左手を滑った冷たい滴が、私を現実に引き戻す。
競馬場は既に最終レースの準備が佳境を迎えており、私の周りも随分人が捌けていた。
左手を見る。
なんとなく、そうするべき気がして、売り子さんから貰った少し温くなったコップ。
結局一口もつけていないそれを興奮に握り潰さなかったのは耄碌なのだろうか。
あるいはそれすらも忘れるほどに見入った証だったか。観客席の欄干が底を支えていたおかげで落とさずに済んだのは幸運だったのだろう。
遅れて、呼吸が荒くなる。
一度は忘れていたかのように静かだったくせに、今更思い出したかのように、心臓が早鐘を打つ。
この老骨の身から出ているなど信じられないほどに強い鼓動の音が全身を伝ってきて喧しい。
身体が、熱い。
もう叶わない身体だとわかっているのに、心がまたあの背の上で走りたがっている。
もう一度、あの背中に。
ダメだ、それは。
あの出会いは、私が奪っていいものではない。
あの子とあの騎手がそうであるように。
今の私は、
ならばとふと考えたことは、あまりに荒唐無稽で。
今までやったこともないのに。
でも私なら、と。
今の私は、これからの彼らをずっと特等席から見届けることしか考えられない。
そして私のキャリアならそれが出来てしまう。
とてもいい考えだと。
追いたい。
彼らを追って。彼の出るレース全てに立ち会って。心の丈を吐き出し届けたい。
少しでも、特等席に立つ私をあの子に認識させたい。あの子の記憶に残りたい。
再び結露した滴が左手を伝い、のぼせた頭が一気に冷えていく。
駄目だな。
こんな私では、とても公平な言葉を紡ぐことは出来ない。
ああ、君は本当に。ひどい子だ。
ようやく家族に父親らしいことが始められるという時に。
潮時を目前に私の目の前に現れて。
今更私に、手の届かない夢をぶら下げて。
私の余生にこんなにも強い未練を抱えさせて。
だから。
「ありがとう。ルドルフ」
最高のプレゼントだ。
燃え尽きたと思っていた私の胸の奥が、こんなにも熱い。
私の道が決まったよ。
家族サービスと並行して、実況席ではない別の場所で、彼らの背中を押そう。
贔屓が多分に混じって、何度も推敲するだろうけどね。
相対するは新時代の良血馬。そしてそれを後押しする日本競馬会が吹かせようとする時代の波風そのもの。
強敵だ。間違いなく彼らに何度も立ちはだかることだろう。
だが。
未だ目に焼き付いて消えない黒い蜃気楼に、安物のプラスチック製のコップを掲げる。
皇帝と呼ばれた親に似ず、もし人に例えるなら気取った酒より、なんだかビールが似合いそうな。
私の燻る夢に。
「
フリーランスの競馬評論家