魔法先生ツインズ+1   作:スターゲイザー

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第43話 剣か、人か

 

 舞台でCブロック第二試合である長瀬楓と山下慶一が試合をしている頃、タカミチ・T・高畑は地下にいた。

 龍宮神社の一人娘である龍宮真名が高灯篭に向かうのを見て気配を消して後をつけて超と会っているのを確認し、高灯篭から地下の下水道へ通じる直接通路を発見した。当然、超鈴音の動向を探っていた高畑は危険を承知で探ることを決めた。

 

「驚いた。こんな大きな下水道が麻帆良に地下にあるとは」

 

 強度を確認するように壁を叩きながら歩いていた高畑は一人ごちた。

 年数で言えば十年を超えるのに、自分が麻帆良について知っていることはそれほど多くは無いのかもしれないと、アルビレオ・イマが十年間も隠れ続けていたことを考えれば高畑がそう思うのも仕方ないのかもしれない。

 

「学園長は間違いなくアルがいることを知っていた。それは間違いない」

 

 或いは詠春も、と高畑は冷静になった頭で考える。

 この麻帆良で学園長である近衛近右衛門の目を掻い潜ることは出来ない。例えアルビレオ・イマであってもだ。であるならば、学園長は知らなかったのではなく知っていて高畑には伝えていなかったと考える方が納得できる。

 詠春は紅き翼関係で知っていると思っただけで根拠はない。もしかしたら彼は知らないのかもしれないが、一人で蚊帳の外に置かれていると錯覚した高畑には全てが疑わしく思えた。

 地下なのに不思議と灯りはつけられているが必要最低限のため薄暗く、下水道だけあって匂いもそれなりにある。

 環境に左右されないように高畑の精神状況はどこまでも悪化していく。

 高畑の若々しく精悍な顔は、光の加減の所為か、まるで今日一日だけで十も二十も年老いてしまったかのように見えた。

 

「十年前、全てはそこから発している」 

 

 ナギの消息が分からなくなり、アスナを狙うメガロメセブリア連合の刺客が急に増えだした時期。全ては十年前に行き着く。

 ナギに同行していたアルビレオが麻帆良にいるというなら何があったのかを確実に知っているはず。学園祭が終わったら…………いや、超の動向がハッキリ次第直ぐに学園長かアルビレオを力尽くでも問い詰めることを決めた。

 いい加減に下水の匂いに耐えかねて、これなら少しの匂いを出してもバレやしないと、精神を落ち着ける為に止められなくなった煙草に手を伸ばそうとした瞬間だった。

 

「やれやれ。こんな所まで来てしまたカ」

 

 その声が掛けられたのは、高畑が今通って来た道からだった。

 在り得なかった。タカミチ・T・高畑ほどの男が声をかけられるまで接近に気付かなかったことが。

 

「!」

 

 壁を背にして進行方向と背後を見れるように体を開いたのは戦闘者としての本能だった。

 進行方向からも人の接近を察知したからだ。こちらは流石に声をかけられる前に気がついた。

 

「顔色が良くない。体調が優れないようですが、高畑先生?」

 

 字面だけを読むなら生徒が教師を心配しているようにも聞こえる。だが、実情は違う。声をかけた二人目――――龍宮真名はその両手に銃を構えて、高畑に照準をつけているという戦う気満々の姿だったのだから。

 

「君達は……」

 

 高畑は素早く目を左右に走らせて状況を確認する。右手側の来た方向に超が立ち、進行方向に両手に銃を構えている真名がいる。二人の間に高畑が挟まれていた。

 

「どういうことだい?」

 

 突破口を開くために真名に話しかけながら、何時もの戦闘態勢であるポケットに両手を入れた形を取る。

 

「仕事です」

 

 言葉少なに、表情を完全に殺しきっている真名の銃身に一ミリの揺れも無い。

 

(不利、かな)

 

 馴染んだ戦闘態勢を取りながら、高畑は状況の不利を認めざるを得なかった。

 真名は戦闘者として相対した場合、高畑をしても油断ならざるを得ないと想定している相手である。例えば先の武道大会のようにルールに縛り付けずに、殺し合いの舞台に立った時、彼女は高畑が相手であろうとも躊躇はしない手合いであることを理解していた。

 戦争を知るからこそ、勝利の為に非情に成り切れる面が彼女にはある。それでも一対一であるなら負けるとは思わなかった。真名の本分は狙撃。姿を現して、これほどの近距離にいるならば如何様にでもやりようがあった。

 

「元担任に対して申し訳ないが私には時間がないネ」

 

 高畑が不利と思うのはイレギュラーである超鈴音の存在にあった。

 高畑は彼女がどれだけの戦闘力を持っているのかを知らない。機械に精通し、魔法にも通じているからこそ絡繰茶々丸を生み出したことは知っている。しかし、単体の戦闘力がどれだけのものかを知る者はいない。

 武術の腕では古菲に劣るらしいことは耳にしたことはあるが、彼女が気や魔法を使うのかが分からない。情報が少なすぎる。

 

「降参してくれないカ、高畑先生」

 

 降参宣告してくる超の背後に向けた手や背中辺りから聞こえて来る機械の駆動音。機械に疎いわけではないが精通しているわけでもない高畑には、聞こえて来る機械の駆動音が何を意味するのかが分からない。

 超包子の手伝いをする時によく見たエプロンドレスを着ていることも装備の情報の不確かさを際立たせる。

 麻帆良№2と呼ばれている自分を有利な状況で対せる状況で、生半可な装備で相対するはずがない。真名を餌にして尾行させて誘き寄せたぐらいなのだから、自分が同じ立場ならば必殺を期する。

 

「龍宮君、仕事と言ったね? 君は超君に雇われている、で間違いないかな」

「…………」

 

 高畑の問いに銃を構えた真名は沈黙こそを返答とした。その返答こそが肯定するだけだと分かっても、真名は人形のように口を開かなかった。

 

「超君が何かをしようとしているのは間違いなさそうだね」

「さぁ、それはどうかナ」

 

 超ははぐらかすように笑うが、降参宣告をしてくるのは高畑が障害として立ち塞がるということを意味している。

 後を追って来て二人が武装状態でいて、当の真名は高畑に銃を向けている。超が麻帆良学園にとって良からぬことを画策しているのは確定した、と高畑は判断した。 

 

「煙草を吸ってもいいかな」

 

 問いかけながら煙草とライターを取り出した高畑に、二人は咎めることも止めることしなかった。

 高畑が愛用の煙草とライターをスーツの内ポケットから取り出すのを、二人は目の前で虎が餌に興味を失くして背を向けたのに拍子抜けしたように見ていることしか出来なかった。

 箱から煙草を取り出して口に咥え、ライターで火を点ける。煙草とライターをまたスーツの内ポケットに直しながら、体に悪いと分かっていても止められない紫煙を肺一杯に吸い込み、煙草を咥えながら唇の端から吐き出す。

 

「さて、もう一つだけ聞いても良いかい?」

 

 今度は手で煙草を持ちながらまた吸った紫煙を吐き出しながら横目に超に問いかける。

 魔法をバラすような行動を取っているが高畑には超の目的が分からない。立ち向かうにせよ、逃げるせよ、どんな選択をとっても情報は大いに越したことはない。

 

(まぁ、そんなに簡単に目的を明かすはずもないだろうし)

 

 麻帆良の頭脳とまで呼ばれている天才少女が簡単に目的を明かすほど、そこまで超が迂闊とも思えなかった。

 高畑が問う目的は、如何にしてこの場から抜け出すかの一点に尽きていた。その為の方策を既に十も思い浮かんでおり、後は如何にして取捨選択する段階に入っていた。

 

「君の目的は何だい?」

「世界を救う」

 

 問いに寸瞬の遅れも返事が返って来て、しかもその内容があまりにも予想外だった為に高畑の思考は一瞬だが止まった。

 

「な、に?」

 

 思わず吸いかけの煙草を唇の間から落としてしまうほどには動揺していた。

 

「だから、私は世界を救うと言ったネ」

 

 ニッと笑った、担任であった頃に何度も見た、頭脳とは裏腹の童女のような無垢過ぎる笑顔が嘘ではないと悟らせた。

 

「君はそれがどういう意味か知っているのか」

 

 自分の声とは思えぬほど冷たい声が漏れた。奈落の暗闇から吹き上げてくるような、薄ら寒い声だった。

 噛み締めた奥歯が砕ける音を聞いた。怒りが高畑の中に渦を巻いている。許せなかった。タカミチ少年は己が人生を捧げて文字通り世界を救った人を知っている。彼女の苦悩を知らずに簡単に言った少女を許せるはずがない。嘘は言っていないと分かっているからこそ。

 

「知っているヨ。災厄の女王…………スプリングフィールド兄弟の母親のように世界を救うと言っタ」

 

 高畑の中で何かが砕けた。生徒に手を上げるわけにはいかないという不文律か、それとも他の何かの事か。

 タカミチ・T・高畑から逃げるという選択肢が消え、例え自らの命を失おうとも超鈴音を捕まえなければならないと一本道を選ばされる。超の策略だと分かっていても。

 

「君を捕まえる」

「出来るかナ?」

 

 高畑の決意と超の笑顔が交錯する。

 最初に行動を移したのは二人ではなく真名だった。構えていた銃の右手に構えていた方を撃った。

 視界の端でマズルフラッシュを確認した高畑の行動は、回避か防御と予測していた真名の予想外のものだ。高畑は居合い拳で、振り向き様に背後にあった地下道の壁をぶち抜いたのだ。

 

「無茶をする!」

 

 何時からあるのか分からない地下道の壁を壊すなど正気の沙汰ではない。下手をすれば下水道自体が壊れて崩落する危険もあるのに、高畑は一秒も躊躇わなかった。

 手加減なしの居合い拳によって爆砕された壁はコンクリートの破片を撒き散らし、同時に噴煙も起こして真名の視界を奪う。高畑の姿を見失った。

 

「豪殺・居合い拳」

 

 前方で光が渦を巻いたと見えた瞬間には、地下道全体に広がった閃光が真名を飲み込んだ。

 

「これで終わった」

 

