宇宙世紀0105年、6月。
オーストラリア。
オエンベリ基地。
オルカ旅団によるオーストラリア全土の襲撃事件から、すでに2ヶ月という時間が過ぎようとしていた。
ダーウィンとオエンベリ基地の奪還という流れから、南下作戦を継続している地球軍だが、その作戦推移は遅々たるものであった。
南極海ルートからのトリントン、メルボルン、アデレードへの橋頭堡確保にも失敗続きの地球軍は、躍起になって資材と人員を投入し続けている。だが、その結果は、投入したさまざまなものを飲み込む不毛な消耗戦の様相を呈していた。
2ヶ月もあればオルカ旅団の物資も尽きると楽観視していた専門家もいるが、相手は宇宙との玄関口であるアリススプリングス基地をはじめ、内陸の基地も依然として確保したままだ。
宇宙から降りてくる救援物資についても、制空権を奪われているために阻止することができない。投下する艦艇の捕捉に宇宙軍も躍起になってはいるが、アクシズ落としの件もあり、宇宙軍の統制は回復しきっていない。その影響もあって、地上と宇宙の連携は最悪の状態となっていた。
いま、地球軍は自身の肥大化した組織と汚職、それによって停滞した命令系統によって、うまく四肢を動かせず、行動の遅延を招いているといえよう。
そんな悪循環の中。
オエンベリの簡易指揮テントの中には、赤茶けた大陸の地図が大きく投影されていた。
ホログラムの上に進軍予定ルートが青い線で示され、その周囲には敵勢力を表す赤い表示がいくつも浮かんでいる。
「オエンベリから南下するとはいったものの、目下の目標であるアデレードまでには難関がいくつかある」
ケネス・スレッグ大佐はそう言いながら、地図上の一点を指差した。
「まずはアリススプリングスにある基地だ。ここは補給基地として潤沢な燃料や補給物資が集積されている場所だが、現在もオルカの占領下にある」
砂漠の中央に光る赤い拠点表示が、存在感を放っている。
「ここを取れば、オルカ旅団の補給を断つことにも繋がるのでは?」
若い士官の問いに、ケネスは首を横に振った。
「相手がそれを予知しているのは考えるまでもない。現に昨日、ここを奪還しようとビッグトレーまで持ち出した部隊は全滅している」
ホログラム上の赤い表示が、一つ点滅したまま消える。それは、昨日消えた部隊の位置を示していた。
「ダーウィンから補給と増援は来ているが、上陸前の段階で被った損害から、政府や軍の上層部は大規模な部隊投入や補給物資、増援について消極的になってきている」
そこで、ケネスは一度言葉を切った。
わずかに口元を歪める。
「……表向きは、だがな」
その一言に、何人かの士官が顔を上げた。
「どういう意味ですか?」
若い士官の問いに、ケネスは肩をすくめた。
「簡単な話だ。上はキルケー部隊の戦果が気に入らんのさ」
静かな口調だったが、その内容は露骨だった。
「オエンベリ奪還の功績は、キルケー部隊に集中した。おまけにそれ以外の作戦はことごとく失敗続き。おかげで、作戦本部や政治屋どもは面目丸潰れだ」
テントの中に、重たい沈黙が落ちる。
「連中は、自分たちの描いた筋書き通りに戦争が進まないと気に食わん。現場が勝手に手柄を立てるのは、なおさらな」
ケネスは地図の端を鞭で軽く叩いた。
「だから、補給は渋られる。増援も回されない。書類の上では再編成中だの優先順位の見直しだのと、もっともらしい理由が並んでいるがな」
その言葉に、若い士官たちの表情が強張る。
「死ぬなら現場の判断ミスで片付く。勝てば上層部の戦略が正しかったことになる。どっちに転んでも、連中は損をしない」
誰も、すぐには言葉を返せなかった。
「今こそ積極的攻勢に出るべきでしょうに!」
感情を抑えきれず声を荒げた士官の言葉は、テントの中に重く響いた。
若い声だ。まだ戦争の「長さ」を知らない声だと、ケネスは思う。
