魔法先生ツインズ+1   作:スターゲイザー

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第36話 明日菜の理由

 

 どうして自分が大学部にあるライブなどに使われる野外ステージにいるのか、ヘルマンに囚われていた時と同じように水の蔦に拘束されているのか、神楽坂明日菜には何も分からなかった。

 辺りを見渡しても周りには誰もいない。ヘルマンもスライム娘達も、あの夜に同じように囚われていたはずの木乃香達の姿も無い。

 誰もいないステージに明日菜一人だけが立っていた。

 

「誰か、誰かいないの!」

 

 耳に届くのは雨の音だけで声に応えるものは無い。

 降りしきる風雨と遠くで鳴り響く雷の稲光は変わらないのに、まるで状況と明日菜だけが過去に戻ってしまったかのようだった。

 前後の脈絡が無い。思い出そうとしても記憶がぶつ切りになっていて、こうなる過程が記憶の中から欠落している。

 水の蔦に拘束された腕はどれだけ力を込めても外れず、どれだけ声を張り上げても誰も助けに来てくれない。

 いい加減に疲れて項垂れていた明日菜は、水を踏み締めて近づいてくる足音が聞こえた。

 

「足音? 助けが来てくれた!」

 

 助けが来てくれたと思って喜色を露にして、近づいてくる足音が聞こえる方角である観客席の最上段の向こうへと目をやった。

 やがて観客席の最上段の向こうから現れたのはアスカ・スプリングフィールド。

 彼は明日菜の姿を目にすると驚異的な跳躍力を発揮してステージ前に飛び降りて、猿のような身軽さで雨が地面を叩く音よりも静かに着地する。

 明日菜までの距離は五メートルもない。目の前といっていい距離にアスカ・スプリングフィールドが立っている。

 助けに来てくれたと思ってアスカに呼びかけようとした明日菜。だから気づかなかった。

 今のアスカが闇より深い黒を連想させ、氷よりも冷たい冷気を連想させるのか、何故こんなにも血の臭いを振りまいているのか、冷たい目をして自分に雷の槍を向けるのか。

 

「アス……!!」

 

 名前を呼んでいる途中で気がついた。唐突に先ほどまで何も持っていなかったアスカの手に正しく魔法のように雷の槍が現れ、標的の眉間に照準が合わせられている。

 後少しでも突き出されれば明日菜の眉間を射抜くだろう。

 貫かれれば人生と呼ばれるものを消し去り、肉体をただの肉の塊に変えてしまう。バチバチと弾ける紫電の音が、雨の中にあってひどく耳に響く。

 

(……、なんで?)

 

 疑問を覚えても、明日菜はアスカを止められなかった。次の行動が読めなかったからではない。読めていたとしても、そんな酷い予想通りに彼が動くとは思わなかったからだ。

 

「――――ッ!?」

 

 アスカから発せられる殺気には、躊躇も誇張も装飾に類する一切がなかった。

 戦闘を経験したことで少しは度胸がついたつもりでいたのだが、直に死神の鎌を突きつけられる恐怖は別物であり、その殺気が本気であることはどんなに鈍感な者でも気づかずにはいられなかった。

 一瞬で過去が走馬灯のように脳裏を過ぎる。

 拘束されていなければ腰を抜かしていただろうし、もし命乞いをしろと言われれば這い蹲って靴を舐めたかもしれない。殺意と共に向けられた雷の槍には、それだけの威力があった。

 こんな雷の槍が自分という人間をこの世から消してしまう、その理不尽さと無慈悲さが頭の芯を痺れさせ、死にたくないという以外の思考は一切働かなかった。

 命の危機に瀕して異常な集中力によって明日菜にはそこまで感じ取ってしまえる。僅かな刹那を永遠と思えるほどの時間が出来てしまっていた。

 

「……あ、ああ……あああ………」

 

 暑くもないのに汗を掻き、痺れにも似た怖気が全身を覆いつくして肌という肌を掻き回している。

 穂先を向けられた明日菜は喘ぐように短い呼吸を繰り返した。心肺機能を動かす脳の制御を拒絶している。肺は勝手にストライキを起こして呼吸をさせず、間違いなく一度止まった心臓は反発するように暴走し喉から飛び出しそうであった。

 咄嗟に確定された未来を見たくなくて目を閉じた直後、死にたくないという明日菜の想いとは裏腹に雷の槍は狙われた眉間を過たず正確に貫いた。

 

「は……っ」

 

 神楽坂明日菜には雷の槍が自分の眉間にめり込み、人体で最も固い頭蓋骨を貫いて脳味噌まで入り込む異様な感覚まで直に感じられた。

 即死しなければおかしいのだが、何故か明日菜には意識があった。

 何時の間にか水の蔦が外れていて、撥ね上がった頭部に引っ張られて体が背中から倒れ込むのが分かった。

 

「――――――――」

 

 幽体離脱して寝ている自分の体を見下ろしているような不思議な感覚と共に、どうして自分が殺されたのかが分からなくて、視線をアスカに向けて喉の奥から引き攣ったような声が漏れた。

 降りしきる雨の中で頭を貫いた獲物を持つのはアスカではない。紛れもなく神楽坂明日菜張本人。慌てて眉間を穿たれて地面に倒れ込んだ自分の姿を見ようとした。

 そこに倒れているのは神楽坂明日菜ではなかった。ハマノツルギで頭を貫かれているのは、確かに雷の槍を放ったはずのアスカ・スプリングフィールド。殺したのは自分で、殺されたのはアスカ。

 

「いやぁぁぁあああああああああああああああああああああああ――――!!!」

 

 目の前の覆しようのない事実を前にして明日菜は絶叫した。

 

 

 

 

 

 夜が深まり、まだまだ太陽が昇るには幾ばくかの時間を要する女子寮の一室で一人の少女が目を覚ました。

 普通にではなく悪夢に魘されて、悲鳴を上げて飛び跳ねるように明日菜が布団から飛び起きる。

 

「明日菜!?」

 

 同じ部屋の二段ベッドの下で寝ていた木乃香が明日菜の悲鳴に寝ていたところを起こされ、急いで布団を跳ね除けて彼女の様子を確かめようとした。

 部屋の灯りを点けて二段ベッドに備え付けられている木製の階段を登って目にしたものは、涙を流し全身を汗で濡らして震える明日菜の姿。

 

「はあ、はあ、はあ…………あれは夢?」

 

 自分の額に傷ががないことを確認するように手が触れる。

 湿っているのではなく濡れるほどの汗を全身から出して何かに脅えるように震えていたが、自分がいる場所が野外ステージではなく自分の部屋だと理解して、さっきまでの光景が夢なのだと理解を始めていた。

 

「大丈夫なん、明日菜?」

 

 尋常ではない汗を掻いて震えていた明日菜が落ち着いてきたのが分かったので、ベッド柵に手を付いた木乃香は心配げな様子で話しかける。

 

「…………うん、大丈夫。また夢見が悪かっただけだから」

 

 明日菜が言ったことは本人にとっては嘘などついていない事実だった。

 一週間も続く毎日のことであれば対応にも慣れてくるというもの。悪夢には決して慣れないくせに、こんなことには慣れていく自分が醜く思えた。

 

「こんな時間に起こしちゃってゴメン。汗掻いちゃったからシャワー浴びるわ」 

 

 何かを言われるよりも先に汗で濡れたパジャマを摘んで謝りながら、心配気な視線を振り切るように言って起き上がって階段を使わずに二段ベッドの上から飛び降りる。

 木乃香が階段を下りるよりも早く、着替えを持って部屋に備え付けられているシャワー室へと行ってしまった。 

 

「明日菜……」

 

 灯りの着いた、誰もいなくなった部屋の真ん中で木乃香は一人で親友を想う。

 いくら口で大丈夫と言われても血の気を失った顔色と艶を失った髪の毛では安心できる要素は欠片もなかった。だけど、事情を間近で知っているが故に下手な慰めを言う事が出来ず、また明日菜も同情されることを嫌がっていることに察しがついていたので何も出来なかった。

 

「あれからもう一週間も経つんやな」

 

 カーペットにお尻をつけて女の子座りをしながら壁に掛けられたカレンダーを見て、今更ながらに月日が流れていることに気がつく。

 一週間前に突如として麻帆良学園都市に現れた悪魔ヴィルヘルム・ヨーゼフ・フォン・ヘルマンによって引き起こされた、明日菜を初めとして自身も深く関わった事件。明日菜、木乃香、刹那、のどか、夕映、古菲がヘルマンと彼の手下であるスライム三人娘によって拉致された。

 彼らの目的は、何者かの依頼による『麻帆良学園の調査』を主として『ネギ・スプリングフィールド』『アスカ・スプリングフィールド』『カグラザカアスナ』が今後どの程度の脅威となるかの調査も含まれていた。

