娼女人形は罅割れない ~手も足も無いけど笑顔はあります!~ 作:白臼
……え?今月末にも新作が?
髪は女の命だと人は言う。
そして命であるからにはそれ相応の
どんなものであっても生きているからには栄養を付けたり、動かしてやったり、休ませてやったりと代謝をするのが道理であり、必然それをこなせるように周りが協力してやらねばならないわけである。
「お湯流すよー。目閉じててー」
「はーいっ」
そんなわけでニーナは先髪の時間だった。
背後からの声に答えてから目を閉じるとざばぁーっ、という豪快な音と共に頭の上から湯が掛けられる。
先ほどまで頭皮の汚れを落としてくれていた石鹸の泡が湯に溶けて消えていく。
何度か大雑把に上から被らされるが、すすぎ洗いもそれだけでは終わらない。
僅かでも泡が残っていると頭皮のかぶれや髪自体の痛みの原因になるのですすぎは非常に重要だ。
ニーナの髪を洗っている女性は彼女の長い髪を一房ごとに分けるようにしてから、丁寧に丁寧にお湯で濯いでいった。
「うん、これでいいかな。髪、軽くまとめるよ」
「はぁい。ありがとう、アイシス姉っ」
「どういたしまして」
ニーナのニッコリという擬音まで聞こえてきそうな屈託のない笑顔を向けられたのは褐色肌の女性、アイシスである。
『リーベ・エンゲル』の娼婦であり、同時に一際人気を集める有名な踊り子でもある。
普段、ニーナの入浴介助は一般女性従業員が交代で担当しているのだが、今日に関してはたまたま非番だった彼女が買って出ている。
アイシスにしてみれば、実のところ他人の面倒を見るというのは兎角煩わしく感じるものなのだが、相手が自分を慕ってくれる妹分であるならば一つ骨を折るくらいはやぶさかでもないのであった。
アイシスは一通り体と頭を洗い終わったニーナをひょい、と抱え上げる。
両手足のない、出来損ないの人形のような少女の体を見て最初は面食らったものだったが今は慣れたものだった。
普通の人間に比べれば随分と軽いその体を浴槽――――ではなく、予めお湯を張った
手と足のないニーナは浴槽の中で一度体を滑らせると体勢を戻せずにそのまま溺れてしまう危険があるのだ。
それならべったりと中で寝そべるような姿勢になっても問題ない
「じゃあ、僕は自分の体洗うからちょっと待っててねー」
「はぁーいっ」
そう言ってアイシスは自分の体をざっと洗う。
泡を含ませたスポンジを肌の上に滑らせて、お湯で頭ごと濯いで、髪を洗ってまた濯ぐ。
ニーナに対してしたものに比べれば何ともあっさりとした代物だった。
「アイシス姉ってば自分の体やるときはなんていうか、早いねえ。ちゃんと洗ってる?」
「お母さんみたいなことを言うね、君は。お風呂なんて埃と垢を飛ばせればいいと思うんだけど」
「でもあたしの時は丁寧にしてくれたよね?」
「君のことが大事なんだよ。君はとっても可愛い女の子なんだから、洗うだけじゃなくて磨かないとね」
「きゃっ♡アイシス姉ってば大胆っ」
「口説いてるわけじゃないんだけどなぁ。事実を言ってるだけだよ」
自分の体を洗い終わったアイシスは、
実際アイシスはやや風呂嫌いの気があり、体を洗うのもお湯に浸かるのもあまり時間を取るようなことはしない。
娼婦として身を整えるのも仕事の一環と割り切っていなければ当分風呂に入らないような生活を送っていただろう。
「でも、あたしは
「本当に?そうだと嬉しいな」
「本当だよーっ。あたし、アイシス姉のステージ大好き!キラキラしてて、色っぽくて、ぶわーってなって、目が離せないもんっ!」
「ふふふっ。そう言って貰えるとありがたいねえ」
平静を装いながらもアイシスの口元は緩く微笑んでいる。
表現者にとって観客の生の感想はいくらあっても嬉しいものだ。それが特に称賛の言葉であるなら何をかいわんやという話である。
ベッドの上で男性客から誉めそやされているのには慣れているが、可愛い女の子からキラキラした笑顔で憧れと共に賛美されるというのもそれはそれで乙なものである。
「そういえばアイシス姉って、どこで踊り覚えたの?女将さんから教わったとか?」
「んー……そういえば言ったことなかったっけ。じゃあ、体拭きながら話そうか」
「えっ、もう上がるの?」
「これ以上入ってると僕がのぼせちゃうよ」
「えー……うーん、しょうがないかぁ……」
