魔法先生ツインズ+1   作:スターゲイザー

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第51話 隣にいるアナタ

 暑かった陽射しも太陽が真上から見上げた程度の高さに落ちていくことで和らいでいく。図書館島内部にもガラスから入る陽射しは目にも分かるほど柔らかかった。

 

『こちらが図書館島名物の一つである北端大絶壁です』

 

 図書館探検部に所属する大学部の生徒が先頭に立ちながらマイクで説明する。

 館内にも関わらず、橋の上を歩いている一行を優しく照らしてくれる。橋の上を歩く一行の左の方には断崖絶壁となっている本棚が並び、その上から大量の水が流れ落ちている。要するに滝になっているのだ。

 

『建築当時の資料が散逸している為、なぜこのような物が作られたのかは不明で』

 

 滝から落ちる水が太陽の光に反射して虹を作っている。

 大人の腰以上の位置になるように作り直された手摺を掴んで、この探検大会に参加した一団が紙媒体の本があるのに摩訶不思議にも滝が流れている本棚を見て歓声を上げる。

 

「ねぇ、夕映。あの二人ってもう出来てんじゃないの?」

 

 最後尾の更に後ろについて歩く早乙女ハルナの声に、どこか心ここに在らずにいた綾瀬夕映は目を瞬かせた。

 改めて視線を前に向ければ、仲睦まじい宮崎のどかとネギ・スプリングフィールドの姿があった。

 

「付き合ってるとまではいかないでしょうが、近いところにまで来ているのは間違いないようです」

 

 手を繋いで歩いている二人を見遣った夕映は、以前よりも近くなった二人の距離感にどこか焦りにも似た焦燥を覚えながらも努めて平静に返す。

 隣を歩くハルナは夕映の様子に気づいた様子もなく、頭の上で手を組んで悪戯気に唇の端を釣り上げている。

 

「あれはどう見ても付き合っているようにしか見えないけどなぁ。こう、私達の知らないところで突き合ってるって」

「ん? なにか変なニュアンスに聞こえましたが」

「気の所為じゃない」

 

 同じ視点から見ているハルナと夕映では、どうやら見えているものが違うようだ。主に普通の少女と18禁少女という点で。

 どうにも誤魔化されているような気がする夕映だが、親友の恋路の方が大切なのでハルナの言う通り気の所為にしておくことにする。

 

「二人には今が大切な時期なのですから、ハルナも変な茶々だけは入れないで下さいよ」

「そんなことしないって。もっと信用してよ」

「信用できません。普段の行動を顧みれば分かるはずです」

「普段って?」

「自覚していない時点で手遅れです」

 

 溜息を漏らした夕映は、「ラブ臭」なんてものを嗅ぎ取って恋愛において暴走しがちなところがある親友の自覚のなさに呆れる。

 夕映は知っている。早乙女ハルナという少女は他者の恋愛に首を突っ込みたがる性質があると。

 クラスでは朝倉和美と並ぶ噂好きであり、特に恋愛感情が絡むと悪ノリから無神経に話を大きくし過ぎる。そのような性格と併せて時にトラブルメーカーとなることから注意し過ぎてし過ぎることはない。

 

「二人に何かして仲が拗れたらハルナを一生恨むです」

 

 身長差から下から見上げるようになるが、夕映は精一杯の気持ちを込めてハルナを睨み付ける。

 小学生でも通用する夕映と高校生でも通用するハルナ。

 普通ならどれだけ睨もうとも夕映では体格によって迫力が減衰してしまうのだが、そこは二年と数ヶ月の月日を共にしたことで本気になった夕映の怒り様を知っているハルナには十分伝わる。

 

「分かってるって。ちょっと遊ぶだけだから」

「全然分かってないです。そういうことを止めるように言っているのです」

 

 はぁ、と当て付ける為に大きな溜息を吐くもハルナに効いた様子はない。寧ろ、夕映の反応を楽しんでいるようでもある。頭一つ分上から見下ろすその表情はニヤニヤと笑っていた。

 

「私がちょっかいをかけたって、今の二人には余程のことじゃない限り程好いスパイスにしかならないって。見てごらんって、あの二人を。夕映の心配し過ぎ」

「そう、でしょうか」

 

 言われて視線を隣にいるハルナから前へと向ければ、ほんわりとした空気を作っているネギとのどかの姿が目に入る。

 何を話しているかはまでは距離があるので聞き取れないが、仲睦まじい二人の間に入れる者はおらず、多少のことならば大丈夫かと思える安心感もあった。

 

