七つの魔剣が支配する~夜明けの魔法使い~ 作:HAL1993
迷宮からの脱出後、オリバー達は四年のミリガンに同伴してもらい寮の近くまで戻ってきていた。
ルネの
魔法生物学専攻と語ったミリガンは異界の生物に興味深そうであったし、生き物好きのカティも異界生まれの不死鳥は珍しいのかルネに色々と彼女の生態を尋ねている。
「へ~。不死鳥って炎以外のものも食べるんだね」
「はい。しかしそれはクリスタ特有のものかもしれません。彼女も
「くええ」
不死鳥クリスタは気のない声を上げ、カティが差し出すビスケットを嘴で器用に齧っていた。
「ほう。不死鳥は渡りの影響を受けない生き物だと思っていたが違っていたのか」
「多少は影響を受けるようですね。調べたところ味覚と嗅覚を得た以外の変化は見つけられませんでしたが。弱体化などの悪影響ではなく、この世界に順応するためのポジティブな変化なのでしょう」
ルネが解説している間もクリスタはビスケットに集中している。こりこりとカティの手の中のビスケットがどんどん小さくなっていく。
「……食べ過ぎじゃない?」
「ご安心を。よくクリスタの口元をご覧ください」
カティはそう言われてじっとクリスタを間近で見つめた。彼女は気にせずビスケットを食べ続けているが、よくよく見てみると嘴の中に入った菓子の欠片は瞬時に燃え尽きている。焚火に水滴を放り込んだように一瞬で消えていた。
ミリガンもカティの後ろでその様子を観察する。即座に焼き尽くされたビスケットの欠片はこの不死鳥に食事として取り込まれているようには思えなかった。
「へえ、これは面白い。この子にとって炎以外の食べ物は栄養にはならないんだね。本当に楽しむだけに食べているのか」
「はい、ミリガン先輩。その通りです。クリスタが何を食べても、それらはすぐに燃やされて消えてしまいます。そこから何かしらの栄養などを摂取したり、自身を活かすために利用したりといったことは観察できませんでした。クリスタにとって炎以外の食事は刺激を得るためだけの娯楽なのですよ」
こうして齧る菓子はこの不死鳥にとって毒にも薬にもならない。彼女の生存に必要なのは炎である。
それ以外は味を楽しむためだったり、匂いや食感を楽しむためだったり、とにかく故郷では知らなかった感覚を得るために不死鳥は夢中になっているのだ。
「なのでどれだけお菓子をあげてもクリスタは太りもしませんし、病気にもなりません。ちょっと羨ましいかもしれませんね」
カティの手のビスケットを食べ終えた不死鳥は満足げに「くええ」と鳴いた。
おやつを与え終えてもカティはじっとクリスタを見つめている。ルネは思案し、彼女に提案した。
「よろしければ一晩、クリスタを預かってみますか?」
「え? いいの?」
早速食いついてきたカティにルネは快諾する。
「もちろん。構いませんよ。でしょう、クリスタ?」
「くえ」
不死鳥はちらりとカティを一瞥し、納得した様子で頷く。そしてルネの肩からカティの肩へと飛び移った。
その際、何の衝撃も重さもなく乗ってきたのにカティは感動した。異界の生き物の神秘さに触れたのである。
背を撫でてあげるとまるで焚火に手をかざした時のように手の平が暖かくなった。
「くえええ」
「ふふ、可愛いね。クリスタ」
気持ちよさげに声を出す不死鳥に生き物を愛する少女は自然と笑みを見せる。
「こんな夜には不死鳥の歌が聞けるかもしれませんね。ご存知でしょうか。彼らの歌は彼らの敵には絶望を、仲間には平穏を与えると。
「そうなんだ……また後で歌ってくれる? クリスタ」
「くえ」
知性ある仕草で不死鳥は頷いた。
その光景をミリガンは羨ましそうに見つめている。
「
「順番待ちですよ、ミリガン先輩。また今度でお願いします」
こうして話している間に寮前の広場に到着する。ミリガンとはここで別れた。「お休み」と彼女は一人寮へと戻っていく。
ルネ達もここで解散になるかと思いきや、オリバーがこほんと咳払いを一つしてメンバーを呼び止めた。
「──ナナオ。何を言いたいか分かるか?」
そしてナナオに向けてそう言った。
ぴくりと彼女の肩が震える。
