魔法先生ツインズ+1   作:スターゲイザー

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第3話 うっかり娘、爆誕

 

 放課後、暖かな春の日差しの中で窓の外に桜が舞い散るのが見える教室前の廊下、壮年のスーツを着てポケットに両手を入れた男性と鈴の髪飾りをつけたツインテールの少女が向き合っていた。

 少女――――神楽坂明日菜の後ろには、まだあどけない笑顔を浮かべた少年二人がハートマークが大量に付いて、何故か煙を上げる奇妙なバケツを持っている。明日菜は頬を赤らめて俯いており、目の前の男性を見ないことから余程鈍感でなければ恋をしていると誰でも気付くだろう。

 少々カップル、と言うには年齢の差が気になる二人だが、明日菜の瞳に浮かぶ陶然とした熱は間違いなく恋する乙女のそれだった。何故か窓は閉まっているのに廊下にも桜が舞っているのは突っ込んではいけないのかもしれない。

 

「高畑先生…………あの、おいしいお茶が入ったんですが飲んでいただけませんか?」

 

 そう言って明日菜は壮年の男性――――タカミチ・T・高畑に両手に持っていた湯気を立ててハートマークに「ホレ」と書かれたコップを差し出した。 なんじゃそれ、と突っ込める人間がこの場にいないことが悔やまれる。

 

「ふふ、コレはホレ薬だろ? こんなもの必要ないさ」

 

 高畑は目を閉じ、右手でスッとコップを取り上げて年上の魅力を全面に出し、ニヒルに笑って少女に答える。妙に格好をつけすぎでなければ決まるのが高畑という男の魅力なのであるが、絶対に本人が言わなさそうなシュチエーションだと明日菜は何故か気が付かなかった。

 

「え……どういうことですか……?」

 

 コップを取り上げられた明日菜は空いた両手を胸の前に持ってきて、高畑の笑顔にハートを打ち抜かれながら言葉の意味を問うた。何時の間にか後ろにいた筈の少年達がいなくなっているが、心を打ち抜かれた明日菜は気付いていない。

 

「はっはっはっはっ。何故なら元々、僕は君の事を愛しているからさ」

「ええっ!?」

 

 腕を広げて笑いながら少女の問いに答える高畑の言葉に驚きの声を上げて、先程よりも頬を赤らめる明日菜。そしていつの間にかいなくなった少年達と同じように高畑が持っていたコップが無くなっているのにも明日菜は気付かない。恋は盲目とはよく言ったものである。

 

「あ……」

 

 高畑は一歩、明日菜に近寄って左手をそっと伸ばして頬に添える。この動作が示すものはたった一つ――――キスだけだ。こんなシュチエーションを何度も夢見た明日菜に分からぬはずがない。

 

「明日菜君、目を瞑ってくれるかい」

 

 桜が二人の間を舞いちり、高畑は明日菜にキスをしようとぐぐっと顔を寄せていく。

 

「は、はい、高畑先生」

 

 憧れの人にキスをされると悟った明日菜は、早鐘のように鼓動を鳴らす心臓が高畑に聞こえるんじゃないかと思いながら、目を瞑ってその時を待つ。だが、何時まで経っても唇が降りて来ることはなかった。何故なら―――――これは現実ではないのだから。

 現実に高畑が明日菜にキスしようとすることはなく、さっきまでのは最初から最後まで彼女が見ていた夢である。

 

「私も先生のことが……」

 

 現実の明日菜は寝相が悪いのかうつ伏せの姿勢だった。パジャマの上着は前のボタンが全部開いて、寝る時には下着をつけていない胸が見えている。しかも、パジャマのズポンが太股ぐらいまでに擦り下りて、下着が露出している。殆ど半裸と大差ない有様だった。

 

「高畑セン……セ……」

 

 夢の影響か恋の相手である担任の名前を口にしながら、唇を突き出してキスをしようとする。そこで本来なら相手もいないので枕か布団にキスするだけで済むのだが、今回に限り違った。何故かそこにネギがいて明日菜に抱きしめられており、明日菜が右手でネギの頭を押さえてその額にキスをしていた。

 夢の影響であれ、明日菜がネギに圧し掛かっているようにも見えた。

 

「んん……」

 

 明日菜の抱きしめる腕が苦しいのか、またはキスをされる感触に違和感を感じているのかどちらか分からないが、寝ながら苦しそうな声を漏らす。

 

「……!?」

 

 そのネギの声に明日菜はピクピクと瞼を震わせてゆっくりと目を開けて、目の前のネギを寝起き特有の動きの鈍い頭で認識した。

 

「キャ――――ッ!?」

 

 ネギが自分の布団にいることに気付いた明日菜は、早朝の麻帆良学園女子寮に響き渡るほどの大声で悲鳴が上げた。その声にようやくネギが目を開ける。

 

「ちょっ、ちょっとあんた。何で私のベッドで寝てるのよっ!」

 

 明日菜は飛び上がって起きて電気を付けると、前がはだけて胸が露出してズボンがズレて下着が見えている格好に気付いて、涙目で目の前の少年を睨みながら毛布で体を隠す。

 

「えう………お姉ちゃ……あ!?」

 

 明日菜の声で目を覚まして甘えるような声を出しながら姿勢を起こして、左手で目を擦ってどうしたのかと姉を呼んで、涙目で自分を睨みながら毛布で体を隠す明日菜を見て、ようやく自分が姉と一緒に寝たのではないことに気付いた。

 そして自分の悪癖が目の前の少女に被害を与えたことにもまた。

 

「ア、アスナさん!? すすす、すいません! 僕、何時もお姉ちゃんと一緒に寝てたのでつい……」

「な、何よそれ!? 自分の布団があるんだからそこで寝てなさいよ!」

「ごめんなさい!」

 

 ネギは慌てて手を振りながら謝り、明日菜は人の布団に勝手に入っていい理由にもならない。ネギの子供らしい言い訳を聞きながら叫び返す。まだ何か言っているネギの言葉を無視してふと自身の足元の時計に目をやると、時刻は既に五時を指していた。

 

「わっ!! もう五時じゃない。……………行ってくるね、木乃香ぁ――っ!」

 

 寝過ごした事に気付いた明日菜は二段ベッドを降り、ドタバタと急いで着替えてネギの問いかけの声を無視し、途中で起きて来た寝ぼけ眼の木乃香に声を掛けていく。

 

「アスナさん、どこへ?」

「バイト!」

 

 ネギの問いに答ながらバイト先に向かって慌しく部屋を出て行った。

 

「ネギ君。朝御飯作ってあげるよ。目玉焼きとスクランブルエッグ、どっちがええ?」

 

 寝起きのしょぼついた目を擦りながら起き上がった木乃香は欠伸を一つした。頬を叩いて気分を入れ替え、寝巻きのままでマイエプロンを付けながらネギに聞く。

 

「あ、じゃあ目玉焼きで」

 

 そんな事は露知らずに後ろ髪に寝ている時は外しているゴムを括りながら少しの間だけ考えて、スクランブルエッグと違って食べたことがない目玉焼きを選択する。

 

「了解~」

 

 ネギが考えている間に木乃香はまだ眠いのか目を擦りながら冷蔵庫から卵を取り出して、返答を聞いて料理に取り掛かる。それを横目に見ながらネギはようやく日が昇り始めたが、まだ暗い窓の外の麻帆良市を窓から見つめ、昨日の出来事を振り返る。

 

(そうだった………。僕、先生をやるために日本の麻帆良学園って所に来て、昨日は明日菜さんと木乃香さんの部屋に泊めてもらったんだった)

 

 ネギは昨日の事を思い出して溜息をつく。気合を入れるように握り拳を作って頑張ろうと心に決めたのだった。そうしている間に朝食を作り終えた木乃香がテーブルに皿を並べる。

 

「出来上がったでぇ。アスカ君はどうしようか、まだ寝かしとく?」

「アスカならこの時間は」

 

 木乃香がロフトにいるアスカの寝顔を見ようと上がるも、既にそこには綺麗に畳まれて誰もいなくなった布団があるだけだった。

 

 

 

 

 

「じゃ、行ってきます!」

「よろしくね、明日菜ちゃん」

 

 なんとか時間ギリギリにバイトに間に合った明日菜は、中学生に上がってから雇ってくれている毎朝新聞の事業所で今日の配達分の新聞を受け取り、出かけようとしているところであった。最初は辛かった早朝に起きるのも慣れてしまえばなんのその。勤続二年になる明日菜に事業所の所長一家も優しくしてくれるので仕事場としては最高だった。

 

「ちょっと、アンタ。大山君が風邪で起きれないって」

 

