魔法先生ツインズ+1   作:スターゲイザー

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悪魔編開始です


第三章 悪魔編
第26話 言えない言葉


 春の寒気も去り、風も温み始めた五月も末。麗らかな午後。爽やかな陽気が道行く人の気分を高揚させる。外出日和とはこういう日の事を言うのだろうと万人が認める天気である。

 修学旅行から帰ってきた翌日は部活も修学旅行後で疲れているだろうということで休みだ。生徒たちは興奮冷めあらぬと遊んだり、疲れた体を癒すために休んだりと理由は違っても皆それぞれ疲れを癒すことには違いない。

 夕方になりかける前の街は学校帰りの生徒、買い物帰りの親子連れ、若い大学生同士のカップル、自宅へと帰路を急ぐサラリーマン等の通り行く人々で溢れかえっていた。

 お喋りに夢中になって周りの事など見えていない者、学校が終わって遊びに行くのだろう私服姿の生徒達が笑いあいながら歩いてゆくのが見えた。スーパーの袋を持った買い物帰りらしいベビーカーを押す若い女性が一人、立ち尽くす傍らを行き過ぎるのを見てアーニャは笑顔を浮かべた。

 

「帰って来たわね」

「うん。この光景を見ると、ようやく平穏が戻って来たって感じがするよ」

「俺はもっと寝たい」

「「黙れ」」

 

 ゴン、とそれぞれの程度の差こそあれど一様に平和そうな顔をしている者達がいる通りに殴打音が響いた。

 近くにいた何人かが見ると二人に拳骨を入れられたアスカが頭を抑えて悶えていた。

 有名人三人のコントは見慣れているのか、直ぐに視線を外して日常へと帰って行った。

 

「もう、学園長に修学旅行の件の報告とお礼をしに行かなくちゃいけないのに、アスカがさっさと寝ちゃうから今日になったんだよ」

「反省しなさい、反省を」

「二人とも家に帰ったら直ぐに寝たってネカネ姉さんが言ってたぞ」

「「気の所為()!」」

 

 非日常ではリーダーと言って良かったのに、日常生活の中でのアスカのヒエラルキーは低いようだ。

 教師には残った後始末の雑務があれど翌日が休みであることを考えれば気は楽であるが、家に直行して一人で休んだアスカに対する二人の恨みは大きい。

 

「早く行きましょう。学園長が待ってるわ」

 

 さっさと気持ちを切り替えた――――またの名を責任をアスカに押し付けたとも言う――――アーニャが先頭を切って足を速めた。

 流石に全部の責任を押し付けるのには罪悪感があったのか、ネギがまだ痛むらしい頭を擦っているアスカの手を引っ張ってアーニャの後を追う。

 何時もの三人のパターンである。

 三人の姿はあっという間に人混みの向こうへ消えていった。

 

 

 

 

 

 麻帆良学園学園長室。修学旅行の疲れがあってか、家に帰ってから爆睡して起きたのが昼過ぎの三人は学園長室に出頭して報告を行った。

 

「以上が、修学旅行での報告です」

「うむ。ごくろうじゃった」

 

 しっかりと昼食を取って一休みしてからやってきた三人を近衛近右衛門は優しい瞳で見つめる。 

 

「ハワイでは本当によくやってくれたのう。高額賞金首相手に被害がゼロですむとは思わんかったわい。よくやってくれた」

 

 孫が大事を果たして帰って来て一安心したといった感じに髭を撫で付けながら答えた。

 手放しで褒めながら好々爺とばかりに目を細めて笑った学園長は、今度は労わる様に声を緩める。

 

「本当にご苦労じゃったな」

 

 よほどの心労を溜めこんでいたのだろう。一気に老け込んだように枯れた声で学園長は言う。

 エヴァンジェリンの一時的な封印からの解放の為に上層部との折衝に時間を取られ、大人として、責任者として、現場の采配を全て押し付けてしまった苦労を労わる。

 

「自分達で決めたことですから。寧ろ、僕達の個人的事情の為に生徒を巻き込み、危険に晒したこと誠に申し訳ありませんでした」

「「「すみませんでした」」」

 

 労いの声に返すネギは苦笑を浮かべ、捕まったアーニャは自責もあって、何故か部屋の隅を見ているアスカと三人で揃って頭を下げて謝罪する。

 

「よいよい。結果良ければ良しとは言えんが、友の為に命を賭けた子供らを責めはせんよ。寧ろ、何も出来なかった儂らにこそ責を負わねばならん」

 

 学園長の声は常と変わらず、本当にそう思っていると分かるものであった。

 

「用件は以上じゃ。後の事は儂らに任せて君達も休むといい」

 

 いい加減に疲れている三人にもしっかりと疲れた体を休めてもらいたいと純粋な好意だった。

 報告は定型の物であるが、関東魔法協会の戦力である高畑を派遣したこともあって報告の形式は必要となる。事務書類は学園長の手でどうにかなるがこういう形での報告はどうしても必要だった。組織はそうしなければ回らないが故に。

 

「「失礼しましました」」

「うむ、ゆっくりと休んでくれ」

 

 礼儀正しく頭を下げたネギ・アーニャと気もそぞろなアスカが条件反射で頭を下げる。

 部屋の隅が気になる様子のアスカの背中をネギが押して、アーニャがドアを開いてあっという間に三人は部屋を出て行った。アスカがこれ以上、醜態を曝さない内に撤退することにしたようだ。

 そんな三人を微笑ましそうに見送った学園長は、一人仕事を再開するのだった。

 

「ふぉっふぉっふぉっふぉっ、若人よのう…………さて、何用かのう、アルビレオ」

 

 アスカ達がいなくなった学園長室の端へと話しかけた。

 すると、影の忽然と白いローブを纏った人物――――アルビレオ・イマが姿を現した。

 

「アーウェンルンクスの名を持つ者の行方。調査結果が出たのでしょう。聞きに来ました」

 

 本音や本心をまるで見せない信用しにくい笑顔ではないアルビレオに学園長の眉がピクリと動く。

 

「耳が速いのぅ」

「趣味ですからと何時もなら答えるでしょうが、今回ばかりは事が事なのでね」

 

 アルビレオは柔和な彼らしくもなく、どこか睨み付けるような視線で学園長を見ていた。

 

「アスナ姫、か」

 

 学園長の言葉に言わずもがなとばかりに返答はない。

 寧ろ、更に視線がきつくなった。

 

「彼のアーウェンルクスに彼女の存在を知られたとあっては、大人しく地下に引きこもってなどいられませんよ。高畑君が追ったのでしょう、結果は?」

「逃げられたよ。高畑君が追っているが、恐らく無駄であろう」

「そう、ですか……」

 