 咸卦法を纏ったまま、超がいる方向にも豪殺・居合い拳を同時に放った高畑は勝利を確信した。

 地下道が壊れないギリギリのレベルで手加減した豪殺・居合い拳をまともに食らったはずの二人が無事でいるとは思えなかった。

 この為に地下道を歩きながらずっと壁を叩きつつ歩いていたのだ。避けられるタイミングでも、それだけの防御力を二人が持っているとも、思えなかった。

 後は噴煙が晴れた後に気絶している二人の姿を確認すればいい。

 

「――――っ!」

 

 言葉や気持ちとは裏腹に高畑は一切油断していなかった。だからこそ、直上に突然戦闘衣をボロボロにした真名が現れ、銃を撃っても動揺一つしなかった。

 

「転移魔法符では魔法陣が転移場所に出るから不意打ちには向かないよ」

 

 頭上を見遣ることなく全ての弾丸を居合い拳で相殺。噴煙が晴れた先に超の姿がないことから同じように転移魔法符を使って一人で逃げたと推測。

 

「龍宮君が残ったのは超君が逃げるための囮か」

 

 ならば、遠慮する必要はなし。だが、再び超が転移して加勢する可能性だけは脳裏に残しておいて、真名をここで倒すことを決意する。

 思考が一瞬なら行動に移るのもまた早かった。言っている間には空中にある真名に向かって跳び上がっていた。確実に意識を刈り取る為に近接戦闘をすることにしたのだ。

 一瞬で真名の背後に回り、意識を刈り取るべく拳を振り上げた。

 

「そうかな?」 

 

 絶体絶命でありながら真名は笑っていた。

 拳を振り下ろしながら高畑は援軍が間に合うタイミングでないことを知っていた。転移魔法符やそれこそ魔法での転移を使おうとも間に合わない。如何なる魔法や気の技術であろうと、今の高畑を止める術はない。

 それどころか何らかの兆候を高畑が見逃すはずがない。それこそ時を駆けない限り不可能だ。

 

「掴まえタ♪」

 

 だからこそ、高畑は拳を放った己が視界に忽然と出現した超の顔を見た時、間違いなく度肝を抜かれた。

 指先を伸ばせば触れそうな距離にいるのに、転移反応も魔法や気の痕跡も感じ取れなかった。油断はなかったと断言できる。超が魔法も超常の力を何も使わずに忽然と目の前に出現したのだ。

 真名に怪我をさせずに意識を刈り取る為に、威力のあり過ぎる咸卦法の出力を最低に弱めていた胴体に超の手の平が触れる。

 

「がっ!?」

 

 市販で売られているスタンガンなどを軽く超えて、人を丸焼きにするのではないかと思うほどの電気が触れた手の平から流れ込んできた。

 普通の人ならば確実に殺傷、防御した魔法使いであっても感電死してもおかしくないほどの電気量に、如何に咸卦法を使っている高畑であっても出力を最低に弱めている状態では容易に意識を刈り取られる。

 

「――――その程度でっ!!」

 

 一般人ならば致死量を軽く超えた電気量を高畑は耐えきった。彼の鍛え上げた精神が気絶するという屈伏を許さなかった。

 理解できない方法で転移したからどうした、防御した魔法使いであっても感電死してもおかしくない電気量だからどうした、今は一人きりとなってしまった紅き翼の看板を背負い続けたタカミチ・T・高畑に敗北は許されない。

 アリカとスプリングフィールド兄弟の繋がりを知っている情報源を見逃すわけにはいかない。その一念だけが高畑を気絶から掬い上げた。

 気絶しない高畑の鬼の形相を前にして、始めて余裕だった超の表情に焦りが浮かんだ。

 痺れの残るであろう手で間近にいる自分を捕まえようとする高畑から逃れようと微々たるものでありながら体を捻った。

 

「……なっ!?」

 

 この時、どういう偶然か。ありえないはずの偶然が起こった。

 高畑の伸ばした手は、本当に一瞬首元を掠めただけで超に触れることはなかった。ただ、超の来ていた超包子の衣装の首元を結えていた二本のゴムが千切れただけ。

 超の首元が開かれ、その中にしまわれていた古ぼけた水晶のアクセサリーを前にして高畑の手は止まっていた。止まらされた。

 

「それはアスカ君の!?」

 

 まるで十年ぐらい時間が経過したような古さだったが、アスカが持っているナギから渡されたという魔法発動媒体と全く同じ細工だった。

 アスカと始めて会った時に一度借りて手に持ったことがあるので、古ぼけている程度で高畑が見間違えるはずがない。 明日菜のことを引き摺っていた高畑に、この一撃は大きかった。明日菜に続く高畑のウィークポイント(ナギ)

 油断を全くしなかった男が始めて生んだ隙を、戦場のスペシャリストである龍宮真名が見逃すはずがない。

 

「――っ!?」

 

 振り向き様、両手に銃に装填されていたのとカートリッジに残っていた弾丸を全て連続発射。狙い過たず全弾が高畑の眉間に命中する。

 電気のショックと動揺と十発の弾丸の衝撃が高畑の意識を刈り取る。

 

「ぐぁ――っ!?」

 

 タカミチ・T・高畑は、子供の頃には世界はもっと色彩が溢れていた気がした。大人になった今は、色合い自体が意味を失ったように思えた。

 思い出すと過去ばかりがキラキラ光っているようだった。彼自身が後ろ向きになっていることに腹が立った。一途な願いを捨てたのは何時だったのか、高畑にはもう思い出せない。

 転移魔法符で直上に転移して放った弾丸の甲高い発射音が消えぬ内に、気絶した高畑は下水に落ちていった。 

 その心と共に。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 修学旅行後、別荘で顔を良く合わせていた面々だと自然とリーダーシップを発揮するのは、やはり亀の甲より年の攻とでも言うべきかエヴァンジェリンだった。

 

「行くぞ、刹那。次は私達の試合だ」

 

 言って金髪を翻して背筋をシャンと伸ばして歩く彼女の姿勢が刹那の目を奪った。

 自分を脅かせるものなどないと知っているかのように真っ直ぐ立っていた。彼女は女王で、その背筋を中心軸に世界が回っているのだと錯覚しそうだった。

 魔力も殆ど使えない最弱状態でありながら、最強の看板を背負う背中は誰よりも雄々しく見えた。

 

「はい」

 

 きちんと言葉を返せたか少し不安になったが、自分を見る木乃香の表情に変化がないのを見て取って少し安心した。

 

「頑張ってな、せっちゃん」

 

 刹那は胸の前で両腕を握って言ってくれる木乃香の応援に頷きを返して、先に立つように歩くエヴァンジェリンの後を追って行った。

 

 

 

 

 

『お待たせしました! 一回戦も大詰めを迎え、桜咲選手対マクダウェル選手の試合を執り行います!!』

 

 和装エプロンに猫耳を付けた珍妙な格好で何故か片手に箒を持った桜咲刹那と、日本人では作り得ない西洋芸術の極致のような容姿でゴシック風の服用が抜群に似合って中世の北欧にいる姫君然としたエヴァンジェリン・A・K・マクダウェルが舞台に上がる。

 

「本気で来い。今の私はお前を苛めたくて仕方がない」

 

 エヴァンジェリンは箒を持つ刹那と違って、その手には得物はない。完全な無手で舞台の開始位置の着くと両腕を組み、不敵な笑みを浮かべている。

 チャチャゼロに斬りかかられて右往左往する姿を見て悦に入っている時と同じように、頬を僅かに上気させて瞳を興奮で潤ませる表情に刹那の背筋に鳥肌が立つ。

 

「あ、あのー、私を虐めるというのは一体?」

 

 生物は危険を感じると、体を前掲するか後ろに仰け反るかする。刷り込まれた苦手意識によって刹那は本人が気づかぬ間に腰を落として逃げ腰になっていた。

 

「ちょっとした余興さ。私は貴様の事を割と気に入っているからな」

 

 言われた当人である刹那にはエヴァンジェリンに虐められるような何かをした心当たりはない。心当たりがなくても彼女の気が向いた時に虐められることはあっても修行の時の間だけ。このような衆人環視の中で別荘内と同じことをするとは思えない。

 そう思ってはいても腰が引けてしまうのは、上下関係を心の底まで躾けられてしまった身の哀しさか。基本的に刹那は丁稚根性が染みついてしまっているのだ。

 

「気に入っているからこそ、今の貴様の堕落振りが我慢ならん」

 

 虐めるのが楽しく堪らないといったサディスティック全開の愉悦の表情も長くは続かなかった。まるで夢中になって遊んでいた玩具がつまらない物であったと気づいてしまったかのように。

 堕落、とエヴァンジェリンは今の刹那の状態を評した。堕落と言われて一瞬なりとも納得してしまった我が身を顧みて、しかし抗弁の為に開きかけた口を閉じた。

 

「反論しないところを見ると少しは自覚があるようだな。そこは感心しておいてやる」

 

 口を閉じた刹那を揶揄するようにエヴァンジェリンは再び愉悦の表情を浮かべる。苦悶する刹那を見るのが楽しくて仕方ないと、言葉よりも何よりも喜悦する表情が物語っている。

 

「半年前までの貴様には生まれと鬱屈した立場からくる触れれば抜き身の刀のような佇まいがあった。今の様はどうだ?」

 

 木乃香と仲直りして、明日菜という新しい仲間と友を同時に手に入れた。周りはどんどん人で溢れ、幸せだと感じる時間は増えた。なのに、心の中にある棘は消えてくれない。何時だって忘れた頃になって痛みが走り存在を強烈にアピールしてくる。

 修学旅行で自分は決して人ではないのだと月詠に刻み込まれ、それからずっと怯え続けて来た。

 戦いを前にした高揚感など既にない。あるのは真実の刃を突き刺してくる金髪の吸血鬼に対する恐怖だけだった。

 

『二回戦最終試合Fight!!』

 

 試合開始のアナウンスを聞いても刹那の体はピクリとも前に動いてくれなかった。それどころか目の前にいる自分以上の化け物から逃れようと無意識に後退りしていた。

 

「どうした? 封印によって魔力が使えない私に勝つなど造作もないだろう。それとも貴様は知っている人間を傷つけるのが嫌だとでも言うのか?」

 

 震える手で箒を構え、無様に震えながら逃げ道を探す。だが、逃げ道などない。最初から逃げ道などなかったのだから。

 見たくなかった物を無理矢理にでも見せられるような強制感に、喉の奥から込み上げて来る物があった。恥を知っているからこそ、どれだけ気持ち悪くても衆人環視の中で吐き出すことは出来なかった。

