魔法先生ツインズ+1   作:スターゲイザー

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良い意味でも悪い意味でも一歩を。


第50話 次への一歩

 

『――――等々、以上のようにどの試合をとても最高の試合だたネ』

 

 人外の領域の戦闘によって原型がなくなるほどボロボロになって、土台が崩れて危険な舞台の上ではなく龍宮神社の境内に立つ超鈴音は厳かに告げる。

 龍宮神社の一人娘である真名から今大会で破損した舞台やらの請求が莫大な金額に上っていて、余計な出費に内心で盛大に引き攣っていたりするが顔には出さなかった。

 

『優勝者の技量はまさに学園最強。いや、世界最強と言ても過言ではない。想像以上だたネ。今大会主催者として大変満足のいく内容だたヨ』

 

 主催者である超鈴音のスピーチが続く。

 龍宮神社は多くの人がいるとは思えぬほど静かだった。

 

『尚、あまりに高レベルナ…………或いは非現実的な試合内容の為、大会側のやらせではないかとする向きもあるようだガ』

 

 超がここで言葉を一度溜めると同時に会場がざわつく。

 疑っているのだ。今までの試合の多くはとても人が出来る動きの領域を超えているものや、物理現象を大きく逸脱していることもあった。いくら非現実的なことが起こって当たり前で、大抵のことには誰も気にしない麻帆良であっても異常と映るだけのことが。

 

『信じるも良シ、嘘と断じるも良シ、事の真偽の判断は皆様に任せるネ』

 

 全てを知ると目される超はニコリと笑って否定も肯定もしない。

 超の目的は十分に達成されたのだから、ここからのことには個人の受け取りに任せていた。

 深く息を吸って次の言葉を繰り出す。

 

『選手及び観客の皆様ありがとウ!! またの機会に会おウ!!』

 

 アジテーターの才能があるのか、超が声を張り上げて言うと観客もまた吊られるように歓声を上げた。

 真偽は分からずともハラハラドキドキとした武道大会はこの時を以て終わりを告げたのだ。惜しみ喜びこそすれ、静かにしている道理はない。特に騒ぎ好きの麻帆良生ともなれば特に。

 

『それでは授賞式の方へ移らせて頂きます!』

 

 次いで超の近くにいた司会兼審判の朝倉和美がマイクに向けて声を張り上げる。

 彼女の背後には真ん中を頂点とした三つの高さの違う段。つまりは表彰台である。だが、そこにはキャストが足りなかった。

 

『優勝者のアスカ・スプリングフィールド選手への賞金授与は本人の希望により後日に渡すことになっています。では、準優勝者のクウネル・サンダース選手へ賞金が授与されます』

 

 優勝者が立つ真ん中は空席なので盛り上がりに欠ける。

 こういう場合、もっとも盛り上がる優勝者がいない為、どこかテンションが上がらないところがあるが和美は声のテンションを上げることで場を無理矢理についてこさせるという荒業を行なっていた。

 拍手の中で超から賞金を渡されたクウネルは、相変わらずの表情の読めなさであったことだけは追記しておく。

 続いて三位の犬上小太郎とタカミチ・T・高畑が優勝や準優勝に比べれば格段に落ちるが賞金を受け取ったところで異変があった。

 地鳴りのような足音を響かせて、スーツ姿の集団が表彰台に殺到する。

 

「麻帆良スポーツです! 取材を!」

「麻帆良新聞です! 賞金の使い道などを是非!」

 

 麻帆良学園都市のローカルテレビ局のクルーや新聞部の記者などが次々と群がり、受賞者に死体に集るハエタカのように集まって来る。

 

「クウネル選手は実は子供先生達の行方不明の父親なんですか!?」

 

 スクープに飢える記者達は怖い。その数は現在進行形で増えていた。

 中には各学校の新聞部等の部活組や外部の人間までいて、どんどん納まりがつかなくなっていた。一学生でしかも中学生につかない和美一人ではとても静止出来ない数にまで膨れ上がっている。

 優勝者がいないので特にマイクやカメラを向けられているクウネルだが、困った様子も見せずに相変わらず笑っていた。

 

「失礼、インタビューは苦手ですので」

「あっ!? 消えた!!」

「どうやってるんだ!? どこにもいないぞ!」

 

 フフフ、と絶対に嘘と分かる言葉だけを残して目の前で消えたクウネルに混乱する記者達。辺りを見渡すが影も形もない。

 

「超鈴音や犬上選手と高畑選手もいないぞ!」

 

 ここで主催者の超や三位の小太郎と高畑の姿も何時の間にか消えていることに気づいて、取材対象達が全員いなくなった記者達の混乱に拍車がかかった。

 

「はいは~い! 取材は各社各サークル独自にお願いします! 質問は運営委員会まで!」

 

 ギラリと取材対象に逃げられて煮え滾った視線が向けられる前に、先手を打った和美の声が響く。

 これで一応の混乱は収まって引いていってくれて和美は一安心であった。

 ジャーナリストの端くれを自称するだけあってこういった人種のしつこさは良く知っている。司会兼審判という限りなく中枢に近い対象である和美は自身が取材の目を向けられる前に逸らせたことにも肩を撫で下ろしていた。

 逃げた超には後で仕返しすると心に誓う和美であった。

 当の超がどうしているかといえば、龍宮神社にある観客が立ち入り禁止の区画を歩いているところであった。

 

「ふふ、この大会は期せずして我が計画に有益なものとなたようネ。良かた。良かた」

 

 置き去りにした和美のことなどあっさりと忘れて、予想外のファクターの結果に笑みを浮かべる。

 

「待ってくれないかな、超君」

 

 若い声に呼び止められた超はピタリと足を止めた。

 気持ちのいいところを邪魔をしてくる無粋ものに対して言いたいことはあれど、予想していた人物の声ではないことに驚きつつ、自分を囲んだ集団を見る。

 前方にはクラスメイトである明石祐奈の父である明石教授、自分がいる渡り廊下の左側にガンドルフィーニ、右側には神多羅木、背後には白鞘に納められた刀を持つ葛葉刀子がいる。

 超には何時の間に囲まれたのかすら分からなかった。声をかけられるまで存在にも気づいていなかったのは落ち度である。

 

「これはこれは、皆様お揃いデ。お仕事ご苦労様ネ」

 

 前後左右を固められ、自分を上回る使い手達に囲まれながらも超の余裕は揺るがない。

 

「魔法先生上位陣が一人を除いて勢揃いとは少し予想外だたかナ。高畑先生はどうしタ? あの人が私の事を言ったのだろウ?」

 

 超はこの場にタカミチ・T・高畑が来ることを疑わなかった。

 仮にこれだけの魔法先生を配しているのならば学園No.2である彼がこの場にいないのはおかしい。或いは隙を見つけて超を仕留める為に隠れているのか、と考えたがその可能性はないと判断する。

 先に捕られたのは数的有利と不意を突いたからだと超は冷静に彼我の戦力を計算する。二度目は無い。

 超を捕まえるのにわざわざ高畑程の戦士が隠れる必要はない。正面から制圧する方が色々と手っ取り早い。彼の居場所が分からないことが超の中で唯一の引っ掛かるところであった。

 

「いないよ。どうしてか報告だけで来てくれなかったんだ」

 

 超の問いに答えたのは正面にいる明石教授であった。

 明石教授が答えたのは不思議ではない。この面子では彼が最年長で指揮する立場にいることは読めた。

 

「一緒に来てくれないかな、超君。君に幾つか聞きたいことがある」

「何用カナ?」

「分かっているのに聞くのは野暮じゃないかな」

 

 静かに笑う明石教授は超をしても底が知れない。生きて来た時間が違うのだ。簡単に底を知らせるほど容易い人間ではなかろう。そもそも敵に簡単に読まれるような男を指揮官に据えるほど近衛近右衛門は無能ではない。