周囲にいる何人かの士官たちも、同じような表情をしていた。
焦燥と苛立ち。
そしてどこかにある、「早く終わらせたい」という願望。
ケネスは、しばらく地図を見つめたまま何も言わなかった。
砂漠の中央に光る赤い表示。
そこには、過去の戦場が幾重にも重なって見える気がした。
一年戦争。
グリプス戦役。
ネオ・ジオンとの抗争。
名前だけなら、どれも歴史の教科書に並ぶ単語に過ぎない。だが、その一つ一つの裏側には、消えた部隊と、戻らなかった兵士と、取り残された家族がある。
「……いまだに癒えていないのだよ」
ケネスは、ようやく口を開いた。
「ネオ・ジオンとのあれこれに、グリプス戦役……そして一年戦争からもな」
その声は静かだったが、重かった。
「戦争は終わったと言われても、そう簡単に終わるもんじゃない。勝った側も、負けた側も、どこかが欠けたまま、次の戦いに放り込まれる」
テントの中の空気が、わずかに冷えたように感じられた。
「兵站は削られ、予算は削られ、人材は政治に振り回される。それでも次の争いは、前の戦争が終わった顔をして始まる」
ケネスは、指揮棒代わりの乗馬鞭で地図の端を軽く叩いた。
「上の連中にとっては、戦争はビジネスであり、昇格するチャンスであり、そして選挙に出るための口実であり、なんなら実績集めにも近い」
「すでにこの地は、不法移民者の摘発という大義名分の元、マンハンターなんていう荒くれ者がのさばっていたかつてのオーストラリアではない」
マンハンターに対する抵抗運動?そんな生優しい場所はとっくに通過している。
マンハンターの親玉と言われていたハンドリー・ヨクサンも、その親族ともども死亡していることがすでに確認されている。
もうすでに、かつての政府高官の楽園であったオーストラリアは存在しないのだ。
「だが、現場にいる人間にとっては、関係はない。すべては過去の続きなんだ。いつもその尻拭いをさせられる。困ったものだ」
その言葉には、長い戦争の記憶が滲んでいた。
誰も、すぐには言葉を返せなかった。
若い士官も、口を開きかけてやめた。
テントの外からは、整備中の機械音と、遠くのエンジン音が微かに聞こえてくる。それは、次の戦いがすぐそこまで来ていることを告げる音だった。
「大佐。我々の最終目標は?」
「ロンド・ベルの三連星」の隊長、ナイジェル・ギャレット大尉は、前で作戦指揮を取るケネスにそう質問した。彼は汗ばんだ髪を片手でかき上げつつも答えた。
「アデレードに囚われている政府高官の救出と、オルカ旅団の頭目、マクシミリアン・テルミドールの拿捕、もしくは殺害だ」
「優先順位としては?」
続いて飛んできた質問に、愛用の乗馬鞭を片手に軽く叩く。
「無論、政府高官の救出……と、言いたいところだが」
一瞬言葉を切る。
「旅団はすでに一部政府高官への危害を行っている。政府のメンツとしては、マクシミリアン・テルミドールを生かしておきたくはないのだろうな」
空気が重く沈んだ。
「我々はメンツのために死地に赴かなければならないということですか」
「そういうことになる」
その答えに、若いパイロット……レーン・エイムは拳を握りしめた。
「大佐!自分はそんなことのためにペネロペーのパイロットの座に着いたわけでは!」
「そんな言い分を聞くためにこの場はあるわけじゃない。弁えろ、レーン・エイム」
低い一言で、場の空気が凍る。
「彼らは出てくるでしょうか」
ケネスの副官がそう口を開く。
「当然、来るだろうな。衛星写真からも、トリントンから部隊がアデレードに集結しているし、ガスコイン・ジャンクションの動きも活発になってきている。この地はすでに我らの領土じゃないということは、肝に銘じておけ」
大陸の広さが、地図の中で重くのしかかる。
「アデレードまでのルートは?」