 

「最近は随分と幸せそうじゃないか? その人並みの幸せに浸って緩み切った顔は、あの騒がしい能天気なクラスのガキ共と同じではないか」

 

 試合開始と同時に、無防備にもゆっくりと歩みを進めるエヴァンジェリンに戦意は感じられない。愉悦も喜悦も夢の彼方のように消えうせ、感情など最初からなかったかのように無表情だった。

 無表情になるとビスクドールのような無機物のように感じられ、目の前で人形が動いて近づいて来る様が恐怖を更に煽る。

 

「幸せ……私が……?」

 

 幸福を感じたことは何も知らなかった幼き頃に木乃香と遊んでいた時以外に感じたことはないはずだった。改めて指摘されて、明日菜と鍛錬している時や今の木乃香と共にいる時に感じる胸が温かくなる感覚が幸せなのだと今更ながら気づいた。

 

「幸せになってはいけないのでしょうか?」

 

 思わず考えたことが口から出たのは、エヴァンジェリンから答えが欲しかったからもしれないし、誰かに認めて言葉にしてもらいたかったのかもしれない。

 思考を言動に直結した行動は止めようがなかった。下っ端根性が染みついている刹那は、こうしろああしろと命令された方が自分で決めて行動するよりも気楽なのだ。

 

「いかんとは言わんが、幸せになった貴様はつまらん」

「なんですか、それは」

 

 歯に衣着せずにキッパリと自分の好みで言い切ったエヴァンジェリン。

 ここまでアッサリと言われるといっそ清々しく思えて、刹那は恐怖を忘れて咄嗟に突っ込んでしまった。

 

「今のお前では最弱状態の私相手に本気で戦えまい」

 

 エヴァンジェリンは刹那を見つめる視線に憐れみすら覗かせて、ゆっくりと胸の前に上げた左手の人差し指だけをクンッと上げた。

 

「昔ならこんな手にも引っ掛かりはしなかった。幸せに浸って弱くなったよ、お前は」

 

 すると、両手で箒を持っていた刹那の右手が超能力で操られているように、本人の意志を無視して勝手に動いた。後ろから見えない手で手首が引っ張られているように動き、何もない中空に掲げられた。

 

「なっ、くっ……あ」

 

 和美や観客が驚いているよりも自分の手が中空に固定されて、動かそうとしても空間に固定されてしまったように自由に動かない刹那の方が何倍も驚愕していた。

 どれだけ力を込めても指先が動くだけで、袖が捲れ上がって場合によっては脇が見えそうな姿勢を変えられない。

 再びエヴァンジェリンが先程動かした左手を動かすと、今度は人に投げられたように刹那の体が飛んだ。傍目には刹那が勝手に動いたように見えるが全く本人の意志は関与していない。

 何が何だが分からないままに空中を飛び、刹那は高下駄が足から両足とも外れるのを感じた。

 

『ああ――――っと、手も触れていないのに吹き飛んだ!? ね、念力!?』

 

 空中で三回転してから何かに引っ張られて受け身も取れずに舞台に叩きつけられた刹那を見た観客達は、和美が言ったように超能力を疑った。

 背中に走る痛みを堪えて起き上がった刹那は観客達と違って第一に魔法を疑った。エヴァンジェリンは練達の魔法使いであって超能力者ではない。摩訶不思議なようにも見えるこの一連の行動を引き起こしているのは魔法以外に考えられなかった。

 

「ぐっ」

 

 当たらずとも遠からずだが、当の刹那は起き上がりかけたところを後ろに引っ張られていた。膝を固定され、両腕が背中に回される。一連の動作は全て同時に行われて抗う暇もなかった。

 

『今のは?』

『わ、分かりません!? 柔道の空気投げでしょうか?』

 

 解説席の茶々丸に話題を振られ、咄嗟に該当するのが柔道技しかなかったが彼自身も懐疑的であった。柔道技にあのような離れて人の手足を固定する技がなかったからだ。

 

「糸!?」

 

 当の拘束されている刹那は、ようやく生身の手足に食い込む獲物の感触から正体が糸であることに気づいた。

 良く周囲を見れば、極小の細い糸があちこちに張り巡らされているのが見えた。エヴァンジェリンが試合開始直後から中々攻撃をしなかったのは、会場中に糸を張り巡らかせていたのだと今になって思い知った。

 

「その通り、ようやく気がついたか。人形遣いの技能さ」

 

 拘束している正体に気づこうともブリッジを取っているような姿勢よりも力の入れ難い状況では意味がない。

 気づいたことでエヴァンジェリンが拘束する力を込め、手足に糸が食い込む痛みだけが刹那を支配する。

 

「ぐっ……あ、がっ」

「試合でなければこれで終わりだぞ。以前の貴様ならこう簡単にはいかなかったろうに」

 

 天井に掲げたエヴァンジェリンの右手の指が動く度に、糸によってギリギリと痩身を締め上げられて刹那が苦悶の声を漏らす。

 

「そんな様でお嬢様を守れるつもりだったのか? なぁ、白い翼の神鳴流剣士」

 

 白い翼と神鳴流剣士と続けたのは明らかな揶揄であり、刹那にとって禁忌ともいえるワードを言われたことで、彼女の頭の中でセーフしていた意識領域の一部が解放される。

 全身に気を纏って背中の下にあった箒を手にする。気が回された四肢に力を入れて、力任せに起き上がることで拘束していた糸が耐えられずに千切れ落ちた。全ての糸が一瞬にして千切れたので風船が破裂したような音を立てる。

 

「御免」

 

 ブリッジのような姿勢から起き上がった刹那が箒を振りかぶる。

 出来るだけ怪我をさせないように気を限界ギリギリまで押さえつけて、箒には纏わずに放つ。筋力だけを成人男性並みに上げての攻撃は、一般人であれば間違いなく昏倒のものの一撃。だが、刹那は読み違えていた。戦っているのが六百年を生きた怪物であることを。

 

「うむ、それだ」

 

 ポケットから取り出した黒光りする扇子を逆さまにして腕の動きだけで軌道を横へ流す。

 普通の扇子なら簡単に破壊されるだろうが、彼女が持っているのは鉄で作った扇子。特注品なので頑丈さは折り紙付きな一品である。手加減されて受け流された一撃で叩き切ることは出来ない。

 

「が、殺意が足らん。そんな甘さで私は斬れんぞ」

 

 肩を狙った一撃は当初の目測から外れ、刹那の体が空中で流れる。

 その後のエヴァンジェリンの動きは流れる水の如く自然であった。一歩の踏み込みで刹那の懐に半身で入り、鉄扇で箒を持つ右手の肘を絡めて内側から押した。それだけで左手に気を込めて二撃目を放つ間もなく地面に引き倒される。

 全く力を入れた様子もないのに、上腕部に膝を乗せられて肩の関節を極められて体重をかけられただけで踏ん張ることも出来ずに、刹那は顔から舞台に倒れ込んだ。

 

『おおっ!? 鉄扇逆腕絡み!?』

 

 豪徳寺が驚きでリーゼントを揺らめかせ、エヴァンジェリンが放った技を見抜いた。高畑の居合い拳といい、本当に彼は何者なのかと近くにいた長谷川千雨は思った。

 

「くっ……」

 

 気によるブーストのある刹那を抑え続けることは不可能と判断したのか、エヴァンジェリンはアッサリと未練もなく極めていた関節を外して距離を離した。

 エヴァンジェリンを追うようにジンジンと痛む額もそのままに立ち上がって、空中で手放した箒を掴み取る。

 見た目相応のパワーしかないエヴァンジェリンに成す術もなく倒されたことに動揺していて、瞬動も使わずにエヴァンジェリンに真正面から突っ込んで行く。

 

「いい気迫ではあるが動きが見え見えだ。動揺が手に取るように分かるぞ」

 

 次もまたエヴァンジェリンが刹那の攻撃に対して行った動作は派手さや大きさは皆無だった。ただ、軽く振るったように見えた鉄扇が振るわれた箒に当たったと思ったら、刹那は自分から体を舞台へ放り投げるように身を投げ出していた。

 純粋な体移動と重心を崩されただけで吹き飛ぶ己が体が宙にあって始めて、糸による操作ではなく体術によって為されたのだと刹那にも分かった。

 今度は舞台に体を打ち付ける無様を曝さずに片手をついて、後転に近い形で勢いを殺して着地しようとした正にその時だった。エヴァンジェリンがまた左手の人差し指を弾くように動かす。

 

「幸せボケして腑抜け過ぎているから、ヘルマンにも簡単に捕まる」

 

 着地した瞬間に右足首に何かが絡みつく感触。ゾクリと背筋に走る悪寒よりも絡まった糸が動く方が早かった。前方に引っ張られて足を掬われたように後ろに転倒する。糸の操作に身体強化分よりも小さな極小の魔力が感じられるだけで、唯人の範囲の力しか発揮できないエヴァンジェリンに圧倒される状況をそう簡単に信じられなかった。跳ね上がったスカートの中の下着のことを気にする余裕もない。

 

「くっ」

 

 足を糸で掬われたのを気を込めることで引き千切り、掬われていない足で舞台を蹴りつけてエヴァンジェリンに正対しようとする。

 しかし、起き上がった瞬間、目の前には後一歩踏み込めば手が届く位置にエヴァンジェリンがいて掌底が放たれていた。気の遣い手であろうと躱せる距離ではない。

 

「ぐっ」

 

 額を強打されて再び舞台に後頭部から叩きつけられる。

 打ち所が悪かったのか、後頭部を打った衝撃で視界に花火が散った。

 

『これまた一転!! お人形のようなマクダウェル選手に箒の桜咲選手がポンポンと投げられています!!』

 

 和美が実況している間にも、脳を揺らされて直ぐには起き上がれずに倒れたままの刹那に糸が意志を持つかのように絡みついていく。

 歪んだ視界に映るエヴァンジェリンが笑い、耳鳴りばかりの聴覚に豪徳寺の驚いた様子の声が意味を持たずに雑音として刹那の中で反響する。

 

「…………と言っても、この身体では雑魚魔法使いレベルが精々だ」

 

 何やら得意げに語っていたエヴァンジェリンの声がようやく明晰になって聞こえてきた。そこに来てようやく刹那は、自分の体が糸で釣り上げられていることに気がついた。

 両手を左右に開き、両足をピタリとつける姿はまるで見えない十字架に磔にされた聖人を思わせた。

 

