「スズカ……今までお疲れ様。俺、スズカのトレーナーで良かったよ」
「私もトレーナーさんが担当トレーナーでよかったです。本当に今までありがとうございました」
「そうか……ありがとうなスズカ。でも、もうお別れか。寂しいけど、仕方……無いよな」
「……はい」
「元気でな」
「……ま、待って! トレーナーさん! まだ伝えて無いことがあるんです! 私、トレーナーさんのことが——」
———ピピピピ、ピピピピ
「また……同じ夢」
随分と長く眠った感覚、意識と肉体が上手く繋がって無いのか、体が思うように動かない。
「……準備しなきゃ」
目覚めから暫くして、私は立ち上がると窓からうっすらと漏れる朝日の光りを頼りに部屋の電気を点ける。
最後のレースから十年が経ちました。
結果は二着だったけど、後悔はしていません。
あの日をもって私のレース生命は終わりました。
今はトレセン学園でレース学の授業を担当しています。他にはウマ娘達のトレーニングのサポートをしたり、事務作業など。
「スズカ先生おはようございます!」
「えぇおはよう」
「スズカ先生今日もスタートダッシュのコツ教えてください!」
「えぇ分かったわ。また放課後ね」
「スズカ先生〜朝食一緒に食べよう!」
「えぇ今行くわ」
「——天皇賞・春は京都競馬場の芝3200。これは現存する平地のG1競走では最長距離です」
「スズカ先生ー質問なんですけど……」
「はい、レインボーラインさん」
「3200mなんて距離、想像がしにくいんですけど、そんなに大変何ですか?」
「えぇ3200は並大抵の距離じゃないです。ペース配分を誤れば即脱落、そして要求されるのはスタミナだけではありません。スピードは勿論、集団に囲まれても競り勝てるパワー、そして最後の直線、ここまで来れば気合……根性も要りますね」
「スズカ先生は天皇賞・秋を経験していますよね? 春秋の違いって距離以外にありますか?」
「……そうですね。具体的に説明しますと——」
「スズカ先生さようなら!」
「えぇさようなら」
「スズカ先生! トラックで待ってるね! スタートダッシュのコツもう少しで掴めそうなんです!」
「えぇ準備を済ませたらすぐ行くわ」
「はい! 楽しみにしてます!」
「…………」
一見、順風満帆に見える教員としての生活。
でも、私の中には何ともスッキリしないモヤモヤがあります。
それが一体何なのか、大体の見当はついています。
それは……
「あ、トレーナーさん! 今日もトレーニングですか? 早速一緒に行きましょう!」
「おぉラインか! ちょうど良かったよ。今から迎えに行こうと思ってたんだ」
「おお! それはそれはタイミングバッチリですね! 流石トレーナーさん! 行きましょう行きましょう!」
最後のレース終了後、私はトレーナーさんの担当ウマ娘では無くなりました。
それは当たり前の事です。私も覚悟していましたし、実際最後はかなりあっさりでした。
互いに今までの感謝の念を伝え、これから先の長い道のりを応援する……ただそれだけの会話です。
それが世間一般的に普通だと言われるのなら、それはそうなんでしょう。
ですが、それでも納得出来ない事がありました。
それは……このモヤモヤした気持ちです。
トレーナーさんと一緒にいると心が熱くなり、逆にトレーナーさんが側にいない時は心が冷めたりする感覚。
トレーナーさんからの連絡を待っている時の焦燥感と返信が返ってきた時の満足感。
流石の私でも理解しました。
これが恋なんだと……
ですが、それを自覚した所での話でした。
それをトレーナーさんに伝える物なのか?
迷惑をかけてしまうのでは無いか?
