しかし、残った荷物の一つである鍋に宝石を詰め込んで持ち帰ったところ、それらは擦れ合って表面に傷がついており、挙句の果てに入手した全てが求めていた宝石に見えるよう、希少価値の低い別の種類の鉱石の表面を加工したものだったという落ちがついた。
加工品である以上当然ながらこれらの鉱石は廃棄されたものなのだが、加工された目的を端的に言うと詐欺の為である。希少な宝石と偽って高く売りつけようとした者達はすぐに捕まり、鉱石は扱いに困って人の寄らない場所に廃棄されたというわけである。ロート姉弟は詐欺事件の真相が露呈してから希少な宝石の情報を聞きつけたのだが、欲に目が眩んだ結果その真偽を確かめようともせずに行動し、大損をした。最終的にはそれが原因で貧困に喘いでいる二人の姿が描写されている。これはその教訓として語られる物語で、宝石の鍋という名称も随分な皮肉である。
元々童話は残酷な話も多く、一般にはそのような場面を改変したものが流通している。だが、この『ロート姉弟と宝石の鍋』に関して言えば、改変されたものは全くと言って良い程に出回っていない。それ故に、デイヴは子供に読ませるものではないと口にしたのだ。
「まあ、そこは私が口を挿むことでもないか。それらを読んで何か思ったことはあるかな」
「『ザーフィルの旅』は序盤に描写されたものが後の伏線や問題を解決する鍵になっていたりと、筆者の技量を感じさせるものでした。全体を通して、人の繋がりを意識した作品に思えます。それと……『ロート姉弟と宝石の鍋』は、読み終えてからも養父様に『ザーフィルの旅』をいただくまで繰り返し読んでいたのですが、こちらは一冊読み終えるとその旨を伝えていました」
「新しいものを貰うまでに、先の展開を予想するようなことはあったかい?」
「はい。それだけで時間がなくなることもありました」
アルマが首肯する。
「それは『興味』という感覚だね。君は先の展開が気になったことで、予想をしたり、次の一冊を貰いに行ったりした。それらは全て、君が物語に関心を持っていたことによるものだ。心が惹かれた、と言い換えても良い」
「……『興味』」
振り向きながらデイヴが語り、反芻するように小さくアルマが呟いた。自分でも自覚していなかった感覚、心の動き。まだよくわからないが、悪い印象を抱くことはなかった。少なくとも、スラム街で過ごすよりもこの『興味』に従って行動した方が有意義に思える。
「『好き』と『興味』には、関連性があるのですか?」
「そうだね。人は好きなものについてもっと知りたいと感じる――つまりは、興味を抱くことが多い。これはその逆も成立し、興味を抱いて知っていく内にそれを好ましく思うようになることもある。嫌いだからこそ興味を抱くこともあるが、それもこの関連性に含めて良いだろう。対象を嫌う感覚は『好き』の反対である『好きではない』の一種でもあるからね」
歩きながら質問に答え、デイヴは庭園に設けられた椅子に座る。テーブルを挟んで反対側の椅子を指差し、アルマも座るよう促した。
アルマが促されるままに座った直後、再び扉が開かれた。現れたのはセシルをはじめとした複数の使用人であり、全員が何かしらの荷物を持っている。彼女ともう一人がそれぞれアルマとデイヴの方へと進み、一礼する。
「エプロンをお持ちしました。本日は快晴ではありますが、暖かいというわけではありませんので防寒具としての機能も持ったものになっております」
失礼しますと告げ、アルマにエプロンを着せる。セシルの手の動きに淀みはなく、すぐに終わった。
どうやらエプロンの生地は二重になっているらしく、裏面は毛布のように柔らかい。それだけでなく、エプロン自体が体を覆える程大きいこともあって、感じていた肌寒さがすぐに消えていった。防寒具としての機能を持っているというのも本当らしい。
「こちらはハーブティーになります。砂糖やミルクはお好みでお入れください」
「と言っても、まだ自分の味の好みもよくわからないようだからね。最初は何も入れずに飲んで、その後少しずつ追加して比べてみると良い」