「何故、奥義を使わん。気を込めた技を使われれば私も苦戦せざるを得ん。いや、お前ならば奥義を使わずとも私を斃せるはずだ」

 

 言われてもどうしようもなかった。力も速さも常人レベルだとしても、長い年月で積み上げた技術を前にして神鳴流剣士の刹那が子ども扱い。最弱状態であっても格の違いを見せつけられて、刹那は奥義を使ってもエヴァンジェリンに勝てるイメージを思い浮かべられなかった。

 全てを理不尽なまでに覆され、最後には這い蹲されるイメージだけが全てを支配する。

 

「ふぐっ……くっ、ぁ」

 

 脳を揺らされたダメージが集中が出来ず、気を纏うことが出来ない。糸がギリギリと全身に食い込み、生身の四肢は耐えられずに血を滴らせていた。

 

「甘すぎる。非情に成りきれん今の貴様は、そこらの中学生と何ら変わらん。見ているとイラつきを覚える」

 

 涙を目の端に浮かべて苦痛に呻くだけで糸から脱出出来ない刹那を見遣ったエヴァンジェリンは、言葉通りにイラツキを込めて嘆息交じりに吐き捨てた。イラツキを押し込めるように目を閉じ、しかしその指先だけはゆっくりと動いて刹那を締め付ける糸の力を強める。

 上げられた手の生身の部分が新たに切れ、滴る血は舞台に落ちることなく近づいてきたエヴァンジェリンの指に搦め取られた。指先に浮かぶ刹那の血を口元に運んだエヴァンジェリンはワインを飲むように口に含んだ。

 自分の血だと分かっていても口に溜まっていた唾を飲み込ませるほどの艶やかな仕草に、刹那は現在の状況も忘れて魅入られた。

 

「刹那……貴様――幸せになれると思うのか? 私と同じ人外のお前が…………いや、貴様は半分だったか」

 

 吸血鬼は処女の生き血が好物だというのに、エヴァンジェリンはどこまでも冷たい表情で問いかけた。

 エヴァンジェリンの選択を問う声が、慈悲深く胸に染み込んできた。選ぶまでは逃げ場も救いも無いと、彼女の中で冷たい理性が告げていた。

 

「お前のその背中の翼…………白かったな。その黒髪は染めたのか? 瞳はカラーコンタクトか?」

 

 刹那の背筋には悪寒が走り、心は氷結していく。あまりにも凄絶なその姿は見た者を畏怖させ、本能的な恐怖心で心と体を縛り上げてしまう。結局、体は竦み、思考は停止する。

 

「人の世から外れた私達が真っ当な幸せを得られると本当に思っているのか?」

 

 考えまいとした命題を他人に目の前に突き出され、刹那の世界は一変する。

 どれだけ偽ろうとも真実の姿は見るべき者が見れば暴かれてしまう。世界には木乃香や明日菜達のように受け入れてくれる者達ばかりではない。桜咲刹那は幼い頃からそのことを知っている。

 刹那は気分が悪くなってきて荒い息を吐いた。心の傷に触れられた所為か、よほど緊張しているからか、吐きそうなほどに胃の辺りが痙攣している。

 

「見せてみろ。貴様の真実の姿を。曝せ、全てを」

 

 釣り上げられていた体が下ろされ、だけど立つことも出来ずに跪いた刹那の前にエヴァンジェリンが迫る。

 

「………嫌や!!」

 

 伸ばされる手を見て、何をされるのかが本能的に分かった。命よりも深い本質を覗かれる恐怖に普段は使わない関西弁が出たことに気がつかない。

 

「私の目を見ろ」

 

 絶対遵守の命令を下されたように、駄目だと分かっているのにエヴァンジェリンの言うことを逆らうことが出来ずに目を見てしまう。

 

「貴様の傷を切開してやる」

 

 頭を掴まれ、残酷な笑みと共に吸血鬼が囁く。

 

「いやぁああああああああああああああああああああああああああああああっっっっ!!!!」

 

 耐えられない、と刹那は思った。翼も髪の色も瞳の色も、本当に誰にも見せたことがない。それこそ生まれた烏族の郷の者と自分を拾ってくれた詠春しか知らない姿。

 暴かれる。今まで誰にも頑なに守り続けてきた本当の姿を、よりにもよってこんな衆目の中で曝される。

 

「せっちゃん!!」

 

 恐怖の叫びを上げようとも、文字通りの魔の眼によって刹那の意識は過去へと遡っていった。最後に木乃香の声が聞こえたのが絶望に向かう刹那への、せめてもの手向けだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 臨時救護室で眠っていた神楽坂明日菜は、虫の予感を感じて目をパチリと開けた。それと共に五感が蘇り、あらゆる感覚が世界の情報を収集していく。

 見覚えのない天井に内心で首を捻りつつ体を起こすと、これまた見覚えのない室内であった。

 

「あら、起きたのね」

 

 目の前に人の顔が浮かび上がってくる。焦点が定まらない所為か判然としないが、目を細めることで輪郭がハッキリとしてきた。

 二十代半ば程の、麻帆良女子中の女性保険医だ。

 

「頭が痛いとかある? しんどいならもう少し寝てていいのよ」

「大丈夫です」

 

 その問いに夢心地のまま明日菜は返事を返すと、右手を立てて上半身を引き起こした。

 途端に軽い眩暈を覚えて視界が揺らぐが、倒れてしまうほどではない。頭を左右に振ることで意識は明瞭になっていく。

 

「ここは……」

 

 居場所を問う文言を口にしかけた直後、明日菜は自らが置かれた状況を正しく理解した。

 和装の趣のある室内に似合わない衝立とベットと、そこに寝ていた自分。

 アスカとの試合の最中にクウネル・サンダースと名乗ったローブの人物に何かを言われてから記憶が曖昧になっていた。曖昧になった記憶の向こうで、そこから連鎖的に明日菜の中から引き出されたものがあった。今はもう忘れてしまった郷愁を誘われる『何か』。

 

「ど、どうかしたの!?」

「何がですか?」

 

 いきなり慌てて顔を近づけて来る保険医の言うことが分からなくて明日菜は首を傾げた。本当にどうしたのか分からなかったのだ。それよりも心の奥底に微かに残っている『何か』の残滓を掻き集めようとした。

 

「涙が出てるわよ」

「えっ、嘘」

 

 手を伸ばしてきた保険医よりも先に目元を触った。すると、確かに目に涙が浮かんでいて右目の方には一筋だけ流れた跡があった。紛れもなく明日菜は泣いていた。

 そして左眼の方からも涙が一筋流れた。流れていく涙と一緒に、心の奥底に微かに残っていた残滓が流れていったように思えた。

 

「どこか痛いの?」

「いえ、痛みじゃないです何かとても大切なこと思い出したような気がして。でも、もう思い出せない。そのことが悲しいだけで」

 

 保険医に、ゆっくりと心に感じたままを伝える。

 最初は残滓が涙と連動するように流れていくことが悲しかったけど、残滓が消えて一度は涙も収まると、もう何も思い出せないことが悲しくなってきた。悲しくて哀しくて涙が止めどなく溢れ出る、

 忘れてはいけないことだと感じるのに何を忘れてしまったのかが分からない。そのことがとても歯痒く感じ、涙が流れる顔を悔しさで歪ませる。腕でゴシゴシと目元を拭いても涙は止まらなかった。

 

(いなくなっちゃ、やだ)

 

 唯一、記憶に残っている言葉を心の中で繰り返す。

 誰かがいなくなったのだろうかと思うけど、思い出せないことが悲しい。きっとその人はアスナの大切な人だったはずだから。

 

「私は強くなる。誰も失わないように誰よりも強くなる。幸せになってみせるから」

 

 遠い、誰かも分からない人に向けて明日菜は涙ながらに宣言した。

 きっと高畑が試合じゃなくてこの場にいれば涙を流して喜んだことだろう。どれだけ封印されても、どれだけ忘れ去られても残ったものがある。ガトウのことを忘れてしまっていても、彼の願った想いは確かに明日菜の中で残り続けている。

 涙がスゥッと引いて、誰かに向けた誓いをした明日菜の顔が別人のような凛々しさと美しさという矛盾しながらも同居しているのを見て、保険医は安心したように身を引いた。

 

「大丈夫、そうね」

「はい。あ、もう行っていいですか?」

「出来ればもう少し安静にしてほしいけど、怪我もないし、私はここにいるからなにかあったら来なさい」

「今って誰が試合してるんですか?」

「何分か前に試合が始まったみたいだけど、誰のかは分からないわ。コールは聞こえないし、まだ試合中ないかしら」

 

 良く寝たとばかりに背筋を伸ばしてベッドから降り、目の前で屈伸運動をしている明日菜に言って保険医が離れて行く。

 明日菜も拝殿を出て試合をしている舞台に行こうと、歩き始めたところで親友で剣の師匠でもある桜咲刹那の悲鳴を聞こえたような気がした。

 

「刹那さん?」

 

 行かなければ、と直感が叫んでいる。今行かなければ何かが手遅れになる予感が脳裏で警鐘となって鳴り響いていた。既に明日菜の気持ちは決まっていた。

 

「待ってて」

 

 布団から出てベットを下り、襖を開けて駆け出していく。一刻も早く、風よりも素早く友の下へ急がんと走る。

 ただそうすることだけが友を助けられるのだと信じて。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 桜咲刹那が物心ついた時、既に両親はいなかった。父親が烏族で、母親が人間のハーフであったが大人は他の子と区別をつけることなく可愛がってくれ、子供達も差別することなく接してくれた。暮らしていた烏族の郷は同族を大切にしているので、親のいない彼女にも誰もが家族のように接してくれていたから幼少の刹那は寂しくはなかった。

 昔と違って今の日本では妖が住める領域は限られてくる。だから同族の結束は強く、ハーフであっても受け入れる度量のある集団に育てられていた刹那は幸福と言えよう。

 

「親がいなかろうが、生まれが他と違っても、貴様は幸せだったのだな」

 

 エヴァンジェリンが見る限り、物心ついた時の刹那の記憶は幸福に包まれていた。

 自分が周りと違うことも知らず、ただ無邪気に周りから与えられる愛を甘受している子供。

 

「だが、そうでは今のような人格にはならん。壊れたのだろう、この幸せが」

 