 アルビレオは瞑目して沈思する。

 簡単に負けを認める気はないが、こと年数で言えばアルビレオの方が遥かに上回る。その思考は如何な老獪な学園長といえども読み切れない。

 

「防衛体制の強化の図らねばならんな」

 

 学園長の呟きにもアルビレオは何も言わなかった。

 

 

 

 

 廊下の窓から見上げた空はすでに深い蒼に、外の陽は徐々に傾き始めて夕闇が迫ってきていた。

 周囲に生徒の姿は無く、校舎の向こう側、グラウンドや体育館の方から部活動の喧騒が僅かに届くのみ。

 報告も終わって家に帰る為に下駄箱に向かおうと三人で廊下を歩いていたアーニャは何時もの学校とは違う世界に目を奪われた。

 虚空から視線を戻せば、校内と校外とを隔てる境界線。それはあたかも日常と非日常の境界なのだとでもいうように人のいない道が続くのみ。それら現実の事象が、どこか遠く希薄に感じられたのは錯覚だろうか。

 どうにも落ち着かなかった。世界が暗くなり始めた夕暮れの静寂は、どうしようもなく孤独を感じさせる。

 どこか落ち着かない気分になったアーニャの視界に、にゅっとアスカの顔が入って来て「どうした?」と尋ねる。

 

「わ!? もう、急に顔を近づけないでよ」

「だからって人の顔を殴るか、普通」

 

 驚きに咄嗟に出てしまった拳に殴られたアスカは世の無常さを儚んだ。

 

「今のはアーニャが悪いよ。でも、どうしたの? ぼーっとしちゃって」

 

 ネギの指摘は最もであった。

 

「ん、なんでもないわよ。ちょっとセンチメンタルな気持ちになっただけだから」

 

 謝るタイミングを逃してしまってアーニャがアスカの顔を見れないでいると、ネギとアスカは「アーニャがセンチメンタルだと?!」と揃って驚愕を露わにしていた。

 

「色気より食い気。男よりも男らしいと評判のアーニャがそんな馬鹿な!?」

「どうせ明日から働きたくないと思ってんだろ」

「違いない!」

「おいコラ、なによその言いぐさは」

 

 ネギは動揺し過ぎてテンションが高いし、逆にアスカは普通過ぎてムカッときたアーニャは必殺技であるフレイムナックルを発動する時が来たと右腕を掲げた。

 後は炎を纏って殴るだけというところで他人の姿が見えて踏み止まった。

 流石にアーニャも学校の中で魔法を使う気はなく、家でお仕置きをするとして今は単なる脅しのつもりだったので引っ込みは早い。

 粛正から逃れてホッとしている二人を無視して、廊下の向こうから見覚えのある姿が近づいているの見て片眉を上げた。

 

「あれ? どうかしたの木乃香。今日は休みなのに制服まで着て」

 

 人影の正体は親交の深い近衛木乃香。何時もふんわりと笑っているイメージのある彼女が珍しく慌てた様子で、走って来るのを見かけて訝しがりながらもアーニャが声を掛けた。

 

「あ、うん。ちょっとお爺ちゃんに用があって学校に来てん。序でやから部活にも顔を出したんや」

「木乃香って確か占い研究会だったわよね」

「うん。修学旅行やったし、部長やから顔ぐらい出そうと思っってん。そしたらエンジェルさんやろうって話になってな。でも、始めたらみんな様子がおかしくなって職員室にいる天ヶ崎先生を呼びに来てん」

 

 返した声も、表情も、何時もどおり軟らかい。しかし、アーニャには、その奥に宿る切実さを見逃しはしなかった。

 なのだが、その前に確かめたいことがある。

 

「天ヶ崎先生なら職員室にいると思うけど…………エンジェルさんって何?」

 

 アーニャの後ろで同じように話を聞いていたネギとアスカも同じ疑問を持っているのか、頷いた。

 

「う~ん、イギリスにはエンジェルさんはないんやろか」

 

 ちょっとしたカルチャーショックを受けながらも木乃香は「エンジェルさん」を説明するために口を開いた。

 

「エンジェルさんはな、コックリさんの変形で別名でキューピッドさんとも呼ばれている占いや」

 

 木乃香は自身の知識を思い返しつつ、間違えない様に頭の中で整理しつつ話す。

 コックリさんとは、西洋の「テーブル・ターニング」に起源を持つ占いの一種。机に乗せた人の手がひとりでに動く現象は心霊現象だと古くから信じられているが、科学的な見方では意識に関係なく体が動くオートマティスムの一種と見られている。

 日本では通常、狐の霊を呼び出す行為(降霊術)と信じられており、そのため狐狗狸さんといわれる。机の上に「はい、いいえ、鳥居、男、女、五十音表」を記入した紙を置き、その紙の上に硬貨(主に十円硬貨)を置いて参加者全員の人差し指を添えていく。全員が力を抜いて「コックリさん、コックリさん、おいでください」と呼びかけると硬貨が動く。

 エンジェルさんは世に星の数ほどある、コックリさんの亜流の一つである。

 紙に「あ」から「ん」の文字をハート型に書き、ハートの真ん中にイエスとノーを書く。十円玉をイエスとノーの真ん中に置い

てエンジェルさんを呼び出し、質問に答えてもらうというもの。

 コックリさんが狐の霊を呼び出すのと違い、エンジェルさんは文字通りに天使を呼び出す―――――というが、もちろん天使のような高位存在が素人の召喚に応えることなどあり得ない。そもそも天使の実在は確認されてすらいないので、やってくるとしても低級な動物霊が精々である。

 コックリさんにしろ、エンジェルさんにしろ、可愛らしい名前がついているが、基本的に性質の悪い霊を呼ぶのが普通なので良いことに繋がらない。場合によってはドラッグなどよりもよほど危険な遊びであるというのが、木乃香から話を聞いたアーニャの感想である。

 

「何やってるのよ、日本の女学生は。頭おかしんじゃないの」

 

 エンジェルさんのことは知らなくても、西洋ではポピュラーな『悪魔憑き』と重ね合わせてどういうモノか推測できたアーニャはからしてみれば何をやっているのかという想いしか抱けないが、思春期の少女がオカルトに興味を持つことは珍しくないようだ。

 

「場所は?」

「占い研究会の部室」

「じゃあ、私達が様子を見て来るから木乃香は天ヶ崎先生を呼んできて」

「うん」

 

 アーニャが勝手に話を進めているが、ネギもアスカも向かうことに異論はない。職員室に向かった木乃香と別れて足早に占い研究会の部室へと向かう。

 

「ここね。へぇ、木乃香ったら結界術を使えるようになったのね」

 

