真昼の陽光の下、影は色濃いが小さく縮み、世界は残酷なほど明るく照らされて光に満ちている。滾り落ちると言うに相応しい、夏の強烈な陽光だ。何もかもが白く焼き尽くされ、傲慢なほどの光の圧に拉がれていた。
アスカの視界の真ん中に、支配者のようにローブを纏った一人の男がいる。背の高い、痩身の男だった。
痩せてはいるが貧弱という言葉から程遠い。極限にまで絞り込まれた肉体からは、野生の虎のような獰猛な空気を纏っている。ローブの裾がボロボロになっているが、それすらもアクセントなってナギという男を際立たせる。
燃えるような赤毛、強い意思を感じる瞳。その容貌はどこか野性的で、それでいて粗野では無い荒々しさを備えていた。傲岸とも取れそうな、自信に満ち溢れた笑みを浮かべている。
ナギがこちらを見ていた。その眼光を目の当りにし、何故か無条件に父親だと感じ取ったアスカは棒立ちになった体がゆっくりと揺れるのを感じた。
アスカの周囲だけ空気が丸ごと無くなってしまったかのようだった。何度も息を喘がせ、目を剥いた。
「あ……ああ………」
まともな言葉は一つたりとも出ず、顔色を青く、そして赤くさせる。呻きのような弱々しい声を漏らしながら目の前の男を直視する。頭蓋の中で神経を掻き毟るような警告音が立て続けに鳴り響いた。ボルトを捻じ込まれるような痛みを米神に感じて、我知らずに心臓が一度、大きく収縮した。
思考ばかりか魂までも凍り付いたように、その場に立ち尽くす。舌は口の中で絡まったまま、言葉は喉の奥に詰まったままで、まともに呼吸することさえ出来なかった。
その目を見た瞬間に胸に押し抱えた熱が爆発し、飛び散った欠片が喉を塞いた。アスカは両の拳を握り締め、鏡の中の自分にも重ねられる瞳を見返した。
忘れようとしても忘れられない記憶。細胞の一片、血の一滴が内包している刻み込まれている遺伝子が証明している。目の前の男から分化して生まれたのだと震える肉体が証明している。
足が動かない。ひどく現実味がなくて世界と自分とが薄皮一枚で隔てられている。あらゆるものに実感がなく、自分の体さえ、別人のものとしか思えない。ただ一つ胸の内から湧き上がる未体験の感情だけが現実を感じさせてくれる。
「麻帆良武道会決勝か…………。わざわざこんな舞台を用意しやがって、相変わらずマメな奴だ」
アスカの耳に、何一つ涙するところなどないのにナギの声はひどく胸に響いた。
髪を掻き上げたナギは、改めてアスカを見て僅かに目を細めた。
「久しぶり、ってのも変な話だ。親子なのにな、俺達は」
ほんの少し唇を綻ばせて笑う、その澄み渡った瞳に自分自身の感情が反射しているように見えて、アスカの方から先に視線を逸らしてしまった。
ナギ・スプリングフィールドが目の前にいるという事実は、それほどの衝撃をアスカに与えていた。また同時に、目の前に肉を持った人として存在していることもまた心に深く刻み込まれた。
ナギの姿を見た瞬間、今の今まで自分がナギのことをどう考えていたのかも分からなくなった。更にこれからどのように考えていいかも分からなくなった。
「あっちにいるのはネギか。二人の身長が違うのは…………そうか、別荘を使ったんだな」
視線をずらして観客席にいるネギの方を見て、一人でうんうんと頷いたナギは感慨深げに呟く。
「十年か。不思議なもんだ。俺の意識上じゃ、まだ生まれて間もないお前が目の前にいる。こんなにも小さいな赤ん坊でしかなかったのにな」
明瞭でどんな威容にも屈することの無い、強靭な何かを秘めた声音が執拗に心を引っ掻き回し、咄嗟に思考が止まるほどに頭をドロドロに溶かす。
親指と人差し指で輪っかを作ってサイズを現すナギの言動は固まり続けるアスカを解すための冗談でしかなかったが、当人は動くことなく固まったままで沈黙を守っていた。
「う~ん、あんま時間がないんだがなぁ」
意固地に無言を貫くアスカに、涙ながらに胸元に飛びこんでくる展開を予想していたナギは感動とは程遠い状況を前にして困ったように頭を掻いた。
アルビレオのアーティファクト『イノチノシヘン』で再現しているだけのニセモノでしかない。全人格がリプレイされているので自らを『ナギ・スプリングフィールド』として認識しているが十分間限定の幻なのだ。
このまま貴重な時間をいたずらに消費するのは良くないと考えられるだけの頭は持っていた。
「しっかしボロボロだな、オイ」
会話から膠着する状況の打開を計ろうと、見た感じの様子から始めようと口を開いた。ナギが少し呆れ気味に言ったように今のアスカの状態はボロボロと表現するのが正しい。
二回戦で高音が生み出した影の槍に切り裂かれて服のあちこちが裂かれており、準決勝の高畑との試合ではタコ殴りにされた。先程までアルビレオに重力で全身を打ち据えられたこともあって、生地が傷み切ってボロ雑巾のようになっている。
服と同じくアスカ自身の肉体も傷つき、ところどころに打撲痕や治療の跡が残る姿は、服装も相まってナギが言うようにボロボロとしか言いようがない。
「情けねぇぞ。俺の息子なら無傷で勝ち残ってみろってんだ」
ナギにすれば普段から言い慣れている挑発のつもりだったのだろう。アスカを奮起させようとしたその行為自体には間違いはなかった。
「でもまあ、決勝に来たのは流石に俺様の息子のことはある。息子にまで遺伝するとは自分の才能が怖いね、これは」
笑みに溢れたその言葉を聞いたアスカの感情の波が完全に平坦になって、脳天から足先を電撃が貫いた。
直後、平坦になった反動でもいうようにアスカの中にあるありとあらゆる感情が爆発した。あまりの衝撃に、実際に視界が眩んでしまった。色の区別のつかなくなった世界の中で、ナギの姿だけが不必要に広がった。
「ったく、折角の感動の対面なんだぞ。少しは何か言ったらどうだ?」
「何を言えってんだ……っ! こんな突然に現れてっ!」
ぶるっ、と全身が震えて、堪えきれずに喉の奥から引き裂くようにして獣が抜け出したような、掠れた呻き声がアスカの口から漏れた。血走った目がナギを見る。
頭が真っ白になった。アスカの全てが激昂に支配された。ずっと蓋をして閉じ込めてきた怒りだ。
「死んだって聞かされてたのに現れて、また勝手にいなくなって…………」
六年前に滅びゆく村に現れ、兄弟に決して消えぬ呪いを残した。生きている。どんな形であれ、それだけは間違いない。少なくともアルビレオが有効な仮契約カードを持っている現時点では生きていることは間違いないのだ。
事情はあったのだろう。だが、どんな事情があったにせよ、ネギの記憶で見た限りでは自分の意思で兄弟達の下を離れたと考えられる。村には多くの慕う者達がいて、本来ならば敵であるエヴァンジェリンにも好かれていたナギだ。よほどの事情があったのだろうと想像も出来るので理性では納得もしよう。しかし、感情だけはそうはいかない。
「もっと他に言うことがあるだろ、他にもっ!」
怒声を高めるアスカはしかし、それでも正面からナギを見つめることは出来なかった。目と目を合わせる勇気がなかった。
音が鳴るぐらいに強く奥歯を噛み締め、喉から声を絞り出も掠れる。喉がひり上がって、やたらとつっかえる。ゴクリと唾を飲み込んむ、乾いた喉に張り付いた唾液の感触がぎこちない。
「つってもな、今の俺はあくまで記録を再現してるに過ぎないんだぜ。そんな俺に言えることは多くねぇよ。ただまぁ――」
気まずげに頭を掻いたナギの姿が消える。
自然に過ぎるほどの瞬動で、悪意も闘気もなかったから間近に接近されてもアスカは動くことが出来なかった。
「――――大きくなったな、アスカ」
ナギがそっと呟いて、壊れ物を触れるように頭に触れた。ナギの声は、少し濡れているように聞こえた。ただ、それだけで更なる言葉を爆発させようとしたアスカの顔が強張った。
「……くっ……」
吐き出そうとした言葉を噛むアスカ。分かってしまうから、分かり過ぎてしまうからこその苦しさがあった。膝から力が抜けるのが分かる。ずっと張りつめてきた精神が音を立てて崩れ出している。
ギリギリの途轍もなく細い糸で、アスカは精神は保たれているようであった。その糸も既に張りつめている。
歯を食い縛って耐えるアスカに誰かを重ねたのか、目を一端閉じた。
「やっぱり、お前は俺の、俺達の息子だ。こうしていると分かる。俺に、アイツによく似ているってな」
一瞬だけ閉じた眼が見たものは果たして何か、アスカには推し量れない。
「お前が今までどう生きてきて、お前に何があったのか…………幻に過ぎない今の俺には分からない。でもな、これだけは言える」
穏やかな声音だった。静かすぎるとすら言っていい。
無理に聞かせようとするような、我意はどこにもない。なのに、聞き入らずにはいられない不思議な力を秘めていた。
英雄が持つカリスマか、はたまたナギが生まれ持つ資質の一つか。激怒する大人の男でも、泣き叫ぶ赤ん坊でも、束の間の安らかな心地を取り戻しそうな声。成程、皆が想像する英雄とは、こういうものだろうと意識の端の冷静な部分が納得していた。
「世界中の誰よりも――――――」
ドクン、と鳴った鼓動の音が、ナギの声に応える。
分からなかった。ただ、自分という人間の奥底で、自分の知らない自分が声に反応している。
「――――――お前達を愛してる」
と、穏やかに泣く子供を宥めるように優しくナギが言った。
「……………」
アスカの表情が、滑稽なくらいに歪んだ。
