魔法先生ツインズ+1   作:スターゲイザー

31 / 99
第31話 鈴は鳴らない

 

 対峙するのは、麻帆良生達と魔法使い達。エヴァンジェリンは戦えない夕映達を連れて下がった。彼女に手を出す気はないようだ。何かを話すとしたら仮契約の破棄を言い出したアスカと、現在はまだ従者の明日菜しかいない。

 

「「………………」」

 

 なのに、どちらも口を開かない。沈黙がまるで底意地の悪い妖精のように二人の間に忍び寄り、立ちふさがって、じっと何かが起こるのを待ち構えていた。何か、とても居心地の悪い出来事が。傷つけ合う言葉の飛び交うような出来事が。

 どちらも子供だった。どちらも相手が最初の一撃を加えるのを待ち構えていた。

 

「なんで…………なにも言わないのよ」

 

 最初に口を開いたのは、それでも明日菜の方だった。気がつけば、明日菜はポツリと言葉が口をついていたのだ。

 そこにいるのは、怯えるように、恐れるように、今にも逃げ出したい思いを懸命に捻じ伏せているかのように、どこまでも悲痛な様子で身を竦め立ち尽くすしかない少女。僅かに肩を上下させている明日菜は無心にアスカの瞳を見つめる。

 明日菜の頭はモヤモヤとしたもので一杯だった。アスカが仮契約破棄を言い出してから、ずっとこうだ。どれだけ考えても解決しない。時間が経っても解決しない。まるで答えのない問題を解けと言われたように、何時までも何時までも思考は空転を続けるばかりだった。

 

「必要ないからだ」

「嘘よ! あるでしょ! もっと言うことが」

 

 焦燥と恐怖ばかりが明日菜の胸を満たしていく。表情が歪む。

 

「嘘じゃない。嘘をついて何になるんだ」

「理由を言いなさいよ、理由を! いきなり仮契約を破棄するなんて言われても訳分かんないわよ!!」

「理由は言っただろ。俺達は、俺はこれから戦いの人生を歩む。お前は必要ない。いや、関係ない」

 

 四月にエヴァンジェリンに言われたことが明日菜の頭を過る。

 住む世界が違うのだと言われ、明日菜はその時は何も答られなかった。そして今またその問いを突き付けられている。

 

「どうしてそんなこと言うの? 今まで一緒にやって来れたじゃない」

 

 何故このままでいられないのか、皆で一緒の未来を夢見て、一緒に闘って行けるはずだったのに何故と明日菜は思いよ届けとばかりにアスカを見つめる。

 

「今まで? ああ、助けにはなったさ。だけど、俺にお前はもう必要ない。俺は強くなった」

 

 癇癪を起したように言い募る明日菜を前にしてもアスカは平然として、そのあまりの言いように少女達の顔に怒りが浮かぶ。

 

「何を言うアルか!?」

 

 言いように我慢ならなかった古菲が飛び出した。

 一直線に神速とも言える速度でアスカに向かう。が、遥かに後に動いたアスカの方が更に速い。

 

「遅い」

 

 両者の中間点で深く身を沈めたアスカが、腰を落として下から左手の掌底で古菲の顎を搗ち上げるように打ち抜いた。

 衝撃が脳を貫いた古菲に意識があるかどうか怪しい中、アスカの動きは止まらない。腰を落とした姿勢のまま右手を地につき、顔が上に跳ね上がった古菲の足を刈り取る。

 足払いによって両足を刈り取られ、古菲の体が後方に流れるように宙に浮いて天を仰いで地面に平行になった。そうしている間にも、一息にも満たない間に立ち上がったアスカが宙に浮いた古菲に向かって腕を振り被った腕を勢いよく下ろした。

 

「ぜぁ!」

 

 まるで爆弾でも爆発したかのような爆音と振動が辺りに響き渡る。訪れる惨劇に目を閉じていた少女たちは、爆音と振動が収まった頃にそろそろと目を開ける。そこにあった惨状は少女達が想像したものとは違って凄惨なものではなかった。だが、与えた衝撃という点ではそれを上回っていたかもしれない。

 殴られて潰れたと思われたはずの古菲に目立った外傷もなく、無事である。何故ならアスカの拳は古菲の顔の直ぐ横のアスファルトを打ち砕いていたからだ。打ち砕いていた、という表現は正しく、叩きつけた手はアスファルトの地面を陥没して腕の中程まで埋もれて捲くれ上がり、放射状に罅割れが十メートル近くまで広がっていて彼女たちの足元にまで及んでいる。

 

「う……」

 

 シュウウウウ、と風の音なのか、それともアスカの手が放つ音のなのか定かではないが、耳元から聞こえてくる音に、地面に叩きつけられた衝撃で意識がはっきりした古菲は目を見開いて茫然自失のまま、呻き声とも取れる言葉を発する。

 古菲の記憶は欠損している。だから、気がついた時のはアスカを殴り終えてからだ。その後の展開については何一つ理解できていない。

 

「あぁ……」

 

 分かったのは、理解できたのは、三ヵ月前には互角だったアスカが、自分を遥かに超えた位置に到達しているということだけ。認めなければならない。アスカは強くなったと。古菲ではどうやっても止めることは出来ないのだと。

 

「次はお前か、刹那」

 

 アスカは完全に戦意を消失した古菲から離れ、夕凪を構える刹那を見る。

 

「何故ですか?! 何故こんな……!?」

「それをお前が言うのか、刹那。近くにいたとはいえ、木乃香から離れたお前が」

「でも、こんなやり方じゃなくても!」

「中途半端にはしない。心残りがないように徹底的にしなければ意味がない」

 

 そうなのだ。刹那はアスカの行動に納得してしまっている。その行動原理が大切な人を慮っていると分かるから、自分が同じ行動をしたから、分からないはずがない。

 

「私は、私には…………何が正しいのか分かりません」

 

 きっぱりと離れる方が良いのか、今のような中途半端な関係を続けるのか、刹那には決心がつかない。だから、アスカが向かってきてもただ立っていることしか出来ない。夕凪の切っ先は刹那の動揺を現す様に揺れていた。

 

「優しいな、刹那は」

 

 厳しい表情を浮かべていたアスカがフッと一瞬だけ笑って言った。それが決定打だった。刹那の戦意が折れた。

 

「すみません、明日菜さん」

 

 夕凪の切っ先を下ろす。刹那は、もう戦えない。こんなグラグラと揺れた気持ちのまま戦えるはずがない。

 

「気にしないで、刹那さん」

 

 明日菜は刹那を責めはしなかった。彼女の中には明日菜には分からない葛藤があるのだろうし、やはりこれは自分の問題なのだ。

 足を踏み出す、アスカに向けて。アスカに触りたい。体温を感じ取りたい。ここで別れれば、二度と会うことが出来なくなるようなそんな焦りと不安が身体を動かした。

 

「やらせない…………契約破棄なんてやらせないんだからっ!」

 

 叫びながら、明日菜はアーティファクトを呼び出して構え、アスカの顔を見据えた。

 アスカが黙っているのを良いことに、明日菜は更に畳み掛ける。

 

「私は、アスカに傍にいてほしい」

 

 少年へ上手く伝える言葉が見つからず、明日菜は生のままの気持ちをぶつけていた。

 

「無理だ」

 

 ここが正念場だと更に何かを言おうとした明日菜を封じるように、アスカは言った。即答だった。だけど、アスカは頑なに明日菜と目を合わせようとしない。

 心に負い目を抱いている人は、頑なまでに相手の眼を見て話そうとしない。これは単に印象であるし、根拠があるわけではないが少なくとも大半の人間が罪悪感から相手の眼を見れない。アスカには負い目があった。

 

「無理じゃない!」

 

 明日菜はアスカの顔を見据えた。そこにあるのは厳しい表情の中に隠された僅かな動揺。

 

「それが出来たなら、始めからこんな話をしない。俺達はどうしようもなく住む世界が違う。一緒にはいられないんだ」

 

 気勢に圧倒されていたアスカは萎えそうな膝に力を込め、震える拳を気づかれないようにきつく握って拒絶の膜を張って明日菜を見つめ返した。

 ここで崩れてしまっては全ての苦労が水の泡。痛みも苦しみも無に帰してしまう。背を張り、足を突っ張り、逸らしていた眼を合わせて虚勢を張らなければならない。それは心を覆う脆いガラスの反射でしかなかった。照らされるものがなければ中が透けて見えてしまう。衝撃を加えれば簡単に砕けてしまう…………迷いがある。全てを覆い隠して虚勢を張った。

 

「俺には戦うことしか出来ない」

「そんなことは……」

「違うんだよ。俺達は一緒にいていい関係になれやしない。近くにいるのは間違ってる」

 

 全部を伝え終えるより早く、きっぱりと言って言葉を途中で遮った。硬い顔と声に突き飛ばされ、明日菜は身体がよろめくのを感じた。

 月光が差し込み、地に消しようのない影を作る。その影の中に身を置くアスカと、月光の下で光に曝される明日菜。その光景がひどく象徴的だった。とても近くにあるのに、あったはずなのに、けして交わらない何かを示すような光景だった。