 現場である占い研究部の部室に辿り着くと、部屋の扉に張られている呪符に感嘆しつつ中に入る為に剥がして迷わずドアを開ける。

 そして、それと対面した。

 麻帆良学園女子中等部の制服を着た、おそらくは体型から見て一年生であろう女子や二年生、三年生――――の姿を借りた、モノたちが三人。机の上に乗って、侵入者であるアーニャ達を見下ろしていたり、地面から見上げている。人の形をしていながら、共通した四つん這いの姿勢が驚くほど様になっている。

 あまりに典型的な事例を目の当たりにして、アーニャは思わず嘆息して手で顔を覆いたくなった。

 

「ネギ、どう見る?」

 

 先頭切って部屋に入ったが、アーニャはそれ以上は踏み込もうとせずにネギに場所を譲った。

 ネギは少女らを見ながら顎に手を当てて考えているようだが、直ぐに結論が出たようだ。

 

「動物霊を呼び出して憑かれたんだろうね」

「どうにか出来る?」

「対霊用の魔法とかはあるけど、大きな怪我をさせずに退治できるほど僕は習熟してない。アーニャは?」

「ネギでも駄目となると私も一緒だし、アスカは…………聞くだけ無駄か」

「おい。まあ、そうだけどさ」

「こういうのは教会のエクソシストの領分だからね。一応僕らって見習いの身分だから出来なくても無理もないよ」

 

 魔法にも数は少ないが対霊用の物があるが、霊の相手は教会のエクソシストが相手をすると相場が決まっているのと直接的な戦闘力を求めて攻撃性を重視し過ぎたネギは習得していない。アーニャもそうだし、数えるほどしか魔法を覚えていないアスカも同様だ。

 

「救いかどうかはともかく、憑いている霊は底辺に近いみたいだからちょっとショックを与えれば勝手に離れると思うけど」

「つまり?」

「魔法を使うとダメージが大きいから殴って追い出す」

「ようは俺の出番ってわけだな」

 

 解すように肩を回して骨をボキボキと鳴らし、好戦的な笑みを浮かべたアスカが前に出る。

 相手はたかが低級霊が憑依した女子中学生。肉弾戦に限定すればこの年齢ではありえない強さのアスカの相手ではない。教室という限られた空間なのもプラスに働いてくれている。

 これだけの好条件もあって、男女平等に殴れるアスカの敵ではない。

 

「ちょっとのショックでいいんだから、手加減しなさいよ」

「分かってるよ」

「ケガさせたら駄目だからね」

「了解」

 

 アーニャとネギの注意に適当に返事をしながら敵達を見据える。

 その間に一度剥がしてしまった呪符は使えないので、ネギがこの部屋に改めて結界を張る。

 

「先に謝っておくぜ。悪ぃな」

 

 謝りながらも真ん中の机に四つん這いになっている女子生徒に疾風のような勢いで突っ込み、鳩尾に突進の勢いを乗せた掌底を叩き込んだ。

 会心の一撃。手応えで衝撃が胃を突き抜けて、背中まで徹ったことが分かる。

 残る二人が、左右から挟みこむようにアスカに迫った。

 アスカは迷わずに右に踏み込んで大振りの動きを躱し、伸ばされた腕を取って一本背負い。女生徒は動物霊憑きとはいえ、素人なので受身も取れず背中から落下した。勿論、怪我をしないように机を避けて、後に引かないように手加減はしているといっても、このダメージでは直ぐには動けない。

 背中を向けたアスカに、最後の一人が襲いかかる。

 アスカは振り向きもせず、後ろ向きのままで女生徒に向かって軽く跳躍した。

 接触する寸前に地に足をつき、身体を九十度捻りつつ肘を突き出す。後足の蹴り出しで最後の加速を加え、運動エネルギーを右肘に集中させて鳩尾を突き上げた。強烈な反動。ほとんど必殺の手応えだった。撃たれた女生徒の身体は十センチほど浮き上がり、空気の抜けるような音を口から漏らして糸の切れた人形のように崩れ落ちる。

 

「ぬぅ、俺もまだまだだ」

 

 アスカは最後の一撃で女生徒が想定よりも浮き上がったことに眉を顰めた。

 修学旅行で戦ったフェイトの動きを取り込んだ攻撃であったが、フェイトならば十センチも浮き上がらせなかっただろうし、もっと的確かつ無駄な動きがしたはずだと猛省する。

 今の限界を知り、次に生かすことを決意して倒れたまま呻いて起き上がれない女生徒たちを見る。

 怪我をしないように、後に引かないように手加減はしてあるので女生徒たちの怪我の心配はあまりしていなかった。

 

「さてと、後は任せた」

「うん」

 

 女子生徒のことを気にしなければネギが覚えた習熟していない対霊魔法が使える。アスカに言われる前から本命が動き出したのを確信して、ネギが準備を始める。

 倒れている女生徒の身体に、半透明の何かが起き上がっている。

 女生徒たちに憑依していた雑霊たちが身体を突き抜ける衝撃を受けて、危険を感じて逃げ出そうとしているのだ。

 後はネギが対霊魔法を放つだけで終わりという段階で、見ているだけだったアーニャは小さな疑問を覚えた。

 占い研究会は普段から人が少ないのか、憑かれた女子生徒たち以外に部室には他に人気はない。殆どが幽霊部員らしいことは以前に木乃香から聞いていた。

 

(どうして木乃香には何の影響もなかったのかしら?)

 

 何故他の生徒には霊が憑いて木乃香だけ影響がないのか疑問に思ってしまった。

 この疑問が致命的な隙になると気付いたのは次の瞬間のことである。ネギが対霊魔法を放つよりも早く、浮かび上がっていた霊たちは女子生徒たちの身体に戻って、まさに獣そのままの動きで飛び掛ってきた。

 

「しまっ」

 

 最も危険なアスカと入り口近くにいたアーニャ、そして職員室に行ったが千草がいなくて戻ってきてドアを開け、覗き込むように教室を窺っていた木乃香に、三人それぞれが。

 アスカとアーニャは簡単に撃退したが、武道の心得のない木乃香に抵抗できるはずがない。咄嗟に防御策を使えるほどの技術もまだ木乃香は習得していなかった。

 

「きゃあ!?」

 

 防ぐ暇も木乃香に注意を促す暇もなかった。部室を覗き込んでいた木乃香は、一番近くにいたアーニャが止める間もなくひとたまりもなく一年生の少女に押し倒される。そして―――。

 

「は?」

 

 一年生の少女は予想に反して木乃香に噛みつきも引っかきもしなかった。逆に木乃香の身体の上であらゆる動きを止め、次の瞬間、糸の切れた人形のように崩れ落ちる。

 それはアスカとアーニャに弾き飛ばされた二人の少女達も同様だった。

 

