魔法先生ツインズ+1   作:スターゲイザー

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第35話 嵐の跡に残るもの

 

 目を覚ました時、神楽坂明日菜は服を着たまま床の上で横になっている自分を発見した。

 

「…………あれ? なんで私、床の上で寝てるの?」

 

 と、なんで床の上で寝ているのかと目を瞬かせながら、のろのろと身体を起こす。床の上で寝ていた所為か体の節々が痛い。

 フローリングの床にお尻をペタンとつけた女の子座りをして、やけに普段よりも思考の遅い頭で周りを見渡す。

 数ヶ月前にはネギやアスカと半ば同居の形で住んでいた女子寮にある木乃香と自分の部屋だった。ベットは直ぐ傍にあるのに、なんでまた床で寝ているのか。夜中にトイレに起きて寝ぼけたという可能性は、部屋着のままで寝巻きのパジャマに着替えていないことから、その線は薄そうだった。

 

「なんで?」

 

 窓越しに昨日の雨が不思議なほどに爽やかな朝日が差し込んでいた。綺麗好きな木乃香によってマメに掃除が行われているので綺麗な自室が朝日を浴びている。

 新しい朝だった。気持ちのいい朝だった。

 

「あ、カーテン開けっ放しだ」

 

 寝る時には必ず閉めるはずのカーテンも全開であることに気づいた。隙間が開いているとかじゃなくて窓の両脇で括ってある。パジャマに着替えるどころかカーテンを閉め忘れるなんて自分にも木乃香にも何かあったのか。

 視線を上にずらせばソファーの上で木乃香と刹那が抱きしめ合ったまま眠っている。

 

「なんで刹那さんもいるのかしら、しかも抱き合ったまま寝てる。やっぱりこの二人って百合じゃ――――――――もしかして二人のイケないところを見て眠らされたとか。で、二人は燃え上がったままそのまま朝まで寝てたとか…………ないわね。何を考えているのかしら」

 

 なんで別の部屋の住人である刹那がいるのか分からず、寝起き特有のはっきりとしない頭でぼんやりとしたまま昨日の夜を思い出そうとした。

 しかしそれより先に、ソファーの上で寝入っていた二人が転がって落ちてきた。

 

「わきゃっ」

 

 二人分の体重に落下の重力が加算された重みを受けて、年頃の乙女としてどうかと思う潰れた蛙のような声が口から漏れる。

 明日菜がクッションになったといってもどれだけ深い眠りに入っているのか、落ちたのに抱き合ったまま一向に起きない。二人分の体重が掛かっているのでちょっとやそっとでは動きそうにない。

 

「もう、重い!」  

 

 重さに耐えかねて、ソファー側にある手を床に突っ立てて身体を傾け背中の二人を落とす。明日菜の背中から転がり落ちた二人は近くにあったテーブルにガタンと当たり、揺れたテーブルに乗っていた携帯が落ちる。

 落ちた携帯が刹那の背中に一度当たって、明日菜の近くへとやってきた。

 

「まったく……」

 

 眉を顰めつつ、まだ半分眠ったままで近くにやってきた携帯を手に取り画面を開く。

 まだ午前六時。世間的には十分早い時間。バイトがない日はギリギリまで寝るので立派な早起きだった。

 

「んー」

 

 猫のような笑顔を浮かべて、横になったままで瑞々しい身体を思い切り伸ばした。全身に血が通いだす感覚が心地良い。と、伸びを終えて下ろした顔に湿った感覚を覚えてびっくりして目を丸くする。

 一瞬涎かと思ったが、さっきまで自分が横になって寝ていたちょうど頭を横にしていた辺りの床が大量に濡れている。コップの水でもひっくり返したぐらい量だ。いくらなんでも涎でこれほど濡れるはずがない。気味が悪いと思った瞬間、強烈な違和感を覚えた。

 

「なに?」

 

 呟いた瞬間、目元を触れば自分で唖然とするほど泣き腫らした跡があることに気がついた。自分の顔が生乾きの涙でぐしゃぐしゃになっていて、鏡で見れば目元がビックリするほど紅く腫れているだろう。

 

「な、なにこれ? 一体、私どうしたの?」

 

 もうすっかり目は覚めていた。寝起き特有の倦怠感もない。

 先程木乃香と刹那が重なって落ちてきたことで中断した昨日の夜の事を思い返そうとして、思い出した出来事にはっきりと痛みを伴う、刃物のような哀しみが明日菜を襲った。

 拒絶の声。届かなかった手、切れてしまった絆、追いかけなかった自分。

 

「……わ、たし……」

 

 堪える間もなく嗚咽が喉を突き上げ、堰を切ったように涙が溢れ出した。後悔ばかりが積み重なって激しさを増す嗚咽を抑えるために両手で口元を覆った。止めようもなく涙が頬を伝って床に落ちた。

 深い後悔が、これまでに経験したことがないほどの深い後悔が胸を満たしていた。同時に耐え難いほどの隙間が胸に空いていた。ぽっかりと、大きな穴が。

 

「…………アスカを、傷つけた…………守ってくれたのに……なのに、なのに私は……」

 

 声は不安定で、しゃっくりのようなものが混じっていた。嗚咽。あまりにも涙を零しすぎたせいで、横隔膜の制御がおかしくなっているのだ。

 壊れきって、吐き出し尽くして、狂いきって、何もかも無くしたアスカのSOSに応えることが出来なかった。

 あまりにも異形で異常で、どうしようもなくアスカが怖かったのだ。積もりに積もった憎しみを胸に歯を剥き出しにして、明日菜には一生及びもつかないような強さを無造作に振りまくアスカが、知っている優しいアスカがどこにもいなかったことが、どうしようもなく怖かったのだ。

 その恐怖が伸ばされた腕を拒絶させた。それこそがヘルマンの攻撃よりも、他の何よりもアスカの心を鋭利で冷たい刃で傷つけるのだと気づかずに。

 過程に問題があったとしてもアスカをあそこまで煽ったのはヘルマンであり、彼を倒すにはアスカも手段を選んでいる余裕はなかったのだと時間が経ってようやく理解に至る。

 あの時のアスカの状態を思い出す。

 左拳は完全に砕け、皮を破って骨が幾つも見えていた。右眼は腫れ上がって完全に塞がり、歪に歪んだ鼻を見るに折れていたかもしれない。歩くだけの自然な体を捻る動作にさせぎこちなさが見えたことか肋骨も折れていたのか。あちこち服は破れ、雨でも流しきれない血を滴らせている顔色は死人のように青白く、血を流す唇は青褪めて立っているのがやっとのようにさえ見えた。

