停電になった女子寮内を桜咲刹那は飛ぶように走っていた。一歩一歩が大きすぎて半ば半分飛んで目的の部屋に到着した刹那は、片手に携帯を持ちながらドアを開けた。
「お嬢様!」
ドアを開けた先の部屋は停電中なので当然のことながら暗かった。室内にいるべき人間は二人でなければいけないのに、刹那が見つけたのは一人だけだった。
「せっちゃん」
灯りもない室内で布団に包まっていた木乃香は、入って来た刹那がダイニングで携帯を開いた灯りで顔が見えたことに安心したようだった。
布団から出て来て縋りついてきた木乃香をしっかりと受け止める。
「大丈夫ですか、お嬢様」
「明日菜が急に飛び出してって怖なってな。呼んで迷惑やった?」
「何時でも遠慮なく呼んでくださって結構です。寧ろ、呼んでください」
ぎゅ、と強く抱き付いてくる木乃香に緩んだ顔をした刹那を見れば同室の真名も失望すること間違いなし。既に知っていて諦めているかもしれないが。
「明日菜さんはどうされたんですか?」
「分からんねん。布団のところで誰かと話してみてたみたいやねんけど誰も部屋には入ってきてないし、止める前にあっという間にどっかに行ってしもうてん」
「まさか……」
刹那には心当たりがあった。この部屋に来る前にネギ達の知り合いというオコジョ妖精が助力を求めて来て、気持ち的には助けたいがアーニャから事前に助太刀無用と止められていたので断っていたのだ。
一般人の明日菜にも同様に助力を求めに来たようだ。様子からして助力に応えて行ったのだろう。
「なにか知ってんの?」
「いえ、分かりません」
刹那にはそうとしか言いようがなかった。
「やっぱアスカ君達のところに行ったんやろうか」
刹那の表情の僅かな変化から明日菜の行き先を悟った木乃香は心配そうに窓の向こうを見た。月明かりを取り入れる為に開けられているカーテンのお蔭で、外の様子が良く見えた。
「恐らく」
頷いた刹那にはアーニャに止められている以外に助太刀に行けない理由があった。それは木乃香も同じやった。
「大丈夫やろか。千草先生に止められてなかったらうちも行けたのに」
「天ヶ崎先生はお嬢様の身を案じておられるのです。自重して下さい」
「歯痒いなぁ。うちの立場なんてお父様やお爺ちゃんの血縁ってだけやのに」
この新学期から関東魔法協会の支部の一つがある麻帆良学園都市に関西呪術協会から留学生としてやってきた天ヶ崎千草。彼女が麻帆良に送られれてきたのは、木乃香が己の立場と魔法を知ったことから家庭教師としての一面もある。
半月で授業は始まっていて、彼女の家に出入りする木乃香に付き添っていた刹那は同じように千草の家に出入りしていたアスカ達がエヴァンジェリンと戦うのを聞いてしまったのである。明日菜に詰問されて割とあっさりとゲロッてしまったのは刹那の迂闊であった。
『エヴァンジェリン達の戦いに首突っ込んだら呪いかけるから。うんと苦しむようなやつな。女の尊厳奪う方向の』
陰陽師の先生である千草に禁じられ、齧っただけの刹那では本職が本気で呪いをかけてきたら跳ね返すことは難しい。やると言ったらやる女であることは普通の教師生活や陰陽師の先生として見て来た刹那では逆らいようがない。普段はおっとりしている木乃香ですら逆らおうとはしないのだから大概である。
あれで特定の人物には実は押しが弱いようだ。アスカとかネカネとか。特にネカネ。天然すぎて手に負えないらしい。
「無事に帰って来れる様に応援しましょう。今の私達に出来るのは、それだけです」
「みんなが無事に帰ってきますように」
みんなが無事に帰ってくるように木乃香は胸の前で手の平を組んで祈りを捧げた。無宗教なので神には祈らない。戦いに赴いた年下の友達達と親友にこそ、木乃香は祈るのであった。
突如として現れたイレギュラーは、ここには来てはいけない人間だった。
「明日菜!?」
橋の向こうから駆けて来る明日菜の姿にアスカが驚愕の声を上げた。
「やはり来たか、神楽坂明日菜――――茶々丸」
「申し訳ありません、明日菜さん」
前に敵がいるにも関わらず、後ろを振り向いて明日菜がやってくるのを見たエヴァンジェリンは表情を崩し、一瞬で元に戻しながら茶々丸の名を呼ぶ。
茶々丸は主の意を汲んで、明日菜を迎撃するために前に出て進路を塞いた。妨害を予測していた明日菜は肩に乗っているカモを信頼して更に加速する。
「カモ!」
「合点だ! 俺っちの力を見せてやるぜ! オコジョフラーッシュ!!」
「目晦まし!?」
「ゴメン、茶々丸さん」
カモは叫びと共に手に持つマグネシウムをライターで燃やして化学反応で発生した即席の閃光弾を炸裂させた。即席の閃光弾はカメラのストロボよりも激しい光を生みだし、茶々丸のセンサーを僅かの間とはいえ狂わせ、その動きを止めさせた。
茶々丸の横を明日菜は駆け抜けた。莫大な生徒数を誇る麻帆良学園都市の中で女子中等部一、二を誇る明日菜の健脚は瞬く間にエヴァンジェリンへと近づいていく。
今のエヴァンジェリンに近づくのは自殺行為。それが分かっているからこそ動き出そうとしたアスカの前に立ち塞がる敵――――チャチャゼロ。
「そこをどけ!」
「サセネェッテ言ッテンダロ」
真っ先に飛び出そうとしたアスカの進路を塞ぎ、かつアーニャとネギに持っていた大剣を投げつけることで牽制するチャチャゼロを確認したエヴァンジェリンは、迫る明日菜を見据える。
十メートル、九メートル八メートル、七メートル、六メートルと徐々に近づいて来る明日菜を見据え続ける。
瞬く間にエヴァンジェリンならば一足の間合いにまで踏み込んだ明日菜。そして距離をゼロにして、マイナスになろうともエヴァンジェリンは手を出さなかった。
「それが貴様の選んだ選択か」
隣を通り過ぎた時、明日菜は確かにエヴァンジェリンの声を聞いた。
「下がれ、チャチャゼロ」
「御主人モ甘クナッタモンダ」
「早くしろ」
「ヘイヘイ」
妨害をしていたチャチャゼロが文句を言いながら下がったことで、明日菜の進路を塞ぐ者はいなくなった。
「兄貴! 時間が欲しい。障壁を」
「事情を説明してよ。ラス・テル・マ・スキル・マギステル 逆巻け春の嵐 我らに風の加護を 風花旋風・風障壁!!」
カモの求めに応じて、状況を理解するために時間が必要と判断したネギは竜巻のような風の障壁を作った。もしかしたらエヴァンジェリンなら突破してくるかもしれないが、先程の様子を見てそれはないとネギは直感した。
竜巻の周辺は激しい気流が流れており危険だが、その内部は台風の目のように静かである。しかし、雷の少年の怒りはそれどころではなかった。
「カモ! なんで明日菜を巻き込んだ!」
「く、苦し……」
明日菜と共にやってきたカモを見た瞬間に全てを悟ったアスカの怒り様は、幼き頃からずっと一緒にいるネギですら見たことがなかったものだった。
カモの首を絞めて詰問するアスカの怒り様に、ネギもアーニャも止められなかった。
「待って。切っ掛けはカモかも知れないけど、ここに来たのは私の意志なの。責めないで上げて」
アスカの手を止めたのは明日菜だった。
流石に明日菜の懇願に、アスカも今にもカモを縊り殺しそうな手を緩めた。アスカから逃げたカモはネギの体をよじ登って肩で息を吐く。
「はぁ~、殺されるかと思った」
「カモ君が明日菜さんを連れて来るからだよ。アスカじゃないけど、なんで連れて来たの?」
気持ちの上では分からないまでもないネギがカモに非難の視線を込めながら問うた。絞り上げられた毛は短い手足では整えられないので、舌でやっていたカモはネギの問いに顔を上げた。
「戦力が足らねぇんだろ。関係者って話の何人かに当たってヒットしたのが明日菜姉さんだけだったんだ。話に聞いてたの以外にも強いのが何人かいたけど、関係者かどうか分かんなかったから姉さんに頼んだんだ」
「だからって明日菜を連れて来ることはないじゃない」
「自分達だけでやろうとするのは兄貴達の悪い癖だぜ。アーニャの姉さんだって変わらねぇ。三人で勝たないなら他から戦力を持ってくるのは常套手段。遥かな格上に挑もうっていうのに余裕を残すのはおかしいんじゃないか?」
問うたアーニャにだけではない。カモはネギとアスカにも言っていた。助言者・知恵者として、目標としているナギに届くには三人の実力はまだまだで、こんなところで足を止めたくなければ明日菜を巻き込んでも進めと言っているのだ。