 鳥が目覚めで鳴いている中、他の人が自転車やバイクで次々に事業所を出発していくのに続こうとした明日菜は、所長一家の会話を耳にして進みかけていた足を止めた。

 

「あちゃー、流行ってるからな。替えのバイトもいないってのにどうすんだ」

「私が代わりに行きますよ」

 

 何時も良くしてくれてバイト代まで優遇してくれる所長一家が困っているなら言わざるをえない。

 恩返しのつもりで言った提案だったが、所長一家は顔を渋くした。だが、インフルエンザや風邪が流行っている時期だけに所長一家も現場に出ているので代替要員はいない。

 先に折れたのは所長一家の方だった。

 

「いや、でも凄い量だよ。平気かい? 明日菜ちゃん中学生だし、女の子だしよ」 

「大丈夫です。私、体力だけは自信ありますから任せて下さい」

 

 休みの人の分の荷物を持って指を立てた明日菜は、少しでも所長一家の為になれば心配を振り払うために笑顔で親指を立て、時間もないので足早に走り出した。

 

「とと……やっぱちょっと重かったかな」

 

 少し走った明日菜は両肩にズシリと圧し掛かる新聞の束の重さに体をよろめかせながら、張り切って仕事を受け持ったことを若干後悔していた。

 普段の担当区分に足して追加分も回らなければならないので、この重さは想定以上といわざるをえない。体力は大丈夫だとしても、この重さでは速度が出せないので時間以内に回りきれない恐れがある。

 

「今更、無理って言うのもな」

 

 言ったことを翻したくはないし、信じてくれた所長一家の為に報いたいとも思う。だが、仕事をこなせなければもっと意味がない。携帯は持って来ていないので連絡は出来ない。戻るとなれば更に時間を取られてしまう。このまま無理をしてリスクを取るか、戻って相談するか。社会人としてなら正しいのは後者だ。しかし、明日菜はまだ子供で恩義に報いたいという気持ちを捨てきれない。

 どちらも選ぶことが出来ず、流れのままに進んでいた明日菜は後ろから軽快な足音が近づいているのに気が付いた。

 重い荷物を背負っていても明日菜の走る速度はかなり早い。老齢のランナーが叶う速度ではなく生半可な競技系の部活の生徒よりもまだ早い。

 

「あれ、明日菜じゃん」

 

 追いつかれまいと考えていた明日菜は名前を呼ばれて、呼んだ相手が直ぐに隣に並んだことに目を丸くした。

 

「アスカ」

 

 目を丸くして見た先にいるのは金色の短い髪の毛が逆立っているアスカ・スプリングフィールドである。

 黒いジャージに身を包んだアスカは、自転車には及ばないもののかなりの速度で走っている明日菜に余裕を以て並走してきた。

 

「なにやってんのよ」

「走ってる。朝のランニングは日課だからな。そっちこそなにやってんだ? 荷物運びか?」

「バイトよ。新聞配達のバイト。知らないの?」

「今まで寮暮らしだったから新聞なんてよほどの物好き以外は読まねぇ。へぇ、これが新聞配達か」

 

 何故か感心したように明日菜を眺めるアスカの遠慮のない視線に恥ずかしくなった。

 着替えるのが面倒なので制服の短いスカートなので太腿が露出している。見られているのはあくまで新聞紙が入ったバックであって、アスカの視線からは色事やそういう風な感じは欠片もないが、こうもぶしつけに見られると羞恥も覚える。

 アスカはやがて興味が薄れたのか、視線を明日菜の顔に戻した。

 

「こんな朝からバイトなんてご苦労なことで」

「同じように走ってるアンタに言われたくないわよ。もしかして毎日走ってるの?」

「よほどのことがなけりゃな」

 

 継続は力なり、という言葉を明日菜は不意に思い出した。誇るでもなく当然のことのように言ったアスカが昨日の歓迎会の時に古菲のガチでバトルして引き分けに終わったのだから、その力は明日菜では計り知ることが出来ない。

 感心を覚えていると、当のアスカは隣で首を捻っていた。

 

「やっぱ俺も始めてこっちに緊張してんのかね。真っ暗な内に目が覚めちまってよ。ずっと走ってんだが、ここはどこだ?」

 

 話を信じるならかなりの時間を走っていることになる。直ぐに脱落すると思ったアスカだったが百メートルを走ってもまだまだ余裕そうだった。結構な汗を掻いてそれなりに息は弾んでいるが、まだまだ余力を残していそうだ。それどころか明日菜の方が荷物もあって少し辛い。

 

「何時から走ってんのよ」

「最低でも一時間以上。適当に走ってるから時間も分かんねぇや」

 

 二月の寒い時期もあって外は寒い。朝ともなれば肌も切るような冷たさである。その中で頬を伝って流れて行く汗を見れば、アスカが運動を始めた時間が十分やそこらでないことは頭の悪い明日菜でも分かった。もしかして道に迷って帰れないだけではないかと思いもしたが、ツッコミをわざわざ入れるほど狭量ではなかった。

 私って良い人、と自画自賛していた明日菜に伸びる手が一つ。

 

「重そうじゃないか。手伝ってやるよ」

「そんな、いいわよ」

「これも一宿一飯の恩義ってやつだ。重さがあった方がいい鍛錬になるから気にすんなって」

「あ、もう」

 

 言っている間に新聞紙の束が入ったバックの一つを奪われ、肩にかけてしまった。今日休みになった人の分が入ったバックなので自分の担当区分を優先しているから一つも消費できていない。正直ありがたい面もあったので、奪い返す手は伸びかけたところで彷徨う。

 新聞紙は一つならともかく数があればかなりの重量になる。初心者ならよろけるところなのに何も荷物を持っていないかのようにアスカは走っていた。大丈夫かな、と並走しながら揺るがない走り姿を見て、安心して任せようという気持ちになった。

 

「一宿一飯の恩義って難しい言葉を知ってるわね」

 

 走って配るなんてやっているのは明日菜ぐらいで、同じような勤労学生であっても自転車を使う。それほどに荷物を持って走るのはしんどいことなのだ。何件かの家に新聞を配った明日菜は、予定の時間内に間に合わせるためにかなりの速度で数百メートルを走ったにも関わらず、規則正しい息を吸って吐くアスカの体力に驚きながら話しかけた。

 

「国語の恩田先生の言葉ってなんか胸に来るものがあんだよ。妙に使いたくなるっていうか」

 

 定年間近の国語教師は授業の中で諺や古語を引用することがあり、昨日もそんなことを言っていたことを思い出した明日菜は外国人には感じる物があるのだろうと気にしないことにした。正確には一ヶ月ぐらい寝食を共にするので「一宿一飯の恩義」では正しくないのだが、昨夜の夕食と泊まったことだけを考えれば間違いでもない。

 

「それよりもアンタの兄貴の寝相。あれはどういうことよ」

「あの寝ている時の抱き付き癖のことか。もしかして被害にあったか?」

 

 朝に起きた時の痴態を思い出して意地で顔には出さなかった明日菜とは反対に、アスカは何が面白いのかクツクツと楽しそうに笑った。

 

「あったわよ。起きたらあんな……っ!!」

 

 ギリッ、と起きた時の恥ずかしさを思い出して明日菜は歯を食い縛った。裸を見られるにしても心の準備があるのとないのとでは全然違う。今回は準備なんて欠片も出来ていないので怒りは大きかった。

 怒りの熱に押されたように顔を逸らしたアスカだったが、普通なら逃げ出してもおかしくない怒気を発する明日菜から距離を取ることもなく口を開いた。

 

「俺達はずっと姉ちゃんと暮らしてたんだが、一時期あることがあって姉ちゃんは誰かが傍にいなきゃ寝られない様になってな。俺とアーニャがどんくさかったネギを押し付けたんだ。暫くすれば収まったんだが今度はネギが誰かと一緒じゃないと寝られなくなっちまってな」

 

 当時のことを思い出したのか、彼にとっては笑い事らしく心底楽しそうな笑みで続ける。

 

「しかも、なんでか人肌を求めてるみたいで服を脱がすんだよ、アイツ」

「なにその迷惑な癖」

「そうだろ。何度姉さんが面白いことになったか。そのくせして男には絶対抱き付かないし」

 

 近くの家のポストに新聞紙を入れつつ、頷くアスカの横で典型的な優等生という感じがしていた担任補佐の異性に対する傍迷惑な癖に顔を引き攣らせた明日菜だった。

 

「解決策はないの? あるんでしょ、言いなさい」

「あるにはあるが完全に力技だぞ。っていうかその様子からしてかなり悲惨な被害にあったか」

「いいから言いなさい」

 