 あの時の伸ばした手を逡巡させた時のアスカの顔を思い出す。

 一瞬、本当に一瞬、物凄く辛そうな表情を浮かべ、何かを諦めたような吹っ切れた笑みを浮かべた。アスカは淡く笑った。そこからは如何なる感情も掴めない。喜ぶようにも嘲るようにも哀れむようにも楽しむようにも見えてしまう。喜怒哀楽の全てが混戦している笑み。

 理由はどうあれ救い守った者達から畏怖と恐怖の視線を向けられ、拒絶同然の行動を示した明日菜を前に世界の終わりを直視したような顔で凍り付いていた。

 

『はは……』

 

 何かを諦めたような吹っ切れた笑みを思い出す。

 アスカの中で、狂っていた歯車が壊れた。張り詰めていたものが、切れて壊れかけの心と体が砕けた。その最後のトドメを、一番大きなダメージを与えて傷つけたのは他でもない神楽坂明日菜当人。

 

「……ごめん、なさい……ッ!!」

 

 声に無き慟哭に喉をつまらせながらも、ここにはいないアスカに詫びずにはいられなかった。届くこともないと知りつつ、罪の重さを知ってしまった少女は繰り返し懺悔した。

 

「……明日菜」

「……明日菜さん」

 

 寝ていた木乃香と刹那が間近の慟哭を聞き逃すはずも無く、睡魔の闇から目覚めていた。だが、二人には明日菜の慟哭を止めることはできない。彼女達もまた明日菜と同じくアスカを傷つけた。明日菜ほど明確な拒絶の行動を取らなかったが恐怖が顔に浮かんでいたのは間違いない。

 あの時、アスカは周囲へと眼をやっていた。なら、自分達がアスカへと向ける恐怖も感じ取ったに違いない。

 木乃香も刹那も、あの場所にいた誰もが明日菜と同罪だ。この罪は拭い難い。生きながら心臓を抉り出されたような苦痛に塗れた顔で啼く明日菜をどうやって慰めたらいいのか、そもそも何をどうしたらいいのかさえ分からない。

 彼女達に出来るのは昨日の夜のように、身体の中心にある大切な部分が奪われた哀しみの表情で、後悔と懺悔で泣いて詫び続ける明日菜の傍にいることだけ。

 

「……ごめんなさい…………ごめん、なさい…………ごめんなさい……ッ!!」

 

 明日菜の懺悔と後悔の声だけが響く室内の暗すぎる雰囲気とは裏腹に、カーテンの閉められていない外は昨日の嵐が嘘のような雲ひとつない快晴だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ベッドに一人の少年―――――アスカ・スプリングフィールドが寝かされていた。近くには点滴用のパックがぶら下っており、ベッドを囲む医療機器が無味乾燥な機械音を放っている。全身にそれと分かるほどの包帯が巻かれ、呼吸器につながれている状態を見ればよほどの重体なのか。

 

「アスカ……」

 

 痛ましいアスカの姿を、ベット脇の丸椅子に座ったネカネ・スプリングフィールドが悲しげに見つめる。

 今までならばネカネがそんな表情を向ければ困ったような笑みを浮かべるアスカも、意識がない状態では電子機器が発する機械音にも反応しない。

 

「アナタは馬鹿よ。こんなになるまで戦って」

 

 続く言葉はない。ネギらからヘルマンが六年前に関係する悪魔で、アスカは文字通り死にそうになりながら戦ったのだと聞かされれば、学園長に守られていても怯えて震えることしか出来なかったネカネに言える言葉はない。

 嗚咽を堪えるように身を屈め、せめて流れ落ちる涙だけは見せまいとした。

 その震える小さな背中を少しだけ開いたドアの間から見たネギ・スプリングフィールドは、気づかれないようにそっとドアを閉じた。

 

「ネカネはどうや?」

 

 小さな声に振り返ったネギは、壁に背中を預けている天ヶ崎千草に二度首を横に振った。

 

「今はそっとしておいた方が良いと思います。僕らが近くにいると、きっと気を張ろうとするから」

「損な性分やな。いや、性格の方か」

「どっちもだと」

 

 言葉だけは軽くとも、声音と表情がネカネを心配していることを感じてネギは嬉しくなった。

 

「弟分が死にかければ、こうなるのも無理ないかもしれんな」

 

 千草の声には、自身が小太郎が同じようなことになった時を想像したのか、少し湿ったものだった。

 

「ネギ」

 

 千草とは別の声に名前を呼ばれて、ネギは声の聞こえた方を向いた。そこには一度アスカの服を取りに戻ったアンナ・ユーリエウナ・ココロウァと、修学旅行から姿を見ていなかったアルベール・カモミールに姿があった。

 アーニャの肩の上に乗っているカモを見る目が自然ときつくなる。

 

「暫くぶりでさ、ネギの兄貴」

「カモ君、今までどこに行ってたのさ」

「ちょっくら野暮用で魔法世界まで行ってたんだ」

 

 口調は何時も通りながらもカモの声はどこか沈んでいる。

 アーニャからアスカの衣類が入った袋を受け取った千草は、両者の様子を見てここは一人と一匹にした方が良いと考えた。アイコンタクトでアーニャもその意味に気づく。

 

「ちょっと離れるで」

「カモ、女同士で話すからアンタはネギの方に行きなさい」

「すまねぇな、気を使わせちまって」

 

 二人が連れ立って離れる途中でネギの肩の上に飛び乗ったカモは、間近で深々と頭を下げた。

 

「ここに来るまでの間にアーニャの姉貴に事情は聞いた。大変だったみてぇだな。こんな大事な時にいれなくてすまねぇ」

 

 真摯な謝罪である。深い後悔と懺悔の想いを感じて、元より八つ当たり染みた感情だったからネギの怒りは急速に萎んでいった。

 

「いいよ。カモ君のことだから魔法世界に行くことは必要なことだったんでしょ」

「ああ」

「なら、僕から言うことはないよ」

「ありがとう、ネギの兄貴」

 

 信頼のお返しだとばかりに頬に顔を寄せてきたカモの背を優しく撫でる。そうすることでささくれ立っていた心の一部が平静を取り戻していく。まるでそのことを察知したかのように、カモが動くのが分かった。

 体を離して、アスカがいる病室の方を向いたのを感じてネギもそちらを向く。

 

「アスカの兄貴の容体はどうなんだ?」

「酷いものだよ」

 

 カモの問いに、ネギは似つかわしくない深い溜息をついた。

 

