「どうしたものか…」
そう呟く彼はとある仔馬の馬主である。
彼が頭痛を堪えることになった原因はつい先日帰ってきたばかりの1頭の当歳馬。
まだまだかわいい盛りのはずだった白混じりの栗毛の仔馬だ。
話は数年前に遡る。
かの暴君、通称カイザーは姫君アゼリアと共に競馬と日本のレコードを荒らしに荒らしてレースの世界から去った。
アメリカに続き、今度は日本で生まれた時代遅れだったはずの、「走らない」血統による蹂躙。
徹底的なまでの敗北を喫した競馬関係者の誰もがその敗因を、カイザーの強さの理由を血眼になって調べた。
例の取材班よりは遥かにマシとはいえ、現役当時のオグリキャップも斯くやな密着っぷりで、養老先の松川ファームに一時期全国の競馬関係の重役や厩務員が一堂に会して、ストレスをかけぬよう気遣いつつ一挙一投足を見逃すまいと24時間静かに観察するという異様な光景が見られた。
そして最終的に行き着いた結論は、「血以外の要素全て」。
スタート、ペース配分、コース取り、ポジショニング。
レースを理解するだけでなく、大凡騎手が本来受け持つはずだった仕事をほぼ全て自己で完結し、距離すらも把握してレースプランを自身で確立する知能。
馬運車での長距離遠征やゲートなどの未だ課題が数多く残る細かなストレス要素の一切を意に介さず、常に最高のリラックス状態でレースに君臨する豪胆な性格。
通常の馬が3時間程度なところ、幼少期から既に平均6~7時間熟睡だったという異常な長さの連続睡眠が可能にした、成長期の集中的な肉体作りによって培った強靭な体躯と万全のコンディション。
なんてことはない。たまたま異常に賢く、やたら図太い性格だった馬が「よく食べ」「よく動き」。
そこに「よく寝る」が増えただけであった。
ただそれこそが決定的な差で、普通の馬には到底出来ないだけで。
こうして結論がまとまればなるほど出鱈目に強かったわけだと誰もが納得し、むしろ血だけでよくこのバケモノと勝負が成立したものだと、かの"挑戦者"が更に評価すらされた。
一部の者は歓喜した。
元より睡眠時間を延長する試みは昔からあったが、何れも結果には至らなかった。
それを実現した2頭が、その成績でこの研究の有用性を証明したのだ。
そして多くの者が肩を落とした。突然変異だ、先天的にしても特殊過ぎる と。
これが遺伝程度であれば話は簡単だった。この2頭に繁殖でも活躍してもらうだけだから。
だがその遺伝の可能性こそ真っ先に除外されることとなった。
毎年数千から万に及ぶほどの数が生まれ、古今東西合わせて数百万を越える数の中から、たった1つの地方牧場の、そこで同年に生まれた2頭にのみそれが発現する確率。
血を分けた本物の兄妹であれば遺伝の説は補強されたが、2頭に流れる血は父も母も全くの別物。
明らかに遺伝ではない外的要因によるものとしか考えられなかった。
落胆した者の中には埋もれた血の復権ができないかと望みを抱いて足を運んだ人もいた。
そしてごく一部が胸を撫で下ろしていた。サンデー抱するグループである。
彼らはなにもカイザー達に嫌な感情を抱いての反応というわけではない。
2頭の強さの秘訣が「快眠によって強い体作りを実現する"血"」ではなかったことに安堵したのだ。
もし彼らが繁殖入りしてその性質が遺伝しようものならどうなっていたか。
たとえ禁忌だと理解していても間違いなく手を出していたであろう。
業界を風靡したサンデーの才能の血に、成長で才能の壁をはね除ける血が交ざれば。
今度こそ血統の多様性にトドメを刺していたことだろう。
そんな様々な感情入り交じったお通夜ムードの中、たまたま来ていた1人の女性厩務員の迂闊な発言によって光明が差した。
「リアちゃんはカイザー君と会ってから変わったらしいですよ?」
そしてもう1頭、影響を受けた馬がいた。
ペルピニャーン。2頭とは同厩舎所属の1歳上でグレードレースにこそ出ていないが、堅実な勝利を重ねた馬だ。
全くのノーマークだったが、女性厩務員に売られた担当厩務員に聞けばカイザーを併せてゲート訓練を行ったらしく、記録映像でも両国特別の前後で明らかにスタートのキレが違っていた。
今度は沸き立った。今のアゼリアがカイザーの影響による後天的な産物であるならば則ち再現性があるということを意味する。
だが人の手では再現に限界がある。ならばもうやることは1つしかない。交渉だ。