所詮は親なんてものは、遺伝子を提供しただけの存在でしかない。初めて出会った相手を肉親だからと突然本能とか愛とかを齎して相互理解出来るなんてことは物語の中でしかない。人が分かり合うには対話と時間が必要なのだ。
それでも血を分けた者だからこそ、伝わる物が確かにある。
「世界中が敵になったって必ず味方になってやる。なんたって前歴があるからな、任せとけ」
淡くて柔らかい微笑を浮かべての言葉。
触れている頭に縛られているように動けぬまま、アスカは口を開いた。
「あんたは、馬鹿か。そんなことあるわけねぇよ」
「分かんねぇぞ、人生なにがあるか」
ナギは何を思い出したのか、クツクツと喉の奥で笑う。
「まぁ、馬鹿だってのはよく言われるな。もっぱら戦ってばっかりで、難しいことは頭脳労働担当のアルとかに任してたからな。苦手なんだよ、小難しい事とか七面倒くさい事とか」
自らの失言を安易に謝ることはせず、己の間違いを認めた上で言葉を重ねる。
「みんなにも、しょっちゅう似た感じで言われてたな。酷い時には鳥頭だぞ。俺だって、ちゃんと考えてるっつうの。まぁ、考えが足りないのは認めるけどよ。でも、今更変えようもないし、変えようと思わねぇ」
言われ慣れていると、ナギは困ったように頭を掻いた。
「俺に出来るのは戦うことだけだ。この拳でぶっ壊すことで変えていくことしか出来ない」
同じだった。アスカもまた言葉の力よりも拳の力を信じている。胸元に上げた手を拳の形に握ったナギに僅かながらも共感を抱いたことが嬉しかった。
「時間もない。こうやって喋ったりするのは何つーか苦手だしよ、男ならやっぱこれで決めようぜ」
ナギは表情を変えないまま頷いて瞬動で距離を取り、重心を低くして再び左半身の構えを取って拳を持ち上げる。
「折角こんな舞台が用意されてることだし、少し本気を出す。怪我するかもしれねえが………アルもいるんだ、大丈夫だろう。持ってみせろよ」
鋭く研ぎ澄ませ、それだけで相手の肉体を刺し貫くような―――まるで澄んだ水を凍らせたように冷たい。下手に触れれば凍えながら全身を貫かれる。
語らずとも、その姿が示すことは解った。
アスカが発する闘気を、逆に呑み込むように発せられている闘気からも答えは明らかだ。
「来いよ、アスカ。俺を乗り越えて、お前の意思を示してみろ」
闘気である――――ナギの放つ闘気がアスカの全身を裂いていった。
その闘気を浴びてアスカは全身を切り裂かれるような思いをした。暑くも冷たくもない。例えるなら紙のように薄く、刃のように鋭利で、それが幾千と放たれ続けているような、まさに狩人が獲物を血祭りに上げるような闘気。
一般人ならそれだけで死に誘うような闘気に、アスカの米神を一筋の汗が伝う。
「やるさ、やってやる」
アスカは心を引き締め直して、闘気によって生じる幻覚を封じ込める。
狼狽えることなど何もない。求めた人に、自分のやってきたことが届くのかを試す。ただそれだけのこと。一度ギュッと強く瞼を閉じた暗闇の中で自分に言い聞かせる。二度、三度と繰り返し心の内で呟いた後、細く長い息を吐いて、ゆっくりと目を開ける。
手の震えは止まっている。心臓の鼓動も落ち着き、耳障りだった呼吸も今はすっかり治まっている。それを確認するアスカの瞳は普段の戦闘時の鋭さを取り戻している。これならばナギと戦っても、さっきまでのような無様な姿を晒すことはないだろう。
アスカは重心を落とし、膝を曲げ、どのような相手の動きにも応じられるように構える。
その構えにナギは嬉しげにふっ、と笑い、何かに気づいたように首を巡らせた。
「ちょっと待った」
「なんだよ。まさか今更
「言わねぇって。俺達だけでやるのは流石に不公平だろ?」
やる気満々なところを制止されて肩透かしを食らったアスカを止めたナギが、今度ははっきりと観客席でまんじりともせずにいるネギを見て言う。
「ネギか? そうだけど大会のルールでは……」
その意を汲み取ったアスカも納得するが、当たり前の話だが選手以外の第三者が試合に参加するなどありえない。
アスカだって自分だけが美味しい状況を得たいわけではない。が、この状況でその選択を選べば試合自体が破算する。しかし、ナギはそれらを分かった上で悪餓鬼のようにニヤリと笑う。
「いいか、アスカ。ルールってのは破る為にあるんだぜ。おい、審判の姉ちゃん!」
『あ、はい!?』
ナギは女であれば百人中九十人が確実に見惚れるだろうハンサムなのだ。残りの十人は好みや趣向の問題に過ぎず、普通の人間ならばカリスマ性と共に呑まれるだけに過ぎず、審判兼司会の和美も例外ではなかった。
和美は、いきなりナギに話しかけられてテンパった声を上げた。
「俺、棄権するわ」
話しかけられただけでもドキドキものだったが、ナギの口から出た内容に頭の中が真っ白になった。
『は? 棄権? …………………………………………はああああああああああああああああああああああああああああああ??????!!!!!』
最初は言われた意味が分からずに目を白黒とさせていた和美は、ナギが言った言葉の意味を理解すると驚愕を分かり易く吐き出す。
マイクで驚愕の叫びを上げたものだから声がハウリングして会場中に響き渡り、ナギの声が聞こえなかった観客席の者達にも理解させた。
和美が驚愕してくれたから観客も同じようにはならなかったが、やはりどよめきは起きる。折角の格闘大会の決勝戦がこんな結末では納得できるはずもない。
『ちょちょちょちょっといきなりなにを言い出すんですか!?』
慌てた様子で舞台に上がる時に躓きかけながらナギの下にやってきた和美が語気も荒く詰め寄る、
「聞こえなかったか? 棄権するって言ったんだよ」
『聞こえてますけど、棄権なんて……』
「仕方ねぇだろ。ネギだけ除け者には出来ねぇ。これでも二人の父親だからな」
ちょっと俺良いこと言った的に自慢気なナギに、これが自分の父親かと思うと幻想が壊れる気がするアスカだった。傍から見れば同じことをした際の仕草やらがそっくりなのだが本人はそれに気づかない。
「待てって……お、親父」
「!? お、おいおい、アスカ。親父じゃなくてお父さんだろ。パパでも良いぞ?」
「もう一遍死んで来い」
アスカが血縁を認識しても意識して父と呼ぼうとすることが恥ずかしくてどもると、和美の詰問に答えていたナギが一瞬驚いた顔をした後に無駄に良い笑顔で言ってきたので切り捨てる。
「おいおい、偽物だってそんなこと言われたらパパは悲しんじゃうぞ」
ヨヨヨ、と泣き真似をするナギは生きているらしいが地獄に叩き落としてやろうかと考えていそうなぐらいアスカの顔が夜叉になっている。
幻想が壊れてきているのを自覚しながらアスカは溜息をつきながらポケットから仮契約カードを取り出し、「アデアット」と唱えた。
「おお、その手があったな。それでネギと合体してエヴァとやりあっているのがアルの記憶にあるぞ」
元であるアルビレオの記憶を共有しているようでナギは直ぐにアスカの意図を察したようだ。
「あの野郎と記憶を共有してるのか?」
「じゃなきゃ、状況も理解できないしよ。便利っちゃ便利だぜ。後、アルの野郎をあんま責めてやんなよ」
笑っていたナギがふと寂寥を覗かせる。
「十年前のことで俺達を守れなかったって気負い過ぎてんだ。エヴァより長生きしてんのに変なところで弱いんだからよ。分からねぇでもないがな。ま、アルの目的を認めるわけにはいかねぇが、お前らを強くするっつうのは俺も賛成だ」
だから来い、と続けたナギは野性味溢れる獰猛な笑みを浮かべる。
「俺を糧として降りかかる災難を物ともしない強さを手に入れてみせろ。何も残せなかった俺がお前達に残してやれるのはこれだけだ」
だから、アスカが絆の銀を取り出した時も何も言わなかったし、寧ろ楽しそうにその時が来るのを待っている。
「超えてやるよ。だから大人しく成仏しろよ!」
「死んでねぇって。勝手に殺すな」
ガクリと肩を落としたナギの視線の先で、何時もの調子が戻って来たアスカが手に持つ絆の銀の片割れを投げてネギが受け取る。
ネギとアスカの想いは一つだった。
この幻想を価値ある物として残すために、六年の研鑽を目の前の男に見せる為に。
「「合体!」」
二人が一人となり、魔力の嵐が巻き起こる。
「…………自慢じゃねぇが俺の魔力は世界でも有数の魔力量だ。魔力量は先天的な資質に強く依存する。稀に突然変異がいるが、それこそ例外だ。多少は増やせても劇的な増加はない。体を弄ろうとも同じだ。与えられた器以上の物を望んでも待っているのは破滅だけってのは良く出来てるよ」
吹き荒れる風にローブと髪を揺らしながらナギが目を細めてその存在を見る。
「今まで戦ってきた中で俺よりも魔力量が多かったのは数える程度しかいない。それもここまで圧倒的なのはあのバカ野郎ぐらいだぜ。嘘から出た真ってか。アルがお前達に託そうっていう気持ちも分かるが、この糞ったれな運命に反吐が出る」
徐々に嵐が弱まり、ゆっくりと中心に立つ男に魔力が体中に浸透していく。それは例えるならまるで水を取り込むスポンジのよう。ネギとアスカが合体した男――――ネスカが身体に浸透させて強化している様は異様の一言。魔力による強化だけを見ても既に一流の域に達している。
「待たせたな。久しぶりの合体の所為で不作法を見せた」
言いつつ、ネスカが軽く力を込めると、バチバチとと身体を巻き込むように紫電が走る。大気が強大な魔力に耐え切れぬとばかりに、炸裂音と共に大きく激しくなっていく。
「その代わりに楽しませてくれんだろうな」
「勿論、と答えておこう」