「もし後少し治療を始めるのが遅かったら、もしアスカの生命力が弱かったら、手遅れになってたかもってお医者さんが言ってた」

「そんなにか……」

「折れた肋骨が肺に刺さって気道に溜まった血で呼吸も出来なかったみたいで、病院に着いた時には息をしてなかったんだ。治癒魔法だけじゃ間に合わないから外科手術も同時に行われたみたい。何度か心臓も止まって危ないところだったらしいけど、なんとか一命を取りとめて今は眠ってるよ」

 

 運んだ時のアスカは血の気を失って青褪めるどころか死人のような真っ白な顔色になっていて、ネギには手術中の記憶が全くない。それほどに気が気ではなかったのだろう。

 

「アスカを運んでくれた神多羅木先生のお蔭だよ。先生は僕よりも何倍も優れた風の使い手で、アーニャを後ろに乗せていたといっても全く追いつけなかったんだ」

「後でたんまりと礼を言わねぇとな」

「そうだね」

 

 少しおどけた口調のカモにネギも口角を緩める。

 

「ねぇ、カモ君。何しに魔法世界に行ってたの?」

 

 会話の続きがしたくて、気になっていたことを訊ねた。

 

「調べ物さ」

「調べ物? まほネットとかでは出来ないことなの?」

「俺っちは情報は自分の足と耳で得たものじゃないと信じれねぇ主義でさ。なにより調べていることを周りに知られたくなかったんだ」

 

 カモは煙草を取り出して吸おうとしたが、今いる場所が病院であることを思い出して渋々直した。

 

「なにか分かったの?」

「分からないってことが分かっただけさ」

 

 意味が分からなかったが、カモはそこに答えを得ているようでネギはそれ以上のことを突っ込んで聞くことはせずに、一人と一匹は静かにアスカがいる病室の前で佇んでいた。

 カモと共にいることがとても落ち着けることにネギは嬉しく思えた。

 

 

 

 

 

 外に出た千草とアーニャは中庭に来ていた。そこには昨夜から延々と拳を振るい続ける犬上小太郎の姿があった。

 汗だくで疲労によって動きに精彩を欠いている小太郎を、木の幹に隠れて覗き見している千草は顔を顰めた。

 

「まだやっとんたんかい。我武者羅なんもええけど、ええ加減にせな体壊すで」

 

 大方、アスカが自分よりも遥かに強くなっていることに焦りを覚えたのだろうと当たりをつけた千草だったが、隣にいるアーニャが物憂げな表情をしていることに気が付いた。

 

「でも私、少し小太郎の気持ち分かるかも」

「気持ちやて? アスカが強うなったことに焦ってるだけやろ」

「それもあるだろうけど、置いていかれるのってきっと嫌われることよりも辛いことだと思うの」

 

 アーニャは視線を取り付かれたように拳を振るい続ける小太郎に向ける。

 在りしの自分を、一生忘れることはないだろう過去の自分の姿に今の小太郎が重なる。

 

「小太郎とアスカって仲良いけど、お互いにコイツだけには負けたくないって思ってるところあるでしょ。対等であることに拘ってるっていうか」

「あるやろうな。小太郎は生まれで色々あって、同年代で同じ目線に立てる奴がいいひんかったんや。アスカと知り合ってからはほんまに楽しそうにしとるわ」

「一番の友達ってやつよね」

 

 二人の見解は一致していた。違うのはここから。

 

「アスカはヘルマンと一対一で戦うことに拘った。その気持ちを小太郎も理解していた。親友だもの、アスカの気持ちが分かったんだと思う。でも」

 

 この言葉を口から出すことに、勇気が必要だった。アーニャが結局、言えなかった言葉だったから。

 

「一緒に戦おう、って言って欲しかったんじゃないかな」

 

 千草は救い出した少女たちを連れて離脱する時にアスカの背中を見ていた物悲しげだった小太郎の姿を思い出した。

 

『友達やのにな……』

 

 千草はポツリと呟かれた小太郎の言葉に、どれだけの想いが込められていたのかを今更ながらに悟った。

 二人の視線の先で、終わらない演舞が何時までも続いていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 嵐のような夜が明けてから早くも三日が経過していた。しかし、3-Aの少女達にとって一か月よりも長く感じる三日間であった。それは一人でいることを好む長谷川千雨であろうとも例外ではない。

 

(辛気臭せぇ)

 

 授業中だから静かなのは当たり前だが、クラス全体を覆っている重苦しい空気が時間の流れを間延びさせていた。

 ようやく鳴った終業のチャイムに授業を担当していた千草もどこか安堵しているようだった。

 

「今日はここまでや。日直」

「起立」

 

 いつもより覇気のない日直である釘宮円の声が教室に響く。

 授業が終わり、やっと終わったと生徒たちは喜色の笑みを浮かべながら立ち上がり、日直の号令に合わせて礼をするのが普通の学校ならばどこにでもある風景だろう。よほど酔狂な人間でなければ堅苦しい授業が終わって教師もいない休み時間に向けて背を伸ばす。

 

「礼」

 

 礼の後は次の時間の準備をしたり、友人と喋ったりと教室は途端に騒がしくなるのが常。この時間は六限目なので、掃除をしてから終礼となるので慌ただしくなるはずだが、この三日間は違う。

 

「暗いね」

 

 千草が教室を出て行って、掃除を始めた中で誰かがポツリと言った。

 なにが、とは誰も言わなかった。答える者はいない。言った者も誰かに応えてほしかったわけではない。悲しき確認だった。

 クラスのことで高畑や源といった多くの教師が知恵を振り絞っているが、事の発端から様々な策が取られたが最終的にアスカの回復を待つのが最善ということで落ち着くしかなかった。アスカが怪我したことを責任に感じているとなれば、アスカの回復が最も効く薬と考えたためだ。

 

(アスカさんが復帰できなければ今年はダメかもしれませんわね)

 

 どこか茫洋とした様子で掃除するクラスメイトを見て、あやかは深い溜息を吐いた。

 この調子では今年の学園祭を楽しむのは難しいだろうと思っていた。しかし、それが難しいことは嫌になるほど解っていた。また深く溜息を吐いて、最近の自分は溜息を吐いてばかりだなと気づいて余計に暗澹たる気持ちになった。

 溜息を漏らすあやかの姿を視界に捉えて、長谷川千雨は自分の担当である黒板を綺麗にして黒板消しを持って窓へと向かった。

 窓を開けて黒板消し2つ手にして叩き合わせ始めた千雨は、この雰囲気の原因である少年のことを思った。

 