 その幸福が全てが壊れたのは、翼が生えた時だった。ハーフである刹那は純血の烏族と違って生まれた時から翼が隠れていた。霊的に不可視になっていて、傍目には翼がないように見える子供だった。

 

「烏族の証明、翼があれば自分は周りと同じだと思った子供だったわけか」

 

 翼が生えた正確な時期を刹那は覚えていない。霊的に隠れているなんて知りもしなかったから朝になったら生えたという認識だった。

 他の子供が翼を生やしているのを羨ましそうに思っていた刹那は当然として皆に生えた翼を見せて回った。それが日常が壊れる行為だと知りも知らずに。

 

「白い髪に紅い眼、それらは種族が違う親から生まれたことによる遺伝的な異常ではなかった。生えた白い翼によって全てが裏返る」

 

 大人達は誰もが刹那を見て驚き、ついで災厄が目の前にいるかのように逃げ惑った。我が子を持つ者は必至の決意で刹那の前に立ち塞がった――――武器を携えて罵倒と共に。

 

「逃げ出したか、無理もない。ただの子供が、さっきまで笑いかけてくれた大人に武器を向けられ、平静でいられるはずがない」

 

 追い立てられるように郷を逃げ出した刹那は、どことも知れぬ滝壺にいた。

 寒いのか濡れた全身を震わせていた。外は真っ暗で夜になっていた。空には丸々とした月が浮かんでいる。森の中を走り回っている間に足を踏み外して川に落ち、そのまま流されて滝から落ちたのだ。

 少しでも暖を取ろうと刹那の全長近くある翼で体を覆うが、濡れて気持ち悪いだけで少しも温かくならない。幼い刹那に水で濡れて冷えるなんて知識はなかった。

 

「現代では先天性色素欠乏症と分かっていても忌避されるように、古来より生きる烏族にとって白い翼はタブーとして不吉の象徴であったわけか」

 

 集団とは同じであることを求める性質がある。同じものなら人種・性別・思想と何でも良いのだ。だからこそ、人は集団を作り、外れた異端を弾く。

 

「生まれではない。育ちでもない。問題は翼の色が白かっただけ。それが貴様の不幸の源泉」

 

 烏族でも人間でもない中途半端な種族として生まれた刹那。人間として過ごすには妖としての姿が邪魔をする。妖として生きるには人間としての部分が邪魔をする。それでも受け入れてくれる集団があったのに、ただ白い翼をしているというだけで遠ざけられた。

 もしかしたら烏族の歴史の中に、白鳥が何らかの事件を起こしたのかもしれない。郷を抜け出した刹那にとっては全てが遠い出来事だった。

 

『こんな……こんな白い翼があるから!!』

 

 幼い刹那にはどうして大人達が自分に恐怖したのかが分からなかった。ただ白い翼が原因だろういうことは幼いなりに分かっていた。

 コミュニティから弾き出されて幼い刹那一人では生きてはいけない。事実上の死亡宣告を下されたのだと理性ではなく本能で察した刹那の取った行動は過激だった。

 

『づぅっ……ああっ! ぎゃ……っ』

 

 原因である白い翼の羽を一本ずつ、世界に絶望して泣きながら引き抜き始めた。彼女の羽はまだ柔らかく、小さな刹那が少し力を入れて引っ張るだけで簡単に抜けた。

 烏族に限らず、翼を生やす種族に共通してやってはいけないことを刹那はしていた。羽を抜く度に血が迸り、涙と入り混じって滝壺を紅く染めていく。この場を本山を継ぐためにナギ達と別れた近衛詠春が通りかかるまで続けられた。

 

 

 

 

 

 詠春に連れられて関西呪術協会に身を寄せた刹那だったが、ここにも居場所はなかった。

 

「関西呪術協会は退魔の組織。半分が人であろうとも妖の側面があることは否定できない。例え白髪と瞳の色を変えたところで同じだ。居場所などあるはずもない」

 

 この頃からは白髪を黒髪に染め、瞳にカラーコンタクトを入れるようになっていたが自分から歩み寄らず、また周りから歩み寄っても感情を失くしてしまったような無表情で無感動な刹那を好きになってくれる者もまたいなかった。

 半妖である刹那が関西呪術協会にいることを許されていただけでも温情であった。それも次期長の座が約束されていた詠春が口添えしていたからこそ。

 

「本当にお人好しの詠春に拾われて幸運だったな。次期長である詠春でなければ、とうに追い出されていたか、悪ければ討伐されていただろうに」

 

 詠春が刹那の様子を見て環境を変える必要があると思うようになるのも必然だった。

 古巣である神鳴流――――それも従姉弟である青山鶴子と素子の姉妹に託したのは、神鳴流もまた退魔を目的とした組織であったのは運命の皮肉か。

 

「環境には恵まれずとも、人には恵まれるか」

 

 烏族の郷でのトラウマによって武器を怖がる刹那の様子を見て取って、神鳴流の鍛錬は極簡単なものであったが、青山姉妹に預けられたことは天恵であった。彼女らは刹那と根気よく付き合い、預けられて一年が経過する頃には刹那も人見知りをする普通の少女と変わらなくなっていた。

 青山姉妹を師というより姉として接していた幼い刹那がより変わったのは、長の一人娘として友達が一人もいなかった木乃香の友達にと請われた時からだった。

 両者にとって初めての友達。刹那にしてみれば自分より弱い木乃香の存在は自分が守らねばならない初めての庇護対象だった。

 

「救う者は、救われる者の気持ちを絶対に理解できない。貴様の忠誠は、これが理由か」

 

 頼られることの嬉しさ、大人の思惑も何もない純粋な気持ちがどれだけ刹那の心を震わせたか、きっと木乃香は知らない。

 そんな幸福な日々も唐突に終わりを迎えた。

 木乃香が川に流されて溺れそうになった時、刹那は助けにいけなかった。泳げなかったが翼で飛べば助けることが出来たのにしなかった。正体を知られてて拒絶される恐怖が彼女を縛り付けたからだ。

 結局、泳げないのに刹那も川に飛び込んで溺れた。二人して大人に助けられたが刹那には慚愧だけが残った。木乃香は笑って許してくれたが刹那自身が己を許せなかった。

 

「許せないのは助けられなかった自分ではなく、拒絶されることを恐れた自分」

 

 木乃香と離れ、守る為に今まで疎かにしていた剣の鍛錬に身を入れ、元々の才能もあって実力をメキメキと付けていった。

 しかし、自分達を置き去りにしていく刹那に同じ門弟達から心無い言葉は何度も叩きつけられた。

 

「何時だって人は自分よりも優れた者に嫉妬し、妬むことで己を守る。その点、貴様はその捌け口として絶好であったろうよ。なにせ、材料には事欠かなかったのだから」

 

 師である青山鶴子や素子に可愛がられていたのも彼らの顰蹙を買っていたこともあるのだろう。悪口は陰口だけに留まらず、面と向かって言われることもあった。

 

『人外が』

『化け物が人様の剣術を習うなよ』

『流石は人じゃないだけあってパワーが違いますね』

 

 刹那が実力をつけていったのは明確な目標を以て周りの何倍も努力していたからで、彼らの悪口は何ら根拠のない言葉であった。それでも烏族の郷を追い出された過去を持つ刹那を傷つけるには十分で、人知れず涙したことは数知れない。

 悪環境の中でも挫けずにいられたのは木乃香を守るという理念と慈しんでくれる青山姉妹がいてくれたからだ。それでもふとした時に心が折れそうになる。鶴子との鍛錬での一幕でもそんな時があった。

 

『疾っ!』

 

 気を溜めた斬撃を放ったが、進路上にある木をすり抜けて後ろにあった大岩を真っ二つにした鶴子の技に刹那は絶句した。

 

『これが神鳴流奥義・斬魔剣弐の太刀や。元々は悪霊に憑かれた狐憑きや悪魔憑きの悪霊のみを切り伏せる技として生まれたんや。滅多に見れへんからよう覚えとき』

『つ、鶴子様!? その技は宗家青山家にしか伝えられていない技では?』

 

 実演した鶴子を唖然として見ていた刹那は、行われた技が秘伝であることを悟って顔を青くした。

 

『別に宗家以外に教えたらあかんていう決まりなんかない。まあ、教えて簡単に習得できる技でもないから伝えられてないだけや』

 

 秘伝がそんなアッサリとした理由でいいのか、と刹那が聞いたら、「初代はこの技を必要な時に必要な者に伝えるように厳命しとるんや。気にせんでいい」と刹那にはよく分からない理由を言った。

 

『…………私には出来ません』

 

 何故自分に教える気になったのか分からないが、刹那にはこの技は覚えられないと思った。

 数いる門弟を押し退けて鶴子の教えを受けるだけでも勿体ないことなのに、そんな秘伝中の秘伝を、しかもよりにもよって半人半妖である刹那が退魔の技の真骨頂を覚えるなど皮肉が効きすぎている。ただでさえ、妖の面を持つ刹那が神鳴流を習得しただけでも矛盾しているのに、自分には過ぎた技だと引け目を感じた。

 俯いた刹那の足下に影が差した。小学生の刹那と同じぐらいの大きさで、鶴子にしては影が小さすぎる。

 

「拠り所としている剣の流派にすら、お前は居場所がなかったのだな」

 

 鶴子でも他の誰でもない聞き覚えのある、でもひどく優しい声が宥めるように降り注ぐ。

 誰かと思って顔を上げると何時の間にか鶴子の姿はなく、草の根を掻き分けて金髪の少女が天使のように髪を広げて降りてきた。

 

「白髪の髪に赤眼。それが本当のお前の姿か」

 

 金髪の少女――――エヴァンジェリンが言い放った言葉に、刹那はハッとして髪に手をやった。

 手で持った髪は白かった。日本人に見えるように呪術で黒に染め上げた髪が生来の白色に戻っていた。エヴァンジェリンの言を信じるならカラーコンタクトを入れている瞳も血のような真っ赤な色に戻っているのだろう。

 着ている服も背中が大きく開いた袖のない純白の装束と真っ赤な袴に変わっていた。手には使い慣れた夕凪。背中には装束と同色の大きな翼が広がっていた。

 

「アルビノ…………先天性白皮症。種が分かってしまえばなんてことはない。何時だって集団から異物は取り除かれる。人種や宗教だけでなく、時として考え方が違うだけで弾かれることがある。弾かれる対象の最たるものが見た目だ」