 

「理解してほしい…………とは言わない。許して欲しいとも言わない。恨んでくれても構わない」

 

 どこか寂しそうに、困ったように微苦笑したアスカが囁くように告げる。

 もはや、アスカ・スプリングフィールドのこれより先のことは神楽坂明日菜には関係しないことだと。魔法使いではない、ただ力を手に入れただけの一般人に過ぎない明日菜には踏み込めない領域なのだと。堂々と、あるべき未練も哀しみも振り捨てるように言い放った。

 何か、明日菜は言おうとした。なのに、喉が震えるだけだった。凄まじい喪失感だけが、少女の内側に吹き荒れていた。体中から力が抜けて、ただ虚脱感だけが明日菜を打ちのめした。

 アスカの言ったことは事実だ。そう、終わったのだ。神楽坂明日菜がアスカ・スプリングフィールドと関わる時間は、ここで終わりを迎えたのである。それはどうしようもない事実。

 神楽坂明日菜が裏に踏み込んだのは、アスカを守りたかったから。その為に仮契約をして、刹那に戦う術を学んだ。だけど、どこまでいっても他人でしかないアスカが自ら離れ拒絶されては、日常を捨てでも追いかけるだけの理由が神楽坂明日菜にはない。

 

「忘れてしまえ、俺の事なんて」

 

 アスカは、本人の意志の下とはいえ明日菜を巻き込んでしまった罪悪感を抱いていた。

 

「私は!」

 

 情動に突き動かされて明日菜は大声を出した。だが、その後が続かない。ただ無為に音を連ねるだけの言葉はもどかしいばかりで焦りだけを積み上げていく。もっと多くを伝えたいのに、一緒にいたいと伝えたいだけなのに、自分自身に戸惑い、驚き、恐れに打ち克てない。

 

「いや、いや、こんなのなんて……」

 

 やりきれない想いが嗚咽となって迸り血を吐くような明日菜の求めに、アスカは答えられる言葉を持たなかった。

 ただ、震えている声が泣きそうになっているように思えた。いや、泣いているのかもしれない。女の子を泣かすな、と何時かスタンが言っていたが、それでも揺るがせてはならないことがあった。

 

「もう俺には関わらない方がいい」

 

 縋る眼差しも、そこに映ることを拒否している自分の弱さも受け止めきれず、きっと醜くなっているに違いない顔を俯けたまま、砂を噛む思いで目を伏せる。

 明日菜の目に、アスカは今どう見えているのだろうと思った。腹の底がキリキリと痛んだ。もう演技も出来ない。これ以上、自分を偽れやしない。

 

「明日菜には血生臭い闘争よりも、ごく当たり前の日常の方が似合う。眩い光の下にいる方が似合ってる」

 

 きっと、それはアスカの本心であった。

 彼女は生きる喜びをその全身に輝かせていた。ずっとずっと腕の中に抱いて、どんなことからも守ってやりたかった。

 涙が込み上げる。が、流すものか。ここで泣き、明日菜に答えてはいけない。情に流されれば自分が良くても、残される者に傷を残す。自分のように闇に生きる人間が日向を生きる彼女たちと肩を並べて笑い合ってはいけないのだ。

 決別するためにハマノツルギへと手を伸ばした。

 

「いや!」

 

 明日菜はアスカの手から避けようとハマノツルギを振るった。

 咄嗟の反応だった。ただし、その振るわれた先にアスカの体がなければ。 

 

「あ……!?」

 

 明日菜が気づいても、もう遅い。そしてアスカはハマノツルギを避けなかった。それどころかあらゆる防御を解いたのである。

 

「ぐっ」

 

 振るわれたハマノツルギはアスカの頭部を打ち払った。何の防御をしなかったアスカは殴られた頭部から大量の出血を迸らせる。

 アーティファクトを出せば無意識にアスカから魔力を引き出せるようになっていた明日菜の一撃は、一般人なら十分に昏倒させる威力を持っている。その一撃で強かに打ちすえられたアスカの頭から噴き出した血が、金の髪の毛を瞬く間に紅く染めて地面に赤い雨を降らせる。

 

「わ、私……」

「分かってる。明日菜には人は傷つけられない」

 

 自分の為したことに怯えた明日菜の前で、崩れ落ちそうな体に鞭を打ってアスカは自身の血がついたハマノツルギを取り上げた。

 重しが無くなったように明日菜が膝を付く。

 

「だから、余計にこんな物は、あっちゃけいないんだ」

 

 ハマノツルギを取り上げてカードに戻して、彼女の目の前で破り捨てた。

 既に仮契約破棄の申請は成されているので、後はカードを破ればいいだけだった。破られたカードは、始めからそんな物は存在しない様にアスカの手から消え去る。

 

「これで契約は破棄された。もう明日菜は従者じゃなくなった」

 

 親に置き去りにされた子供のような表情を浮かべる明日菜から顔を背けた。

 

「同時に俺と関わる理由もなくなった。当たり前の日常に、戦いなんて関係ない光の下に帰れ」

 

 ここで気の効いた言葉でも言えればいいのだが、他に言葉がなかった。

 自分はなぜここにいたのだろう。なぜここに来てしまったのだろう。こんな想いをするぐらいなら出会わなければよかった。そんな想いが沸き起こるも、楽しかった日々を思い起こせば消えてなくなる。こんな選択しかできない自分に、泣き出したいような後悔に駆られ、アスカは拳を握り締めて、引き返せない道と再三浮かび上がった言葉を胸中に刻んで身を翻して歩こうとした。

 

「ごめん」

 

 突然、胸の奥からせり上げた感情が、彼の声を詰まらせた。この世界は、もう二度と返らない。振り払ったのは自分で、拒絶したのもまた自分だ。

 言った方も、言われた方も、あまりに情けない言葉。たかが音の連なりでしかないのに、大事な何かを失い、もうそれは取り戻せないのだという喪失感が拡がってゆく。

 

「なんで謝るのよぉ!」

 

 明日菜の発した悲痛な声が、胸から背中まで突き通るようだった。

 この少女が危険な世界に踏み込むことに何故か嫌悪を感じている。それは理屈じゃなく、ごく自然に込み上がってくる感情だった。まだ夢の中にいるように、足元がふわふわと落ち着かない。それでも動かなければと歩き出すと、背中に投げつけられた声があった。

 

「行かないで!」

 

 悲鳴に近い声が上がり、柔らかな感触が腰を包み込んだのはその時だった。

 

「行っちゃ駄目……………。傍にいて」

 

 明日菜が声と同時に飛びつき、必死にしがみついてきた。

 思いも寄らぬ重さに驚き、足が動かなくなるのを自覚したアスカの腰に手を回し、背中に顔を押し付けた明日菜の表情は窺えなかった。

 ふわっと柔らかな体臭が鼻腔を擽り、女の体臭は男と違って不思議と甘いのだな、と場違いな感慨に囚われた。

 時間がまるで止まっている感じられた。掴まれた背中から伝わる温もり、明日菜の鼓動と、自分の鼓動、それだけが生きている証だった。二人きりの、閉ざされた小さな世界。

 息を詰めて明日菜の手に怖れるように触れた。指先で触れたその温かさ。自分にはない女の柔らかな感触に、密着している柔らかな肉体に激しい欲情を感じた。魅力的な肢体を組み敷いて、無茶苦茶にしたいような、今までに感じたことのない強烈な衝動だった。

 今まで感じたことのない別種の罪悪感を噛み締めてから、生身を熱を放つ手をやんわりと引き剥がす。

 

「さよなら。もう二度と会うこともないだろう」

 

 今度こそ、ここまでと線を引く声だった。

 息をする度、わけも分からず涙が滲みそうだった。だからこそ、アスカは動けなくなる前に足を前に進めた。

 明日菜が耐えきれなくなったように声を殺して泣き出した。その涙をアスカには止めらなかった。彼女の心を殴って泣かせたアスカ自身だからだ。

 お互いに長い時間を共有してしまった。その間に行き交った温かいものが、二人を癒着させていたからこそ引き剥がした傷口が血を流す。道を定めようとアスカは超人に成れるわけではない。アスカは、能力が足らないただの若造だ。大人に成れない子供なのだ。

 アスカは胸の重さから逃れるように息を吐いた。常夏に設定されている別荘の中なのに、ひどく冷たい空気が漏れた。

 

「これが…………お前のためなんだ」

 

 息が喉奥に詰まって嗚咽の如く、グッと拳を握り締める。大切な物を守るように、守れるように、その拳にありったけの力を込めて握り込む。感情を抑制できず、力を入れ過ぎて血を滴り落としながらも歩みは止めない。

 痛みが、揺らいでいた自分を叱咤する。

 本当は明日菜の為だなんていうのは嘘であり口から出たのは欺瞞である。本当は失うことに耐えられないだけ。アスカが弱いから突き放すのだから。

 笑って、楽しそうで、同じ空の下で生きているのなら別に隣りにいるのが自分でなくても構わない。全ては、そう――――――明日菜が笑っていられる世界を作るために。どのような手段を用いようと、例え彼女たちに憎まれ怨まれようと。例え彼女達が―――――明日菜が自分に笑いかけなくなったとしても。