「これも全部アスカの所為だ」

『それは少し言い過ぎじゃないですか』

 

 呟いた直後に耳元で囁くように聞こえて来た声に千雨の肩が大きく跳ねた。

 跳ね回る心臓の鼓動を五月蠅く感じながら、周りに不審に思われない様に顔だけを背後に向けた。予想通り、そこにいる薄く透けている黒いセーラー服を着た少女が見えていることに落胆しつつ、努めて口を開き過ぎないようにして言葉を紡ぐ。

 

「相坂、学校にいる間は話しかけてくるなって言っただろ」

『人の悪口は良くないと思います』

「聞けよ、人の話を」

 

 半透明の少女――――相坂さよは、「私、怒ってます」とばかりに頬を膨らませている。普通の人間なら怒りよりも先に可愛さが先に立つだろうが、相手が幽霊であることが頭に強く残り過ぎている千雨には何も感じなかった。

 なるべく何事もなかったように前に向き直り、パンパンと両手に持つ黒板消しを叩く。

 

『アスカさんは大怪我をまでしてみんなを守ったんですよ。感謝こそすれ、悪口は言うべきじゃありません』

「良いことしたって周りに心配をかけたら意味ないだろ…………分かったから、そんなに睨むな。私からしたら、誘拐犯と戦って相手が持っていた爆弾の爆発に巻き込まれたってのが信じられないだけだ」

 

 主犯が老年の男性で、誘拐犯達の目的が荒れた天気に乗じて明日菜と木乃香を誘拐して身代金を要求するつもりだったというのは、二人の保護者である学園長がかなりの資産家であることは有名な話だったからすんなりと信じることが出来た。犯人を目撃したのが、嘘なんかつかない那波千鶴と村上夏美であることも信じた理由の一つである。

 

「誘拐するのに爆弾を持っていたとか、身近でこんな事件が起こったってのがどうにもな」

『信じられないって…………入院してるんですよ。三日経つのに、まだ意識が戻ってないんですよ』

「怪我をしたことを疑ってるわけじゃないって。どうにも現実感がないだけだ」

 

 わざわざ窓の外に出て浮かびながら相対してくるさよに小さな声で言い訳する。

 さよは幽霊の特性を利用して数ある病院の中から治療中のアスカを見つけ出した。頼んでもないのに勝手に行動して報告して来た目の前の幽霊の涙ながらの抗弁に、千雨も強くは物を言えなかった。

 

『万が一でも神楽坂さんの耳に入ったら大変なことになります。十分に気をつけて下さい』

「…………ああ」

 

 千雨は誘拐犯に誘拐されたらしい明日菜を探すが、当たり前の如くその姿は見つからない。学校に出て来てはいるが、昼過ぎに体調不良ということで早退している。付き添った木乃香の話ではあまり寝れていないようだ。

 これでもまだ最初に比べればマシになった方だ。

 明日菜には怪我一つないが、アスカと一番仲の良かったのも彼女だ。気負い過ぎるのも無理はないだろう。学校に出て来れる様になっただけでも、普段は喧嘩していても心配していた雪広あやかが肩を撫で下ろしていた。

 学校に出て来ても目元が腫れぼったくて千雨はギョッとしたものだ。

 普段はあまり深く考えないというか、直感で動いている節があった明日菜が思い悩んでいるのはクラスの空気を更に重くしていた。何時もこの時期は高畑を麻帆良祭にどう誘うかで悩んでいるのに、別の事で頭が一杯らしい。何を考えているかは直ぐに分かる。アスカのことだ。

 元気印の明日菜だけではない。他にも事件に巻き込まれたり、目撃したらしい少女達がいるのだ。あれから歯車が狂ったかのように3-Aは変わってしまった。

 

『明日菜さんだけではありません。他の人にも聞かれたらどうなるか』

「分かってるよ、それぐらいは……」

 

 今のクラスの雰囲気は最低と言っていい。チームワークの良さだけはどのクラスよりも優れていた3-Aはどん底に落ちて、何時も陽気で笑顔が絶えなかったクラスには陰気な空気が漂っていた。

 確かに仕方がないのかもしれない。こんな時まで明るくしていられるほど少女達は強くはない。どれだけ周りに大人びていると思われても彼女達はまだ14年しか生きていない子供なのだ。目の前に悲劇に引き摺られてしまうのは当然だった。

 クラスの真っ先の火付け役である朝倉和美がこの件に関して何も言わないと明言しており、同じように事件の関係者で考え込むことが多くなった綾瀬夕映や宮崎のどかになったことで、親友である早乙女ハルナも騒がずに心配している。

 古菲も考え込んでいることが多く、そうなるとクラス全体の空気として盛り上がりに欠けてしまう。そういう雰囲気になれなかったのもある。 

 

「アスカに話したいことがあったんだけどな」

『話したいことって?』

「お前だよ、お前」

『どうしてアスカさんなんですか?』

「お前のことを最初から認識してたからな。幽霊が見えるなんてこと他の奴に相談できるか」

 

 相談内容は三日前の嵐の夜から幽霊に憑かれてしまったこの現状についてである。

 この異常事態を説明できるような知り合いがアスカしかいないことは、千雨にとって哀しい事実である。

 

「ったく、なんで幽霊なんて見えるようになったんだ?」

 

 三日前の時折鳴る雷と強い風や雨に不安を覚えて早めに布団に入っていたら、大きな地震の直後に目の前にいきなり宙に浮く幽霊が現れて千雨は少しチビった。泣き喚かなかったのは相坂さよの存在を知っていたことと、当の幽霊が嵐を怖がって大混乱に陥っていたからである。

 誰かと一緒にいたくて、でも誰も見えないし喋ることも出来ないから女子寮を彷徨っていた時に千雨が見えてしまったものだから懐かれてしまった。

 

『元から千雨さんには霊視の素質があって、あの夜の影響で開花したんじゃないかって』

「なんだよそれ。つか、誰がそんなこと言ったんだ?」

『え? あ、あはははははは』

「笑って誤魔化そうとするな」

『言えないんです。すみません』

 

 さよを睨み付けるが当の本人は笑うばかりで、誰から吹き込まれたのかを頑として話そうとしない。

 無理に聞き出そうとしても、生きている時間は同じでも六十年を幽霊と過ごしているだけあってさよの方が一枚上手で上手いように躱される。流石は亀の甲より年の功と思ったことは秘密である。

 

「どうしたの、千雨ちゃん?」

 