 

「そうだナ……」

 

 緊張で口の中が乾ききっているのを自覚しながら平静を装い、どこから攻撃を受けても反応できるように常に意識は周りへと放散する。

 どこかに隠れているかもしれない高畑。いや、彼だけではない。見える位置にいるだけが人員とは限らない。伏兵が見えない位置に隠れている可能性を考慮に入れておく。

 特に高畑であれば超が認識できずに意識を刈り取ることも出来る。気を抜くことは出来なかった。

 

「魔法使いの存在を公表すること、かナ」

「そのことで話を聞かせてもらいたいんだ。いいかな?」

 

 問いの形で聞いていても実際には強制であった。でなければこれだけの魔法先生を配置するはずがない。

 超は続々と自分が麻帆良に置いて敵視されていくことに少し笑った。

 

「明石教授! 何を甘いことを言っているんです! 彼女の思想は危険です! 直ぐにでも連行を!」

 

 超が笑ったことを余裕と取られたのか、明石教授ほどの役者ではないガンドルフィーニが我慢できずに胸ポケットから獲物を取り出した。

 ガンドルフィーニが取り出したのは拳銃であった。そのことに超はまた笑った。

 

「何も知らない者がこの場を見たらどう思うかナ? 拳銃を構えたり、刀を持ていたり、遥かに年下の生徒を囲んでいる場所を見られたら警察に通報されないカ?」

「この一帯には結界が張られている。目撃者が入る心配はない」

 

 まるで敵意がないことを示すように何も持っていない両手を広げた超を、しかしガンドルフィーニは油断せずに銃を構える。

 

「ガンドルフィーニ君」

 

 どんどん張りつめていく場の中で明石教授はいっそ穏やかなほどに静かな声で名を読んだ。

 

「銃を下ろしなさい」

「ですが……っ!」

「僕は、銃を下ろしなさいと言いましたよ」

 

 優男に見える明石教授の穏やかな声には強い威圧感があった。日本人からすれば強面に見える異国人であるガンドルフィーニが思わず怯むほどの威圧感が。それでも納得がいかないがこの場の指揮官は明石教授であることは事実。渋々とであるが拳銃を下ろした。

 納得のいっていない表情のガンドルフィーニを見た明石教授はやんちゃな子供を見るように目を細め、視線を超に戻した。

 

「すまないね。彼もまだ若い。暴走は許してあげてくれ」

「私の方がもと年下なのだガ」

「僕からすれば君は十分に合格点を上げられるよ。うん、正直にいえば部下に欲しいくらいだね。どうだい? 学園長に掛け合うから飛び級して僕のゼミに来ないかい?」

 

 話をすり替えられていることは自覚しても超は咎めなかった。

 僅かな会話であったが超は明石教授を信頼に値す人間だと認めた。その言葉を素直に信じるかは別問題であったとしても。

 

「これでも忙しい身でネ。これ以上の掛け持ちは出来ないヨ」

「それは残念だ。また機会の誘わせてもらおう」 

 

 そして二人で軽く笑い合う。

 両者を視界に収める神多羅木は口に咥えた煙草の紫煙を肺に入れながら、二人の頭上で狐と狸が化かし合う光景を幻視していた。肉体労働専門の自分が関わることではないなと、油断しないながらも彼の中では完全に他人事であった。

 紫煙を輪っかの形で吐き出しながら緊張だけは解かない。

 

「さて、そろそろ本題に入ろう。あまり横道に逸れると怒る人がいるからね」

 

 幾ばくかの世間話をしていた中で明石教授が遂に会話で切り込んだのを見て、超の後ろにいる葛葉は愛刀を何時でも抜けるように構える。

 

「僕としても娘の同級生に手荒なことはしたくない」

 

 怪我をさせて祐奈に嫌われるのは嫌だからね、と本気か嘘か判断しにくい笑みで言う明石教授に超は全身に気を張った。

 

「どうやらついてくる気はなさそうだし、この場で話をしようか」

「いいネ。ただし、こう見えて忙しい身の上だから手短に頼むヨ」

「直ぐにすむさ。君の返答次第によるけど」

 

 会話の主導権を握られていると超は素直に認めた。負けである。

 これで超に話をしないという選択肢は取れなくなった。だが、構わないと思えるのは明石教授に誘導された結果なのかどうかは判断がつかなかった。

 

「魔法使いの存在を公表するというその真意を聞きたい」

 

 率直であった。真っ直ぐすぎる。今までの婉曲な会話の繋がりや持って回ったような言い方でもない。

 笑顔すら引っ込めての真剣な表情をして問いかけて来る明石教授を見て、「これは祐奈さんがファザコンになるのも分かるナ」と芯が揺らがない父を慕う娘の気持ちの一端を理解した。

 

(どうしたものカ……)

 

 超は静かに高速で思考する。

 問いは自らに答えを出すための作業であり、どうするかは既に決まっていた。

 

「その存在が危険であるから、では答えにならないカ? 今大会のように強大な力を持つ個人が存在することを秘密にしておくことは、人間社会において致命の癌細胞なりうル。逆に問おう。何故、魔法を隠すのかト」

 

 明石教授は即答しなかった。

 抗弁しかけたガンドルフィーニを眼力だけで諌め、超の問いを噛み解すように上げた手で顎を触る。

 そして数秒の後に口を開いた。

 

「うん。確かに武道大会に参加したような超人みたいな人は現実にいるね。だが、あくまで少数だ。僕達まで彼らのような超人みたいに言われるのは困るよ」

 

 僕なんて戦闘力皆無だよ、と腕を組んだ明石教授は笑いながらも目だけは真摯に超を見る。

 

「君が言ったことをそのまま返そう。少数とはいえ、強大な力を持つ者がいるからこそ魔法は隠されているんだ。なんといっても危ないからね。表に出してもメリットが少ない」

「それは魔法使いの理屈ではないカ?」

「かもしれないね。でも、魔法使いが表に出ない方がいいのは歴史が証明している。魔女狩りの歴史を博識な超君がまさか知らないとは言わせないよ」

 

 多面的に物事を見て切り返してくる超に、娘の祐奈にもこれほどのことが出来るかと考えた明石教授は高望みしている自分に笑った。

 存外に超との会話が楽しい自分を発見して更に笑う。

 

「中世末期から近代にかけてのヨーロッパや北アメリカにおいてみられた儀式や裁判のことは良く知っているヨ」

「うんうん、祐奈もこれぐらい勉強してくれたらなぁ」

「祐奈さんにそんな性質は似合わないヨ」

 

 本当に、と机にかじりついて勉強している娘の姿がありえなさすぎて明石教授は吹きそうになった。祐奈は母譲りの躍動感あふれた体を動かしている方が似合っていると親馬鹿とも取れる思考を脳裏で広げる。そういう意味ではバスケ部で頑張っている姿は生きている頃の妻を思い出すから好きだった。

 

「平行線だネ」

「ああ、全く」

 

 言いながら亡くなった妻から注意を受けても止められない癖である顎を擦りながら明石教授は思考する。

 

「これで話は終わりのようなら私は失礼するヨ」

「まだまだ話したいことは一杯あるよ。超君って全然本音で話してくれないしね」

 

 ジリッと両脇のガンドルフィーニと神多羅木が僅かに土を鳴らし、背後の葛葉がカチッと鞘から僅かに刀を抜いた音を超は正確に聞き取った。

 ほぼ同時の動作に、誰かが合図したのかと超は訝しんだ。が、ここが勝負時なのは自分も同じであると、懐から奥の手である物を取り出した。

 

「そんな時計なんて取り出して、一体どうするつもりなのかな?」

 