「気取った喋り方だな。はっきり言うぜ―――――どっちの性格だ、コラ」
挑発しながら、こちらも気を引き締め直す。
遅ればせながらもナギも体に魔力を流し込んでいく。静かに両腕、両足、全身に力を集中させていっている。
「仕様だ」
「なら、仕方ねぇわな……!」
叫びと共に、ナギの内側から制御されていない莫大な力が吹き荒れて体外に溢れ出た。それが轟音となって大気を叩く。全身から放たれた魔力が波動となって破壊力となり、立っていた闘技場を振動させる。足元を罅割れされ、舞い上がった破片が喚起するように乱舞した。
「強くなれ――――俺を殺せるほどに」
願わくば子に親殺しをさせる時が来ないことを祈るのみである。
「「…………」」
しばし、ネスカとナギが無言で見つめあう―――――というか睨み合う。
ネスカの天より舞い降りて大木を切り裂く雷獣の如き尖った眼光と、如何なる災害を跳ね飛ばす不動の大樹の如きナギの静かな眼差し。
視線と視線が物理的な力を有するが如く斬り結んだ。鬩ぎ合う眼光が、虚空に火花を散らす。膨れ上がる殺気が空間を侵食し、一種の結界に近いものへと変質していく。睨み合う二人―――――その間で殺気と殺気が、空気を震わすことなく鎬を削り合って、万力のように二人の間の空間を締め上げた。無言の圧力に圧縮された空気が、声にならない悲鳴を上げた。
親子の情愛や温かさとは対極にある雰囲気に、周囲の気温が急速に低下していく。
ネスカとナギの間に、ひどく殺伐としたものが満ちていった。それは吹雪の如く凄絶に、業火の如く容赦なく世界を変質させていく。
ぎしり、と音を立てて空間が軋む。
もはや双方とも無言。じりじりと、素人目には静止しているよう見えるほど、少しずつ間合いを詰めている。
肉体の動きは止まっても、迸る魔力は戦闘の主導権を掌握すべく、熾烈な争いを続けていた。
僅かな後退も許さず、鎬を削り合う魔力の波動。その圧力は半ば以上物質化し、闘技場を、水面を、そして観客席を軋ませる。
どちらか一人でも、学園長、高畑、エヴァンジェリンのトップスリーを除いた麻帆良の全戦力が束になっても届かないような凄まじい力が衝突としているのだから、それは一般人にも寒気として届いた。
今までも、観客の中でも感受性の強い者の中には、怪訝な目で自分の腕に生じた鳥肌を眺めたり、「おい、なにかゾクゾクしないか?」と聞いている者もいた。
とてつもない緊張感が、世界を満たしていた。今にもガスを詰め過ぎた風船のように破裂してしまいそうな危うさ。誰かが決定的な音を立てるだけで、この拮抗が砕けてしまいそうな予感が会場を満たしていた。
動き出さない二人に場が騒ぎ出すかと思われたがそんなことにはならなかった。あまりにも空気が張りつめすぎている。こんな中で野次を飛ばす勇気がある者はいない。
「ねぇ、なんで二人は動かないの?」
小さな物音すら致命的な破綻に陥りそうな一触即発の空気に耐え切れず、神楽坂明日菜は隣にいる桜崎刹那に本当に小さな声で訊ねた。
向かい合って臨戦態勢に入っているのにもかかわらず、一向に戦おうとしない二人への疑問から生まれた何気ない一言を放つ。
「違います。もう始まっています」
刹那から返ってきたのは肯定ではなく否定の言葉だった。
「え? でも、全然動かないじゃない」
「よく見て下さい。微妙に立ち位置が変わっています。それに構えも若干ですが動いています」
刹那に言われて明日菜が視線を舞台の上に戻してよく見れば納得した。
舞台上の二人は最初の位置から言われなければ気づけないぐらいだが、お互いに正対したまま円を描くように移動している。構えも腕の位置や足の傾きなどが若干、傾きや上下の位置が変化している。言われて改めて見なければ分からない変化だった。
「相手に合わせて変化させて高度な読み合いをしている証拠です。明日菜さんもよく見ておいて下さい。これほどの読み合いは中々見れるものではありません」
闘いの場から一寸たりとも目を離さすのは惜しいと、目を皿のようにして舞台上を見ながら刹那は語る。
「戦いとは拳や武器を合わせるだけのものではありません。既に戦うと決まった時間から始まっています。相手の構え、姿勢、立ち位置、ありとあらゆる情報から精査することで実力や戦い方を予測することが出来ます。実力が拮抗すればするほど、読み合いを制した者が有利になります。当然ですよね。相手の戦い方が予測できれば自分がどう戦うかも組み立てやすいのですから」
武術は極めるほどに詰め将棋、陣取り合戦のようになっていく。もし、相手がこう攻めたらこう出そう、ということを極端にしているものだ。それにしても両者が高度な技術と深い経験を持たなければ成り立たない。
刹那が言った「これほどの読み合いは中々見れるものではない」というのは、これだけの実力者が闘う場にいれるのは珍しいことであるからだ。
「ようはスポーツの試合で相手に勝ちたいから研究するのと一緒ってことよね」
明日菜の言っていることは簡潔にし過ぎだが間違ってはない。情報とはそれだけ勝敗を左右するファクターになり得る。
中国春秋時代の思想家孫武の作とされる兵法書「孫氏」において「彼を知り己を知れば百戦して殆うからず」と記述がある。分かりやすく言うなら、相手と自分の長所短所を見極めて事を処すれば、どのような場合でも失敗することはないということである。
戦いをスポーツという一気に普通な感覚に例えられて、少し浮かべる顔に困った刹那は直ぐに気を取り直した。今は気にしても仕方がない。それよりも目の前の闘いに気を戻す。
「流石はお二人の父上。立ち振る舞いからしてかなり実力者と見えますが強さの底が計れません」
相対しているネスカの実力もまた底が知れない、と続きかけた言葉は流石に喉の奥にしまい込んだ。構えを取った時の威圧感、動作、その全てから刹那は感じ取っていた。
今も互いに主導権を握ろうとしている中で。そんなことを言ってしまったら天秤が傾いてしまうような重苦しいほどに張りつめた空気が会場を覆っている。当事者でもないのに圧し掛かる重々しいプレッシャーに口を閉じざるをえなかった。
この場にいる全ての者達が闘いの全てを見届けるために、僅かな変化も見落とさんとばかりに見開かれている。刹那らにとってもこれほどの闘いは見るだけでも百分の価値がある。
舞台の上で向かう二人は、互いにどこまでも冷たく、しんと静まり返った表情。その視線は、研ぎ澄まされた刃のように鋭く、相手を射抜いている。傍目には無言で二人は向かい合う二人の姿。
勝負を前に語り合う言葉はなく、語るなら拳で語れと言ったところか。
両者の距離は約5メートル。ネスカは身体の向きを半身―――――ナギに対して斜めに。脚を開き、腰を低く低く落とし、左手は前に、右手は顔と胸を護るかのように脇を締めて何時でも駆け出せるように構えを取る。だが共に拳は握らないのは、掌打や締め技や投げ技も攻撃のオプションに入れているから。
ナギはネスカを待ち受けるように膝を曲げて腰を落とし、左半身が前に出る構えで口元に余裕を見せつけるかのように笑みを浮かべている。
「何時までもこのまま読み合いをしていては埒があかねぇ」
そこで、ようやくナギが口を開いた。
ナギはまるで殺気に気付いていないかのように平然としていた。当然、気付いていないわけではない。ナギが纏う絶対の自信が殺気を受け流しているのだ。それどころか強敵と戦えるのだと楽しげに笑みすら浮かべている。
「何時までも向かい合っていてもしょうがねぇ。先手は譲ってやる、来な」
構えは解かず、読み合いを継続しながらもこのままではいたずらに時間だけが伸びる。どちらかと言わなくても気の短いナギにしてはよくもった方だろう。
形なく漂う闘気が、不意に凝縮して風を起こす時がある。ナギが告げると同時、ネスカの後ろから風が吹いた。それがネスカの攻撃の合図だった。
「ぉおおおおあああああああああああっっ!!」
その風を切っ掛けとしてネスカは飛び出した。一直線にナギに向かって跳ぶ。
ここに十年の時を超えた再会した親子が拳を打ち合わせる時が来た。
一般人にも感じられる明確な変化に観客が微かにざわついた瞬間、彼はそれを駆け出す切っ掛けとした。全身に溜めていた魔力を一気に爆発させて、地を蹴る。開いた空間に服の跡の黒い残像を残し、一足の飛翔でナギとの距離を詰める。一足で一直線に飛ぶ姿は燕のよう―――。
固めた右の拳、狙うはナギの左頬―――。相手の首を吹き飛ばす勢いでネスカは拳を斜め上に突き出す。
「おっと、危ねぇ」
「――!?」
楓以上に「入り」と「抜き」の気配がなく、これ以上は無いという縮地からの一撃は、ナギに当たるかと思われた。しかし、ネスカの拳に当たった感触は頬骨に当たったような感触ではない。
ナギは息子の縮地の完成度に驚きながらも、その掌でネスカの拳を防ぐ。ドシン、と二人を中心として低く大きな音を広がり、ナギの足が威力に押される様に僅かに後ろへと動く。
「っち」
ネスカは舌を鳴らすと、右腕を戻す勢いのまま体を捻り左足の回し蹴りを放つ。が、ナギの右腕によって防がれた。ネスカは左足を戻す間も惜しんで、上体を後ろに倒して両手を地面に着け後転。同時に振り上げた右足の爪先でナギの顎を狙ったが、軽く顔を逸らすことで躱された。巻き起こった風でナギの髪が舞い上がる。
前髪を風で撥ね上げさせながらナギは攻防の合間にニヤリと笑った。それは紛れもない賞賛の笑みだったが、ネスカは気付かない。
(笑っていろ!)