 さよとの話に熱中し過ぎて声をかけられるまで和美の存在に気が付かなかった千雨の心臓が再び跳ねる。気をつけて振り返ったつもりだが、実際にはギクシャクとした動きであることに本人だけが気づかない。

 

「どうしたって、なにがだ?」

「みんな掃除終わってるのにずっとやってるから」

「え?」

 

 周りを見渡せば、既に過半数が掃除を終えて教室からいなくなっている。

 手元を下ろせば、さよとの話に熱中し過ぎて黒板消しを叩いた時に出る粉が袖に付着していた。当然、黒板消しは綺麗なものである。

 まさか幽霊と話していたとは言えない。

 

「いや、あははははははは」

 

 さよと同じように笑って誤魔化すことしか出来ない。千雨は一つ、大人になった。

 窓の外から二人の対角線上にやってきたさよがそんな千雨を見て、彼女らしからぬ悪戯っ子のような笑みを浮かべた。

 

『千雨さん、朝倉さんは私のこと見えますよ』

「は?」

 

 言われて和美の方を見ると、当の彼女は何を当然のことを言ってるのだと首を捻っていた。

 

「あ」

 

 和美がさよの席の隣で過ごした所為で彼女の姿を見れる希少な人物であることを思い出すことに時間はかからなかった。千雨はまた一つ、大人になった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 アスカの状態の報告の為に三日振りに学校にやってきたネギは、先程覗き見た3-Aの雰囲気の暗さに気を落としていた。

 

「はぁ……」

 

 その原因の一端が自分にもあるので、廊下を歩くネギの雰囲気はクラスにも負けず劣らず暗かった。

 

(ごめんなさい)

 

 ただ、心中で自分が迷惑をかけている人、全てに謝り続ける。一人で背負わせてしまったアスカに、傷つけた明日菜や皆に。

 カモのお蔭で安定はしたが、答えは出ていない。

 今の自分が教壇に立つべきではないと分かっている。多くの人が事情を知って休むように言ってくれた。その好意に甘えて、同じように休職しているアーニャとネカネの分まで一人で出ている千草に負担をかけている。

 

「アーニャは別荘に籠って、ネカネお姉ちゃんはアスカに付きっきり。どうしようか」

 

 よって対外的なことはネギがやらざるをえない。

 やることがある時はいいが、ふと手が空くと、どこまでも鬱屈してしまう。カモがいる時は安定しても一人になるとこうなってしまう。

 

「痛っ」

 

 鈍痛が脳にへばりついてた。鼓動に合わせて、ズキズキと疼く。世界はぼやけており、何もかもが曖昧だった。当然だ。この三日間、あまり寝ていない。

 寝たら悪夢を見てしまう。石化した村人達が呪うように助けを求めてくる夢、アスカが憎しみに囚われて戦い続ける夢、ヘルマンが悪魔の囁きを続ける夢。寝られない。寝ても直ぐに飛び起きる。そして拳を血が出るほど強く握り、ようやく自己を認識する。

 生きながら血肉が腐ってしまったように、力も入らずただ苦痛だけが身体に充満していた。

 

「……なんで、僕は……」

 

 罪からずっと目を背けていた事実が重く圧し掛かる。

 ヘルマンがアスカに言ったことは全てネギにも当て嵌まる。誰かを傷つける為に力を得ようとした自分がいることを認められなかった―――――――つい、この間までは。全て暴かれた。背けていた現実から、罪から。

 

(まるで虫だ)

 

 胸の奥で蠢く、矛盾の結晶。ザワザワと、ギシギシと自分を苛立たせる混濁の天秤。

 現在、ネギ・スプリングフィールドは戦っていた。必死になって、自分の人生最大の戦いを繰り広げていた。ただし、血みどろの死闘を繰り広げているわけではない。戦う相手に姿形はないのだ。即ち、ネギが戦っているのは、自分が六年の歳月に渡って築き上げてきた根幹だったからだ。

 何かの歯車が取り除かれた所為で、普段の思考が一切回らない。そんな感覚だった。根拠の問題ではない。長い時間をかけて考えれば突破口が見つかるとも思えない。単純に考えることに意味がない。まるで地平線に沈む太陽まで辿り着こうとして地上を走り続けるような間抜けさすら感じられる。

 何時までこうしているべきか。意味なんてあるのか。意味がなくてはいけないのか。

 ネギ自身、自分の感情を制御しきれていない。一箇所に纏まるはずの思考が、頭の端々へと散らばってしまっている。その断片のようなものが配線のショートで生まれる火花のように様々な意見を出すが、それらのランダムイメージに統一性はなく、掻き集めようとするおと必ず矛盾にぶつかってしまう。

 何かの切っ掛けがあれば大きく傾く。鋭く尖った杭の上に大きな板を乗せて立って辛うじてバランスを取っているようなものだ。板のどこに指を添えても、どこかの方向には倒れていく。なまじ危ういバランスを保ってしまっているからこそ、ネギは停滞しているのかもしれない。

 ふと、世界が歪んだ。それは目元に浮かんだ涙の仕業であり、湯水の如く溢れ出してくる。ネギは頬を伝う涙を拭おうともせず、ただひたすら自分を責め続けていた。考えたところで結論など出なかったが、そうせずにはいられなかった。自分を責め、傷つける方が気持ち的には楽だったのである。

 怒りと、罪悪感と、自己憐憫と、自分の馬鹿さ加減を棚に上げるなと責める冷静さが入り乱れて、頭が麻痺していた。

 

「―――――ネギ先生」

 

 そんな状態にあったから目の前に誰かが立っていて、自分に話しかけたのだと気づく時間がかかった。

 

「え、あ、新田先生」

 

 自己に沈んでいたネギが何時のかにか下げていた顔を上げると、そこに立っていたのは眼鏡をかけた壮年の教師―――――――学年主任の新田だった。

 新田は話しかけたにもかかわらず、話すことなく知らず涙を流し続けるネギをじっと見つめる。彼はネギを心配して様子を見ていたのだが、自己内罰の悪循環スパイラルに陥っていたネギはまたなにか悪いことをしたかと考えた。

 

「ふむ、ネギ先生。今夜、夕食でも一緒にいかかですかな?」

「は?」

 

 なにやら一人で納得してしまった新田の予想外の提案に、怒られると思っていたネギは間抜けな声を上げてしまった。

 しかし、そこは腐っても明晰な頭脳を持つネギ。あれからは碌に食事も喉を通らないので悪いが断ろうという決断に至るまで時間はかからなかった。

 

「すみません、僕は――」

 