己の役割を熟知しているカモの言葉は少年少女にとっては辛辣ですらあった
「テメェ……」
言い返したいが言い返すだけの材料の言葉が見つからないアスカを見た明日菜が前に出た。
「私はアスカを助けたい」
圧倒的に強いアスカに言うのは間違っていると、明日菜も分かっている。
しかし、明日菜はこのままじゃいけないような気がした。このままでは置いていかれそうな……………そんな気がしてならない。それが嫌だ。傍にいたい。それを表に出さず、だけど明確な意思を持って願い出た。
今も明日菜には覚悟も意志もないかもしれない。そう、胸にあるのは大事な人を喪ってしまって抱えた欠落だけだ。そしてその欠落からさえもずっと目を逸らして生きてきた。だけど何時までそうして生きる事はできないのだという予感がする。
ここで置いていかれたら何もできない。それが自らを脅迫するように締め付けてくる。何故かは分からない。分からないけど、何も出来ないままなんて嫌だから。
何も出来なかったから誰かが傷ついた。あの時だって、あの時のこととは何のことなのか? そのことには考えが至っていないが一種の強迫観念に似た何かが追い詰める。それが明日菜を動かす。今、動かなければ自分は後悔すると。
「私、頭が悪いから上手く言えないんだけど決めたの。このまま見て見ぬ振りをすれば、きっと後悔すると思う。私にはみんなみたいな戦う力は無いけど………後悔だけはしたくない! だから例えアスカが止めても関わっていくよ」
明日菜の目には強い意志が宿っている。その目を見てアスカは止めても無駄だと悟ってしまった。
「ああ、もう!」
頭をガシガシと乱暴に掻いたアスカがやがて諦めたようにため息を吐いた。
アスカに溜息を吐かせたのは、その人生において明日菜が始めてであることは彼女は知らない。
「…………分かった。正直助かるのは事実だ」
「アスカ!?」
「認めろ。俺達は弱い。明日菜を巻き込まなきゃ進めない程にな」
下を向いて大きく息を吐いたアスカは、アスカは拳を強く握って気持ちを切り替えるようにネギに言った。
「ちくしょう、強くなりてぇ」
竜巻の向こうにいる強さの具現であるエヴァンジェリンを見つめるアスカの眼差しに、ネギもアーニャもそれ以上は何も言えるはずがなかった。
話が纏まったとみたカモが時間を確認しながら小さな口を開いた。
「決まったなら仮契約だ。明日菜の姉さんにも戦う力が必要だ。魔力量からいって二人のどっちがする?」
風花旋風・風障壁の持続時間も残り短い。話を進めるためにカモはネギとアスカを見た。
「「………………」」
まさかの話に二人は顔を見合わせ、自分からネギが引いた。ネギ少年は、明日菜とアスカのやり取りを見て何も感じぬほど鈍感ではなかったのだ。
「んじゃ、行くぜ」
なんのことか意味が分からない明日菜を放置して、アスカが前に出たのを見たカモはどこからか取り出したチョークらしき物で地面に魔法陣をあっという間に書き上げていく。自分を中心に複雑な魔法陣を秒単位で描いていくカモに明日菜が感嘆の息を漏らす。
「うしっ、完成!」
「おお、凄い早業っ」
一分も経たずに書き上げられた魔法陣に一人だけの拍手が巻き起こる。その拍手は途中でアスカに遮られることになる。
「ま、あれだ。狗に噛まれたと思って諦めてくれ」
「えっ……んむ!?」
頭を掻いて魔法陣に入って来たアスカが明日菜の首を掴んで引き下げ、近づいてきた顔に自分の顔を寄せて口づけをした。
「
二人が唇を合わせたのを確認したカモの声と同時に、魔法陣が光り輝いて一瞬でもネギ達の目を眩ませるほどの光を放つ。数秒して、消えていく魔法陣の光に合わせるようにアスカは唇を離した。
「ぁ……」
恍惚の面持ちで流れ込んでくる何かに身を任せていた明日菜は、離れて行く唇を追おうとして状況に気づいて恥じらいに顔を紅くした。
京都で思った通り、アスカの唇は思いの外柔らかくてキスの気持ちに良さにちょっと濡れてしまった明日菜であった。どこが濡れたのかは明日菜一生の秘密である。
「カモ、カード」
「へい」
唇を抑えてプルプルと震える明日菜を頑として見ないアスカはカモからカードを受け取った。『傷ついた戦士』と称号が書かれている、身の丈ほどの大剣を持って軽鎧に身を包んで快活そうに微笑む明日菜の姿がプリントされたカードを見るともなしに見つめるアスカ。
「なによ、アイツったら」
「照れてるだけだよ。ほら、耳まで真っ赤」
乙女の唇を了解もなく奪っておいて素っ気ないアスカの態度に気を悪くしたアーニャだったが、ネギの指摘を確認するために見ればその通りだったので納得した。
アスカの耳が先まで真っ赤になっていて素っ気ない態度が照れ隠しだと気づいた明日菜は、もっと顔を紅くした。正直、キスをした相手と面と向かって顔を見れる度胸はない。
「もう風障壁が解ける。明日菜のフォローはカモに任せるぞ」
「姉さんを引き込んだのは俺っちだ。責任は持つさ」
言ってカモが明日菜の肩に飛び乗るのを見たアスカは、次にネギを見て耳を触った。
「ネギ、あれをやるぞ」
「分かった」
ネギが頷くのと同時に、風障壁が解けて竜巻に包まれていた風景が元に戻る。
「ふん、出て来たか」
退屈そうに待っていたエヴァンジェリンは腕組みを解いた。
「ふふっ……どうした、お姉ちゃんが助けに来てくれてホッと一息か?」
「ほざけ」
鼻息も荒く言い返したアスカはカモから受け取ったカードを前に掲げた。
アスカが持つカードが仮契約をした証であることを知っているエヴァンジェリンは、後ろでオコジョ妖精から助言を受けている明日菜を見遣った。
「馬鹿者が」
「マスター?」
「なんでもない」
チャチャゼロは何も言わない。甘くなった主人に言うべき言葉を、戦いの中で吐くなんてことは絶対にしない。
「契約執行無制限!! アスカの従者『神楽坂明日菜』」
明日菜の体にアスカの白い魔力光が宿る。
「…………温かい」
従者となって他者の魔力を身体に受けると、こそばいというか大なり小なりの違和感がある。羽毛で肌を軽く触られているような感覚がして落ち着かなかったが、同時にアスカに守られているような安心感を明日菜に与えた。
アスカの行動はそれだけに留まらない。取り出したのは別のカード。ネギと契約した仮契約カードを。
「アデアット」
アスカの両耳に真珠のようなアクセサリーがついた耳飾り――――銀のイヤリングが出現する。
自己強化型のアーティファクトかと警戒したがアスカはそのイヤリングの片方を外してネギに向かって投げた。
「行くぜ、ネギ!」
「うん!」
イヤリングを受け取ったネギは言いながら、アスカが着けている方とは逆の耳につけた。
「「合体っ!」」
瞬間、まるで磁石に引かれた砂鉄のように二人の体が引き寄せられた。接触すると明日菜達が仮契約した時以上の光が辺りを覆った。
光が晴れた時、そこにいたは一人の少年だった。ネギとアスカの両方の髪型や髪の色、雰囲気が混じり合って一つようになった男は、知性と野生という矛盾した要素が同居した静かな瞳でエヴァンジェリンを見ている。
「誰だ、お前は?」
ゴクリ、とエヴァンジェリンは唾を呑み込んだ。件の男から発せられる魔力はネギようでアスカのようでもあり、どちらでもあってそのどちらでもない感じがする。
摩訶不思議な現象に明日菜は瞬きを繰り返した。しかも、明らかに供給される魔力が跳ね上がって、体が羽毛のように軽い。全能感すら抱いて現れた少年を見る。
「…………俺は、ネギでもアスカでもない。そのどちらでもあって、どちらでもない存在。貴様を倒す者だ」
声も二人の声が同時に聞こえるようで、違うような感じ。なのに、不思議と姿にフィットした声だった。
「『ネスカ』よ! 二人の名前を足して『ネスカ』! 二人が合体したら高畑先生を倒すぐらい凄っい強くなってるんだから!!」
「そうだぜ! アスカの兄貴のアーティファクト『絆の銀』で合体した二人の魔力は数倍に跳ねあがってんだ! それだけじゃねぇ。アスカの兄貴の戦闘センスと近接能力、ネギの兄貴の知能と遠距離能力が合わさった最強の戦士だ。真祖の吸血鬼にだって負けるはずがねぇ!」
「ほぅ、最強とはまた吠える」
問うたネスカの後ろから首を出したアーニャがその名を叫び、明日菜の肩口に隠れながらのカモの興味深い話を聞いたエヴァンジェリンの顔に凶悪な笑みが浮かんだ。今もビリビリと放たれる『ネギ+アスカ=ネスカ』と呼ばれた男から放たれる桁違いの魔力に肌が震える。