「アリススプリングスの敵とやり合うのは避けたい。我々の物資も限られるし、移動をし始めれば補給線は伸びる。背後を取られて補給を断たれれば、アデレードに着く前に我々は干上がって的になるだけだ」
ケネスは地図の上に新たな線を引いた。
「なので敵を避けるために迂回するルートを取る。我々のルートはノーザンテリトリーを南下。エアーズ・ロックを通り、ママンガリ地区を通って海岸線に出る」
広大な赤い砂漠の上に、細い線が伸びていく。
「海岸線に出れば、敵は内地に限定できるし、輸送艦隊と連携すれば、南極海ルートから来た友軍から補給物資を受け取ることができる手筈となっている」
その言葉にはその場にいる誰もが懐疑的であった。
事実、南極海ルートからのオーストラリアに上陸しようとした部隊はことごとく撃破されているのが実情だ。そんな都合よく自分達は物資を得ることができるのだろうか。
そんな疑念の気配を察したのか、ケネスは困ったように笑った。
それは指揮官の笑みというより、どうにもならない現実を前にした、諦観に近いものだった。
「この補給に関しては俺も確証はない。だが、俺たちにはキルケーの加護がついている。それしか言えんな」
軽口のような言い方だったが、その言葉に誰も笑わなかった。
この場にいる者たちは知っている。
あの地獄のような進軍の中で、キルケーの部隊がどれだけの奇跡を起こしてきたのかを。
そう言われると、誰も何も言えなくなる。
実際、レーンやトライスターズの面々は「キルケーのノブリス・オブリージュ」として、このオエンベリにたどり着いた実績があるのだ。
あの進軍は、常識では説明できないものだった。
だが、問題は海岸線に出る前にある。
ケネスの指が、地図の中央をなぞった。
「エアーズ・ロック近辺に全く遮蔽物がないという点。これが修羅場だ。敵はアリススプリングスにも例の高射砲を設置している。射程距離を考えれば迂回ルートにまでは届かないはずだが、十分な脅威になる」
砂漠の中央、ぽつんと浮かぶ巨大な岩山の映像が拡大表示される。
赤茶けた大地の中で、ただ一つ突き出した巨岩。
その周囲には、隠れる場所も、逃げ込む影もない。
そこは、逃げ場のない大地だった。
「まずはオーストラリア大陸を南下し、縦断。沿岸部に着かない限り、まともな補給は期待できん。質問は?」
誰も口を開かない。
地図の上の線は細く、あまりにも頼りない。
だが、それが彼らに残された唯一の道だった。
沈黙。
ケネスはそれを確認すると、小さく頷いた。
「では作戦開始は0600だ。各員、準備に入れ」
その一言で、空気が現実へと引き戻される。
パイロットたちは敬礼し、順にテントを出ていった。外では整備兵たちの怒号と、ジェネレーターの低い唸りが響いている。
荒野の乾いた風が、テントの隙間から吹き込んだ。
ふと、レーンがテントから出ようとした時、ケネスから声をかけられた。
「レーン・エイム」
振り向くと、ケネスは地図から目を離さずに言った。
「貴様にはアナハイムから譲渡された新型機を用意している。ペネロペーはまだ修理中で、オデュッセウスも先の戦闘で調整中だ。輸送はきっちりしてやるから、成果を上げてみろ」
レーンは一瞬だけ目を見開いた。
新型機。
それは名誉であり、同時に重圧でもある。
「はっ!」
短く答え、ケネスに敬礼する。
その動きには、わずかな硬さがあった。
テントを後にしたレーンは、眩しい砂漠の光に目を細めた。
遠くでは、新型機を収めた輸送コンテナがクレーンで降ろされている。白い機体の一部が、布の隙間からのぞいていた。
(あれが……)
喉の奥が乾く。
期待と不安。
誇りと焦燥。
すべてが入り混じり、胸の奥で渦を巻く。
レーンは顔を上げた。
「殻を被った男じゃないことを……証明してやる」
その目には、焦りと意地が入り混じっていた。
そして、その奥には、誰にも見せたことのない恐れも潜んでいた。