テーブルにティーカップが置かれ、ハーブティーの鮮やかな琥珀色が視界に入る。アルマは持ち手を握ると、デイヴの言う通りに何も入れずに口にした。茶葉の香りが広がり、仄かな甘みと独特の渋みが舌を刺激する。それを感じ取ると同時に、ふと一つの記憶が蘇る。確かめるようにゆっくりと嚥下すると、茶葉の香りがより深く広がる感覚がした。
「……カルメール草ですか?」
口を衝いて出た言葉に、デイヴが小さく目を見開いた。
「正解だ。飲んだことでも――ああ、君もアルテア侯も優れた……いや、それくらいでは足りない程の魔法使いだったね。過去に口にしていても不思議ではないか。寧ろ飲んでいない方がおかしいくらいだ」
カルメール草とは、魔力に対する耐性を保有する植物である。その免疫機能は平均的な人間のものよりも強力であり、より多くの魔力を蓄積することができる。このように茶葉として使用すると、飲んだ者の体内の魔力を吸収する働きを持つ。特に魔力を多量に生成して身体を傷つけてしまった場合、体内に残る魔力の残滓が回復を妨げてしまうため、吸収させて抑制する為にしばしば飲用される。
養父は魔法の研究を行っているだけあり、頻繁にこれを飲んでいた。アルマに魔法の指導を行う時や訓練させる際には、彼女にも飲むよう指示していた。その旨をデイヴに伝えると、彼は興味深いと言いたげな顔をしてみせた。
「アルテア侯もまた人の親、ということかもしれないね。君の身体が傷つくことを良しとしなかったのかな?」
「回復が遅れるとその後の活動に支障が出ると仰っていましたが」
「それもあるだろう。しかし、口先だけでは何とでも言えるからね。合理的な性格をしていればそう判断するのに違和感はないが、それだけでは君の身を案じていることを否定する材料にはなり得ないよ」
話題はアルマの養父――特にその内面へとシフトしていった。アルマはデイヴの言葉に従い、時折砂糖とミルクを追加してカルメールティーの味を変えつつ、料理を口にする。その合間に彼の問いに受け答えする流れが自然と出来ていた。
「養父様に拾っていただいたのは五年程前のことでした」
「ふむ、思っていたよりも最近のことのようだね。私は拾われる前の君のことをよく知らないから判断しづらいが、四年半で武芸や魔法を鍛え上げたのは見事なことだ」
「その前は孤児でした。言葉も扱えず、一般的な常識もなかったことは自覚しています。それと、厳密には四年半ではなく三年半です。養父様から一人前と評していただいたのがその頃でした。それ以降、ビランチャ隊に加わるまでは魔法の研究の補佐を中心に活動していました」
一度空になり、カルメールティーを追加してもらったティーカップを口に付けて告げる。デイヴはアルマの語った話に大きな驚きの色を浮かべた。
「言語を習得せず、一定量の知識を持つこともなくある程度まで育った人間がそれらを後から身に着けるのは困難だと聞いているのだがね。どうやら君の父君は、指導者として見ても一流なのだろう。それに……一年か」
「どうかされましたか?」
「いや。一人前と認められてから、戦争に関わるようになったのは随分と間があったと聞いてね、少し気になったのさ。ビランチャ隊はアルテア侯が直々に率いている特殊部隊と有名だからね。もっと早くから加えることもできただろうに」
「養父様は私を隊に入れようとしていなかったそうです。以前そういった話を聞きました」
それは彼女の養父――ジェント・リヴォルタに連れられ、騎士達の詰所を歩いていた時のことだった。騎士団に所属している者か、或いはその関係者か。いずれにせよ、アルマの知らない者に話しかけられ、煩わしそうに対応している彼の姿を後ろから見ていた。話の内容はいつも同じで、延々と繰り返されることに苛立った結果、最終的には話しかけてきた者達全員を鍛錬場の地面に沈めたことを覚えている。
――エドの奴は庇ってくれているが、議会の連中が五月蠅くてな。身寄りのない子供を拾って育てるのであれば、それに足るだけの価値を証明しろとのことだ。
――無視してやっても良いが、あの手の連中は何をしでかすかわからないからな。これだから、家督を継いだだけの無能は困る。
溜息を吐き、他人に愚痴を漏らしている姿をアルマは見たことがなかった。それどころか、拾われてからは殆どの時間をジェントと共に過ごしていたため、彼が誰かと接している姿を見たのはこれが初めてだったのだ。