「この合体は強力だが長くは続かない。時間切れが来る前に、さっさとやろう」
ネスカは両手を握って拳を作って軽く腰を落すと、中心にして空気の圧力が生まれ、膨大な魔力の生み出す圧力が体内のみならず周囲にも漏れ出した。無色無形の波動。まるで突風だ。辺りが竜巻が起こったかのように大気が荒れ狂う。
大気を荒れ狂わせ、大気摩擦で雷を生み出すほどのエネルギーに、さしものエヴァンジェリンは目を見開いた。
「……ふ……ふふ……ふふふふ……あははははははははは!!」
ただ力を解放しただけでこの圧力。エヴァンジェリンは、ネスカの秘めた力のレベルに眼を見開いて笑う。単純な魔力の総量だけでもエヴァンジェリンの五倍。在り得ぬほどの力の上昇に、歓喜に身が震える。
「ヤベェ…………下ガレ、茶々丸。御主人ガマジモードダ」
「了解、姉さん」
エヴァンジェリンの様子から危険を悟ったチャチャゼロの忠告に茶々丸が従って下がった直後だった。本気を出しうる相手だと判断したエヴァンジェリンを中心としてブリザードが吹き荒れ、近くにいるだけで骨まで凍えそうになる。ただの雪風ではない。地上の永久凍土を凌ぐ冷たさで、冥府に吹き荒れる風だ。
「川が凍って行く……!?」
明日菜は橋下の川が真っ白な氷の塊になっていくのを驚愕の眼差しで見つめる。エヴァンジェリンを中心として川や橋が突如として凍り付いていく。誰の影響か考える必要もない。あまりにも信じがたい変化だったが、どうしようもなく現実の光景だった。
「っ…………ははははははは」
全てが凍り付いた世界で、女王が愉快そうに笑う。体の底から湧いてくるものを一切留めずに、猛々しい笑い声として放出しているようにも思えた。氷の如き声音はそれ故に恐ろしく、如何なる者も膝を折らずにはおかぬ禍々しい響きさえ秘めている。
「ネスカといったか。貴様を本気で戦えるに値する男と認めてやろう」
笑いを収めて目の前の敵に観察の目を注ぐ。
ぞわっ、と見据えられて声が放たれただけで背筋が泡立つようなプレッシャーを浴びて、直接見られたわけでもないのにアーニャの全身に鳥肌が立った。
「なによ、この力は」
氷の女王と化した吸血鬼の力が分からぬはずもない。未熟な魔法使いであれば、力の一端の放射だけで当てられて死んでしまいかねない絶後の領域。緊張に強張ったアーニャの頬を冷たい汗が一筋流れ落ちてすぐさま凍り付く。鼻の頭から頬へと白い冷気が滑り、鼻孔の粘膜を痺れさせた。
「ありえねぇ。こんなのは予想外だぜ」
カモにとってエヴァンジェリンがここまでの力を隠しているとは考えていなかった。今のエヴァンジェリンは全てが凶器、そんな雰囲気である。だがそれ以上に解き放たれている激烈なプレッシャーの方が凶悪だ。ただそこに在るだけで気圧される。少しでも気を緩めれば戦うことなく勝敗は決してしまうだろう。オコジョ妖精としての本能が逃げろと警告を発している。力に物を言わせて蹂躙し、嬲り、慰み物にされるのは確かだ。
アーニャ達が無事でいられるのは、ネスカが防波堤となってエヴァンジェリンから放たれる威圧感と雹風を跳ねのけているから。ネスカがいなければ既に失神しているか、下手をすれば恐怖で自ら死を選ぶかしているかもしれなかった。
「面白い。最強と謳われたその実力。打ち砕くに足るものだ」
「それは重畳。打ち砕けるものか、存分にその身で学ぶがいい」
二人の会話は、長い時間を経た師弟のそれにも似ていた。しかし、最も異なるのは、その二人を繋ぐ意志であろう。相手を打倒せねばおけぬという、そういう決意の現れであった。
怯える二人と一匹と違って、獰猛な笑みを浮かべて雹風を跳ね除けるネスカにますます楽しそうにエヴァンジェリンは笑う。少なくとも今のエヴァンジェリンと向き合って戦意を挫けないだけで、彼女にとっては珍しい事であった。
「場所を変えよう。ここだと周りを巻き込みかねない」
己に牙剥くものに胸が躍る。闇夜に咆えるその咆哮は、獲物の枠にとらわれぬ、敵と認識できる者と出会えたことへの喜びの声。ふわりと杖もなしに浮かび上がったネスカが橋から凍った川の上に行くのを追いかける。
麻帆良大橋から十分にとった二人は十メートルの距離を取って向かい合う。ピンと空間に緊張感が張りつめた。どちらも動かない。常人だとショック死しかねない対峙に、それを楽しむようにエヴァンジェリンの唇がユルリと綻んだ。
「行くぞ。私が生徒だという事は忘れ、本気で来るがいい」
「御託はいい。かかって来い、エヴァンジェリン」
「貴様も全力で来い。直ぐに終わってはつまらんからな」
己の全てをぶつけようと思ったネスカの宣戦布告に返ってきたのは、どこまでも猛々しいエヴァンジェリンの王者の笑みだった。
「では、始めようか。形式に則って名乗らせてもらおう」
言い放った直後、身に纏う威圧感が増してプレッシャーとなって襲ってくるのをネスカは感じ取った。ネスカが対峙するは姿形こそ十歳程度の少女だが、無邪気で可愛い女の子には見えない。そのように非力でも、人畜無害でもない。魔法世界にその名を轟かせる悪の魔法使い。ナマハゲ扱いされる「闇の福音」。
「我が名はエヴァンジェリン・A・K・マクダウェル。不死の吸血鬼なり」
決闘の作法とはまず己が名を名乗ってから始めるのが礼儀であった。そこにいるだけで世界を凍りつかせる氷神の女王となったエヴァンジェリンが、己が名を名乗る。今のエヴァンジェリンに余計な構えは必要ない。氷の女王として君臨するだけでいい。王とは君臨するからこそ王なのだから。
静かな闘志を総身に滾らせたまま、華奢な矮躯を威容と錯覚させるほどの気迫は、やがて輝く魔力を伴って、彼女の全身を包み込む。
「今の俺に性はない。ネスカ、ただのネスカだ」
ネスカの全身が風で覆われて雷が纏わりつく。屈められた肉体がこれから発射する弾丸の弾を思わせる。全身の筋肉が収縮して、今にも飛び出しそうにスタートの時を待っていた。
エヴァンジェリンとは対照的に、静かなほど魔力が全身に行き渡せて他者を威圧せんばかりの充足振りを見せる。
「いざ――」
二人の超上の戦士の闘気が音もなく張り詰め、鬩ぎ合う。感受性の強い者ならば、その気迫に当てられただけでも実際の攻撃に等しいショックを受け、心臓麻痺を起こしていたかもしれない。感受性の低い者でも全身の細胞が必殺の予感に竦み、息どころか脈すらも滞らせるほどであっただろう。
「尋常に――」
二人の間で空気が軋む。限界ギリギリまで膨らんだ風船みたいに、強烈な敵意が世界さえも変質させる。
指一つ動かせば心臓が止まってもおかしくない凄絶なる前哨戦。殺意と殺意が絡まって、互いを蜘蛛の巣のように繋ぎ止めていく。その殺意の戦意には、互いの持つ力という鋭い針さえも混ざっている。迂闊に触れればそれだけで致命傷となる毒針だと誰でも分かる。
「「――――勝負!!」」
小さな身体に<力>を漲らせた全身で雄叫びを上げて、声と共に両者が雷と氷を放出しながら突進して一気に距離を詰める。ほぼ中間地点で互いの意志をぶつけ合うかのように正面から激突して凄絶な爆光を散らす。
アスカが雷と風が迸る右の拳を、エヴァンジェリンが氷を纏う左の拳で受け止めている。
二人はどちらともが戦闘の主導権を奪うべく相手の拳を押し返そうとしているが、力は拮抗し、交え合う拳の向こから凄まじい閃光が麻帆良の空を彩った。最終ラウンドが始まった。
電気が消えたログハウスの家。三軒並んだ最も端のログハウスの窓から顔を出したネカネは耳を澄ました。
「もう、戦いは始まったんでしょうか」
戦いの音が聞こえるかと耳を澄ましたが、聞こえるのは風の音のみ。不安になって室内でテーブルの上に今日勝って来たばかりの蝋燭に火を点けている天ヶ崎千草を見る。
「知らんがな。てか、なんであんさんはうちの家におんねん」
「こんな真っ暗の中に家で一人でいたら寂しいじゃないですか」
「うちはあんさんがおらん方がええわ」
大分この一行に毒されて諦めの境地になってきた千草は、ぼんやりとネカネが開けている窓から入って来る風に揺れる蝋燭の火を見つめた。
「そんなこと言わないで下さい。アスカ達のクラスに幽霊がいたって話で、家にやってきたら怖いんです」
「魔法使いやのに幽霊怖いってなんやねん」
魔法使いでは幽霊は珍しいのか、と思いつつも力のない突っ込みを入れる。