 言いかけたところでネギのお腹が『ぐうぅぅぅぅぅぅ』と遠慮も情緒もない大きな音が鳴った。

 

「………………」

 

 人が人として生きている限り、どうやっても逃れられない宿命というものがある。その内の一つが空腹だ。

 胃袋というものは実に強情に出来ていて、そんな気分ではないからといくら頭が主張しても、どんなに辛い悩みを抱えていようとも、頑として言うことを聞こうとしない。

 悩みがあろうとも関係なしに時間が経って腹が減れば、ぐぅぐぅと遠慮も何もなしに騒ぎ始めるのだ。それはまるで人が生きて動いていれば空腹から逃れられないと暗に示すように。

 我慢というものを知らない自分の体が情けない。しかし、絶食を始めたところで何の解決にもならないことはまた事実だ。しかし、いくらなんでも、このタイミングでそれはないだろうと顔どころか耳まで真っ赤にしたネギは思う。

 

「体は正直なようだ。仕事が終わったら店に案内しよう。私の奢りだ」

 

 怒ったイメージが多い新田の笑顔を見せての純粋な好意を今のネギが断れるはずもなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 今のネギは休職中なので仕事はない。新田の仕事が終わるまで待つことになるかと思ったが、新田は直ぐに職員室の前の廊下で待っていたネギの元へとやってきた。

 

「待たせてすまない。行こうか」

「え、仕事はどうされたんですか?」

「急ぎのはないから、今日は早めに上がるつもりだったんだ。遅くなるといけないから行くとしよう」

 

 新田の言うことを素直に信じたネギは背中を押されるようにして新田と共に学校を出る。

 沈んでいく夕日を背に敢えて電車には乗らず、歩く新田の後を追うようにしてネギも歩いた。

 やがて太陽が完全に沈み、月明かりと街灯で照らされた道を二人で歩く。

 

「どこへ行くんですか?」

「超包子という、君のクラスの超君が経営している屋台があってね。そこだよ」

 

 子供のネギがスーツを着ているのが奇異がられるだけで、二人が並んで歩けば年の差から親子と不思議ではない。会話している様子を外様から見れば、仕事の親を迎えに来た子供が話しながら家に帰ろうとしているように見えただろう。

 

「超さんの?」

「ほら、あそこだ」

「わっ」

 

 新田が指差した方向を見たネギは、路面電車が屋台になっているので驚いた。

 近づいて周囲を見渡すと、置いてある簡易テーブルは殆ど埋まっているようだ。商売繁盛を物語るように、早朝に関わらず数多く外に出しているテーブルは客で一杯だった。

 ネギは空いている席を探したが丁度夕飯時という事と人気の店という事もあり、どこも空いていないようである。どうするのかと思って新田を見上げたが、彼は意に介することなく進んでしまうので慌てて後を追う。

 新田は人の間を通って路面電車の方に行ってしまうので、はぐれないようにネギからすれば十分に大きな背中を目印にして追う。

 向かう先の路面電車を新田の背中越しに見ると、改造して屋台のようにしているみたいだった。

 路面電車の屋台で、まるで待っていたかのようにクックコートを着た3-A出席番号30番四葉五月が立っていた。

 

「いらっしゃいませ、新田先生、ネギ先生」

「やぁどうも、さっちゃん。さぁ、ネギ君も」

 

 これだけ人の多いのに何故か都合よくカウンター席が二席だけ空いていることに疑問を感じたが、先に座った新田に勧められるままに席に座る。

 

「私は何時ものを頼む」

「はい」

 

 新田は常連なのか、それだけで五月には伝わったようだ。

 

「僕は――」

 

 何を食べるかと厨房上にかけられたメニューを見上げたネギの前に、湯気が立つ熱々のスープが満たされた器が差し出された。出したのは当然、五月だ。

 

「どうぞ、ネギ先生」

 

 けして声は大きくないが五月の声は不思議と通る。楽しそうに料理に舌鼓を打っている人の喧騒の中でも、周りには誰もいないかのようにスルリとネギに耳に入ってきた。

 

「サービスの特製スタミナスープです。元気出ますよ」

「あ、はい。ありがとうございます。でも、どうして僕にだけ?」

「ここ数日、あまり体調が良くないようでしたから、これを飲んで元気を出してください。何事にも体が資本、健康第一です」

 

 両手を胸の前に持ち上げて拳を握り笑顔を見せる五月に、ネギの心の底で沈殿していた何かが少しだけ晴れた。

 少し楽になっただけで劇的に何かが変わってわけではない。だけど、ここに来てもまだあった遠慮がスゥッと消えていく。

 

「色々あって大変かもしれませんが体を壊さないように無理だけは駄目です。大変そうですが、お仕事も頑張って下さい」

「………………はい、ありがとうございます」

 

 そこにいるだけで人を安心させる雰囲気が五月にはあった。3-Aでは目立たないが自立心という意味ではクラス一といってもいい。

 五月の優しい心遣いと励ましに素直に甘えることに決め、出された特製スタミナスープをレンゲで掬って口を付けた。スルリと口の中に入ってきたスープは、この数日の食事をインスタント食品で済ませていたネギの舌を潤すように流れていく。

 ゴクリと喉を鳴らして一口飲みこんだネギの口元が自然と笑みの形になる。

 

「おいしい」

「ありがとうございます」

 

 五臓六腑に染み渡るとはまさにこの事だと感じさせてくれた。ただのスープでここまで美味しいと感じさせたのは初めてだった。

 素直に思った感想を伝えると本当に嬉しそうに笑う五月を見て、こちらも理由もなく嬉しくなってくる。

 

「少しは元気、出ましたか?」

「え……あ、はい」

 

 気づかなかったが、何時の間にか出された特製スタミナスープは残り少なくなっている。思い悩んでいたのに卑しく感じ、恥ずかしくなってネギは顔を少し逸らした。

 その逸らした視線の先にいた人がネギを見た――――のではなく、厨房にいる五月を見る。

 

「こんばんは、さっちゃん。何時ものお願い」

 

 他の学校の先生や大学生らしい人達と五月が挨拶を交わしたたりするのをネギは呆然とした様子で眺める。

 

「やぁ。どうも、さっちゃん。席、空いてるー?」

 

 次々にやって来る先生達や学生達に嫌な顔一つせず笑顔で応対する五月に、ネギは感嘆の声を上げる。そうしている間にも新しく来た客達が次々に五月に声をかけていく。

 

「四葉さん、スゴイ人気あるんですね。先生や大学の人達まで」

 