遠くで、警報用のサイレンが短く鳴った。
作戦開始まで、もう時間は残されていない。
▼
アデレード郊外。
かつて政府関係者の別荘が立ち並んでいた丘陵地帯は、いまや簡易陣地と監視塔が並ぶ軍事拠点へと変貌していた。
整えられていた芝生は踏み荒らされ、庭園の噴水は土嚢の陰に隠れている。
白い外壁の邸宅には迷彩ネットがかけられ、バルコニーには機関砲が据え付けられていた。
高級住宅地だった面影は、もうどこにもない。
薄暗い作戦室の中で、テルミドールは簡素な椅子に腰掛けていた。
豪奢な別荘の応接室だった場所は、いまや作戦指揮所に変えられている。
壁に掛かっていた絵画は外され、代わりに戦況図と通信端末が並んでいた。
窓の外では、装甲車のエンジン音が低く響いていて、遠くで砲声がかすかに聞こえた。
「テルミドール。やっこさんたちは、やっぱりアデレードを目指しているらしいぜ?」
「だろうな」
机の上には、地球帰還特例法案の資料が無造作に置かれている。
上質な紙に印刷されたそれは、本来ならば祝賀会の席で配られるはずのものだった。
だがいまは、戦場の埃にまみれている。
本来、このアデレードでは、中央閣僚会議を開催され、連邦軍の高官や、一部の特権階級の者たちが、地球居住権を獲得するための例外措置を認めるという法案を可決する予定だった。
政府に認可された人間のみが地球への定住を許され、それ以外の人々は、マンハンターによって強制的に宇宙へ送られ、強制的な労働に従事させられる。
事実上、地球を支配層の私有物とし、それ以外の人間を宇宙に棄民する政策だった。
そして、その理想の地球を夢見た者たちが集まったこの都市は、いまや地獄と化している。
高級ホテルは野戦病院に変わり、高層ビルの窓は砲撃で砕け、かつて観光客で賑わった通りには、いまは瓦礫と装甲車しかない。
「地球の重力に魂を惹かれた者たちなんていうが、ようは地球から宇宙を見下ろしたい奴の願望そのものってことだろーよ」
「隊長……マクシミリアンは、本気でそんな奴らを根絶やしにするつもりなのか?」
部屋に入ってきた昔馴染みの戦友であり、今はともに戦う仲間であるミスターJと、ミスターKが、冷えたミネラルウォーターを煽りながらそう言ってくる。
二人とも、ノーマルスーツのまま椅子にもたれ込むように腰を下ろした。
その表情には妙な落ち着きがある。長年戦場を渡り歩いてきた者特有の、乾いた余裕だった。
そんな二人の様子を見ながらも、テルミドールは首を横に振った。
最終的な着地点は、そこではない。
「根絶やしにはできないさ。ただ恐怖心を植え付けることはできる」
「恐怖心?」
Kが眉をひそめる。
その声には、純粋な疑問があった。
「個人的な規模の話じゃない。国家という連立された組織内に植え付ける恐怖心だ。こんな真似をすれば、また新たなオルカが現れ、人々を粛清する……とな」
通信機のノイズが、かすかに室内に響く。
どこかで戦闘が起きている証拠だった。
短く、乾いた銃声。
それが遠くから聞こえてきた。
「粛清者はどんな時代にも現れる者だろう」
Jが水のボトルを机に置きながら言う。
その言葉には、妙な重みがあった。彼もまた、何度もそういう「粛清」を見てきた人間だった。
「だからさ。重要なのは誰が粛清したのかじゃない。どういう理由で、その粛清が始まったのかだ」
室内の空気が、静かに張り詰める。テルミドールは、机の上の法案資料を指で軽く叩き、紙の端がかすかに震える。
「旧世紀、核爆弾を受けた国があった……」
その声は、どこか遠い記憶を語るように淡々としていた。
「その国は核の脅威に焼かれ、人を焼かれ、国を焼かれた。だが一世紀を経ても、その恐ろしさを忘れず、厳格に規制し続けたという」
Kが腕を組む。
「同じことをしようというわけか?」
「絶望の中で刻まれた恐怖心は、消えない。地球軍や政府は、その痛みを知らずに戦争に勝ってしまった」