陰陽師なんて昔から悪霊とか悪鬼とかと戦う職業なので、千草は世間の女性のように幽霊を怖がることはしない。高校などではネカネのように頼りにされて、夏の風物詩である肝試しで意中の相手がいない同性に縋りつかれた物である。そう考えると、今と随分変わっていないような気がして地味にへこんだ千草だった。
「心配やったら一緒に行ったらよかったやん」
その方が清々する、とまでは流石の千草も言わなかった。本当なら教師はこの停電の時間は学園内の見回りをするのだが、新任であることとこの地域を任された本当の意味を知っている千草は家から一歩も出ずにボーッとしていた。
「邪魔だから来んなってアスカに言われちゃいまして」
てへ、と舌を出したネカネは可愛くなくもない。
「来んな、来るなよ、絶対だからなって、これは実は私に来てほしんでしょうか?」
「あの子は一日に一度はボケなあかん体質やから、多分言うてみただけやろ」
ネタ提供は早乙女や明石辺りかな、と半月付き合って大体のクラスの面子の性格を読み切った千草は、うずうずとしてドアに向かおうとしたネカネの襟首を掴んだ。
えー、と不満そうなネカネを引き摺ってダイニングに座らせる。
「しかし、アンタの弟妹は変な子やな。うちやったら大金積まれたって闇の福音と戦いたくなんてないわ」
魔力開放状態のエヴァンジェリンと戦ってくる、と言ったアスカの熱を思わず測った千草は、聞いた当時の混乱と今でも理解できない心情に疑念を口にした。
「あの子達、というかアスカとネギだけですけど、二人には強くならないといけない理由があるんです。今回の戦うのもそれが理由の一つなんですよ」
少ししんみりとした様子のネカネの表情は、蝋燭の火に照らされた儚げに見えた。
いらんことを聞いたと、蝋燭の火だけが照らす暗闇の中だと口が軽くなってしまうことを自覚した千草だった。
「あ、長い昔話はどうでもええから端折って端折って」
こんな暗い部屋で暗いと分かる話をされるのは気が滅入る。しかも、明らかに長そうな話をしそうな雰囲気をネカネが醸し出しているので、千草は巻きでお願いしますと頼んだ。
「…………千草さんにはわびさびが足りないと思います」
「まさか外国人にそんなことを言われるとは思いもせんかったわ」
少し傷ついたネカネの切り返しに千草は胸を抑えた。半月も一緒にいて大分慣れたので直ぐに持ち直したが。
「五十字ぐらい纏めるか、五・七・五でもええで」
無茶振りをして、実は聞く気のない千草だった。
顎に手を当てたネカネは暫し考えるように風で揺れる蝋燭の火を眺めつつ口を開く。
「六年前に父・出会って助けられ・憧れました。小さなつは見逃して下さい」
「よう、纏めたな」
まさか冗談で言った俳句バージョンで纏めて来るとは予想の範囲外過ぎて震撼した千草だった。
逆にその短い単語から悟れとネカネの目から逃れるように顔を逸らしても纏わりついて来て、教師になって初めてというほどに頭を必死に回転させる。
「確かあの二人の父親って魔法世界の英雄やったな。十年前に行方不明になって死亡扱いになってるとか」
「ええ」
「ということは、実は生きてた父親に六年前に助けられてから憧れてるってところか」
分かるとしたらそれぐらいだ。六年前に助けられるような何かがあったことは想像に難くない。が、千草は聞かない。
「今日の試合の結果で、高名な魔法使いであるエヴァンジェリンさんに弟子入りさせてもらうかが決まるんです。ナギさんに追いつくんだって、頑張って背中を追っている最中なんです」
「ふ~ん、ならアーニャの方はどうなん?」
「あの子はまた別で……」
「まあ、言い難いなら別に聞かんよ」
仲の良さそうな三人組にも色々あるんだな、と思うだけで、人の家庭に首を突っ込むのは野暮と考えている千草は無理に問い質さなかった。
十分に巻き込まれつつある気もするが、最後の一線は守ろうと必死な千草である。
ふと、思いついたように開きっぱなしの窓の向こうから外を見て、今日来たばかりの子犬のことを思い出した。
「そういや、小太郎が遅れて出て行ったけど、何しに行ったんやろうな」
ネスカの視線の先でエヴァンジェリンは凄まじい勢いを得て荒れ狂っていた。彼女が跳ぶだけで地面が砕け、動くだけで風が割れた。一撃の重みは地球上に存在するあらゆる生物を凌駕し、動きの鋭さは如何なる想像の生物を超える。
拳を、蹴りを、刃を交わす。大気を切り裂き、互いの魔力の煌めきが線となって空間に傷を刻む。対峙する二人は目まぐるしくお互いの位置を入れ替えながら移動を繰り返し、今は空中数百メートルの位置にいた。
「「…………ッ!」」
お互いに無言。己が決めたことを成すべく体を動かすことのみに集中する。
「「っ!」」
拳戟が交錯して、気合の咆哮が衝突する。互いに防御した腕の向こう側に険しい顔がある。気合いのぶつかり合いが空気の密度を変化させ、視界を歪ませる。
戦況は、今のところ見た目は互角。
経験と技量ではエヴァンジェリンが、魔力量による性能と手数でネスカがそれぞれ勝っている。だが、あくまで戦況に注視した状況である。二人の状態には明らかに差異があった。エヴァンジェリンの経験を、五倍もの魔力の差で切り抜けているが、何度となく交差し合う度にネスカの服が切り裂かれ破れ血飛沫が舞う。
天秤がゆっくりと傾くようにネスカが劣勢に追い込まれていく。傷つくのは常にネスカの側で、エヴァンジェリンには一度たりとも有効な攻撃を加えられなかった。
「――――」
顔を上げて身構える。先に次の行動に移るのが早かったのはネスカの方だった。
拳を握り締めたネスカが弾丸となって走った。渾身の右ストレートというより、それはもう拳からぶつかっていくタックルみたいなものだった。超絶的なスピードと体重がそのまま破壊力になって、余裕を見せつけるように立っているエヴァンジェリンの鳩尾にめり込む―――――
「狙いはいい。何の躊躇もなく必殺の一撃を繰り出すのもまだいい」
「――――っ!?」
拳に返る手応えがあった。腹を深々と抉っているにも関わらず、エヴァンジェリンには効いた様子がない。
「が、殺気が出過ぎるのは防ぎやすいぞ」
唐突に背後に沸いた気配にネスカは即座に振り返る。振り返った瞬間、左頬に強烈な右フックを受けた。氷を極限にまで固めたような感触が頬に残り、冷たい感触が心臓にまで走って、首が千切れる飛びそうなほどの衝撃に意識が遠退きかける。
傾斜する身体を気力で支え、先程まで前だった背後を見た。
背後にはネスカの拳が腹部に食い込んでいたエヴァンジェリンが瞬く間に色を失って氷柱と化し、拳がめり込んだ部分を起点に全体に罅が広がっていく奇妙な光景を。氷で作られた虚像、フェイクだ。
間もなくネスカはこの絡繰りを理解した。実に単純、背後に倒れているのは偽物で、今ネスカを殴りつけた少女こそ、本物のエヴァンジェリンであるという答え。目と鼻の先の距離で戦いながら敵に入れ替わった瞬間を気づかせぬ妙技に、戦闘の最中であっても感嘆せずにはいられない。
「こうやって攻撃を読まれ、逆に利用されもする」
エヴァンジェリンは右腕を戻す勢いのままに、回転を活かして腹部を抉り上げるようなアッパー気味を見舞う。体勢が崩れるのを気力で支えるのが精一杯だったネスカに回避や防御が出来るはずもない。
無防備な腹部に小さな、されど絶大な破壊力を有した拳が深々と食い込み、ネスカの身体はくの字に折れ曲がる。
「――げ、っは――」
鋼鉄にも勝る今のエヴァンジェリンの拳は、天然で最も高い物質であるダイヤモンドすら飴細工のように砕くことだろう。胃の中身どころか打たれた部分が千切れて消し飛んでしまったかのような振動が走る。痛みすらも越えて突き抜ける衝撃が下から突き上げる。
「利用されれば絶大な隙を生む」
そこへエヴァンジェリンが短い呼気と共に拳から先が凍り付いた右腕を突き出し、撃ち放たれた拳銃の弾のように右頬に向かって発射された。ネスカは凄まじい速度で吹き飛び、眼下の氷河にめり込んだ。
「……うっ、く……」
口から洩れる微かな呻きが、ネスカの生存を伝える。だが、ダメージが深すぎて氷河にめり込んだまま直ぐには動けそうになかった。
絶好の隙を見せるネスカだがエヴァンジェリンは追撃をしなかった。ゆっくりと氷河へと降りて来る彼女の眼は前ではなく手元を見下ろしている。その手は氷が削れて一ミリ程度だけ地肌が見えていた。