ネスカは地に足が着くや否や、今度は縮地ではなく純粋な踏み込みで手を伸ばせば届く距離まで近づく。
「タイマンをやろうってか。いいぞ、悪くねぇ」
逸らしていた顔を戻して前に出している足と交差するように踏み込んできたネスカを見下ろすナギの顔に、絶好の獲物を前にした狩猟者のような獰猛な笑みが広がった。
密着するほどのこの距離ならば、魔法よりも拳の方が速い。
魔法とは、意思に具現化である。それ故に、魔法の行使には絶対に思考する――――脳を介する必要があるのだ。対して肉体動作の場合は、個々の筋肉の使い方はおろか、『動かす』という一番最初の意志さえも省略されることがある。
格闘技をある程度を修めた者ならば、誰でも『考える前に殴っていた』という経験があるはずだ。その速度には、魔法は絶対に届かない。どれだけ修行を重ねても、無意識で魔法を起動することは理論的に不可能なのだ。
「来いや――ッ!」
「はあああああああっ!!」
ナギとネスカの叫びと拳が同時に交錯する。
ほぼゼロ距離の狭間で瞬きの間に拳が十を超えて行き来する。余人には軌跡すらも目視出来ぬ、ハイスピードでの攻防が繰り広げられていた。
「ちっ」
互いに放った攻撃が五十を超えたところで舌打ちをしたのはナギの方だった。
(やっぱ
生半可な攻撃に被弾してもジワジワと前進してくるので二人の脚は半ば絡まるような状態になっていた。このような状態では攻撃オプションが限定されてくる。防御にしても魔力に任せて身体強化を行なっているネスカの攻撃を完全には受け流せない。
ネスカも自分の利点を分かっているので、受けているナギも見た目は余裕を保っているが息子の実力には感服せざるをえなかった。
(しかも矢鱈と懐に潜り込もうとしやがって。小さいってのはそれだけに武器になるってか)
ネギに比べれば大分大きいアスカがベースになっているとはいえ、長身のナギとではまだまだ身長差が大きい。
大戦期に自らも小さな体を活かして偶に取っていた戦法だけにやられた側の立場に立つと厭らしさが際立つ。かといって、息子相手に自分から距離を取るのは気が進まない。
「ぜあっ!」
殆ど接触しているような状態で、ナギですら看過する出来ない力を存分に込められた拳が放たれる。
「それを受けてやるわけにはいかねぇな!」
必倒の一撃故に予備動作が大きく、ナギは体を横に動かして躱した。そしてネスカが元いた場所に突っ込んでくるのを見計らって、残していた右足を上へと振り抜く。
ネスカは下から迫る足に気づくと、左手を出して受け止めた。しかし、蹴りの勢いは止まらない。ネスカの体重など全く無視して、ナギの脚は彼ごと振り上げた。
宙を飛ばされたネスカは足を引き込んで体を丸めて胎児のように回転して距離を開けようとする。
「甘ぇ!」
ネスカを蹴り抜いて、ナギが軸足である左足を捻って背中を見せながら舞台を蹴って前方へ跳ぶ。舞台を蹴った左足を背中越しに空中で回転を続けるネスカの頭部目がけて一閃する。
ナギの接近を感知したネスカは、同時に蹴りが放たれていることも感じ取っていた。掴んでいた両膝から手を離して手を振り体を捻って身を逸らせる。
直後、目の前をナギの脚が通過していく。頭部を狙った蹴りが髪の毛を何本か持っていくのを感じながら、視線を目の前の男に映す。
「「―――――」」
攻撃を放って避けてで次の動作に移るまでの一瞬、空中で親子は視線を混じり合わせる。
「「――っは!」」
着地は同時、踏み込んだのもまた同時だった。
攻撃を放った直後と避けた直後、次に攻撃を放つのはネスカの方が一瞬だけ速かった。
四肢をついたまま着地したネスカは全身の筋肉を弓のように引き絞り、溜めに溜めて限界まで束ねた力を、ただ一点に向けて放たれた矢のようになって体全体でぶつかりに行く。
「むっ――!」
まさか頭突きで来るとは予測していなかったのかナギの反応が遅れた。咄嗟に右腕を盾にして直撃は何とか防ぐが力が足りない。ネスカの頭突きを受け止めきれず、腕はそのまま腹に押し付けられ、受けた衝撃が突き抜け炸裂した。
ナギの足が浮いて、吹き飛ぶ。―――――が、直ぐに持ち直してノイズに似た音を発しながら両足で勢いを殺して止まった。ゆっくりと上がった顔は、まるで何事も無かったように平然としており、痛みに顔を顰めたり焦るどころか笑みすら浮かべている。
(痛ってぇえええええええ??!!)
内心では痛みに悶えまくっていたが、表には出さなかっただけである。
先程のネスカの頭突きによって、二人が離れた距離はまた約五メートル。二人にしてみれば無いに等しい。短い距離の先にナギが立っていた。両者の間の地面にはナギによって抉られた二本の線が傷跡のように残っている。しかし、肝心のナギには服に汚れはあっても外傷は見られなかった。
「―――――今ので折れなかったのか、自信があったんだが………やるな」
ネスカの今、出せる渾身の一撃を中途半端な状態で受けても折れなかったナギの右腕を見て思い、やはり化け物―――――もしくはそれに近い存在だと再認識する。
「へ、お父様の偉大さをようやく分かったか」
やせ我慢した甲斐があったと内心で小躍りしながらナギが言葉を返す。
「やってやれないことは分かった。攻撃あるのみ」
ナギの本音を知る由もないネスカに悲壮感などない。過去の戦いで、彼我の戦力差があるのなんて決して珍しいものではなかった。ナギがいる頂点が決して絶対に届かぬ領域ではないことを直感した故に選択するのは攻撃のみ。
「行くぞっ!」
ネスカの叫びに、もとより決壊寸前だった均衡を崩して申し合わせたように二人はあまりの脚力に互いの足場を砕きながら同時に踏み出した。
脆すぎる足場の事など考慮の外にある二人の体が真っ直ぐに前方へ飛んだ。それこそ五メートル近くを助走もなしに重力を力技で捻じ伏せた二人の体が中間地点で容赦なく激突する。
「うおおおおっ!」
「おああああっ!」
牽制の、あるいは距離を測るようなジャブのような攻撃は無い。互いに必殺の意を込めた拳が、衝撃波すら発しながら交差する。
「くっ」
「ぬっ」
ネスカが咄嗟に傾けた頭部を、ナギの脇を、両者の拳が掠めて鉄槌のごとき拳が突き抜ける。その先端から迸る力が、ナギは闘技場を、ネスカは空中をそれぞれ抉った。
突進の勢いのまま、二人の体が激突する。数トンにも達する衝撃を、揺るがず二本の脚で受け止める父と息子。しかし、闘技場は二人のように受け止めらずに、二人を中心にボコッと数十センチは陥没した。これを見れば激突の衝撃が如何ほどのものか見ている者にも理解できるだろう。
衝撃波が無尽蔵に撒き散らされる。至近距離で睨み合う。前進に使ったエネルギーは初撃で完全に失った。
パワーで勝るネスカも身長差の関係で拳をアッパー気味に斜め上に突き上げたため、身体を密着させると、左腕を相手の左腕の下から通して上に突き上げている形になり、脇を締められたことで次の動作を封じられた。次の動作への移行が致命的なまでに遅れる。
その隙を見逃すナギではなかった。
「ふんっ」
風を切るボディブローが肝臓を狙う。間一髪、腕を抜いてバックステップでその一撃を躱して間合いを取り直したネスカは、追いかけてくるナギから遠ざかるために更に後ろに跳んで一回転し、意表をつくために片手をついて横に飛ぶも、
「くっ……!」
戸惑うことなく追いかけてきたナギの斜め下から掬い上げるような左の拳がネスカの右頬に入った。唾や口の中のどこかが切れたのか僅かに混じった血が飛び散り、凄まじい衝撃に首が後方にぐりんと捩れて無防備になる。
これを好機と見たナギがフック気味の右を放つも、察知したネスカが身を後方に投げて両手を後ろに着き、下から飛び上がるように突き上げた両足によって上空に吹き飛ばされた。
ネスカは腕の力で後転をして足から着地し、瞬きするほどの時間の後には十数メートルは浮き上がったナギの後方に瞬間移動したように現れた。身体強化と縮地による超速移動で、そのまま背後から背中に振り下ろしの右を放つも、そこにナギの姿は無い。
「ちっ…………上かっ!?」
反射的にネスカは、上に向かって背後を振り返りながら裏拳を放っていた。
すると鈍い音と共に、手に相手へ命中した衝撃が返って来る。しかし、それは攻撃が命中したものではなく、むしろ防がれたもので、拳よりも後ろに振り向く形になったネスカは、裏拳を膝で受けながらナギが右手を振り上げるのを見た。
頬を狙う一撃を全力で後退して躱す。上下が反転して体勢を崩しているネスカ目がけて、空中を蹴ったナギが追う。
真紅の髪が靡いて疾走するナギの姿は、戦っているネスカすらも思わず見惚れてしまうぐらいに勇猛であった。そんなナギから繰り出される左の鉄拳を首を傾けて皮一枚で躱す。首筋から小さく血が噴き出したが皮一枚なので勢いはない。直ぐに止まる。先の一撃を避けた動作のままで駒のように体を回転させて、崩れた体勢を整える間を稼ぐために距離を開ける。しかし、ナギが相手にそんな悠長な時間を与えてくれるはずがない。
俊足で間合いを詰めたナギがネスカをサッカーボールのように蹴り飛ばす。脇を固めて受けたネスカは簡単に吹っ飛ばされ、そして見た。追撃をせずに、右手を雷光に染め上げるナギを。
「大きいの行くぜ」
ナギの右手に魔力が走り、紅い雷光が構成されていく。烈光の蛇と化した雷の束が絡みついて、ナギの髪のような紅い魔力光が眩くネスカの網膜を焼く。
「――――そら!」
北欧神話に登場する、雷の神にして最強の戦神トールが打ち砕くものという意味をもつ鎚ミョルニルを振るったように、ナギが腕を振り下ろす。雷光は空気を切り裂き轟かせ、吹っ飛ばされている途中のネスカに向かって落ちる。
その雷光が雷属性のたった一本の魔法の射手であることにネスカも直ぐに気づいた。だが、そこに込められた魔力、とことんまで研ぎ澄まされ過ぎて原型を留めていない術式が威力を想像させる。
ざっと見積もって初級魔法でありながら上級魔法に匹敵していて、下手をすれば麻帆良に来た頃のネギの雷の暴風を超えかねない。
「なんて、反則――」
大戦期にナギと戦った誰もが思ったことを呟きながらも、ネスカは無様に横に跳ねた。無茶な行動に全身が軋むがこの一撃を受けたら間違いなく死ぬ予感があった。
「――づあっ!?」
直後、雷光が間近を通過して余波だけで左手と左足、左半身の服のあちこちの衣服が消失する。雷は空気を切り裂いた刃だった。切り刻まれた痛みと軽い火傷に呻く声が、麻帆良湖に落ちた魔法の射手が山を吹き飛ばすほどのダイナマイトを爆破させたような衝撃と音に掻き消される。
麻帆良大橋の全高を超えるほどに膨れ上がった水柱に、近くにいた遊覧船や展望台にいる人達が悲鳴を上げる。衝撃に翻弄されて中で微かに見た異様さに驚く暇も、軍事研の新型爆発かと騒ぐ人達に目をくれる暇も、着弾地点からかなり距離がある龍宮神社にまで飛沫が盛大に降ってきたのだから武道会場に居る全員が例外無く驚くのを悠長に眺める暇も、ネスカには全くない。
「おっ、よく避けたな。でも、隙だらけだ!」
ハッとして見上げた目の前に両手を頭上で組んで叩き落とす体勢に入っているナギの姿を。
反撃も回避も間に合わない次の瞬間。
「があっ!?」
背骨の真ん中に叩き込まれ、ネスカの体が曲ってはいけない背中側を中心にしてくの字に折れる。そして凄まじい勢いで十数メートル下の舞台に向かって真っ逆さまに斜め下の部隊に落ちていった。