それに自信がありませんでした。
トレーナーさんから見れば、私はただの子供であり、そしてただの担当ウマ娘。
そこに恋愛感情など無い。おかしいのは恋愛感情を抱いてしまった私。
そう……おかしいのは私。そう思う他ありませんでした。
この気持ちに区切りを付けようとしました。
卒業間近と言う事もあり、号泣するスペちゃんに抱きつかれながら荷物をまとめる日々。
進路先も特に決まっておらず、悶々とする日々を過ごす中、トレーナーさんから呼び出されました。
「スズカ、急で申し訳無いんだが……トレセン学園で教師をしてくれないか?」
「え……教師ですか?」
「そうだ。も、勿論慣れないうちは俺がサポートするし、来期からは理事長補佐にシンボルドルフやエアグルーヴも就任する。新体制となるトレセン学園にはスズカの様な豊富な実戦経験のある優秀なウマ娘が必要なんだ!」
「……トレセン学園にはですか」
「……ああ」
「そうですね。正直進路も決まっていませんでしたし、……お世話になります」
「そうか! なら早速理事長に報告だ!」
「……はい」
そう、私はトレセン学園に必要な人材であると判断され、ここに居ます。
正直ショックでした。……ですが、何故か私の心は高鳴っていました。
そう、それは卒業と同時に断ち切られるはずだったトレーナーさんへの思いが、失われずに済んだからです。
我ながら単純すぎる考え方でした。結局私は諦めきれず、卒業と言う強制的に引き離されるはずだった未来を拒否したのです。
そして間も無くして私はトレセン学園を卒業しました。またそれと同時にトレセン学園の職員候補生になったのです。
スペちゃん達は涙ぐみながら見送ってくれたのに、翌日になってスーツ姿に身を包みトレセン学園にやってきた私を見て……驚いていました。まるで幽霊でも見たかの様に。
そしてそこからは大変な日々でした。
それも当然です。今までの私は指導を受ける側だったのです。勿論日々忙しかったです。授業にトレーニング、ライブの練習、そしてレース。
その裏で動いてくれていた人達の大変さは知る由もありませんでした。
ですが、職員となり指導する立場となり、その大変さが初めて分かりました。
授業をするにしても、トレセン学園は文武両道。生半可な授業では許されません。
授業に向けての資料制作、各ウマ娘のデータ把握に適正トレーニング表の作成。
どれも高度な知識、忍耐力、記憶力を必要とする仕事です。
私は必死でした。トレーナーさんやたづなさん、会長さんやエアグルーヴ、他にも多くの方から指導を受けました。
改めて思い知らされました。
若くしてこのトレセン学園でトレーナーを務めるトレーナーさんの凄さを。
そしてそんな激務から三年が経ち、私はようやく職員課程を終了し、教壇に立つ事が出来ました。
そしてそんな教員生活も七年です。
最初こそトレーナーさんは私の側で色々サポートをしてくれました。
ですが、時が経つに連れ、そんな機会も減っていき……今では殆ど接点はありません、
そして、先ほどのウマ娘とのやり取りからも分かる様に、今のトレーナーさんには担当ウマ娘がいます。
そしてそれは一人ではありません。
トレーナーさんは元々実績のある人でした。そしてそんな優秀なトレーナーさんを他のウマ娘達はほっとく訳がありません。
瞬く間にトレーナーさんは人気トレーナーになり、今では五人のウマ娘の担当トレーナー、さらに最近になってチームまで出来上がり、ますます遠い人になってしまいました。
「あ、スズカ先生ーー! もうみんな集まってますよー」
そしてかく言う私も多くのウマ娘達を指導する立場になりました。
「そう、そこで右脚を前に……焦っちゃダメです。最低限の負担で最高のスタートを切ることを意識して下さい」
「はい!」
「無理しちゃダメですよ。事故は一瞬、怪我は……一生なんです。私達ウマ娘の体は特になんです。適度に休憩を取って下さい」
「スズカ先生って……優しいですね」
「……そうかしら?」
「はい! みんなスズカ先生の事優しくて美人で頼りになる先生だって言ってます!」
「……そう」
「——それじゃあスズカ先生お疲れ様でした! また明日もお願いします!」
「えぇまた明日」
気がつけば、日は沈みかけていた。
私は急いで後片付けを済ませ、教員寮へ歩き出しました。
「……優しくて美人で頼りになる先生か」
教え子のウマ娘達は皆いい子です。トレセン学園で過ごす日々を謳歌していて、瞳に豊かな輝きがあります。