 彼らによって誘拐された彼女達を助けるために、誘拐されたことを知ったアスカ達がやってきた。

 ヘルマンは自身がアスカとネギの故郷を滅ぼした張本人であり、彼らの大切な人達を石化した元凶。ヘルマンが正体を見せた直後だった、アスカの様子が激変したのは。別人と言ってしまった方が信じられた変化を見せた少年が抱えていた闇を木乃香達は知らなかった。

 その後のことについて正確なことは木乃香には分からなかった。敵同士であった彼らだけが認識していて、詳しい事実を木乃香が知らないこともあるのだろう。

 やってきた千草らによって別の場所に移された木乃香達が目にしたものは、人知を超えた超人の戦い。人でありながら人を超え、天変地異を引き起こす彼らの戦いは想像を超えていた。結果だけを言えば、神話のような闘争はアスカの勝利で終わった。

 アスカは恐怖を抱いた彼女達の前から去って行った。

 自由になったはずなのに明日菜は一晩中泣いてばかりだった。手を伸ばしたアスカを拒絶したことに親友である木乃香ですら見たことがないほどに取り乱している。

 

「まだ夜も明けへんか。考え事してたら眠気も飛んでしもうたわ」

 

 この一週間のことを振り返っていたら眠気が完全に吹っ飛んで眠れる気がしなくなってしまった。

 立ち上がって窓際によってカーテンを少しだけ開けて外を見ると。まだ暗く日の出の気配を見せていない。

 

「さて、明日菜が出てくる前に眠れへん時の定番のホットミルクを作っとこうかな――――って、あかんな。自分で上げたテンションに付いていけへん」

 

 言葉通りに無理矢理テンションを上げようとしても自分の言葉に付いていけなくて肩を落す。

 ネガティブになるよりはポジティブにいこうと努めて明るく振舞おうとしたが、夜中に起こされたことによる寝不足による低いテンションとあの事件から部屋に沈殿している暗い空気が逆に痛々しさを強調するだけだった。

 それでも明日菜が上がってくるまでに肩を落としたまま冷蔵庫から牛乳を取り出し、台所に置いていた小さな鍋に二人で飲む分だけ入れてコンロに弱火で火を点ける。

 うっかり離れるとあっという間に噴いて大惨事を引き起こすのは、この一週間の経験で分かっていた。洗って置いてあったコップを二個取って傍に置いておく。

 ギリギリで火が点いているレベルなので出来上がるには少し時間がかかる。

 早く寝たいのなら火を強くするところだが明日菜が出てくるにはもう少しばかり時が必要になってくる。きっと風呂場でも声を殺して泣いているのだろう。一度だけ遅すぎるので覗こうとして、微かな嗚咽を聞いてしまってからは待つことにしている。

 数分間、木乃香は茫洋と鍋を眺めながら、昼休憩に3-Aの委員長である雪広あやかと話した内容を思い出していた。

 

「いい加減に逃げるのは止めにせんとな」

 

 そう木乃香が自分の手の平を見ながら呟いたのと、泡が鍋肌に立って来るのと、明日菜が浴室から漏れ聞こえてくる水が流れる音が止まったのは殆ど同時だった。

 火を止めて出来上がったホットミルクをコップに移している時に、風呂場で泣いていたのか目元を紅く晴らして新しいパジャマに着替えた明日菜が出てきた。

 

「ホットミルク出来たで。飲もう」

「うん、ありがとう」

 

 振り返ってホットミルクが入ったコップを掲げる木乃香に明日菜は弱々しいが確かな笑顔を見せた。

 

「「………………」」

 

 移動して今となっては二人でいることが常態となった部屋でテーブルを挟んで座って向かい合う。

 暫くの間、無言でホットミルクをちびちびと啜る音だけが部屋に響く。

 無言の気まずい空気に最初に耐えられなかったのは木乃香を起こしてしまった責任を感じている明日菜の方だった。

 

「ねぇ…………アスカ、大丈夫かなぁ」

 

 ヘルマンの事件から次の日の前日の嵐を考えれば不思議なほど晴れ渡った日、学園長であり祖父の近右衛門から連絡が届いた――――アスカが昨夜に重傷を負って意識不明のまま病院に運び込まれたと。

 詳しくは聞かされていないが、アスカがヘルマンとの戦いで負った傷は大きかったはず。

 

「お祖父ちゃんは命に別状は無いって言うてたしな。後遺症とかの心配はないって」

「でも、何度も心臓が止まったって」

 

 外傷だけでも全身に数え切れない程の傷や各所の骨折は見て取れていた。特に酷かったのは皮から骨が突き出している左拳と、折れた肋骨が肺に突き刺さったことによる呼吸困難。治療中にも何度も心臓が止まって危なかったと聞いた時の明日菜の顔が今でも忘れられない。優れた治癒術師の努力の甲斐もあって何とか峠も越したと聞くまでは木乃香も生きた心地がしなかった。

 

「お医者さんや麻帆良で一番の治癒術師さんが頑張ってくれてるって。意識はまだ戻ってないけど」

 

 言い過ぎたと思った時には既に遅い。

 ズーンと影を背負って床に沈み込んでしまった明日菜を前にして、木乃香に出来ることは多くない。

 

(どうしたらええんやろうな。やけど、何時までもこのままっていうのも)

 

 明日菜のこともあって数日前に面会を申し込んでも祖父は許してくれなかった。

 怪我の状態のこともあっただろうし、木乃香達の間に流れる空気を察したこともあって面会は認められなかった。或いは、祖父は全ての事情を察していたのかもしれない。

 

(あの噂もお祖父ちゃんがなんかしたんやろうな)

 

 アスカの怪我は嵐に紛れて侵入した不審者達が生徒たち数人を拉致しようとしたのを撃退して、その際に持っていた爆弾に巻き込まれたものによる重症を負ったものとされている。真実でありながら肝心な部分だけをぼかした情報。恐らく祖父である学園長が何らかの策を打ったのだろう。

 3-Aの生徒達数人の様子がおかしいことが事情を知らない者達に情報の信憑性を高めさせた。

 普段のアスカの正義感に満ちた行動は麻帆良学園都市の殆どが知るものであり、実際に入院しているという情報も流れたこともあって誰も疑うものはいなかった。

 入院、事件の被害者らしい様子のおかしい数人の生徒達を抱えた3-A。敢えて深く詮索する者もいなかった。

 古菲は事件に巻き込まれて深く考え込んでいることが多い。古菲と似たような状態にあるのどかと夕映にハルナは周りよりも親友二人に目が向いていた。

 数人がこのような調子であったため、他の少女達も二の足を踏んでいた。

 ネギは元に戻ったことで以前の雰囲気に戻ってきているが、何かが欠けたような欠落感はどうしても拭えない。

 

「アスカ君が戻らんからやな」

 

 ポツリと呟いた一言は小さすぎてコップに目を落している明日菜には届かなかったようだった。

 祖父からは回復に向かっていると聞いているが面会は変わらず謝絶のままで、どんな状態なのか実際に目にしていないので様子が分からない。

 理由を聞いても祖父は難しい顔をしたまま答えてくれない。

 

「――――木乃香はアスカの事、どう思っているの?」 

 

 視線を手元のコップに落としたままの明日菜が呟いた言葉を、物思いに耽っていて危うく聞き逃しそうになった。

 

「どう、とは?」

 

 何を聞きたいのかは最初の問いだけで分かった。だけど、自分から口に出す気にはなれなくて逆に問いを返した。

 逆に問いかけられた明日菜は僅かに鼻じろんだような表情を浮かべて木乃香を見つめ、やがて諦めたように一つ息を吐いて再びコップに視線を落とした。

 

「怖くないのかってことよ」

 

 ボソボソ、と普段の明朗闊達な明日菜を知っている者なら別人かと思うほどに小さな声で問いの主題を明らかにする。

 木乃香はコップを持ち上げて口に運び、まだ温かいホットミルクを一口だけ口に含み嚥下しながら問われたアスカのことを考える。

 

「…………怖くないって言ったら嘘になるかもしれんけど、うちは怖くない」

 

 言い切った木乃香に逆に明日菜の方が怯んだ。

 

「明日菜の方こそ、怖いんやったらお爺ちゃんに記憶を消してもらえばええやん」

「記憶を消すなんて……」

「あんなことがあったんやし、消しても無理ないと思うで。それに別に全部忘れてしまったわけや無い。あの夜のことだけとか」

 

 一般に記憶消去といっても万能ではない。メリットしかないように見えても必ずデメリットは存在している。

 記憶消去の魔法は実際の所は記憶の封印でしかなく、切っ掛けがあればふとした拍子に記憶が蘇ってしまう可能性を孕んでいた。

 

「本当はな、記憶消去の魔法って魔法がバレた時に使うものじゃないんやって。本来は忘れてしまった方が良い出来事を治療目的で行うために開発された魔法やって」

 