「完全に防ぐのは難しいと見てダメージ軽減に務めた手際、今のには及第点をやろう。こんな状況に陥っている時点で合格点にはまだまだ遠いがな」
あの一瞬で回避も防御も不可能と見たネスカは、少しでもダメージを和らげるために攻撃を受ける右頬にピンポイントに風を生み出した。エヴァンジェリンは自ら風に手を突っ込むように攻撃したのだ。その場凌ぎの風に氷を削り切るだけの威力はなく、氷が突き破ったが従来ほどの破壊力はなかった。まだネスカの首が折れていないのはそのお蔭だった。
土壇場の機転で命を拾ったネスカに対するエヴァンジェリンの評価は辛い。
「それはどうも!!」
ダメージを回復して氷河から抜け出たネスカの姿が掻き消えた。何重にもフェイントをかけて、間近に迫ってからの瞬動で視界の外からの強襲。
エヴァンジェリンはネスカを見ていない。これは決まるかと思われたが。
「!?」
一撃必殺の光景を脳裏に思い描いていたネスカの視界が不意に回転した。この至近距離から最高速のチータを凌ぐ速さで繰り出した一撃を、エヴァンジェリンのマタドールめいた紙一重の動きでいともあっさりと躱され、しかも伸ばしていた腕を搦め取られた。
「空?」
如何なる妙技か、腕に羽毛が触れたと感じた瞬間には宙を舞っていた。視界が空を向いて始めて自分が投げ飛ばされていることに気がついた。心技体が高位次元で融合された技は達人の名に恥じない技量を示す。
「くっ?!」
このままでは無様に顔を地面に付ける。その瞬間にネスカの敗北が決定する。それだけはならないと体を丸めて回転する。更に捻りも加えてエヴァンジェリンの背後を見るように両手を地面に着いて着地した。
エヴァンジェリンが無様に背中を取らせるはずがないとのネスカの予測は正しかった。膝を伸ばす前からもう振り返りかけている。次の行動はこのままではエヴァンジェリンに先手を譲ることになる。
回転を増したことで体は僅かに前のめりに。体重は氷河に着いた両手にかかっている。これは次の行動へ移るための布石。如何なる体勢になろうとも次の行動の先手を奪われると戦闘センスから導き出したネスカが出した答えは回避。四肢に力を込めて後方に跳躍。エヴァンジェリンから距離を空けようとした。ところが、五足は必要な距離を空けて着地したネスカの直ぐ目の前に、何時の間にかエヴァンジェリンが迫っていた。この行動すらもエヴァンジェリンは織り込み済みだったようだ。
「下策だぞ。もっと距離を取るか逆に攻撃に出るのが賢い選択だ。下手な距離は追撃の憂き目に合うと知れ」
深く踏み込みながら鋭く右足を振り抜く。無造作かつ強烈な前蹴りが、ネスカの胴体を捉えた。
「ぐっ……!」
ネスカの体が再度宙を飛ぶ。今度は宙を舞うのではなく、平行に滑空して砲弾のように飛ぶ。
「――ぐはッ! なんて馬鹿力……!?」
数百メートルを一瞬で踏破して、氷河の上をゴムのボールか何かのように跳ね転がる。左の手で大地を叩いて勢いを殺し、そのままバネ仕掛けの人形のように無理矢理に身を起こす。
「失礼だぞ、こんな可憐な少女を捕まえて馬鹿力などと」
身を起こしたネスカ目掛けて、間にあったネスカが削った氷河の欠片を気にもせず、飛来する金髪の悪魔エヴァンジェリン。障壁で自動的に弾き飛ばしてくれるといっても全く臆さない心根は驚嘆に値する。
「こんなことが出来る奴がほざくな!」
皮肉を返しながら間一髪でその場を飛び退いた。直後、魔力が篭った蹴りで粉砕された氷河が爆砕する。多数の氷塊と氷の粉塵が舞い上がり、二人の視界を覆い隠す。瓦礫に巻き込まれないように距離を取ったネスカ目掛けて、粉塵を縫って氷の塊が飛んできた。時間差を考えてエヴァンジェリンが投げたと考えるのが自然か。
避ける間もなく直撃した。防御したといってもかなり強烈な衝撃だった。経験したことはないが、生身でトラックにでも轢かれたら同じ感覚を味わえるかもしれない。今回は障壁で遮られたことで大半の威力を削がれたことで衝撃程度で済んだ。
己に当たった氷塊が砕け、視界が戻る。粉塵も晴れてきたが、見えた物に思わずギョッとしてしまう。浮遊術で宙を浮くエヴァンジェリンの周りに浮かぶのはネスカの身長以上の大きさで二メートル、三メートルはありそうな氷塊の数々。魔力反応などは感じないので、氷塊に僅かに食い込む跡とエヴァンジェリンの持つ人形遣いの技能から岩石を浮かべているのは『糸』と予測した。
「ほらほら、次が行くぞ!」
それらを行使して次々と宙を舞う岩石は凄まじい風切り音を立てて飛んでくる。間近に迫る氷塊は工事現場で見かけるクレーン車、あれが解体用の鉄球を振り回すような感じに思えた。防御もなく受けたところでダメージは殆どない。しかし、受けた衝撃で僅かな隙が生まれかねず、エヴァンジェリン相手では絶大な隙となりえる。
ネスカが取った行動は回避と粉砕。平原を駆ける豹の如く走り、跳んで、避け続ける。鋼のように堅牢な肉体で氷塊を敢えて受け止め、逆に粉砕する。常人が当たれば容易く命を奪われる凶弾が実は石灰石製だと言わんばかりにあっけなく砕け散った。
氷原で戦うのは不利だと、ネスカは大きく飛び上がって上昇する。
「ふふふ、誇るがいい。今の私とここまでやり合える奴は世界中を探してもそうはいないぞ」
ネスカの後を追いながら、自分と対峙してここまで保つ魔法使いは数えるほどだとエヴァンジェリンの本心からの賞賛をする。
「やり合えるだけで負ける気は更々ないと、そう言いたいんだろ」
「傲慢になってこその最強だ」
雲に突入し、視界が利かなくなる。ゾクッと身体が消えた瞬間、上空から近づいて来る気配を感じてネスカは顔を上げる。白一色に包まれた世界が直に元の色を取り戻した時にはエヴァンジェリンが急接近していた。
逃げようもなく捕縛される。エヴァンジェリンがネスカを振り回した。細腕に似合わない吸血鬼の怪力だ。反撃の隙を窺うどころではない。目まぐるしく視界が回転し、衝撃に耐えるので精一杯。最後に一際力強く吹き飛ばされた。
肉体への衝撃もさることながら、雲が弾き飛んで見上げる先にいるエヴァンジェリンとの厳然とした力の差が横たわっていることに慄然とせずにはいられない。
「だが、これも座興よ。少しは言葉で戯れるか」
と、言葉で言いながらも全身から凍り付くような魔力を発してネスカを圧そうとする。
「ぬんっ!」
負けじとネスカも全身から魔力を発して弾き返す。氷風と雷風が二人の中間点で勢力を奪い合うかのように、行ったり来たりを繰り返す。
「見事と言おう。例えアーティファクトの力であったとしても、若輩の身でありながらこれだけの強さを身に着けたことは賞賛に値する。先の前言は撤回しよう」
「謝罪は無いのか?」
エヴァンジェリンが空中で腕を組んでいるだけ。なのに、存在するだけで世界を凍らせていく。今のエヴァンジェリンを語るには氷結の女神で十分。神話に登場する氷神が彼女であると言われても信じられよう。
「謝らせたいのなら私を這い蹲らせて見せろ。私に勝たずに命令するなど片腹痛いわ」
前言撤回が最低限の譲歩のライン。傲岸不遜にどこまでもエヴァンジェリンは女王として君臨する。この場合ならば氷神としてか。
「改めて言おう。見事だ。この私がここまで手放しに賞賛することは滅多にないのだ。光栄に思うがいい」
力比べを楽しむように互いの境界線でぶつかり合う氷風と雷風の趨勢を楽しそうに見遣り、視線をネスカの両耳で絶え間なく揺れている銀のイヤリングへと移す。
「絆の銀か。さしずめ、装着者を合体させて能力を強化・付加するタイプのアーティファクトと見た。能力の上がり具合から考えて、装着者達の相性や能力が近いほど上げ幅も大きい。違うか?」
「……………」
「双子という最も近い存在。戦闘適性が近接と遠近と別れていることも相まって、一人の時よりも遥かに戦闘力が上昇している。成程、大言を吐くだけの要素はあった」
的確に見切られたことにネスカは沈黙を以て肯定する。
エヴァンジェリンと違って、パッと見で分かるほど青筋を浮かべて力を溢れ出すネスカとの対比がより鮮明に浮き彫りに出る。時間をかければ、これだけで勝敗を決することも出来るがエヴァンジェリンの求める決着のつけ方ではない。
「力比べも面白いが、このまま決まっては面白みに欠ける」