「おっ!?」
攻撃を放ったナギが慌てて体を捻ると、その直ぐ傍をネスカが回避不能と悟って放った魔法の射手が直進していく。
これまた一般魔法使いでは一瞬で干からびてしまうほどの魔力が込められた魔法の射手は、後少しでも攻撃に力を入れていたら直撃していたことだろう。追撃が遅れ、ネスカがダンッという音と共に両手両足をついて舞台に着地する。
地震が起きたかのように舞台が揺れ、四肢を着いた場所が罅割れているのを見れば衝撃の強さが計り知れる。
「――っ」
攻撃を受けたことか、それとも着地の衝撃が強かったのか、血が零れるネスカの口から食い縛った歯から呻き声が漏れる。しかし、たじろいでいる暇もなく、着地した姿勢の俯いたままで何かを感じ取ったネスカは、その姿勢のまま横に大きく跳躍してクルクルと宙を回転する。
するとさっきまで頭があった位置にナギの足が落ちて舞台がボコッと陥没して穴が開いた。上から見れば頑丈な木板を貫通して水が見えたことだろう。
あまりの威力に周辺の水が一瞬浮かび上がり、頑丈な舞台すらも耐え切れぬとばかりにぐらつく。落下の勢いもあったとはいえ、あまりの威力にネスカが避けなかった場合の時の事を考えて観客が悲鳴を上げた。
「呆っとしてるヒマはないぞ」
「分かっている」
観客の悲鳴を置き去りにして跳んだ体勢のままのネスカを追いかけるナギ。
ネスカが着地したのは舞台の欄干の上で、そこに追いついたナギとの間で互いに一進一退の攻防を繰り返す。しかし、後のないネスカには移動範囲が狭く、攻撃を避けてバランスを崩して後方に倒れそうになったところをナギが追い討ちをかける。
「そらぁっ!」
これを何とかクルリと横に回転することで避けるもネスカがバランスを崩していることには変わりなく、ナギは欄干の上を纏めて蹴りで薙ぎ払う。
だが、そこには既にネスカの姿はない。舞台端から前方屈伸宙返りで薙ぎ払うために屈んでいたナギの頭上を飛び越え、置き土産とばかりに背中を蹴って舞台から落とそうとした。
「おっ!」
よほどネスカの行動が意外だったのか、ナギは僅かに目を見開く。
そして背中を蹴られた衝撃で押されてナギは舞台から落ちないように踏ん張る。が、ナギの体がブレたと思ったら、次の瞬間には舞台の端から少し離れた中央側に着地して片手をついていたネスカの後方に現れた。決してナギは瞬間移動したわけではない。普通の動体視力では追えないスピードで移動しただけの話だ。
普通なら反応できないはずのこのスピードにもネスカは反応し、先手を取って片手をついて左足で顔を蹴ろうと振り上げる。ナギがこれを右手で防いで左手を振り下ろすも、ネスカはもうそこにはいない。
ネスカが一度飛び退いて距離を取ってからナギに前蹴りを放つも、今度は逆にナギの姿が無くなった。攻撃が空振りしたネスカが振り返りながら後ろに回し蹴りを放つと、ナギの拳と相打ちになりお互いの顔が仰け反った。
「「!」」
両者はそれぞれ回転しながら舞台の両端へと吹き飛び、着地したら再び観客達の前から姿を消して神速の世界へと踏み込んだ。
繰り出される攻撃は全てが必殺。その凶悪な打撃を、二人は躱し、捌き、それが叶わない時は受け止める。身を延べるとも言われるほどの縮地の歩法が幾度も繰り返され、数メートルも離れている両者の間合いが不自然に詰まり、激突の後、また離れる。
「とっととくたばれっ!」
ネスカが獣のような形相で叫びを放つ。覇気と共に攻撃の勢いが増す。むしろ、覇気こそが燃料とでも言うように、一撃ごとに速度とキレが増していく。
「ガキがナマ言ってんじゃねよっ! 永遠に息子はお父様を超えられねぇって教えてやるよ!」
同時に放たれた互いの肘が、両者の中間地点で激突して込められた力が爆発に近い衝撃を伴って拡散していく。二人を中心にして木板が捲れ上がり、舞台がどんどん破壊されていくかのようだ。
「「はぁっ!!」」
極限まで無駄を廃し、絶大な<力>を乗せたその打撃は、一撃で人体を破壊―――――単なる殺害ではなく、人の形すら留めぬ絶対的な殲滅――――することさえ容易い。
二人の激しい攻防が始まった。拳と拳、蹴りと蹴り、交差する全ての攻撃が、相手の急所に目掛けて放たれていく。瞬きしている間に二人は幾百もの拳を繰り出し、幾百もの蹴りを放ち、放った乱撃の数だけ同時に防いでいる。
目にも止まらぬ速度で移動し、一撃必殺の威力を持つ互いの拳がぶつかり合う。その砲撃にも等しい攻撃全てをかわす方もかわす方だが、立場上、躱すことのできないものもあった。
舞台の端から端へと目まぐるしく移動し、一般人である観客には二人が衝突した衝撃波が生まれた瞬間だけ微かに姿が見えた。衝撃波と狙いを外された力は、その余波だけで舞台を薄っぺらい紙細工か何かのように粉砕し、人々が風で押され、方々で騒ぎが起こるが二人はそちらに目も向けない。
二人の目は互いだけを見つめていた。この時の世界は親子だけで完結していた。
風が唸る。極限の速度によって真空が生まれ、空気がよじれる音だ。
一対一の戦いだというのに舞台上は戦場と化していた。まるで互いに数千の騎兵を引き連れているかのような戦慄を観戦者達に感じさせる。
『危険物が跳んでいて危険です! 舞台に近い方は十分にご注意ください!!』
容赦なく破壊されていく舞台から逸早く避難した和美が観客に注意を促す。
『しかし速い! 凄すぎる!! 目視すら出来ない速さを見せています!! これは人間に可能な動きなのか!!?』
水が跳ね、風が唸り、木片が漂う。消えたと錯覚する速度。実際には常人には目視できぬほどに速いだけ。距離を離せば大抵のものを人は見れるはずなのに、影すらも追うことが出来ぬほど二人の超絶な速さは人間のものとは思えないほどに凄まじい。
『目にも止まらぬ超ハイスピードバトルを繰り広げています! でも、舞台は壊さないでぇ――!!』
立場上、動くことが出来ない舞台の壊滅度が増していくのだけは分かって和美が悲鳴を上げる。
二つの影が高速で飛び交い、炸裂音が断続的に響き渡る度に舞台が加速度的に壊れてゆく。攻撃の余波で舞台が抉れ、踏み込みで亀裂が入り、受け止めきれずに破壊される。相手より先に舞台を殴り倒すつもりではないかという比喩が、全く洒落になっていない辺りが別な意味で凄い。
二人の位置を把握するのも難しい攻防だった。五感を防ぐ爆音のような大音響がマシンガンのように連続して続き、同時に突風が吹き荒れる。空気という空気を鳴動させて音の爆発を押し広げてゆく。
人より五感が優れている明日菜は思わず耳を塞ぐも、直ぐ近くにいる木乃香の悲鳴を聞いた。
「大丈夫、木乃香?」
「うん。でも、まだクラクラする」
豪風の中で視界を遮ろうとする髪の毛を抑えながら、明日菜はすっかりネスカの動きに心を奪われていた。
拳打の雨が互いに降り注ぎ、蹴撃の嵐が吹き荒れる。鉄と鉄を激突させたような音が衝撃波となって絶え間なく響き渡る。間を置かない攻撃、相手の動きに素早く反応する防御、そして防御からすぐさま仕掛ける攻撃――――全てが凄いと思った。
「すごい……」
戦いは終わりを見せない。明日菜も表情を引き締め、戦いの成り行きを見守った。
一瞬前には舞台奥にいると思えば、次の瞬間には反対側の舞台の上空で打ち合っている。かと思えば観客席の屋根に足からネスカがめり込んだり、唯一残っていた灯篭をナギが踏み潰したりと、一瞬もその場に留まることなく移動し続ける。
もはや場外などに意味が無くなっていた。カウントを取るべき和美には二人の動きを追い切れるはずもなく、観客となって見ていることしか出来ない。
「おおおおおおおおッ!!」
「はあああああああッ!!」
ナギの勇猛な叫びと、ネスカの闘志に満ちた雄叫びが響く。
拳と拳、蹴りと蹴りがぶつかっているとはとても思えない、間近で花火が爆発したような衝突音が何度も響く。その度に空気が撹拌され、舞台付近は台風が発生したように風が荒れ狂っていた。
「えーっと……今のところどっちが優勢なのかな? 私にはもう、速すぎて動きを追うだけで精一杯で」
隣に立つエヴァンジェリンの横顔をちらっと見る。
エヴァンジェリンは今まで見たことがないくらいに真剣な表情で二人の戦いを眺めていた。
並外れた動体視力を持つ明日菜でも能力を使いこなせていない状況では、目の前の神速の戦いを完全に捉えきれない。世界でも最高クラスの戦いを僅かなりとも見えるだけでも彼女の資質がずば抜けている証拠だった。
「これまでのところは全くの五分だが、試合は直に終わる」
「どういうことござる?」
楓はまだ明日菜よりは戦っている二人の動きを捉えられている。だが、それは離れた場所で俯瞰して見ているからであって、戦いの場に立てば目が追いつかないだろうことは容易に理解できた。
見ている限りでは、戦っている二人に優劣があるようには感じない。
エヴァンジェリンに比べて判断できるだけの実力が及ばない事実が、様々な試合を見て、自らアルビレオとの試合で芽生えた強さの向上心が悔しいと叫んでいる。
楓でも集中していなければ見失うのに、彼女にも劣る明日菜や一般人と同程度の状況しか図れない木乃香には判然としない。仲間内で置いてけぼりを食らっている木乃香は黙って試合を注視している古菲に気がついた。
「速すぎてうちにはなにがなんだか。古菲は見えてへんの?」
「これ以上、速くなったら無理アル」
黙って試合を見ている古菲に話しかけた木乃香だが返って来た言葉は少ない。彼女は目を皿のようにして広げ、ギリギリであることを示すように緑色に透けて見える目を小刻みに震わせていた。
他に気を散らすと動きを追えなくなると、全身に力の入った緊張感が言っているようだった。
「エヴァ!」
後ろから戦いの音にも負けないように張り上げられた聞き覚えのある声にエヴァンジェリンは、声に込められた切迫した感情に気づいて舞台を視界に映すようにして横を向いた。
「タカミチ」
観客の上を超えて跳んできた高畑。なんとも派手な登場の仕方にさしものエヴァンジェリンも目を丸くした。
「どういうことだい、あのナギさんは一体!?」
息堰切って話し出した高畑にエヴァンジェリンは仕方なく顔を向けて答える。
「限りなく本物に近いニセモノだ」
「そうか、アルのアーティファクトで」
「お前も知っていたか」
「これでも紅き翼の一員だからね。仲間のアーティファクトぐらいは知っているよ」
本当に大事なことは教えてもらえなかったけど、と自虐を滲ませる高畑にエヴァンジェリンは下手な言葉をかけなかった。
アルビレオや学園長の秘密主義は今に始まったことではなく、考えようによっては彼女は最も大きな被害者とも言えるからだ。十五年。ナギが呪いを解きに来ると言った三年を抜けば十二年もの長い間、学園長は呪いを解く手段があったにも関わらず隠していたことになる。
高らかに二人が戦う戦いの音だけが龍宮神社に響き続ける。まるで歌を唄うかのように、言葉よりも拳を以て二人は会話していた。
もはや断続的ではない。大砲が打ち鳴らされているような衝突音は、一続きの爆竹を打ち鳴らしているかのような爆発音を奏でていた。つまりはそれだけの速度で打ち合っているのだ。
「ああああああっ!」
猛るネスカの声が明日菜の耳の奥に響いた。
振るう拳の一つずつから、凛然と溢れる力に慄かずにはいられない。でも、その戦い続ける一瞬見えた横顔に思わずにはいられない。
(どうして、そんなに泣きそうなの?)