迷宮内でオリバー、ミシェーラ、ピートはまずオフィーリア=サルヴァドーリと遭遇し、彼女から逃げた後はサイラス=リヴァーモアと出くわしてしまったのだ。
そして彼の骨の柵に行く手を遮られた後にオフィーリアが追いつき、途端にサイラスとオフィーリアが口論を始め、決闘へとすぐに至ったのである。
二人が協力して新入生を狩っていたわけではないのはここからも明らかだが、上級生同士の決闘に巻き込まれたオリバー達はたまったものではない。だが逃げ出そうにも骨の柵があって逃げ出せない。
そんな時にナナオが現れた。彼女なりにこっそりと近づいたつもりだったようだが、サイラスにあっさりと気づかれ、彼女も骨の柵に囲まれてしまったのだ。
ルネはこの過程を「
相手は五年生の戦い慣れした魔法使いである。ナナオも戦場慣れしているが、元々彼女は気配を絶つなどの隠密に長けているわけではない。
何の考えもなしに姿を現し、直接戦いを挑まなかっただけでも落ち着いている方なのかもしれないが。
オリバーはナナオに説教を始めた。
まずルネに待つよう言われたのに迷宮内に勝手に入ったこと、そして無謀な行動を取ったことだ。
とうとうと語られる叱りの言葉にナナオはただただ申し訳なさそうにするばかりであった。
「……最後に。キンバリーで暮らすのであれば無茶ばかりする相手の近くにはいられない。周りもそれに引っ張られるからだ」
長々とした叱りを終え、オリバーはナナオに確認する。
「約束できるかナナオ。もう無茶はしないと」
「うぅ。かしこまったにござる。──ここに誓いを立て申す。無謀に出ず、貴殿らの近くにあると」
説教に参った様子のナナオだが、しかし誓うと口にした時には背筋を伸ばし、ぺこりと頭を下げた。
「ゆえに教えてほしいでござる。ここでの生き方を。実をいうと今日の授業も、これから全くついていける自信があり申さん」
「ああ、もちろんだ」
「安心しろって。俺も全く自信がなかったからな。な、ピート!」
「ぼ、ボクを巻き込むな!」
照れ臭そうに話すナナオの様子にオリバー達は安堵した。もう大丈夫だと。
「そうですね。もし授業で分からないことや、より魔道を究めたいということでしたらいつでもお声かけください。ぜひとも協力させていただきますよ」
ルネの提案に真っ先に反応したのはガイだった。
「マジか! じゃあ、早速」
「ガイ。今日はもう遅いですから、また後日にしましょう」
そう止めたのはミシェーラだ。
そんな話の流れでしばし雑談が続いた。
これで安心である。誰もがそう思っていたようだった。ナナオでさえも。
しかし、ルネはそうは思わなかった。ゆえに彼は使い魔を彼女らに近づけたのである。
門限の時刻になり扉が閉まる寸前にナナオ、カティ、ミシェーラは女子寮へと飛び込んだ。すっかり話し込んでしまい遅くなったのである。
「ふう。どうにか間に合いましたわね。ではカティ、ナナオ。また明日。お休みなさいませ」
「うん、お休み。シェラ」
「お休みでござる」
ナナオとカティは同室であるので一緒に部屋まで移動し、別室のミシェーラはそう二人に挨拶をして別れた。
その後、自室に戻るまでも戻った後もカティはずっと不死鳥に魅了されていた。
尾羽や足に触ってみたり、頭の飾り羽に触ってみたりとクリスタが許す限りの接触を行っていた。
「ふむ。拙者にとって鳥とは鶏やスズメ、カラスくらいなものでござったが。この不死鳥という鳥は実に見事なものにござる。主人と同じくなんと堂々とした姿」
ナナオは鞄を机の上に置くと、改めて美しい赤の魔鳥を眺めてそう感想を一つ述べる。
「くええ、くええ」
誉め言葉を理解している様子でクリスタは何度も頷いた。
「ふうむ。しかし聞けば炎の鳥であると。そんな鳥は焼いて食えるのでござろうか」
「ケッ!?」
しかし話が不穏になった途端に機嫌悪そうに鳴く。更に赤い翼をナナオにばっと広げ「クエー! クエー!」と抗議の鳴き声を出した。
「ナナオ……」
よしよしとその背を撫でながらカティは呆れた目で友人を見る。
抗議の鳥と呆れた友人を前に流石のナナオもたじろいだ。
「じょ、冗談にござる。冗談」
本心から出た言葉だったが、そう取り繕わずを得なかった。
その点は見抜かれていたのだろう。不死鳥の警戒感は変わらなかった。