「まるでスペちゃんが沢山……ふふふ」
スペちゃんとは今でも連絡を取り合っています。
忙しいみたいだけど、最近いい事があったのかとっても幸せそうでした。
「また会いたいなスペちゃん。今度、誘ってみようかしら。ふふっ楽しみ」
トレセン学園での思い出に浸りながら教員寮に向かううちに日は沈み、街灯が真っ暗な道を照らし初めたそんな時でした。
「あ、あれは……トレーナーさんに、トレーナーさんの担当ウマ娘。こんな時間に何を——」
等間隔に立つ街灯の明かりが、月の光と交錯し淡い青の光となり、二人を照らすそんな異様な雰囲気。
「……!」
私は思わず隠れてしまった。
何か見てはいけないものを見てしまったかの様に感じた。
このまま立ち去ればいいのに……私は好奇心には打ち勝てず、二人の会話に耳を済ませる。
「あ、あの! トレーナーさん!」
「ん? どうしたこんな時間に?」
「あの実は……今度のレースの事なんですけど」
「あぁ宝塚記念の事か」
「は、はい。あの……それでなんですが」
「ん、どうしたんだよそんなモジモジして」
「えっと、今度の宝塚記念もし一着取れたら……わ、私とお付き合いしてください!」
「え……?」
その時、私の中で時間が止まった様に感じ、何かがガラガラと崩れる様な感覚に襲われました。
「ッ!」
そして、気付けば私は走り出していました。
何か後ろから声をかけられた気がしたけれど、私の耳に入るはずがありませんでした。
「はぁはぁ……」
気付けば私は職員寮に辿り着いていました。
力無く壁にもたれかかった私は激しく動揺する思考を整理し始めました。
「…………あれって告白……だよね?」
私が十年間ずっと出来なかった事、それをあの少女は……いとも簡単に実行しました。
「どうして……あんなに簡単に出来るの? それが出来ない私がおかしいの? 私って本当に恋……してたの?」
誰よりもトレーナーさんの事を理解し、好きだったはずなのに、何故その気持ちを伝える事が出来なかったんだろう。
『好き』
そのたったの二文字が言えない自分の不甲斐なさを恨めしく思う事も出来ない。
「……やっぱり、私に恋愛なんて無理だったのね。あの子の眼は本気だった。とても勇気のあるウマ娘……私なんかとは違う」
この思いに区切りを付ける時が来たのかもしれない。
「ッ……!」
そう思考が定まると同時に耐え難い痛みの頭痛が走り、目のピントがブレ始め、意識が遠くへ走り去っていく感覚に襲われました。
「あ……」
気付けば私の体は空気の抜けたゴム人形の様に崩れ落ちていました。
「トレー……ナーさん」
まるで真っ暗な闇に引き摺り込まれる様にして、私はそこで意識を失いました。
「スズカ……今までお疲れ様。俺、スズカのトレーナーで良かったよ」
「私もトレーナーさんでよかったです。本当に今までありがとうございました」
「そうか……ありがとうなスズカ。でも、もうお別れか。寂しいけど、仕方……無いよな」
「……はい」
「元気でな」
「……ま、待って! トレーナーさん! まだ伝えて無いことがあるんです! 私、トレーナーさんのことが——」
———ピピピピ、ピピピピ
「…………また、同じ夢」
私は見知らぬ天井から視線を外し、辺りを見回した。
広く殺風景な病室、ベッドに横には見舞いのフルーツや段ボールパンパンに詰められた人参がギッシリと積み重なっていた。
「殆どスペちゃんからね」
私は段ボールの中から人参を一本取り出すと口を大きく開けて頬張った。
「……美味しい」
優しい味、私は心が暖かくなるのを感じた。
「……………………」
長い間一人で考えれたおかげか、私は一つの大きな決断をしました。
そう、それは……
「私に恋愛は相応しく無い。潔く諦めます」
それが私が出した結論でした。十年間……長かったですが、ようやくこの気持ちと決別出来たのです。
「これで終わり……ね。あれ……」
そんな時、私の頬を透明な二粒の水滴が瞬きと同時に弾き出され、下へ零れ落ちのです。
「何で……私、泣いて……るの」
最初の涙が溢れてしまうと、後はもう止まりませんでした。
はらはらと流れ落ちる涙、拭いても拭いても止まらない涙に視界はボヤけ、零れ落ちる涙でシーツにシミが出来ました。
自分で納得し、決めたはずなのに……
「どうして涙が……止まらないの」
そんな溢れ出る涙を必死に止めようとしていたそんな時でした。
ガラララ