――拾ったのには理由があるが、お前の考えているようなことではない。くだらない妄想をしていないで、鍛錬でもしていたらどうだ。
――隊に加えようとしなかった理由だと? お前には関係ない。……だから、その品のない妄想をやめろと言っているだろう。
会話の内容はアルマについてのものだった。拾った場所やその理由、養子にした際の待遇に王国上層部での扱い。それと、彼女に対するジェントの抱いている感情と、その逆も。彼が品がないと告げた者のように、アルマを
「それはまた……なんとも言葉にしづらいね。まあ、アルテア侯がどんな人柄なのかはある程度わかったが」
それらを聞いたデイヴは、顔を手で覆って盛大な溜息を吐く。話している間にどちらも朝食は食べ終えており、既に茶会のようになっていた。
カルメールティーを飲み干し、エプロンを脱いでデイヴが立ち上がる。
「さて、そろそろ戻ろうか。歯を磨いて、口も漱いでおいで。終わったら今日の講義を始めるよ。私は一階の応接室で待っているからね」
「はい、先生」
先生と呼ばれ、小さく笑んでから手を振って屋敷の中に入っていくデイヴ。それに倣うように、アルマもティーカップの中身を空にした。
*
「まず、心とは何か、という点について説明していこう」
大きな板を背に、魔法の組み込まれた見覚えのある筆を握ったデイヴが語る。
「心という言葉には様々な意味がある。精神作用でも、その元となるものでもある。意志や知識、感情といったものを総じて心と呼ぶこともあれば、性格や性根の傾向を指すこともある。これを簡潔に表すことは難しいが、共通しているのは全て人間の内面、精神に関わっているということだ」
知識という面に限って言えば、君の心は発達しているねと続けるのを、アルマは黙って聞いている。その姿は淡々と聞いているだけのようにも見えたが、彼女の手は忙しなく動いて話の内容を紙に記していた。
「もし本当に心というものを持たない者がいれば、その人物は自分では何も考えず、自ら行動を起こすことはない。何故ならば、人間の行動は当人の判断があって初めて成立するものだからだ。何も考えないのであれば、何かをしようとも考えないからね。では、君はどうだろうか。殺戮人形などと呼ばれているが、どうすれば達成できるか、損害を抑えるにはどうすべきか……そのように、与えられた任務を遂行する為の考える力を持っている。つまり、アルマ君はしっかりと心を持った人間であると言える。まあ、動機を与えられないとあまり考えることができないのは難点だがね」
「それは心の有無が人間であるかを決めるということですか?」
「生物学的視点や種族という括り以外で、人間の定義を決めるのであればそうなるね。人間は道徳や人道といった概念を生み出し、それに則って活動を営もうとしている。これらは心を獲得していることを前提とした概念だ。となれば、それに従う人間も心を持っていなければならない。それに、非人道的行為をした人間に対して人の心を持たないと言うことがあるだろう? 無論本当に心を持っていないというわけではなく、良心を持たず他人を慮らない人間に投げかける言葉ではあるが、そのように比喩として用いられるくらい人間と心というものは密接に結びついている」
デイヴが板に書き込んでいくのを見て、アルマもまた手元の紙にその内容を写していく。書かれた人という言葉と心という言葉を線で繋ぎ、その線の中央部分に上から二重の丸を印をつけるように記す。彼女がある程度写し終えたのを見て、再び口頭での説明が始まる。
「心についての説明はもう良いだろう。次は感覚による心への作用と心による思考への作用を考えていくよ」
そう言うと、彼は板の脇に置いてあった机の下から何かを取り出した。見れば、半透明の容器の中に何やら白い物体が幾つか入っている。容器の蓋を開け、デイヴが丸みを帯びたそれを摘まめば、指が沈んでその白い物体が柔らかいことが見て取れた。
「これは大福と言ってね。ここから随分と離れた異国に伝わる菓子だそうだ。小豆で出来た餡を餅――米の一種を蒸して搗いたもので包んで作る。朝食を食べ、歯を磨いて口も漱いだばかりではあるが、これを食べてみなさい」