フッ、とエヴァンジェリンは自らの知識欲に一定の満足を与えると、言葉通り力比べを行っていた魔力放出を抑えた。当然、ネスカの雷風が迫るが闘牛士のように華麗に躱し、離れていた距離を真正面から詰めて来た。
まさかの真正面からの特攻に、ネスカが力の放出を抑えた時には既に近づかれていた。迎え撃つしかない。
「勝手すぎるっ!」
エヴァンジェリンの氷そのものの拳を迎撃するように、雷を纏った拳で迎え撃つ。
「それが私というものだ!」
刀を持っているなら鍔迫り合いというべき最中にも、互いに寸余の間合いに適応した技の応酬がなされ、小さな衝突が火花となって二人を飾る。
攻防が数十打を数えたところで、これでは埒が明かないと同時に考えた二人は一度その場を離れ、今度は遠間に対応した魔法の射手が放たれ、お互いに牽制をし合う。
「受けて見せろ!」
「やってみせる!」
通常ならば回避できない一撃――――知覚すらできないそれをネスカは受ける。アスカが持っている直感能力をネギが頭脳が補強して、致命の一撃すら受けることを可能とする。だが、それまでだ。
耐え切れずに吹き飛ばされて瓦礫の一つに着地し、踏み潰して跳ぶ。
何度目かも分からない衝突。乱れ飛ぶ閃光。勢いのままに絡み合いながら吹っ飛び、その中で繰り広げられる火花散る応酬。繰り返し、繰り返し、そして繰り返す。
「っ、行くぞ!」
「来い、ネスカ!」
ネスカの高速機動がトップスピードに乗り、エヴァンジェリンはあと一歩追いきれないので魔法の射手で牽制しつつ細かく攻撃を入れていた。
人の頭程度しかなかった氷の矢は空気中の水分を吸収して、それらを瞬時に凍らせ、あっという間に巨大な氷塊の矢へと姿を変えていく。しかし、轟音を伴って飛ぶ氷塊の矢よりもトップスピードに乗ったネスカの方が早い。
「ちっ、向こうの方が早いか」
氷塊の矢を、予め軌道を先読みしているように避けるネスカの背中にエヴァンジェリンは舌打ちをした。
ネスカが天翔け、空中でステップを刻む。時にアクロバティックな曲芸飛行。時に最高速度を振り絞る全力飛行。様々な技巧を駆使して、エヴァンジェリンの攻撃を回避。音速を躱す異常な速さ。まさに神速と言おうか―――――単純なスピードではネスカが上だろう。
距離が開くかといえばそうでもない。エヴァンジェリンが大威力魔法を使おうとすると、まるで予知していたように距離を詰めて来るのだ。
遠距離では勝ち目がないことを悟っているネスカの素早い機動と回避機動がそれを許さず、遠間に離れきることをさせずに近・中距離の状況が続いていた。
エヴァンジェリンの戦闘スタイルは「魔法使い」である。しかし、強くなってくればこの分け方もあまり関係がなくなってくる。得意なのが遠距離だからといって決して近・中距離が苦手だということはない。
エヴァンジェリンにはネスカが未だ及ばない経験によって裏打ちされた熟達と練達は、近・中距離でもネスカを圧倒していた。確かに単発の大技ならば一瞬だけ圧倒出来るかもしれない。しかし、それで勝てるほど甘い相手でないことも、今のネスカには理解できていた。
「一点突破する」
ネスカは両手をしっかりと握りこむと、自ら向かってくる氷塊の雨へと突っ込んで行った。
「ラス・テル・マ・スキル・マギステル 風の精霊512人 集い来たりて…………魔法の射手 連弾・雷の512矢!!」
放った魔法の射手が開けた間隙に飛びこんでいく。しかし、氷塊の雨の前に512程度では足りない。それでも怯まずにネスカは飛びこんで行った。
自ら突っ込んだことで相対的に感じる物凄い速さで迫り来る氷塊を次々と打ち砕いていく。その度にガツンガツンと、全身に衝撃が走った。常人ならば………………魔法使いですらその一つすらまともに打ち砕くことなど出来ないだろう。
もう少しで氷塊の矢の群れを突破しようとしたネスカの背に鳥肌が立った。ゾワリと戦慄が走り上を見上げた時、エヴァンジェリンは斜め上、前方の障害を打ち払って突き進むことに邁進していたネスカでは到達するのにワンクッション必要な位置にいた。
「目の前の事だけに気を取られていると直ぐに終わるぞ。もっと周りに気を配れ」
紫色の燐光を放つ手を振るうと、空に広がった膜が一斉に波紋を広げた。ネスカが破壊した魔法の射手とは呼べない巨大な氷塊の矢の残骸が大気中の水分を付加して、空を埋め尽くさんばかりの氷晶の弾丸が形成される。
二流は環境の変化に対応できない。一流は、それに逆らわない。そして、超一流は、それを利用する。いくら超高位魔法使いであろうとも環境を存分に使うのを見れば反則としか言いようがない。
「抗ってみせろよ、小僧。私を失望させてくれるな」
何百何千という超高圧の氷晶の弾丸が、上空から爆発するように打ち下ろされた。元より前進に全力を込めていたので急角度の方向転換は出来ない。ならば発想の転換とばかりに愚直に突き進む。
全身に雷風を纏って氷晶の雨の中を舞うように踊り狂う。進行方向にある氷晶の弾丸を拳で当たるを幸いと言わんばかりに超えていく。
「強い! これが闇の福音の実力……っ」
「まだまだこんなものではないぞ」
砕けきれなかった氷晶の弾丸が身体を傷つける。全身に傷を負いながらも氷晶の弾丸を突破した先に、先回りしていたエヴァンジェリンが回り込んでいた。
「ちっ」
舌打ちをしたところで事態は好転しないと分かっていてもしてしまう矛盾。再三の攻撃によって止まれるはずもなく、かといって弾き飛ばそうとするネスカの思惑通りに進むはずもない。放たれようとしている蹴りの動作を前にして、一か八かの賭けの行動に勝敗を託せるほど無謀でもなかった。
「ぐあっ」
腕を掲げて辛うじて間に合った防御であったがダメージは大きい。全力で前方に突き進んだ運動エネルギーと今のエヴァンジェリンの攻撃力が合わさって、蹴りを受けた腕が捥げていないのが不思議なくらいだった。
「どうしたっ! ここは貴様の距離だろう!」
エヴァンジェリンの叱咤が後ろ向きに空中を滑空しながら聞く。強大過ぎる存在感が全方位から押し寄せ、汗みずくの肌を冷たく刺激する。
敵を見失うな。食らいつけ。追われる側ではなく、追う側に回らなければ勝ち目はない。ネスカは遠距離が本分であるはずのエヴァンジェリンを得意な距離なのに仕留めることができない。戦況を有利に進めるどころか少しでも気を抜けば負ける、と肌で感じていたからこそ、距離を離さず必死に食らいつく。
二人の速度差が絶対的なものではなく、戦術で覆せる速度差であることも感じ取っていた。
「言われなくてもっ!」
ネスカは空中を蹴ってエヴァンジェリンに向かって飛び掛かろうとした。
当のエヴァンジェリンは空中で止まり、ネスカに向けて開いていた手の平を今まさに閉じようとしていた。その動作の意味が解らず、止まっているよりはマシだと判断しかけたネスカの背筋に盛大な悪寒が走り抜ける。
「っ!?」
悪寒に従って急制動をかける。進みかけていた慣性を無理矢理に止めたことで、全身と停止に振り回された内臓がシェイクされる。腹の底から湧き上がった衝動を呑み込んだところで、エヴァンジェリンが手の平をグッと握った。すると空中の水分が瞬時に凍結して氷の矢を無数に生み出す。エヴァンジェリンまでの二十数メールまでを、ネスカを中心として形成される密集した包囲網。
「この網の中を超えて来られるか?」
蟻が抜け出す隙間もないほど埋め尽くされたネスカに向けて嘯き、一度頭上に差し上げた手を大きく振るった。
絶対の包囲網を形成する氷の矢達が一斉に動き出す。直接的に空中を駆け巡りながら、途中で鋭く方向を変えて前後左右上下、四方八方からネスカに襲い掛かった。凄まじい速度と威力を内に秘めた氷の矢に、障壁や防御など必死の行動の甲斐もなく、殆ど一瞬にして中心にいるネスカへと殺到する。
逃げるでもなく受けるでもなく、全身に雷を纏ったネスカは足を止めて顔の前で腕をクロスさせた。
「はぁっ!!」
気合一閃。全身から魔力を噴き出して乱気流を発生させ、氷の矢を打ち砕く。
砕かれた氷の矢から生まれた噴煙が辺りを覆った。もうもうと舞う氷の細かい欠片を振り払いながら、粉塵の向こうにいるエヴァンジェリンを睨みつける。
キィィン、と粉塵の向こうから間近で聞いたら耳が痛くなるような音が微かに聞こえた。はっ、と上空に気配を感じてそちらを見やると、粉塵を切り裂く紫色の魔力刃を纏った手刀を振り下ろすエヴァンジェリンの姿。
(なんだ……?)