 

 白き髪と赤い目の刹那の姿を余人が見れば白鳥を重ね合わせたことだろう。深い森の中という幻想すら感じさせる空間の中で、彼女はそれだけの存在感を放っていた。

 

「メラニン生成能力が欠けて白い翼になっているだけで、お前は他の烏族と何ら変わることはない。純粋な基本能力だけならハーフである分だけ劣っていると言ってもいい」

 

 白い翼を持っているからといって秀でた力や変わった能力があるわけでもない。桜咲刹那はその存在こそがタブーとされていた言い伝えを否定していると本人は気付かない。或いはタブー視されているからこそ、白い翼を持ってしまった烏族達は刹那と同じように迫害されて反旗を翻したのかもしれない。

 

「しかし、烏族の郷で拒絶され、人に遠ざけられたお前は、どちらの世界にも居場所を見いだせなかった。ただ一人、近衛木乃香を除いて」

 

 人と妖との間に生まれた刹那だからこそ、どちらの世界にでもいられるようで、どちらの世界にも居場所がなかった。親しくしてくれる人も優しくしてくれる人もいたのに、木乃香以外に心の拠り所を見つけられなかった。

 自分を拾ってくれた詠春は関西呪術協会を纏め、木乃香を守る父であらねばならなかった。青山姉妹は神鳴流の宗家として他の門弟と同じく刹那だけを特別に贔屓することは出来なかった。

 木乃香だけだったのだ、刹那を頼りとしてくれたのは。対等に立ってくれたのは近衛木乃香が初めてだったのだ。まるで生まれたばかりの雛が始めて見た者を親かどうか関係なく親と認識する刷り込みのように木乃香を求めた。

 

「その気持ちを否定はせんよ。私にも闇の中で見つけたたった一つの灯に焦がれる気持ちは良く分かる」

 

 エヴァンジェリンにとってのナギのように、アスカとネギにとってのナギのように、桜咲刹那もまた近衛木乃香に救いを見い出した。故にエヴァンジェリンは刹那を絶対に否定できない。生まれた頃から不幸を背負った彼女に共感すら覚える。

 

「だが、お前に剣と幸福を両立させることは出来ない。不器用なお前が生きていくにはどちらかを捨てねばならない」

 

 桜咲刹那は器用な人間ではない。木乃香を守るという理念を貫くために、麻帆良で再会した彼女が傷つくと意識の底で分かっていながら遠ざけた。烏族で、白い翼を持つ自分が傍にいると魔法の事が知られてしまうと言い訳をして。

 本当に木乃香の事を思うならば、傍にいて心を守るべきだった。出来なかったのは刹那の心の弱さにあった。

 

「アーニャに背中を押されて木乃香と関われて嬉しかっただろう。だからこそ、タブーとされていた翼を伝えることが出来ない。この幸福を捨てるかもしれないから」

 

 木乃香に受け入れられて、刹那がどれだけ幸福を感じたか。想像は出来ても他人には真に理解できない。

 エヴァンジェリンは、一年前までの刹那を触れれば切れる抜き身の刀の様な佇まいがあったと言った。当時の刹那は自身の幸福もいらず、木乃香を守ることだけを考えれば考えていれば良かった。でも、アスカ達が来てから状況が変わった。秘密にしていた魔法のことを知られ、木乃香と少しずつ歩み寄るようになった。

 明日菜という友と戦友を同時に得て、一人で木乃香を守る必要が無くなった。ずっと張りつめていた糸を緩めると、今までの飢えを癒すように幸福を求める。もう一人だった時にはもう戻れない。

 

「苦しいだろう、辛いだろう。もう楽になっても誰も咎めはせん。お前は良くやったよ。もう十分だ。なぁ、刹那。もう剣を捨ててもいいんじゃないか?」

 

 麻薬のような心身を蕩けさせる幸福を今の刹那は捨てられない。同時に幼き頃から積み上げてきた剣も捨てられるはずもない。どちらも選べない刹那は苦悩する。

 

「剣は、剣は捨てられません!!」

 

 エヴァンジェリンに相対する自分が十四歳の頃に戻っていることに気づかず、握っている夕凪を手に言い放った。

 そう、捨てられるはずがない。桜咲刹那の人生は剣と近衛木乃香を守るという理念と共にあった。今更、捨てるには背負った物が多すぎる。そして剣を捨てることは木乃香を守るという理念を捨てることでもあった。そんなことは死んでも出来ない。

 剣を捨てるということは桜咲刹那の人生の否定でもあった。

 

「お嬢様を守ることは私の全てです! これがなければ私は生きていけません!!」

 

 桜咲刹那は近衛木乃香を親友と思っている。その思いに偽りはない。だが、関西呪術協会の長の娘として守る対象と見ていることも否定できない。自らを自然と下に置く在り方は、木乃香を「お嬢様」と呼ぶ呼び方にも現れている。

 烏族と人間のハーフとして、裏の人間として、刹那が対等であると思っている人間は実は少ない。裏のことを知らない人間には間に線が引かれていて、ハーフとしてどっちつかずの己は輪に入っていけないとも思っている。刹那が人の輪に入っていく為に剣はどうしても必要なのだ。

 剣があるからこそ木乃香の傍にいられ、剣があったから明日菜と友達に成れたと刹那は思っていた。

 白い翼を持つハーフとして忌み嫌われた過去を持つ刹那には、普通の友達として二人の傍にいれる自分を想像できない。護衛や師という分かりやすい立場が無ければ傍にいられない強迫観念がある。

 木乃香を守れず、今度こそ守る為にと求めた剣であるからこそ捨てられない。例え木乃香や明日菜に言われても捨てられない。

 

「大仰だな、くだらん。そんなものは錯覚だ」

 

 刹那の魂の全てを賭けた叫びすらもエヴァンジェリンを揺らがすには至らない。

 空中から降り立って一歩も動かなかったエヴァンジェリンが始めて、一歩だけ足を前に出した。

 

「全てだとか夢だとか、誰もが良く見る勘違いだ。そんな大層なモノに縋らずとも日々の小さな幸福と愉しみがあれば、人間って奴は生きていける。六百年を生きた私が保証してやる。お前のその思い込みも勘違いに過ぎん」

 

 この世にある全ての夢や理想のアンチテーゼを、かくも容易くエヴァンジェリンは歩みを進めながら優しげな笑みと共に提示する。 

 

「剣を捨てて、これから強くなっていく神楽坂明日菜に守ってもらうのもいい。なんならアスカに縋ってみるか? 泣いて助けて欲しいと言えばあのタイプは命を賭けて守ってくれるだろうよ」

 

 刹那の想像も出来ない六百年の時間を生きた真祖の吸血鬼が語る言葉は、万人が万言を費やすよりも重い説得力を持っていた。彼女は実際に見てきたのだろう、夢に破れてそれでも生きられると知ってつまらない大人となった大勢の子供達を。

 

「で……でも!!」

 

 生まれた場所は変えられない。でもどう生きるかは自分の力で変えられる。そう信じて今まで生きてきた。なのに、血に縛られる己が身が不遜な考えこそが間違っていたのだと思い知らされる。

 たかだか、十四年しか生きていない刹那の言葉では翻すほどエヴァンジェリンは甘くも優しくもない。真綿で首を絞めるようにジワリジワリと反論の言葉を奪っていく。

 

「選べ、剣か幸福か。ただの人間として幸福に生きるのも悪くはないぞ」

 

 二人の間の距離がドンドン近づいていく。まるで縮まっていく距離が選択の答えを出すように急かしているようにも思えた。

 日常という名の幸福と非日常という名の剣を乗せて、代価を要求する天秤がユラユラと揺れ続けている。

 

「私は……私は……私は……」

 

 縋るように両手で夕凪を抱いている刹那の身体が慄くように震え出す。

 空はこんなに明るいのに、刹那の目には今、陽光が落とす濃い影ばかりが目立った。突然、世界が苦悩だらけの迷路になった気がした。空気が、まるで闇の中にいるかのように薄ら寒い。

 もうとっくの昔に世界はこういうものだと諦めていたはずだった。だが、涙が込み上げそうになった。

 

「世界は厳しい。力と策謀が支配する、隙を見せれば即座に食われる泥沼だ。その手を血で汚す前に引き返せ。引き返せる綺麗な手を持っている内に」

 

 エヴァンジェリンがナギに光の世界に誘われたように、彼女は同じように闇の世界に縋りつこうとする刹那へ、後一歩の所で立ち止まって手を差し伸ばす。

 手を掴むには踏み込まなければ届かない場所で、選択を問い続ける。

 

「日常という鈍磨した光の世界で戦うことなく戦士としての本能を薄れさせ、やがては剣を錆往くに任せて打ち捨てればいい。戦うための武器は平和な日常には必要のない物だ。中途半端に惰弱を晒すぐらいなら、もう剣を捨てて楽になれ」

 

 幸せに緩み切って生きていくのなら、剣を捨てて非日常と縁を切れとエヴァンジェリンは断じた。そして良いことを思いついたようにニヤリと笑った。

 

「言い忘れたが今のお前の姿は会場にいる全ての者が見ているぞ」

 

 それが決定的だった。

 

「――――――――ぁぁぁぁぁあああああああああああああああああああああっっっっ!!!!」

 

 彼女は正気を削られながら、気を夕凪に込めて振るっていた。気持ちの奥に大切していたものを決定的に剥ぎ取られて、踏み躙られていた。だから、泣いてよいはずだった。こんな時に泣かずに、一体何時涙を流すのだ。

 選べなかった。選べなかったから、選択を問う者を消すしか刹那には残されていなかった。

 

「感情を乗せただけの無様な剣だ。そんな太刀筋では何も斬れまい」

 

 パキン、と軽い音を立てて、エヴァンジェリンの手刀によって夕凪が太刀の中程から折られる。

 長である詠春から木乃香を守る為に麻帆良に立つ際に賜った夕凪が折られた。同時に、彼女を奮い立たせていた熱が急速に冷めてゆくのを感じていた。彼女の木乃香を守るという理念が刀と同時に折られた。

 

「そんな無様な剣に頼るぐらいなら捨てて、幸福な日常に溺れながら生きろ」

 

 パンッと、夕凪を叩き折ってから振り戻ってきた手が軽く頬を叩く。魔力も何も籠っていない一撃に抗することも出来ずに倒れ込む。

 今までと同じように戦ったが完敗した。力を失って倒れた彼女に引っ繰り返せないと、判断できてしまった。これまで、なんとかなると彼女自身に言い聞かせてきたことが滑稽にすら思えた。

 

(これで終わりなのか?)