 別に記憶の操作とは、魔法の秘匿のためだけに行うものではない。心のケアが必要だと判断した場合にも行う物である。

 暗示と言う意味でなら、科学的に解明されており、催眠療法として使われる事もある。

 心と身体はどちらかが失われれば必ずもう一方もバランスを崩し失われる。つまり、死だ。身体が死ねば、一瞬の死を。精神が死ねば、緩やかな死が待っている。

 大きな怪我をした時、身体の場合なら使い物にならなくなった腕を肩から切り落とすといった種類の処置というものがあり、末端を切り捨てる事によって本体を守り、命を繋げると言う方法がある。これは心にも当てはまり、今回のケースは心が負った傷を、その傷ごと消去してしまうのだ。

 だが、この魔法にも当然の如く限界は存在する。何でもかんでも消去したり変形させたり出来るわけではないのだ。

 その条件を大まかに言えば、記憶が新しいこと。そしてあまり情報量が多くないこととなる。行使者の力量によって許容範囲は上下するが、基本的にはそれが守られていないと改竄できない。たとえ出来てもそう遠くないうちに自己修復される。

 心を守るために魔法を行使すれば一時的な混乱はあるかもしれないが決定的な破滅は迎えない。

 

「明日菜も一度は思わんかったか? こんな思いをするなら忘れてしまった方がええて」 

「私はそんなこと……」

 

 一度も思っていない、と言いかけて明日菜は口を閉じた。

 アスカの絶大な力を目の当りにして瞼の裏に今も焼きついていて、眼を閉じればついさっきの出来事のように思い出せる。そこらにある物をまるで最初から存在しなかったかのように灰燼に帰し、人の想像の域を超えた戦闘を行う姿は圧倒的と言うにも愚かしい。その力を前にしては、自分などは吹けば跳ぶような卑小な存在でしかない。

 復讐に狂った姿は、正真正銘の悪魔であったヘルマンよりも普段の姿を知っている分だけ、あまりの変わりようを見せるアスカの方がずっと怖かった。 

 

「分かってるけど、どうしても記憶を消すことに対して納得が出来ないのよ」

 

 理性で理解は出来ても感情が納得できていないということか。

 この一週間の間にすっかり染み付いてしまった陰気な雰囲気を撒き散らす明日菜に、喋っている間に少しずつ冷めてきた残りのホットミルクを飲み干した木乃香は何かを決心したようにコップをテーブルに置く。

 昼休みに見た、深く深く頭を下げて頼むあやかの姿を思い出して、明日菜の親友として木乃香は自らが目を逸らし続けた傷を曝け出す決意を固めた。

 

「今日な、昼に委員長に言われてん。蚊帳の外にいる自分には何も出来ないから明日菜を助けてやってほしいって。だから明日菜、見てて」

 

 生温くなってきた一口も口を点けていないホットミルクに視線を落していた明日菜は、あやかのことが話題に出た時点で顔を上げていた。

 顔を上げた先ではコップを置いた木乃香がテーブルに置きっ放しになっていた、アーニャから貰った初心者用の杖を持っている。

 木乃香が何を見て欲しいのか分からなかったが直ぐに分かった。

 

「プラクテ・ビギ・ナル、火よ灯れ」

 

 別荘内ではどれだけ頑張っても出来なかったのに、集中するように眼を閉じて木乃香が杖を振って呪文を唱えると、いとも簡単に杖の先に小さな炎が現れる。

 杖の先に火を灯すだけのなんとも地味な魔法であるが、ずっと火を灯すことが出来なかったことを知っていた明日菜から見ればそれだけでも凄い光景だった。

 

「木乃香、あんた何時の間に魔法を使えるようになったのよ」

 

 暗い雰囲気も忘れて問いかける。

 

「初めて試してみたから、これはせっちゃんも知らんことやけどな」

 

 ずっと出来なかったことを出来るようになったというのに、火を灯し続ける杖先を見つめる木乃香に喜びの色は見られなかった。それどころか気がつきたくなかったことを分からされた寂寥感すら感じられた。

 

「うちが始めて魔法――――というか魔力を使ったんは、修学旅行でアスカ君の怪我を治した時や」

 

 杖の先に灯した火の向こうにあの日の光景が映っているかのように木乃香は見つめ続けている。

 

「修学旅行が終わってから魔法の勉強始めたけど、わりかし治癒魔法は感覚でいけるのに他は全然あかんかった。当然やな。うちは心の奥底で人を傷つける技術を学ぶことが怖がってたんや」

 

 言葉を示すように火が小さくなり、魔法を怖いと言った時には完全に消え去っていた。それどころか杖が少しずつ震えを大きくしていた。手から、全身から魔法に対しての怯えから来る震えだった。

 

「魔法を習っていればいずれうちもアスカ君を傷つけた、あんなことをした技術が使えるようになってしまうかもしれん。どこかでそう思ってたから最初の段階で躓いててん。自覚したらこの通り、今までの苦労がなんやってくらいにあっさり出来たわ」 

 

 目の前でどこか自虐的に笑って震える手を握り締める木乃香の姿に明日菜は何も言えなかった。

 明日菜は自分の頬が火照るのが分かった。涙が溢れようとするのが分かった。

 哀しいのではない。辛いのでもない。

 

(あたし、莫迦だ)

 

 生まれて初めて、彼女は心の底から己を恥じていたのである。

 悩み、苦しんでいるのは自分やネギ達だけではない。何かを悩んでいる古菲・夕映・のどかも、刹那も木乃香もみんなあの夜のことで抱えている。

 あやかにも謝らなければならない。喧嘩友達のようなものだが責任感の強い彼女に心配をかけた。

 もしかしたら木乃香や高畑以上に自分を理解してくれている。幼馴染というものは良くも悪くも肩肘を張らない存在でいい。彼女らには自分の弱いところも情けないところもみんな知られている。格好つけなくてもいい。気負わなくてもいい。それは幸せなことだ。

 

「ごめん、ごめんね木乃香ッ」

 

 明日菜は衝動に駆られてコップを置き、テーブルを回り込んで震える手を握り締める木乃香を抱きしめる。

 この一週間ずっと迷惑をかけぱっなしで自分のことだけしか省みなかった我が身を悔い、親友の気持ちに何一つ気づいてやれなかったことを謝り続ける。

 

「明日菜の所為やないねん。うちだって明日菜を慰めることで自分を許そうとしてたんや」

 

 言いかけた言葉を喉の奥で詰まり、嗚咽が漏れ出てくる。

 抱きしめてくる明日菜に返すように相手の体を強く強く抱きしめる。

 今の彼女達はどこかに歯車を落して何かが狂ってしまった機械のようなものだった。互いが互いを支えとする寄る辺として必要とすることで、少しずつ前に進もうとしていた。そうすることで、壊れきった歯車の一つが噛み合う。

 この夜、少女達は何かを変えるわけでもない小さな小さな一歩を踏み出した。それでも確かな一歩として何かが変わっていく。今はそう信じたい。でなければ、世界はあまりにも残酷すぎる。

 

「…………………」

 

 部屋の中から聞こえてくる啜り声が止んだのを察して、明日菜達の部屋のドアに背中を預けていた桜咲刹那は静かに息を吸って心の中に沈殿した何かと一緒に二酸化炭素を吐き出した。

 ドアに預けていた背中を離し、振り返って丁度背中に当たる部分に張ってあった符を剥がす。

 これは他言無用な会話をする時などに用いる音を外部に漏らさないようにする認識阻害の符。こんな夜更けに見張りをしている自分の姿を知られない為に張っていたものだ。

 

「明日からはもう必要ないか」

 

 寝静まっている女子寮内では小さな物音一つでも驚く程響く。ポツリと呟いた一言が誰に聞こえるのか、刹那の言葉はひどく小さなものだった。

 一週間前から夜に悪夢に飛び起きる明日菜の為に刹那の独断やっていること。

 術者である刹那には中の声が聞こえていたので、あの様子ならば明日からは必要ないだろう。

 自分も部屋に帰って寝ようと、どこか落ちた肩とこの二週間で寝不足が染み付いた鈍い頭で考えて部屋の前から去ろうと踵を返した直後。

 

『ありがとうな、せっちゃん』

 

 ふと、そんな念話が刹那の脳裏に響いた。続く言葉は無い。だけど、それだけで何を伝えたかったのか十分に理解できた。

 刹那は木乃香が自分がいると分かった上で先程の会話をしていたのだ。だから敢えて言葉を返すことなく、部屋に頭を深く深く下げる。そしてさっきまでどこか落ちていた肩は普段通りに元に戻り、顔にも覇気を取り戻して部屋へと帰って行った。

 彼女もまた小さな一歩を踏み出した一人だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ゆっくりと自身の意識が回復し、ベッドに寝かせられているのに気付いた少年――――アスカ・スプリングフィールドが閉じていた瞼を開くと白い光が目の奥に刺さった。