魔力刃を受け止めるために防御の構えを取ろうとしたネスカの脳裏に最大限の警鐘が鳴り響く。魔力刃が撒き散らす冷気が背筋に怖気を誘う。頭では受けようと考えていても鳴り響く警鐘に従って体が勝手に回避動作をした。
斬、と魔力刃を纏った手刀が振り下ろされるのを飛び退いて躱す。整合性の取れない回避でははやり動きが鈍い。体勢を崩してしまった。そこに突きを打ち込まれる。右にも左にも前にも動けない。仕方なく後ろへ。背中から倒れこむようにして逃げる。
氷原に仰向けに倒れたネスカと、手刀を突き出した格好のエヴァンジェリン。
ネスカは倒れた体勢から足を繰り出した。ブラジルの格闘技カポエラのような、下からの蹴り技だった。狙いはエヴァンジェリンが手刀を繰り出した腕の肘。ここを砕くことが出来れば―――――その願いも虚しく咄嗟に腕を上げられてこの蹴りを外された。
そしてすかさず、切り下ろしの一刀。慌てて無様にも氷に塗れながら横に転がり、避けた勢いのまま立ち上がるネスカ。
「断罪の剣か!」
見たものは深々と地面を抉りながらも、突き刺さるのではなく地面を消し飛ばした跡。それだけでエヴァンジェリンの魔力刃の正体を看破した。
「正解だ。そして受けずに避けたのもな」
断罪の剣――――ラテン語で「死刑を執り行う剣」を意味する言葉。物質を固体、液体から気体へと無理やりに相転移させることによって攻撃する魔法。エヴァンジェリンほど高位の術者でなければ、これ程の魔法を使いこなすことはできない。
生物であれば魔法抵抗に失敗した時点で気化されてしまう魔法。無策のままで受けるには分が悪過ぎた。
「やるじゃないか、ほんとに………ここまで楽しめるとは正直思わなかったぞ。だが、この程度で終わっては詰まらん。私をもっと楽しませてくれよ?」
間違いなく賞賛の笑みを浮かべたエヴァンジェリンの紫色の魔力刃を纏った手に注目していたネスカは悪寒を感じて飛び退いた。刹那、エヴァンジェリンが前に出た。動いた素振りもないのに、一瞬前までいた位置からネスカがたった今までいた場所を薙ぎ払うように手が振るわれる。
「くっ」
ネスカの身体が、本能的に危険を察知して動く。単純な技だったが、単純なだけにネスカは完全に間合いを見切ることができなかった。うっすらと頬に薄赤い斜めの筋が浮かび上がる。
「このぉオオオオオオ!」
ネスカも負けていなかった。瞬時に右手に生み出した風の剣を上段から振り下ろした。
これは避けられたが、エヴァンジェリンが僅かに姿勢を乱した隙をついて、ネスカの右膝が相手の腹部目掛けて跳ね上がっていた。腕をクロスして防ごうとしたエヴァンジェリンは、しかし予想を超えるネスカのパワーに、そのまま後方へと吹っ飛ばされる。
「パワーは奴の方が上。忌々しいが認めるしかあるまい。しかし、戦いとはパワーだけで決まるものではない」
そのままトンボを切って勢いを殺しながら、エヴァンジェリンはネスカに向けて無詠唱で魔法の射手・氷の17矢を放った。
ネスカは魔法の射手・氷の17矢を横っ飛びで躱すと右手に魔力を集中し、エヴァンジェリンに向かって突撃する。
「うおおおおおおおお!」
「チッ」
エヴァンジェリンは舌打ちすると、虚空瞬動で空を蹴ってネスカの攻撃を躱して距離を取った。
「ふっ」
ネスカは鋭い呼気と共にエヴァンジェリンの追って宙を飛ぶ。早口で口の中で詠唱を唱えると、ネスカの姿は幾重にも連なる複製を作りだした。
「風で光の屈折を変えてオリジナルと遜色のない16体の風精を瞬く間に生み出すか。ネギ坊や単体よりも処理能力が上がっているが、なんとも芸が細かいことだ」
目で追えない速さではなかったにも関わらず、エヴァンジェリンは即座に見破った。中堅なら確実に、上位の者でも高速戦闘中という条件下ならば偽物に引っ掛かるであろう完成度。ここにいるのは六百年の長きを生き、世界の最上位に位置する魔法使い。術の綻び、空気を切り裂く音加減、幾多の戦場を渡り歩いた経験から、どれが本物かエヴァンジェリンは一目で見抜く。
偽物に踊らされず、本物のネスカに過たず肘打ちを咬ます。
「ぐわっ」
ネスカの身体がくの字に折れて吹っ飛ばされると同時に風精が消し飛んだ。弾丸の勢いで吹っ飛ばされたネスカを追ったエヴァンジェリンが上空に掲げた右手に氷が収束して行く。
氷神の戦槌――――巨大な氷塊を作り出し、相手にぶつけて攻撃する魔法氷塊を作り出し、操るというのは低温を扱う魔法としては単純なものであり扱う質量が大きいという点を除いて、さほど高位な法ではない。だが、決して無詠唱で発動できる魔法ではない。断罪の剣と同じく無詠唱で発動している時点でエヴァンジェリンの技量が窺える。
「それ、行くぞ!」
未だに肘撃ちで吹っ飛ばされて滑空を続けるネスカに向けて、吸血鬼の怪力に任せて思いっきり投げつけた。
「っ?!」
氷神の戦槌は、扱う質量が大きいという点を除いて、さほど高威力な魔法ではない。しかし、これだけの質量に押し潰されれば無事ではすまない。
氷石が自分に向かってくるのに気付いたネスカは、慌てて虚空瞬動で大きく右に弾んでそれを躱した。
氷塊はギリギリでネスカの眼の前を通り抜けるも、エヴァンジェリンがネスカの体勢が崩れたところを狙って加速した。氷石を避けるために姿勢を崩したネスカは、完全にそれを躱すことができなかった。出来たのは少しでも致命打を避けようと体を捻ることだけ。
「ぐっ……」
エヴァンジェリンの魔力が篭った拳が僅かに肩に掠め、ネスカは堪らず吹っ飛んでいた。と、空中を疾走するエヴァンジェリンに向かって飛来する魔法の射手があった。ただ避けたのではなく、ネスカは攻撃を受ける前に魔法の射手・風の37矢を放っていたのだ。
「……ふん」
素早く目を動かしてその存在に気付いたものの、エヴァンジェリンは魔法の射手を躱そうとすらしなかった。なぜなら躱す必要などなかったからである。魔法の射手は、まるで見えない壁に阻まれたようにネスカに命中する寸前、全て出力を上げた障壁に弾き飛ばされた。
「チィッ!」
体勢を整えてその光景を目にしたネスカは何度目かの舌打ちをした。牽制のつもりで放った魔法の射手だが、躱す素振りもないのでは放った意味すらなかった。
「リク・ラク・ラ・ラック・ライラック! 氷の精霊1024頭 集い来たりて敵を切り裂け」
何時の間に接近していたのか、エヴァンジェリンが詠唱すると周囲に氷の刃が幾つも現れる。
「魔法の射手・連弾・氷の1024矢――ッ!!」
エヴァンジェリンがまるで軍団を指揮する将軍のように腕をネスカに向けて詠唱を終えると、標的に向かって魔法によって生み出された氷の矢が飛来する。
魔法の射手は攻撃魔法としては最も基本的な技である。単純な、攻撃呪文としては初歩の初歩、最も簡易なそれでさえ、突き詰めれば絶大な破壊力を持つ。否、むしろ単純過ぎる程にシンプルな術であるからこそ、スペックの高さを活かせるのだ。
基本の攻撃魔法でありながら予測のつかない動きでネスカを狙い、1024もの魔法の矢が鋭利な氷の刃となってで切り裂こうとまさに雨の如く降り注ぐ。
「風盾――ッ!」
全ては躱しきれないと見るや、ネスカは蜂の巣になる寸前に突き出した掌から素早く風の盾を張った。音速に近い速さで殺到する無数の氷の矢は、その風に触れるや、一瞬の内に削り取られる。
4分の1がネスカに襲い掛かり、残りが辺りを覆い尽くす。穿ちに来る氷の雨に対処する方法は一刻も早く去ってくれるようにと祈ることだけだった。
「ホラホラ、次行くぞ! 魔法の射手・連弾・氷の199矢、魔法の射手・連弾・闇の101矢、魔法の射手・連弾・氷の59矢、魔法の射手・連弾・闇の179矢、魔法の射手・連弾・氷の214矢、魔法の射手・連弾・闇の151矢!!」
エヴァンジェリンの攻撃は際限のない雨だった。基本攻撃魔法とはいえ、ここまでくれば大魔法と変わらない。
降り注ぐ氷弾は爆撃と何が違おう。その一撃一撃が必殺の威力を持つ魔法を、エヴァンジェリンは詠唱・無詠唱と氷・闇の別属性を織り交ぜて矢継ぎ早に、それこそ雨のように繰り出していく。それがどれほど桁外れなのか、曲がりなりにも魔法を使える以上、ネスカにだって理解できる。
「っ……!」
これは受け切れぬと判断したネスカは、あらゆる方向から異なる軌道で迫る魔法の射手に対し、魔力を纏った双拳で的確に弾き、時には紙一重の機動で回避しながら空を疾走する。一切の容赦も情けも無い、殺す気で放たれる魔法の射手の弾幕は最早、嵐の時に振る雨の如く降り注ぐ。
「なんて反則っ!」
逃げても逃げても追ってくるほどの優れた誘導性はなくても十分に脅威になる数が飛来してくる。例えるなら弾切れのない何丁ものガトリングガンに狙われているようなものだ。それも砲身が存在しないのでどこからどこへ弾が発射されるのか分からないという素敵仕様。エヴァンジェリンの背後にある数十のガトリンガンが無造作に自分に撃たれるのを想像すれば分かり易いだろう。
まるで網の目のように激しく襲い掛かる氷と闇の光条の群れ、その悉くを鋭角的な動きで躱していく。ネスカは弾き、躱した魔法の矢が雲を抉り、凍らせて砕けていく。理不尽ではない最早反則の域に抗い続ける。
ネスカほどの高速機動と神憑り染みた直感による回避能力があれば、捌き方はいくらでもある。だが、この数でなければの話で、どんなことにも限度がある。今は必死になって避けなければならない。
