強い風が吹いている。
吹雪で視界が霞む。
分厚い防寒着の内側まで、冷たい空気が染み込んでくる。
地面に積もった雪は、踏みしめる度に少しずつ、それでいて確実に、僕の体力を奪っていく。
一緒に登っていたはずの仲間は、いつの間にか居なくなっていた。
彼らはこの吹雪で、道を誤ってしまったのかもしれない。
心配ではあるが、今僕が彼らのために出来ることは何もない。
自分のことで精一杯だ。
…ん?
あれはなんだ?
灯り…?
そうか!山小屋か!
この雪山にある二つの山小屋の内一つが、どうやらあれのようだ。
ああ、よかった。
早くあそこに行って暖まらないと。
凍傷で手足を失うのはごめんだ。
扉の前までたどり着いた僕は、その扉に刻まれた文字を見た。
と、刻まれていた。
錆び付いたドアノブを回し、扉を開ける。
かなり固い。
全力でドアノブを引いた。
ギギギという音と共に、蝶番からサビが落ちるのがみえた。
「こんにちは」
そう声をかけられて、僕は顔を上げた。
暖炉の側に木の椅子が一つあり、険しい顔をした老人が座っていた。
その手には一冊の本が握られている。
大きさは小説ぐらい。
ただ、とても薄っぺらい。
6ページ位しか無さそうだ。
「戸を閉めてくれ。折角の暖かい空気が逃げる。」
先客のいたことに驚いている僕を睨みながら、老人は言った。
その手はよく蓄えられたら白髭を弄っている。
「す、すいません。」
僕は言いながら、急いで戸を閉めた。
バタン
僕は老人の様子を窺いつつ、暖炉の前に行き手袋を取って、手を暖めた。
「…フン、その程度か。」
突然老人がそう言った。
僕は、その苛ついたような言葉が、自分に向けられたものかと思った。
何か不味いことでもしてしまっただろうか。
「え、あ、すいません。」
取りあえず謝罪した。
すると老人はこちらを見て、
「お前のことじゃない。」
と言って、再び本に目を落とした。
つられて僕も閉じられたその本を見た。
表紙には、『Career』とクレヨンで書いたような文字で書いてあった。
というか今気付いたが、この本コピー紙をホッチキスで綴じただけの紙の束じゃん。
本じゃねえじゃん。
僕が心の中で突っ込んでいると、突然老人はその本を暖炉の火の中に投げ入れた。
冊子は一瞬で燃え上がり、消し炭になった。
部屋の中に微かに黒い煙が立ちこめる。
「お前、名前は?」
老人が突然問いかけてきた。
「え、な、名前ですか?」
名前?僕の名前?
えっと…名前…あれ?
「思い出せないか。まあそんなことだろうとは思ってたよ。」
老人は混乱する僕にそう言った。
「なんで、どうして思い出せないんだ?自分の名前なのに…」
分からない。
本当に分からない。
「お前、なんでこの山に来たのかわかるか?」
「え、いや、分かりません。」
「じゃあここに来る前のことは?何か覚えてないか?」
「………」
「…そうか。」
老人は残念そうだ。
僕は、何も覚えていない。
この山が何なのかも知らない。
「ところでお前、どうしてそのリュックを下ろさないんだ?重たいだろう?」
老人に言われて、自分が背負っている大きな荷物の存在に初めて気づいた。
「え、いや、なんかこれは下ろしちゃいけない気がして。」
僕がそう言うと老人は不思議そうな顔で
「それの中にお前の個人情報が書いてある物が入ってるんじゃないのか?免許証とか。」
と言った。
確かに言われてみればそうだ。
こんな険しい山に来るのに、そういったものを一切持っていないなんてことが、あるはずが無い。
早速見てみよう。
僕は、リュックを下ろし、蓋を開いた。
…え?
「どうした?そんな呆けたような顔して。何が入ってたんだ?」
そう声をかけられて、僕は、自分が呼吸を止めていたことに気付いた。
老人にリュックの中身を見せる。
老人は椅子の上から手を伸ばし、リュック一杯に詰まった『それ』を、ひとつまみちぎり取った。
「これ、綿か?」
暫く手の中のそれをこねた後、老人はそう言った。
確かに、リュックにぎっしり入っているこれは、綿のように見える。
でも、どうして綿なんか…
「お前、こいつに見覚えはねえのか?」
老人が僕に尋ねるが、勿論知らない。
どうして僕は雪山に綿なんか持って来たんだ…あれ、まだ何か入ってる。
ぎっしりリュックに詰められた綿に刺さるようにして、一枚の紙切れが入っていた。
『職業ぬいぐるみシリーズ 登山家モデル $100』と印刷されていた。
…。
紙切れを見つつ考え込む僕の様子に気付いた老人は、僕から紙切れを奪い取り、少し見てから僕に返した。
「…ったく、これだからあいつらは…」
というボヤキが聞こえた。
「…僕は、これですか?」
恐る恐る尋ねる。
「そうだ。お前はどうやら量産型のぬいぐるみだったみたいだな。」
老人は直ぐにそう答えた。
「…最初から、知っていたんですか?」
「ああ、知ってたさ。俺はそういう存在だからな。」
「…ここは、何なんですか?」
「忘れられたもの、捨てられたものの墓場…への旅路だ。」
「旅路ってことは、途中ってことですか?」
「ああ、引き返そうと思えば引き返せる。が、お前の場合、引き返したところで野垂れ死ぬだけだろ。」
外の吹雪はより激しくなったようで、ごうごうという音が大きくなっている。
「他の奴ならいざ知らず、お前の場合、持ち主がお前のことを完全に忘れてやがる。というかそもそもそんなに愛情込めて扱ってない。お前に名前が無いのがその証拠さ。全く、これだから適当な買い物ばっかりの人間は嫌いなんだ。」
「…僕は」
「ん?」
「僕は、これからどうすればいいんでしょう…」
「知らねえよ。ここから進んでみんなから忘れられるも良し、引き返してワンチャンに賭けてみるも良しだ。お前次第さ。」
「僕…次第…」
「しばらくはここにいてくれて構わねえ。食料も、そこの戸棚に入ってるやつは好きに食え。」
老人は席を立ち、ドアまで歩いた。
ドアを少し開き、外へ出る。
小屋に冷たい風が入ってくる。
「え…何処に行くんですか?」
慌てて僕はそう呼びかける。
「後はお前次第だ。お前の選択に俺が関与するわけにはいかねえから、ここらで失礼するよ。あ、最後に一つだけ言っとく。」
「後悔だけはしねえようにな。経験者からのアドバイスだ。」
老人は言って、ドアを閉めた。
小屋の中には、僕だけが残った。
暫くして、男は立ち上がった。
リュックの中の綿を抜き、そこに戸棚に入っていたパンと水の入った水筒を入れた。
男はリュックを背負うと、小屋の外に出た。
吹雪は激しさを増しており、もはや自分の手すらおぼろげに見える程だ。
男はそんな猛吹雪の中に踏み出して行った。
男の姿が吹雪の中に消えた。
彼は満足げにため息をついた。
「タクトー、ごみ収集車きちゃうわよー。早くしなさーい」
「分かったよー、ママ」
青年は「イラナイモノ」と書かれた段ボール箱をゴミ捨て場に持って行った。
戻ってきた青年は手を洗い、朝食の席に着く。
「これだから人間は…」
誰かがそう呟いた。
お粗末様でした。