 懐中時計を取り出した超は笑うだけで答えなかった。

 ジャラリと鎖を垂らした懐中時計はデザインが変わっているものの、不思議というほどでもない。明石教授の目には魔力は感じなかったし、超ご自慢の科学力で作られた物ならばどのような機能があるか分からないが、この場を切り抜けられるほどには見えなかった。

 だからといって油断はしない。超鈴音は科学の寵児。麻帆良学園始まって以来の天才とも噂される彼女が無駄な行動を取るとは思えなかった。

 

「こうすル」

 

 明石教授は万難を排するために超にも分かるように手を上げて合図する。

 

「ハッ」

 

 真っ先に反応したガンドルフィーニを筆頭に、超の四方から魔法先生が殺到する。

 魔法先生が近づくよりも一寸早く、超は懐中時計を持って何かをしようとした。

 

「――っ!?」

 

 だが、それよりも早く超の手は何かによって押さえつけられていた。

 超が驚愕を隠せぬままに見下ろすと、彼女自身の足下から湧き上がった黒い影が懐中時計を握る腕から指先まで覆い尽くしていた。指一本を微かに動かすことすら封じられた。

 隙であった。超が気づいた時には包囲網が完成していた。

 目の前には間近に接近している明石教授が額に人差し指を向け、横からガンドルフィーニが拳銃を頭に突きつけ、首には神多羅木が指先に風の刃を作り上げて突きつけ、背後からは葛葉が神多羅木とは反対方向から首に刀を添えている。

 

「これはこれは、ちょと大層な扱いが過ぎるのでないかナ」

 

 絶体絶命でありながら超は尚も余裕の姿勢を崩さない。

 囲む魔法先生の手が少し動くだけでも死の危険がありながらも悠然と笑み続ける。

 

「それだけ君を評価し、危険視しているんだよ」

 

 明石教授はここに至っても泰然自若とした体勢を崩さない超に不信感を抱きながらも、魔法で姿を隠していて姿を現した高音・D・グッドマンと佐倉愛衣を見る。その視線を追った超は自らを拘束している黒い影の正体を察する。

 

「成程、高音さんの操影術だたカ。姿を隠す魔法を使っていたのは佐倉さんの方かナ。これは一杯喰わされタ。伏兵の可能性は疑ていたガ、まさか魔法生徒の彼女達を使うとは思わなかタ。流石は明石教授と言うた方がいいカ?」

「心にもないことは言わないでほしいね」

 

 形勢逆転の手はないはずなのに、超は余裕であり過ぎる。

 逃げ出す一手と思われた懐中時計を持つ手は高音の操影術が抑えている。もう一方の手も同じだ。ガンドルフィーニが捕まえている。首から上は魔法先生達によって少しも動かすことが出来ないようになっている。

 超は何も出来ないはずと分かっているはずなのにこの余裕。明石教授はどこか判然としないものを感じながら話を進める。

 

「さぁ、ちょっとついて来てもらおうか。悪いにようにはしないよ」

「勘弁してほしいナ。下手について行たら学園祭の間は拘束される羽目になりかねなイ」

「僕としても早めに自由にしてあげたい。だけど、それは君次第になる。大人しく指示に従ってほしい」

 

 何かを見落としていると心のどこが囁きながらも明石教授は超に向けて手を伸ばした。

 伸ばされた手の先で超は嫣然と笑った。

 

「残念だが手を誤ったナ。この勝負は私の勝ちダ」

 

 風が吹いた。

 嫌な予感を感じて明石教授は急いで手を伸ばす。

 

「審判の時にまた会おウ、魔法使いの諸君」

「なっ……!?」

「願わくば示される世界が安寧であることを望むヨ」

 

 手は届かなかった。正確には、伸ばした手は何も掴まなかった。

 言葉だけを残響として残して、超の体は忽然と消えた。忽然と、影も形も無く。

 

「き、消えた?」

 

 絶対の包囲網に囲まれた中で、超は魔法先生の輪の中から一瞬にして姿を消した。まさしく消えたとした言葉に出来ない。

 抜き身の刀を引いた葛葉は正面に立つ眉間に皺を寄せた魔法先生を見た。

 

「明石教授」

「駄目ですね、トレースできません。転移したのか、それとも他の方法を使ったのかも検討もつきません」

 

 声をかけられた明石教授は皺が寄る眉間を解しながら答える。

 明石教授は本人が言ったように戦闘能力が低い。が、だからといって魔法使いとして無能であるかといえば差に非ず。

 彼の本分は戦闘ではなく、補助にある。戦闘能力はこの場にいる魔法先生の中でぶっちぎりの最弱であっても、それ以外の能力に限定すれば追随を許さぬほどに際立っている。いや、彼に勝る魔法使いは特定の分野を除けば数えるほどにもいない。

 その彼が超を補足するどころか離脱方法を検討すらもつかないと言ったことに、神多羅木は咥えている煙草の先をピクリと揺らした。

 

「魔法ではない、か」

 

 魔法で観測できなかったのならば科学的な離脱方法だったのかと答えを出す。

 

「どうでしょうね。超君なら何をしようとも驚きませんよ、僕は」

 

 やっぱり凄いな、と明石教授は言いつつも悔しさを隠そうともせず、降参と言いたげに両手を上げた。 

 なんの前触れもなく消えた超を明石教授は魔法で追っていた。だが、その居場所どころか痕跡すら察知できないのでは、文字通りのお手上げと言いたいのだろう。

 

「何かをしたとは思えん。特定の時間になったら発動する時限式の何かを仕掛けていたのだろう。拘束ではなく、制圧にすべきだったのかもしれんな」

「手を誤ったというのはそういうことでしょう。或いは最初から全てを読んでいたのか。恐ろしい子です」

 

 指先からの風の刃を解いた神多羅木の煙草を吸いながらの発言に、刀を鞘に直しながら葛葉が追従する。

 

「やはり多少強引にでも連れていくべきだったでのは?」

「後になって言うことではありませんよ、ガンドルフィーニ先生」

 

 直前まで強硬策を進言していたガンドルフィーニの言を葛葉が跳ね除けの見た明石教授は、それぞれの獲物を直す魔法先生達から視線を外して手持ち無沙汰な高音と愛衣を見た。

 

「グッドマン君に佐倉君もごめんね。折角、手伝ってもらったのに」

 

 指示を下すだけの魔法先生の指揮官である明石教授から謝られても高音達も困ってしまう。

 こういう場では愛衣よりも高音が喋ることが多い。この時も高音が口を開いた。

 

「いえ、私達は。大してお力になれなくて申し訳ありません」

「君達は十分よくやってくれたよ。ありがとう」

 

 明石教授は頭を下げて苦渋を滲ませる高音にこれ以上の謝罪は不要と視線を外して、まだ盛り上がりを見せる武道大会の会場だった舞台方向を見た。

 

『本日は麻帆良武道大会へのご来場、まことにありがとうございました! 御帰りの際は落し物や忘れ物のないようにご注意ください……』

「全部彼女の手の平の上だったか……。このことが後に響かなければいいけど」

 

 この声は娘の同級生だったか、と聞き流しつつ、致命的な読み間違いをして超を逃がしたことを反省をしながら後の展望の不透明さに眉を落した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「どこもかしこも人、人、人か」

 

 武道大会終了後、人の流れに呑まれながら会場外に弾き出された長谷川千雨は憂鬱そうに溜息を吐いた。

 初等部から大学部まで含む、外来者も含めれば数十万人近い人数の熱気がない交ぜとなって、数多くの渦を生み出している。正しく人が生み出している熱の渦だった。

 人と人が絡み合って出来る、社会の内側を巡る渦である。

 今も学園都市内には熱気が渦巻いている。笑い声も怒鳴り声も、その全てを収斂していく膨大な喜怒哀楽、数十万人近い人達の感情を集めて、その熱はますます膨れ上がっていくばかり。

