慌てて家を飛び出したので、のび太は何とか時間以内に集合場所にたどり着くことができた。
慌てて走ってきたので集合場所の空地にたどり着くころには、のび太の息は上がっていた。
地域ごとに集合場所に集まって登校することになっているので、一人でも遅れると、みんなが遅れることになる。
のび太は遅刻の常習犯なので、これまでに何度も遅れていた。
しかし、今日は遅れずに到着できた。当たり前のことだけれど、他の児童にとっては感心するべきことだった。
「のびちゃん、今日は遅刻しなかったのね。偉い偉い」
「はは、あ、ありがと」
年下の学年の女の子にそう言われると、5年生になるのび太にとってはとても恥ずかしいことだった。
「のび太、今日は遅刻しなかったな。これが当たり前のことなんだからな。毎日続けろよ」
続いて、同級生の骨川スネ夫が嫌味らしくそう言った。
「うん、ごめん」
「まったく疫病神が一人いると大変だぜ」
スネ夫は八方美人な性格で、色々な人におべっかを使うが、無能なのび太にはめっぽう厳しかった。
「野比君も来たことだし、それじゃあみんな行くよ。ちゃんと並んで」
交通リーダーを務めている出木杉が声をかけると、集まった児童たちは整列した。
出木杉杉男。
学校一の秀才で、成績は常にトップ、スポーツ万能でおまけに美男子。のび太の対極にいるような存在だった。
出木杉は女子からも高い人気を誇っているが、誰にでも優しく丁寧に接する素晴らしい性格の持ち主でもあった。
正義感も強く、のび太が遅刻しても、わざわざのび太の家まで迎えに行くほどだった。
すべてにおいて完ぺき。のび太は何度も出木杉をうらやましいと思った。
◇◇◇
教室に到着すると、のび太は自分の席についた。
特に親しい友人もいないから、席に座ると、のび太がやることは空を漂う雲を眺めることだった。
「あの雲大きいや。天国かも」
のび太はそんなふうなことを考えながら、ぼんやりと雲を眺めていた。
担任の先生からは「野比はいつもボーッとしている」とよく言われる。
のび太は昔からメルヘンの世界に逃避する癖があった。嫌なことがあったときは、空を見上げて、メルヘンの世界を想像した。
空には天国があって、そこでは多くの人が楽しく暮らしているのだとか、空に輝く星には宇宙人が住んでいるのだとか。
そうした妄想に浸っている時だけが、のび太の楽しみだった。
現実を直視してもろくなことがなかった。
例えば……。
「算数の宿題やってない。どうしよう……」
現実を直視すると、うんざりすることばかりだった。
「算数、国語、社会……今日も長い一日になりそうだ」
時間割を見ても、ろくな未来を想像することができない。
それならば、妄想に浸っていたほうがいい。のび太はそうして現実を逃避した。
現実を逃避している間は楽しいことがたくさんある。
「のび太さん、今日はちゃんと宿題をやってきた?」
妄想に浸っていれば、こうしてとてもかわいい女の子が話しかけてもくれる。
「うん、僕は宇宙を救うガンマンになったんだ。悪い宇宙人を倒して宇宙の平和を守ったんだ」
「なに言ってるの、のび太さん。宿題よ、宿題」
「え?」
のび太は我に返った。妄想だと思っていたが、そうではなかった。前を見ると、そこには美少女がまっすぐのび太のほうを見ていた。
「し、しずかちゃん、ごめん、何だっけ?」
「宿題。のび太さんのことだからやってないんじゃないかと思って」
「うん……やってない」
「やっぱりね」
しずかはため息をついた。いつものことだから、しずかも慣れた様子だった。
源しずか。
クラス一番のマドンナであり、男子からの人気は高い。学年を越えて、学校を越えて愛されている。
のび太がひそかに恋心を寄せる相手でもあった。
しかし、その恋心が叶うことはない。他ならぬのび太が一番よくわかっていた。
星の数ほどいる男子の中から、どうして自分が選ばれるのか。
だから、のび太はしずかへの恋心をできるだけ心の奥に隠していた。
恋心を抱いていると知れると嫌われるだけだと思っていたから、のび太は遠くからしずかのことを見ているだけで、自分からは決して積極的には関わらなかった。
しかし、しずかは昔からのび太のことで何かと世話を焼いてきた。
今日もわざわざ宿題をやっているかどうか確かめに来た。
しずかは博愛的な性格の持ち主だった。困った人を放っておけない性格。その優しい心がのび太としずかの唯一の接点になっていた。
「はい、このノート貸してあげるから。これで提出して」
「う、うん、ありがと」
しずかはのび太のために、のび太名義のノートを取っていて、それを貸してくれた。
ノートにはとてもきれいな文字で「野比のび太」と書かれていた。
「ただし、放課後は居残りよ。いい? 私がちゃんと教えてあげるから勝手に帰っちゃダメよ」
「は、はい」
しずかのおせっかいは常軌を逸していて、わざわざ放課後の居残り勉強まで付き添ってきた。