 悲しい夢を見ていた気がする。

 身体を起こそうとして頭を上げて、鈍い痛みが全身に走る。痛みに目をぐっと瞑り、思わず顔を顰めた。

 

「つぅ……」

 

 ぽとんと柔らかく清潔な枕に頭が落ちる。視界に映るのは白い部屋。ちょっと痛みを堪えて首を動かして周りを見る。

 白い壁、白い天井、白いカーテン、何もかも清潔そうで味気ない部屋だ。病室の一室らしい。

 大部屋ではなく個室だった。建物自体はそれほど新しくはない。小さな部屋にドアからもっとも遠い場所に置いてあるベッドに寝かされていた。

 

「あら、気がついたのね」

 

 左の方から女性の声が聞こえた。アスカは寝たまま視線を向けると二十代後半ぐらいの看護師らしき女性が立っていた。

 声をかけられたことで見ていた夢が手の中から砂のように零れて落ちていく。数瞬後には何の夢を見ていたのかすら忘れてしまった。

 寝起きだからか、考えが纏まらない。

 取りあえず知らない相手なのと、相手が年上で看護師っぽい服装だから経緯を払わなければならないと回らない思考が働く。

 

「ここは、病院か?」

「ええ、あなたは一週間も眠り続けたのよ。待っててね、ドクターを呼んでくるから」

 

 窓から見える青い空には高く日が昇り、爽やかな風が開いた窓から入ってカーテンを揺らす。太陽の高さから見て静かな昼下がりだった。

 

「あ、はい」

 

 目を覚ました時、偶々いた看護師がアスカに端的に状況を説明して、慌しく医者を呼びに病室を出て行った。

 

「一体どうなってる?」

 

 看護師の話を聞くと、運び込まれて一週間も寝続けていたらしい。

 目は覚めたが相変わらず頭は働いてくれず、自分がそんなに長期間寝ていた実感が湧かない。意識がなかったので食事を食べれず、腕に繋がれた栄養補給用の点滴が流れていくのを何となく眺めていると直ぐに看護師が連れて来た医者が病室に入って来た。

 やってきた医者はまだ若そうだが、やり手の人間が持つ出来るオーラを纏った白衣の男性である。

 

「やあ、調子はどうだい?」

「頭がぼうっとしてるだけで悪くはないです。痛みも殆どないし」

 

 やってきた医者はアスカを見て優しく話しかけた。

 体を起こしたアスカはあちこちに小さな疼痛はあるものの、大抵の肉体的な痛みは我慢できるので日常生活に問題はなさそうだった。

 グチャグチャになったはずの左手も若干の動き難さはあっても手の形をしていたので、思ったことをそのまま伝える。

 

「そうかい? どれどれ……」

 

 言いつつ、医者はアスカに触れることなく見えない物を見るように目を窄めた。

 アスカは微かな魔力を感じて反応しかけたが、近くにいた看護師に止められた。どうやら検査の一環らしく、彼らは普通の医者ではなく魔法関連の人物であったようだ。

 全身に走るこそばゆい感覚に落ち着かなくて、モゾモゾと動くと医者の隣にいた看護師に窘められる。

 やがてその感覚も消え去り、医者は眼鏡を外す様に息を吐いた。

 

「殆どの傷が治ってる。一週間かそこらで治るはずはないのだが、凄まじい生命力だ」

「はぁ」

「一週間起きなかったのは治癒に専念するためだったのか。むぅ、普通の人間に出来ることではない。解剖して調べたいみたいな」

「何を言ってるんですか、先生」

「ぐはっ!?」

 

 物騒な台詞が出たような気がしたが取りあえず傷が治っているなら良いことだと、当の医者が看護師にぶっ飛ばされて壁にめり込んでいるのを見て何も聞こえず見えなかったことにしておいた。

 

「げほっ、ごほっ…………大事を取ってもう二、三日入院しておいた方が良い。合法的な検査なら問題あるまい」

 

 ぶっ飛ばされることに慣れているのか、見る間に治癒魔法で自分を癒しながらめり込んだ壁から出て言う医者の対応に、今直ぐ退院した方が体の為に良さそうだとアスカが決断するのに一秒もかからなかった。

 医者と看護師が揃って退室してから窓から自主退院しようとしたアスカの目論見は、入れ替わるようにやってきたネカネによって頓挫した。

 

「アスカ!」

 

 アスカが布団を捲ろうとしたところで病室に入って来たネカネは、無事な姿に感極まったように涙を流してベットに駆け寄って来た。

 

「本当に……無事、で……良かった!」

 

 開口一番ネカネは、負った怪我を気にして比較的無事だった右手を握りながら、顔を俯かせて感極まったように涙声で無事を喜ぶ。それだけでアスカもネカネに多大な心配をかけていたことを悟り、申し訳なく思った。

 輝くような金髪が輝きを失い、頬もしっかりと食事を取っていないからかコケている。寝れていないのか、目元の隈も凄い。余程の心労を溜めていたのだろう。

 

「心配をかけてごめん。もう大丈夫だから」

 

 握られている手を握り返して言葉で大丈夫だということを伝える。泣くほどに心配を掛けたのかと申し訳ない気持ちと、そこまで思ってくれることに少し嬉しくも感じていた。

 暫くの間、ネカネが落ち着くまで部屋には、すすり泣く声やアスカの落ち着かせようと若干、慌てた声が響く。

 

「そっか、一週間も寝てたのか」

 

 実感もなさそうに呟くアスカに、ネカネは不器用に高畑からの見舞い品であるリンゴの皮をナイフで向きながら聞く。

 

「皆さんに後でお礼と謝罪をしないといけないわよ」

「え~」

「色んな所にご迷惑をかけたから当然です」

 

 面倒臭いことが大嫌いなアスカは良い顔をしないものの、ネカネとしては当然の話である。

 この病院や休学、教職の休職をさせてくれたりと色々と便宜を図ってくれた学園長や、見舞いに来てくれた高畑を始めとして多くの人に心配をかけているのだ。まだ退院の話は出ていなくても全員に頭を下げて回らないといけないと考えていた。

 

「あのステージを壊したのはヘルマンだって」

「そういう話じゃありません」

 

 困ったことに、ネカネが切ったリンゴを食べるアスカには人に心配をかけたことに対する自覚が薄いのだ。

 危険に首を突っ込みたがる癖に自分の安全を度外視していることが、少し怖いとネカネは感じていた。何時か、アスカが突っ走ったまま帰って来ないような気がして。

 

「明日菜ちゃん、アスカを心配して泣いていたわよ」

 

 言った瞬間、アスカの表情が凍った。

 固まったのではなく凍った。

 凍らせたまま、呟かれた言葉は表情と同じく冷たかった。

 

「関係ない」

 

 自分には関係ないのか、もっとの別の理由かは少ない言葉と表情からでは察することは出来なかった。

 それでも踏み込むべきは今だとネカネは決心する。

 

「せめて顔だけでも見せてあげて。無事だって安心させてあげないと可哀想よ」

「関係ないって言ってるだろ!」

 

 ドン、と叫びと共に叩かれたベットが軋む。

 あまりの力に振動する床と漂う暴力ヘの気配に心胆が冷えていたが引くわけにはいかない。これでもネカネは怒っているのだ。

 

「なんで関係ないの? 明日菜ちゃんはアスカのことを心配してるのよ」

 

 その言葉にアスカは苛立ちを瞳に滲ませながら鼻を鳴らした。

 

「心配なんかしてねぇよ。俺を怖がってるだけだ。ネカネ姉さんは何があったかを知らないから」

「なにがあったかは聞いてるわ。明日菜ちゃんがどういう反応もしたかも」

「なら……!」

「あなたは本当に明日菜ちゃんがその反応だけが全てだと本当に思ってるの?」

 

 ぐっ、とアスカが続きの言葉を言い淀んだ。

 言い過ぎだと、彼女らを遠ざけている自覚が本人にも十分にある証拠だ。

 

「あんなに仲が良かったのに、どうして急に遠ざけようとしたの? 明日菜ちゃんの能力が分かったからにしても突然すぎるわ」

 

 それがずっと疑問だったのだ。魔法無効化能力は確かに希少で、使い方によってはとても危険な力だ。遠ざけようとしたアスカ達の配慮も分かる。

 しかし、前のアスカであったならここまで関わってしまった以上は本人の意志を確認し、それでも関わり続けるというなら意地でも守ろうとしたはずだ。その変化の原因が分からない。

 

「俺が弱いからだ」

「弱い? アスカは十分に強いわ」

「いいや、修学旅行で良くわかった。エミリアを守れず、フェイトにも敵の誰にも俺一人じゃ勝てなかった。ヘルマンにもそうだ。ネギの手助けがなけりゃ負けてた」

 