 街を歩く誰もが幸せそうで、偶にあまり幸せそうじゃない人もいたけれど、そんな人達でさえ楽しそうな麻帆良祭の光景を見ると思わず微苦笑してしまうのだった。

 千雨が共感する相手は、どちらかといえば後者であったが少なくともこの光景が嫌いではなかった。

 多くの学生が形作る渦の力強さ。これから社会に関わっていくはずの、若くて無分別なエネルギー。きっとその熱に当てられた所為だろう、眩しさに目が眩む。

 不可視の光へ、無意識に顔を背けかけた時だった。

 

「あ」

 

 見覚えのありすぎる人間が目の前を当たり前の顔をして横切って行った。

 

「お、前……っ」

 

 と言いかけて、千雨は咄嗟に台詞を飲み込んだ。

 少し前のことを考えれば確実に有名人になっている少年が歩いているの光景を素直に信じられなかった。傷一つない姿を見て、願望が幻覚を見せたのかと千雨は己が目をまず疑った。

 熱さによる幻覚か、人混みに酔ったのか、理由を積み上げて目を擦った。

 次いで瞼を強く閉じてから開く。が、目の前を横切った人物は千雨を襲った衝撃を知りもせずに、帽子を被るだけで変装しているつもりなのか堂々と平然とした顔で歩いていく。

 止めなければならない。呼び止めて、その肩に手をかけて振り向かせなければならない。その為に足を一歩踏み出した。

 一歩目を踏み出したところで背後に人が迫っていることに気が付かなかった。

 

「どうかしましたか、千雨さん」 

 

 背後からこれまた聞き覚えのある声がかけられた千雨は、条件反射で振り返ってピタリと硬直した。

 当の人物は固まった千雨に表情を変えぬまま、首を僅かに傾けた。

 

「どうかしましたか、千雨さん?」

 

 繰り返された問いには疑問符がついたと千雨にも分かった。分かったからといってどうということはないが。

 

「なんのようだ、茶々丸さんよ」

「突然、立ち止まられことが気になりましたので、迷惑でしたか?」

 

 本性を知られているので自然と口調が刺々しくなった千雨に返って来た予想外のものだった。

 武道会の裏で暗躍している超の味方であることを標榜しているような絡繰茶々丸が目の前にいる状況は容易く受け入れられるものではなかった。

 

「迷惑というか」

 

 千雨は予想外の返答に続く言葉が出なくて詰まった。 

 常識を揺るがされているが茶々丸に声をかけられたからといって迷惑は蒙っていない。立ち止まった千雨を避けて通って行くのを見れば周りに迷惑を与えているのは自分の方である。

 ほど良く混乱した頭で謝るべきかと考えた千雨の脳裏に一人の人物の影が過った。先ほど目の前を横切って人物である。

 

「そうだ。今そこにアスカが……!」

「呼んだか?」

 

 この事実を誰かに伝えなければならないという使命感に駆られた千雨が叫びかけたその真横に忽然と現れるアスカ。

 予想外というべきか。意識の範囲外というべきか。

 さっきまではそこにいなかったはずの人物が音も無くそこにいて、間近で声をかけられたら人が取る反応は限られる。

 外面はともかく内面は気が強い千雨は乙女のように「きゃっ」なんて言って可憐に驚きはしない。

 

「うわっ!?」

 

 色気のへったくれもない驚きの声と共に振るわれた手は見事にアスカの頬に直撃する。

 アスカもまさか千雨に頬を張られるとは予想していなかったのか、一般人の攻撃を受けようとも大したダメージにならないとたかを括っていたのか。

 

「へぶわっ?!」

 

 まともに頬を平手で張られたアスカを茶々丸は、機械にあるまじき驚きの目で見るのであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 前夜の予選会から麻帆良祭の目玉になると予想して、本日の武道大会に張り込んでいた記者達は多かった。

 麻帆良武道会は嘗て麻帆良祭の伝統行事として行われていた伝説の格闘大会。以前はかなり大規模の大会だったらしいが20年ほど前から形骸化が進み、近年は賞金わずか10万円となり参加者も減っていた。超鈴音が複数の大会を合併と買収して賞金を1000万円に上げ、伝説を復活させたのだ。注目されないはずがない。

 記者達にとっての不運は同じように興味を持った一般市民にあった。

 大会会場は都市の中にある一神社である龍宮神社。普通の神社と比べれば格段に大きいといっても収容人数には限度がある。

 予選会の評判が良かったこともあって本選の観覧チケットは、かなりの値が張るプレミアとなっていた。手に入れるだけでもかなりの労力となるのに、追い打ちをかけるように完全な電子的措置で記録の映像化を防いだことにより取材も出来やしない。

 大会中に選手にインタビューすることも禁じられていたこともあって、彼らに出来たのは一観客として試合を見て記事を作り上げることだった。

 電子的措置で記録の映像化が阻まれるのは大会中のみ。インタビュー禁止もまた同じく。となれば、記者達の目当てが大会後に向けられたのは当然の流れといえた。

 

「どこへ行った?!」

 

 学祭中であっても異様なテンションを披露する集団に好き好んで関わろうとする人もいない。進軍するという表現が正しい記者軍団の進む道は海を割ったモーゼの如く勝手に開いていく。

 

「大会参加者の独占インタビューを取るのはウチだ!」

「やらせはせん! やらせはせんぞ!」

 

 人でごった返す表通りにマイクやカメラを持った10人超の目を血走らせた集団が駆ける。

 

「お母さん、あの人達なにやってるの?」

「しっ、見ちゃいけません。いい、しーちゃんはああいう大人になっちゃ駄目よ」

 

 草の根を掻き分けてでも目標を見つけ出さんという意欲は、ジャーナリストとしては正しいのかもしれない。周りの理解は往々にして得られないものである。

 

「糞っ、どこに行った?!」

「まだ遠くには行っていないはずだ。草の根を掻き分けてでも探せ!」

 

 目的の人物を見失ったらしく集団は表通りの中心で辺りを見渡す。

 中には中学生ぐらいの子供から高校生も混ざっていたが、押しなべて目を血走らせた集団と積極的に関わろうという猛者はいない。

 無駄に騒がしいだけあって事前に気づいた人達が自然と避けていくことにも彼らは気付かない。その中で比較的に冷静な方だった一人が別の場所を探している仲間と連絡を取っていた携帯から激震を齎す情報が伝わった。

 

「あっちで優勝したアスカ選手を見たと目撃情報があったぞ!」

「「「「「「「「「何っっ??!!」」」」」」」」」

 

 激震は記者たちのみならず、表通りから外れた脇道から少女の叫びと顔が出てきたが後ろから伸びて来た手が掴むと引き戻された。

 

「黒いセーラー服を着た眼鏡の子とシックなゴスロリを着た長身の子と西へ逃げたとのことだ!」

 

 続く情報の直後に脇道から今度は足が出てきたがこれまた直ぐに引き戻された。

 幸いにも誰も気が付く者はいなかった。

 

「追え追え追え追え追え追え! 逃がすな曝せ! 我ら麻帆良ジャーナリストの前に暴けぬ真実はない!」 

「「「「「応ぅ!!」」」」」

 

 ちょっとどうかと思う掛け声と気合の叫びが轟いて、記者達は台風の如く駆け抜けて行った。後にはペンペン草が一本も生えない荒野だけが残ったりしなかったりする。

 

「行きましたか?」

 

 駆け抜けて行った記者達を、表通りから少し外れた脇道から顔を出した近衛木乃香は背後から聞こえる親友の声に振り返った。

 パレードが出来そうな表通りとは違って脇道は細く狭い。両脇の建物が高いこともあって昼過ぎで頂上付近にある太陽の光も通りには射さない。暗く湿気だけが立ち込める通りには三人の人影があった。