湯船の中でニーナはがっくしと腕のない肩を落とした。
『先生』の屋敷では風呂周りの設備が充実していたこともあり、ニーナにはすっかり入浴の心地よさが刷り込まれていた。
ただ自分が風呂好きだからといってそれを他人に強要する物ではないという分別くらいは彼女にもあった。
渋々といった表情でアイシスに抱えられながら脱衣場に移動する。
義肢を外した状態では自力で立てない、物を持てないニーナは日常生活全般で人の助けが必要であり、風呂上がりの場でも例外ではない。
脱衣場には予め世話役の女性従業員が待機していてお世話の準備をしていた。
はて、とアイシスは首を傾げた。今日の入浴当番は自分が引き受けたのだから他に人員はいなくても良いはずでは、と思ったのである。
「いえ、ニーナちゃんの体を拭いている間アイシスさんがそのままになってしまうではないですか。風邪をひいてしまいますよ」
「ちょっとくらいいいのに」
「子供じゃないんですからっ」
そんなやり取りをしながらアイシスは手渡されたバスタオルをとって体をわしわしと拭いていった。
もう少し丁寧に拭けばいいのに、と従業員は横目でじとっとした視線を向けるが、その
すらりと伸びた長い手足をうっすらと彩る、均整の取れたしなやかな筋肉の
褐色の肌の上に水を滴らせるその姿はちょうど水浴びをしてきたカモシカを想像させる野生の美を湛えている。
「はぁ……それじゃあ、ニーナちゃん。体拭いてくからね」
「うん、よろしくおねがいしますっ」
横目で隣の褐色美女に目をやりながら、彼女はテキパキとニーナの体を拭いていた。
勿論ごしごしと擦るような乱雑な真似はせず、タオルの繊維に水分を含ませていくような肌に優しい拭き方である。
アイシスの美しさが躍動する動物的な美しさだとするならば、ニーナの美しさは儚く壊れそうな人形的めいた美しさだ。
きめ細かくてつるりとした白い肌に、折れそうな程に華奢な体躯。あどけない笑顔。
何よりもバッサリと肘と膝とで切り落とされた手足の欠落が一層の非人間さを浮き彫りにする。
従業員はニーナの世話をするたびに、人形の
「髪やるわねー」
椅子に座らせた少女の髪を解くと、長い亜麻色がぶわりと広がる。
水を含んで濡れた髪が脱衣場の明かりを照り返す様は独特の美しさがあるものだったが、水気を含んだままだとこれも痛みの原因になるので丹念に拭いていく。
ニーナの髪は一般の女性と比してもかなり長く、彼女の腰下くらいまではあるだろう。
自分で手入れすることができない以上、これのケアも他人任せにせざるを得ない。
その上で長さと同時に美しさまで保っているのは紛れもなく、周りの人々の善意と好意によるものに他ならない。
「やっぱりニーナの髪は綺麗だねえ、女の僕でも惚れ惚れしてしまうよ」
「アイシス姉も伸ばしたらいいのに。ダンスでも映えるでしょ?」
「アイシスさんも昔は伸ばそうかと思われていたことがあるそうですよ。結局煩わしくて切ってしまったそうですけれど」
「そうなんだよ、手入れが面倒でね。あ、ニーナの櫛入れ僕がやってもいいかい?ヘアオイルも」
「自分のはずぼらなのに人の世話を焼くのはお好きなんですね……」
「ニーナが特別なんだよ。他の人にはこうまではしないさ」
「わーいっ、みんなありがとうっ」
わいわいと女三人姦しく脱衣場の洗面台の前で言い合いながら、その中心にいるのはニーナだった。
どうあっても他人の世話を受けなくては生きていけない彼女だが、そこには一切の悲壮さが存在しない。
一方的に他人に介助されることの惨めさだとか申し訳なさだとか引け目だとか、そのような感情を抱く
それ故に彼女が自分を助けてくれる身の回りの人々に振り撒くのは純粋な感謝の念だけだった。
それは結果として彼女を介護している人達からのストレスを取り除くことにも繋がっている。
誰だって陰気な顔で申し訳なさそうにしながら介護される人の世話など気が滅入るというものだろう。
その点ニーナは世話をすればした分だけ当然のように感謝と笑顔が返ってくるというのだから、世話を焼く甲斐があるというものだった。
棚からアイシスが櫛を取り、髪に塗るための香油を用意する。
水気をしっかりと取った亜麻色の長い髪は櫛を通すごとにするすると真っ直ぐに伸び、油を塗り込めると艶々とした輝きと鼻に抜ける芳しい香りを纏う。