手渡された大福をよく見れば、外側の白い餅には粉が塗してあり、手の上で動かすと元々乗っていた位置にはその粉が付着していた。アルマは右手で軽く握って手触りを確かめてから口に入れ、咀嚼する。餅の部分を食い破れば中の餡が顔を出し、彼女の舌にその食感と味を伝えていく。
潰れながらも感じられる豆の形と感触。主張し過ぎない甘味。全体的に癖が少なく、簡単に食べられるもののように感じられた。だが、少しすると餅の伸びやすいという性質がわかってきて、すぐに飲み込もうとすると喉に詰まる危険性もあることがわかる。
「では、次はこっちを食べてごらん」
何度も咀嚼して小さくしてから大福を飲みこんだアルマに、また別の大福が差し出された。それを受け取り、再び口の中へと入れる。噛んで餅の部分を食い破れば、少しの水気とペースト状の何かが舌先に伝わる。灼けるような熱と痛み。主張し過ぎる塩気。後から広がっていく強烈な苦味。癖が強いどころではない冒涜的な味に、とても簡単に食べられる菓子などではないことを感覚的に理解する。
「……どういうつもりですか、先生」
受け付けようとしない胃に大福を無理矢理送り込み、痺れた舌でどうにか言葉を発すれば、デイヴは顔を逸らして笑うのを堪えていた。
「い、いや……これも必要なことではあるんだがね――駄目だ、真顔で食べて微かに震えている君の姿が面白過ぎる。く、くくっ……本当に申し訳ない。とりあえず水を飲んで刺激を和らげると良い」
彼の手に握られたものを見る。透明な容器に透明な液体。受け取り、一度指を入れて先の冒涜的な大福のようなものが入っていないことを確かめてから口にする。熱くも冷たくもなく、故に更なる刺激となることなくアルマの口内を落ち着けていく。僅かながら痙攣していた身体も次第に休まっていった。
顔を上げ、デイヴの方を向く。彼は顔を背けたままだったが、少しすると深呼吸をして平静を取り戻し、視線を戻してアルマと目を合わせる。
「察しているとは思うが、二個目は大福を模した劇物としてうちの料理長に作らせたもので一般的な大福とはかけ離れている。さて、ここで質問だ。君は二個目の大福を食べてどう思ったかな? それに、一個目と二個目ではどちらを食べたいかも教えてもらおう」
「胃が拒もうとしているのを感じました。それと、これまでにない感覚も……きっと、私はあの大福が『好きではない』――あれを、嫌ったのでしょうか。そうなのであれば、どちらを食べたいか、というのは一個目になると思います。少なくとも、二つある状況で二個目を食べることはないかと」
「そうだね。正直私が言うのもどうかとは思うが、あんなものを好んで食べるのは狂人くらいだろう」
デイヴが笑み、アルマが彼を見つめたまま沈黙で返す。
「……どうかしたかい?」
「いえ。何故かはよくわかりませんが、この辺りで変な感覚がします」
手で胸の中心部を示す。小さく首を傾げているその様子は、自分でも何が起きているのか本当に理解できていない様子だった。
顎に手を当て、考える素振りを見せてからデイヴは彼女に語りかけた。
「それがどういった感覚なのか予想はついたが、言葉で表すのは難しいね。アルマ君は今何を考えているかな?」
「この変な感覚についてと……それと、先生のことを。特に、先程の私が言うのもどうかとは思うが、という言葉を反芻すると、変な感覚がより強く大きくなっているように感じられます」
「やはりか。それは怒りや不満といった、私へのネガティブな感情とそれに伴う感覚だね。心の中でその発言がわだかまりとなり、もやもやしている――つまりは、心が晴れない状態にあるのだろう」
一度言葉を区切り、目を逸らして再びデイヴが声を発する。
「……まあ、言うまでもなくその原因は私だろうね。あんな劇物を食べさせてその姿を笑った挙句、食べるのは狂人などと宣うのは非難されて当然だ。一回私を殴ってみるかい?」
「試してみます」
「ぐふっ」
アルマの行動は早かった。即座に立ち上がり、捻りをつけた全力の左ストレート。躊躇いなく放たれた重く堅牢な義手による一撃がデイヴの鳩尾に突き刺さり、彼はその場に崩れ落ちて呻き声を漏らした。
「ま、まさか本当に、しかも一切の躊躇も見せずに左で仕掛けてくるとは思わなかった。私に非があるから文句を言うつもりもないし、寧ろ君が小さな心の声に従ったことは喜ばしいのだが……流石に強烈な一撃だ」