テルミドールの声には、嘲りも怒りもない。
ただ、冷たい事実を並べているだけだった。
「だが、コロニーも落ちたし、フィフス・ルナも落ちた。それでも恐怖心がないってのか?」
Jが問い返す。グリプス戦役、第一次ネオジオン抗争、そしてアクシズ落とし。地球は幾度も危機に晒され、その地に大きな痛手を負ってきた。彼自身、グリプス戦役後に世界を見て回った。荒れ果てた地や、コロニーが落ちた地も見たし、そこで懸命に生きている人や、深い痛手から立ちあがろうとしている人がいることも知っている。
だが、それでも世界は歪で、支配する者たちの価値観は屈曲し、変わりはしない。
「政府の要人たちは味わってないからな。味わったのは、庶民ばかりだ」
テルミドールは窓の外を見た。
遠くの丘の向こうで、煙がゆっくりと立ち上っている。誰かの家が、また一つ焼けたのだろう。
その煙は、風に流されながら細く伸びていく。
まるで、この街の命そのものが細く引き延ばされているようだった。
「奴らは安全な場所で葉巻を吸い、戦争を讃え、人々を宇宙に追いやる。自分たちは地球でのんびりと暮らしながらな」
Kが小さく鼻で笑った。
「……そういう連中、何人も見てきたな」
「だろう?」
テルミドールは視線を外さないまま言う。
「だから必要なんだ。連中の体に刻み込む恐怖が」
Jは黙って、もう一口水を飲んだ。
その表情は、どこか複雑だった。理解はしている。だが、完全には同意しきれない。そんな色が、わずかに混じっていた。
「……アンタは……昔はこんなこと言う男じゃなかったよ」
ぽつりと、Jが言った。
テルミドールは、わずかに目を細めた。
「昔は、まだ信じていたからな」
「何をだ?」
「人間が、自分の愚かさを学ぶ生き物だってことをさ」
短い沈黙が落ちる。
外で、再び遠い爆発音が響いた。
窓ガラスが、わずかに震える。
テルミドールは、その震えを見つめながら静かに続けた。
「だが現実は違った。人間は、痛みを忘れた瞬間に、また同じことを繰り返す」
その声には怒りはない。
ただ、冷たい確信だけがあった。
長い年月をかけて積み上げられた、諦めに近い理解。
それが、言葉の奥に沈んでいた。
「その体制を壊そうとして、マフティーやテロ組織が動いてたんだろ」
Jが腕を組みながら言う。
どこか遠い昔を思い出すような口調だった。
「ああ。だが表面上でしか対応しない。いずれ、自分の利益だけ守るロボットでも作って、誰彼構わず虐殺させるだろうさ」
テルミドールの視線は、まだ窓の外に向けられたままだった。
煙の向こうには、かつて別荘地だった丘陵が広がっている。芝生と白い壁に囲まれた、静かな楽園だった場所。
いまは、掘り返された塹壕と土嚢の列しか残っていない。
「そんな未来は真っ平ごめんだ」
Kが吐き捨てるように言った。
だがその声には、怒りよりも疲労が混じっていた。何度も戦場をくぐり抜けてきた人間の、率直な本音だった。
「だから必要なんだよ。徹底した恐怖心が」
テルミドールは静かに言った。
その瞳には、迷いはなかった。ただ、決めてしまった人間の目だけがそこにあった。
「これをやっちゃいけないと、体で覚えさせる。政府という組織体制、その体に対してな」
その言葉は、宣言というよりも、確認に近かった。
そこへ、通信兵が駆け込んできた。
「テルミドール。オエンベリが動き出した。奴らはアリススプリングスを迂回して、エアーズ・ロックへと進んでいます」
室内の視線が、一斉に彼へ向く。
短い沈黙。
その空気は、戦場に慣れた者たち特有のものだった。驚きも慌てもない。
「交戦を避けた南下を模索したか。なら、保てなくしてみよう」
テルミドールは、ゆっくりと椅子から立ち上がった。
「ミスターJ、ミスターK。頼めるか?」
「任せてくれ」