 

「凄い勢いで駆け抜けて行ったで」

 

 再度、表通りに顔を出して記者達が戻って来ないことを確認した木乃香は体を完全に脇道へと向ける。

 そこにいるのは馴染みの二人。木乃香に声をかけた桜咲刹那と彼女に拘束されている神楽坂明日菜その人である。先程の脇道から出ようとしたのは明日菜で、彼女を刹那が止めたのだ。

 いい加減に拘束を解かれた明日菜を尻目に、刹那には多大に余裕があった。

 

「慌ただしい気配達が遠ざかって行きます。戻って来る様子はなさそうです」

 

 メイド服から元の白いセーラー服に着替え直した刹那は竹刀袋に納められた夕凪を持ちながら、より気配を探る為に閉じていた瞼を開いた。

 明日菜を拘束するにはてんで本気ではなかったらしい。そのことに少し仏頂面になった明日菜は唇を尖らせる。

 

「私には気配なんて感じないんだけど」

「直に明日菜さんにも分かるようになります」

 

 言われた明日菜はどこか納得できないのと刹那の言葉を信じたい感情との板挟みになって微妙な顔をする。

 そんな明日菜の顔を見て刹那は笑う。一般人の感性を持ちながらも師である刹那を信じようとする気持ちは嬉しく感じていた。

 

「それじゃ……」

 

 明日菜は何を言ったものかと暫し思案して、通りに向けた視線の先にいる記者らしきスーツを着た男と視線があった。

 先に駆け抜けて行った集団と違って鈍足らしく盛大に息を荒げて両膝に手をついていたが、その目はしっかりと脇道にいる明日菜達を見ている。

 足りなくなった酸素を取り込んでいた記者の口が大きく開いた。

 

「逃げるよ!」

 

 発する言葉が予測できる記者の機先を制して明日菜は叫びながら二人の手を引っ張る。

 

「あっ」

「きゃっ」

 

 咄嗟に反応した刹那は驚くだけだったが木乃香はバランスを崩してしまう。が、そこは運動神経が異常レベルに踏み込んでいる二人がさせるはずがない。

 明日菜が刹那を持っていた手を離し、木乃香を真ん中に挟んでぶら下げる。

 

「わ、あはははははははは」

 

 親友二人に転倒しそうなところを足が宙ぶらりん状態で助けてもらった木乃香は、遠い昔にまだ母親が生きていた頃に両親にしてもらったことを思い出して笑った。

 この三人でいる時の中心は木乃香である。彼女が笑っているだけで空気は柔らかくなる。

 

「これからどうしましょうか!」

 

 後ろから迫って来る鈍足の記者を振り切る為に雑踏の中に紛れ込み、手を繋いだままでは流石に難しいので刹那が木乃香を背負いながら今後の指針を問うた。

 元より完全な肉体派の刹那には考えることは向いていない。それは今までのことを考えれば明らかで、何もしないわけではないがこの楽しい時を持続したいとの思いから放たれた問いだった。

 

「明日菜の用事もあるし、まずは記者さん達を振り切らなあかんな」

 

 背負われた木乃香は猫のように刹那の首筋に顔を擦りつけながら思案気に頷いた。

 擽ったそうな刹那が文句一つ言わないことに、明日菜は二人の背後に百合の花々が浮かんでいることに気が付いたが口に出すことはしなかった。それよりも高畑に言われた言葉を思い出す。

 

『デートをしよう』

 

 表情を張り詰めさせた高畑に暫しの熟考の後に了承の言葉を返した明日菜。どんなことにも女子の準備には時間がかかる。余裕を以て行動するには、何時までも報道陣と追いかけっこしているわけにはいかない。

 

「でも、どうすんの? 結構しつこそうよ」

「うーん、そうやな」

 

 先頭を走って群衆の隙間を正確に抜けていく明日菜のツインテールの毛先を眺めながら木乃香の視線は辺りを彷徨う。

 そして視線の先に「貸衣装ハロウィン・タウン」という建物が視界に入って来た。次いで辺りを見渡して周囲が仮装している人ばかりであることを確認して口元を綻ばせる。

 

「あれや。明日菜、せっちゃんあそこに突撃や!」

 

 刹那の肩越しに指差す方向を見た明日菜のツインテールの毛先が踊った。

 

「「了解!」」

 

 木乃香の指示に従って従者二人は片方が主を背負って笑いながら突撃して行った。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 西欧風の建築が取り入れられる麻帆良学園にも純日本風の建物も勿論存在する。学園内に立つ神社や茶道部が野点会場とした古式ゆかしい日本庭園がそれに該当する。麻帆良学園創立には西欧人が関わっているとの話だが彼らが日本文化に興味を示したことも想像に難くない。

 大学から中学までの茶道部が共同して開いている野点会場は、日常では目に出来ない雰囲気を楽しめるとあって人はそこそこ多かった。

 そんな野点会場の中で人通りの少ない簡素な場所で奇妙な光景が繰り広げられていた。

 

「で、どういうことなんだ?」

 

 着慣れない着物にもぞつきながら、千雨は対面に座る少年に問いかける。

 問いかけられた少年アスカ・スプリングフィールドは、難しい顔をしながら茶々丸から差し出されたお茶の入った茶碗を見ていた。

 

「むぅ」

 

 真剣だった。真剣であるが故に茶碗を見下ろす目には苦渋に満ちている。

 千雨はその表情の意味を自分の問いにあると考えた。だが、茶々丸は違ったようだった。

 

「茶道といっても正式な場ではありませんので作法は考えなくとも良いです。お好きに御飲み下さい」 

「あ、そうなのか」

「作法を気にしてたのかよ!」

 

 茶会の作法を気にしていたらしいアスカは茶々丸の許しを得て茶碗に手を伸ばす。

 どのような味がするのかと意気揚々と茶碗に手を伸ばすアスカには問いに対する煩悶など欠片もなさそうだったので、武道大会時から心配していた千雨は思わず突っ込んでしまった。

 当のアスカはチラリと千雨を見てから両手で持った茶碗を口につけて傾ける。

 お茶を飲み込んだことを示すように喉が微かに鳴るとアスカは僅かに驚いたように目を開く。

 

「苦くない」

「苦い物は苦手と聞いておりましたので、薄めて提供させて頂いています」

 

 こういう場で出るお茶は苦いとどこかで聞いていたのか、二度三度と口をつけて確かめるアスカに茶々丸は自然と微笑んでいた。

 お茶の味がお気に召したのか、下品にならない程度に素早く飲み干したアスカは茶碗をゆっくりと地面に敷かれた毛氈というマットに置く。

 

「見事なお点前でした、でいいんだっけか」

「はい。ありがとうございます」

 

 頭を下げ合う二人に自分だけが場違いな気持ちになった千雨は臍を曲げた。

 アスカと同じく茶々丸に提供されたお茶を片手で取って、行儀悪く見えようとも気にせずにガブガブと飲む。

 

「差し出がましいことをお聞きしますが、怪我の方はどうなされたのでしょうか? 見る限り治っているようですが」

「ん、木乃香に治してもらった」

「そうですか、納得しました」

「んぐっ?!」

 

 一息ついたばかりといったところで切り込んで行った茶々丸の発言と答えようとしているアスカに、千雨は呑み込みかけていたお茶を詰まらせた。

 

「ゲホッゲホッ」

 

 お茶を噴き出すなんて乙女の誇りを真正面から穢す行為は流石にしなかったが咳き込むことは抑えきれなかった。

 

「千雨は慌てんぼさんだな。もっと落ち着けよ?」

「お前が原因だ!」

 