 明日菜が笑っていられるならば決して諦めないと誓った。今度こそ奪われないために。生きていてくれるだけでいい。

 同じ道は歩めない。ならば、今必要なのは明日菜と同じ道に進むための努力ではない。目の前の事実を受け入れる強さだ。それでも構わないと、ただ戦い続けることが出来る強さだ。

 

「アスカァァアアアアアアアア――――――ッ!!!!」

 

 これでお別れ。それでいい。自分の名を叫ぶ明日菜の声からアスカは自分の未練を断ち切るように、前方に視線を定める。

 それでも抑えがたい衝動が、嗚咽となって漏れかけて唇を噛み、肩を震わせる。

 しかし、アスカは泣かなかった。いや、違う。自分が泣くのは卑怯で絶対に許されないことだと分かっていたから泣かなかった。だからこそ、拳から地面に血を滴り落としながら、更に噛み過ぎた唇が無惨に血を滲ませても気にしなかった。

 

「さよなら」

 

 自ら捨てた居場所と人を背にして、声を殺して未練を振り捨てるように歩みを進めた。

 足取りは重いし、気分はもっと重い。周りから向けられる視線に込められた様々な感情が、重すぎて堪らない。それでも、一人で歩くアスカは誰にもそれを預けることもできず、元より預けるわけにもいかず、ただ、その荷重を堪えながら歩き続けるしかない。

 最後までアスカは一度も振り返らなかった。この決別こそ必然だったというように、顧みることはなかった――――鈴の音はもう聞こえない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「各々、考えることもあろう。もう少しで別荘に入って丸一日経つ。部屋に帰って一人で考えるのも良かろう」

 

 ただ想い人の生存を知るだけのつもりが随分と重くなってしまったと考えていたエヴァンジェリンの言葉に反対する者はいなかった。

 アスカの決別や、突きつけられた現実があまりにも衝撃的過ぎて考えなければいけないことが多すぎる。部屋の布団の中で一人静かに考えたいと思っている者は多かった。

 重い足取りを引き摺って別荘を出て、エヴァンジェリンのログハウスのドアを開けると外は生憎の大雨。見上げた空から降る雨に和美は物憂げに口を開いた。

 

「雨、強くなってるね」

 

 ここに来る前はまだ雨足も弱かったのだが、別荘に入っている間に本降りに変わったようだ。実際には一時間なのだが、別荘で一日過ごしたせいで、雨が止んでいないことに違和感を覚える。

 空にかかる雨雲は切れ間がなく、満遍なく空を覆っている。その雲から降ってくる雨も絶え間がない。遠間では雷が鳴り響き、もしかしたら嵐が近づいているのかもしれない。まるで彼女たちのこれからを案じているような嫌な天気だった。

 

「…………エヴァちゃんは知っていたの?」

 

 ひっそりと明日菜が聞いてきた。

 暗いなと考え、仕方ないとも思ったエヴァンジェリンは努めて普段通りを装いつつ口を開いた。

 

「信じられんだろうが、知らなかった。何かを企んでいたのは薄々気づいていたがな」

 

 見たくもない物を見せられ、気にしないといけないことに面倒を覚えつつ、言葉を選ぶ自分にエヴァンジェリンは驚いた。あのメンバーでの一ヶ月近くの別荘での修業はエヴァンジェリンも楽しんでいたようだ。

 

「教師の二人は知らんが、あれだけ言ったアスカはもう学校に行く気もないだろう。或いはもう退学届を出しているのかもしれん」

「そう……」

 

 明日菜はそれだけ言って光のない眼で、先に別荘を出て自宅に帰ったらしいアスカがいるスプリングフィールド一家の家を見る。

 

「明日菜……」

 

 傍に木乃香が付いているが、果たして明日菜の目に入っているのか。

 自殺でもしかねない明日菜にエヴァンジェリンは溜息を吐きつつ、面倒臭げに口を開いた。

 

「当たり前のことではあるが、誰だって殴られれば殴り返す。魔法を使って誰かに攻撃を仕掛けたとする―――――――当然、そうなれば相手も黙ってはいない。魔法というのは強力な武器だ。生身の人間が持つ戦闘能力としては、紛れもなく最強のものだ」

 

 エヴァンジェリンは捲くし立てるように言いながら、同時に聞こえているか分からない虚しさも覚えていた。それでも口は止まらなかった。

 

「戦いは汚い、恐ろしいものだ。怪我をしたり、辛い思いをしたりするだけじゃない。戦いの中で、人は憎しみや、後悔や、恐怖や、様々な醜いものに出会う。酷ければ人は実に呆気なく死ぬ。命を危険に晒すというのはな、そうするしか他に仕方がない者だけがやることだ。そうではない奴が首を突っ込むのは、ただのお遊びだ。おふざけだ」

「そんな―――――」

 

 抗弁しかける明日菜を、エヴァンジェリンは一瞥で制止した。

 

「私のような吸血鬼でない限り死ねば終わりだ。一回だけで、やり直しはない。危険なことに関わらないで済むのならば、それでいいのではないか?」

「……………」

 

 明日菜は顔を伏せ、何も答えない。答える言葉を持たないのかもしれない、結論を出してしまうのが嫌なのかもしれない。少なくとも、エヴァンジェリンには関係のないことだ。

 

「これは貴様にも当て嵌まるのだぞ、宮崎のどか」

 

 エヴァンジェリンが視線を向けたのは宮崎のどか。  

 

「ネギのことはこの機会に諦めろ。お前とは根本的に住む世界が違う。どうやっても違う人生を歩むしかないんだよ」

「ちょっと、いきなり何を言うのですか!?」

 

 憐れみすら込めて言うエヴァンジェリンの視線の先にいるのどかの体が震える。彼女が何かを言いかけるよりも先に親友の気持ちを誰よりも知っている夕映が食って掛かった。だが、食って掛かられた張本人は口を開くのを止めない。

 

「事実だ。見ただろう、あの記憶を。ネギが憧れているサウザンドマスターのいる世界は加減も容赦も情けも無い。ただ弱い奴から順番に善も悪も平等に死ぬ、そんな世界だ。アイツらは自ら望んでその世界へと行こうとしている」

 

 エヴァンジェリンはずっと表情を変えない。悪びれる様子もなにもない。のどかの出す結論に興味がないように、本当にさっき言った通りのただの忠告だと示し続けている。

 黙って聞く古菲にはほんの少しだけ理解できるものがあった。戦いにおいて、逃げ道や安全地帯、ましてや紳士のマナーなど存在しない。全く同じ条件をわざわざ揃え、勝敗の確率を五分に調整した上で戦う行為はスポーツでしかない。名門武術家の子として生まれた古菲には理解できる部分があった。

 

「それは貴方達の論理です! 私達は――――」

 

 それだけでは納得出来る訳が無い。そんな生まれや目的で育まれた愛を否定するなど、彼女達の感覚ではあまりにも前時代的過ぎた。

 

「だが、その論理が支配する世界に望んで踏み込んできたのはお前達だ」

 

 エヴァンジェリンは嘲りすら向けず、ただ淡々と告げた。少年少女の目には、淡々と告げるエヴァンジェリンの姿が何倍にも膨れ上がったように感じた。勿論、目の錯覚に過ぎない。現実には体は膨らんでいないし、威圧感を発しているのでもない。ただ少年少女が気圧されているだけだ。

 

「綾瀬夕映の言うように前時代的なところがある魔法世界ならいざしらず、この世界では本来なら魔法に関わる限り自分で危ないことに飛び込まない限りそこまで危険なことはない。魔法を使えても平凡に暮らしている奴は山ほどはいる。だがな、アイツら兄弟はこの例外に属している。何時、六年前のようなことが起きないなんて保証はない」

 

 例外になるのは英雄の息子だから、どうしても兄弟には厄介事が付いて回る。六年前然り、エヴァンジェリン然り、修学旅行然り。

 

「アスカが何度も言っていただろう、生きている世界が違うってな」

 

 他人であるエヴァンジェリンにアスカ達の考えが分かるはずもない。それでも彼女が言うことは状況証拠に過ぎないにしても可能性は高かった。

 

「良く考えろ宮崎のどか。ネギの過去を知って、それでも好きであるのならば私は止めはしないさ。ただ、その道が一般と比べて遥かに困難であることは理解しておけ」 

 

 何も言えないのどかから視線を外し、全員が何も言えないのを確認した。

 

「宮崎のどかだけではない。お前達もこれからどうするか、良く考えて結論を出せ」

 

 裏に関係している刹那だけはエヴァンジェリンの言いように厳しいな、と周りには聞こえない程度の声量で呟いていた。それだけを言い捨てて彼女は、どうしようもない悩みだけを少女達に残して去って行った。

 別荘を出ても何も解決出来ていなく、悩みも晴れていない。懊悩の時はこれからだった。 

 

「「「「「「「……………お邪魔しました」」」」」」」

 