一時の直ぐに消え去る幻想と分かっていても消しきれぬ想いに喘ぐネスカの声は、どうしようもなく明日菜の胸を締め付けた。
「イノチノシヘンの人格再生時間は十分。この戦いには制限時間があるのだ」
避け得ぬ現実にエヴァンジェリンが哀しげに囁いた。
闘争のリミットが迫っている。それは戦う二人も分かっていた。
ちら、と戦いの中で二人の視線が合った。
「楽しそうだな」
「ああ、楽しいぜ。夢だったんだよ。子供とこうやって拳を交えるってのがな」
戦うごとに動きのキレを増していくナギの唇には本当に楽しそうな笑みが刻まれていた。
死線を踏んでもなお猛々しく笑い、ますます戦意を昂らせる。たった一つでも対処を間違えれば忽ちの内に黄泉路を辿るというのに身のこなしに曇り一つとてない。
「ひゅ――っ!」
鋭く呼気を継いだナギが空を駆る。
口元に浮かんだ微笑と共に、ナギの動きが変わる。鋭い剃刀の如き直線から緩やかとすら感じる円の動きへと。かと思えば両方を混ぜた鋭く、時に緩やかな動きを混ぜた緩急のついたものに。
追おうと思えば追えただろう。単純なスピードなら遥かに魔力で勝るネスカが上回る。やり様はいくらでもあって、選択肢は無限にあったのにその瞬間のネスカの頭から全てが消え去った。
「づぉらあ!」
「がぐぅっ」
一瞬無防備になったネスカの頬にナギの拳が突き刺さる。
ぶれる視界にナギの背後に光る光弾が五つ。今にも放たれんと待ち構えているのは、無詠唱の魔法の射手に他ならない。
ナギの行動に一切の遅滞なく、一瞬でも意識がずれた隙を縫って下から降り上がった拳がネスカの腹を抉る。せめてもの反撃をと膝を叩きこもうとするも、余裕を以て防がれた。
そうこうしている間に先行した魔法の射手が迫る。五メートルも無い距離では回避も間に合わない。ネスカは殆ど反射的に同数の魔法の射手を生み出して迎撃する。
最悪でも相殺を願って放たれた魔法の射手は二つを相殺し、残った三つが迫る。
両手を動かして二つを迎撃する。しかし、残りの一撃は防ぎきれない。常ならばもう二撃は防げるはずだが肉体と精神が乖離している。
「この程度でやられるものか!」
膝を持ち上げて受け止める。激痛と痺れが膝から全身に走る。
(何か策を……………何かないのか!?)
拝殿と舞台の真ん中辺り、観客達の真上で不利な状況の打開を求めるネスカの思考さえ、目の前で旋回するナギの身体を見て半ばで途切れた。
振り上げられた右足を避ける術などない。急速に動きが鈍ってきているネスカに受ける余裕などない。
肉体が硬直しているネスカへと、大岩を楽に粉砕できる一撃が迫る。
「ぐっ……」
辛うじて腕で防御出来ただけでも奇跡的であった。
轟音は、もはやそれ自体が兵器に等しかった。その威力を形容するならば、舞い降りた隕石か。防御に意味などないと言わんばかりに、反応した腕ごと十数メートルの高度から斜め下の舞台へと叩きつけたのだ。
蹴り飛ばされた身体は舞台の上り段に激突し、舞台の入り口から端まで何メートルも削り取った。濛々と砂塵が立ち込めた舞台上には、一直線に抉り抜いた道筋が刻み込まれていた。
「ぁ……か……」
舞い上がる木屑と木片に囲まれた中で舞台に半ば以上をめり込ませながら、アバラに激痛が走って呻きのみが喉から零れる。
確実に一本か数本纏めたかは分からないが確実に折れた。ただ灼熱だけがネスカの脳髄を刺す。
「ご……あ、は……っ!」
こほっと咽た舌に嫌な鉄の味が残った。血の味だと分かるのに、数瞬の時間を要した。
滾る戦意は激痛を和らげる効果まではない。背中だの脇腹だかも分からず、肉と骨が丸ごと焼き爛れたようだった。今にも意識が途絶してしまいそうで、むしろ痛みに縋りつくようにしてネスカは瞳を開けた。
仰向けになった視界の中で、ナギもまたネスカを追うように舞台へと舞い降りるのが見えた。
絶望の足音が近づいて来る。一歩ずつ近づいて来ることによってナギからの圧力が増してくる。あまりの圧力に、呼吸さえまともに出来ない。まるで水面を飛び出した魚が懸命に酸素を取り込もうとするように喘ぎ、必死に息を継ぐ。
吸おうとした息が肺に入らず、ただ唇の表面だけを空回りする。酸素を欲した脳と肺がひりつくような熱と激痛を訴えている。
(……まだ、だ。まだ、俺は……)
思考さえ纏まらない。必死に考えようとしても、虚空に消えて千々に乱れていくばかり。
苦しい。ずっと苦しい。ただナギの前にいるだけで、四肢や内臓まで千切れていくようだ。
「――――もう、終わりか?」
玲瓏と澄んだ声が響く。声は静かだったが、どんな強風の中でもハッキリと届く人を惹きつけずにはおかない声音だった。
苦境に立たされているからこそ、ナギの声には逆らい難い魔魅があった。正常な判断を全て打ち消し、身を任せてしまえと誘い込む太陽の輝きだった。
「まだだ。俺はまだ戦える」
声の魔力に抗って、米神や頬に擦過傷が出来ているのにも構わずに無理矢理に膝をついて起き上がった。呼吸音がうるさくて耳障りだった。
みっともなさなど微塵も構うことなく立ち上がろうとした。
「うっ、がぁ」
膝立ちから立ち上がろうとして、力が抜けて受け身も取れずに顔面から舞台に叩きつけられる。
アルビレオに重力を食らった時のように鈍く重い手をようやく動かして起こした顔の下に、赤い雫がポタポタと舞台に落ちる。舞台に顔を叩きつけた時に鼻を打って鼻血が出ているようだ。
今更鼻血程度で臆するような精神ではない。再び膝をつこうとして全身に力が入らないことに気がついた。
体を刺させる腕がガクガクと震え、足は神経が働いていないかのように感覚が薄い。あらゆる精気を奪われてしまったようだった。
「お前は良くやったよ、本当に」
辛うじて上げた視界にナギの顔が映る。
「俺は結構本気だったんだぜ。この若くして英雄ともなった偉大かつ超クールな天才&最強無敵のお父様に手傷を負わせたんだ。誇っていい」
頬に傷を示しながら無駄に爽やかに笑いながらも、ナギの眼は真剣だった。
「同年代に敵はいないだろうな。数世代先を見ても同じく。お前は強い。間違いなく強い。同じ頃の俺を間違いなく凌駕していると断言してやる。そう遠くない末来に全盛期の俺を超えるだろう。その上でもう一度だけ聞く。もう終わりにするのか?」
そこでナギは表情を改めて、柔らかな口調ながらも堅い気持ちを滲ませながら問うた。
ふと、ネスカは空を見上げた。その動作に意味はない。意味はなかったが、空をみることが出来たなら答えがあるような気がしたのだ。
空では鳥達が飛び続けている。
何の枷も無く飛んでいる鳥達のなんと自由なことか。地上に縛られた人の身では望めない姿だった。
拭いたくとも拭いきれない運命。生涯ついてまわる過去。出生の秘密。発作的に煮え滾るやり場のない怒り。その全てを呑み込んで、目の前の男へと視線を戻す。
ネスカが今感じている全て以上を背負って立つ男の姿は鮮烈ですらあった。六年前に見た業火の中に立つ背中と何も変わらない。
六年前の弱い自分に出来ることは、ただ前に進む事だけだった。それだけを頑なに守って、目の前に追い求めた男が立っている。目指す道の先に男がいるのならば、ネスカがここで立ち止まることはありえない。
タイムリミットが迫っているからなんだというのだ。体が動くのに戦いを止めるなど、この出会いと時間を侮辱しているに等しい。
「決まってる……っ! 俺は、まだ戦える!!」
震える四肢に力を込めて立ち上がる。
必要なのは強い意志。自分の成すべきを成すための、その手段として利用とする貪欲なまでの意志。今のネスカを構成しているのは、そういう熱情であった。
「その意気だ」
その顔を見たナギは静かに瞳を閉じた。
幻影に過ぎなくとも本物と同じ意志と記憶を持つ彼の瞼には、在りし日の妻の姿が思い浮かぶ。
(本当に俺達の息子だよ、お前は)
魔法世界の人々の不満と憎しみを押し付けられた生贄として死を望まれた時の妻の姿が、傷ついても立ち上がるネスカと被って内心に苦いものが広がる。後悔などない、間違っていたとも思わない。しかし、それが果たして最善だったのか。それだけが彼には判断がつかなかった。
「再開するぞ――――残された時間はそう長くない」
所詮は十分しか存在できない幻。ずっと傍にいてやることは出来ず、伝えられることもまた少ない。幻影でしかない己を恨む。本体が何を望み願い、そして戦ったのかを知ってはいても傍にいてやれないことが悔やしかった。
互いに構えを取る二人。
先手を取ったのはナギ。
「行くぜ!」
踏み出した瞬間にその身を複数に増やし、一気呵成にネスカへと迫る。
数的有利を生み出したかに見えたが、ワンテンポ遅れてネスカもまた似たような戦術を取る。その戦術の正体を見抜いたナギは僅かに目を瞠った。
「風精か――!?」
その数、ナギの倍の二十。しかもオリジナルと寸分違わない気配と見た目は分身と称して良いぐらいの仕上がり具合。
じっくりと観察できるならばまだしも、戦闘の最中でオリジナルを見つけ出すのは不可能ではないがナギを以てしてもかなり難しい――――なんて、雑多な思考をナギがするはずもなく、風精だろうと全て打倒してしまえば良いと即決する。
「いいぜ、正面からやり合おうじゃねぇか!」
化かし合いよりもそっちの方が好きなナギが受けて立たぬはずがない。
十体のナギと二十体のネスカが激突する。その結果は一方的なものだった。
「弱い?」
何体か分身を壊されたものの、残るは一体のみ。つまりは本体だけだ。数で勝るはずのネスカの風精が弱すぎるような気がした。
「ってことは、こいつも偽物! 本命は――」
残っていた一体もあっさりと倒し、視界内にネスカの姿はない。
舞台上にいないとなれば、いる場所は自ずと限定される。そして見上げた先にネスカの姿を見つける。