 背中を撫でてくれる茶々丸とは違って、指を指して笑いはしないながらも微笑ましい物を見つめるように言われると腹が立って、持っている茶碗を投げつけた。

 近距離で投げられた茶碗だったが差し出された指一本で衝撃を殺して、投げた張本人である千雨が唖然とする簡単に掌に収めてしまった。

 一連の動作を見た怒りは一瞬で冷める。

 

「…………やっぱり先のはわざと受けてやがったな」

 

 ここに来る前に叩かれたことに対する謝辞を大人しく受けたアスカは叩かれた頬を指で掻く。

 アスカが置いた茶碗を茶々丸が回収していた。

 

「突然声をかけて驚かせた報いってことで」

「叩いたのは私だ」

 

 ここは穏便に、と気にするどころか自分が悪いと言いたいアスカに千雨は固辞する。

 筋を通しておかなければならないと、そこらにいる男よりも男らしい千雨にアスカは笑わずにはいられないように微笑んだ。

 

「謝罪されても困る。受け流してから痛みはないし」

「の、わりには変な声出してたぞ」

「俺の演技もなかなかのものだろう?」

 

 当のアスカが全く気にしていないことに呆れつつも、毒気が抜かれた千雨は振り回されている自分を心地良く思う謎の心理に内心で首を捻っていた。

 

「さよはどうしたんだ? 姿が見えないが」

「アイツなら朝倉の所に行ってる…………つか、話を逸らさずにいい加減に答えろ。あれはどういうことだ?」

 

 何時までも話をはぐらかされては堪らない。千雨は颯爽と切り込んで行った。

 茶々丸より二杯目を貰っていたアスカは、茶碗を傾けて飲もうとしていた手を止めた。

 

「あれ、とは?」

「分かっていて聞いてるなら殴るぞ、マジで」

 

 着物の袖を巻くって今にも殴りかからんとする千雨にアスカは両手を上げた。

 降参を示す万国共通のポーズをとったアスカだがその顔は笑っている。

 

「アスカ・スプリングフィールドの嬉し恥ずかしの青春活劇で納得してほしいな」

「なんだそれは」

「事細かに説明するとこっちのハートが傷つくから勘弁。男には穿り返されると穴に篭りたくなる過去が色々とあるのさ」

 

 千雨には理解できない種類の笑みを浮かべながらアスカに、不思議なことに怒りを覚えない自分に内心で首を捻った。

 

「あんだけ怪我したはずなのに、なんで笑ってられるんだよ」

「慣れてる。怪我をするのも、死にかけるのも。別段、珍しい事じゃない」

 

 死期を悟った老人のようにしみじみと呟かれたら怒る気も失せる。

 怒りよりも何があったのだろうと気にかかった。千雨の知るアスカは、まるで遠い遠い世界を眺めるように緩やかな風が吹く庭園を見つめはしない。二度と手に出来ない宝物に手を伸ばすけど触れることが出来ないように怯えている。

 

「馬鹿野郎」

 

 罵倒が口に出た。思ってもみなかったが口に出してからそれが的を射ていることに得心した。

 

「突然罵倒とは酷いぞ」

「傷つくことが慣れてるなんてガキは馬鹿野郎で十分だ」

 

 ふん、と鼻を鳴らしながらこの数ヶ月の間になにかがあっただろう少年に悟られないように、着物の袖に隠れる膝の上に置いた手を強く握った。

 

「苦しいなら助けを求めろ。悲しいなら泣け。私には分からない辛いことや苦しいことがあったんだろが、成人してないガキが一丁前に悟った面してんじゃねぇ」

 

 言い切るとアスカは鳩がマメ鉄砲を食らったような顔をした。

 

「私だってアスカの力にはなれる」

 

 少しぐらいなら、と心の中で付け足しながら千雨は自嘲した。

 目の前にいるアスカ・スプリングフィールドは長谷川千雨よりもずっと高い能力がある。年下なのにもだ。

 交友の輪も広く、社交性も高い。腕っぷしも強く、飛び級出来るぐらい頭も良くて、身長と体重も負けているだろうから千雨が勝っている所は年齢とコンピュータ関連ぐらいである。そんなアスカに偉そうな口をしていることに千雨は自嘲せずにはいられなかった。

 

「何でもかんでも抱え過ぎなんだよ。そんなんじゃ何時か壊れるぞ。どこかで発散しろ」

「…………発散しろって言われてもな、別に抱え込んでいるつもりもねぇよ」

 

 心底困ったとばかりの表情から誰もアスカにこんな当たり前のことを教えなかったのだと悟る。

 そのことが余計に腹が立ってもの悲しい。

 事実、アスカには理解できないのだろう。何時も抱え込んで、溜め込んで、発散することも出来ずに積み上げ続ける。性格と言い切ることは難しい。ただ、自分がそんな人生を送るとまともに生きていける自信を千雨はとても持てなかった。

 非常識なクラスメイトを持った千雨もストレスの多い学生生活を送っているが、コスプレやネットアイドルでストレスを発散している。どちらかといえばこちらが趣味になっているのは笑い所であったが。

 

「物に当たるとかはどうでしょう。怒りを覚えたマスターは人形を壁に投げつけたりされていました」

 

 どうしたら発散できるかと考えていた千雨の前で、新しい茶を入れた茶々丸が楚々とした仕草で茶碗を送る。

 

「全力でやると大抵のを壊せるから物に当たったらテロになるかも」

「お前はどこのスーパーヒーローだ」

「超高層ビルでも三十秒もあれば余裕」

 

 顎に手を当てたアスカの信じられない一言に、武道大会のことを思い出した千雨は冗談とは思えず本気で引いた。

 当の茶々丸は気落ちした様子もなく、少しの黙考の末に口を開いた。

 

「屋上から大声で叫ぶとかはどうでしょう」

「大声を出せば解消するかもしれないがどこの青春野郎だ。普通はカラオケだろ」

「俺は音痴だ」

「自慢しながら言うことでもないぞ」

 

 ストレス解消法としては間違ってはいないが、どこかずれている茶々丸に突っ込みを入れた千雨は、胸を張るアスカにも更に切り返す。

 はぁはぁ、と突っ込みを入れ過ぎて息を荒げている千雨を見ながら着物の衿元を直した茶々丸は短い稼働データの中から探り出す。

 

「やけ食いしてみるなどは」

 

 該当するデータは主であるエヴァンジェリンが行う行動にほぼ限定される。

 人形を壁にぶつけるか、大声で高笑いを上げるか、やけ食いをするのかのパターンが限定される。この時も茶々丸はエヴァンジェリンの行動から提案した。

 

「元から大食漢のこいつに意味ないだろ」

 

 アスカは元から人の何倍も食べる。やけ食いをしたところでストレス解消になるかは千雨には甚だ疑問だった。

 

「…………千雨さんは否定ばかりです」

「む」

 

 千雨としては普通の突っ込みのつもりだったが言われた茶々丸はお気に召さなかったようだった。

 人形染みている茶々丸が不満そうに言うのを見た千雨は否定しきれずに唸った。

 反論せずに今度は自分で考えた千雨は思ったよりも良い意見が浮かばず、額に冷や汗を幾つも浮かべながら口を開く。

 

「奇行に走るとか」

「なんだそれ」

「後は―――――全力で遊ぶとか? 今は学園祭で色んなアトラクションがあるからそれでハッちゃてもいいんじゃないか」

 

 呆れた視線をアスカと茶々丸の二人から浴びせられた千雨は苦肉の策の如く、脳内に残る可能性を少し高めのテンションでぶっちゃけた。

 

「………………」

 

 恐る恐る顔を上げて二人の顔を見ると、感情の読み難い茶々丸はともかくアスカまで完全な無表情になっていて内心で酷くビビっていた。

 徐々に目に力が入っていくアスカにどのような返答が返って来るのか気が気ではなかった。

 

「アスカさん?」

 