のび太にとってはそのおせっかいをどう受け取っていいかわからなかった。とても複雑な気分だった。
決して叶わない恋だけど、しずかとこうして関わることができる。叶わないならいっそのこともっと距離を取ってしまいたいと思うこともあった。
しかし、しずかはのび太を離すことはなかった。
◇◇◇
しずかのおかげで先生の説教を回避したのび太は無事昼休みを迎えることができた。
束の間の給食の時間。
のび太は食べるのが遅かったので、多くの者が食べ終わった後でもまだ給食を食べ続けていた。
「よし、ドッヂボールをするぞ。みんな集まれ!」
一番に給食を食べ終えていたクラスのガキ大将「ジャイアン」が大きな声を上げた。
ジャイアンの鶴の一声で、クラス中の男子が集まってきた。これがガキ大将の力だった。
剛田たけし。
クラス一番の腕力の持ち主で、この学校を取り仕切る正真正銘のガキ大将だった。
天性のリーダーシップを持っていて、ジャイアンの号令には誰も逆らうことができなかった。
しかし、のび太は例外。のび太はその間も給食を食べていた。
「では行くぞ。おい、女子も応援に来てくれよな。しずかちゃんも来てくれな」
「はいはい」
ジャイアンがそう言うと、女子もまとめて統率されみなグラウンドのほうへ降りて行った。しずかも連れて行かれたので、のび太にかまってくれる人はいなかった。
結果、あっという間に教室は静かになった。
残った生徒はわずかだった。
のび太はクラスの集団から完全にはみ出ていた。
しかし、それでもよかった。
孤独は辛いが、どうせドッヂボールに参加しても恥をかくだけだ。
運動神経のいいジャイアンと出木杉の一騎打ちになって、のび太はただの当たり屋にしかならない。
女子は出木杉に夢中。のび太はいてもいなくても関係ない存在でしかなかった。
だから、のび太は孤独のほうがいいと思った。
むなしいが、そのほうが恥をかかなくて済む。
しかし、のび太にはもう一人だけ仲間がいた。
みんなが教室の外に出て行ったあと、教室のドアをそろそろと開ける女の子の姿があった。
女の子はのび太の姿を見つけると近くにやってきた。
「のび太君、ごめんなさい。お食事中だったのね」
「ジャイ子ちゃん。いま食べ終わったところだよ」
「この前言ってた漫画あるでしょ。ようやくネームが完成したから、のび太君に見てほしいと思って持ってきたの」
ジャイ子はそう言うと、カバンからネームの束を取り出した。
ネームとは、漫画の概要を示した設計図のようなもので、原稿はそれをもとに作られる。
のび太はジャイ子からネームを受け取った。
剛田ジャイ子。
クラスを仕切るあのジャイアンの妹だ。
しずかのような美少女ではないが、ジャイ子は兄のジャイアンとはかけ離れた心の優しい少女だった。
ジャイ子は漫画を描いていて、漫画家になるのが夢なのだという。
ジャイ子の近くに漫画のすばらしさを知る人はあまりおらず、なかなか趣味を共有できずにいた。
多くの人にとって、漫画はちょっとした娯楽であって、人生を賭けるほど大げさにはとらえていない。
しかし、のび太は漫画が好きだった。
人生を賭けるほど大げさなものではないかもしれないが、のび太は誰よりも漫画にのめり込む性質だった。
その理由は1つしかない。
のび太にとって、リアルはただただ過酷だから。
漫画の世界は平和だ。どんな大きな戦争が描かれても、漫画の登場人物たちがどれだけ苦悩しても、それはすべて魅力的に映る。
リアルの苦悩と漫画の苦悩はまったく違っていた。漫画の苦悩は必ず救済されるが、リアルの苦悩は決して救済されない。それどころか、苦悩には苦悩が重なってくる。
だから、のび太にとってはリアルよりも漫画の世界のほうがずっと心地よかった。ただの娯楽以上に、その魅力を感じ取っていた。
のび太は一通りネームに目を通した。
「へー、ダメダメな主人公のもとに未来の世界から犬型ロボットがやってきて未来を変えるか……すごく面白いよ」
「本当に?」
「うん」
のび太は素直に評価した。小学4年生で漫画を描いているというだけでも尊敬できるが、この漫画の主人公はのび太の境遇をとても反映していたので、より感情移入できた。
「じゃあ、これを完成原稿にしようと思う。次の新人賞までに間に合わせてみせるわ」
「頑張って」
「完成を楽しみに待っててね」
ジャイ子は笑顔でそう言うと、去って行った。
「漫画か……」
のび太も漫画家になりたいと思うことはあった。しかし、集中力が続かないし、絵もろくに描けない。努力しようにもやはり続かなかった。
ジャイ子は去年から漫画を描き始めたようだが、休み時間も原稿に向かう努力家だった。ジャイ子の気質はのび太とは根本的に違っていた。
のび太は漫画家ではなく、ただただ自分の思い描く妄想の中に浸っていたかった。
ダメダメな主人公を助ける未来のロボットを描くのではなく、自分がその主人公でありたかった。
現実にそんなことはありっこないけど、のび太は現実を離れ、妄想を膨らませた。