カティにも「焼き鳥にできるのか」と口走ったことが本心であると悟られていたようだ。
さて、これからもう少しナナオとお喋りをして、不死鳥と遊んで歌を聞きながら寝ようかな。
カティがそう思っていると、未だにじーっとナナオを睨んでいた不死鳥がぴくりと何かに反応した。
さっと雰囲気が変わり、彼女は唐突に嘴を開いて歌い始める。
その歌声はカティにのみ届いた。
不死鳥の甘い歌声を耳にした途端、カティの丸い目がとろんと微睡み、そしてそのまま何も言わず着替え始めた。
「か、カティ?」
ナナオの問いかけにも答えず。さっさと寝間着に着替えたカティは何も言わずベッドに潜り込み、あっという間に寝息を立て始めた。
今度は不死鳥はじっとナナオを見つめる。その視線には先ほどのふざけた様子の不満げはなく、ただ揺らぎない黒い瞳の眼差しがあるばかりだった。
身構えるナナオ。突然カティが眠ったのはこの不死鳥の仕業であることは明らかである。
どういうつもりなのか口を開こうとして、その前にルネの声が静かに響いた。
『こんばんは、
不死鳥の喉から出ている声ではない。
だが、確かにナナオの耳にはルネの声が聞こえた。
どういう仕掛けか。
奇怪なと思うナナオだが、ここが魔法の国であり、この不死鳥の主がその中でも別格の魔法使いであることを思い出す。
戸惑った様子で彼女は不死鳥に話しかける。
「話とは何でござるか」
『君の憧れについてです。
ナナオは黙ったが、否定しなかった。
ルネとの立ち合いで自分を取り戻すことはできたのだが──彼女が抱いた思いは変わっていない。
いや、きっと変わるだろうと信じていたのだが。故郷とは違うここでなら。オリバー達と過ごす時間の中でなら変わることもできるだろうと思っていたのだが。
ルネに「一過性」と指摘されたことにナナオは反論できなかった。
『このままではいずれ君は憧れに潰されてしまうでしょう。もちろん
しかし憧れは消えません。叶えられない憧れを抱え続け、自分を否定し続けるのは精神的に大きな負担です。そうやって自己否定を続け、
まさに発狂です。魔法界においてはこのように魔法使いが狂うことを魔に呑まれると表現します。入学式の時に校長先生が仰っていたのを覚えていますでしょうか。発狂だけでなく、魔道の探求の末の事故なども含む表現です。
「……オリバーと、命をかけた立ち合いができるのだとして」
そう口にしてナナオは確信した。
自分は全く治っていないのだと。言葉にしただけで胸が高鳴ってしまったからだ。オリバーと殺し合いたいのだ。今すぐにでも。
彼女はそれを恥じた。一度呼吸を入れ、自分を否定する。
「そんな願い、どうして叶えられようか。誰かを殺めようと欲する願いなど、まるで獣の性。武人のそれとは遠うものにござる」
『しかし、君はそれを叶えたい。何故なら君が抱いたのは本物の憧れなのだから。どんな理由を挙げて憧れを否定しようとしても、憧れを抱いたことを否定することはできません。本当にそうしたいと、そう思ってしまったのだから。
ただの気の迷いなら私もそれで良かった。しかし君の様子を窺うに、どうやら本物の憧れのようですね。君の言うことは分かります。友人と殺し、殺されを望むだなんてと思う気持ちは分かります。しかし否定の果てにあるのは狂気だけですよ。そこに陥らないようにするためにも、まずは自分の願いや憧れと向き合ってみてはいかがでしょうか。最初から否定せずに』
赤い鳥の持ち主であるあの少年には全てを見透かされているような気分にさせられる。今、この場にすらいないというのに。
ナナオはそのことに苛立つ。
本心を察せられることがこれほどまでに不快なことだとナナオは今まで知らなかった。
苛立ちは彼女の口調を荒くする。
「ルネは、拙者にオリバーと殺しあえと申すのか。先ほどからの言いようはそうとしか思えぬ」
不愉快そうに不死鳥から視線を外すが声から逃げることはできなかった。はっきりとその耳にルネの声が届く。
『そうは言っていません。しかし先ほど申し上げた通り、否定の先にあるのは狂気だけです。特に私達魔法使いは現実を塗り替える神秘を身に宿した存在。憧れを叶えられないのは精神的に大きな負荷なのです』
