「頭が真っ白になった」とはこういうことを言うのだろう
手の中の収まりが悪く、持ち直して握りしめ、肩肘が強張ったその一瞬。
ゲートが開いて抜群のスタートを決めようと首を下げようとした鞍下の相棒と。
ぴん と張った手綱が細かく震えた。
次に意識が戻ったのは既に中盤。400mを過ぎたあたり。
情けないことにスタートを妨害してしまった時の「ぁ」という自分の声しか覚えていない。
ただ腐っても騎手として、体に染み付いた動きがスタート以降の走りの邪魔にならなかった事だけは幸いだった。
だが未だ位置は最後方。
ようやく100勝を重ねたばかりの若造の俺に、唐突に要求された打開策を浮かべることなど出来ず、ただこの現状に再び思考停止して漠然と鞍下の揺れに合わせるのが関の山だった。
「……ど…うする」
800mを過ぎても考えが纏まらず、ぐちゃぐちゃとした思考から思わず漏れ出てきた言葉は何の意味も持たない。
それでも最悪の中でも騎手としての務めを果たさねばと、なけなしの理性を取り戻すことには成功した。
第4コーナーに入る。大外から攻めるため、重心を緩く右に寄せる。
既に俺は無様を晒してしまったが、結果は伴わなくてもせめて鞍下の彼に無様な走りのまま終わらせないために出来ることを。
「おい、そろそろ外に…言うことをっ!」
だがコイツは違った。
前の馬達よりも深く右に身体を傾け、ぐん と加速した。
みるみる迫る後方2番手の馬。
このままでは前の馬にぶつかる。
その瞬間、景色が左にずれた。
いや違う、俺達の視界が少し右を向いたんだ。
「内っ!?」
雨、不良馬場、第9レース。
荒れに荒れた内ラチ沿いのそこを走る奴なんていない。足を取られる分、砂浜を走るよりも劣悪なそこに。
コイツは前の馬とぶつかろうという絶妙なタイミングでそこに自ら突っ込んだ。
ここからの光景を俺は生涯忘れないだろう。
視界の左を前から後ろへと次々と流れ去っていく競争相手。
信じられないという目で思わず顔ごとこちらを向いた騎手達。
速く、力強い足運び。明らかに地面に足を取られていてなお、鞍下から伝わる強い振動。
「っく…………っぁ……ぁぁっ………!?」
身体にかかる振動からの苦悶か、それとも理解を越えた光景に対する本能的な感動か。声にならない情けない呻きが口から出てくる。
そして直線に入れば、もう前を行く相手は1頭しかいなかった。
ずっと放心していたが、ここまで来たら、俺にもわかった。
コイツは、勝ちに行っているんだと。
未だコイツの足は緩まない。あれほどの荒れ地を走り、相当に疲労を溜めたはずなのに。
だから理解よりも理性よりも先に体が動いた。腕が手綱を扱いた。
コイツを勝たせたいとかそんな殊勝なことを考えたわけでもなく。
騎手としての本能か、ただただ今だけは、コイツの走りを邪魔しないために。
あの瞬間の俺は、コイツの一部分となっていた。
あの時の俺は、騎手じゃなかった
検量室で鞭をかっさらわれ、怒って何度も打たれることを覚悟した俺を迎えたのは、併せ馬の時のアレより少し痛い、しかし1発だけだった。
『次は気を付けろよ』
まるで返却しやすいように器用に鞭をくわえ直し、グリップをこちらに向ける彼の目から怒りの色はとうに失せていて、そう言っているかのようだった。
差し出されたグリップを握れば、素直に口を離す。
なら間違いなく、俺は喝を入れられたんだろう。
コイツは、騎手失格だと思っていた俺をまだ背に乗せて走らせてくれる気らしい。
挽回したい。少しだけ、気分が持ち直した。