舞台を一望できる上空にいたネスカが、顔を上に向けたナギに気づかれたことを確認して唇が動いた。
「避けろよ」
待機させていた1001の魔法の射手の矢が雨の如く振り降りる。
舞台を覆い隠すほどの魔法の射手が頭上を覆い隠そうともナギは全く動揺しなかった。寧ろ面白いとばかりに獰猛に笑い、自分から飛び上がって魔法の射手の雨の中に飛び込んだ。
「しゃらくせぇっ!!」
人が通る隙間もないといっても障害が立ち塞がるのならば粉砕してでも通るナギである。無詠唱の魔法の射手を頭上に浮かべ、振り降りてくるネスカの魔法の射手を迎撃する。
十分に準備して魔法の射手を放ったネスカと違ってナギにはそこまでの余裕はない。威力よりも数を重視したネスカの魔法の射手より一発一発の威力は少し下回る。
放った分の魔法の射手は早々に相殺され、残りは魔力を集中させた掌打で払いのける。
「超えて来たんだよ、この程度は!」
ローブに穴を開け、小さな負傷を負いながらも魔法の射手の雨を突破したナギが吠える。
迫りくる姿をしかと見つめながらネスカに動揺は見られない。
「来るだろうと思ったよ。超えて来ないはずがないとも」
攻撃範囲は舞台のみでナギならばあの一瞬で十分に離脱可能であった。防御に専念すれば防げないこともない。普通の者ならばどちらかを選ぶだろうが、ナギの思考回路はアスカに似ている。正確にはアスカがナギに似ていることは横に置いて、十年以上兄弟をやっているネギからすればその思考は読みやすい。
思考が読めているのならば事前に罠を設置しておくことも可能である。
「これも偽物だ」
オリジナルと思われたネスカにナギの拳がめり込み、大した手応えもなく突き抜けた。それだけに留まらず、崩れた肉体は消滅せずにナギの全身を拘束する。
拘束するその正体をナギは直ぐに看破した。同時に自分が罠に嵌められたことにも。
「風精に戒めの風矢を仕込んでいたのか!?」
「正解だ。そしてこっちが本物だ!」
瞬間、風精がいた場所から体一つ分ずれた場所に風景から突如としてオリジナルのネスカが現れる。
風の属性を使って風景に溶け込む光学迷彩にも似た技術で隠れていたネスカの右手に紫電が走っている。ナギが即座に戒めの風矢を破るも避けるだけの余裕はなかった。
「ぐっ……舐めるな!」
直撃を食らっても、雷の魔法の射手の特性である電気による痺れを全身に無理やりに魔力を通すことで振り払う。
しかし、既にネスカは次の一手を、目の前の男が得意とするコンビネーションを放つ準備を整えていた。
「雷の斧!」
大会のルールによって詠唱が出来ないので威力は格段に落ちるが、それでも上位古代語魔法の一角。回避できるタイミングでもなく、まともに受ければ魔力を放出したばかりのナギといえども無事ではいられない。
「超えて来たって言っただろ!」
驚くべきことにナギは何時かのアスカがやったことと似たような、足裏ではなく体の半身側に魔力を集中して解放――――疑似瞬動を行い、体を無理矢理に雷の斧の射線上から弾き出す。
それでも完全には避け切れず、体は動いてもそのままだったローブの端と右手足に被弾する。
「信じてたよ。これも避けるって」
痛みに呻く間もあればこそ、ナギは歪む視界に映る直ぐ傍で足を振り上げているネスカの姿に目を瞠った。
もうかなり無理をしているので防御も回避も出来ない。
「……っ!」
攻撃を受けて、凄まじい衝撃を受けた右脇腹の感覚が半ば無くなっていることを感じて、ナギは強く歯噛みした。
思考を読まれて起こす行動が先回りされていることは今までにない経験だった。
弾き飛ばされて無意識に体が身に染み付いた受身を取ろうとも、ろくに体勢も整えることが出来ずに衝撃を殺しきることができず、背中から舞台に叩きつけられた。上下の感覚を喪失した体に何度となく衝撃が走る。
なんとか痺れと痛みが支配する体で転がる勢いのままに立ち上がろうとするが、ダメージが足に来ていて膝立ちが精一杯。
ナギが震える膝よりも迫りくるであろうネスカを見る為に顔を上げた時、目の前を手の平が覆い隠していた。
「俺の、勝ちだ」
「…………ああ、俺の負けだ。怖ぇから手を下ろせって」
負けを認めなければ手の平で光る魔法の射手が頭を射抜いていたことだろう。何があっても大丈夫だと信用されるのは良いが、目の前で魔法の射手なんて危険な物が光っているのは偽物とはいえ心臓に宜しくない。
ネスカが少し残念そうに魔法の射手を決して、その手をナギへと伸ばした。
ナギはその手を驚いたように見つめ、やがて観念したように苦笑して無事な左手を伸ばして握った。
掴んだネスカの手はナギに比べればまだ小さく年相応に細かった。
どれほどの意地を張って、ここまでの領域に辿り着くのにどれだけのものを犠牲にしてきたのか、どれだけ苦労してきたか、どれだけ………………涙を我慢し続けて来たのだろうか。ここに来るまでずっと歯を食い縛って、拳を強く握り、眦をきつく張ってやってきたのが容易く想像できる手。これまでの道を想うと、きゅっと胸の奥が掴まれた気がした。
「負けちまったなぁ……」
「本気でやってない奴相手に勝ったなんて言わないから安心しろ」
「へっ、一丁前の口を利くじゃねぇか」
ダメージで力の入らない体がネスカの手によって引き上げられる。
意識上ではまだ生まれて間もない赤ん坊達が合体した相手に体を支えられているのだ。十年の月日が経過していると頭で考えても中々に実感が湧き難く、浮かんでいた苦笑の色が濃くなる。
近くで向かい合うと、やはりまだナギの方が頭一つ分近く背が高い。後、何年かの後には追いつかれるか抜かれているか。
「傷大丈夫か? 痛ぇだろ。後でアルに治してもらえよ」
「いい。こっちには頼りになる仲間がいるからな」
そう言ってネスカが視線をずらして大人しそうな黒髪の少女――――近衛木乃香を見た視線を追ったナギの脳裏にアルビレオの記憶が流れる。
「詠春の娘か。全然似てねぇな」
最後に詠春と会った時は、今にも関西呪術協会トップの重責に押し潰されそうな風貌になっていただけに、木乃香の愛らしい容貌と容易には結び付かなくて笑みが零れた。
「溺愛してるらしいから本当のことを言うと怒ると思うぞ」
「お前も、な」
二人して笑い合った。
この馬鹿さ加減は確かに自分の子供だと思った。他愛のない言葉が掛け合えることに、この上ない幸福な気持ちが全身を支配する。熱い涙が、わけの分からない笑いと一緒くたになって頬に零れた。
「ああ、ちくしょう。もう時間かよ」
淡い光がナギの全身を覆う。
自分に似たのか大分無鉄砲なところがある子供達を、ずっと傍で見ていたい。泣かせないように、苦しめないように、あらゆる禍から守ってやりたい。だけど、アーティファクトによって生み出された偽者でしかない己には叶わない願いだ。それにもう時間がない。伝えなければいけないことを伝えないと。
「ごめんな、こういう勝手な親で。お前達にはなにもしてやれなかった。悪かったと思ってる」
心配な思いもあるが、ちゃんと息子達を見ていてくれる人がいる。ならば仮初の身に過ぎないにしても安心できるとナギは思った。
身体の輪郭が気化するように、ぼんやりしたものになっていく。
ナギは自分の消滅ではなく、息子達の傍にいてやれないことだけを後悔して言葉を続ける。
「すまなかった。本当に、すまなかった……」
男の目に微かに光るものが浮かび上がる。この人はなにを謝っているのだろう。どうして泣いているのだろうか。頭を掠めた疑問は、ネスカの体の芯で共振する熱に溶かし込まれ、少年は一対の蒼い空洞に男の顔を映しつづける。
ただ一つ分かるのは男の目はとても温かなものだったということだ。
「お前達は、俺には立派過ぎる息子だよ」
微笑と苦笑が入り混じる。
ひたすら放埓に生きてきた結果、こんな風に息子が育つなんて思ってもみなかったからだ。舞台の上に立つネスカを一心に見つめる少女達の存在に気づいていて、二人に大切な者が出来ていることが、嬉しくて悔しくて、ほんの少しだけ誇らしかった。
「お前達には重責を背負わせてしまって、すまないと思っている。許してくれとは言わない。ただ自分の未来は自分の手で切り開いていってほしい。自分で考え、納得して行動してほしい。例えそれが辛い戦いの道であっても、滅びの道であってもだ。それが身勝手な俺たち親の唯一の望みだ」
「…………今更、父親面するのかよ」
「今しか出来ないから、させてくれ」
何かを言わなければならない。何か。
もう、この機会しかないかもしれないのに、ネスカの口から出るのは憎まれ口だった。
心の奥底にある言葉を、ネスカは必死に掴み取ろうとした。それを掴めば、なにかが変わる。とても単純な言葉のような気がしたのに、掴み取ることができない。遠くなるほどに、はっきりとしなかった、掴めなかった言葉が、鮮明に姿を浮かぶ。
「お前達は俺の息子だ。だからといって
心の底からそうと告げる喉太い声がネスカの耳朶を叩く。いっそ子供もみたいに明け透けな、聞く者の心を響かせる響き。
「ナギ!」
「お?」
更に息子達に言葉を紡ごうとしていたナギは、横合いからかけられた声に遮られて条件反射的にそちらを見た。
声を張り上げたその人物は、今にも消えそうなナギの姿を泣きそうな目で見つめながら舞台に上がって来る。
「お前、エヴァか…………お? ああ、呪いを解いてないのか俺は」
アルビレオの記憶から舞台に上がって来たエヴァンジェリンの現状を認識して、ポンと手を合わせた。
相変わらずのナギの様子に眉間をひくつかせたエヴァンジェリンも状況を理解しているので、怒りはせずに本題を切りだす。
「どうせ何秒もないのだろう。御託はいいから聞かせろ、ナギ。どうして呪いを解きに来なかった」
どうしても聞かなければならなかったことを遂に口にした。