ブラシに合わせてさらりと揺れて光を照り返す様は、夕日の下の稲穂の原が風に吹かれるような美しさだった。
長い髪をこれだけ美しく保つには相応の手間暇がかかる。
そしてそれだけの手間をかけても惜しくないと思わせているのは、ニーナの人徳に他ならなかった。
「ニーナちゃん、次は手と足付けるわね」
「ん~……そっちだけ部屋に運んでってもらっちゃダメ?アイシス姉に抱っこしてほしいっ」
「もう、いつまでも甘えてちゃダメですよ」
「ははっ、いいじゃないか偶には。ニーナくらい軽いもんだよ」
「やったぁ!ありがとう、大好きっ」
髪を整えて、貫頭衣のような簡素な寝巻を着せたところでニーナが子供のようにぐずる。
彼女の場合日常生活が歩行訓練の一環でもあるので、従業員はなるべく
堂に入った上目遣いからの抱っこのおねだりはお人好しなところのあるアイシスには効果覿面でついつい彼女も甘やかしてしまうのだった。
それにニーナの体重などたかが知れており、軽いもんだよ、という言も実際嘘ではない。
風呂上がりの支度が終わったアイシスは脱衣籠に入っているニーナの両手足を従業員に任せたまま、彼女を抱えて脱衣場を後にした。
「えへへーっ」
彼女の腕に抱えられているニーナはふにゃふにゃとした締まりのない笑みを浮かべて、肘までしかない短い腕を回して抱き着いてくる。
そういう習性の小動物か、ぬいぐるみのようだった。抱えられる程度の大きさ、重さ。小さく可愛らしく、そして温かい。
体温高いのは風呂上がりだからだけじゃなくて子供だからかな、などと思いながらアイシスは談話室の椅子に腰かけた。
二人がいるのは娼館の裏手の寮である。
時刻は既に夜で、彼女らは非番だが今頃本館の方では同僚たちが忙しくしている頃合いだろう。
寮もほとんどの人が出払っていて閑散としているが、耳をすませば表の喧騒が聞こえてきそうである。
そんな騒がしさを感じるとつい踊りだしたくなってくる衝動を感じながらアイシスは机の上に予め置いてあった水差しからコップに中身を注いで飲み干した。
「……で、話の続きなんだけどさ」
「えーっと……うんっ。アイシス姉がどこで踊り覚えたのかっていう話だったね」
「そうそう」
ニーナにも水を飲ませてあげながらアイシスは天井を仰いだ。
白い漆喰の上にぼんやりとした蝋燭灯りがゆらゆら揺れる橙の光を投げかけているのを見ながら、彼女は自分の記憶を手繰った。
「平たく言うとさ、僕の家系は三代続けて踊り子なんだ」
「三代だから、おばあさんから?」
「そう。おばあさんの代から踊り子で、娼婦」
アイシスはその褐色の肌からわかる通り異国の地を引いている。
彼女の祖母は海を挟んで向こう側にある南方の出身だった。
母からの又聞きであるため具体的な経緯は知らないが、祖母は
しかし、それからまた色々とあって二人は破局。祖母は碌な手切れ金も与えられずに恋人の家から追い出され、遠い異邦の地で一人きりになってしまった。
「で、言葉もほとんど通じない。頼る人も無くてお金も無くて、そんな状況で女が生きていくとしたら――――まぁ、体で稼ぐしかないよねぇ」
そうしてアイシスの祖母は娼婦になった。
せめてもの幸運は、彼女がかつて故郷で修めた舞踊の技があったことだろう。
それに
順風満帆とは到底言えないが、そうやって彼女は生きる術を見出していった。
「まぁ、そんな感じで暮らしてる間にお母さんが生まれて、お母さんから僕が生まれたってわけ。お母さんが言っていたところによると――――この踊りは
娼婦に身をやつしたときに祖母の内にどのような葛藤があり、その仕事をどう捉えていたのかはアイシスには知る余地も無い。
ただ、少なくとも踊りは彼女の命を救った武器になったし、アイシスの母が生まれたときにもそれが身を助けることを願って授けたものである。
当代を生きているアイシス自身はそこまで困窮しているわけではないので生きるのに必死だったろう祖母の気持ちまでを推し量ることはできないし、踊りへの向き合い方も違う。
ただ、学んで損になる技術だと思ったことは無いし――――それに、
「それに、踊るのは好きだよ。おばあさんの意志やら、受け継いだ誇りやら、何やらあるけど、それは置いておいて――――僕は純粋に踊るのが好きだよ」
「あたしも好きだよっ!綺麗なものっていっぱいあるけど、アイシス姉の踊りが一番綺麗だと思うっ」