 顔の前に掲げた両の拳を強く握ったアスカは、睨み付けているその先に敵がいるかのようだった。

 ネカネが聞いた話では、フェイトなる人物はエヴァンジェリンをして自分と同格を言わしめ、ヘルマンは上級悪魔の一柱。そのような相手と戦い、生き残っている時点でアスカの実力は十分に証明されていると感じる。

 

「俺は強くならなくちゃいけない。強くなくちゃ、誰も守れない」

 

 続いた言葉に違和感を感じた。

 ずっと長いこと薄らと感じていたそれに手を伸ばす。

 

「どうしてそこまで強くなることに拘るの? 弱くていいじゃない。守れなくてもいいじゃない。あなたはまだ子供だもの。守られてもいいのよ」

「それでも!」

 

 噛みつくように叫びかけたアスカは、今いる場所が病院であることを思い出したように続く声を呑み込んだ。

 落ち着くように長く息を吐いて、布団に包まれた自分の膝を見下ろした。

 

「俺は、弱い俺を許せない」

 

 ポツリと呟かれた続きは言葉少ない。

 

「あの背中を覚えてる。もう駄目だと思って、諦めかけた時に現れた強い背中を」 

 

 ナギのことを言っているのだと直感した。

 

「親父みたいに強ければ、みんなを守れる。誰も傷つかなった。強ければ、あの時も誰もいなくならなかったはずなんだ」

「あの時のアスカは今よりももっと小さかったのよ。そんなことは不可能'よ」

「分かってるよ、そんなことは。それでも俺は」

 

 アスカは六年前のことを忘れていない。それどころか過去に囚われていた。

 

(ナギさん……英雄として、魔法使いとしての貴方には尊敬します。でも、親としての貴方には軽蔑します)

 

 彼らさえいればアスカだけではなく、ネギだってここまで苦しむことは無かった。

 英雄として魔法使いとしてのナギに、魔法学校に通う未熟な魔法使いの身としては素直に尊敬の念を抱く。

 きっと傍にいられなかったのも命を賭けるに値するだけの何かがあったのだろう。だが、二人の従姉として、姉としては軽蔑する。どんな理由があっても、どれだけ大切なことがあったとしても正しいことがあるはずがない。

 

(どうしてあんなタイミングで現れたんですか? もっと早く現れてくれれば、アスカ達はここまで苦しまずにすんだのに)

 

 後少しで命を奪われる瞬間の鮮烈過ぎる登場で、兄弟はその背中以外を見れなくなった。

 ネギはまだいい。少しでもナギと話をすることが出来たのだ。だが、アスカはそれすらも出来なかった。覚えているのは、悪魔を一蹴する強者の背中だけ。

 二人はまだ子供だ。その背中を求めぬはずがない。相手が父親であるなら当然のように。

 六年前に囚われたまま、逃れるように父の背中を目指している。

 父を探し、その背中を追い続ける選択をしたのは本人たちかもしれない。その所為で、二人は自分の夢を持てなくなってしまった。父のような偉大な魔法使いになりたい、父のように強くなりたい、なんて命を賭けてまで望んでる時点で、ただの子供でなくなってしまった。

 

「俺じゃ、明日菜を守れない。怖いんだ。何時か明日菜を、みんなを巻き込むんじゃないかって、叔父さん達のようになるんじゃないかって、怖いんだ」

 

 後悔、不快感、不満、嫉妬、劣等感、怨み、苦しみ、悲しみ、切なさ、怒り、諦め、絶望、憎悪、空虚、と有りと有らゆる感情がアスカの顔に浮かんでは消え、一時たりとも留まることなく変化し続けた。ネカネはアスカが六年間の間に抱えていた重い想いを垣間見た気がした。

 

「それでも、この手は私をみんなを守ってくれたわ。私達は今のアスカが好きよ」

 

 ネカネは腕を伸ばして、膝の上に置かれてきつく握られたアスカの手に触れた。

 この六年、アスカは先頭に立ってずっと進み続けて来た。ネギもアーニャは、その背中を追っていたに過ぎない。ただ前だけを見て、道なき道を踏破してきたアスカの苦しみをネカネは知らなかった。

 ネカネに出来ることは、傷と疲れを癒し労わることだけ。ずっと前から、飛ぶことに疲れたアスカの宿り木になると決めたのだから。

 

「――――ありがとう。守ってくれてありがとう、アスカ」

 

 握り締める。その手を力の限りに握る。

 逃さぬように、私は此処にいるよと、一人じゃないのだと教えるように、その程度では決してアスカが止まらないことは分かっていても強く強く。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 同時刻、明日菜の耳は轟々と流れていく風の音だけを捉えていた。

 

「確かにエヴァちゃんに鍛えてほしいって言ったのは私だけど――」

 

 吹雪が全てを暗く覆っていた。あちこちでささくれ立ち、列断面を荒々しく地面が隆起させているが、それを除けばどこまでも雪に覆われた地面が続き、その光景は人知を超えた世界だった。

 

「――――冬山はないでしょうにヒマラヤってどこよっていうか寒い!?」

 

 薄曇りの空だが、どこまでも銀世界が続いていることが分かる。風は肌が切れそうなほど冷たく、微細な雪の結晶が空気の中に詰まっているのではないかと思うほどだ。口を開けて呼吸をすると喉の奥まで凍ってしまいそうな気がする。

 

「こんな中で死ぬなって無理でしょあのロリババアはっていうか痛い!?」

 

 吹雪が神楽坂明日菜の身体を冷やしていく。横殴りの風に乗って運ばれる雪が彼女の髪を濡らす。

 雹風に身体をギリギリと苛まれ、服なんてあってないようなものでガタガタと全身が震える。

 

「誰がロリババアだ、あん?」

 

 自然の猛威の前には屈することしか出来ない無様な人を空中から見下ろすエヴァンジェリンの眉間にはっきりと浮かぶ青筋。

 明日菜の口から滑り落ちた「ロリババア」発言にお冠のようだ。

 

「む? まあ、いい」

 

 しかし、当の明日菜はそれどころではなく身を縮めて寒さを凌ごうとしていて、その姿を見れば溜飲が下がったようだった。

 

「私に鍛えてほしいなら貴様の意志を示して見せろ。手っ取り早く、死ななければそれで良しにしてやる。最も今のままでは三十分も持たないだろうがな」

 

 仮契約カードを失った明日菜がこんな極寒に生身でいれば程なく凍死する。それを分かった上でエヴァンジェリンは告げる。

 

「どうする? ここで止めるのも一つの手だが…………ふん、一丁前に意志だけは固いか」

 

 地上から意地でも引かぬと瞳が物語っているのを見届け、ポケットから小さな鐘を取り出して明日菜に向かって投げた。

 

「その鐘を鳴らせば助けに来てやる。但しそこで今までの話は全てナシだ。今後、一切私に頼るな」

「やるわよ、やってやるわよ!!」

「その心意気だ」

 

 そう言って笑い、エヴァンジェリンは遠ざかっていく。

 明日菜はその姿を見送ることなく、直ぐ近くに落ちた鐘を見た。

 これを鳴らせば助けてもらえる。だが、明日菜はその選択を選ぶわけにはいかない。

 

「やってやるわよ」

 

 もう涙も流しつくした。明日菜は何も掴まなかった指を、ジッと眺めた。

 何が正しいかも分からず、ぽつりと落ちた自分の影を眺める。

 

「やってやるわよ!!」

 

 失う物は何もないのだ。怖気づきそうな気持ちを叫びで吹き飛ばして歩き出した。

 せめて吹雪を避けなければ三十分も持ちそうになかったから、今の明日菜の心の行き先のように目的地も決めずに進むことしか出来なかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 神楽坂明日菜には夢も希望もない、なんてそんなことを言うとネガティブな人と思われるがこの場合、夢と希望の意味が違う。

 明日菜は基本的に楽天家だし、毎日がそこそこ楽しければそれでいいという性格をしている。強烈に何かが欲しいとか、素晴らしい理想があるだとか、そういうことが全くないのだ。

 周囲に特別なものを求めていたりはしなかった。毎日、それとなく学校へ行って、くだらないことを友達とお喋りして、そんな日々が胸を張って幸せだと断言できた。

 友人と毎日顔をつき合わせて適当に騒いで、何の目的も意味もなく、とりとめもなく過ぎていく日々が何よりも好きだった。

 早く保護者の高畑の庇護から抜け出して独り立ちをして、世話になった人達に恩返しがしたい。将来の夢といえば他人が聞いて微笑ましいその程度のものしかない。

 他人から見ればちっぽけな夢と希望でも、これまでは適当に生きてければそれなりに満足できた。

 だからそんな日々が何時までも続けばいいと思った。

 永遠に続くなんて、もちろん思っていない。ただ、中学にいる間ぐらいはそんな関係が続けばいいと心の中で願っていた。

 そして何時かは離れ離れになっても、何年かに一回くらいは偶に顔を合わせて、昔が懐かしいなんて思い出話にふけるような、そんな関係を続けていければ他に望むものなんて何もない。