 茶々丸もまた返答を返さないながらも反応はしているアスカに声をかけた。

 声をかけられたアスカが遂に口を開けた。

 

「それだ」

「は?」

 

 一瞬何を言っているのか分からなくて千雨は馬鹿のように口を開けてしまった。

 

「それだ!」

 

 目を輝かせて叫ぶアスカを見ても、なんのことか茶々丸にはさっぱり分からなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 祭りの喧騒で一時も鎮まることのない麻帆良学園。その中で神楽坂明日菜は自室へと戻って来ていた。

 見慣れた部屋を、明日菜は見渡す。

 二年と少しの間、木乃香と共有で使っていた二段ベッド。壁に張ったカレンダー。服を満載したクローゼット。仕方なく勉強をするために向かい合っていた机。ブックスタンドに並べられた漫画。

 ここの学習机の前で悩み、木枠のベットで不安に怯えて楽しい明日を夢見た。

 過去を振り切るよう目を閉じ、大きく深呼吸する。

 

「どうかな、木乃香? この服変じゃない?」

 

 高畑とのデートの為に精一杯のおめかしした明日菜の周りを木乃香がジロジロと見ながら検分する。

 足下からスカート、上着から手に持つ小物まで入念に見ていくチェックにドキドキしながら感想を待っていると、木乃香の視線は頭頂部で止まった。

 

「ん~」

 

 明日菜の頭を見たまま、木乃香は言いたいことがあるけど言えないように口をまごつかせる。

 木乃香の視線が髪飾りに注がれているのに気づいた明日菜は、改めて服装を見下ろす。

 普段着ているような活動的なものではなく、木乃香にチョイスしてもらった着慣れない甘い系の服。

 

「服と合わないかな?」

「そういうわけやないけど……」

 

 木乃香の感じからして似合っていないのではなく、付けている鈴の髪飾りが甘い系の服には違和感があるのだろう。言葉を濁しつつも態度から察した明日菜は、机に置いてある鏡に映る自分の姿に眺める。

 

「髪下ろすかなぁ」

 

 髪飾りに触るとカランと鈴が鳴った。

 まるで髪飾りが鳴いているようで、明日菜の言葉と鐘の音を聞いた木乃香の方が申し訳なくなった。

 

「その髪飾りは高畑先生に貰ったもんやろ。折角のデートやもん。そのままでええと思うよ」

 

 少し慌てた様子で言われたことを考えた明日菜は、だからこそと一大決心をして髪飾りに手をやる。

 しかし、髪飾りを外そうとした手が止まり躊躇する。

 八年前に麻帆良学園に来て高畑にプレゼントされてから日常生活では殆ど外したことが無い髪飾り。木乃香の言う通り、プレゼントをくれた高畑とデートをするなら外すことの方がありえない。

 

「私は変わるって決めたから。何時までも甘ったれていられない。タカミチに今の私を見てもらう為には」

 

 髪飾りに触っていると昔に戻るような気がした。

 

「昔は高畑先生じゃなくてタカミチって呼んでいたのよね、私」

 

 物凄い不愛想だった当時の幼い明日菜に渡され、年月と共に二人を繋ぐ絆になったプレゼント。でも、何時からかその絆に固執していたのではないか、縋っていたのでないだろうかと疑念が明日菜の中に生まれる。

 もう神楽坂明日菜は小さな子供ではない。守られているだけの少女ではないと証明しなければならない。

 

「私は、もう一人で立てる」

 

 まるで神様の前で誓う神聖な誓いのように、明日菜は呟いて髪飾りを外した。

 サラリと抱えていた深い懊悩とは別にあっさりと髪飾りは外れ、ツインテールに纏めていた髪がハラリと解けていく。

 日常的にしている動作なのに、この時の明日菜を襲ったのは世界で自分一人しか存在していないような孤独感によって、どうしようもない寒気に襲われていた。

 息が出来ない、凍えるように寒い、恐ろしい程に寂しい。両手の中にある髪飾りだけが支えで、温もりだった。

 縋ってしまえば、楽だろう。助けを求めれば、これ以上ない力になってくれる。でも、それこそが甘えだと知っていた明日菜は自ら髪飾りを手放した。

 その瞬間、明日菜の心臓は止まった。

 

「どうしたん、明日菜?」

 

 木乃香に声を掛けられ、ようやく世界に他者の存在を知覚して心臓は再び脈動を再開する。

 全ては明日菜の錯覚であり、思い込みであったのだと悟らされる。それほど髪飾りに、高畑との絆に依存していたかが分かり苦笑する。

 高畑から始まって、雪広あやかから広がって、近衛木乃香に出会い、アスカ・スプリングフィールドに行き着いた。

 

「なんでもない」

 

 答えつつ、おかしすぎて大笑いしそうだった。

 始まりは一人であったかもしれない。絆は一つだったかもしれない。

 八年、明日菜は八年の月日を麻帆良学園で過ごした。一人だった明日菜の周りには気が付けば人で溢れ、多くの人と絆を結んだ。明日菜は独りにならないし、髪飾りを置いたからといって高畑との絆が消えるわけでもない。

 

「どう、似合ってる?」

 

 自信なさげに、明日菜が指を絡ませる。こういう明日菜も、ひどく珍しくはあった。普段から芯の強さが滲み出ているような少女である。だからこそ、木乃香にとっては愛おしい。とても大事な親友の、とても大切な想い。

 

「似合ってる。可愛いえ」

「ありがとう」

 

 世辞ではなく本心から感嘆している木乃香に笑顔のお礼を返しながら、木乃香の机の上に置いてある鏡に映る自分の姿に子供ではなく女を見た。

 小さな子供ではなくこれから花開いていく女の姿は悪くないと思った。変わっていける自分を好きになれると、確かに感じられたから。

 

「あ」

 

 ふと、脳裏に閃く物があった。

 歩みを進めて自分の机に向かって一番上の引き出しを開け、奥に仕舞いっぱなしになっていた物を取り出す。

 取りだされた包装紙は木乃香の見覚えのある物だった。

 

「それってアスカ君からの誕生日プレゼントちゃうの」

「うん」

 

 答えながら包装紙を解いてペアリングを取り出し、手に取って眺める。

 特に目を惹くほどの綺麗でも細工が細かいわけでもない。安物っぽくて平凡で、どこにでもあるような物。作られてから大分経っているのか新品にも関わらず少しだけ色褪せているようにも見える。

 年頃の少女にプレゼントするには少しミスマッチなペアリングを、開けた引き出しに入っている貰い物のチェーンにペアリングを通して、後ろ手に首の後ろで留め金を付けてみる。

 胸の上に止まった飾り気のないペアリングが光ったような気がして、明日菜はアスカを思い浮かべながらペアリングを唇を当てる。微かな電流が走ったような気がして不安がスゥと消えていく。

 

「行くんやな」

 

 準備を終えた明日菜の変わりように、木乃香は感嘆の息を吐いて言った。

 

「刹那さんに何時までも囮をさせておくわけにはいかないからね。行ってくる」

 

 明日菜はドアを開け、最後にもう一度だけ振り返る。

 彼女達の部屋は南向きなので日当たりが良い。部屋にある全てがいくつもの過去の明日菜に繋がるようで、濃密な日々の思い出が押し寄せる。ここで過ごした日々を想い、この時だけは熱い涙に零れることを許した。

 

「―――――――行ってきます」

 

 女子寮を出て、祭りに騒ぐ麻帆良を歩く。

 陽射しが柔らかかった。初夏特有の温かで包み込むような光。多くの人が集まる熱と相まって、何時までも微睡んでいたくなる。撫でるように風が吹き過ぎ、下ろした髪が小さく靡く。

 変わり行くその変化を受け入れて、明日菜は前へと歩み続ける。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 強烈な日差しが麻帆良学園都市にも滾り落ちていた。流石に暑い。正午を過ぎ、一日で最も気温の高い時間ではあった。