そうして2頭のオーナー、十文字に各地の生産牧場長が大挙して懇願*1し、新たな試みが誕生した。
馬の保育園。
幼少期の仔馬をスタッフと共に松川ファームに預け入れ、カイザー達の近くで数日から1ヶ月ほど生活、交流させ、真似させるというもの。
とはいえ実際にどこまで有用かはデータが少ないため、先ずは当歳馬ではなくデビューが近い馬から試していった。
既に体作りの終えた馬でもカイザー達と交流が多かった個体ほど知能にある程度の向上が見られ、何故かカイザーに苦手意識は持ったようだがゲートを苦にしなくなるなど明確な効果が顕れた。
そうして期待を募らせつつ少しずつ預ける年齢を下げ、ついには睡眠時間が伸びた個体がちらほらと出始めた。
この頃になると世間では「王家の養子」「カイザーチルドレン」なる言葉が使われるようになり、時に血が、時には知が勝ち、どの馬が勝つのか予想がつかなくなるなど血の停滞は鳴りを潜め、混沌とした黄金時代を迎えようとしていた。*2
そうしてとうとう迎えた「親離れ前の仔馬」の検証。そのトップバッターがこの男性の所有する仔馬である。
まだ生まれたばかりとはいえ、それを抜きにしてもその血筋にしては異様なまでに大人しく、知性に満ちていたその仔を預けることに迷いなどなく、将来を見込んで母馬ごと送り出した。
松川ファームも大事な馬を預かるにあたって逐次報告を送ってくれる。24時間フルタイムの映像記録と合わせ、この頃にはビデオ通話も容易に導入出来る時代に突入していたこともあってリアルタイムで様子が見られた。
そして文字通り馬が合ったのか「舎弟みたいに懐いた」と早速カイザー達の馬房で一緒に熟睡したという第一報を受け、男は大層喜んだ。
翌日には馬房で
最早、ごく一部*3を除いてこの仔馬の栄達を疑う者はいなかった。
しかし、ここで事件が起こった。
松川ファームは当然細心の注意を払っていたし、「脱獄王」と呼ばれたカイザーも非常に聞き分けが良かったこともあって、脱走は自重していた。
だから強いて言うならば、仔馬の頭が必要以上に良すぎたことと、タイミングが悪かった。
引退後の2頭は番組出演も格段に増え、エチケットをしっかり守れることもあって、カイザーに限ってはとうとう番組スタジオまで直接出演出来る程になった。
とあるどうぶつ園番組では出演者のカメラズームに素敵な笑顔で執拗にフレームインしたり、司会を勤める園長こと五村の背後に頭を隠して頭頂部から耳だけ露出してピコピコ動かす*4などお茶の間をこれでもかと沸かせ、磐石の人気を築いた。
そんな中、あるバラエティ番組の企画で製作された王室専用の馬運車が、送迎のためによりによって馬房から目の届くところまでずかずかと入り込んでしまい、また演出として搭乗口のドアの閂を始めとした簡易化された仕掛けをカイザーが難なく開けて入るというシーンも収録に含まれていた為にこの仔が目撃してしまったのだ。
そこらの馬ならそれでも問題無かったが、仔馬にはそれを応用するだけの知能が足りていた。
最早脱走に転用するのは時間の問題だった。十文字は胃に手を添えた。
兆候を認めた松川ファームスタッフは包み隠さず報告。
収録から戻ってきたカイザーもこれには全力で教導に努め、元よりまだ素直で地頭が良かったので、仮に脱走しても車道といった危険な場所に行かないよう教育を徹底した甲斐もありどうにか最悪は免れた。
なお、この件で仔馬は山の幸の味を覚えた。
そうして期間を終えた頃には、長い睡眠時間やゲートを嫌わないなどカイザーの競争馬としての良いところの殆どを受け継ぎ、
迎えの正規の馬運車の扉を開けようと操作盤の蓋を叩き
運搬中は馬運車で爆睡し
帰ってからは虎視眈々と脱走を謀る
まさしくカイザー2号とでも言うような悪童が出来上がった。
あわや松川ファームの責任問題になりかけたが、男は責めなかった。
この仔馬は男が惚れ込んで引き取った馬の血を引いた子。
ロマン溢れる血を引き鮮烈な活躍を見せたカイザー達に似たこと自体は吝かではなかったのだ。
ブログも読んだ。
ならこれでもかと薫陶を受けたこの仔は一体どれほどの大物になってしまうのだろうか。
頭痛とは裏腹に期待で口角は上がっていた。
そこに牧場スタッフが駆け込んできた。
「フラッグ09がまた脱走しましたぁ!」
頭が引っ張られるようにぐらりと後ろに傾き、天井を仰ぎ見る。
見えるのは蛍光灯とねずみ色の壁なのに、空が青いなぁと現実逃避気味に呟いた。