「しっかり蹴散らしてきますよ」
二人の返事には、妙な明るさすらあった。
それが、この戦場の日常。死地へ向かう前の、軽口。それを言えるだけの時間を、三人は共有してきた。
「生半可な痛みじゃ世界は変わらない。それを理解するのは変化した後でいいんだよ、ハサウェイ」
窓の外で、再び砲声が響いた。
その音は、遠くの雷のように、ゆっくりと大地を震わせていた。戦争は、もう止まらないところまで来ていた。
▼
オエンベリ基地から飛び立とうとする輸送機の前で、ケネスはギギと言葉を交わしていた。
エンジンはすでに始動しており、低い唸り声のような振動が滑走路に伝わっている。巻き上がった砂埃が、乾いた風に乗って足元を流れていった。
「では、行ってくる」
短く、それだけを言った。
だがその声には、戦場に向かう男の顔があった。
軽口も、余裕もない。ただ任務へ向かう指揮官の声だった。
ケネスは踵を返し、副官やパイロットたちとともに輸送機へと乗り込んでいく。
彼らが向かう先は、エアーズ・ロック。
そして、その先にある南側の海岸線だった。
ハッチが閉じられ、機体がゆっくりと滑走路を進み始める。轟音とともに輸送機は加速し、やがて砂煙を巻き上げながら空へと舞い上がった。
ギギは、それを遠くから見つめていた。
小さくなっていく機影を、ただ黙って目で追い続ける。
その様子に、彼女の側付きを命じられた士官が、遠慮がちに声をかけた。
「ギギさんは、ついていかないのですか?」
危険な作戦にも同行してきたギギであったが、今回は様子が違った。
オーストラリアの戦乱。
多数の死傷者。
混乱する連絡網。
そして、その混乱の中で、彼女は自らのパトロンとの関係を断ち切った。
これまでの彼女は、誰かに必要とされることで生きてきた。必要とされる相手を見極め、その懐に入り込み、居場所を確保する。それが、彼女なりの生き方だった。
だが、このオーストラリアの地で起きている戦争は、そんな彼女の価値観を、根こそぎ引き剥がしていった。
あっけなく死ぬ人間たち。
名前も知らないまま、ただ数として消えていく命。
死と無縁で、誰かに必要とされることで生きてきた自分が、この世界でどう生きるのか。
その答えを、彼女はまだ知らない。
だが。
柄にもなく、その先を見てみたい。
そんな好奇心が、胸の奥で静かに芽生えていた。
「うん、私には別の役割があるから」
ギギは、輸送機が消えた空を見上げたまま言った。
「別の役割?」
聞き返す士官に、ギギはようやく振り向き、微笑みを浮かべて頷いた。
「ハサウェイ・ノアの住所を探す役割」
その言葉に、士官は一瞬だけ目を瞬かせた。
やがて、滑走路の向こう側から重いエンジン音が響いてくる。
白い巨体。
ラー・カイラム級の艦艇が、ゆっくりと基地へと降下してきた。
ネームシップ……「ラー・カイラム」。
砂煙を巻き上げながら着陸した艦のハッチが開き、
一人の男が降りてくる。
年齢を重ねた顔。
だが、その背筋はまっすぐに伸びていた。
その姿には、長い戦場を生き抜いてきた者だけが持つ、静かな威圧感があった。
ギギは、自然な足取りで歩み寄る。
社交場で身につけた礼儀正しい微笑みを浮かべながら、優雅に頭を下げた。
その様子を見た男は、わずかに戸惑った表情を浮かべたが、すぐに自分がここへ来た理由を思い出したように、表情を引き締めた。
「初めまして。スレッグ大佐から話は聞いている」
そう言って、彼は手を差し出した。
「私はブライト・ノア大佐だ」
その名は、連邦軍の中でも特別な響きを持っていた。幾多の戦争をくぐり抜けてきた男の名前。
ギギはその手を取り、柔らかく握り返した。
「初めまして。私は、ギギ・アンダルシアです」
二人の手が離れる。
その瞬間、アデレードを巡るこの赤いオーストラリアの戦いは、静かに、だが確実に新たな局面へと踏み込もうとしていた。