 タカミチ・T・高畑は、耳元に持って来ている丈夫さを重視して普通よりも何倍も無骨な携帯電話に意識を集中する。

 

「超君に逃げられたということですか」

『まんまと出し抜かれた形だね。彼女の方が一枚上手だったよ』

「すみません。僕も同行していれば」

 

 高畑は電話相手の明石教授に申し訳なさだけが募って姿すら見えないのに頭を下げてしまう。

 葛葉やガンドルフィーニ、神多羅木といった魔法先生の中でも武闘派で通っている人材が超拘束に同行すると聞いて、一身上の都合で参加を辞退した己が不始末を詫びるしかなかった。

 

『どうだろうね。向こうも君が同行することは予測してその上で対策を立てていただろうから、どっちにしろ同じ結果になったんじゃないかな』

 

 自他共に戦闘能力なら麻帆良学園都市トップクラスであった高畑は、予想外の返答に携帯を持つ方とは別の手で持つ煙草を組んだ膝の上に置いてある携帯灰皿に灰を落す。

 今の高畑は灰皿の上に置かれている灰のように燃え尽きている。武闘派が集まっていることを言い訳にして逃げた高畑に明石教授の言葉は骨身に染みるものがあった。

 

『魔法生徒の手も借りたんだけど逃げられちゃったんだ。どうやって逃げられたかも分からないからお手上げ状態。困った困った」

「超君はそれほどですか?」

『部下に欲しいぐらいだったんだけど断られちゃったよ。残念』

 

 信じられない気持ちでいた高畑だったが、本気か嘘か分からない明石教授の言葉に眉を下げる。

 明石教授は冗談は言っても嘘は吐かない人だ。彼が部下に欲しいと言ったのだから事実なのだろうと高畑は内心で呟く。

 

『それはともかく、逃げられました、逃走方法も分かりませんで、これから学園長に報告しないといけないから憂鬱だよ』

 

 言葉通りに憂鬱そうな溜息を漏らす電話先の明石教授は、声だけは普段の陽気な彼そのものだから対応に困る。

 

『僕が怒られるのは確定として、超君の言動から近々ことを起こすのは間違いないと思う。高畑君もそれまでに気持ちを固めておいてくれ』

 

 ギクリ、と内心を言い当てられた高畑は体を強張らせた。

 

「…………全部お見通しというわけですか」

『今は大学の教授をやってるけど、元担任の眼力は舐めないでほしいな。まだまだ耄碌したつもりはないよ』

 

 学生時代の童顔な担任の顔が今とそう変わっていないことに逆に戦慄を覚えながら、明石教授流のユニークを効かせたジョークに強張っていた体が不必要な力が抜けていく。

 

「恩師を舐めるなんてそんなつもりはありません。貴方のように人を導ける人間になりたくて僕は教師になったんです。今は昔以上に尊敬しています」

 

 エヴァンジェリンと同級生だった頃の学生時代の頃を思い出して、今のうらぶれた有様が情けなくて仕方なかった。

 どこから間違っていたのだろうか、と自問する。

 どこで間違ったのだろうか、と自問する。

 自問に対しての答えは、どれだけ探してもどこにも見つけられなかった。

 

『誤魔化しを感じるけど、素直にありがとうって言っておこうかな』

 

 嬉しげな声音には咎めるような感情は欠片も込められていなかったが、高畑には遠い昔と同じように諌められているような気がした。

 世間を渡る処世術だけは人並み以上に優れているので、内心を面に出さずに苦笑が出る。

 

『むぅ、よほどの重傷みたいだね。応援を頼んでおいて良かったよ』

「応援?」

『おっと失言しっちゃったかな。ま、その時が来れば分かるからデートを楽しんでおいで。じゃ』

 

 唸り声と共に放たれた謎の言葉に咄嗟の理解が出来ずに首を捻るも、続く言葉はもっと意味が分からないまま向こうから電話が切られる。

 その時が来れば分かるというのであれば、今考えても仕方ないと思考を終わらせ、携帯を背広のポケットに直した高畑はチラリと腕時計に目をやった。

 

「ちょっと早く来すぎたかな」

 

 約束の時間は十五時なのに約束の時間よりも大分早く来てしまったので、ちょっぴり手持ち無沙汰になってしまった。

 ベンチに座ったまま、ぼんやりと空を見上げる。

 くっきりとした雲の塊が幾つかと、その間から垣間見える蒼い空を見て、晴れてるなと間の抜けたことを考える。一日一日、夏らしく陽射しが日増しに強くなっていく。

 と、視界に影が落ちた。直ぐ傍に誰かが立っている。

 

「ん?」

 

 ふんわりとしたシャンプーの香り。最近は遠ざかっていた懐かしい匂いに視線が勝手に動く。

 

「お待たせしました、高畑先生」

 

 少し腰を屈めて、ベンチに座る高畑の顔を覗き込んで声をかけてきたのは見知らぬ可愛い女の子だった。

 膝まで伸びる癖の無い亜麻色の髪の毛、丸みを帯びつつもほっそりとした小顔、幼さを残すクリッとした円らな瞳、それでいながら胸元は大きくせり出し、胸の上にあるペアリングがアクセントとなって、腰から太腿にかけての女性的な曲線を強く意識させている。

 見覚えがあるので、どこかで会ったことのある女の子だ。というか、この雰囲気が誰かを高畑は知っていた。心中で舌を打つ。目の前にいるのは、見慣れた何時もの少女なのに何を混乱しているのか。

 

「………………明日菜君?」

 

 リボンのついた真っ白なブラウスに空色の膝下まであるギャザーの入ったスカート、靴は少し冒険して買ったばかりの、靴底の土踏まずの部分がへこんでおらず、踵部分が高く爪先に向かって低くなる船底形のヒール………………自分の来ている服が恰好悪いのではないかと思ったりして、明日菜は所在無げに普段している鈴の髪飾りを外してストレートに流している毛先をいじったりした。

 薄く色の入ったリップが付けられた唇に見入った高畑は、咥えていたタバコをポロリと落としてしまい、慌てて拾って携帯灰皿に押し付けてポケットに直す。以上の動作はほぼ無意識に行われた。

 

「一瞬誰かと思ったよ。髪型変えたんだね。似合っているよ」

 

 明日菜に気づかれないように深呼吸するとだいぶ落ち着いてきた。

 

「良かった。似合ってないって言われたらどうしようかって思ってました」

 

 照れてか少し恥ずかしそうに眼を伏せて前で組んだ手をもじもじさせながら、上目遣いにこちらを見ている明日菜に今までになかった眩しさを感じて高畑は少し目を細める。

 屈託なく微笑む少女を小さな子供を扱いするには、時の速さに溜息をつくほど大人びて見えた。無防備なその表情にすら、あどけなさより蕾が開いたような華やかさが前に出ていた。

 

「何時から待ってたんですか?」

 

 ストレートに流した髪を揺らし、涼やかな風が吹き抜けていく。燦々と降り注ぐ陽光が、コンクリートのタイルの上に彼女のシルエットを鮮やかに描き出していた。

 

「少し前だよ」

 

 何かが終わりつつある実感を抱き直した刹那、答えながらベンチから立ち上がる。

 自分から誘ったデートなのに変わらぬグレーのスーツ姿は間違いであったと後悔の念が頭を過った。

 

「じゃ、少し早いけど行きましょうか?」

 

 高畑の後悔を知る由もない明日菜がリップグロスでツヤッとさせた唇で、にこりと笑った。何かを期待するような顔をして見上げてくる明日菜に、高畑は意味もなく緊張した。

 

「まずは映画です。デートなんですから一緒に映画を見るのが基本なんですよ」

 


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