「こっちでああだこうだ言わなくても二人は大丈夫。それよりも問題はアンタだよ」

「私が?」

 

 ニヤニヤとした笑みを収めての突然の矛先の変遷に戸惑った夕映が足を止める。

 

「ここ最近、ずっと何かに悩んでるようじゃない。お姉さんに相談してみな。聞いてあげるよ」

 

 図書館探検部一行が先を進む中、数歩進んだ先で足を止めたハルナが振り返って夕映と向き直って言った。

 

「…………何も悩んでなんていません」

「嘘だね」

 

 即座に否と断定される。

 

「本狂いの夕映が本を読まないなんてありえない。気付いている? この一ヶ月、自分が一冊も本を読んでないって」

 

 嘘なものかと否定しかけた夕映は、言われたことを認識して記憶を思い返し、確かにこの一ヶ月に本を手に取ろうともしなかったことに気が付く。

 最後に本に触ってから一ヶ月もの長い期間が開いている。一日に一冊の本を読まねば何らかの禁断症状が出ていたのに気にもなっていなかった。

 

「ようやく気づいたようだね。そんだけ悩んでたってことさ」

 

 腰に手を当て、ハルナが優しげに笑う。

 

「実際のところ、私はのどかのことに関して、そこまで心配はしてないよ。あの子はああ見えて精神耐性の高さはクラスでもトップクラスだからね」

「のどかは気が弱いと思うのですが」

「今ののどかを見てもそう言える?」

 

 言えるはずがない。ネギと関わり、告白してからのどのかは夕映が驚くほどに強くなっていっている。

 

「元からそうだったのか、ネギ君を好きになってから変わったのかは分からないけど、今ののどかは強いよ。自分で道を決めて歩いて行ける。アンタはどうだい、向かう道は選べてる?」

「…………」

「その様子からして選べてないからハルナお姉さんが相談に乗ったげようって言ってんのさ」

 

 夕映は直ぐには答えられなかった。ハルナがこれほどに人を見ていたことに驚きだが、簡単に口に出せるほど容易い悩みではない。

 

「私は――」

 

 なのに、気が付けば夕映の口からは言葉が零れ落ちていた。

 

「知りたいことがあるのです。でも、そのことを知るのには危険が伴って、私の中で知的欲求と身を守ろうとする本能が鬩ぎ合っていて選ぶに選べないのです」

 

 燃え上がり全身を焦がすほどの欲求に今も苛まれ、溢れ出しそうな想いから胸を抑えた夕映は、言語化することで形になっていなかった感情が整理されていくのを感じた。

 

「欲求に負けちゃえばいいよ」

「そんな簡単な問題ではありません! 欲求は夜も眠れぬほどにこの身を焦がしていますが、危険に晒されることを恐ろしいとも感じているです。死にたくない、傷つきたくないのです」

 

 生物が抱える真っ当な本能と夕映の中に芽生える知的欲求が鬩ぎ合い、どちらが主導権を握ることなく漫然と過ごしていた。それでも魔法のことを知らなければ良かったと思えない。

 

「ねぇ、私が知ってる夕映はさ、知りたいと思ったら飛び出して行っちゃってるよ。らしくないよ、今の夕映は」

「私は猪突猛進するタイプではないです」

「自分と周りから見る目は違うもんだよ。それにさ、危険があったら逃げればいいじゃん」

「逃げる?」

「危なかったり嫌になったら私の所に戻ってくればいい」

 

 知らずに下がっていた顔を上げると、ハルナが今まで見たことがないほど優しい微笑みを浮かべている。

 

「私達はまだまだ子供なんだから失敗したってやり直せばいい。それとも夕映はずっと葛藤を抱えたままで生きていける? やって後悔するよりも、やらずに後悔する方がずっと辛いよ。どっちの道を歩む?」

 

 ハルナは手を伸ばして夕映を待つ。

 それは救いの手でもあり、選択させようとする厳しいものでもあった。

 

「選びな、夕映」

 

 ハルナは一向に動かない。夕映の選択を待っている。

 

「待っていてくれますか?」

「私達はどこにいたって、何年経ったって親友だよ」

 

 問いに対する返答は明瞭ではないが、その意は容易く汲み取れる。

 

「ていうか、そう聞くってことはもう夕映の中で答えが出てるってことだよね。ほら、もう大分離されちゃったし、私達も行くよ」

 