「「「――――――うわぁ」」」

 

 心底嫌そうな顔で、アーニャ達三人は呻いた。肉眼では見えないモノが三人にははっきりと見えていたのだ。即ち――――少女達に憑いていた霊が纏めて木乃香に乗り移った光景が。

 直後、教室を満たしていた妖気ともいうべきものが爆発的に密度を跳ね上げた。点いていた蛍光灯の光が急速に明度を落とし、明滅して―――――消えた。

 教室が闇に落ちていく。照明が消えただけでは到底足りない。粘るような質感を持った暗闇。その根源が『何』かは、もはや言うまでもない。意識を無くして覆いかぶさる少女達を乱暴に押し退け、木乃香はゆっくりと顔を上げた。金色に異常に光る縦に裂けた瞳孔が射抜くようにアーニャ達を睨む。

 

「あぁ……」

 

 起き抜けを思わせるとろんとした口調で、木乃香は恍惚な声を出した。

 俯いていた顔が徐々に上がっていき、表情が露になる。

 笑っていた。微かにほころんだ口元。上気した頬。金色の瞳は甘く潤んで揺れている。あたかもそれは、宗教的な法悦。もしくはある種の薬物を服用することによる多幸感に浸っているようで――――。人あらざる淫蕩な表情。中学生にはあるまじき色気は性に疎いアーニャ達すらも引き込みかけるほど。

 

「アーニャちゃん。うちな、なんや知らんけど無茶苦茶気持ちええんや」

「…………最悪」

 

 アーニャには、それだけの言葉で木乃香に何があったのか理解できた。故に片手で顔を覆って吐き出した言葉には強い諦観の念が込められていた。真っ直ぐに木乃香を見ていると同性であっても我を失いそうで少し間を置きたいのもあった。

 

「どうすんだよ」

「どうしよう……」

「どうしようかしらね」

 

 三人は揃って諦念を感じていた。

 木乃香は今、明らかにまともではない。こうなっては、尋ねたところで理解できる答えが返ってくるとは思えなかった。向こう側の世界に旅立ってしまった人間と、悠長にコミュニケーションを試みている場合でもない。

 アーニャは木乃香から注意を逸らさぬまま、目だけを動かして周囲に視線を巡らせる。現在地は校舎の最端で隣りは空き教室で三階、近くに人の気配はない。それでも出来る限り速やかに、かつ穏便に片をつけなければならない。

 

「大人しく捕まる気はない?」

 

 無駄を承知で聞いてみた。

 幸せそうな笑みもそのままに、木乃香は答える。

 

「そんな気はないで。こんな力があるんやから、使わな勿体無いやん」

 

 ある意味では正論で、だけど迷惑な意思を放つ木乃香の満面に広がる恍惚を宿す至福の表情。仏像のそれを思わせる透徹しすぎたアルカイックスマイルを見れば、力に溺れているのが良く分かる。

 魔力酔い、いや、この場合は力酔いとでもいうのだろうか。なまじ極東一の膨大な魔力があるが故に、その奔流の如き力に抗しきれず、理性が押し流されてしまっているのだ。

 

「なんというか、いい具合に飛んでるな」

 

 放たれる力の余波は、常人ならば一秒さえも生き延びることさえ叶わない圧力を生み出しているが、ネギが二重三重の結界を張ってくれたお蔭でアーニャはなんとか立っていられる。

 当然のように受け流して呑気な感想を垂れ流すアスカとは違うのだ。

 チラリとネギを見たアーニャはギョッとした。結界を張っているネギが冷や汗を浮かべていたのだ。

 

「ヤバい。このままだと結界が負ける」

「嘘!?」

「流石は極東一の魔力だよ。素人に毛の生えた程度の木乃香さんでも後先考えずに力を発しているから何時か力負けするかも」

 

 今の木乃香は正気を失い、後先は全く考えていない。己が身を顧みることもなく、まさに捨て身で力を振るっているのだ。いや、捨て身という概念もない。ただ本能のままに暴れるだけの存在になってしまった。だからこそ、洗練されたネギと拮抗している、拮抗してしまっている。

 何年も鍛えてきたネギが目覚めたばかりの木乃香を力押しで抑え切れないなどということは屈辱以外の何物でもない。幾ら相手が悪霊に取り付かれた極東最大の魔力保持者だとしても、木乃香程度の術者に全力を尽くさなければならない事態が来るとは露とも思ってはいなかった焦りが表情に浮かんでいた。

 その力の強さは結界を張っているネギをも上回るのか。

 

「良くても現状維持が精一杯。僕が少しでも結界から力を抜いたら――――――どうなるか、分かってるよね?」

 

 極東最大の魔力の持ち主とはいえ、その使い方が稚拙な少女では悪霊が乗り移ろうとも完全な制御など出来るはずもない。つまり垂れ流しの状態に近いのだが、例えるなら後先考えずのフルパワーでタンクから蛇口を捻て水を放出しているようなもの。

 当然、どんな大きなタンクでも上限がある。後先考えずに蛇口を全開に捻れば、勢いは凄くても出る時間は必然的に短くなる。どれだけ莫大な魔力であろうとも有限である以上は何時か必ず尽きる。

 しかし、完全に制御できていないとはいえ常にフルパワーの状態にあるということは、抑える方にもかなりの力を必要とすることになる。

 少しでもネギが結界の力を抜けば、木乃香から溢れだしている魔力というか妖気というか―――――どちらでもいいが――――は外部に影響を及ぼして、最悪の場合は辺りを巻き込んで爆発することもあり得ることは容易に想像がついた。

 

「さて、どうしましょうか」

 

 こうなった理由に大凡の推測が立っているのでアーニャに表面上の動揺はない。

 ネギも同様だが、例外がいる。

 

「なんで木乃香に霊が憑いたらこんなにパワーアップしてるんだ?」

 

 アスカである。

 勉強が足らないと溜息を漏らしたアーニャは、説明大好きのネギに余裕がないことから代役を買って出た。

 

「まず第一として、なんで一緒に儀式をやったのにあの子達には憑いて、木乃香には霊が憑かなかったか分かる?」

「さあ」

「この魔力の恩恵があったからよ。鍛えられていないといっても莫大な魔力は漏れ出した分だけで天然の障壁となるわ。それがエンジェルさんをやって霊が憑かなかった原因で、直接接触で障壁をすり抜けて乗り移ったというわけよ」

 

 そもそも木乃香の魔力に惹かれて霊達がやってきた可能性は高いが、流石にそれは推測なのと木乃香のことを思って口に出すことはなかった。

 