「──なら、拙者にどうせよと」
『ひとまず
ちょっと考えれば別の道も見えてくるかもしれません。考えなしに身を滅ぼした魔法使い達のなんと多いことか。私は君にそうなってほしくないのですよ。そして、私なら君を導くことができます』
最後の一言にナナオは目を丸くして尋ねる。
「ルネは、拙者の師になりたいと?」
『はい。いかがでしょうか。人は私を優れた魔法使いであると評します。杖使いとしても、杖剣使いとしても。また君を指導する能力もありますし、君の鬱憤を晴らす実力もあります』
ずいっと声がナナオの耳に寄った。間近で囁かれるように聞こえる。
『私との試合はいかがでしたでしょうか。とても良かったのでは? ひとまず憧れを忘れさせてくれるくらいには』
その声を振り払うことも、違うと断言することもナナオにはできなかった。
実際そうだったからだ。
圧倒的な格上との戦い。オリバーとの試合で抱いたそれには遠く及ばないにしても、あれだけの強者であればどれだけ自分が刃を向けても全て受け止めてくれる。
それが例え全く応えてくれないオリバーへの憂さ晴らしの刀であったとしても。
そんな信頼感を抱くのは魔法剣の教師の前で行った試合で十分だった。
しかし、ナナオはこのことを口にはしない。
友人と殺し合いたいが、それができないからと他の友人に当たり散らすのは恥以外のなにものでもなかったからだ。
この提案が魅力的に思えても、即答はできなかった。
「……考えさせてほしいのでござる」
なのでナナオはそう不死鳥に告げた。この鳥の何かを通じて自分に語りかけているルネへ。
彼にとってこの反応は想定内だったのだろう。返答はあっさりしたものだった。
『もちろん。答えを焦らせるつもりはありません。私は君にそう望んでいるのですから。ぜひともゆっくり考えを巡らせてみてください。そもそも今日一晩眠ればすっかり忘れてしまうだけのことかもしれません。そうなら良いのですが』
そう言った。
ナナオに配慮しているようだが、彼女の抱いたものが一晩で忘れられるものではないと確信しているような口振りであった。
彼女はその言葉に異論を述べることもできず、ルネはこのやり取りを終えるつもりのようだった。
『もし答えが出たのならいつでもお話しください。時間を取って話し合いましょう。さて、夜分遅くに私の話にお付き合いいただきありがとうございました。ではお休みなさい。良い夢を』
そう締めくくると声は聞こえなくなった。
しかし自分を見つめる不死鳥の眼差しの雰囲気は変わらない。
きっと一声でも呼びかければまたルネの声がしてくるのだろう。説明はなかったがナナオはそう感じた。
しばし不死鳥を眺めていた彼女だったが、巡る考えを一度止めて眠る準備を始める。ひとまず寝てしまおうと思ったのだ。
魔法の歌声で操られたカティと同じくらい無気力な様子で寝間着に着替えた。
着替え、ベッドへと潜り込んだが。
眠れない。
オリバーとの戦いのこと、このままではいけないこと、そしてルネの提案が頭からずっと離れない。
彼は凄まじい人物である。ナナオは出会った時からそう感じていたし、オリバー達の口からも似たような話を何度も聞いていた。
もしや彼なら、自分をこの泥沼から救い出してくれるかもしれない。
「……ルネ、聞こえてござるか」
しかし、今は眠ろう。
答えを焦ってはいけない。ルネもそう言っていた。
それに、これから新しい日々が始まるのだ。しっかりと睡眠はとっておきたい。
ナナオが呼ぶと、風の音もなく不死鳥は彼女のベッドの端に移動していた。
『どうかされましたか?』
彼女の目論見通り再度響くルネの落ち着いた声音。これすら想定通りであったかのような動揺のなさが頼りがいもあり、今は恨めしい。
だが今は頼ろう。
この魔法使いの導きがあれば、どこにだって行くことができる。
それが極楽であっても、また修羅の国であったとしても。
ナナオは弱々しく頼んだ。
「拙者にも、カティと同じように術をかけてほしいのでござる──目が覚めているゆえ」
『かしこまりました。では、良い夢を。クリスタ』
主人に促され不死鳥は歌った。
その声はまるで母の抱擁のような温かさをナナオに感じさせ、彼女の意識をその中へと誘う。