 失われて初めてその大切さが分かると言うが本当だ。平和な日常が掛け替えのないものなのだと、明日菜は改めて思い知る。

 明日も今日も同じく東から太陽が昇り、自分も朝になったら目を覚ます――――――――そんな当たり前は実は確実なものであるという保証などどこにもないのだ。だが、現代の日本を生きる大多数の人間がなんの確証もなく、そんな明日が来るということを疑いもせずに生きている。なんとも平和で呑気な話だ。

 何時も傍にあるものは、永遠にそこにあるわけではない。そんなことは分かっていたつもりだ。でも、実際にいなくなって初めて失ったものの存在をはっきり感じることが出来るのであった。

 明日菜もまたそんな明日を信じていた身だ。だが、修学旅行、ヘルマンの襲撃、アスカからの否定を通して同じ明日を信じることは出来なくなった。変わらぬ日々が続いてほしいという明日菜の願いは叶わなかった。

 明日菜を取り巻く環境は否応なく変化している。ならば、彼女自身も変わらねばならない。周囲が停滞を赦さない以上、彼女自身が動かなければならない。

 

「はぁ……」

 

 なのに、今は雹風に塗れてもう一歩も動けない。

 ただの人でしかない明日菜が極寒の冬山にいること自体が土台無理な話だったのだ。希少な能力を持っていようが自然の猛威には何の役にも立たない。

 眠くて仕方がない。こんな氷原の中で眠ってはいけないと思っても睡魔が襲ってくる。抗えず、どんどん体の上に雪が積もっていく中で瞼を閉じた。

 

「……ぁ」

 

 全身を包む光を、感情を感じさせない目で明日菜はただ見ていた。意識が消えるような錯覚と共に遠い夢を幻視する。

 暗いトンネルをくぐり抜けるように閉ざされてしまっていた本人も知らない過去の記憶。

 朝焼けのなか、まだ幼い明日菜は港の埠頭に腰をかけていた。

 遠くには、エキゾチックな街並に囲まれた丸屋根の荘厳な建築物が見える。 港に停泊する船舶の多さを見ても、なかなか隆盛している街であることが窺い知れる。

 しかし、明日菜にはその街に関する記憶はない。どこか分からないし、行った記憶もない。そもそも……………。

 

『いいか? 左腕に魔力! 右腕に気……』

『左腕に魔力、右腕に……うわっ』

 聞こえてきた二人の男性の声に幼いアスナが振り返る。

 現在の明日菜好みの背広姿で低い声をした渋いおじさんに相対するのは、Yシャツにネクタイといった出で立ちの今よりずっと若いというか青臭さが抜けていないタカミチ。

 渋い男性の動作を真似するように胸の前に持ち上げていたタカミチの両手のひらの間から、火花が飛び散って集まっていた光が消失する。

 

『駄目だ駄目だ。いいか、タカミチ。自分を無にしろ。そんな調子じゃ習得するまでに後五年はかかるぞ』

『は、はい』

 

 名も知らぬ咥え煙草の男性の駄目出しにしょげるタカミチの姿など今からは想像も出来ない。

 明日菜の記憶に残るのは煙草を吸い、泰然自若として揺るがない姿ばかりだった。この映像の中だけで言うなら、髭といい、煙草といい、壮年の男性の方が今の高畑に似ている。

 いや、この映像が過去の出来事だとするならば高畑こそが壮年の男性に似ているのだろうか、と疑問が積み重なる。

 

『よぉ♪ 姫様は今日も元気か?』

 

 そこへ投げ掛けられた聞き覚えがないのにどこか懐かしいと感じる若い男の声。

 その声の主を今の明日菜は知らないが、彼こそネギとアスカの父にして巷ではサウザンドマスターと呼ばれた男――――ナギ・スプリングフィールドである。

 若かりし頃の木乃香の父親である近衛詠春と、ナギに良く似た白いローブ姿で男にしては長い髪を垂らす澄まし顔の男性の二人が、ナギの両側を固めている。

 

『あっ、ナギさん、皆さん、おはようございます!!』

『バーカ、タカミチ、さん付けはやめろっつってんだろ、ナギでいーっての』

 

 慌てて立ち上がり挨拶するタカミチに、ナギは呆れたような半笑いで答える。

 ナギ達三人がやって来るに伴い、集まってきた仲間たちを見て時間的に頃合かと修行を終わらせ「飯にすっか」と腰を上げる渋い男性。

 

『何やってたんだ』

『あ、いえっ、ガトウさんに少し修行を……』

 

 タカミチがナギの質問に答えている間、手持ち無沙汰の幼いアスナは、渋い男性――――ガトウやタカミチの真似をしてみる。特に何も考えず、ただ暇だったからという理由で。

 

『左腕に魔力………右腕に気…………』

『おおっ!?』

 

 幼いアスナの両手の間に光が生まれ、タカミチのように無様に四散することなく、渦巻いて固定された。

 

『……!?』

『はっはっは、抜かれたな、タカミチ君』

 

 それを見て驚きのあまり言葉すら発することも忘れてしまったように固まってしまっているタカミチの肩を、詠春が軽く叩いて愉快そうに言う。

 

『スゲースゲー、さすが姫様』

 

 珍しいものを見てはしゃぐ子供のように、ナギも感嘆していた。

 

『これなら将来、良い魔法使いの従者になれますね』

『ハハハ、嬢ちゃん。おじさんのパートナーになるかい?』

 

 ローブの男性が幼いアスナがしたことに驚きながらもその資質を見越し、その発言に乗っかったガトウが冗談めいた口調で問いかける。

 

『…………ナギでいい』

 

 問いかけに対して幼いアスナは今と違って感情の薄い目をしたまま否定するように首を横に振る。一同を品定めするように見渡して、ナギで止まった途端にそんな爆弾染みた発言を投下した。

 

『げ……』

『お……?』

 

 アスナの意外な発言にガトウとナギの声が同時に上がり、アスナの発言がツボに嵌ったフードの男性が顔を背けて笑っていた。

 

『いーぜ、いーぜ! アスナ、幾らでもおしめが取れたらな!!』

『なんであんたはそんな全方位にモテモテなんだ!』

『やっぱおっさんはダメか――――!』

『ククク』

『おしめしてない……』

『アスナちゃん、タバコ嫌いなんですよ師匠』

 

 ナギの破顔と共に爆笑が巻き起こり、詠春の嫉妬、ガトウの中年故の慟哭、ローブの男性の含み笑い、アスナの的外れな反論、タカミチのアスナがガトウをパートナーに選ばなかった理由を言ったりと確かな幸福な光景が展開されていた。

 明日菜の視界が白光で覆われた。 我を取り戻した時には、現在の14歳の肉体。

 だが、垣間見た記憶のように胸の前で手の平を向かい合わせていた両手の間には明日菜の身体に力を染み渡らせるような凄まじい力が循環していた。現実に意識を戻した光は、今、両手の間に生じているエネルギーの光だったのである。

 知らない記憶、知らない力、知らない過去。ハッキリと認識出来てたのはそこまでだ。鍵はまだ開いていない。存在しえない記憶は壁の向こうに追いやられ、疼きだけが心に残る。

 寒さを感じなくなって開かれた瞼の先では、変わらず雹風が吹き荒んでいる。

 

「これは……」

 

 立ち上がり、全身に薄く立ち上がるオーラのようなものを見る。

 

「私はこれを、咸卦法を知ってる?」

 

 足元からむず痒いような痺れが這い上がってくる。決して、寒さからくる凍傷の所為だけではない。

 ここに居てはいけないと急かされるように歩き出した。

 項垂れた顔が見ているのは、変わり映えのしない雪の地面ではなく落ちている自分の影である。自分の足がどこへ向いているのかすら分かっていなかった。

 早くどこかへ行かなければ。でも、どこへ行ったらいいのか分からずに彷徨い続ける。

 肉体をきつく縛り上げられたようで、ただ心だけが、ここ以外のどこかへ、どこでもいいから必死に駆け出そうとしている。そんな不安、居心地の悪さ。

 

「何これ。何か、すっごいバカっぽい」

 

 口の端が、勝手に笑み歪む。自分は何をしているのだろうか、気張って足掻いて何が出来たのだろうか。

 

「……………何で、こんなことになっちゃったんだろ……………」

 

 心から込み上げた疑念のままに、明日菜は空を仰ぐ。

 何時の間にか見覚えのない場所にまで辿り着いてた。雪で歩きづらいと言いながら、実際には随分と早足で抜けてきたようだ。ノロノロと歩き続けながらも、時間や距離の感覚がぼやけるほどに呆然としすぎていたのか。

 どうにか切り抜けなければ命すら危ういのでうんざりしながらも、明日菜は足掻きを再開した。

 

「こんなところにまで来て、こんな終わり方なんて………」

 

 どれだけ明日菜が頑張っても、血を吐くほどに努力してもアスカ・スプリングフィールドは喜ばない。それでも、明日菜は何かがしたいと思う。抱えているものを、少しでも軽くするために。

 神楽坂明日菜には詳しい事情なんて掴めない。何一つ聞かされていないのだから判断など出来る筈がない。

 アスカは人との距離に敏感なのだ。無理やり腕を掴んでしまえば振り解くようなことはしないだろうけれど、そうでなければさりげなく最適の距離を取ろうとする。

 

「どうして――」

 

 無謀をする気力が足りないことか、このような状況を打破できる器用さが足りないことか、或いはなんでもいいから都合の良い奇跡が足りないことか。

 次々と呪ってから、明日菜は歩を進める。

 朦朧とした意識のままで歩き続けると、頭に閃くものがあった。

 

―――――叫んでも無意味だ

―――――既にもう遅い

―――――ここから出たとしてどうするのか

―――――どのみち、会ってどうするつもりなのか

―――――着いて行きたいのか?