 風雨は勢いを増しており、傘を開いていても寮に戻る頃にはずぶ濡れだろう。元気のない別れの挨拶をした少女達は、雨から逃れるようにして走り去って行った。走り去るのをエヴァンジェリンだけが見つめていた。

 

「ん?」

 

 何かを感じ取ったのかエヴァンジェリンは彼方を見つめるも、気のせいかと思って踵を返してログハウスに帰って行った。

 

 

 

 

 

 エヴァンジェリンの別荘は草木も眠る丑三つ時の真夜中の闇が訪れていた。聞こえるのは寄せては返す波の音だけ。アーニャはテラスの端に座って宙に足を下ろしていた。テラスには真夜中ということもあって他に人間はいない。別荘には彼女以外に人はいないのと夜中だけあってしんと静まりかえっている。

 後ろを振り返れば大理石を中心とした、高級感漂わせる石造りの小さな宮殿。もちろん様式は西洋風である。一個人の持つ別荘の造りにしてはあまりに大がかりで、手が込んでいる。ちょっと見ると王宮のような雰囲気も持っているような気がする。

 アーニャの眼は水平線の彼方へと向けられ、見上げた空には月が蒼く輝き、小波の音だけが届いてきた。それを見下ろせる場所から、ただ海を見ていた。

 顔は窺えない。闇に染まる表情から感情を窺う事は不可能だった。彼女を照らすのは別荘の中でも唯一燦然と光る月だけ。アーニャが思い出すのは、少し前にこの別荘で起きた出来事。

 

「アーニャ」

 

 己を呼ぶ声が掛かる前からアーニャは振り返った。さっきまで辺りには人影一つなく気配も感じ取れなかったが、今のこの別荘に出入りする者は殆どいない。それが出来るのは主である真祖の吸血鬼しかしない。

 

「何よ、こんな夜中に」

「フフ、吸血鬼には今からが活動時間だろう?」

「確かにね」

 

 己が声を掛ける前から振り返ったアーニャに特に反応も示さず、エヴァンジェリンはただ静かに佇んでいた。小さく笑うエヴァンジェリンにアーニャも同じく笑みを浮かべる。

 

「ねぇ、アスカがしたことをどう思う?」

 

 口から零れ落ちた言葉は隣りに座ったエヴァンジェリン向けたものでもなく、ただの自己の想いを吐き出しただけ。

 

「そうだな。納得も出来るし、理解もする。あまり見ていて気持ちの良いものではなかったが」

 

 それを分かった上でエヴァンジェリンは首肯して自らの考えを述べた。

 

「アスカの才能は飛び抜けている。だが、その才能があっては生温いアイツらと共に生きることは出来んだろうな。アスカもまたナギと同じく英雄の素質を持つが故に」

「アンタは才能で生き方を決めた方がいいっての?」

「そこまでは言わん、素質に沿った生業を選ぶというのが、必ずしも幸せなことだとは限らん。才能というのはある一線を超えるとそいつの意志や感情なんぞお構いなしに人生の筋道を決めてしまうからな。これは才能に限ったことではなく、生まれや育ちも含まれる」

 

 或いは吸血鬼にされた自分のようにとは、エヴァンジェリンも口にしなかった。

 

「アスカには戦いの才能が有り、資質が有り、本人もまたそれを望んでいる。何時かはこうなるだろうと思っていたよ。あの二人は始めから見ている世界が違ったのだからな。今までは偶々見ている方向が一致して、神楽坂明日菜の存在をアスカが許容していたからこそ続いていた関係だ。そのアスカが拒絶すれば、こうなることは見えていた」

 

 アーニャは言葉を返さなかった。

 無言の時が続き、寄せては返す小波の音だけが連続する。先に焦れたのはアーニャの方だった。

 

「聞かないの?」

「聞いて欲しいのか?」

 

 アーニャはそれだけを聞いた。が、主語がないにも係わらず、エヴァンジェリンは何が言いたいのかを分かっているのだろう。逆に問い返してきた。

 自分は聞いて欲しいのか、と自問したアーニャは結局、答えが出ずに口を閉じた。

 

「「………………」」

 

 お互いに何も語らずにただ水平線の彼方を眺める。

 

「分かっていたのよ、持っている物が違うって。ずっと前から」

 

 ポツリと、アーニャの口から独白の言葉が零れ落ちた。

 

「魔法学校に入学して一年も経たない内に二人は頭角を現し始めていたわ。あっという間に飛び級して同じ学年になった時、私は恐怖したわ、このままじゃ置いていかれるって」

 

 下ろしていた足を抱え込んで三角座りになっても、その時の感情を思い出した体の震えは収まらない。

 

「死に物狂いで努力したわ。先生に教えを乞うて、先輩に頭を下げて、吸収できるものは貪欲に飲み込んできた。でも、そうすればするほど恐怖は増して行ったわ。それだけやっても、あの二人には勝てないんだもの」

 

 どれだけ知識を詰め込んでも、ネギはアーニャの努力を嘲笑うかのように一歩も二歩も先を歩んでいる。

 どれだけ戦い方を身体に叩き込んでも、アスカの天性の勘の前には全く通用しなかった。

 知識ではネギに勝てず、戦闘でもアスカには及ばない。アーニャは次第に追い詰められていった。

 

「勝てないなら、せめて足手纏いにならないように色んな分野に手を出しもした。その甲斐もあってなんとか食らいつくことが出来ていた」

 

 知でも武で及ばないのなら他の分野で。作戦を練り、方々に伝手を作って柔軟な思考を身に着けようとした。二人とも真っ直ぐに突き進もうとするから、時にブレーキに、時にハンドルとなることで自らの必要性を獲得することに成功した。しかし、残酷な現実は代えられない。

 

「でも、私には二人ほどの才能はない。何時かは置いて行かれる。今がそうよ。私はもう足手纏いになってる」

 

 もはや、戦闘ではアーニャは足手纏いになると修学旅行で実感したことだ。今後も戦闘能力を高めていく二人に対して足を引っ張ることしか出来ないだろう。身に着けた力も所詮は生兵法であり中途半端。

 

「このアーティファクトが出てきた時も助かったと思った。その時点でもう私は自分の限界が見えていたから」

 

 懐から出したのは仮契約カード。そのアーティファクトは『女王の冠』。被った者の能力を主人へと与えるという変わったアーティファクト。この場合の主人とは仮契約をしたネギであり、アーニャの能力と魔法適性と魔力がネギへと貸し与えられる。

 

「ねぇ、私はアスカ達にみたいに強く成れるかしら?」

「…………お前は素質も才能も凡百と変わらん。死ぬほど鍛錬しても一流の魔法使いに成れれば儲けものだろう」

「はっきり言うわね」

「私は嘘が嫌いだ」

 

 エヴァンジェリンの師事をアーニャも一度だけ受けて、その時点で互いに分かってしまった。アーニャの能力はどうやっても壁を超えられないのだと。

 一流かぁ、と少し嬉しそうに笑ったアーニャは全てを分かった上で口を開く。

 

「きっと私はそこまでには到達しないと思う」

「強くなろうとする熱意が欠けるから、か」

「やっぱり分かる?」

「お前はそこまで修行に熱心ではなかったからな。それよりも神聖魔法の復活にこそ情熱を燃やしていた」

 

 アーニャの目的はアスカ達と違って強くなることよりも別にあったから、家族や身近な人にも何時かは誰かが気付くと思っていた。それがまさか魔法学校の歴史の教科書に悪い意味で載っているエヴァンジェリンだとは思いもしなかった。

 人生、何があるか分からないと苦笑したアーニャは大人しく白状することにした。

 

「私の目的は村のみんなの――――パパとママの石化を解くことよ」

 

 我ながら子供っぽい理由なのだ。大っぴらに言うことは出来ない。何しろ故郷が襲撃を受けたのは六年前。その頃のアーニャは四歳だったか五歳の時分。もう両親と過ごした記憶も曖昧だった。それでも抱きしめてくれた温かさを、名前を呼ばれる愛おしさは忘れていない。だが、今は良くても十年後はどうだ、二十年後は。両親の年を超えてしまったらどうなるのか。

 

「あの誓いも私は便乗しただけ。自分で解こうなんてさっぱり考えもしなかった。私はあの二人に縋って生きて来た」

 

 そういう意味では図書館に籠るネギは絶好の相手だった。その頃は学校を卒業したばかりで仕事を覚えなければならなかったネカネや、男子寮の寮長になったばかりのスタンは忙しくてバタバタしていた。アスカは喧嘩ばかりで、ネギは放っておけば自分のことを何もしないからアーニャが面倒を見なければならなかったから都合が良かった。

 アスカが立ち直って、ネギが引っ張られて、アーニャが付いて行って。

 暴走しがちなアスカを引き止め、止まりそうなネギの尻を蹴っ飛ばしていられた魔法学校時代はアーニャにとって幸福の時間だった。

 

「でも、二人には石化を解く以外にも目的があった」

「ナギを見つけることだな」

「そう。その為には強くなる必要があった。英雄とまで呼ばれた人が姿を消さなければならなかったのだもの。強くなることは絶対条件だった。でも」

「お前にはナギを見つける理由も、強くなる理由もないか」

 