 人の波が途切れたところで、ネギは我知らずといった様子で五月に話しかけていた。

 五月は一度たりとも料理の手を止めずにネギを見て優しく微笑んだ。

 

「私、将来自分のお店を持つのが夢なんです。そうやって、食べ物でみんなに元気をあげられたらなって」

「四葉さんなら絶対持てますよ! だって、こんなにおいしいんだもん!」

 

 とても優しく微笑んで自分の夢を語ってくれた五月に、ネギは素直な賞賛と共に五月の夢の成就を疑わない様子で答えを返す。

 カウンターに座り、五月を尊敬の眼差しで見ているネギの様子に少し前までの落ち込んでいた様子はない。彼女の夢の一端である「食べ物でみんなに元気をあげられた」というのは叶っている。まさに沈み切っていたネギを掬い上げたのだから。

 

「四葉さんはスゴイですね。将来の夢がしっかり決まってて………………毎日お料理をがんばってて……………」

「ネギ先生も、先生の仕事や色んなことを一杯頑張ってます」

 

 五月の言葉は優しいから、肯定してくれるから、ネギにとっては固く沈められた心の檻を突き崩す甘い毒となる。

 

「僕はダメなんです。アスカに頼り切って押し付けて、ずっと目を逸らして逃げていたんです。先生をやるための勉強も何もかも、全部全部、僕の昔の嫌な思い出から逃げるための、嘘の頑張りだったんです」

 

 だからだろう、五月の優しい空気はネギの心を包み込み、誰にも吐露できなかった心中を無意識に話し始めたのは。

 俯き吐露するネギに顔には苦しみに歪んでいた。その手は強く握られていた。

 きっとアスカのようにヘルマンに向かって行くことは出来なかっただろう。ネギはヘルマンが言ったことを認め、真実だと受け入れてしまっているのだから。

 もしかしたら誰かに聞いてほしかったのかもしれない。しかし、ネギはそうすれば他人を傷つけると臆病になっていた。嫌われることが怖かったのかもしれない。

 彼女の穏やかな雰囲気はネギの心の箍を緩める。きっとそれは残酷なことなのだろう。

 

「僕は最低の屑です。その所為でアスカに全部背負わせてしまった。なのに、僕はそれで助かったと思ってるんです。全部全部僕が悪いんです」

 

 隣でゆっくりとビールを飲んでいた新田は、涙をポロポロと流すネギが発した言葉に僅かに反応した。

 ネギの様子が変わったのがアスカが入院した日からであることを考え、その日の日中の二人の様子におかしな点はなかったので明かされた事実が正しいものではないと推測を立てた。だが、真実を暴けばいいものではないと彼の長い教師人生で培った勘が告げている。

 事態は彼が思っているよりも深刻だった。五月のお蔭でネギは抑えていた心の咎を吐露している。今は状況に任せることにした。

 

「いっぱいいっぱい考えました。でも、どうしたらいいのか分からないんです。なのに、傷つきたくないと偽善で自分を守ろとしている。そんな気持ちで先生やってたなんて…………みんなに………申し訳なくて…………」

 

 顔を覆うネギに周りが奇異の視線を向ける。

 新田は視線で周りに自制を求めた。

 有名人である新田のアイコンタクトに周りの人達は普段通りを演じる。なにか大切なことが起こると分かったからだ。耳を傾けはしない。ただ当たり前の状態を維持して、事態の解決を望むのみ。その役目を果たす人は既にいるのだから。

 彼らの好意に新田は深く深く感謝した。昨今は社会の不信が問題になっているが、世界はこんなにも優しくしてくれる。ネギにも知ってほしい。世界はこんなにも優しいのだと。

 

「みんなネギ先生が先生になってくれて良かったと思っています。私も先生と出会えてこうしてお話が出来て嬉しいです」

 

 優しさを伝える人はここにいる。もっとも相応しい幸福の化身のような人が。

 

「誰だって傷つきたくありません。辛いことから逃げたいと思います。完璧な人なんていません。私達は血と肉を持った人なんですから」

 

 顔を覆って告白するネギの肩に、そっと優しく置かれる五月の手。その温かな感触に顔を上げたネギの目に映ったのは、慈愛に溢れながらも力強い五月の眼差し。

 

「嘘の頑張りでも、偽善でも、今のネギ先生を形作っているものです、疎まないで、それでは悲しすぎます」

 

 記憶にある誰のものともどこか違う優しい目がネギを見ている。それだけで確かな安らぎを得ていた。

 

「確かにしてはいけないことをしたのかもしれません。どうしようもなく傷つけたのかもしれません。もう取り返しがつかないのかもしれません。それでも―――――」

 

 強く強く気持ちよ届け、と願って相手を見る。

 

「諦めたりしないで。あなたは此処にいるんです。ずっと止まっていても何も変わりません。悪いことをしたのなら精一杯謝る。変えたいと思ったのなら、これから変えていけばいいんです。私達は生きてるんですから」

 

 五月が言っているのは一般論に過ぎない。だけど、彼女よりも今のネギに言葉を心に響かせられる人はいない。

 

「――――――僕は、許されるんでしょうか? 変われるんでしょうか?」

 

 ネギには五月の言葉に導かれて確かな光明が見えた。

 

「それを決める私ではありません。ネギ先生自身ですよ」

「そう、そうですね」

 

 縋るような光明の先は五月には繋がっていない。彼女はただ一つの答えを示しただけだ。

 ただ、暗闇の中でもがき苦しみ続けていたネギにとってはなによりも救いだった。なにかが劇的に変わったわけじゃない。何も変わってはいない。心の中に整理がついただけだ。

 

「ネギ君」

 

 新田は心の整理をつけたネギに話しかけながら、大変な役目を任せてしまってすまないと五月に目配せで礼を言う。五月は気にした風もなく何時も通りの笑顔を返しただけだ。

 彼女には敵わないな、と新田は思いながらネギの顔を見る。ここに来る前とは全然違う。全ての悩みが晴れたわけではないがスッキリした顔をしている。

 

「君がどれだけ頑張ってきたかはよく分かっている。ここ数日、どうしようもない悩みを抱えていたこともね」

 

 ふと新田は自分がネギと同年代の頃はどうだったかと過去を回想した。

 全てを思い出せたわけではないが、彼のように思い悩んではいなかったのは間違いなく、大した悩みを持つこともなく日々をおかしく楽しく過ごしていたと思う。ネギにもそうあって欲しいというのは、新田の我儘でしかないのかもしれないと少し感傷的になった。

 