 へいへい、と明日菜に迫られながらも受け取った新聞紙を手近な家のポストに入れるアスカは魔法学校時代のことを思い出す。

 

「一番良いのはネギが寝たら布団ごと縛ることだ。ネカネ姉さんは何時もそうしてた」 

「でも、昨日は様子から見て、あいつってバイトがあるから早く寝る私より遅く起きてたのよね。ガキの癖に。そういうアンタは早いわよね。ご飯食べたら直ぐに寝っちゃたし」

「ネギは夜型だからな。俺は腹が一杯になったら眠くなんだよ。しゃあねえじゃん」

 

 仏頂面になったアスカは早寝早起きがガキっぽいと感じているでようで、そのことを気にしているようだった。

 

「縛るのが無理なら後は物理的に遠い部屋で寝ることだな。でも、寝ぼけて後を追いかけることもあるから注意が必要だぞ」

「あそこは私の部屋だし、無理なことに変わりないじゃない。はぁ、木乃香にでも頼もうかしら」

 

 ふと気が付けば明日菜の手持ちの新聞はすっからかんになっていた。喋りながら配っている間に全部配り終えたのだ。何時もよりかなり早い。空模様を見ればまだ太陽は上がっていない。空の彼方に端っこぐらいは見えるが、まだ朝と呼ばれる時間にはまだまだ時間がかかりそうだった。

 

「そっちは終わったんなら次はこっちか。もうちょいスピード上げね?」

「へぇ、言うじゃない。いいわ、やってやろうじゃない」

 

 負けず嫌いの気がある明日菜はアスカの挑発に簡単に乗った。

 

「じゃ、行くぞ」

「あ、ずるいっ」

 

 先にスピードを上げたアスカに追いつかんと明日菜も遅れながら足を速めた。

 

「ははは、追いついてみろよ」

 

 ぐんぐんとスピードを上げていくアスカに負けてやるものかと明日菜も足の回転を上げていったのだった。

 

 

 

 

 

 猛スピードで競争しながら新聞を配っていく少年少女を巡回中の警官が目撃してから十数分後。張り切り過ぎてフラフラの明日菜が部屋の玄関を開けて転がり込んだ。

 

「うぅ……負けた。十歳の子供に体力で負けたぁ」

「俺、大勝利」

 

 何事かと玄関に慌ててやってきた木乃香とネギの前で、四つん這いになって敗北感に打ちひしがれる明日菜とVサインで勝利をアピールするアスカがいた。

 

「朝っぱらかなにやってるの二人とも」

「元気やなぁ」

 

 太陽がようやくしっかりと顔を出した時間帯なのに全力運動をしてきた二人に突っ込みを入れたネギは決して悪くない。感心している木乃香がおかしいのだと、ネギは自分の常識を守ろうと心に決めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ふがっ」

 

 布団の中で微睡んでいたアンナ・ユーリエウナ・ココロウァは、乙女としてはどうかと思う声を上げて目を覚ました。

 変な声が出てしまった口を咄嗟に抑え、見慣れていない天井を気恥ずかしさから睨み付ける。木目が人の顔を作ったりする魔法学校の寮とは違う無地の天井に内心で「ここはどこだっけ?」と理解が及ばずに首を捻って、誰も先の変な声を聞いていないことを願って体を起こした。

 アーニャの願いは何時だって叶わない。

 体を起こした視線の先に、床に敷いたアーニャの布団の足下辺りを今まさに通り抜けようとしていた制服姿の桜咲刹那がいた。

 

「刹那、なにやってのよ」

 

 刹那がこちらに顔を背けていることに不審を感じて問うた。

 問いを放った瞬間に顔を精一杯背けている刹那が肩を一瞬震わせたのを見逃さなかったアーニャは、先程自分が放った変な声を聴いたのだと察した。

 

「聞いたわね、アンタ」

「…………いえ、聞いていません」

 

 同室の龍宮真名がまだ寝ているので二人の声は極小さなものだった。

 問いではなく断定のアーニャに対して、反応が遅れた刹那は否定するも既に時は遅し。

 

「覚悟なさい。乙女の秘密を知った女郎にはきっと報いが下るわ。私が下す、私からの罰がね」

 

 立ち上がり、パジャマを豪快に脱ぎながらアーニャの瞳は怒りに満ちていた。

 

「理不尽です」

 

 はだけられた下着をつけるほどもでない胸に視線を送ってしまった刹那は、自分のことでもないのに逆に羞恥を覚えながらも言い返す。

 

「私が法で私が裁判官よ。愚民は大人しく敬い、ひれ伏しない」

 

 パジャマのズボンも躊躇いなく脱いだアーニャはパンツ一枚になりながら、枕の上に置いておいた愛用のジャージを手に取る。カーテンの向こうが側から太陽の光が室内に零れ落ち、微かな光源に照らされたアーニャの肌が刹那には異様に艶めかしく映った。

 刹那の視線の先で幻想的な光景が繰り広げられている。

 

「いい? 私が正しいと言えばなんだって正しいの。刹那は最も聞いてはならない物を聞いたのだから罰は受けるべきよ」

「そんな」

 

 真っ白なスポーツ用の汗を良く吸うシャツを纏ったアーニャに、一瞬でも幼い少女の裸身に欲情にも近い感情を抱いてしまった自分が信じられなくて話を良く聞いていなかった。話を良く聞いていないので抗弁する声には力が無い。

 

「条件次第では罰を与えないで上げてもいいわよ」

 

 分かっているのか分かっていないのか、蠱惑的に笑ったアーニャはシャツを纏って赤いジャージズボンを履く。

 

「条件、とは?」

 

 最早、刹那はアーニャの言いなりだった。アーニャの言い分は言いがかりに過ぎず、変な声を聞いてしまった罪悪感はあれど普段の刹那なら一顧だにしなかっただろう。良くも悪くもアンナ・ユーリエウナ・ココロウァという少女の空気が刹那を従わせていたのだ。

 

「まずはさっきのことを誰にも言わないこと。そして、私の訓練に付き合って」

 

 最後に上のジャージを羽織ったアーニャは今度は挑戦的に勇ましく笑った。

 

「一人でやるよりも相手がいる方がやりやすいしね」

 

 日本式に布団をしっかりと畳んだアーニャは少し恥ずかしげに顔を逸らしながら早口に言った。

 今までの流れは刹那にそれを頼むものであると分かって、思いを通す為に相手を脅すような真似をする少女の素直じゃない言動の数々がおかしく思えて笑いが込み上げて来た。

 

「アーニャさんって素直じゃないって言われませんか」

「何か言った?」

 

 本音を言うと、目だけは笑っていない物凄くイイ笑顔を向けて来るアーニャに刹那は必死に首を横に振った。

 

「まあ、いいわ。ところで神鳴流って本当にそんな長い刀が必要になるの?」

 

 二人で並んで部屋の入り口に向かって歩き始め出したところで、アーニャは刹那が持つ得物に着目した。刹那の身の丈の半分を超える武器は刀という領域を超えて、武器に関しては門外漢なアーニャにしても振り回しがし難いと感じたからの問いだった。

 

「これは正確には刀ではなく野太刀です。神鳴流は魔物や怨霊を退治する剣の流派。図体のデカイ魔物と戦うことから、これぐらいの得物の大きさが必要だったのです」

 

 靴を履くアーニャに手に持つ野太刀を示しながら、この夕凪を与えられた意味を反芻する。いくら同年代や数世代上にも負けなかった刹那といえど、長から直々に愛刀を譲られるほど実力が無条件で認められたわけではない。与えられたお役目が重要であるからこその信頼の証であり、木乃香を身命に賭して守るという証明なのである。

 

「じゃあ、神鳴流の人はみんなその野太刀ってやつを使ってるんだ」

「神鳴流は武器を選ばず。体術も豊富にあり、野太刀でなくても敗北はありえません」

 

 む、とアーニャの言葉に若干の侮りを感じ取った刹那はムキになって反論する。

 

「勘違いしているみたいだけど違うわよ。ネギ達のお父さんと同じ団体にいた近衛詠春が二十年前のビデオメモリーで同じ武器を使っていたから気になっただけよ」

 

 決してアーニャは神鳴流や刹那を侮ったわけではなく、純粋な疑問といった個人的な感情故である。

 同じく靴を履いていた刹那は、柔らかい否定に自身の勘違いに気づいて顔を紅くするよりも先に気になる単語があった。

 

「ビデオメモリーとは? そもそもネギ先生達のお父様と長が同じ団体にいたというのも初耳なのですが」

「刹那って情報に疎いのね。それともこっちじゃそんなに有名じゃないのかしら」

 

 首を捻ったアーニャは別段気にすることでもないと気持ちを切り替えた。

 