 アーニャにとってナギは幼馴染の父親という以上の意味がない。協力する気にはなっても人生を捧げてまで探す情熱は持てない。だからこそ、アーニャは強くなることに死に物狂いになれない。特に石化を解く方法への片道を見つけてしまったから。

 

「少し前に二人に言われたの。これは自分達の問題だって、こっちの事情に付き合わなくていいって」

「ナギが挑んだ世界の闇の闇。そこへ挑もうとしているのならば分からなくもない。他の奴は分かるとしても、お前もとは少し意外だったな」

「だから、自分達の問題なんでしょ」

 

 アーニャだけではなく、スプリングフィールド兄弟は他の誰も自分達の旅に同行させるつもりが無い。それこそ人生を預けるつもりぐらいにならないと受け入れてもくれないことは奇しくも明日菜が証明してしまった。

 

「そう遠くない未来にアスカも私の手を離れて行くだろう。その時、私はどうするのだろうな」

 

 置いて行かれるのは、呪いでこの地を離れられないエヴァンジェリンも同じだ。アスカ達が麻帆良を離れるまでに呪いが解かれる可能性は低い。専門の研究をしていないのでそれは当然なのだが。

 

「そんなに早く?」

「二人とも十年以内に確実に一流の上の高位魔法使いの更に上、超高位魔法使いになれるだろうよ。それだけの素質があり、本人達もまたそれを望んでいる」

 

 単純な潜在魔力量、色んな才能があって飽くなき向上心もある。その二人が超高位魔法使いの師事を受けているのだ。当然といえば当然と言える。

 分かっていたことでも他人に改めて指摘されて心に来るものがあったのか、アーニャは僅かに眉を寄せて視線を海へと戻した。

 

「…………明日菜、どうするんでしょうね」

「どうするかは本人次第だろう」

「ん、聞いてくれてありがとう。少し楽になったわ。ありがとう」

「ふん、私が自分の為にやったことだ。それに話を聞いたのは横でお前が勝手に喋っているのが聞こえただけだ」

 

 アーニャは話したことで心の蟠りを少し解消できて横にいる微笑みながら礼を言うと、頬を少しだけ紅くしながら顔を逸らした。

 

「笑うなっ!」

 

 照れているエヴァンジェリンが面白くて、最初に抱いていたイメージを変えるぐらいに可愛くて、アーニャはクツクツと口の中で含み笑いを漏らす。エヴァンジェリンの返す反応がまた面白くて今度は大きな声で笑い出す。

 

「全く……」

 

 流石のエヴァンジェリンも、落ち込んでいたはずのアーニャの大笑いに怒るよりも先に気勢を削がれてしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 エヴァンジェリンのログハウスから女子寮まで濡れてきた面々は何を話すでもなく、それぞれが思案に耽りながら別れた。一度部屋に戻ったのどかと夕映は濡れた服を着替え、冷えた体を暖めるために着替えを持って大浴場を目指している。

 

「ゆえー……………これからどうするー?」

「そう、ですね。正直、あれを見るとどうしても躊躇してしまいます」

 

 記憶の中で見た二人の父であるナギが圧倒的というのもおこがましい力で悪魔を蹂躙する光景。人が死に村人が石化する悲劇。『ファンタジー』では誤魔化せないほどのリアリティを自分達は実感させられたのだ。

 きっと二人が特別に酷いことがあったのは間違いない。エヴァンジェリンもアスカ達が特別だと言っていた。

 

「ですが」

 

 綾瀬夕映は知識欲が旺盛な人間である。危険だと分かっても、今まで欠片も知らなかった世界を垣間見たことで欲が乾く。

 夕映が抱いていた『ファンタジー』への憧れは現実に起きた事実と、その被害者達の未だ克服されぬ傷の前には砂上の楼閣の如く崩れ去っていた。それでも興味自体は消えず、だからこそ悩んでいた。

 

「それでも知りたいという欲求を抑えきれないのです」

 

 判別できない感情を抱えたままの夕映は歩きながら天井を仰ぎ、片手で目元を覆った。

 今でも記憶で見た恐怖も戸惑いも思い出せる。でも、喉元を過ぎればなんとやら。考える時間があって、一度は強く動いた感情も常に内から膨れ上がる欲求を何時まで押さえておくことが出来るか。

 好奇心の赴くままに人の過去を見て苦しんでいるのは因果応報なのかもしれない。

 

「夕映……」

 

 悲嘆にくれる夕映にのどかはかける言葉を持たない。

 のどかもまた自分もまた絵本の出来事のような世界に憧れを持っていた。映画などとは違う、幸せな情景が崩れ落ちる映像を見たことで彼女の中には魔法が怖いというイメージが根付いている。

 アスカ達を逃がすために石化したスプリングフィールド夫妻、死んだらしい村人達、苦もなく悪魔を蹂躙して鬼神の如き力を見せたナギ。小さな子供達の為に命を賭した者達の行動に、親子の再会と別れに、全てがあまりにも鮮烈過ぎて素直に感動できなかった。

 

「のどかは…………のどかはどうするのですか?」

「え……?」

 

 手を下ろし、顔を自身に向けた夕映の突然の問いが理解できなくて疑問の声を上げる。

 

「ネギ先生は向こうの世界の住人です。今後もきっとあのような危険な世界に身を置き続けるでしょう。いえ、それが当たり前なのです」

 

 そもそも、ネギ達が麻帆良に来たのも魔法学校の卒業課題の一環だと聞いていた。魔法使いの一族として生まれ、父親が英雄と呼ばれる程の子供が普通の世界に生きられるとはとても思えない。例えば六年前の光景も起きる可能性がある。既に起きた時点で次がないとは言い切れないのだから。

 あのアスカの強引な行動は批難されるべきものだが、明日菜の身を守る観点から考えればこれ以上ないほどの選択なのだと今更に思い知る。

 

「のどかの気持ちは知っています。ですが、ネギ先生についていくということは一生を添い遂げるぐらいの覚悟が必要になってくると思うのです。エヴァンジェリンさんはそう言いたかったのだと思うです」

 

 魔法の世界と何の係わりを持っていないのどかでは、着いて行くことは出来ないと感じた。もしかしたら同じようなこと、似たことが起きるかもしれない。そんな恐怖を常に抱えていくにはそれだけの気持ちが必要になる。

 夕映ものどかもネギという接点があるからこそ魔法に関わっていられる。それはつまり、ネギとの接点が切れれば自動的に魔法とも縁が切れることを意味していた。

 

「………………」

 

 一生を添い遂げる=結婚というイメージにのどかが頬を赤らめると、夕映が何が言いたいかを理解して同時に青くする。

 のどかがネギと関わっていくには魔法は切っても切れない関係にある。ネギと関わらないことを決めたのなら自動的に魔法との縁も切れるが、魔法と関わらずにネギとの繋がりを維持することは不可能と言ってもいいのだとようやく気づいた。

 あの時、別荘にいた面子の中で止むを得ない事情で関わらざるしかなかった人たちとは違う。好奇心や興味から覗き込んだ人とも違う。のどかだけは、違う選択肢を求められる。即ち、このままネギの傍にいるか離れるか、魔法と関わるか関わらないかを意味している。ネギを諦める(関わらない)か、(魔法と関わる)かを。

 

「ゆえー……」

 

 言葉に詰まるのどか。

 魔法の世界のことは別にして、間違いなくネギやアスカの周りは危険に溢れている。六年前然り、修学旅行然り。前例がある以上、これからも二人の傍で危険なことが起こり得る可能性は十二分にある。可能性の話でしかないけれど、好き好んで傷つきたくはない。だけど、初めて好きになった男の子のことを他の要因で諦めきれるわけも無く。

 

「私は」

 

 魔法と関わるか否か、ネギと関わり続けるか否か。夕映ものどかも、どちらを取るか選択することなんて今直ぐには出来そうになかった。

 意気消沈したまま大浴場を目指していると、進行方向にある目前のドアが開き、着替えらしい物を入れたハンドバックを持った和美が出てきた。

 

「あれ? 夕映っちと宮崎じゃん。あんたらもお風呂?」

 

 こんな時間に荷物を持って揃って出歩いていることから推測した和美の慧眼は当たっている。同じようにエヴァンジェリンのログハウスから濡れて帰ってきて、濡れた服を着替えて鞄を持っていたら予測することはそう難しいことではない。

 

「朝倉さん、ちょうどいい所に」

 

 二人だけでは答えが出ないところにタイミング良く現われた和美。彼女もまた夕映より魔法のことを知ったのは早いが、似たような立場にいることを聞いてクラスでも大人な考えが出来る少女でもあるので聞いておきたいことがあった。

 

「ん、なに?」

「実は――」

 

 問いかけながらも何を聞かれるのか大体予測はついているのだろう。夕映の良く纏められた話を聞いても驚きを表に出すことはなかった。

 

「――――――――それで、朝倉さんはどう思っているのか聞きたいと」

「ん~、正直ちょっと思うトコはあるよ」

 