「行けなかった」
返って来たこと返事は簡潔だった。
知らずの内に下がっていたエヴァンジェリンの顔が上がる。見上げた先でナギは十五年前に見たものとは違って苦み走った表情をしていた。
「別れる時にああは言ったけど登校地獄って卒業したら解けるもんだとずっと思っててな。麻帆良のじじいから連絡を受けた時にはコイツらが出来ちまって、色々と事情のある身重のカミさんの傍を離れるわけには行かなくてだな」
明朗快活なナギにしてはしどろもどろの返答であった。
要するにエヴァンジェリンの呪いを解くよりも家族を優先したことを当の相手に言うことを後ろめたく思っているようだった。
らしくないナギの姿にエヴァンジェリンの中で張り詰めていた何かが解けていった。その何かは或いは初恋という名の想いかもしれない。
「事情があったのだろう。責めはしない」
ナギには女性が、子供が出来るような仲の相手がいたのであれば諦める他ない。
せめて最後に思い出が欲しいと考えるのは我儘だろうか。
「だから、抱きしめろ」
「やだ」
「殺すぞ、貴様ぁっ!」
恥を忍んで頼んで返ってくるのが拒否ではどんな忍耐強い女傑でも堪忍袋の緒が切れるというもの。
「怒んなって。世間がどう思おうと俺はカミさん一筋なんだよ」
恥ずかしいことを言わせんな、と僅かに頬を朱に染めたナギを見て、エヴァンジェリンは自分が高い理想を抱き続けていたことに気づく。
男としても、ヒーローとしても、最も大切な者を定めている。英雄としてではなく人としての幸福を得られたことを喜びこそすれ、不幸を望むことなどあってはならない。
「ならば、頭を撫でろ。それで許してやる」
「いいのか?」
「これが最後だ。心を込めなければ許さん」
長い長い初恋にきちんと終わらせるための儀式を望む。ナギの中にエヴァンジェリンが入る余地はないのだから。例えあったとしても彼女が望む席ではない。
「あいよ」
軽く言ってナギはエヴァンジェリンの頭に手を伸ばして撫でた。
もう足下が完全に消えて手も薄くなっているから温かさがなくて感触も頼りないものだったけど、この手が確かに救ってくれたのだと胸に実感が湧いてエヴァンジェリンの目に涙が浮かぶ。
胸に迫るのは嫉妬と未練と後悔と愛情と憎悪と、色んな雑多な感情だった。
「っと、そろそろ限界みたいだな」
触れて少し撫でただけでナギの手は離れる。彼の心は息子達に向いていると分かっていても、エヴァンジェリンは何も言わなかった。結局、どこまでいっても他人でしかないのだから大事な時間を奪っているのはエヴァンジェリンの方なのだから。
「横入りもあったが…………まあ、こんなこと言えた義理じゃねえが元気に育ちな。幸せになってくれ」
何かを言おうとして言えないまま表情のネスカを見て、優しく微笑んだナギが名残惜しげに最後の言葉を紡ぐ。
「俺達の子供に生まれてくれてありがとう」
次の瞬間、舞い散った赤い花のように、ナギの姿は跡形もなく消滅した。
ほんの一瞬だった。蜃気楼のようだった温かみと一緒に、父だった人が消えた。
「――――あ」
消失した事実を前に、ネスカは奇妙な胸の高鳴りを感じた。
体験したことのない感覚だった。胸郭の深部で腫瘍が疼くような、じわじわとした痛みを覚えた。それは、明らかにナギが目の前で消えてしまったことで生じたのである。
大事ななにかが心をすり抜けてゆく喪失感だけがネスカの胸を埋めた。
同時に二人の合体が解ける。
合体が解けたのは任意ではなく極端な感情の高ぶりにアーティファクトの安全装置が働いた形だった。
「「――っ」」
尻餅をついたネギと仰向けに倒れ込んだアスカ。
空を見上げることになったアスカは、ギリっと力が入らない身体で無理矢理に奥歯を噛み砕かんばかりに歯を食い縛る。
「あ……が……」
何故だか目頭が熱くなってきた。 胸の奥までムカムカしてくる。もう何が何だか分からない。それを押さえ込もうと更に強く歯を食い縛って耐えようとしても激した感情は一向に収まらない。
「う、うあ………うああ………」
ぼやけた視界が大きく揺らめいたのは何故だろうか。歯を食い縛って堪えようとしたが、駄目だった。
視界が………歪んできた。気付けば、頬に何か生温い液体が流れ落ちてきていた。 無性に、叫び出したい。そんな衝動が湧き上がってくる。 まるで決壊するように感情の波が溢れてくる。
目まぐるしく駆け抜けた日々が脳裏を過ぎる。
子供のように無邪気に夢を見ることも、大人のようにただ現実を受け入れることも出来なかった。どこに行けばいいのか、何をすればいいのか、何がしたいのか、それすらも分からないまま、ただ我武者羅に走り続けた。
止まることはできなかった。何かに追われている、何かに追われていた。だからこそ、止まることもできないと知っていたから力を振り絞って走り続けた。
アスカの世界が罅割れていく。心が軋み、哭き声を上げている。手足は震えて体は凍りついたように動かない。苦痛も何もかも感じなかった。もはやありとあらゆる感覚が、感情が、消滅してしまったようだ。
「あ………う、くっ………う、ああ………」
心だけが痛い。とてつもなく痛くて熱い塊が胸を突く。
涙がついに溢れ出したのだろうか。涙に霞んでいた景色が、さらに淡く滲んでいった。
「あ……、あ…………」
アスカの隣で父がいた場所を呆然と眺めていたネギは口から間抜けのように言葉にならない音を、ただ喉から漏らしていた。自分が泣いているのかどうかも分からなかった。
「う、ああ………あ…………」
今まで耐えてきた分の感情が決壊したダムのように溢れ出す。目から流れ落ちる涙がポツリポツリと舞台に落ちる。
体中の痛みも全く気にならない。肉体の痛みよりも胸の奥にある痛みが心を掻き乱す。
感情の堤防が決壊する。もう我慢も出来ない。 ずっと溜め込んで閉じ込め続けてきた感情達がネギの中から次から次へと溢れ出てくる。
今まで生きてきて、ずっと堪えていたものが一気に溢れてくるように、二人の涙は止まらなかった。
「う、ああ………ああ……あああああああ………うわああああああああっ!!」
「ああぁあぁああ………ぁああぁあああぁあっ!!!」
それが限界だった。アスカは、ネギは、声をあげて泣いた。叫んだ。大声で天に向かって慟哭する。 周りなど気にもしなかった。気持ちを貪るように、血を吐き出さんばかりの魂の叫び――――慟哭を発した。
「うああああ………ああああああっ!!」
堰を切ったように、とめどなく目からも涙が湧き上がって来る。悲鳴にも、犬の遠吠えにも似た叫びが喉から放たれていた。止まらない。止めようとしてもどうすればいいのか判らない。
叫びを生み出しているのが呼吸器官ではなく、心の深海であることは明らかだった。圧力が全てが煮えたぎらせ、泡を吹き出させ、外へ出させようとしている。肌はびっしりと汗が覆い尽くし、目尻からは熱い奔騰がこぼれていた。
捌け口を見出したらしい感情が、その声を波立たせていた。しゃくり上げる肩が激しく上下する。子供のように遠慮のない、全部を曝け出してもなお収まらない慟哭だった。なぜ泣いたかさえ最後の方には解らなくなっていたが、それが何の感情なのかも分からず、思いを爆発させていた。
顔中が涙に濡れて何も見えなくなった。
「ああああああああああああああああ………あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁああああああああっ!!!!」
涙を隠す事なく、抑える事無く、心の限りに蒼穹の空へと解き放つ。遠くて高くても、見上げれば何時でもそこにある青い空。
顔をクシャクシャに歪めて漏らす泣き声は、聞く者を震えさせずにおかない静かな絶叫だった。
大声を上げたからといって、気持ちに整理などつくはずもない。泣いても笑っても何も変わらない。変わりはしない。凍り付いていた少年達が本当の雪解けを迎えたように伝わす涙は、なにを変えもしないのだ。
どこまでも無情に見下ろす空を仰いだ。今日一日で涙が枯れ果ててしまうかと思った。
獣が叫ぶが如く。渇いた傷が裂傷して血が溢れ、泡を噴きながら感情の全てが流れ出してしまうまで泣き続けた。ずいぶんと長い時間、声も涙も枯れ果てるまで彼らは泣き続けた。
少年達の慟哭が青い青い澄み切った空、どこまでも果てしなく続いていると錯覚させるように広い空に木霊する。それは聞いている者達の胸が張り裂けそうなくらいに悲しく、心を打つ。
アスカとネギは涙を流していた。人目を憚ることなく、いや、そもそも彼らは周りの眼に気づいてすらいない。滑稽なほど無様に、ただひたすら泣き続けている。
嗚咽を聞き届ける明日菜の魂は激しく揺さぶられている。二人の感情が、大き過ぎる感情が伝わってくる。ポロポロと流した涙は眼から感情を搾り取っているのに、どんなに喚いても涙は止まらなかった。
顔をぐしゃぐしゃにした彼らは、年相応のただの子供だった。
その姿は、どこにいるの、と親とはぐれてその後姿を探す、迷子の子どものようで……………まさしく親と逸れ、求めて泣き喚く子供の姿。二人は子供らしく、ようやく泣くことができるようになったのかもしれない。
あえて心からの慟哭に触れようとする者もいまい。少年達は恥も外聞も無く泣き喚く。どこかに涙が流れる動脈があって、それが破れてしまったように何時までも止まらなかった。
「これで、良かったのよね」
胸に来るものを感じて自らもまた涙を流しながら、どうしてかそんなことを明日菜は思った。
「明日菜君、話がある」
少年達の涙に動かされる様に、嘗て彼らと同じく子供だった高畑が過去に決着をつけるべく動く。
ちょっとした豆知識その一
アスカにとって、憧れの人は高畑で、求める人はナギである。
分かり易く言うとゴールがナギ、その途上にいるのが高畑。