 

 はたと思いついてぴたりと動きを止める。一番肝心なことを考えていなかった。

 

(謝りたいとは思っていたけど、その先は?)

 

 両足を膝まで雪に覆われながら目をパチクリして、面食らったような心地だった。

 喉元に刃物でも突きつけられたように、動けなくなる。実際に体力を消耗して身動き取れず、足掻くための動機すら実は曖昧だった。

 時間もない。じわじわと思い出す。重苦しい寒気がある。

 

(着いて行きたいの? 一緒に)

 

 なんとはなしに、首を逸らす。

 視線を上げた先に今の自分の心境とは裏腹に、何時の間にか吹雪も止んでいて雲一つない青空が広がっていた。

 

(分からないんじゃない。怖いんだ)

 

 幾ら頭で考えたって駄目だ―――――どうせ答えなんて出やしない。考える振りをするのは詭弁と同じだ。まずは認めなければ進めない。

 拒絶が怖いだけだ。会おうとすればまた拒絶されるかもしれないから。

 祈りを込めて、負けないように、想いを抱きしめるように胸に両手を当てて、空を見上げていた目をそっと閉じて、裡に想いを馳せる。

 恐怖と正反対の気持ちを呼び起こす。きっと今この時も厳しい眼差しで敵を見据えて、ただ一人で戦おうするアスカの大きくなった広い背中。

 

「そうか」

 

 明日菜は自分がいつも叫んでばかりいたことに気付いた。

 見ているばかりだった。

 誰かに、きっと上手くいく方法を教えてもらって、正しいと思うところを指し示してもらわないと歩けない。

 気づくと自分は何時も誰かを見送る立場。

 期待するばかりで、祈って、願って、信じるだけ。動いても誰かの指し示した道を通るだけ。

 アスカにも、ただ自分のエゴで離れてほしくないと期待した。

 想っていれば上手くいくのだと、虫のいいことだけを考えていた。何故、何時もそうなのだろう。立ち止まって、何もしないで、声だけを上げて叫んだりするだけ。

 違う。それだけなら誰にでも出来る。自分には自分にしか出来ないことがある。

 

「そうか」

 

 また繰り返して、目を見開く。

 明日菜は呟いて口の端に苦い塩味を感じた―――――自覚せず、思い至った事実に泣いていたらしい。

 

「分からなかったのは、これだったんだ」

 

 少女は自分の気持ちを、その想いがヒトのなんという感情に値するかを理解していた。強く激しく狂おしく求める剥き出しの願望、ささやかな願い、何を犠牲にしても惜しくない程の剥き出しの欲望だった。

 あった。ずっとアスカと一緒にいたいという気持ちは、確かにこの胸にあった。今溢れ出す涙の温かさが、息も出来ないほどの歓喜がその証だ。

 失くしてなんかいなかった。また傷つけられることに怯えて、ずっと目を背けていただけ。それをやっと認めることが出来た。現実を見るべきだと、考えれば分かるはずだった―――――が、怖くて出来なかったのだ。

 

「ずっと目を背けて、ずっと見ない振りをして、一体何をしてきたのかしら」

 

 その答えに辿り着いた瞬間、明日菜の心は今までにないほど晴れ渡っていた。

 そう考えれば、あの態度も納得がいった。捨てられたんじゃない。蚊帳の外に――――いや、中に置かれたのだ。自分は外に戦いに向かっておきながら。

 答えに行き着くと無性に腹が立った。こんな大事なことに、中心人物である自分を輪の内側に隠して何とかしようだなんて。そんな優しさは――――馬鹿にしている。アスカが誰の目にも届かない場所で、孤独に終わってゆくことなど、明日菜には耐えられなかった。

 

「本当に私は馬鹿だよね」

 

 理屈はどうでもいい。

 

「会いたい。一緒にいたいよ」

 

 泣き笑いみたいな声で言いながら、手で顔を覆った。

 時には思いっきり泣くのもいいけれど、哀しみを涙に混ぜて全部捨てて、泣き終わったら歩き出すべきだ。

 泣いて、泣いて、何かが変わるのをずっと待っていても無意味で、涙と一緒に大切なものまで流して失ってしまう。

 それも少しの間だけだった。

 覆っていた手を下ろすと、露わになったオッドアイの瞳は嘗てない決意に満ちていた。

 

「……行か、ないと……」

 

 ぎゅ、と拳を握る。

 アスカは勘違いしている。どんな理由で守られているのだとしても、彼女はそこに埋没できないのだ。

 そこを抜け出せないと胸の高まりは何時も萎れてしまう。だから、勝ち取らねばならなかった。

 心配させているだけのただの我が儘だ。それでも多分間違っている一途さで、胸に手を当てて覚悟を決める。

 この気持ちを、どう受け止めるのだとしても。

 

「答えは出たか?」

 

 何時の間にか、背後にエヴァンジェリンが立っていた。

 明日菜は振り返り無言で首肯した後、僅かな怪訝な表情を作った。エヴァンジェリンの顔が真剣さを凝固させたように強張り、何かを訴えかけるようにな眼差しを明日菜に向けていたからだ。

 明日菜は次に続くエヴァンジェリンの言葉を待ち、そして彼女が口を開いた。

 

「何故、アイツに会いたい?」

 

 言いたいのはそんなことではない。だが、想いを形にして言葉にすることが出来ない。他に問いたいことはいくらでも出てくるが、どれ一つ形にはならず、結局、無難なことしか聞けなかった。

 

「何故って?」

 

 続く言葉が出なかった。意外な質問というのじゃなくて、本当に意味が分からなかったのだ。

 

「アイツはお前を拒絶した。また追いかけたところで結果は変わるまい」

 

 それはエヴァンジェリンに言われるまでもなく、明日菜も分かっていた。ふとした疑問であっても容赦なく心を抉る質問に明日菜は、睨むほど強くでもなく、相手を見やった。

 

「本心ではエヴァちゃんも追いかけたいんでしょ? 私と同じじゃない」

 

 帰ってきた言葉とは裏腹に明日菜の瞳には強い意志が見て取れた。とても当てもなく彷徨う旅人のような行動に出ようとしている瞳の輝きではない。一世一代の行動に出るために決意を固めた覚悟のような意志の光が分かる。

 言い返してきた言葉に、エヴァンジェリンは首を横に振る。

 

「そうだな。あいつと一緒に行けば退屈せずにすむだろう。だが、私には出来んさ。前よりかはマシといっても麻帆良に縛られていることに変わりない」

 

 アスカの後を追っていけば戦いの道を進んだとしても絆を育み、もしかしたらナギではなくアスカを求める日が来たかもしれない。だけど、自分が変わることが怖くて彼女はここに残ることを選んだ。

 

(そんなことは……)

 

 明日菜は、声に出さずに呟いた。この問題に関しては赤の他人に過ぎない彼女に分かるわけがないし、言えるはずもない。

 実際に、彼女の中で追いかける明確な理由があるわけでもなく、自身とエヴァンジェリンに違いがあるのかどうか―――――本当に殆ど違わないことだって、やはりあるのだろうから。

 惹かれていたのは確かなのに、その惹かれた心をどう表現したらいいのか、まるで見当もつかなかったのだ。

 だが、エヴァンジェリンの問いは、まだ明日菜の小さな針をぶれさせて存在を確認させる力があった。

 

(どうして…………私はアスカのどこに惹かれたんだろう)

 

 明日菜は考える。感情の理由を探るという、ひょっとしたら意味のないことを一生懸命にやる。

 

「ああ……」

 

 やがて答えに至って勝手に声が漏れた。

 

「だからよ」

「ぬ?」

 

 自分にしか聞こえないようにボソリと呟く。といってもエヴァンジェリンの耳には聞こえたようで困惑の色を示した。放った言葉には、思った以上の意味がある―――――自分の口から出た声音に、そんなことを意識した。