 夕映の問いに和美は荷物を持っていない反対の手で頬を掻きながら苦笑いで答える。

 和美は修学旅行の時点で既に忠告は受けていた。着いて行かなかった島で何があったのかを聞いているので安堵している面もある。ネギの記憶もアスカの決意も考えさせることばかりだ。

 

「でも、これが性分かな。今更、関わらないっていうのも難しいのよね。じゃなきゃ、麻帆良のパパラッチなんて呼ばれてないよ」

 

 好奇心が強いのは昔から、それゆえに真実を追い求める性質であり、だからこそ新聞部に所属して欲を満たして来た。今更、引く事も受け入れ難い。何より、自身の好奇心がそれを許すまい。ここで引いたところで何時か我慢の限界が来るのは分かりきっている。

 

「何時、あんなことがあるか分からないんですよ」

 

 夕映の顔に浮かぶのは恐怖。言いながらもまるで自分に言っているように感じながらも、和美は既に自分の答えを見つけてしまっている。

 

「そん時はそん時かな。流石にこれ以上は踏み込もうとは思わないけどね。やっぱり我が身は可愛いし」

 

 頬を掻いていた手を顔の横で振って、重すぎる彼女らの問いにあっけらかんと答える。

 人間生きていれば死ぬこともあるし、まさに早いか遅いかだけの違いだけで、自分が興味の向くままに首を突っ込んだ結果、そういう目にあったとしても、それは言ってしまえば自業自得。しかし、だからといって好き好んで死んだり酷い目に合う気はない。

 情報を集めて危険度を測る。どこの記者もやっている極当たり前のことをするだけ。そのためには魔法と関わっていくことは避けられないが、「当事者」と言う立ち位置は彼女の望む所ではない。二人の記憶で見た六年前の悲劇の犯人が未だに捕まっていないことは想像がついた。英雄である父親の影響も多い。

 

「私はこれ以上、二人には近づかない。既に近づき過ぎかな。一生徒と教師、生徒同士以上の関係にならない」

 

 魔法に関わりつつ、二人の傍にはこれ以上は近寄らない。出来るなら皆からもう少し離れた安全圏に退避したい。それが別荘から帰ってきた和美が決めた決断だった。

 ネギやアスカが周りから父の影響で注意を集め、利用しようとしている者もいることも簡単に想像がつく。このまま踏み込み続ければ、自身の認識はともかくとして周りが部外者と認識してくれるかは不透明だ。村ごと滅ぼした相手がいるぐらいだから自分を人質に取ったりすることもやるかもしれない。下手をしなくても、かなりの確率で強制的に関係者と看做される。 引き返せるのは、多分、兄弟と明確な関わりがない今の時点がギリギリだろう。

 

「…………アーニャちゃんは別だけど」

 

 和美は近くの二人には聞こえない小さな声で呟いた。ジャーナリストならではの観察眼のお蔭か、エヴァンジェリンと同じく彼女もまたアーニャと兄弟の間にある溝に気が付いていた。

 袂を別つのかどうかは分からない。三人の関係を思うならば喜ばしいことではないが、魔法の世界とのパイプを一本は残しておかなければならない。

 

「ほら、早く風呂に入っちゃおう。冷えたままでいると風邪引くよ」

 

 大人とも取れる和美の割り切りに悩みだす夕映とのどかの背中を押しながら大浴場へと目指しかけたところで、夕映はとあることに気が付いた。

 

「朝倉さん、風呂に行く前にやってもらいたいことがあるのですが」

「うん? なにを?」

「ミライカメラとかいったやつです。限定的ながらも末来を見ることが出来るというなら、今の私達になんらかの助けになるかもしれません」

「撮っても二人には見れないし、どんな映像が映っているかも教えられないよ」

「だとしても写真を見た朝倉さんの反応から、なんらかの予測は立てられます。今は少しでも指針が欲しいんです」

「私からもお願いします」

 

 二人に頼まれ、和美は暫し考えた。『ミライカメラ』の発動条件は既に整っているし、本人が望むのならば撮影しても問題ないのではないかと思考が脳裏を占めていく。

 和美は年頃の女の子で、のどかの恋心を知っているから応援してあげたいと思っている。二人が悩んでいるのは見れば分かる。その懊悩に答えを出すために少しでも助けになるのならば。

 

「いいよ。でも、カードは部屋にあるからお風呂の後にする?」

「いえ、迷惑でなければ先に。のどかはそれでいいですか?」

「うん。いいですか、朝倉さん」

「OK。じゃ、行こっか」

 

 善は急げとばかりに、三人は行先を入浴場から和美の自室へと切り替えて歩き出した。

 

 

 

 

 

 そんな三人を盗み見する影。人が潜むには狭すぎるその隙間に、それはいた。

 

『どうかね?』

「見つけたゼ。馬鹿面を晒して呑気にしてやがル」

 

 和美達が歩く廊下の天井裏に、一般にスライムと呼ばれる存在が潜んでいた。数は三体。不定形、いずれも形状は一定ではなく、流動的だ。不定形ながらそれらの出す声は女声だった。性別があるとすれば女か。

 スライムといえばゲームなどでは最弱扱いされるが、現実ではそんなことはなく魔法使いの間では厄介な相手とされる悪魔の眷族だ。何せ実体がなく打撃系が通用せず、単発の魔法の射手程度では致命傷になり得ない。

 無色の液体がプルンとした身体を寄せ合いながら、天井に空いている微かな隙間から廊下を歩く三人を見ていた。眼下の三人は、一つの部屋に入って一人が二人にカメラを向けているが自分達を見つめるスライムの存在に全く気付いていない。

 

『よろしい。それではそちらから片付けよう』

 

 その三つの影に声が響く。

 

「捕まえればいいのデスカ?」

 

 念話という魔法を通じて届いた声にそのスライム達は、答えながらスライムたちは姿を変えていく。徐々に人に近いような輪郭を作っていく姿は定型の形を持たないスライムならではであった。

 

『囚われのお姫様が多い方がヒーローも燃えるだろう?』

「知らないデス」

『そういうものだよ、彼らのような人種は』

 

 念話の主が言うことが理解できないと各々が思っているスライム達が見下ろしている先で、小柄な二人だけが何故か先に部屋を出て行ってしまった。

 

「二人と一人が別れたゼ。両方捕らえるカ?」

『ぬ? そうしたいところだが、この敵地で君達が別れるのは危険だ。あまり時間をかけるのも好ましくない。二人の方だけで構わない』

 

 隠密作戦中であることをスライム達も理解しているので、不満を覚えつつも頷いた。

 

『よろしい。すらむぃとぷりんははその二人を、あめ子は私の手伝いをしてくれたまえ』

「ラジャ」

『学園側とハイ・デイライトウォーカーに気づかれぬように』

 

 ハイ・デイライトウォーカーとは夜間だけでなく昼間でも動き回れる吸血鬼のこと。麻帆良にいるハイ・デイライトウォーカーはただ一人。つまりはエヴァンジェリンのことだ。

 三つの影は誰にも気づかれぬまま、その場から立ち去った。部屋にただ一人残った標的ではなくなった朝倉和美を残して。

 

「……っ?!」

 

 少しして和美もまた部屋から出た。その様子は何かに追い立てられるように、何かを伝えたいのに声が出ないような、強い焦燥を露わにしていた。

 誰もいなくなった部屋にヒラヒラと撮影された写真が舞い落ちる。

 一瞬だけ裸の夕映とのどか見えない壁を叩いているような画像を映したが、床に舞い降りた写真には何も写されてはいない。使用者がいなくなったことで制限がかかり、画像が消えたのだ。

 

 

 

 

 

 スライムの念話の相手は、女子寮のすぐ外にいた。住人の殆どが学生と教職員である学園都市の通りには現在人気はまったくない。夜間となった学園内の殆どの学校は定時制を除き終了してしまい、雷が鳴り響く雨という天候もあって外を出歩こうと思う人間は存在しなかった。そう『人間』はだ。

 そんな雷雨が降りしきる中に『彼』は傘も差さずにずぶ濡れになりながらも静かに立っていた。

 

「三十分後に結界を落とすと、君はそう言うのかね? 自分でも言うのもなんだが私はこれでも元は伯爵の位階にいた者。この都市にいる者の安全は保証できかねるが…………」

 

 『彼』の近くに人影はない。にも拘らず、そこに人がいるかのように喋っていた『彼』は、内容程には気にした風のない声で会話を続ける。

 

「成程、広域結界を張る準備は既に整っているわけか。準備が良い。いや、なにも当て擦っているわけではない。寧ろ君達に感謝しているぐらいだ。戦うなら全力を出せた方が楽しいに決まっている。但し――」

 

 雨の中に消えていく『彼』の声にハッキリと喜悦が混じった。その喜悦は尋常のものではなく、普通の人が感じ取ればそれだけで精神が犯されてしまいそうな、狂人者そのものだった。

 

「我らの戦いには介入しないで頂きたい。それを守ってもらえるなら、プリンセスや召喚主にどんな思惑があろうとも好きにしてもらって構わないと言っているのですよ」

 