「妖気が強大になったのも木乃香の魔力故でしょうね。驚く要素は少ないわ。問題はどうやって木乃香の中から霊を出すかだけど」

「同じ方法じゃダメなのか?」

「馬鹿ね。これだけの力があったら結びつきが強くなってるはずだわ。ちょっとショックを与えた程度だと多分駄目。それこそ大怪我をするぐらいじゃないと多分無理だと思う」

 

 憑依された人間は代わってもアスカの成すべきことに変わりはないが、問題は木乃香から発せられる力にあった。

 木乃香の魔力によって結びつきが強くなり、先の少女達のような弱いショックでは効果が薄そう。唯一の対霊魔法が使えるネギが結界に専念していては手が出せない。

 

「どうする? このままだとジリ貧。木乃香の命も危ないぞ」

「分かってるわよ……」

 

 こうしている間にも取り憑いた霊は木乃香に負担をかけ続けている。霊もネギ達に対抗するために少しでも制御しようと動かず集中しているお陰で、余計にこの均衡を崩すわけにはいかない。結界を突破されればどんな被害が出るか分かったものではない。

 解決策を模索する間も、外に漏れないように張った結界を軋ませ、外圧に耐えかねて蛍光灯が割れる。結界に力を注ぐネギの額から流れた汗が顎を伝い、地面へと落ちた。

 

「ん? これは……」

 

 その時、何かを感じたのかアスカは意識を一瞬目の前の木乃香から外した。

 

「刹那が来るぞ」

 

 アスカの発言からアーニャの脳裏で連想ゲームのようにこの場を切り抜ける策が思い浮かぶ。

 

「 …………確か神鳴流は魔物や怨霊を退治する剣の流派だったわよね。神鳴流の遣い手の刹那なら木乃香もどうにか出来るはず。ネギ!」

「無茶を言うなぁ。一部の結界を解くからアーニャも手伝って」

「どうすればいいの?」

「僕は結界の一部を解除するから時間稼ぎをして」

 

 刹那を通せと暗に言うアーニャに表情を歪めつつも、その眼には決心を宿した意思が感じ取れた。

 ネギは反対にアーニャに注文しつつ備える。

 

「来た!」

「ええい!!」

 

 アスカの声で待望の待ち人が来たことを悟り、アーニャがネギに比べると遥かに弱い結界を木乃香の近くに張り、ネギは部屋の入り口だけ結界を解除する。

 その瞬間だった。

 

「お嬢様!!」

 

 その手に持つ夕凪を使って力尽くでドアを破って現われたのは木乃香の護衛である桜咲刹那。どこかで監視していたのか、結界を察知したのか、それとも幼馴染として直感で危機を察したのか分からないが、危機を感じてやってきたなのは間違いない。

 理由はともかく、突然の刹那の登場に動揺したのは木乃香の中にいる霊であり、刹那の存在は木乃香の心を揺らす。そして憑依している霊は、どうしても木乃香の影響を受けてしまう。

 刹那が現れて動揺して弱まった瞬間にはネギは結界を張り直していた。

 

「ちょうど良いところに来たわ、刹那」

「え? あれ、どうしてアーニャ先生達が……」

 

 いざ夕凪を持って勇んだ刹那だったが、何故かいるアスカ達や木乃香のおかしい状況に目を白黒していた。事情を知らずとも木乃香の危機に突っ込んできたようだ。

 

「細かい事情説明は後回しよ。私達じゃ、木乃香を助けられないわ。刹那、アンタの神鳴流の技で木乃香に取り憑いた霊を斬りなさい」

 

 悠々と話をしている暇はないとぶった切ったアーニャは、簡潔に状況を伝えつつ木乃香を指差した。

 事情は分からないながらも必要とされているのが自分の神鳴流の技だと理解した刹那だが、その足は一歩も前に進むことはなかった。

 アーニャが不審を覚えて彼女を見る。

 

「どうしたの? アンタの主の危機よ。スパッといきなさい」

「…………ん」

「え? なんて?」

「………出来ません。私には……………………出来ないんです」

 

 一瞬、アーニャは何を言われたのかが理解できないようだった。

 

「はぁ? 神鳴流は退魔の剣術なんでしょ。アンタはそこそこの腕らしいし、出来ないわけが」

「出来ないんです私には! 斬魔剣は――――使えないんです」

 

 神鳴流奥義である斬魔剣。霊体を滅ぼす神鳴流の真骨頂とも言える技であるが、刹那はその技が使えないと泣きそうな顔で叫んだ。その手は夕凪の柄が折れそうなほど強く握り締められ、目の端には涙すら浮かんでいた。

 

(半妖だから魔を斬る斬魔剣を使えるはずがない)

 

 刹那は一度たりとも斬魔剣が使えたことはない。それは己が魔に属する半妖であるからと認識してた。

 なんらかの事情があるようだと察したアーニャだったが、頼みの綱の刹那がこの調子では木乃香を救うことは…………。

 

「俺がやる」

 

 万策尽きたと思われた中でアスカが一歩を踏み出した。

 

「ちょっとアスカ。何を勝手に」

「斬魔剣なら京都で詠春のおっさんに見せてもらった。多分、やれるはずだ」

 

 アーニャは止めようとするがアスカが自信を持って言い切ったので迷った。

 だが、斬魔剣を使うと宣言したアスカを、信じられない物を見るような目で刹那が見た。

 

「多分って…………剣もなしにどうやって」

「そりゃこれでだ」

 

 言ってアスカは両腕を掲げて深く息を吸って、吐く。

 一行程の深呼吸で全身の力を活性化させているのが傍目からでも分かった次の瞬間だった。

 ぐにゃり、と生まれた光で手首から先の輪郭が歪んだ。アスカの手首を包む薄い光が、光の進路を掻き乱す。

 

「おお、やれば出来るもんだな」

 

 暗い部屋に、まるで太陽が生まれたような光が生まれた。魔力の緻密な制御によって成されたそれに、木乃香(に取り憑いた雑魚霊の集合体)は怯えたように一歩下がる。

 しかし、怯えたことが許せないように、木乃香は取り憑かれた影響で腐ったような澱んだ瞳でアスカを見つめ、邪魔者を排除せんと逆に緩んだ攻勢を決しようと魔力が跳ね上がった。

 

「くっ」

 

 ネギの苦鳴が漏れる。

 近くにいたアーニャも重圧に押し負けて二歩、三歩と下がる。

 残った気勢で張り合うネギだが、現状では不利。木乃香の身も心配だ。もうアスカに賭けるしかない。

 

「ええい、もう行っちゃいなさいアスカ!!」

「応!」

 

 アーニャの叱咤に応えてアスカが波動を突っ切って踏み込む。

 闇を突っ切って太陽が進軍する。その背中があまりにも眩しすぎて、自分には到底成れない姿に刹那は見ていられなかった。

 

「はぁっ!」

 

 霊に操られて肉体のリミッターを外された人間に、生半可な格闘技などは何の役にも立たない。だが、アスカからしてみれば力は強くても動きがまるでなってない。隙だらけでがら空きの木乃香の胴体に容易く渾身の両の掌―――――掌打を叩き込んだ。

 掌を通じて、光輝が木乃香の身体に注ぎ込まれる。全身を光り輝かせながら、木乃香は電撃でも浴びたように身を仰け反らせた。

 

(ぎいいいいいいいいいいいいいいいいいっっ!!)