「魔法世界のことは知ってるわね。魔法世界で起こった二十年前での戦争の時に一緒の団体にいたみたいよ。ビデオメモリーは戦後に発売されたドキュメンタリー映像」

 

 見たい、と刹那は真剣に思った。現在は現役最強の座を刹那の師であり神鳴流の歴史の中でも一、二を争うほど強いと謳われている青山鶴子に譲ったが、当時は旧姓青山詠春こそが当代最強であったと言われている。

 刹那が知っている近衛詠春は、命の恩人であり木乃香の父である。知り合った時には関西呪術協会の長に就任して現場には出なくなっていたので、鍛錬する姿なら見たことがあっても実戦で剣を振っている姿は一度も見たことが無い。

 先達が戦っている姿はそれだけ刺激になり、この上ない参考になる。見たいという欲求は抑えきれないと、欲求が顔に出たのかアーニャが自身の顔の前で手を振る。

 

「残念だけどこっちに持って来てないから見れないわよ」

「なんで持って来てないんですか!」

 

 期待を裏切られた刹那は小声で詰問するという器用なことをしていた。ドアノブに手をかけたアーニャは悪びれもせずに肩を竦めた。アーニャには責められる謂れはなかったからだ。

 

「しょうがないじゃない。ネギとアスカは持って来たがったけど、あのビデオメモリーを見るには魔法具である映写機が必要で、こっちにその設備があるとは思えなかったんだから仕方ないじゃない」

「映写機ごと持ってくるとか、やりようはいくらでもあったでしょ」

「どんだけ嵩張ると思ってるのよ。それに映写機は学校の備品なんだから持ち出せなかったのよ」

 

 刹那の言い分は映画を見る為に映画館から映写機を持って来いと言っているようなものだ。見たい。とてつもなく見たいが自分が理不尽なことを言っていると分かってしまったので、如何な刹那も大いに納得のいかないものがあったが納得せざるをえなかった。

 残念だと肩をガックリと落とした刹那に苦笑したアーニャが握っていたドアノブを回して押す。

 開いたドアから光が零れる。天窓がガラス戸なので朝日に照らされて明るい廊下を光に慣れていない目を細めて足を踏み出した。

 

「学園長に映写機があるか聞いてみるからそんなに肩を落とさないの。あれば一ヶ月後にお姉ちゃんが来る時にビデオメモリーを持って来てくれるように頼んであげるから」

「本当ですかっ!」

 

 餌を与えられた犬の如く顔を喜色満面にした刹那はアーニャの後を追って廊下へと出て行く。

 ゆっくりと締められていくドア。

 パタン、と小さな音を立てて締められたドアの内側で、刹那が上段を使っている二段ベットの下段で布団に包まっていた龍宮真名は目を開けた。

 本人達は静かにしているつもりでも寝ている人間を十分に起こすだけの会話をしていれば真名が起きるのも当然。だが、実は今回はあまりそのことは関係ない。

 学生という傍らで副業として傭兵をやっている真名の眠りは、慣れない人間が近くにいると警戒心が先に立って深くない。物音を立てれば直ぐに起きてしまう。一種の職業病みたいなものだ。

 刹那が起き出した頃から目が覚めていた真名は、寝たふりをして二人の会話を聞いていた。

 

「年下に言いように振り回され過ぎだぞ、刹那」

 

 最初から最後まで手綱を握られていた級友の情けなさに苦笑を浮かべながら、本来の起きる時間までまだ暫くあることもあって二度寝を敢行する真名だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 左手にチョークと右手に教科書を持ったネギが英文を読みながら教壇を生徒達から見て左から右へと歩いていく。

 

「~~~、~~~~~~~~、~~~~~、~~~~~~~~~」

 

 スラスラと本文を読むネギに生徒達は学力の高さに感心していた。よく考えれば母国語なのだから上手くて当然なのだが、立場があるといっても見た目は彼女らよりも年下なのだ。感心の一つや二つはする。

 

「何書いてんのアーニャちゃん?」

 

 窓際にいるアーニャも同じように教科書を持っているが、それは空席の机の上に置かれていた。名前はあるのに人物を誰も見たことがない出席番号1番相坂さよの席の前で椅子に座って、机に置かれた教科書を時折見つつ手元の手帳に何かを書き込んでいた。

 アーニャが教科書を置いている机を使っている朝倉和美などは、手帳に何を書きこんでいるのかが気になって仕方がなかった。

 

「黙って授業を受けなさい。後、私は先生。次、ちゃん付けしたらアンタにだけ課題出すわよ」

「分かった。分かったから勘弁して」

 

 と、ネギが廊下側に行った時を見計らってアーニャに小声で声をかけるも、けんもほろほろに追い払われた和美は空席の相坂さよの後ろの席である村上夏美の方を窺う。

 視線を向けた夏美も首を横に振った。和美と同じく位置的にアーニャの手元は見えないようだった。

 

(駄目かぁ)

 

 気になる。分からないとなったらどうしても気になって仕方がなかった。報道部に所属して「麻帆良のパパラッチ」なんて自称するぐらいに、和美は人が隠し事をすると知りたくなる性分である。その秘密が他人に明かしてはならない類いの物であるなら胸の裡に秘めることはするが、解き明かさないという選択肢は和美の中ではない。

 どうやってでも覗き見てやると密かに考えを練っていた和美に、数メートルも離れていないアーニャが気づかぬはずがない。ギラギラとした目をアーニャに向けすぎであった。そんな目で見られれば赤ん坊でも気づく。

 

《和美が授業を聞いていないわ。懲らしめてあげなさい》

 

 念話なんて便利なものがあるので周りに気づかれずにネギを呼び、和美が授業に集中していないことを教える。

 

「では、次を朝倉さん読んで下さい」

「えっ……あ、はい。え~と」

 

 意識の埒外にあったネギから英文の翻訳を指名された和美は慌てて立ち上がりながら教科書を持つが、授業を聞いていなかったのでどこを読めばいいのか分からない。

 和美の成績は七百人以上いる中で百位以内の二桁の位置にいる。多少、授業を聞いていなかったところで成績に影響はないにしても今現在の苦境は打破してくれない。まさか正直に授業を聞いていなかったなんて言えない。だが、分からないのに何時までももたついていることも不自然だ。

 クラスの全員が和美の頭の良さを知っている。このレベルで躓くなんてことはありえないことは知っているので、誰かがそのことを突っ込めば忽ち和美の立場は悪くなる。

 どうするどうする、と背中に冷や汗を掻いて内心で混乱していた和美を助けてくれたのは意外な人物だった。

 

「75ページの下から2行」

 

 和美を見ることなくポツリとアーニャが呟いた。まるで独り言のようだが頭が良い和美は直ぐにそれがネギが読むように言った箇所であると当たりをつけた。読む場所さえ分かれば後は問題はない。和美の学力なら教科書レベルの英文を訳すぐらいなら出来る。

 

「私の庭にゴミを捨てたのはあなたかしらジョージ? 違う、ミランダ。これはゴミじゃない、俺が君に宛てたラブレターだ。どうして君は俺の気持ちを理解しようとしてくれない? 当然じゃない。私は貴方のような下級の人間じゃないわ。私に人間として認めてもらいたいならそれなりの立場になりなさい」

「はい、ありがとうございます。座って貰って構いません」

 

 ゆっくりと翻訳しながら読み切った和美は、笑顔のネギに何故かプレッシャーを感じながら席に座った。

 

「この章ではスラム街の人間であるジョージが高音の花であるミランダに恋をし、彼女に認められる男になろうと決意するお話でした。それでは皆さん、次はテキスト76ページを開いてください。次の章である苦難編に入ります」

 

 息を吐いて肩の荷を下ろした和美の周りでは教科書を捲る音が続いた。

 パラパラとページを開く音が教室に満ちる。和美も遅れじと次のページへと教科書を捲った。ネギは全体を見渡して全員が開き終ったのを確認し、再び英文を歩きながら読む。

 

「~~~~~~~~~~~、~~~~~、~~~~、~~~~~~~~~.」

 

 初日はプリントだけで主導する授業はしなかったので、今日が実質のネギの初授業だった。

 大半の生徒がネギとアーニャががどんな授業をするのかという、そういった好奇の視線を向けていたが時間の経過と共にそんな余裕もなくなりつつあった。

 

「それでは長瀬楓さん。この章の序盤で面接官にスラム街の出身であることを指摘され、本当に働けるのかと揶揄されたジョージの気持ちになったつもりで答えて下さい」

「ござっ!?」

「勿論、英文でお願いします」

 