 そこまで思い至った時、明日菜は不思議な感覚を覚えた。

 きゅん、と小さな針で胸を突かれたような―――――痛いというよりも切ない。そしてちょっとだけ甘やかな感覚。

 初めて知る、とても不思議な感覚だった。胸の動機が止まらない。トクトクと高鳴っている。

 

(………………そう、なんだ)

 

 知らず知らずの内に、彼女は自分の胸に手を当てていた。

 端的に表現するアスカは馬鹿だ。他人の為に命を賭けて、いない人を探して人生を浪費している。

 アスカは優しい。困った人を見ると放っておけない。自分の身の安全も考えずに飛び出して助けようとする。要するに見た目通りに子供だったのだ。悪意を知らない子供のまま大人になってしまったかのようだった。

 誰かが泣いていたら、助けずにはいられない人。誰かが泣きそうになっていたら、それもやっぱり助けずにはいられない人。そしてその度に傷だらけになって、それでもやっぱり助けられて良かったと笑う人なのだ。

 見返りが欲しかったわけじゃない。誰かに評価してほしいとか、対価を受け取りたいとか、そんなつもりは全然ない。彼が人を助ける理由は自らの中にあったのだから。

 余人にはアスカの行動を理解することは不可能である。あらゆる人間は自らの為に行動する中で、平気で他人の為に死地に飛び込む。

 人によっては自殺願望があるのかと思う。だからといってアスカは自らを止めようとはしないだろう。

 身近に助けられる命があるかもしれないのに、指を咥えて眺めていられるほどお利口さんにはなれない。

 全世界でどれだけの命がたった今、危険に晒されていてその全てを救えると驕っているわけでもない。個人に出来ることは少ない。手も伸ばせるところまでしか届かない。

 でもアスカは精一杯手を伸ばして誰かを助けられたら、死にそうな目にあっても命一つを守れただけで良かったと笑うのだ。

 

(そうなんだ、私は――――)

 

 神楽坂明日菜という一人の少女は気付いた。今日、この日、この時、この瞬間、自分の内側にはこんなにも軽々と体裁を打ち破るほどの莫大な感情が眠っていることを。

 胸の裡で渦巻く不透明な感情の渦から浮かび上がってきたのは、その想いだった。

 

(――――――アスカのことが好きなんだ)

 

 気づいたら好きだった。失った時に、初めて好きだということに気付いた。

 好きになった理由は判らない。自分のことを助けてくれるからとか、そんな理由で好きになったんじゃない。

 泣いている誰かを見捨てられない。自分が傷つくことなんかよりも、誰かを助けられたという事実のことの方を大切にしている。その誰かを見捨てないでいられたこと、助けられる自分がいられたこと、そんなことを喜んでいる。そんな人だから好きになった。

 本当に自分でも信じられない。信じられないけど、どうやら認めなくてはいけないようだ。神楽坂明日菜は、あのアスカ・スプリングフィールドに好意を持ってしまっている。

 感情はどこからやってくるのか説明など出来ないし、理由を付けた途端に陳腐な嘘になる。未熟な言葉は、人の想いを綴るには小奇麗で、露骨で、断定的で、不自由すぎた。これが分からないままなら、どんなつもりでいようと、自分はアスカを追ったとしても途中で挫折していただろう。

 どうしようもなくアスカの傍に行きたい。

 雨の日のあの瞳の色は、どこか思い詰めているような輝きだったが、ただ思い詰めているのというのは違っていた。そのアスカの辛さのようなものが感じられた。明日菜の感じすぎではない。

 アスカの傍に行かなければと心が叫びを上げる。

 それが、倫理や理性や体面や世間体や恥や外聞までもが関係ない、ただただ自分自身を中心に据え置いた一つの意見こそが、まさしく神楽坂明日菜という人間の核なのだと。惨めで醜く我侭で駄々をこね―――――それでいてどこまでも素直な剥き出しの『人間』なのだと。

 

(きっと色んなことが変わっていく―――――私だけじゃなく、みんな)

 

 胸を押さえた明日菜はそれを感じていた。

 変化と戦い、かつ拒絶しないこと。それが自分たちを傷つけることを恐れて離れてしまったアスカに教えなかればならないことだったのだから。

 

「?」

 

 言葉の複雑さに、エヴァンジェリンが困惑するのが見て取れる。

 それを手助けも後押しもせず、突き放す心地で続ける。

 

「アスカもそう思っているかもしれないから、会いに行くの」

 

 明日菜は自らに言い聞かせるように、ゆっくりと言った。

 目の前の彼女がどう反応するのかなど気にしない。突き放すというのはそういうことだ。

 

「今までどうしてアスカが私達を拒絶したのか、ずっと考えてた」

 

 呟くと、エヴァンジェリンが僅かに顔を顰めるのが見えた。失望の色だ。彼女は話が逸れたと感じたのだろう。だが、明日菜は構わずに続ける。

 

「事情は大体だけど分かってる。でも、それがなくても私たちを置いて行ったでしょうね」

 

 思い返せば、アスカは何時だって周りと一線を引いていた。

 本当に大事な一線には身内以外誰も立ち入らせようとしなかった。そんなことは、ただの明日菜の思い込みかもしれない。

 目に見えない小さな溝。他者との間にある些細な違和感。

 

「そりゃ、止めようとして盛大に拒絶されたわよ。でも、どれだけ先送りにしても何時か似たような展開になったと思う」

 

 あの日の別れの情景を思い出して、言葉が途切れる。

 彼と自分たちの関係の全てが終わった日であり、違うものが始まった日でもある。無意識の内に拳を握り締めて明日菜は続けた。

 

「自分は―――――皆と違う自分が私たちを傷つけてしまうから一緒にいられないって思ってる。私には―――――そのことだけは、アスカの間違いだって言える。だって、私だって傷つけたんだから」

 

 明日菜の拒絶に耐えて、堪えて、揺れて、きっと辛かっただろう、傷ついただろう。それでも決意して明日菜の手を振り払った。静止に声にただの一度も振り返られなかった。

 

「殴ってでも理解させないといけないの。それが私がアスカを追いかける理由」

 

 少女の言葉には、何かを吐き出すような、どこか誇らしげな響きがあった。それが男というものの背中を追う恋する乙女だけが持つ強さなのだ。

 

「そりゃあ、足手まといだって分かる。でも、私だって手伝えることがあるでしょ」

 

 やっと、これだけ悩み続けてきたのか分かった。

 放っておけないからだ。強くて、凛として、とても怪我なんてしそうにないのに、アスカは何時だって砕けてしまいそうな危うさがあった。それが放っておけない。気になって仕方がない。だからどうしても追いかけたい。

 

「私はアスカに関わりたい。あんな別れで、いなくなられるのは嫌。会いたい。謝りたい。このままじゃ駄目なのよ」

 

 このまま全てを過去にしてしまうわけにはいかない。絶対に追わなければならない。何よりも詫びなければならない。

 悔しい。悲しいとか寂しいとか、そんなのじゃなくて悔しいのだ。腹が立って収まらなくなった。過去を恐ろしいと思わないはずもないけれど、深く心の底から理解できるはずもないのだけれど、それでも近くにいたいと思ったから。

 

「追いたい。行かないといけないの。もし傷ついているなら助けたい。それだけで私には十分な理由」

 

 言い切った。

 眼を閉じてその時のことを思い出して、素直な気持ちを口にして強く握り締めた拳から力を抜く。

 もはや誰と話していたかも、一瞬、忘れかけていた。

 声にも力が入りすぎていたかもしれない。少々ばつが悪くなって、エヴァンジェリンを見やる。だが、彼女もまた話など忘れているかのようにぼんやりと遠くを見つめていた。

 彼女がここにはいないアスカのことを考えているのは、想像できた。

 

「信じているんだな、アスカのことを」

 

 長い、沈黙とも思われる時間が過ぎてからエヴァンジェリンが重い口を開いた。

 

「伊達に好きになったわけじゃないわよ」

 

 真っ直ぐに、てらいなく少女は言う。

 気恥ずかしくなるぐらい純潔な言葉は、それだけで一つの力だ。エヴァンジェリンは息を止め、明日菜を正面から見やった。オッドアイの幻想的な瞳が、底に澄んだ光を湛えていた。

 

「そうか、そうだな」

 

 エヴァンジェリンは本当に久しぶりに力みの抜けた笑みを漏らした。

 気がつくと常識外れな真似を仕出かしているナギやアスカに惚れた女同士、どこか通じ合えるものがあった。 

 見上げた空は高く高く澄み渡り、目が覚めるような蒼穹の空。アスカの瞳の色。

 聞きたいこと、話したいことが沢山ある。落ち着いて向き合う時間を手に入れるために、いまはやれることを全部やってみせる。空を見上げた明日菜にはその思いが腹の底に固まっていた。

 




まずは明日菜のターン。持つべきは友人であり親友だよねというお話。

書いていて恥ずかしくなる今日この頃。

次回

「世界樹の下で」

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