ネスカはエヴァンジェリンが戦闘功者であることを一時的に失念していた。幾ら不意をついたからといって魔法の射手が牽制以上の意味があるはずがない。
「氷爆!!」
「っっ……!?」
間髪を入れずにエヴァンジェリンは疾走するネスカの進行方向に現われて立て直させる暇を与えず、尚も大量の氷を出現、爆発させて攻め立てる。彼女の意図に気付いた時には時は既に遅く、ネスカは至近距離で発生した凍気と爆風で数メートル先まで吹き飛ばされた。
防御した腕側の半身に霜が積もっている。一度握られた主導権を取り返すのは難しく、致命傷を負わぬようにするのが精一杯だった。
「リク・ラク・ラ・ラック・ライラック!! 来たれ氷精 大気に満ちよ 白夜の国の凍土と氷河を!! こおる大地!!」
エヴァンジェリンが叫んで指先を向けるや、前方の地面を直線状に凍結させ、ネスカの回避方向に一斉に何本もの巨大で鋭い氷柱が出現した。敵を攻撃する呪文で地面にいる敵の足を凍結させ身動きを封じることも出来るので、飛べない者には避ける手段すらない。
間一髪、ネスカはその攻撃を逃れて跳び退るが、氷柱はそれを追いかけて次々と立ち上がる。
「ラス・テル・マ・スキル・マギステル 地を穿つ一陣の風 我が手に宿りて敵を撃て
完全に避けることは出来ないと判断したネスカは、瞬時に先のエヴァンジェリンとの戦いでネギが使おうとした中位魔法を追いかけて来る氷柱に放って打ち砕く。
状況は明らかに劣勢だった。単純な戦力だけを見れば、多彩な技と戦術や経験をもつエヴァンジェリンに明らかに押されていて攻勢に回る余裕など欠片もない。
「リク・ラク・ラ・ラック・ライラック!!」
直上から降りて来たエヴァンジェリンが詠唱をしながらネスカを左足で蹴り落とした。
「契約に従い 我に従え 氷の女王 来たれとこしえの闇!」
真っ逆さまに氷原に墜落したネスカを見下ろしてエヴァンジェリンは詠唱を完遂させる。
「えいえんのひょうが!!」
魔法名が告げられる。詠唱から広範囲をほぼ絶対零度(-273.15℃)にし、対象を凍結させる高等呪文。足から着地したネスカに取れる手段は少ない。止めるのは不可能、範囲外に逃げるには遅すぎる。取れる手段―――――それは全力で防ぐしかない。
「ラス・テル・マ・スキル・マギステル 逆巻け春の嵐 我らに風の加護を 風花旋風・風障壁!!」
直径十数メートルにも及ぶ竜巻が出現する。しかし、その竜巻すらも無駄だとばかりに150フィート四方の空間を凍り付かせていく。
これで勝負は決したかと思われた。が、エヴァンジェリンは容赦などしない。
「全ての命ある者に等しき死を。其は、安らぎ也」
凡人ならば既に勝負は決まっていると言い、更なる追い討ちを重ねる彼女を罵倒するだろう。彼女が行おうとしているのは、数多の敵を殲滅してきたコンビネーション。低温空間を発生させる「えいえんのひょうが」の後に、極低温において凍結した対象を完全に粉砕する「おわるせかい」。
「おわるせかい」
氷漬けになった各場所に罅が入り、竜巻の中心部にいるであろうネスカをも巻き込んで派手な爆発も無くぼろぼろと崩れ落ちていく。
今度こそ勝負は決まったと思われた。効果範囲から逃げる時間は無く、今のエヴァンジェリンのコンビネーション魔法を完全に受けきることは高位魔法使いでも不可能だろう。
受けてはならない。避けきるか、そもそも発動させる前に止めるべきな威力。それを真っ向から受けたネスカが生きているかどうかすらも怪しい。数多の強敵達を抵抗も許さずに屠った絶技。防ぐことなどありえない。
「……………ほぅ」
だが、ネスカは見事に耐え切って見せた。勿論、決して無事とは言えない。服は破れ身体には無数の凍傷やそれによる裂傷。髪には霜が纏わりつき、凍傷やそれ以前に受けた裂傷があっても血が流れないのは凍りついたためか。
防御の為に限界まで力を振り絞ったのだろう。息を大きく乱している。エヴァンジェリンの五倍もあった魔力も、その大半を失ってしまっていた。しかし、それでもエヴァンジェリンの得意とするコンビネーション魔法を防ぎきったのだ。それを見届けたエヴァンジェリンの声に混じるのは紛れもない賞賛の笑み。
「これだ! 戦いは簡単に終わってしまって面白くない」
本気モードになった自分に向かってくる敵の存在は、彼女に久方ぶりの感情を伴わない興奮を呼んだ。熱くも寒くもない。ただフラットに伸びる連続。エスカレートした戦意の波に、彼女は長い吐息をついた。
「魂を奮わせろ! 考えることを怠るな! 全身を駆動させろ!!
爆煙が薄らと晴れてきたところで二人は相手を睨みつけて相対した。また、二人は同時に飛び出して衝突する。
「そうだもっとだ! もっと私を楽しませろ! 魂の奥までこの私を感じさせてみろ!!」
凍てついた双眸に幾つも凝縮された感情の中、そこに他者に対するサディスティック的な歓喜が支配していた。
戦いの中、エヴァンジェリンは楽しくて堪らないと哄笑し続けた。
戦争映画の一場面に取り込まれたのかと思った。アーニャは二人の戦いを見ながら、自分では生涯をかけても辿り着けない領域にいる幼馴染を見つめ続けた。
一進一退の攻防。ネスカは致命傷こそ負ってはいないものの、無数の傷から流れる血で体は深紅に染まっている。その身体から噴出する血がまるで紅蓮の炎が噴き出しているかのように見えた。
「御主人モズルイゼ。一人ダケ愉シミヤガッテ。俺モ混ゼヤガレ」
橋の欄干の上で、アーニャの隣にいるチャチャゼロは人形なので表情はピクリとも動かないが嫉妬にも似た感情を声に乗せていた。
「アンタは戦わないの? 私と」
少し離れたところでチャンバラを繰り返す茶々丸と明日菜と比べて、二人は戦っていない。チャチャゼロには戦意すらなかった。
「弱イ奴ニ興味ハナイ。御主人達ノ戦イヲ見テイタ方ガ遥カニ有意義ダ」
アーニャには興味すらないと、チャチャゼロはハッキリと言った。
否定しないアーニャを意識にすら引っかけていないチャチャゼロが見ている先で白色の光軸が再び走り、空の上で閃光を雲越しに照らし出すや、今度は紫色の光軸がパッと膨れ上がるのが見えた。
雷鳴に似た腹の底に響く重低音に続いて、風船を外側から一気に押しつぶしたような破裂音が轟き渡る。破裂音の正体は雲を穿って大きな穴を空けながら、全身に闇色の空に映える鮮烈な光を纏って背中から落下するネスカだった。
目立つ光の持ち主であるネスカの姿をアーニャは網膜に焼き付けた。
光の塊は雹風を引いて闇夜を滑り、地面へと落下してゆく。雹風を振り払うように光の塊が輝きを増し、天から堕ちて来た幾条もの氷乱の竜巻を放たれた雷が迎え撃った。
両方の途方もないエネルギーが衝突したことで生まれた閃光にアーニャは思わず目を腕で覆った。
「アア、勿体ナイ。御主人トコレダケ戦エル奴ト、モット戦ッテオクンダッタ」
隣から聞こえて来たチャチャゼロの声に、アーニャは目を覆った腕を外した。
光によってまだ霞んで見える空一杯に、光芒が開いては帯となって乱舞する。時に上昇下降を繰り返し、時にすれ違って、時にはよじれるほど複雑に絡み合う。もはやそれは人が生み出しているとは思えない領域外の光景であった。
戦闘機同士が互いの射界に相手を捉えようとするドッグファイトめいた追撃戦が続く。二人は空気を切り裂き、光を交差させ、そして磁石で同じ極を近づけたように弾かれ、また接近する。白と紫のリボンを空中に形成しつつ、遠く離れたアーニャの視界からも一旦大きく外れながらも、直ぐにまた戻って唐突に動きを止めた。
紫の光から幾重もの氷乱の暴風が吹き荒れ、白の光から雷の閃光が吐き出される。両者が激突すると世界が二色に染め上げられたような閃光が走る。
アーニャは、ブルッと身体を震わせた。目の前の神話の如き光景を見て震えが止まらないことは間違いなかった。
激しい攻防を繰り返しながら数㎞の距離を行き来する二つの光。遠く離れているからこそ視認できる神話の戦いのような光景を見て、彼女の胸に去来するものは、その闘いを見た誰もが抱くだろうものとは大きくかけ離れていた。
「遠いわよ……」
アーニャは拳を握り締めて横向きに雷が走っているように見える空を注視した。
「どうして、私はこんなにも弱いのよ。どうして、私にはネギ達みたいな才能がないの…………どうして、どうしてなのよ」
じゃれ合うように、会話をするように、光の乱舞は留まることを知らないかのように動き続ける。
確かに威圧感に満ちているが他者を拒絶するような空気ではない。どこか戯れるように戦い続ける二人が生み出す空気は見ている側に高揚を生んだ。だが、自分は決してあそこに行けないのだとアーニャは遠い世界を見つめて嘆いた。
ようやく出て来たアスカのアーティファクト(ネギとキスしたのだろうか?)
・『絆の銀』(元ネタ:ドラゴンボールのポタラ)
アーティファクトを呼び出した時にアスカの両耳に銀のイヤリングが現れ、片方を外して他人がつけて「合体」と叫ぶと融合する。
装着者同士が合体して能力をアップする。装着者同士の相性などが良ければ能力の上り幅が大きい。
融合は本人の意思によって解除可能。また時間制限もあり。
初使用はエヴァンジェリンと戦う一年前。相手は高畑。油断しきっていたところに合体に動揺したところをノックアウト。
アーニャのアーティファクトは何でしょうか?
小太郎が仮契約したとしたらアーティファクトは己の力を増す増幅系がいいかもしれない。