「スズカ、今日もお見舞いに来たぞ——」
扉を開け、入って来たのはトレーナーさんでした。目に酷いくまが出来ていて、生気を感じれない様な見た目でした。
「あ……」
「……ス、スズカ。お前……起きて……。……ッ! スズカ!」
トレーナーさんはワナワナと体を震わせると、持っていたお見舞いのフルーツを落として、私の元に駆け寄って来ました、
「あ、トレーナーさん——」
トレーナーさんは私の体を優しく抱き寄せてくれました。
「スズカ……良かった。俺、もうスズカが目を覚まさないんじゃないかと……」
体をガタガタと震せるトレーナーさんは酷く痩せ細った体で、私を抱き寄せる手の力も弱々しく感じました。
「トレーナーさん……すみません。トレーナーさんお忙しいのに……ご迷惑を」
久しぶりに感じたトレーナーさんの体温、激しく脈打つ鼓動音に、乱れた息遣い、全てが懐かしく感じました。
「迷惑だなんて……言わないでくれスズカ」
トレーナーさんは大粒の涙を流していました。
「トレーナーさん……私は大丈夫です」
私は弱々しく震えるトレーナーさんの背中を優しくさすりました。
「スズカぁ……すまない……」
心の底から滲み出す様な涙を流すトレーナーさん。そしてそんな私も泣いていました。
「トレーナーさん……」
この時になって、ようやく私は気付いたんです。
やっぱり……私はこの人の事が好きだ。一緒にいたいんだ。この人じゃなきゃダメだ。この思いは簡単に諦め切れるものじゃないんだって……
「トレーナーさん」
「ん……? どうしたスズカ?」
「私のわがまま聞いてくれませんか? 最初で最後のわがままです」
「あぁ勿論だ」
「私、トレーナーさんの事が好きです。十年前からずっと貴方の事が好きでした。私に走る夢、意味、希望を与えてくれた貴方の事が好きです。トレーニングメニューを考えてる時の真剣な貴方が好きです。レースに負けた時、一緒に悔しがってくれた貴方の優しい心が好きです。お出掛けをする時、いつも車道側を歩く貴方の何気ない行動が好きです。私に沢山の好きを与えてくれた貴方が大好きです。……貴方のせいなんですからね。責任……取ってください。走る事しか無かった私を貴方の事が好き好きでたまらない私にしてしまった責任を……」
「……正直言うと、スズカの思いは薄々気づいていた。そして……そんなスズカを俺も好きだった。でも、俺は君のトレーナーだ。担当ウマ娘の思いに答える事は……出来ない。もし、答えたとしてもトレセン学園の教育方針上、俺は指導者、スズカは生徒だ。そんな俺達が恋愛関係になるのは世間一般的にあってはならない事だ。そしてそんな俺のスズカへの思いは指導者であるトレーナーとしての立場を利用した物になる。それがスズカへの本当の気持ちなのか俺には判断出来なかった。逃げてしまった……自分の気持ちに向き合わず、担当ウマ娘とも向き合わなかった。俺はトレーナー失格だ」
「それは……違います。トレーナーさん、昔良く私の頭を撫でてくれましたよね。昔、天皇賞・秋の時の怪我で復帰が絶望的になったあの時です。意気消沈していた私をトレーナーさんはただ黙って優しく頭を撫でてくれました。それが私にとってどれだけの励みになったか。……私、恩返しがしたいんです」
「恩返し……?」
「はい、恩返しです。昔、私はトレーナーさんに支えられっぱなしでした。だから今度は私が支えたいんです。トレーナーさんが私と向き合ってくれなかったと同時に私もトレーナーさんと向き合えなかったんです。自分の気持ちから逃げていました。……似たもの同士なんです私達。だから……もう昔の事は良いんです。大事なのは今、こうして貴方の隣にいれる事だから……」
「スズカ……」
「トレーナーさん、さっきのわがままに続きです。貴方の隣に居させてください。そして私の隣にも居てください。……大好きな貴方の横顔を誰よりも近くで……ずっと見たいんです。だから、お願いです。私に貴方を独占する権利を下さい。世界で一番大好きな貴方の横顔を見る権利は誰にもあげたくないんです」
「……スズカ、俺もわがままをいいか?」
「はい、勿論です」
「……俺と付き合って下さい」
「やっぱり、トレーナーさんはずるいです。そんなの……はいに決まってます」
息が止まるほどの長い抱擁の後、私達は互いに今までの想いを吐き出す様に口付けを交わしました。
長い長い空回り遠回りの後、私達はようやく結ばれる事になったのです。