 

 終わりだと認めることが出来てしまった。この世には乗り越えられない影がある。

 横たわったまま、折れてしまった夕凪と同じように、心の中心にあった何かがポッキリと折れたように体に力が入らなくなって、流れた涙が伝って地面に落ちるのを見た。

 

「…………ああ」

 

 と、口からため息が漏れた。天秤に乗せられていた剣と幸福の内、剣が秤から零れ落ちた。桜咲刹那が頼れるものは日常という名の幸福だけとなった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ザワザワと困惑した観客の纏う空気が龍宮神社を覆っていた。

 

『こ……これは?』

 

 舞台脇にいる和美が観客と同じように困惑するのも当然だった。試合をしている二人が先程からピクリとも動かないのだ。

 

『両者、目を見開いたままピタリと動きを止めました。これは一体……』

 

 舞台上では跪いた刹那の頭を鷲掴みにしたエヴァンジェリンが顔を覗き込むようにして近づけて、二人は目を見開いたまま硬直したように動かない。刹那が跪いているので和美はカウントを取るかどうか悩んでいる。

 全く動かない二人に観客達も困惑を隠せないでいた。目を見開いて固まるという異常にも見える状態では野次を飛ばすことも出来ず、彼らもまた固まったように舞台を見続けることしか出来なかった。

 

「せっちゃん……」

 

 そんな観客達の中に近衛木乃香の姿もあった。舞台が真横から見える観客席にいる彼女は、困惑する観客達の中にあって悲壮に動かない刹那を見つめていた。

 舞台上での会話は遠く離れた木乃香の場所まで聞こえない。それでも最後の悲鳴は耳の奥に残るハッキリと聞こえた。

 助けたい。でも、今の刹那をどうやって助けたらいいのかが分からなかった。ただ祈り続けることしか出来ない。

 

「木乃香!」

 

 胸の前で両手を握って刹那の無事を祈り続ける木乃香の名を呼ぶ声があった。

 何時だって木乃香が沈んでいた時に勇気づけてくれた声だった。

 人混みの観客席を急いで掻き分けて来たから髪の毛が跳ねたり少しだけ衣装が汚れていたりしたが、木乃香の級友で親友の神楽坂明日菜の姿を見た時、不覚にも泣きそうになった。

 

「試合はどうなってるの?」

 

 泣きそうな顔で自分を見つめて来る木乃香から少しだけ視線を外して舞台を見た明日菜は、ピクリとも動かない現状に観客と審判兼実況の朝倉和美の困惑ぶりは手に取るように分かり、再び視線を戻して問いかけた。

 

「よう分からんねん。エヴァちゃんが何かしたと思うねんけど、さっきからあんな風に石みたいに固まったまま動かへん」 

 

 頼りになる存在を前に木乃香の我慢は限界を迎えた。

 

「なぁ、明日菜。うちはせっちゃんをどうやって助けたらいいんやろ。何時も何時も助けてもらってばっかりで何も返せへん」

 

 今の舞台上で固まる前に刹那の悲鳴を聞いたが木乃香はあんな刹那の声を聞いたことがない。きっと助けを求めていると分かっているのに何もしてあげられない歯痒さが木乃香を苛む。

 幼少の頃から刹那は木乃香を守る為に他の全てを捨てて力を求めた。別荘で鍛錬する姿を見て、小さいな頃から木乃香には想像もつかない苦しいことをしてきたのだと知った。

 なのに、木乃香は刹那に何も返せていない。ただ、昔のような仲の良い関係がいいと言い続けて来ただけだ。嫌っていないと言葉で行動で愛情を示し続けて来たけど、木乃香はずっと不安だったのだ。

 自分と出会う前の話を一度も聞かなかったから。出会った頃や今だけを見ようとして刹那の過去と向き合うことをしなかった。

 

「木乃香……」

 

 飛びこんだ明日菜の腕の中で木乃香は泣いていた。彼女の心の闇がここまでとは考えていなかった。

 明日菜は刹那が木乃香を守れれば満足だと言っていたことを思い出していた。二人の間には誰にも入れない絆がある。きっと明日菜にもだ。

 大切に思っているのに、大切に思っているからこそ、相手を気遣ってすれ違って本当に大事なことを話せない。

 

「刹那さんを助けよう」

 

 気がついたら明日菜はそう言っていた。

 二人で完結していたところに現れた異分子。ここまで問題を表面化させたのは自分の所為なのかもしれないという思いが明日菜にあった。二人だけでは解決していなかったことを知れた立場にいたのに、曖昧な嘘の上に安楽を築いてきた。だから、今こそ立ち向かわなければならないと思っていた。

 

「でも、どうやって?」

「分からない。でも、何かをするのよ」

 

 木乃香は目の前にいる力強い視線を向けて来る明日菜が本当に自分の知っている神楽坂明日菜なのかと思った。

 アスカの拒絶から立ち直った明日菜は不思議な芯のような物を感じさせた。その芯が強さに変わって、彼女を別人のように見せているのだ。人を魅了せずにはおけないカリスマ性のようなものを身に纏っていた。

 無力に沈んでいた木乃香にも気力が溢れてくる。

 

「多分、エヴァちゃんが何かやったんだとしたら魔法なんだから専門家に聞いてみましょう」

 

 そう言って彼女が向いた先には、選手控え席にて難しい顔で試合を見ているアスカがいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 桜咲刹那は諦めることに慣れている。何度も何度も色んなことを諦めてきた。彼女の人生は諦めることで進んできた。

 最初に諦めたのは妖として、烏族として生きることを諦めた。タブーとされている白い翼があるからだ。そして次に諦めたのは人間として生きることを諦めた。これもまた背中にある白い翼があるからだ。霊体化しても背中の翼は消せない。

 次に諦めたのは木乃香の友達として生きる道だ。川で溺れた木乃香を守れなかった刹那は力を求めた。結果として木乃香の護衛となり、友達の関係に戻ることを諦めた。

 木乃香を守る為に力を求め、神鳴流を学んだがこの道も諦めた。学びはしたがどこまでも純粋な人ではない自分が退魔の剣術を極めることは出来ないと思い込んだ。

 

(うちは……)

 

 流れ落ちた涙が地面に染み込んでいくのを見遣り、今また剣をも諦めようとしていた。

 諦めることには慣れているはずなのに、涙が止めどなく何時までも溢れ続けていた。今まで剣に込めて来た思いの丈を物語るように涙が止まらない。

 不思議だった。木乃香を守る為の力を求めて剣を握ったはずなのに、折られた剣を前にして胸に浮かぶのは郷愁にも似た切なさだった。消してはいけない温かさだった。その温もりと切なさの正体を探したら簡単に見つかった。

 

(剣で育んだ絆もあったんや)

 

 既に刹那が手にした剣は木乃香を守るためだけのものではなかった。仲の良かった門弟は少なかったが鶴子や素子以外にも目をかけてくれたり、ふとした時に不器用な優しさを見せてくれた人がいたことを今更に思い出した。

 詠春もまた刹那を信じてくれた。刹那に護衛の任を与えたのは木乃香との関係性があったかもしれない。それでも桜咲刹那という一個の人間を見ていなければ、長年使い続けた愛刀である夕凪を譲り渡してくれるはずがない。

 剣があったから麻帆良に来て、友人関係とはまた違った繋がりのあった龍宮真名や所属していた剣道部の人達と知り合えた。

 

(でも、もう遅い)

 

 気付くのが遅すぎた。体が動かない。心の芯は、夕凪は折られたのだ。何時だって刹那は大切なことを気付くのが遅すぎる。失ってから大切な物の価値に気がつく。

 喪失に痛みはなかった。途方もない喪失感だけが体を埋め尽くして、動く力を奪っていた。開いていた瞼を閉じようと思った。眠ったらこんな喪失感も消えると思った。

 

《――――刹那さん》

 

 閉じかけた瞼が痙攣して開かれた。

 懐かしい声が聞こえた。彼女にも出来た新しい友達が見ているのならば動かねばならない。

 

《――――せっちゃん》

 

 刹那の大切な人の声が声が聞こえた。

 愛しい主が泣きそうになっているのならば動かねばならない。 

 喪失感が別の物で埋められていく。

 光が生まれる。倒れた刹那を腰辺りから生まれた光はどこまでも広がっていく。光は刹那を覆い尽くし、染み入るように体の中に入っていく。

 指先が動き、手が動いて顔を上げた。足が動いて膝を付いた。付いた手で上半身を地面から上げる。足を踏ん張って胸を張って立ち上がった。そしてエヴァンジェリンを見据えた。

 光に導かれるように言葉が胸の中に溢れて来る。

 

「エヴァンジェリンさん。剣も幸福も、どちらも選んではいけないでしょうか?」

 

 人と人の繋がりが幸せと思った。幸せの、沢山の答え。きっと、誰も知っていることだ。時々は忘れているかもしれないけれど、それでも足を止めて振り返れば必ず胸の真ん中にある真実。

 

「私は剣を捨てられません。いえ、捨てたくありません。剣はもう私の一部。剣を捨ててしまったら桜咲刹那ではなくなってしまいます」

 

 折れてしまった刀身の夕凪を手に、桜咲刹那は暗闇の中で見出した真実を語る。

 

「ハッ、言っただろう。そんな思いは勘違いに過ぎないと。剣を捨てようがお前は何も変わりはしない」

「そう言われようと、私は諦めきれません。剣があったからこそ今の私がある。思い込みと勘違いと言われようとも曲げるつもりはありません。剣も幸福もどちらも諦めません!!」

 

 刹那は荒くなった息と獣のような鼻息の合間に、ようやく言えた。頭が朦朧として倒れてしまいそうだった。酸素が欲しかった。心臓は、逆にピタリと止まってしまいそうなほど速く脈打っていた。

 一秒後には目の前の吸血鬼に首を落とされているかもしれない緊張感の中で、夕凪を持つ手の指がまだ微かに震えていた。でも、今も守るように袴のポケットから生まれる光が身近に木乃香を明日菜を感じさせてくれたから、彼女達が信じる桜咲刹那でいられた。