 プリンセスと呼ばれた相手は、何も言わなかったのだろう。『彼』はプリンセスと呼ばれた相手の反応にクツクツと笑い、「プリンセスといえど、百にも届かぬ小娘にはもう少し優しくすべきだったかな」と、楽しそうな表情とは裏腹の言葉を紡ぐ。

 

「…………では、始めるか」

 

 外の天気は雨が今も降りしきっていた。時折遠くで雷が光り、暗闇を一瞬のみ照らし出す。帽子を被り、薄汚れたコートを着ている四十代から五十代くらいの老境に入った彼はどこまでも楽しげに呟いた。

 

「ふふふ、あれから六年か。君はどれだけ強くなったのかな」

 

 この時期にコートという季節感のない格好をした男が示す『君』とは一体誰なのかは分からなくても、歪んだ口元を見れば碌でもないことだけは確かだった。

 

「私を失望させてくれるなよ」

 

 雷が光る中、麻帆良の女子寮に危機が訪れようとしていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 部屋に備え付けられているバスルームから出て来た木乃香は、濡れた髪の毛をバスタオルで拭きながら室内を見渡した。麻帆良学園女子中等部は原則として全寮制となっている。そのため、ほぼ全員(エヴァンジェリン&茶々丸のように例外がいる)が学生寮で生活していて各部屋は二~三人毎に割り当てられており、キッチン、トイレ、バスルームを完備しておりリビング兼寝室は一部屋で、そこに二段ベッドや学習机、応接セットなどが置かれることになる。

 学生寮としては破格な条件の中で、明日菜と木乃香の部屋はロフトが付いていて他の部屋よりも少しだけ広く陽当たりも良いので恵まれている。しかし、 昼には温かい陽光が差し込んで照らす部屋も、今は一人の少女が放つ暗い空気によってライトの灯りすら陰っているように木乃香には見えた。暗い空気を放つ当の本人は二段ベットの上段にある自分の布団に包まっている。

 

「明日菜、そのまま寝ると風邪引くで。シャワーでもいいから温まらんと」

「いい」

「少し前に…………なんでもない。ごめんな、寝てるところ」

 

 春過ぎで温かくなってきたとはいえ、雨に濡れた体はかなり冷えている。修学旅行後に木乃香の記憶にある限り、出会ってから始めて始めて明日菜が風邪を引いていたことが記憶に新しくて善意のつもりで言いかけたところで、彼女の看病をアスカがしていたことを思い出して口を噤んだ。だが、それだけであっても木乃香が何を言おうとしたのか分かったのだろう。明日菜の周りの空気が目に見えて重たくなった。

 

「あ、そうや。濡れた服、洗濯してくるな」

 

 悼まれなくなって髪を拭き終わったバスタオルと濡れた衣類を入れた籠を持ち、洗濯をする為に部屋を出た木乃香は深い溜息を吐いた。

 

(どないしよう……)

 

 発端はアスカの行動である。であるならば、彼らと同じ立場に立つネカネに頼ることは出来ないだろう。昔から親交があったという高畑は微妙だが、こちら方面での話を面と向かってしたことのない木乃香では二の足を踏む。

 

(あれで高畑先生も明日菜を溺愛しとるから変なことにならんとも限らんし)

 

 明日菜から向ける愛情よりも、高畑から向ける愛情の方が勝っていることを間近で見てきた木乃香は危惧を捨てきれない。その愛情は高畑自身にも定まっていないのか細かいところまでは分からないが、とても大切に想っていることは間違いない。だからこそ、今の明日菜の状況を高畑が知った場合、どのような行動に出るのか予想がつかない。

 

(普段怒らん人がキレると危ないっちゅうしな)

 

 明日菜とは中学に入ってからだが、高畑は父の知り合いということで出会いは早く、付き合いはかなり長い。特別親しいわけではなかったが、温和そのものな高畑が本気で怒った姿を一度も見たことが無い。精々が不良相手にハッスルしてるぐらいだが、それだって一般人の領域から見れば大概な物。

 

(アスカ君と高畑先生が本気で戦ったらどうなるかなんて、想像するだけで嫌になるわ)

 

 明日菜の手を振り払ったアスカと明日菜を大事に想っている高畑が戦った姿を想像して、愉快な結末にならないことに気づいて考えを捨てることにした。

 洗濯機が置いてある部屋は共用になっていて、木乃香は何台もある洗濯機から無作為に一台を選んでセットする。スタートボタンを押して、終わったら取りに来ることにして憂鬱だが部屋へと踵を戻す。

 

(ネカネさんはあかん、高畑先生も無理やろ。お爺ちゃんは最後の手段にするとして)

 

 指を折って候補メンバーを外していく。祖父の近右衛門が出なければならないような事態となれば、それこそ最後の最後。出来ればその前になんとかしたいところだが。

 

(残るとしたら千草先生ぐらいやけど、明日菜がこっちに来ることを良く思っとらんからな)

 

 というよりも一般人が関わって来ることが気に入らないそうなのだ。

 当たり前のことだが、裏の世界の技術も一朝一夕で手に入れられるものではない。大半が幼い頃から習得・習熟に励んできている。プロ意識までとは言わないが、ズブの素人に無遠慮に踏み荒されるのは許容し難い物がある。

 

(どうしたら正解やっていうのが分からんのが辛いわ)

 

 自室に辿り着き、部屋のドアにコツンと額を付けて沈思する。

 

(アスカ君が間違っているのか、それとも正しいんか…………うちには分からへん)

 

 明日菜の気持ちを考えれば前者、身の安全を考えれば後者である。木乃香の考えだけで正否を判定することはとても出来ないし、その資格もない。ほぼ同じ時期に裏の世界に足を踏み入れたのに、木乃香が許容されて明日菜が拒絶されるのは生まれや能力が大半を占めているのだから。

 木乃香は雨にも濡れなかった仮契約カードをポケットから取り出した。

 

(癒しなす姫君、か。体の傷は癒せても心の傷は治せへんのにな)

 

 明日菜に見つからない様に仮契約カードをポケットの奥に直して直ぐには取りだせない様にしながら、エヴァンジェリンや千草から聞いた話を思い出す。魔法や呪術といってもそこまで万能ではないらいしい。精神干渉系の技術もあるが治すとなれば現実世界と大差はないようだ。

 一瞬、頭を過った六年前に負ったはずのアスカ達の心的外傷はどうなったのかと疑問を抱いたが、先に近くの親友からである。

 

「うん、うちだけでも元気出さな」

 

 気持ちを切り替えてドアを開けて部屋に入る。靴を脱いでスリッパに履き代え、ふと見上げた壁掛け時計が夕食の時間を示していることに気が付いた。

 別荘の入ると時間間隔が変な感じに狂ってしまうのが未だに慣れない。一時間で一日が経過すると日付の感覚も違ってくるので、木乃香はあまり別荘が好きにはなれなかった。

 

「明日菜、なんか食べたいものある?」

「いらない」

「お腹に入れな体に悪いで」

「今、食欲ないから。ごめん」

 

 明日菜に話しかけてみると意外に返答が返って来た。壁の方を向いたままだが寝てはいないようだ。しかし、人間っていうのは思い悩んでいようが生理現象として腹が減る。お腹が膨れれば気分もマシになるだろうと美味しい料理を作る決心を固める。

 勢い盛んに冷蔵庫を開けると木乃香の想定以上に物がなかった。

 

「帰りに買い物出来ひんかったかし、あんま材料ないかぁ」

 

 最近はアスカ達と千草の家で夕飯のご相伴に預かっていたので、素材は鮮度が命と買い溜めしないこともあってこのような突発的な事態に困ってしまう。

 

「少ない材料でもうちは負けへん」

 

 美味しい料理を作って明日菜を吊ろうと心に決め、いざ戦場へ向かわんとマイエプロンに手を伸ばしたところで鳴り響く来客を示す部屋のベルの音。

 

「ん? 誰やろ。はいはい~、今出ます」

 

 態々部屋にまで訊ねてくるのは珍しい。それもこんな時間には滅多にない。大半のクラスメイトならチャイムなんて鳴らさずに傍若無人に入ってくるはず。

 玄関のベルが鳴り、マイエプロンに手を伸ばしていた木乃香は尋ねてきた人を確認するために玄関に向かって歩く。

 

「…………? …………どなたですか?」

 

 こんな時間なので内錠をかけて、問いかけながらドアを開く。

 内錠をかけていることで開けられるスペースは決まっており、開いた隙間からは立派な髭を蓄えたシルクハットを被って黒いコートに身を包んだ独特の髪型の初老の男性がびしょ濡れでそこに立っている。木乃香の見かけない人だった。

 ここは女子寮なので男性は易々と中には入れてもらえない。両入り口には、談話室もかねたエントランスが設けられている。肉親が何かのようで尋ねてきた時もそこで話をするのだ。

 呼び鈴の応対に出た木乃香は、覗き窓から見た相手に不信感を抱かずにはいられなかった。 どういう用があるのか、どういった関係なのかと思う前に、何より女子寮にいてはならない成人の男という誰が見ても怪しいと感じる状況だったからだ。