「ふふふっ、そう言って貰えると嬉しいなあ。……まぁ、踊りしか能がないんだけどね、
膝の上でニーナが底抜けに明るい笑みを浮かべ、アイシスはそれに苦笑交じりで答えた。
実際のところ、アイシスの家系は三代続けて踊り子であり、同時に三代続けて娼婦でもある。
母は祖母の背中を見て育って同じ生業に進み、アイシス自身も母の背を見て育って同じ生業に就くことになった。
踊ることと、体を売ること。自分がそう生きて来た道しか知らない以上、子供にもそういう生き方しか教えられなかった。
これは連綿と続く、彼女ら三代の宿痾と言うべきかもしれない。
「別にいいんじゃないの?アイシス姉、娼婦のお仕事嫌い?」
「好きとか嫌いとかじゃないけど、健康じゃないとは思うよ。おばあさんもお母さんも、この仕事で体壊したからねぇ」
アイシス自身に娼婦という仕事にさしたる感慨はない。
楽しく踊った後に付いてくる、いつもの仕事の一つという認識。
娼婦の母を持って、物心つくころから
ゴミ出しや風呂掃除と同じ程度の労力だと思っている。
ただ、不健康な仕事だという自覚はある。
祖母と母だけでなく性病などで体を悪くして亡くなった人を何人も知っている。
それに、そもそもの話として娼婦は美しくなくては客が取れない。
水商売、という言葉の通り
色んな意味で不安定な仕事なのだ、娼婦というものは。
「壊れたら直せばいいんだよっ。『先生』ならなんとかしてくれるよ?」
「……なるほどねぇ……」
それは特例中の特例だよ、とアイシスは胸の中で突っ込んだ。
『先生』と呼ばれる人物が一枚噛んでいるお陰で『リーベ・エンゲル』の娼婦の健康管理は極めて良好だ。
近頃普及している性病予防・避妊効果のある魔術紋も元はと言えば『先生』の発明だという噂がある。本家本元の監修を受けているのだから質は折り紙付きだろう。
彼の弟子であるアナベルが時折従業員の診察もやってくれるというのもありがたい。
ただ、その『先生』が
「――――あたしは好きだよ、娼婦のお仕事」
そんなことを考えているアイシスの膝の上でニーナがそう言って笑った。
目元を綻ばせた、無垢な赤子のような微笑みだった。
「ご飯は美味しくて、布団とお風呂はあったかくて。綺麗なお洋服を着せてもらえて、素敵なお化粧もしてもらえる。お店のみんなは家族みたいに優しいし、お客さんはあたしが頑張ると笑ってくれて、その上気持よくして貰えるのっ。あたし、ここのお仕事大好きだよっ!」
彼女の言葉に嘘も偽りも誇張も無い。
一日の食事が胃に注がれた精液だけということも無く、牢に押し込められて朝起きたら隣で寝ていた同僚が冷たくなっていることも無い。
言うことに逆らっても、反抗的な眼で見ても、何をしたとしても
『リーベ・エンゲル』の環境は彼女にしてみれば天国のようなものだ。
ここで働き始めたときからずっと、ニーナは幸福だらけの夢見心地で生きている。
「……うん、そうかい。それなら、良いと思うよ」
そのどこまでも晴れ晴れとした笑顔にアイシスは何も二の句を告げることはできなかった。
腕の中でそっと抱きしめる少女の体躯はともすれば折れてしまいそうな程に細く華奢で、否が応にも庇護欲をそそる。
その癖ぽかぽかとした子供じみた体温は膝の上に載せているだけで安心感を誘う。人型の湯たんぽのようだ。
そう、子供だ――――そんな子供がこうやって体を売る仕事をしていてそれが健全なはずもないだろう、とアイシスの頭の隅の理性的な部分がそう言っている。
しかしながらそれを批判するような資格は彼女にはなかった。
アイシス自身、ニーナと同じような年頃には既に春を
「……ま、将来の事も少しは考えときなよ。一生涯続けられる仕事じゃないんだからさ」
「うっ、それは確かに……。うーん……難しいなぁ」
口を突いて出たのはそんなお茶を濁すような言葉だけだった。
その台詞の何とまぁ空虚なことか。自分だってそうやって将来の事を考えていないだろうに、と心の中で突っ込みを入れる。
不健全な仕事をしている自覚があるくせに、踊っているだけで……その後で客と寝るだけで食うに困らないなんて楽な商売だ、などと本音の部分ではそう思っているのが彼女だった。
自覚はあるのに自分自身の事だと何とも怠惰でずぼらなのは、真にアイシスの悪癖という他なかった。
将来、将来……と難しい顔をして呻く