温かい。
すっかり遠い記憶の中にある母の姿がナナオにははっきりと見えた。それは目を閉じても同じこと。
彼女の心から、体から強張りが抜けて脱力へと変わっていった。
そしてナナオは不死鳥の魔法にかかり静かに寝息を立て始める。
その様子を見下ろしていた不死鳥。彼女越しにナナオの寝姿を見つめるルネは、親が寝静まった子供に愛を囁くように言った。
『魔道は、憧れと共にその身を捧げる魔法使いに全てを与えると言います。生も死も。しかしその果てに何を選び取るのか。それを決められるのは挑む者だけです。私達もそうありましょう。
一仕事終えた不死鳥は先ほどの呑気な雰囲気に戻り、カティの椅子の背に降りた。そこを今夜の寝床にするつもりのようだ。
『ありがとう、クリスタ。君もお休みなさい』
主人の声が不死鳥の頭の中に響く。クリスタはその声に頷き、こくりこくりと眠った。
「──ケ?」
しかし、その眠りも長くは続かなかった。一時間程度だったろうか。
そういう睡眠のリズムではない。ドアの外に誰かがやってきたのだ。
ごそごそと何かをやっている。そのことに気づいた不死鳥はすぐに目を覚まし、すぐさま主にそのことを報告した。
『おやおや』
ルネも使い魔と通じて事態を把握したようだ。
不死鳥の頭の中に変わらぬルネの声が響く。
『困った人達だ。クリスタ。彼女達を私の城に招待したいのですが、ぜひ協力ください』
「くええ」
不死鳥はそう承諾すると、その身を火の粉に変えてその場から消えた。
直後、部屋の外で少女達の短い叫びが聞こえたが、すぐに何も聞こえなくなる。
カティとナナオは静かな夜の中で、暖炉のような母のような温かさに包まれ眠りについている。それが邪魔されることは決してなかった。
「さてと」
火の粉と共に戻ってきた不死鳥クリスタから魔法陣が描かれた紙を受け取り、ルネは振り返る。
ここは彼の工房にて偉大なる聖域、
ここの主であるルネ=サリヴァーン、そしてカティに悪戯を仕掛けようとした新入生の少女達三人だ。
少女達は心地良い肌触りの見事な絨毯の上に座り込んで呆然とルネを見上げていた。
何が起きたのか分からない。そんな顔である。
それはそうだろう。
彼女達からしたら気に食わない同級生に嫌がらせをしようとして、この部屋にいつの間にかいたのだ。
しかしルネからしたら何の問題もない。
術者の周囲のみにその影響力を広げるのは
相手の位置さえ分かれば、例えば使い魔を通じて情報さえ分かれば、遠く離れた女子寮の部屋の入り口前から自らの領域に連れ込むのは難しくない。
それこそ彼女達が罠を仕掛けようとしたように簡単であるし、そして同じくらいに気軽なのである。
ルネはすっと一歩少女達に歩み寄った。その静かさは捕食者のそれであり、丁寧な雰囲気は獲物に感謝する敬虔な猟師のそれだった。
「君達は──失礼、名前を教えていただけますか? ふむ。
彼女達はルネの挨拶に返事をしなかった。
「ふむ」
挨拶を待っていたルネはそう言うと、彼女らが仕掛けようとした魔法の罠を指先で弄んだ。ある種の魔獣の体毛が練り込まれた紙に朱色のインクで魔法陣を描いたもの。
既にその効果は失せている。ルネがこの罠に込められていた呪詛も、力も消滅させたからである。
しかしそのことを、この罠の製作者である少女達は知らない。分からない。
彼女らと自分の間には高い壁があるのだ。もちろん自分が見下ろす側であるのを確信しつつ、ルネは落ち着いた声音で尋ねた。
「これは君達のものですね?」
そして三人の前に魔法陣の描かれた紙を投げ捨てる。彼女達が否定の言葉を口にする前に三人の目の前に霧が現れた。
そこに映し出されたのは数分前の光景。カティとナナオの部屋の前で罠をしかける自分達の姿であった。
「これは君達のものですね?」
魔法で過去の光景を見せたルネは再度尋ねる。声音は何も変わっていないが、ずしりと少女達の頭に響く何かがあった。
頭痛とは違う。何かに頭を──筋肉どころか頭蓋骨を通り抜け、脳そのものに手を置かれたような感覚だ。
嘘は言えない。言ったらどうなるか。
潰される。
脳を握られているような不快感と共にそれを理解した少女達は素直に口を開く。