 ネギはスパルタであった。分かろうが分からなかろうが問答無用で指名してくる。頭の良い悪いも関係なく満遍なくである。

 教科書の内容を一辺通りにやるのではない。生徒に授業を聞かせるだけではなく考えることもさせるやり方だった。

 指名された楓の学力はお世辞を言っても高い物ではない。それどころかクラス内でも格段に悪い部類に入る。そんな彼女に教科書内の話の中で登場人物の心情を英語に直して話せとは無理がある。

 答えに窮した楓に助け舟を出したのはまたアーニャだった。

 

「楓、ジョージの目的はなに? 日本語で構わないから答えて」

 

 立ち上がったアーニャが長身の楓を下から見上げるように見つめる、

 

「ミランダに認められる男になる、でござろう」

 

 テストの点数が悪くても楓は頭の回転が遅いわけではない。先の話から頭の中で状況を整理し、纏めて推測するだけの能力は十分に持っている。

 

「ええ、そうよ。この場合はそのまま答えればいいの。単語が分からなければネギに聞きなさい。後は単語を並べて文章にすればいいわ。質問に答えないほどネギも鬼じゃないから」

 

 言いたいことを言い切ってアーニャは座った。

 楓は少し悩んだ様子だったが、やがて分からない単語をポツリポツリと聞いていく。ネギはそれに答える。

 最後にはちゃんとした文章にして言い切り、疲れたように席に座った。

 

「面接官に認められ、これでジョージも仕事を得ることが出来ました。ですが、ジョージが大変なのはこれからです。部下をいびる上司の下に配属され、同僚は周りの足を引っ張ることしか考えていない。向上心豊かで環境に恵まれた他の同期達を押し退けて上に上がる為には進み続けるしかありません」

 

 そこで一度言葉を止めたネギは、息を吸い込んだ。

 

「ミランダに認められたい一心で仕事をこなしたジョージに遂に大口の仕事が舞い込んできました。ですが、直属の上司と同僚は敵ばかり。失敗すれば即クビが宣告され、元のスラム街に戻らざるをえなくなるジョージが取った乾坤一擲の作戦が次に記されています。さて、次は誰に訳してもらいましょうか」

 

 クラス全体を見渡したネギと視線を合わせられるのは極少数だった。

 成績が良く、英語の訳も分かる成績上位者の超やあやか等はネギに視線を向けられても、答えられる自信があるので視線を外さない。反対に自身の学力に自信の無い者や、ネギが言った英語を訳す事ができない生徒はネギが視線を向けると、顔ごと視線を外して目を合わせようとしない。

 全体的に後者の視線を外す生徒が多いのが、如実にクラスの学力を表していた。まさか視線を合わせた生徒と外した生徒のリストをアーニャが手帳に書き込んでいるとは思いもしまい。

 

《誰に当てようか?》

《絶対に視線を合わせないようにしてるまき絵か、私には無理ですってアピールしてる古菲ってのも面白いわね》

 

 ネギから視線を逸らす生徒の中で、特に度合いが酷い二人。

 斜め下を向いて絶対にネギと目を合わせないようにしているまき絵と、クルクルと手の中でペンを回して必死に当てられないようにしている古菲にアーニャの視線が止まったようだった。

 

《二人に一回当ててるから、不公平感を失くすためにまだ当ててない人がいいと思う》

《となると、教科書をガン見してる夕映か、当てられたら絶対に答えられないって顔をしている刹那か》

 

 授業時間はもう半分以上経過している。先の調子で既にクラスの半数を当てているので指名できる人員は限られる。

 

《その前に当てる人がいるでしょ》

《アスカの奇行に巻き込まれてたみたいだから少しは見逃してあげたいんだけど》

《不公平感を失くすんでしょ。個人的な感情で判断しない》

 

 う~ん、とクラスの真ん中より少し後ろで机に伏せている少女を見遣ったネギは、迷いを捨てきれていなかったようだったがアーニャの指摘に心を決めたようだった。

 

「次は明日菜さんにお願いします。明日菜さん?」

 

 呼びかけても反応があらず、明日菜が寝ていることに今気づいたかのように演技しながらネギは机の間を通って席へと向かう。

 

「明日菜さん、明日菜さん起きて下さい」

 

 神楽坂明日菜は教科書を立てて壁にしながら爆睡していた。ネギが近くで呼びかけても起きず、朝から運動をして疲れていることを知っている木乃香が隣で苦笑している。

 強めに肩を揺らすと、瞼が痙攣してゆっくりと開いていく。左右で色違いの瞳は見ていて美しいと素直にネギは思う。父譲りらしい茶系の瞳の色をしているネギは、良く晴れた空の色のような瞳をしているアスカの目を見るのが好きだった。明日菜の目はアスカに負けず劣らず見ていて飽きない。

 

「なぁにぃよぉ…………眠いんだからぁもう少し寝かせてぇ」

「授業中なんですから、そういうわけにはいきません」

 

 魔法学校でアスカに体力勝負で張り合った者達と同じ末路を晒している明日菜に同情の気持ちはあれど、何時までも特別扱いは出来ない。起きたようで起きていない明日菜の肩を強く揺さぶり、意地でも寝ようとするのを止める。

 寝起きの虎ほど危険な物はない。熟睡していたところを邪魔された明日菜はネギの手を払い、また元の姿勢に戻る。

 

「明日菜ってば、よほど眠いみたいね。バイトでそんなに疲れたの?」

 

 通路を挟んで隣の席に座る美沙が半ば意固地になっているようにも見える明日菜に呆れた視線を向ける。

 

「バイトでアスカ君と勝負して体力負けしたみたいやねん。ヘトヘトで帰って来て、それからずっとこんな調子でな」

 

 困ったわぁ、と頬に手を当てた木乃香の発言に何人かが廊下側最後尾の席にいるアスカを見た。

 アスカは背筋を真っ直ぐに伸ばして支給されたばかりの教科書を両手に持っていた。その目は真っ直ぐに教科書を見ている。もしも授業姿勢を評価するとしたら満点を与えられるほど見事な態度であった。

 この事態にも動じず、一心不乱に教科書を見つめているアスカに大半が天は二物を与えないのだと思ったが幼馴染の二人だけは違った。

 

「あのアホは」

 

 立ち上がったアーニャが視線も鋭くアスカを睨み、足音を可能な限り決して教室の後ろへと回る。

 アスカの後ろに来たアーニャは持っている教科書を振り上げた。

 

「寝てんじゃないわよボケアスカ!」

「あがっ!?」

 

 振り上げた手を下ろして教科書の角で首の付け根を殴打すると、キチリとした姿勢だった目が飛び出そうな奇妙な声がアスカの口から出た。

 アスカは殴られた首の付け根を両手で押さえ、「ぬぉぉぉ――っ」と痛みに悶える。

 

「痛ってぇな! なにしやがる!」

「無駄に良い姿勢で授業中に堂々と寝るんじゃないわよ! 目を開けて寝るなんて芸が懲りすぎなのよ!」

 

 痛みで若干涙目なアスカは振り返りつつ叫んだが、アーニャの怒りの方が遥かに上だった。叩いた当人の方こそ頭が痛いとばかりに眉間を抑え、アスカを睨み付ける。

 

「ようやく先生たちの気持ちが分かったわ。厄介な生徒を受け持つとこんな気持ちになっていたって」

「当時は面倒事がなくて良いと思ったけど立場が変わると感じることも違うもんだね」

 

 近くにやってきたネギがアーニャの気持ちに強く深く同意して頷く。

 食う・寝る・戦うの三原則で生きているアスカが魔法学校の授業をまとも聞いていられるはずがない。しかし、如何なアスカといえども毎回毎回サボれるわけがない。教師陣によって捕獲され、強制的に授業を受けなければならなかった時もあった。

 そこでアスカは如何に時間を有意義に使えるかを考えた。まともに授業を受ける気がないところがアスカらしい。

 最初に閃いたのが寝ることだったが、それも直ぐに頓挫する。机の上に被さっていれば寝ていることは丸分かり。

 アスカは考えた。無駄に熱を入れて考えた。

 如何に教師の目を欺いて寝るかを主眼に置いて、もっと別のことに頭を費やせと言いたくなる思考の末に導き出した答えが、この無駄に良い姿勢で目を開けながら寝ることであった。

 話しかければ起き、悪意(起こす気)を持って近づいても起きる。もはや芸の領域の技術を手に入れたアスカに気づかれずに近づけるのはネギとアーニャのみ。一体、どれだけの教師が授業中に堂々と寝るアスカに煮え湯を飲まされてきたか。アーニャ達は自分達が教師の立場になって始めて彼らの気持ちを理解できたのである。

 

「いいこと? 私達の授業で寝ることは許さないから覚悟しておきなさい」

「ぐっ、分かった」

 