「君は子供だ。教師としてもまだまだ未熟だ。半人前にもなっていない。そんな君が失敗するのは当たり前だ。誰も君に完璧さなんて求めてはいない。失敗しろ、とは言わない。だけど、失敗を恐れてはいけない。失敗しなければ学べないこともある」

 

 子供であるネギを完全に同輩と見ることは出来ない。どれだけ能力があろうと、彼はまだ子供なのだ。そして教師としても、人間としてもまだまだ未熟である。

 教師として、大人として、先達がするべき役目を果たす。自らが未熟であった頃にしてもらったように次代へと継いでいくのだ。そうやって人は時代を続けてきたのだから。

 

「進み続けろよ、若者。立ち止まって辿ってきた道を振り返るのはいい。過去から学ぶこともある。しかし、そこで蹲ることだけはしてはいけない。それでは人としても教師としても成長しない」

 

 そこでフッと表情を緩めた。

 

「申し訳ないと思うなら心を入れ替えて向き合え」

 

 ネギの胸に手を伸ばして伸ばした人差し指で突きつける。

 

「教師とは言葉ではなく態度で示すものだ。歩み出した君を周りも分かってくれる」

 

 ネギの胸から手をどけてカウンター席に向き直り、呆然とした様子のネギを横目に置いていたコップを手に持つ。

 

「遅らせながら乾杯といこう」

「は、はい」

 

 新田の言葉にネギも慌ててコップを持つ。

 ビールと五月が用意してくれた水なので合わないこの上ないが、これは儀式だ。ネギが成長するための一歩。長い長い階段の一歩を登るための必要な儀式。

 

「「乾杯!」」

 

 ヘルマン襲撃から引き摺っていた気持ちの落ち込みからようやく本当の意味で立ち直り、心からの輝くような笑顔を浮かべる事が出来るようになったのだった。

 

 

 

 

 

 ゆっくりと出された食事を味わうように食べだしたネギから隠れて、新田と五月はこんな会話をしていた。

 

「さっちゃん、ネギ君には絶対に酒類は出さないようにしてくれ」

「どうしてですか?」

 

 新田に言われてなくても子供のネギに酒を出す気はない。

 

「いや、これはネカネ君に聞いた話なんだが彼は甘酒で酔っぱらったそうなんだ」

「はぁ……」

 

 別にそんなに深刻ぶるような話ではなのではないか、と五月は思ったが深くは突っ込まなかった。

 

「アスカ君は………………超ド級酒乱なんだ。昔、甘酒で酔っぱらって店を一件壊したことがあるらしい。私もあやうく彼が人を壊すところを見た。念には念を入れて、用心はしておいた方がいい」

 

 新田が見る限り、スプリングフィールド兄弟は真面目故に内に溜め込む性質があるように感じていた。こういうタイプは酒を飲ませて酔っ払わせ、タガの一つや二つ外して暴走させた方がいい。だが、双子の弟の酒乱+破壊魔振りを考えると、ネギに勧めるのも危険だと判断したのだ。 

 

「…………」

「本当だよ? 本当だからね! 信じてくれ!」

 

 とても信じられず、酔っ払いの戯言だと思って幸福の化身にはあるまじき白い目を向けられて、必死に説得しようとする珍しい新田の姿が「超包子」で見られた。

 今日も麻帆良は平和である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 次の日のHR、今回の議題は麻帆良祭の催し物。教壇に立つのは休職明けのネギ。

 時期的にそろそろ決めなければ後の予定に響く真面目に取り組んでいる。みんな生き生きとしたネギが信じられず、普段なら騒ぎそうな議題なのに粛々と進んでいた。

 

「えーと………………同じ数の票がありますね。みんなのアイディアから僕が厳正に選考と抽選をした結果、3-Aの出し物を「お化け屋敷」に決めたいと思うのですが、ど…………どうでしょうか?」

 

 黒板には真面目に出されたアイデアが書かれており、多数決で決めることとなったがそれぞれ同数の票が集まってしまった。

 上から「大正カフェ」「演劇」「お化け屋敷」「占いの館」「中華飯店」「水着相撲」「ネコミミラゾクバー」とある。

 まず最後二つの「水着相撲」「ネコミミラゾクバー」は得票数が少ないので外された。

 残った「大正カフェ」「演劇」「お化け屋敷」「占いの館」「中華飯店」はまったく同数。出来るだけ各部活等でやるものとは被らないようにとネギは考えた。

 「中華飯店」は料理を超達がやっている「超包子」と被ってしまうので除外。「占いの館」は出来る人が偏るし、研究会で木乃香がするので同じくアウト。「演劇」も夏美が部活でやるので同じく。「大正カフェ」は良い線をいったが、どうせならみんなで一丸となってやれる「お化け屋敷」が良いのではないかとネギは考えた。

 

「「「「「「「いいんじゃない?」」」」」」」

 

 率先してクラスを盛り上げる鳴滝姉妹・まき絵・祐奈・和美・ハルナ・桜子が親指をグッと立て、他の者達も笑顔で反対の様子はない。

 後は担任である千草の決定次第。

 

「こいつらがこう言うとるんやし、ええんとちゃうか」

「………あ」

 

 何故か苦笑している千草の言葉に、ネギもようやく安堵する。

 ネギは先生としてちゃんとクラスの意見を纏め上げ、3-Aの出し物を「お化け屋敷」に決定させたのだった。これは他の誰でもない。誰の手助けなしにネギ自身がやり遂げた結果だ。

 

「よぉっし!!! そうと決まれば思いっきり怖い奴を!!! お化け屋敷ならお化け屋敷で、色々やりようはあるってもんよ♪」

「お――――っ♪」

「いや、それだけだとつまらんから、やっぱヌーディストお化け屋敷で!!」

「そ、それだ!!」

「それ、ネギ君脱がせっ!!」

「えええ~~!? 何でボク、あ、ちょっ、ダメッ!? あ―――――ッ!?」

 

 まだまだ十全にはいかないけど、変わっていけると、歩みを進めて行けると信じたい。

 

「頑張るぞ――――!!」

『お――――ぅ!!』

 

 こうして、学園全体と同じように停滞していた3-Aも麻帆良祭に向けて動き出したのだった。

 まだ一人の少年と少女を残したまま。

 




相坂さよが長谷川千雨に憑きました(誤字に非ず)

そして困った時の新田先生のご登場です。
描写していませんが、新田先生は超包子に連絡して五月に事情を説明し、席やら取ってもらっていました。

さっちゃん、マジ天使。
そして新田は気遣いの紳士。最後が決まらない辺り、彼らしい。

次回

「明日菜の理由」

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