 

 空気を震わせることなく、脳裏にだけ聞こえる悲鳴を上げて、雑霊を抵抗も許さずに消滅していく。

 

「お嬢様!」

「――――ふぅ」

 

 雑霊を完全に消滅させたことを確認して、三人は倒れこんだ木乃香を抱きとめる刹那を傍目に軽く息をついた。

 

「名付けて斬魔拳ってな」

「読みは一緒じゃないの」

「いいんだよ。意味が伝われば」

 

 新たな技に鼻高々のアスカだったが、刹那は抱き留めた木乃香の容態を確認して震撼した。

 あれだけの魔力で殴ったにも関わらず、木乃香に傷一つないのだ。

 斬魔剣を再現したアスカだが、その効果は宗家青山家縁の者にしか伝承されていない【斬魔剣 弐の太刀】と全く同じ効果を及ぼしていることに気づいていない。憑かれた人間には影響を及ぼさず、その背後にいる霊を滅ぼすことを主眼としたために辿り着いたことで、まさかそんなことに成っているとは気づかなかったのだ。

 幾ら斬魔剣を見たことがあると言っても、独力で弐の太刀に至るその才を始めて刹那は恐ろしいと思った。

 

「……ぅ………うん、あれ、せっちゃん?」

「ご無事ですか? お嬢様」

 

 力を使い果たして疲れているのだろう、どこか力のない目を開けた木乃香は自分を抱き上げる刹那の名を呼ぶ。木乃香が無事なことに安心した刹那も何時もより柔らかい口調で語りかける。

 その心の中でどす黒い感情が走っているのを隠す様に、顔を伏せていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 部屋の布団で寝ていた明日菜の耳に、静かな室内に響く、トントンと包丁で野菜か何かを刻む音が聞こえた。

 眼を開けるとまだ視界が滲んでいる。

 

(あ、そっか。風邪引いたんだっけ)

 

 修学旅行の疲れが出たのか、覚えている限りでは始めて風邪を引いてダウンしてしまったことを思い出した。

 瞬きを繰り返すとぼんやりとしていた視界が徐々に明確になっていく。枕元に置いている時計を見れば、時刻は夜と呼べる時間帯だった。長いこと寝ていたためか瞼が少し腫れぼったい。

 その間もリズミカルな音は止むことなく、野菜か何かを刻んでいる者が包丁慣れしていることを如実に物語っていた。

 気になって首を巡らし、二段のベッドの柵の隙間から台所を見ると、自分よりも小さい金髪の少年―――――アスカ・スプリングフィールドが料理をしていた。

 

「後は溶き卵を入れて……っと」

 

 あらかじめ冷蔵庫から出していたのか、近くに置いてあったボウルから卵を持って片手で鍋に叩いて器用に割ると、手早く溶いて鍋に流し込んだ。最後に塩と醤油で味を調える。

 

「うし、完成」  

 

 卵雑炊が完成して部屋においしそうな匂いが漂って、風邪を引いて食欲の失せている明日菜のお腹が「ぐ~」と鳴った。

 

「ん、起きたか」

「おいしそうな匂いがしたから……くしゅんっ」 

 

 お腹が鳴った小さな音も聞こえたのか振り向いたアスカが笑顔を向けてくるので、じっと見ていたのが恥ずかしくなって料理が完成してから起きたのだと嘘をついてしまった。

 神様が嘘をついた罰とでも言うように、可愛らしいクシャミが零れる。

 

「熱、下がったか?」 

 

 何時の間に近づいていたのか、片手に卵雑炊が入った鍋を抱えたアスカがベッドの梯子を上って近づいていた。あっと思う暇もなく前髪を掻き上げられて、おでこ同士をくっ付けられていた。

 アスカの印象に残る綺麗な蒼い瞳が、明日菜の視界一杯に入ってきた。

 その瞳の中に自分が映っているのが見えた。熱を測っているだけだと直ぐに分かったが、それでもどうしようもなく胸が高鳴る。

 距離が近い。少しでも顔を動かせばキスできそうな距離。そんな距離を気にした様子も無く蒼の目を細めて笑うアスカ。

 この海のように、空のように包み込んでくる蒼の色が明日菜はとても好きだった。その色味は不思議なことに、時に薄くなったり、濃密になったり、それが混ざり合ったりして決して一定ではないのだった。

 まるで宝石のような蒼の瞳に見つめられることに奇妙な安心を覚えて、全身からぐったりと力が抜けた―――――――ところで現在の状態に気づいた。

 

「ちょっ、ちょっと」

 

 弛緩した肉体とは別に、意識は汗を掻いていたこともあって思春期の少女らしく突然のアスカの行動を恥ずかしがる。明日菜の頬に風邪とは違う種類の赤さが生まれた。

 

「うん、大分熱も下がってみたいだな。もう大丈夫だろう」 

 

 少しでも首を動かせばキスが出来そうな距離を気にした様子もなく、熱が下がったことに安堵して純粋な笑顔を向けるアスカに余計に顔に熱が集まる。年下でも異性にこれだけの近づかれた経験は高畑ともない。流石に恥ずかしくなってしまう。

 

「じゃ、じゃあもう起きても良いよね」

 

 だからというわけでもないが、明日菜は照れ隠しに体を起こそうとした。

 自分でも分かるほどに声が裏返っていたがアスカは気にしなかったようだ。ふと見下ろしたベッド柵を掴むアスカの手には拳ダコがあった。

 

「まだ熱はあるから今日は寝てろ」

 

 照れ隠しもあって起きようと起こした体を抑えられる。それどころか明日菜の気持ちを見透かしたように微笑んですらいた。

 

「え? ほら、もう熱も下がったから大丈夫よ」

 

 再び氷枕に頭を下ろすも熱特有の気だるさもしんどさもない。さっきのクシャミもあれだけで風邪らしい症状は何もなかった。

 

「熱が下がっても風邪のウィルスはまだ体の中に残ってるかもしれないだろ。昔のネギとおんなじこと言うなって。今日一日は大人しく寝てろ」

 