 鼻先に指を突きつけられたアスカには否と言える権利は与えられてはいない。アスカは苦渋を呑み込んで頷くしかなかった。

 頷きを得たアーニャは勝ち誇った顔で悠然と席を離れる。だが、流石のアーニャもこの後にアスカの「授業聞いた振り」が様々なバリエーションを生み出して悪戦苦闘されることになるとは、まだこの時は欠片も予想していなかった。

 

「明日菜の代わりにアンタが答えなさい。テキストは76ページ。ジョージが取った乾坤一擲の作戦とは何?」

「そんなの決まってるじゃないか」

 

 教科書を見ることなく、何故かアスかは腕を組んでふんぞり返りながら自信満々だった。

 

「全員と戦って敵をけちらした、だ」

「この脳内お天気バトルマニアが!」

「がふっ!?」

 

 話を聞いていないので分かるはずがないと予想していたネギの想像通りの答えが返され、思わず手に持っていたチョークを投げつけた。チョークにはネギの激情を示すように風の精霊が纏わりつき、完全に油断していたアスカの額に直撃した。

 直撃したチョークが粉々に砕けるほどの威力に流石のアスカも堪えたようで、打った額を両手で押さえながら机に伏せた。

 

「はん」

 

 無様な姿を曝すアスカを横で鼻で笑ったのはエヴァンジェリン。

 

「それに明日菜も」

 

 紳士たれと自身を戒めているネギでは元より女性に強く出られないことを知っているアーニャは、この騒ぎにもまだ寝ている明日菜の席まで来て耳元に口を近づけた。明日菜を揺り動かす言葉を既にアーニャは知っている。

 

「起きないと高畑先生にアンタが子供っぽいクマパンを履いていることをバラすわよ」

「な……っ!?」

 

 囁かれた言葉は睡眠を続けて鈍っていた明日菜の脳を一瞬で覚醒させた。椅子を蹴倒す勢いで立ち上がった明日菜は脳は覚醒しても思考が付いていっていないので、状況を呑み込むまでに時間を要した。

 

「ア、アアアアーニャちゃん一体何を言っているのでございますでありますですわよ!?」

「言語が崩壊してるで、明日菜」

 

 状況を呑み込んでも明日菜の脳は回っていなかったようだった。普段はぽややんとしていながらも関西出身だからツッコムところは突っ込む木乃香が明日菜の状態を的確に表現している。

 

「同じことだけど、もう一度言うわ。授業中に寝てんじゃないわよ。また寝たら今言ったことを実行に移すからね」

 

 正論であった。正論であるが故に明日菜は反論できない。直後、丸伸びしたチャイムが鳴り響いて、ネギは続けようとした授業をここで一端止めることにした。

 

「今日はここまでとします。ジョージの作戦については次の授業までの宿題とします。誰かに当てますのでしっかりと予習しておいて下さい」

 

 教壇に戻ったネギは教科書とクラス名簿をトントンと整えて言い切る。

 クラスのなんともいえない空気を感じ取りながら、去る前に言わねばならないことがあった。

 

「今日の放課後は以前から行っていた居残り授業を僕達が引き継いで行います。今から言う人は参加するように」

「神楽坂明日菜、佐々木まき絵――――」

 

 アーニャに名前を言われて居残り授業への参加を強制された者達の悲哀の声が木霊した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 時は放課後。部活に向かう者や友達と遊びに向かう者が散乱する中で教室に残っている者達がいた。

 

「十点満点の小テストです。八点以上取れるまで帰れませんから頑張って下さい」

 

 教壇に立つネギから見て中央の列を開け、廊下側にバカレンジャーと呼ばれる神楽坂明日菜、佐々木まき絵、長瀬楓、綾瀬夕映、古菲が座っている。反対に窓側には桜咲刹那、エヴァンジェリン・A・K・マクダウェル、アスカ・スプリングフィールド、絡繰茶々丸、ザジ・レイニーデイが二人ずつ座っていた。

 

「なんで私が居残り授業などに参加せねばならん」

 

 バカグリーンと表札が置かれた机の上でふんぞり返っていたエヴァンジェリン・A・K・マクダウェルは、不名誉な渾名に顔を紅潮させていた。隣に座る異国の少女の正体を知っている桜咲刹那としては気が気ではなかったが、気持ちとしてはエヴァンジェリンと同じだった。

 

「成績が悪いからよ。このバカレンジャー予備軍共」

 

 クラス内での蔑称でもあり、ある意味で愛称でもある渾名を付けられた刹那は、バカホワイトと書かれた表札を手に取って肩を落とした。

 バカレンジャーの面々の前にはそれぞれレッド・ピンク・ブラック・ブルー・イエローの表札が置かれており、アーニャによってバカレンジャー予備軍と言われた面々の前にも、エヴァンジェリンと刹那の所為の前にグリーンとホワイトの表札が置かれているように、アスカの前にはゴールド、ザジの前にはパープル、茶々丸の前にはグレーが置かれていた。

 

「そのへんてこな渾名をつけるな。私は成績が悪いのではない。やる気がないだけだ」

「一番性質が悪いわよ。言われたくなかったら結果を出しなさいバカグリーン」

「ぬぅっ」

 

 言い返していたエヴァンジェリンが口詰まった。十五年も中学校生活を繰り返してきて授業など聞き飽きていたので頻繁にサボっていたが、十五年もあれば授業内容はガラリと変わる。授業内容は時の経過と共に多少なりとも変わり、何年も頻繁にサボってやる気など欠片もなかったエヴァンジェリンの頭の中から色々と抜け落ちていた。

 エヴァンジェリンは憎たらしいアーニャから視線を手元に落した。居残り授業の課題である小テストは依然として空欄を埋め切れていない。

 

「あの、私達はどうして予備軍扱いなのでしょうか?」

 

 友達を待っているハルナ・のどか・木乃香の中で特に木乃香の視線を気にしながら、おずおずと刹那は手を上げた。

 

「簡単よ。バカレンジャーに近い五人、もしくはバカレンジャーになってもおかしくない人だからよ」

 

 アーニャに指摘されて刹那は残されたメンバーを改めてみる。そして納得してしまった。

 メンバーを見てみれば内実にも納得がいってしまう。バカレンジャー予備軍扱いされて気にしているのはエヴァンジェリンと刹那のみだけで、ザジと茶々丸は黙々と小テストを行っていた。

 

「出来ました」

 

 真っ先に小テストを終わらせたのは茶々丸だった。

 

「えっ、もうですか!?」

 

 始まったのはつい先ほど。全問を埋めるにしても即答しなければ不可能な速さだった。渡された小テストを教壇で採点したネギは更に驚く結果となった。

 

「満点、合格です。最初だから基礎問題にしましたけど、これでどうしてテストの成績が悪いんですか?」

「文章から作者の心情を把握するような問題は苦手ですが、このレベルのテストならば問題ありません。普段のテストではマスターに合わせていましたので」

「なにっ!?」

 

 従者の鏡とも言える茶々丸であったが、まさか自身に合わせる為にテストの成績が振るわなかったことを初めて知ったエヴァンジェリンは仰天した。名高い真祖の吸血鬼の面目が、まさか己が従者に潰されるとは思っていなかったエヴァンジェリンにクリティカルヒットしたようである。

 せめて二番は譲ってなるものかと一念発起したエヴァンジェリンは薄れた記憶の知識を必死に掘り返し、ペンを持っていないもう片方の手で髪の毛を掻き毟りながら小テストに向き合う。

 全員が小テストに集中したのを確認したネギは、ホッと一息をついた。

 

「あの、ネギ先生…………」

「え……あ、はいっ!」

 

 気を抜いていた時なので、第三者に話しかけられたので思わず大きな声が出てしまった。

 ネギが呼ばれた声の方を向くと、三人の女の子が立っていた。

 

「スミマセン。ネギ先生、朝の授業について質問が」

 

 一人は居候させてもらっている部屋の住人である近衛木乃香。もう一人が昨日魔法で助けた少女――――宮崎のどかであることにも気が付いた。 何か言おうとしていた様子ののどかの横から、三人の中で残った一人である最も体格が良い早乙女ハルナがネギに声を掛けてきた。

 

「はいはい、いいですよ。えと……14番早乙女ハルナさん」

「あ、私じゃなくてこっちの子なんですけど」

「は、はい」

 

 両脇のハルナと木乃香に背を押されて、三人の真ん中にいるのどかがおずおずと一歩前に踏み出した。実は初授業を終えて上手くできたか自信が無かったので他人の評価が気になっていたのだ。そんな自信があるとは言えない授業でも質問をしに来てくれた事がネギには嬉しかった。

