黒い蜃気楼を追って   作:光りし者

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皐月 垂れた翼

「やられたな」

「……………」

 

 

 

 レースを終え、検量室に戻ってきた主戦騎手を調教師がこの言葉で迎えてすぐに後悔した。

 当然だが彼を責めているわけではない。口調は今日の勝者への敬意を帯びていたのだから。

 ただ語感が悪い。掛けるにしたってもっとマシな言葉があったんじゃないかと。

 

 

 

 

 皐月賞。

 優れたステイヤーの資質を有していることが判明した鞍下のこの馬にとって、中距離でも短い方に分類されるこの2000mは少々スタミナを持て余し気味の距離だ。

 だがそれならそれで超が付くようなロングスパートをかけるなりやりようはある。

 勿論馬だって意思を持つ生き物なのだから、実際にそれを実行出来るかは気分の問題だ。

 

 

 だがこの騎手は天才だ。天才という言葉すら陳腐になる、それほどの才の男だ。

 運命に導かれるように袖を引かれ、初めての偉大な勝利をプレゼントされるほどに馬に愛される男。

 たった1度の騎乗でその本質を見抜くほどに馬を愛した、まさに騎手として生まれてきた男だ。

 

 御すのではなく、共感し、同調し、文字通りの人馬一体となって駆ける。それが出来る男だ。

 

 

 

 そして今日の彼らは限りなく理想的な走りを演じてみせた。

 事実、ゴール寸前までの差の詰めっぷりは誰が見ても「差した!」と確信出来るものだった。

 

 

 

 だが相手を見くびっていた。

 否、あれほどの逃げを打っておきながら、最後に尚も強く速い脚を残した馬など前代未聞だったのだ。

 

 末脚を持つ逃げ馬は少し珍しい。だが少し珍しい程度にはいる。

 しかし戦法の容易さや馬の心理的負担の低さと引き換えに、常に風を押し分け続けるという1段階高い負荷を強いられる先頭逃げ馬が打てる末脚はそれほど速くはならない。無論、多大に脅威ではあるが。

 

 

 

 だからこそあれは常識の埒外だ。

 一般的にハイペースの展開は後方に有利になる。ましてや今回は群雄割拠の頂点が集うG1の、それも特に格式高いレースである皐月賞のレコードを更新するほどのものだった。

 後方に就いた馬は道中、他馬を風避けにすることで先行する馬より多くのスタミナを残せる。特にペースが速ければ前方の負担が増し、より後方が相対的に多く(スタミナ)を残せる。そして最後に溜めた脚を一気に爆発させるからこそ距離差を埋める高いトップスピードを叩き出すことが出来る。

 

 そのトップスピードに併せられるほどの末脚を持った逃げ馬なんて聞いたことがない。

 それも、スタミナが限界を迎えるゴール手前からの僅か数秒で速度差をほぼ埋め切るほどの加速力。

 

 結果は半馬身差。ここに「たったの」とは付かない。

 クビ、いや半馬身差はつけて完璧に差し切ったはずの状況から、逆に半馬身もの差を残して粘り切られた。

 この1メートル弱が持つ意味は果てしなく重い。

 

 

 当然、今回の相手の中で最も警戒していた。唯一と言っても過言ではない。

 

 6戦6勝5レコード。そして今日でまた1つレコードを増やした。

 

 既に冗談みたいな成績を修め、出走してきたレースの悉くを蹂躙してきたあの馬を警戒しない理由などどこにも無い。

 前走のスプリングSでは騎手もトップガンジョーの上から直接その様を見ていた。

 

 それでも尚甘かった。

 

 

 

 あの怪物は今まで1800m以上のレースを走ったことがなかった。言わば未知数。

 記録は雄弁に語る。歴代でも最強クラスの、否、レコードという厳然たる事実がある以上、間違いなく歴代最強のマイラーだと。

 そこが勝ち筋だと。自分自身が意識しない心の奥底でそう思ってしまっていた。

 

 無意識に、そこに一縷の望みを賭けていたのだ。

 随分後ろ向きな願望だ。そしてそれを理解しても(日本ダービー)にもまた同じ望みを抱こうとしている。

 

 

 

 これはあの怪物を甘く見たこちらの落ち度だ。

 だから言い訳のような言葉を掛けるのはお門違いだと思った。

 

 (皐月の前に弥生で戦えたら)

 

 そんなたらればな夢想など。

 それは敗者だけでなく勝者も侮辱するだけだ。最善を尽くした彼らに言うなど烏滸がましい。

 

 

 そんな葛藤の末に口から出た言葉がこれなのだからなんとも締まらない。

 

 

 

 ただ幸か不幸か、どうも彼の耳に届いてはいなかったらしい。

 

 

 「…ブルルルッ!」

 「…! あぁっ!ごめんよ」

 

 鞍上に居心地悪さを感じたのか、馬が嫌がるそぶりを見せた。

 慌てて、しかし丁寧に騎手が降りる。

 

 珍しい。誰よりも馬を理解し寄り添うこの男が呆けていたとは。

 

 

 だが浅くない付き合いの調教師はすぐに彼の身に何があったかを察した。

 

 (あの子を重ねてしまったのか)

 

 

 見て呉れという意味では決して奴と似ていない、額に太い一筋の流星が流れる栗毛。

 かつて無敵を思わせた、彼にも夢を抱かせた最速の逃げ馬。

 最期まで騎手を気遣い夭折した、彼の今の相棒の腹違いの兄。

 

 

 まずいな。

 調教師は悟った。

 

 勝利出来なかった。そこは問題ではない。

 

 勝負の最後に、勝負を忘れた。次に繋げるための噛み締めるべき敗北を味わい損ねた。

 

 

 誰が悪いとか、そういう話ではない。

 ただ彼が、嘗ての相棒を喪った晩、潰れかねないほどに酒を浴びるほどに馬に入れ込む男で。

 そんな彼だからこそ、6年経った今も心の中をあの子が大きく占めていた。それだけ。

 

 言うなれば巡り合わせが悪かったとしか言えないのだ。

 

 

 「…これは厳しい戦いになりそうだな」

 

 ダービーが、近く、遠い。

 

 

 

 




正直暗くなりすぎた
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