 

「ホザけ、ガキが!!! 甘ったれの貴様にそれが出来るのか!!」 

 

 間近にいた刹那が吹っ飛ばされんばかりの言霊が込められた大喝が森の中に響き渡る。

 

「出来るか出来ないかじゃありません。やるんです」

 

 近くの木の葉が耐えきれずに雪のように落ちてくる中で、動ずる事なく己の決意を言い切った。全身が縮み上がり心臓が止まってしまうほどの大声であっても、刹那の意志は変わらなかった。

 もっと苦しかった明日菜がアスカに向かって行ったのだ。親友の刹那だけが退くわけにはいかない。

 

「何時の日か剣を置くために、あなたを斃してでも両方を勝ち取ってみせます」

 

 日常に帰る為に、戦う時が今なのだ。

 ピリピリと痺れるような緊張感の中、刹那はこれで良いのかと疑うほどの充足感に満たされていた。

 

「………………ふっ、はっはっはっはっはっ!!」

 

 緊張感を打ち破るように厳しい面持ちだったエヴァンジェリンが突然笑い出した。

 

「小便臭いガキが良くぞ吠えた!」

 

 不器用は不器用成りに筋を通して生きていくしかない。事もあろうに刹那はどちらかだけを選ばずに、選択を問うたエヴァンジェリンを前にして両方を選ぶと言い切った。ここまでコテンパンにされておきながらも、闇の福音を斃してみせると大見得を切ったのだ。笑わざるをえない。

 

「いいぞ、こんなにも愉快にはなったのは本当に久しぶりだ」

 

 怯え、屈しきっていた娘が吠えた姿にエヴァンジェリンは笑わずにはいられなかった。

 

「精神は肉体に影響を受ける。ガキの姿のまま不死となった私は他の化け物どもよりも若いつもりなんだがな。くっくっ、お前達といると本当に年を実感するよ」

 

 楽しくて堪らないとばかりに顔を掴むようにして大笑いしたエヴァンジェリンは、ツボに嵌ったのか目の端に涙を浮かべながら自虐していた。

 

「私の言霊にも動ぜん所を見れば口先だけではないようだな。良かろう、次が最後だ」

 

 エヴァンジェリンがフワリと浮かび上がり、刹那から十メートルの距離を取った。

 既に周囲の風景は森の中ではない。一寸先も見通せない闇の中を見て、この世界が幻術で作られたものであることをなんとなく予想がついていた。

 

「私を斃すと吠えたのだ。お前の意志の力の程を証明してみせろ」 

 

 パキィィンと甲高い音を立ててエヴァンジェリンが手刀の形にした手から、魔力で出来た紫色の刀のようなものが伸びた。魔法に詳しくない刹那にはそれが何の魔法であるかは察しがつかなったが、酷く危険な物であることを簡単に分かった。

 

(明日菜さん……お嬢様……)

 

 脳裏に思い描くのは大切な二人。この戦いが終わったら、自分の全てを二人に話すことを決めた。受け入れてもらえなくても、我儘だと言われても、隠したまま友にいられるほど、自分は強くも器用でもない。

 

「言われるまでもありません。元よりその気持ちです! アデアット!!」

 

 エヴァンジェリンに引き寄せられるように、刹那もまた必殺の一撃を放つべく取り出した仮契約カードからアーティファクトを呼び出す。

 呼び出した建御雷を腰だめに構えて力を溜める。

 刹那の中の戦士としての部分が、この人から認められたいと思ってしまった。心が全てをぶつけて剣を振るおうと決めてしまった。

 

「剣の神――」

「断罪の――」

 

 二人が同時に踏み出す。足元の地面を踏み潰すほどの激烈な踏み込みによる速度は共に神速。

 刹那が放つは木乃香の魔力が充填された建御雷の解放。

 対するエヴァンジェリンが放つは、ビーム状の剣を手の先に出現させて触れたものを気体へ強制的に相転移、つまりは蒸発させてしまう高等呪文である断罪の剣。

 

「――――建御雷!!」

「――――剣!!」

 

 奇しくも互いに放った技のタイミングは同じであったが結果は違った。

 相転移の剣が雷を切り払い、建御雷へと到達する。勝負はエヴァンジェリンに軍配が上がった。しかし、刹那はそれを予期していたかのように、建御雷に残された全てのエネルギーをその瞬間に爆発させた。

 奥義のエネルギーは行き場を失って二人の間で爆発し、爆音が破裂した。狭い空間で走った衝撃波が吹き荒れる。

 

「……ぬ、ぐぅぁ……はぁっ!」

 

 エヴァンジェリンは五体満足で健在だった。完全には相殺しきれず、雷によって服があちこちが焼き切れ、肌にも傷が幾つも出来ていたが吸血鬼の特性である不死性が傷を瞬く間に癒す。

 エヴァンジェリンは直ぐに動けない。体に纏わりつく雷の残滓によって行動が数テンポ遅れる。しかし、条件は刹那も同じ。寧ろ、回復力を持たない刹那の方が不利。代償は払ったが賭けにエヴァンジェリンは勝った。

 

「神鳴流奥義――」

 

 しかし、既に刹那は次の行動に移ろうとしていた。否、始めからこちらが本命だったのだろう。

 折れた夕凪を正眼に構え、集中するように瞼を閉じていた。

 

「折れた剣で――――」

「――――斬魔剣!!」

「――――舐めるなっ!!」

 

 振り下ろされる夕凪の方が僅かに早い。それでもエヴァンジェリンは動いた。驚異的な反応速度で切り返した断罪の剣が振り下ろされる夕凪を迎撃する。

 重なった剣閃は、確かに肉体を切り裂いた。

 

 

 

 

 

 止まっていた時が動き出す。

 舞台で固まっていた二人が身じろぎして、見えない十字架に両腕を左右に広げて固定されていた刹那が舞台の上に倒れ込んだ。エヴァンジェリンもまた右手で顔を押さえ、バランスを崩して膝をついた。

 

「……おい、刹那」

 

 指の間から瞳を覗かせたエヴァンジェリンが倒れている刹那を見下ろす。

 

「はい……」

 

 倒れたままの自分に向かってカウントを始めた和美の声を、刹那は聞き流しながら起き上がる気力も無いので舞台に横になったまま、エヴァンジェリンの声に億劫そうに返事をした。

 

「お前…………あそこまで見栄を張っておいて、最後は相打ちとはどういうことだ?」

「夕凪が折れていたことを忘れてました」

 

 ハハハ、と乾いた笑いを漏らす刹那に向けられるエヴァンジェリンの視線はどこまでも冷たい。

 最後の神鳴流奥義である斬魔剣は、刹那の予定ではエヴァンジェリンの断罪の剣よりも早く実体ではない彼女を切り裂くはずだったのに、夕凪が折れて間合いが短くなっていることをすっかり忘れていた所為で相打ちを許してしまった。

 

「あれだけ決めといて最後になんだそれは。普通は私を超えてメデタシメデタシで終わるところだろうが」

 

 頭が痛いとばかりに顔を覆っていた手で髪を掻き上げたエヴァンジェリンの表情は、言葉とは裏腹にこれほど愉快なものはないとご満悦だった。

 

「まあいい。貴様の覚悟は見せてもらった」

 

 若者の相手をすると本当に年を実感するよ、と苦笑混じりに口の中で呟いた。

 

『……8……9……10! 両者見つめ合って静止していた一分でしたが、動き出した直後に倒れ込んだ桜咲選手、膝をついたマクダウェル選手! 両者立ち上がれず、10カウントにより引き分けです!!』

 

 取りあえず終わったのだから歓声を上げておけ、的なやけくそな観客達の声を聞きともなしに聞き流す。

 

「エヴァンジェリンさん」

 

 視界の端に観客を掻き分けて舞台に向かってくる明日菜と木乃香の姿を収めて、下から声がかかったので立ち上がったエヴァンジェリンは刹那を見下ろした。

 もう動けるようになったみたいで起き上がった刹那が跪いていた。

 

「幸福な状況に流されて弛んでいた私を諌めて戴き、ありがとうございました」

 

 言いながら両手を舞台について、感謝の気持ちを伝えるように深々と頭を下げた。

 

「ふん、礼を言われる筋合いはない。私はただ単に貴様を虐めたかっただけだ。誤解するな」

 

 最近の緩み切った顔を見て虐めたくなっただけで、本当に剣か幸福かを選ばさせ、どちらかを捨てさせるつもりだったので感謝される謂れはなかった。吸血鬼になってしまったエヴァンジェリンのように屈折していない刹那の、このような生まれに似合わぬ純朴さが少し羨ましかったのかもしれない。

 

「意志は確かに見せてもらった。後はお前の自由に生きろ」

 

 そう言って、エヴァンジェリンは試合前と同じく背中を見せて歩いて行った。

 

「ありがとうございました」

 

 年を食うと説教臭くなってイカン、と頭を掻く背中に形にし切れない感謝を込めてまた深々と頭を下げた。

 

「自分で選んだ道だ。後悔だけはせんようにな」

 

 魔力も殆ど使えない最弱状態でありながら、最強の看板を背負う背中は誰よりも雄々しく見えた。その気高く誰よりも誇り高い背中に憧れずにはいられなかった。

 でも、鬼の形相で向かってくる明日菜と闇のオーラを纏う木乃香に少しビビった様子だったのは減点か。二人は刹那が大丈夫だと手を振らなければエヴァンジェリンに食ってかかっていたかもしれない。

 

「さて、なにから話そうか」

 

 話さなければならないことは一杯ある。霊体化している翼や染めている髪に隠している目の事など、話すことはそれこそ多岐に渡る。

 ふと、視界の端に自身の黒い髪の毛が映った。

 

「本当に、あの人は……」

 

 なにやらアスカに突っかかっていたが頭を撫でられて憤慨しているエヴァンジェリンの姿に、素直じゃないとクスリと口の端で笑みを零した刹那は、舞台に駆け上がった明日菜と木乃香の慌ただしい足音を聞きながら、今の彼女の心のように雲の少ない晴れ渡った空を見上げた。

 

「せっちゃん~~っ!」

 

 歓声が上がる中で、天真爛漫な笑顔で一際大きく名を呼んでブンブンと外れんばかりに手を振って向かってくる木乃香の姿を見て、これで良いのだと思えて小さく控えめに手を振り返した。

 


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