 彼女達の質問に答える為、ネギはのどかに視線を集中した。

 

「…………あれ?」

「え?」

 

 質問する為に顔を近づけてきたのどかの髪型を見て、ネギはある変化に気がつく。よく見れば、髪で隠されていたのどかの眼が以前よりもはっきり見えていた。

 

「宮崎さん、髪型変えたんですね。似合ってますよ」

 

 ネギがのどかの髪型の変化に気付いて褒める。ナチュラルに褒めるネギの将来は絶対に女たらしだとアーニャは後方からテストを行っている面々を見ながら思った。

 

「でしょでしょ!? かわいーと思うでしょ!?」

 

 ハルナがテンション高く喋りながら木乃香と二人でのどかの前髪を分けて、隠されていた素顔を披露した。中にあったのどかの可愛らしい顔は驚いて目を見開き、みるみる顔が赤くなっていく。

 

「えっ……あ……」

「この子かわいーのに顔出さないのよねー」

 

 ただでさえ恥ずかしがりやののどかは、ネギという少し意識している異性に隠していた素顔を見られ、顔を真っ赤に染めて走り去ってしまう。

 

「あ!? 宮崎さん」

「あん。ちょっとのどか! ゴメンネ、せんせ!」

「あ……」

 

 そしてハルナも走り去ってしまったのどかを追う為、ネギを置いて行ってしまった。

 ネギにはどうしてのどかが走り去ってしまったのかが解らず、質問をしにやって来た当人が走り去ってしまって途方に暮れるしかなかった。恋や思春期の特有の心の揺れを感じ取れないのは数えで十歳では仕方のないことだろう。

 のどかの行動に驚いたネギは、残った木乃香に理由を聞こうと顔を向けた。

 

「行ってもうたな。気にせんといてな、ネギ君。のどかも恥ずかしがってるだけやから」

「はぁ、質問はいいんでしょうか?」

「また聞きに来るやろうから、ええと思うで」

 

 ニコニコとした木乃香の笑顔の意味を理解できないネギは首を捻った。

 

「出来ましたです」

「あ、はい…………綾瀬夕映さん、九点。合格です。普段からこれぐらい頑張って下さい」

「勉強嫌いです。それでは私はのどかの後を追いますです」

 

 と、採点している時からソワソワしていて落ち着かない様子だった夕映は鞄を持って慌ただしく教室を出て行った。言う通り、のどかの後を追いに行ったのだろう。昨日の歓迎会の時も夕映とのどか、ハルナは一緒に行動していたから仲が良いのだろうと心のメモに記しておく。

 

「別に勉強なんて出来なくてもエスカレーター式で高校までは行けるんだからいいじゃない」

 

 グチグチと言いながらも明日菜は必死に小テストを行っていた。

 アーニャにサボったりすれば高畑にクマパンのことをバラすと脅されてはやるしかないのだった。

 

 

 

 

 

 三番目になったが、めでたく目標得点を取ってエヴァンジェリンが茶々丸を連れて出て行き、ザジが続き、バカレンジャーの殆どもいなくなった教室。

 

「もういいわよ。私は馬鹿なんだから」

 

 回数分の小テストを机の上に広げ、机の上に伏せて盛大に泣き言を漏らしていた。後少しで二桁に上る小テストを繰り返した明日菜は元から対して持っていなかった自信を喪失していた。

 

「……………」

 

 明日菜よりは点数はいいが、英語は本当に苦手らしく努力は実っていなかった。

 同じように小テストを繰り返している刹那はバカホワイトの異名通り、全身を真っ白に煤けさせていた。

 

「なんでアンタまで残ってんの」

「日本の英語の勉強って分かりにくいんだよ」

 

 英語圏の生まれのくせして未だに合格点に届かないアスカだが、こちらはどちらかというと頭や知識よりも別に問題があるようだった。頭の後ろで腕を組んでペンを咥え、欠伸までしている姿にはやる気は欠片も見えない。

 

「ん~」

 

 これ以上ないほどに丁寧にじっくりと教え、いい加減にやりようがなくなったネギが困り果てていると廊下側の窓が開いた。

 

「おーい、調子はどうだいネギ君」

 

 開かれた窓から顔を出したのは担任であるタカミチ・T・高畑であった。

 高畑を見た瞬間、アーニャの脳裏に天恵が降って来た。

 

「ねぇ、アスカ」

「ん?」

 

 アスカに呼びかけると当の本人は机の上に足を乗せていた。行儀の悪さに口の端をひくつかせたアーニャだったが彼女にはとっておきの秘策がある。物凄く他人任せだが。

 

「高畑先生が満点とったら今度戦ってくれるって」

「なにっ!?」

「おいおい、勝手に人を景品にしないでくれ」

 

 実に他人任せな秘策だったが高畑は注意を入れながらも否定はしなかった。

 アスカの目の色が変わった。茫洋としていた目の奥に確かな意思の光が輝き、机に乗せていた足を下ろして咥えていたペンで小テストに取りかかり始めた。アスカの底力というか、欲に対しては忠実で底知れない力を発揮するので、極上のご褒美を用意すれば後は勝手にゴールまで突っ走るだろうことは良く知っている。

 

「バトルマニアはこれでいいとして」

 

 最終手段を使ったことにネギが呆れているのを無視しながら、木乃香に勉強を教えられて身を限界まで縮こませている刹那に意識を移す。

 

「どう見ても木乃香が原因よね。木乃香、ちょっとこっちに来て明日菜の方を手伝って」

「? はいな」

 

 まだ付き合いが一日程度しかないので良く解らないが、刹那は木乃香が近くにいると舞い上がってしまうらしい。となれば刹那に物を教えるのに現状では木乃香は不適格ということになる・

 原因である木乃香は呼べば思いのほか簡単に釣り出されて、刹那が傍で見ていれば分かるほど安心していた。本当にこの二人はなんなのだろうか、と疑問に思いながら木乃香に高畑への伝言を頼む。

 伝言を伝えに行った木乃香の背中を見送り、アーニャは代わりに刹那の下へ向かう。

 

「なぁなぁ、高畑先生。明日菜に言ってほしいことがあるんやけど」

 

 高畑の下へやってきた木乃香は耳元でアーニャからの伝言を伝えた。

 そんなことでいいのか、と聞いてくる高畑に頷きつつ、前の席に座ってアーニャに教わっている刹那に切なげな視線を送る木乃香であった。

 

「明日菜君」

「たっ……た、高畑先生。これはその」

 

 教室内に足を踏み入れて明日菜の席までやってきた高畑は机の上に広げられた小テストの山を見て苦笑を浮かべた。明日菜が英語が出来ないことは良く知っているので今更特別になにかを思うことはないが、それでも自分が担当している教科だけに気にもする。取りあえず今はアーニャから伝えられたらしい木乃香に聞いた伝言を言うために口を開いた。

 

「君が満点を取ってくれると僕はとても嬉しい。頑張ってくれ」

「は、はい!」

 

 甘く囁くように言えというアドバイスを忠実に守ると明日菜のやる気メーターが限界を天元突破した。

 三人が合格点を取るにはそれほど長い時間はかからなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 居残り授業が長引いて駅を降りた時には外はもう真っ暗だった。

 

「もう、真っ暗じゃない」

 

 電車から降りて改札機を通ったアーニャが学校を出た時にはまだ夕焼けが残っていた空が真っ暗になっていることに気づいた。

 

「こっちは星が見えないんですね」

 

 ぽつり、と駅から女子寮に向かっている道中でネギが夜空を見上げて呟いた。その言葉に勉強で疲れながらも明日菜も同じように都市の灯りで星が見えない空を見る。

 

「イギリスは違うの?」

「田舎ですから空気も汚染されていないので満点の星空です。だから、僕達にとっては星が見えない空は本当に不思議です」

「ええなぁ。うちも小さい頃は良く見てたんやけど、最近は見渡す限りの星空ってないわ」

 

 最後まで残ったメンバーは全員が女子寮住まいである。刹那だけは離れようとしたが、アーニャに教師権限で逃げたら課題満載と言い含められてしまっては逃げるに逃げられなかった。理由あって木乃香に近づけないのでこれだけの近距離はかなりマズい。

 この事態を解決したのはアスカだった。

 最後の三人の中で一番初めに満点を取って高畑と戦える権利を手に入れてご満悦のアスカは、刹那にとっては運良く神鳴流のことを聞いて来て、ネギやアーニャが気を利かせたことで集団から少し離れた位置で歩くことが出来た。

 

「アーニャって、ああいう人を動かすことだけは昔から得意だよね」

「人聞きが悪いことを言うわね、ネギ。私ほど純情で可憐でお淑やかな子はいないわ」

「何言ってるのさ。僕達がどれだけ苦労したと思ってるんだよ」

 