腹を押さえ、壁に手をつけながら立ち上がって称賛するデイヴに対し、アルマは戻した左手を見つめていた。何度か開いては握ってを繰り返し、拳に残った感触を確かめているようにも見えた。
「変な感覚……もやもやした感覚、で良いのでしょうか。それが薄れていくのを感じます。これが、不平不満やその解消方法なのですね」
「いや、これを解消の手段にするのはやめなさい。ものに当たり散らす人間もいないわけではないが、君の周囲で積極的に何かを壊すような者はいなかっただろう」
「養父様は騎士団の方々で苛立ちを解消していましたが」
「それは相手に非があり、加えて言えば双方が気心知れた仲だから……の、はずだ。私はアルテア侯が周囲の者とどういった関係を築いていたかわからないから、はっきりとしたことは言えないがね」
「安心してください。誰かを殴ることを解消方法と言ったのは冗談です。誰かを殴ることの理由として、これが一般的でなく不適格だということはわかっています」
「随分とわかりにくい冗談だね!?」
初めてはっきりとした驚愕と動揺をデイヴが見せる。これには彼女が冗談を言えたという事実や、それを唐突に差し込まれたことへの困惑も入っていたのか、アルマの見たことのない表情だった。
デイヴは平静を取り戻すと、アルマへと向き直る。
「まあ、君がこうしたネガティブな感情を理解してくれて私も嬉しいよ。これから何か嫌なことがあった時には、まずは原因を探してそれを取り除くことを考えてみよう。ただし、今回のように下手に行ってはいけないこともあるから、それらは君の持つ一般常識と照らし合わせて考えてみなさい」
「わかりました、先生」
「さて、長くはなったが、これが感覚による心への作用、それと心による思考への作用だ。君は普通の大福と劇物を食べ比べ、どちらを好むか、どちらを食べたいかを検討した。言うまでもなく、味は大福の方が優れていたからそちらを好み、食べるに値しない劇物を嫌った。そうして生まれた好悪の感情が君の思考に影響し、普通の大福を食べたいと考えたというわけだね」
話しながら再び板書を始めていく。アルマも手に付着した大福の粉を拭ってから、手元の紙に内容を写す。
「さっき私を殴ったのにも同様のことが言えるね。私は劇物を食べさせた張本人にも関わらず君の反応を見て笑っていたことでアルマ君は怒りや不満を覚えた。そして、それらの感情が私からの提案に君を躊躇いなく乗せるように誘導した」
感覚と心、それと思考についての話はこれくらいかな、と告げてデイヴは筆を置く。その後椅子に座り、アルマが紙に書き込み終えたのを確認してから口を開いた。
「今日は初日……というのもあるが、正直に言ってしまうと口頭で説明することは大体話し終えたからね。講義はここまでにしよう。明日からは様々なことを体験させ、君の心を探っていく形で執り行うつもりだ。その為にも、空いた時間にでも今日感じた自分の心に目を向けてくれると嬉しいな。具体的には、読書なり鍛錬なりする際、その内容についてどう感じるかを意識する、といった具合だね」
「はい、先生」
デイヴが宙で筆を振るえば、魔法が発動して板に刻まれていた文字が消えていく。この筆は物体を傷つけ、破壊するという魔力の性質を限界まで抑えて運用できるように作られた魔法道具だ。光魔法で文字を書き、書いた文字を任意のタイミングで消すことも可能な優れものである。
「では、これにて講義はお開き。今日はもう予定もないから、自由に過ごすと良い」
その言葉に従うようにアルマは紙をまとめ、荷物を持って退出する。そうして、一日目の心についての講義が終了した。
*
ランプの灯った部屋で、デイヴ・アバーナシーがデスクに向かっている。
(『ロート姉弟と宝石の鍋』と『ザーフィルの旅』――共通の要素は桃と橙の中間色の宝石。つまりはそういうことなのだろうが……全く、不器用な方だ)
握っていた筆を置き、頬杖をついて大きな溜息を吐く。彼の心中はアルテア侯ジェント・リヴォルタへの呆れで満たされていた。習慣に則って贈ることもできただろうに、と呟きつつ手元の紙に目を通す。