 明日菜の様子がおかしいのか少し笑ってそう言うと、笑顔で目を細めているアスカに少しホッとする。

 偶に蒼の瞳はここじゃないどこかを見ている時がある。そういう時は何時も空を見ていた。そんなアスカを見ているのは嫌だった。

 ただ遠くを見ているのではないと、何故か分かった。まるで別の世界のように感じて話しかけれない。遠すぎたからそれがどこへ向けられたものだったのか、それすら分からない。聞くのが怖い気もしていた。

 踏み込むことで今の関係を壊すことが怖かった。世間話なら気楽に出来るのに、肝心なことになると何故だか気が引けてしまって、ずっと踏み込めないままでいる。

 何か話をと思って話題を探すと同室の木乃香の姿が見えなかった。

 

「木乃香は……姿が見えないけど」

「体調が悪くて他の部屋で休んでる。おっと、起きるなって。刹那が見てるから大丈夫だ」

 

 起きようとしたところを指一本で戻される。

 全く力を入れている様子はないのに明日菜は抵抗も出来ず氷枕に再び頭を下ろす。

 

「本当に大丈夫なの? もしかして私の風邪が移ったんじゃ」

「違うって。修学旅行の疲れが出たらしいぞ。今日は刹那と一緒に千草の家に止まるってよ」

「そっか。…………そう言えばなんでアスカがいるの? いてくれて嬉しいけど」

「薬を持っている木乃香に話を聞いて、代わったんだ。俺は馬鹿だから風邪を引かないからな」

「自慢することじゃないでしょ、それ」

 

 自信満々に胸を張って自分は馬鹿です宣言をしたアスカに、クスクスと笑いつつ、アスカがいる理由と木乃香がいない理由に納得が言った。

 まだあまり頭は働かないようで、言われたことを素直に信じた。まさか真顔で嘘を言っているとは思わない。

 本当は夕方のエンジェルさん騒ぎで動物霊を払っても木乃香の体調が戻らず、千草の家で安静にしているとは夢にも想像できないだろう。

 

「ごめん、ありがとう、来てくれて」

「いいって。謝ることじゃない。病人は養生してろ。なんならもっと我が侭を言っても良いぞ」

 

 そんなことを露とも知らない明日菜は二人に面倒を掛けていることを気にして謝罪と感謝とするが、アスカは見ている方が嬉しくなりそうな笑みで応えた。

 

「それじゃあ一つだけ、いい?」 

 

 アスカの表情を見ていると、それが単なるリップサービスではなく、本心から言っていることが分かり、明日菜は何だか嬉しくなってしまった。

 熱が出ていて普段は強気な精神が参っているのだろう。明日菜はらしくもなくやってほしいことがあった。

 きゅるるる…………と、可愛い音が鳴った。

 二人が顔を合わせ、直ぐにある一点に視線を一致させた。明日菜のお腹が鳴ったのだ。

 明日菜は視線をアスカが持っているお盆の上に乗っている鍋にチラリと目を向け、

 

「しんどいから御飯、食べさせてほしいなぁって」

 

 自分でも驚く程の甘えるような声で頼んだ。

 明日菜には小さな頃の記憶がない。当然、両親との思い出もない。

 思い出せるのは保護者の高畑と麻帆良に来てからのことだけ。当然、両親のことも知らないし、甘えた記憶もない。

 風邪を引いた自分が優しい母親が看病してくれるなんて、もしかしたら長年の夢だったのかもしれない。色々と違うが配役は似たような感じで。

 

「……………」

 

 アスカも思わぬ要求に、よもやこんな甘え方をされようとは考えていなかったので一瞬だけ固まった。が、まあいいかとお盆に載せていたレンゲで雑炊を掬って、熱そうなのでフウフウと息を吹きかけてある程度冷ましてから明日菜の口元に伸ばす。

 

「ほら、あーん」

「あーん」

 

 明日菜は嬉しそうに言われた通り口を開けて雑炊を口に含む。

 

「美味し」

 

 ちょっと舌足らずに微笑んでから、そこでようやく自分が言った言葉、現在の状況を垣間見えてさっきのおでこを合わせた時以上に顔を赤くした。

 

(あたしったら何をしているのよ――ッ!!)

 

 ここに至ってようやくバカップルでもしないような行為であることに気づいて心中で叫んだ。咄嗟に心中だけで口から出さなかったのは、雑炊が美味しかったのと恥ずかしさが極まったからである。

 明日菜は、ついアスカから顔を背けてしまう。恥ずかしさでやたらと頬が火照っていた。

 

「どうした?」

「な、なんでもない」

「ふうん?」

 

 どもった明日菜に不思議そうな声を上げたアスカは今の状況に対して気にしていないらしい。

 普段ずっと一緒にいてもこんな風にはならないのに、どうして今日に限って妙に意識してしまうのか。それでも行為自体には安心感が強く、止める気がしない。「あーん」される度に、「あーん」と食べる食事はつつがなく進む。

 

「おいしいね、この雑炊。木乃香の味付けとは違うみたいだけど」

 

 変わった味付けだが、明日菜の好みにピッタリと嵌る不思議な美味しさに頬が落ちそうだった。

 

「ああ、俺が作ったからな」

「え」

「だから、俺が一から作った。材料は冷蔵庫のを勝手に使わせてもらったぞ」

 

 衝撃の事実に頬ではなく目が見開かれた。

 木乃香が用意して途中から作ったのだと思ったのだが、完全に一からアスカが作ったとは夢にも思っていなかった。

 

「アスカが、作ったの?」

「そうだって言ってるじゃないか」

 

 混乱しつつもレンゲを差し出されると美味しくて口を開けて食べてしまう。

 雑炊をしっかりと噛んで呑み込みながらも、実はアスカは料理が上手いんじゃないかという疑念が脳裏を支配する。

 

「俺が作れるのはこれだけだけどな」

「そうなの?」

 

 辛うじて女の挟持は守れた。

 普段の料理は木乃香に任せっきりだが、明日菜だって女の子。二つや三つぐらいの料理は作れる。どんぐりの背比べはあったが。

 

「誰に教えて貰ったの?」

「ネカネ姉さんのお母さん…………つまりは俺とネギの叔母さんなんだが、分かりやすく言うとネカネ姉さんを百倍パワーアップさせたような人だ」

 

 ネカネとの関わりが深いので、その言葉だけで明日菜にもその叔母さんのイメージが簡単に作り上げることが出来た。

 

「その想像の十倍は超える人だぞ」

「そうなんだ……」

 

 言われてイメージの十倍を想像して、ちょっと引いた。

 うんうん、と明日菜の様子に我が意を得たりと頷いたアスカは過去を想い出す様に少し遠い目をした。

 

「これを最初に作ってくれたのは、俺とネギが真冬の池に落ちて四十度の熱を出してぶっ倒れた時でな」

「ちょっと待った」

 