 真っ当に勉強させたいネギとしてはアーニャのやり方は邪道も邪道すぎる。ネギなりの理想を持ってはいるがアーニャのやり方も効率という点では正しい。問題はアーニャの、困ると人を動かして解決を図ろうとする悪癖にあった。

 

「二年前の学校対抗戦の時もアーニャの作戦の所為で滅茶苦茶になっちゃうし、卒業試験も参加者を利用した所為で裏の森が焼けて大問題になったじゃないか」

「うっ」

 

 記憶にも新しい騒動の数々を上げたネギの指摘に、傲岸不遜を地で行くようなアーニャであっても罪の意識はあったのか、抗弁しようとせず口を噤んだ。直ぐに気を取り直したように胸を張ったが。

 

「結果的には上手くいってるじゃない。誰もがネギみたいな天才じゃないのよ」

「僕は天才なんかじゃない」

「あら、世界的に見ても難しいと言われる日本語を片手間で三週間でマスターしたのはどこのどなたでしったけ」

 

 あっという間に言い負かされてしまった。ネギではアーニャに口で勝つことは難しい。

 アーニャは教師の勉強の為に地元の学校で見学をさせてもらうなどしながらだったので、日本語を完全に習得したのは渡航ギリギリだったりする。

 

「確かこの近くに郵便ポストがあったわよね」

 

 ネギを言い負かしたアーニャは勝ち誇るも長続きはせず、そわそわとした仕草で鞄を触りながら明日菜に聞いた。

 

「ポストなんてその辺に一杯あるじゃない」

「明日菜、それはちょっと不親切やて。ポストやったらそこの角を曲がった直ぐのとこにあるで」

 

 朝の運動で体が、居残り授業で頭を酷使してフラフラと歩く明日菜が投げやりに答える。適当すぎる明日菜の返答に注意を入れながら、彼女を支えながら歩く木乃香がポストがある場所を説明する。

 ありがとう、と珍しく素直に礼を言ったアーニャは鞄から手紙を二通取り出して足早に去ろうとした。

 

「あ、アーニャちゃん。それってエアメールちゃうん」

「そうだけど、それがどうかしたの?」

「やったらポストは無理やわ。エアメールって郵便局で手続きしないと遅れへんて聞いたことがあるわ」

 

 げ、と郵便局に行かなければならないことに面倒そうに顔を顰めたアーニャは無念そうに手紙を鞄に直した。

 

「お姉ちゃんに?」

「と、ナナリーにね」

 

 ネギは手紙を送る相手に予想がついていたのか驚きはしなかった。

 

「ナナリー?」

「私達の同期よ。ナナリー・ミルケイン。今はハワイで占い師をやっているはず」

「アーニャちゃんはその子と仲ええみたいやな」

 

 そのナナリーの名を呼ぶ時に込められた親愛の情がアーニャが相手をどう思っているかを明日菜と木乃香に雄弁に語っていた。

 

「うちの学校は生徒が少なかったら同性で同い年はナナリーだけだったのよ。そりゃ、仲良くもなるわ」

 

 と、素っ気ない言い方をしていても言葉の端々に喜びがあるのだからアーニャは素直ではないと二人は思った。

 

「青い髪の毛の、何時もアーニャの背中に隠れてた引っ込み思案の子だったけ。僕は、あんまり話をした記憶ないな」

「そういえば、あの子は男が苦手だったからアンタと碌に話をしたことなかったわね」

 

 記憶を掘り返していたネギは首を捻っていたが理由を聞けば納得もする。そういえば、ナナリーと今日ネギに授業のことを質問してきた宮崎のどかは彼女と反応が似ていたと思い出した。

 

「お姉ちゃんが来るまでは住所が分からないってことで手紙を出すのを諦めてたけど、学園長が私達宛ての荷物を一括で受け取って渡してくれるって言ってくれたから早速出そうと思ったのよ」

「仲が良いのは知ってたけど、連絡を取り合うのには早くない?」

「あんなに引っ込み思案な子が客商売みたいな占い師をやってるのよ。上手くやれてるか気になって仕方がないの」

 

 アスカやネギに対しては絞めるところ以外は放任気味なところがあるアーニャが、まるで子供を余所にやった母親のようにナナリーの心配をしていた。お母さんみたいや、と木乃香は思いもしたが口には出さなかった。

 

「食の細い子なのに、ちゃんとご飯を食べてるかしら。もう、なんだって卒業後の課題がハワイで占い師なのよ。最低でもハワイじゃなくて日本にしなさいよ」

 

 心配を始めたら際限なく気になって来るのか、徐々にアーニャは落ち着きを失くしていった。ぶつぶつと呟きながら、決まって既に動き出している事態にまで文句を言い出したアーニャを止められる者はいない。

 

「アーニャ、まるで母親みたいだよ」

「うっさいわねボケネギが!」

 

 木乃香が思ったことを口に出してしまったネギに、まさしく子供の心配をする母親の如き心情だったアーニャは簡単にキレた。余計な言葉を言ったネギに鉄拳制裁を下さんと拳を振り上げた。これは何時ものことなのだが、この時はアーニャの感情は激していた。

 アーニャの得意属性は「火」である。そして彼女には一つだけ欠点があった。

 火の特性は「烈火」という文字の如く感情の変化に作用されることがある。つまり、術者当人の感情に反応して時に意に反して現象が発現しうることがあるのだ。アーニャはこの傾向が人の何倍も大きい。精霊との感応能力が高いのか、それとも単純に魔力の制御が緩いのか。アーニャの渾名である火の玉少女(ファイヤーガール)は、時に感情によって自身が放つ現象を制御しきれない彼女を皮肉った一面もあった。

 

「あ……」

 

 ネギは恒常的に魔法障壁を張っている。肉体派であるアスカに比べて知性派であるネギの体の耐久力は低い。その面を補うために魔法障壁を張っているのだ。

 恒常的に張っているといっても常時障壁を展開し続けたら魔力が持たない。この魔法障壁は悪意による攻撃や術者に危険が迫っていると判断したら自動的に展開されるタイプだった。そしてここでアーニャへと目を移すと、その拳はネギに当たる数センチで不自然に止まっている。それだけならばアーニャが途中で手を止めていると勘違いする。その拳が燃え盛り、ネギが張っている障壁を可視化さえしていなければだ。

 

「……っ!?」

 

 現実を認識したアーニャは一瞬で拳から火を消し、ネギも障壁を解いた。そして必死な形相で二人で辺りを見渡した。

 真っ先に目に入ったのは固まっている明日菜と木乃香。そして後方に少し離れた所で目を剥いている刹那とのほほんとしているアスカ。その他には人の姿は見えず、ネギが探索魔法で周囲に人がいないかを徹底的に探る。

 数秒して、ネギは安心したように杖に縋りつきながら長い溜息を吐いた。

 

「良かったあ。近くには人の反応はない。どうやら誰にも見られずにすんだらしい」

「まさかこんなところで魔法がバレて強制送還なんて洒落にならないものね。この場にいるのが事情を知っている明日菜と関係者の木乃香で良かったわ」

 

 探索魔法の結果にネギは額に浮かんだ冷や汗を拭い、アーニャは安心しながら未だに固まっている明日菜と木乃香たちを見る。

 

「アーニャ、まだ感情で魔法が出ちゃう癖治ってないの?」

「悪かったわよ。魔力の制御はちゃんと出来てるはずなのに、なんか出ちゃうのよ」

 

 ネギに謝ったアーニャは、普段は制御できている炎を薄らと拳に纏わせたり消したりしながら、未だに固まっている明日菜と木乃香を完全に安心しきった目で見る。

 

「明日菜には昨日バレっちゃたっし、木乃香は最初からこちら側だもんね。失敗失敗。こちら側の人間だけと思ってすっかり安心しちゃってたわ」

「あ……あなたたちは!!」

「なに、どうしたの?」

 

 理解していないアーニャに詰め寄った刹那は彼女達の致命的な勘違いに気づいた。

 

「アーニャちゃんの手が燃えてた? ネギ君の前にも薄い壁があったし。今のが魔法?」

 

 信じられない物を見てしまったように目を見開いている木乃香の、魔法らに関わっている人間ならありえない反応に遅まきながらもアーニャやネギも自分達が勘違いしていることに気が付いた。

 

「お嬢様は何もご存じではないんです…………」

「え……、もしかして……………………私、またやっちゃった?」

 

 アスカが見上げた夜空で流れ星が彼方から此方へと落ちて行った。

 




実はアスカの魔法の始動キーを全く考えていませんでした。どうしよう。

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