 こんな時間、それもこんな荒れた天気の日に外部から訪問者が来るとは思えない。訪問者を不審に思って何時でもドアを閉められるように気をやっていると、ドアの向こうに立つ老人が口を開いた。

 

「失礼、お嬢さん。こんな夜分に申し訳ない」

「何の用ですか?」

 

 雨の中の来訪者である老人の紳士的な口ぶりにも警戒を緩めない木乃香。服装や雰囲気からいわゆる変質者といった感じは見られないものの、男子禁制の女子寮に突然訪問して来たのだから当然と言えよう。

 ドアを開ける時も内鍵は外さず、何時でもドアを閉められるように気をやっていると向こうに立つ老人が口を開いた。

 

「いえ、なに…………お嬢さん方に用がありましてね」

 

 そんな木乃香の問いに対し、帽子を取って胸元に下げた老紳士が品の良い笑みを浮かべて一輪の白いバラを取り出した。 

 

「お近づきの証に花を一輪どうぞ」

 

 やってきた老人が帽子を取ってみると、不審者とは違った身なりの整った初老の紳士という感じでさわやかな笑みを浮かべ、ドアの隙間から差し入れられた白いバラの花を差し出してきたものだから、一瞬だけ木乃香も思わず不審を忘れてしまった。

 

「え? あ……?」

 

 しかし、異変はすぐに訪れる。差し出された白いバラの匂いを嗅いだと同時に急に眩暈を感じ、意識が遠くなっていくと思ったら、ふらっと崩れ落ちて気を失い玄関に倒れ付した。本人には自分がどうなったか、把握する時間すらなかったことだろう。

 

「代価は君たち自身だがね」

 

 木乃香が倒れたのを確認すると、老人は内鍵を摘まみそのまま捻り潰し、金属製のチェーンが飴細工でも扱うかのように簡単に音を立てて破壊される。

 

「木乃香?」

 

 どさ、という音と、バキンという音が聞こえてきてベットに横になっていても寝付けなかった明日菜が反応した。不審に思って布団を除けて、ベットから飛び降りる。

 

「やあ、君がカグラザカアスナ君かな」

 

 玄関に向かおうとする前に、そう言って真っ黒な服を着て黒いコートを羽織り、取っていた帽子を被り直しながら黒い帽子を右手で押さえた初老の男が水を滴らせてリビングに現われた。雨に打たれたのか、びしょびしょで黒さを増したインバネスを来た老人がベットから降りたばかりの明日菜を見据える。

 

「誰よアンタは!! 木乃香をどうした!」

 

 木乃香が玄関に向かったことも、何かを話している声も聞こえていた。男が現れ、木乃香の姿は明日菜のいる場所からは見えなくて立ち上がって叫んだ。

 

「私の名はヴィルヘルム・ヨーゼフ・フォン・ヘルマン。コノカ嬢のことは心配はない。ただ眠ってもらっただけだよ」

 

 男――――ヘルマンは視線を明日菜に向けて口端を少しだけ上げて眼で笑った。

 木乃香の姿が見えない以上、安全を確認することが出来ない。少なくともヘルマンの言葉を信じて先程の音から推測するに即危険ということまではないと考えるべきか。

 

「コノエコノカには傷一つ付けてはいない。倒れた時のことまでは保証できないがね」

 

 クツクツ、と何が楽しいのか笑うヘルマンに明日菜は激昂しかけたが、目の前にいる得体のしれない人物と現実離れした状況に頭の一部が麻痺したように冷静さを取り戻す。遅すぎたとしてもだ。

 明日菜が冷静さを取り戻す前にヘルマンの足は前に出ていた。

 間にある机を飛び越えて一足で迫るヘルマン。距離があったことで軌道は読みやすく、狙いも考えも丸分かり。だから、避けるのは簡単で。予想外だったのは相手も明日菜の行動を読んでいたのでただの格好の的でしかなかったことだった。

 ヘルマンが着地しながら放った拳が急に軌道を変えて来る。魔法のように思えたそれはなんてことはない。元からフック気味に放たれていたので、腰と軸足の捻りによって軌道を変えられた拳が無防備な明日菜へと迫る。

 

「アデアッ……!?」

 

条件反射でアーティファクトを呼び出して状況の打開を図ろうとするが、当のカードはアスカによって破棄されている。カードを求めた手は空を切り、頼った分だけ生じた心の隙が次の行動を遅らせる。

 

「がっ……」

 

 ヘルマンのボディブローが横っ飛びをして中途半端な体勢の明日菜の無防備な脇腹に入り、壁際まで吹っ飛ばされた。

 

「――――――――ハッ……うぅ、い、痛い」

 

 衝撃で意識が飛びかけたが、体中の痛みで急速に引き戻される。受けた衝撃の影響も覚めないまま、グラグラと揺らぐ視線の先には拳から蒸気のようなものを舞い上がらせたヘルマンがいる。明日菜には状況が理解できない。突然現れ、木乃香を眠らせて襲ってくる理由が分からない。

 

「アーティファクトを出すかと思ったが…………」

 

 振るった拳の感触から魔力強化も行っていないことを察したヘルマンは訝しげな表情を隠しもせずに明日菜の苦悶に満ちた顔を見下ろす。

 人を傷つけたのに何の呵責も感じていないどころか、結果に対して考察すらしている。今まで明日菜の傍にいたことのないタイプだ。

 喧嘩はしたことがあっても平和な日常を生きてきた明日菜は当たり前の如く、殆ど戦闘などした事などない。仮契約を破棄され、攻撃手段も持っていない明日菜。事態が理解できないまでもヘルマンから暴力の気配を感じ取り、他者を傷つけることへの迷いの無さと容赦の無さによって心が容易く折れかける。

 

「ふむ、戦う気概は持てぬか。異能はあっても只の小娘ということか」

 

 期待外れだと思っていることを隠しもせず、ヘルマンは視線を明日菜から部屋の入り口へと向けた。

 

「伯爵」

 

 現れたのはあめ子であった。しかし、その身体は人型をしていない。宙に浮かんだ水で出来た球体の内側に気を失っている木乃香を保持しながらやってくる姿は奇怪そのものである。球体の上部に眼鏡をかけた女の子の顔があるからこそ余計に異様な光景であった。

 

「……こ、の……か!?」

「動かないでもらおう」

「ぐっ」

 

 親友の姿に心を震わせた明日菜が起き上がろうとするのをヘルマンが踏みつけて留める。頭を踏まれた明日菜は起き上がろうとして果たせず、未だ収まらぬ脇腹の痛みもあって苦悶に喘ぐことしか出来ない。

 

「目標は確保した。次は……」

 

 現在進行形で明日菜を苦しめていることを気にも留めないヘルマンは何かを言いかけて言葉を切った。眼光を鋭くして、しかし口元は楽しくなったとばかりに笑みの形となっていた。ヘルマンの顔を唯一見れるあめ子がその変化に気づいた。

 

「どうしまシタ?」

「極東の姫君の騎士が来たようだ。お相手をしなければ紳士として失礼だろう」

 

 少女を足蹴にしながら紳士などとどの口でほざくのかとあめ子は思いもしたが、笑いはしても他のどんな感情も抱き得ない。彼女もまた魔物の一種であるからに。

 ほどなくして荒々しい足音と共に騎士が現れる。

 

「お嬢様!」

 

 抜き身の刀を手にドアを蹴破って部屋に侵入したのは桜咲刹那その人であった。

 自室にて精神統一をしていたところ、胸騒ぎを感じてやってきた刹那が見た物は水球に囚われている親友の木乃香とヘルマンに踏まれている明日菜であった。

 

「陳腐な台詞で申し訳ないが」

 

 敵が何か言っているがどうでもいい。主君を救い出す為に動き出そうとした刹那をヘルマンが止める。

 

「――――動けば人質達の命は保証しない」

「あぐっ」

「明日菜さん!?」

 

 強く踏まれた痛みに明日菜が呻き声を上げ、脅されれば激昂した刹那といえど手は出せない。

 

「卑怯な」

「悪とはそういうものだろう?」

 

 第一歩を踏み出すことなく動きを止め、嘲笑を浮かべるヘルマンを忌々しげに睨みつけるしかない。

 

「姫の騎士は理性的で忠義者だ。状況も良く理解している」

 

 これみよがしに明日菜を踏みつける足に力を込めて苦痛の呻きを上げさせ、何時でも殺せるのだとアピールしながら言う言葉ではない。

 

「こういう時、人質を取られたらどうするべきか。改めて言わなくても君ならば分かってくれよう」

「貴様……っ!?」

「囚われのお姫様は多い方が栄える。では、君にも一緒に来て頂くことにしようかな」

 

 抗しえないと分かっているヘルマンの余裕は全く変わらない。ヘルマンは目を細め、刹那を視界に収める。その眼はどこまでも酷薄に見据えていた。

 女子寮の外は益々雨の勢いが増し、近くで雷が落ちたのか稲光が光った。まるでこれからを暗示するように嵐のような天気はまだまだ荒れそうな雰囲気を見せていた。この日、明日菜の髪飾りの鈴は一度も鳴らなかった。

 


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。