 聞き捨て慣れない言葉が聞こえて明日菜は思わず話を遮った。

 

「なんで真冬の池に落ちるのよ」

 

 普通は避ける場所のはずである。いくらアスカに考えが足りなくてもネギがいるならそんな場所には行かないはずである。

 

「当時は二人してヒーローごっこに嵌ってて、池の近くの木に登って降りられなくなった近所の黒猫を助けるために上ったはいいが、細い枝だったから二人分と猫の重みで折れて落ちた」

「猫も?」

「いや、俺の体を足場にして一人だけ逃げやがってあの畜生が……………と、まあそんなこんなで二人して池に落ちて風邪を引いたわけだ」

 

 一人ではなく一匹では、と明日菜は思ったが突っ込まなかった。

 

「二人して四十度の熱を出して何も食べられなくて、そんな時に叔母さんが作ってくれたのがこの雑炊でな。元はお袋から教えてもらったらしいんだ」

「お母さんから?」

「雑炊って日本の料理だろ。詠春のおっさんが親父が一時期京都にいたってのは春休みの時に言ってただろ。その時、多分お袋も一緒にいたんだろな」

 

 父親のことはよく聞いたが、母親のことは明日菜も初耳だった。

 よくよく考えればイギリスにいるネカネの母が雑炊を作れることに、アスカが作ったことに疑問を覚えなければならなかった。本当に明日菜の頭は全然働いていないようだ。

 

「お母さんって、どんな人?」

「さあ、どんな人なんだろうな」

 

 疑問に疑問を返されて明日菜の頭の中を疑問符が支配する。

 

「え? どうして知らないの?」

「どうしてって、名前も知らないから答えようがない」

 

 一瞬明日菜の脳裏が真っ白になった。

 凍った明日菜の表情を解す様にアスカは苦笑に似た笑みを浮かべた。

 

「なんか事情があるらしい。大人になったら教えてくれるって話なんだが、親父を探すのはお袋のことを聞く目的もある。女々しいかもしれないが親のことだからな。知りたいんだ」

「そうだったんだ……」

 

 そう言われれば明日菜に言える言葉は殆どない。

 踏み込んではいけない領域に口を出してしまった後悔に我知らずに涙が浮かんでくる。熱で感情のブレーキが効かないようだ。

 

「泣くなって」

「だって……」

「ったく」

 

 レンゲを置いて開いた手で少し乱暴に目じりに浮かんだ涙が拭われる。

 

「明日菜が気に病むことねぇって。ほら、これで最後だ」

 

 差し出されたレンゲを前に迷いつつも、雑炊の美味しさが明日菜を陥落させる。

 雑炊の鍋は綺麗に空になった。

 

「まだ熱があるから寝とけよ」

 

 最後までベッドの梯子から食事を食べさせてアスカがそのままカラになった鍋を乗せたお盆を片手に降りようとしていたのを、明日菜は裾をくいっと引っ張って止めた。

 

「もう一つお願い聞いてもらってもいい?」

 

 どうした、と視線を向けてくるアスカの眼に恥ずかしさを覚えながら、どうせなら毒を食らわば皿まで。

 まだやってもらいたいことがあった。黙って続きを促すアスカの眼から視線をずらして答える。

 

「寝るまで手を握ってで」

 

 卵雑炊を食べてお腹が一杯になって眠くなってきた。でも、一人でいるのは少し寂しい。誰かに傍にいてもらいたかった。

 聞いたアスカの顔が、鳩が豆鉄砲を食らったようになったのをずらしていた視界の端っこに捉えて、恥ずかしさで死ぬ思いを味わった。さっきから年下に頼むことではないと自覚していても止められなかった。

 自分の心臓が張り裂けるほどの音を鳴らしているのが静かになった室内に響いているのではないかと錯覚を覚えるほどだった。

 

「分かった。危ないから盆だけは置かせてくれ」

「うん」

 

 アスカは少し笑って王女様の願いを聞き届けた。

 握っていた裾を離してアスカがお盆を下ろしに梯子を全く体重を感じさせない足取りで、踊るようにすっと降りていく。足音一つしなかった。

 

「ほら」

「ありがとう、アスカ」

 

 お盆をテーブルに置いて、体重を感じさせない動作でベッドの柵に腰を乗せて手を握ってくれたアスカにお礼を言う。

 

「えへへ」

 

 手を握ってもらうと、途端に今まで我慢していたものが噴出してくるかのように自分の顔がだらしなく緩むのを感じた。

 少年の手は思ったよりも柔らかくなく幼い頃に握った高畑のようにゴツゴツとしていた。温かく力強い手の平と。擦り切れて硬くなった拳と、しかし、少年の繊細さを感じさせる細い指。

 子供ではない男の手の感触に少しドキドキと高鳴る心臓。なんだか暖かな気持ちになりながら、明日菜はアスカの手をギュッと握り締める。人肌を感じ取ったからか先程よりも強い眠気が急速に襲ってきた。

 

(何時までもこんな時間が続けばいいのに)

 

 ものの一分も経たない内に眠りの世界に本格的に落ちかけていた明日菜の頭を優しい手が撫でてくれた。握ってくれている手と、頭を撫でる優しさに、今までにないほど安らかに眠りに落ちていった。

 外は冷たい風の吹く冬の空だ。だが、明日菜の傍には温かい仄かな温もりがあった。

 

 

 

 

 

 寝入った明日菜の寝顔を見下ろすアスカの表情は穏やかだった、その手が離れるまでは。

 

「明日菜……」

 

 起こさないように小さな声で呟かれた名前にどのような意味が込められているのか。

 

「もう、決めないとな」

 

 静かに囁かれた言葉を聞く者はいない。もしも、聞いた者がいればどこか不吉な予感を覚えたことだろう。

 明日菜が起きないことを確認してアスカは音も立てずにベッドから飛び降りて着地し、ドアへと向けて歩く。

 部屋の入り口の電灯のスイッチのところで足を止めたアスカは振り返って寝ている明日菜を見る。

 ベットの柵が邪魔で顔がしっかりと見えないが、まるで心に焼き付けるように見たアスカは辛い気持ちを押し隠すように瞼を閉じた。

 

「俺は戦いの道を行く。明日菜は――」

 

 その先の言葉は小さく、パチリと電灯のスイッチの音に掻き消されて部屋には響かなかった。

 真っ暗になった部屋で、アスカの両腕がある辺りに禍々しい紋様が浮かび上がったが、移動してドアが開かれて外の光が差し込むと残光だけを残す様に消え去った。

 

「むにゃむにゃ…………アスカぁ…………」

 

 一人、部屋で夢でも見ているのか寝言を漏らした明日菜はアスカの決断に気づいていない。

 


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