(事前の仕込みもあって心の芽生えは早かったな。冗談というものについての知識も持っていたのだろうが、ああして実践に移ったというのも悪くない)
或いは、心という原動力が極めて小さいだけで、本来の彼女は主体性のある人物だったのかもしれない。何か疑問があり、自らの内で思考を重ねても解が出ない時には素直に尋ね、答えを求める。研究者でもあるアルテア侯の下で育ったからこその気質かもしれないが、いずれにせよ心の自覚と成長に時間はあまりかからないだろう。
そのきっかけは、やはりセシルの言葉だろう。彼女に任せて正解だったなとデイヴは小さく笑う。まだ自分を人形だと考えており、純真無垢だったからこそセシルの言葉が染み込んでいった。言われるがまま――恐らく、アルテア侯に拾われる前も含めて、誰かの命令に従って生きていたのだろう。それ故に余計なことを考えず、疑うということを知らなかった。知識としては知っていたのだろうが、行うことはなかった。
(……まあ、純真無垢でなければそれはそれで心が芽生えているということでもあるから、何とも言い難いがね)
そういったことも加味すると、これは決して良いこととは言えないだろう。彼女の語った言葉だけでも、どのような生活をしていたのかは窺い知れる。
情報とは曖昧で危ういものだ。少なくとも、デイヴは昨日今日でアルマ・リヴォルタという人間の育ちを大まかに認識できた――できてしまった。
(アルテア侯に拾われたと言っていたが、戦災孤児とは少し違う。言い方は悪いが、その前から何者かに飼われていたのだろう。育った場所はアルテア領……スラム街か。私の出した話への食いつきが良かったからな。アルテア侯はやり手とは聞いているが、戦争が始まればどうしてもそういった環境は出てきてしまう。長期化すれば尚更だ)
しかし、腑に落ちないこともある。外見から判断すればアルマの年齢は十四か十五といったところだろう。
(確かにこの戦争は長期化してしまったが、それでも彼女が生まれたのは開戦前のはずだ。それから四年か五年は親元で育つ時間もあっただろう。だが、彼女にはっきりとした心や自我は芽生えなかった。普通に育てば――仮に普通でなくとも、それこそ捨てられたとしても、それらは形成されるはずだ)
そう。本来ならば、どのような育ち方をしたとしても心は得られるはずなのだ。外部から刺激を受けて育まれる。
だというのに、彼女はそれをまともに持っていなかった。身体に異常があるわけではない。現に、アルマは今日一日だけで自らの心を自覚し、育み、そしてこれから目を向けようとしているのだから。
(ということは、それができない環境にいたということになる。それも偶然ではないだろう。心を育めない環境が偶然生まれることなどない。恐らくアルマ君が心を得ずに育つように誰かが仕向けた――これは人体実験と言っても過言ではない。だが、誰がそんなことを……それに、何の目的でそうしたのか。理由が見えてこないな)
少なくとも、そのようなことをする以上そこに何らかの価値が存在するのだろう。その価値について理解しなければ追求することはできない。
頬杖をついて顔を支えていた腕を替えようとし――そこで、息を呑む。
「殺しに秀でた都合の良い存在の量産、か……?」
アルマ・リヴォルタ。『ビランチャ隊の殺戮人形』。彼女は殺しに長け、殺意を感じ取り、死と共に生きているような人間である。もし彼女が人為的に生み出されたのであれば、同じことができない道理はない。もしくは前後が逆で、そのような者を作ろうとして彼女が生まれたのか。
いずれにせよ、無視できるようなことでもない。これらは全てデイヴの憶測でしかないが、アルマのルーツを考えると納得できることも多い。殺しの技術をどこで会得したのかという点にも説明がつく。
「やれやれ。アルマ君の成長を以て、私の御役目も終わると思っていたのだがね」
あと一ヶ月……長くとも二ヶ月もすれば彼女は自分の心を明確に認識できるようになると考えていたのだが、もう少しだけ働かねばならない。後々のことを考えて今の内から整理をしていたというのに、面倒事が増えてしまったなと心中でぼやく。
椅子に身を預け、天井を向いて大きく伸びをする。
薄暗い部屋の中、部屋の片隅でランプの光が二台の通信機を照らしていた。