「「「は、はい」」」
この期に及んで否定したら脳から直接真実を絞り出そうと思っていたが。ルネは三人の頭に向けていた力を解いた。
「そうですか」
相手が正直になってくれたとはいえ喜ばしいことばかりではない。ルネはとても残念そうに三人を見下ろす。
「理由は
再度力を差し向けることはなかったが、少女達には恐怖が残ったようだ。言葉はなくとも頷くことで答えを見せた。
「なるほど」
ルネは彼女達が作った魔法の罠に目を向ける。
「これはできものの呪いがかけられたものですね。怪我をすることはありませんが、女の子にとってはとても辛いことになるでしょう」
ぴくりと三人の肩が震える。
真実を見抜かれたからだ。これを踏めば目を背けたくなるほどのできものが相手の顔中に出る。そういう類の魔法の罠だった。
この魔法道具を使って歪になった生意気な人権派の顔を遠くから眺めてほくそ笑むつもりだったのに。
だったのに。自分達は得体の知れない部屋に連れて来られ、こうしてルネ=サリヴァーンに見下されている。
「困った人達だ」
震える三人を横目で見つめつつ、ルネは書斎の椅子にゆったりと座った。机越しに座り込む少女達を眺める。
「本当に。困った人達だ」
そう呟くとルネは力を呼び寄せた。力を生み出し、育て、そして従える。
こうして育てた呪詛を少女達に差し向けた。
途端に彼女達は顔に強烈なかゆみを覚え、慌てて顔に触れた。
「い、いやあッ!!」
手が教えてくれる感覚はまるでざらざらとした獣の肌のようなもの。三人は互いに顔を見合わせ、それぞれの顔中に酷いできものが出ているのを見つけ、叫びだした。
「や、やめて。お願い……もうしないから、お願いだから戻して……」
口や視界も塞がれるほどに育った多くのできものが少女達の顔を覆っていくのをルネは微笑んで眺める。
痛めつけて楽しんでいるのではない。彼の心拍数はこんなものには興奮せずに一定であった。
彼女達が作った罠の効果よりもずっと酷いできものが顔を埋め尽くし、彼女らは助けを求めているが、その光景がルネを喜ばせることはない。
「本当に、もうしませんか?」
そう尋ねると少女達は絶叫しながら「もうしないわ! だから、やめて!」とすすり泣いた。
もう何も見たくないと言わんばかりに彼女らは俯き、顔を手で覆っていた。どれだけ手で押さえたところで呪いの効果はなくなりはしないが、そんなこともはや彼女らには関係ないのだろう。
ルネは少しだけ目を細めた。
それで呪詛は三人の少女達から去り、そして消滅する。
手が教えてくれる皮膚の感触が変わったことを知り、少女達はようやく顔を上げた。酷い泣き顔であったが、少なくともできものは全て消えていた。
彼女らが何か言う前にルネが口を開く。
「言わなくても分かっているかと思いますが」
その瞳の青い輝きが鈍り、洞穴のごとく深みを帯びた。少女達の意識が、言葉がその中に全て吸い込まれる。
宇宙の暗がりが星の光を飲み込むように彼の威圧感は少女達の言葉を消す。
ルネの視線から目を離せなくなり、三人は互いに身を寄せ合って彼の言葉を待った。
子猫を見つめるような気分でルネは微笑む。愛らしい子達だと思ったが、それはそれとして躾けはしなくてはいけない。
どんな小さな悪戯でもしっかりと注意しなければ子猫は良い猫にはならないからだ。
「もし今度
三人はぶんぶんと頷いた。ルネも嬉しそうに小さく頷く。
「ありがとうございます。ではおやすみなさい」
そう告げると彼女らの姿がルネの前からいなくなった。元いた寮に帰したのである。
不死鳥も火の粉と共にこの場から消えた。カティとナナオの部屋に戻ったのだ。
客がいなくなり、静まり返ったルネの書斎。いつもの光景だ。
「やれやれ」
そう一言呟くとルネは机の上の書見台に目を移す。
そこに置いてあったのは本ではなく、水晶板がはめ込まれた質素な装飾の額縁のようなものだった。
この魔法道具には数多くの研究結果や報告書が入っている。水晶の板の中に文章が浮かび、ルネの意志で続きを次々に映していく。
こうしてゆったりと椅子に腰かけながら今日一日の研究結果に目を通しつつ、彼の夜は更けていくのだ。
決して目を閉じることも、夢見ることもないのである。