 ハルナは手のかかる親友の手を握って、彼女らしく悪戯気な笑みを浮かべて先に進んだ一行を追って走り出した。

 

「ありがとうです、ハルナ」

 

 引っ張られながら走る夕映は久しぶりに自然と笑った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 頂点を極めた太陽は徐々に傾いていく。まだ夕焼けには少し早いが、今日という日もまた一日の半分を過ぎていた。

 最も暑い時間から、ちょっとだけ気温が下がって来た麻帆良学園都市は、まだまだ祭りの盛況さの翳りすら見せない。

そんな中、アスカ達は野点会場から違う場所へ移動していた。

 

「うわっはぁ――っ」

 

 着物から着替えてクラスの出し物である黒いセーラー服の千雨は、どうやってかこの学祭の為に作り上げられた滝から滑り降りて来たボートに乗っているアスカの楽しそうな姿を眺める。

 

「楽しんでんなぁ。そんなに楽しいもんかね、あれが」

 

 水辺のアトラクションで大はしゃぎしているアスカを陸地から眺める千雨は大いに肩透かしを食らっていた。

 巻き上がった水煙が彼女のいる場所にまで届かないように設計されている作成者の細かい配慮など知る由もなく、手摺に肘をついてロボットの恐竜に囲まれた中を進むボートが進んでいくのを見る。

 

「無理もありません。恐らくですが、アスカさんはこういう風に遊んだことがなかったのかもしれません」

「遊んだことが無いって? そんなわけないだろ」

 

 隣に立って同じようにボートに乗って楽しそうに笑うアスカを見た茶々丸の発言を、千雨は彼女の中にある子供は遊ぶものという一般常識から否定した。

 平和な世界で生まれて生きて来た千雨の常識を、しかし茶々丸は首を横に振る。

 

「断片的ではありますが聞いた話によりますと、このような施設が幼少期に周りになかったことと、あまり遊ぶということがなかったと仰っておられました」

「飛び級したぐらいだから変でもないけど、あのアスカが遊ばないってのはないだろ。友達多いタイプだぞ、あれは」

 

 アスカは学校がなければ引きこもりになりそうな千雨と違って社交性がある。

 どこで知り合ったのかと疑問に思うような相手と話をしているのを見る度に内心で首を捻っていたものである。そんなアスカが友達と遊ばないというのは想像が出来なかった。

 千雨としては本音を言ったつもりだったが、茶々丸の顔を見ると自分は間違っているのではないと疑念が湧いた。

 茶々丸が特段表情を変えたわけではない。数ミリ程度眉尻を下げ、アトラクションで楽しそうに笑うアスカを見る目に感情が僅かに乗ったぐらいである。

 

「主観が混じった推測になりますが、よろしいでしょうか?」

 

 視線に込められた感情の正体を探ろうとした千雨だったが気になったので咄嗟に頷いた。

 茶々丸は言葉を選ぶようにゆっくりと口を開いた。

 

「私が知る限りでは、アスカさんはお父上に会う為に強くなろうとされています。それこそ脇目も振らずに今まで過ごしてきたのだとしたら、遊ぶという行為自体が必要ないと考えていたのかもしれません。仮に遊んでいたとしても心の底から楽しめていたかは疑問がつきます」

「…………分からない話じゃないな」

 

 何時も千雨は不思議だった。アスカは目の前にいるのにまるで別世界の存在しているかのように感じることがあった。

 声をかければ反応もするし、触れば触れることも出来る。なのに、ふと目を逸らしたら消えてしまいそうな危うさ。誰よりも強いのに弱いように感じる時がごく稀にあった。

 

「本人に確かめるしかないか」

 

 気が付けば口に出していた。

 

「何をですか?」

「色々と、だ。お前さんが言っていた魔法のことも含めて、まだ全部を聞いたわけじゃないからな」

 

 二重の意味を込めて千雨は言った。

 反応を確かめるように茶々丸を見るが今度は本当に表情が動いていない。探りを込めた問いに返答がないことに逆に千雨の方が迷った。

 

「確かめてもいいのか?」

「構いません。武道会の試合から魔法使いの存在を推測していた中で伝えましたので、さして問題は無いかと」

「そういうことじゃないだろ。このことを他の奴に言ったらあんたが不味い立場になるんじゃないのか」

 

 平然と返されて逆に千雨の方が鼻白んだ。

 秘密にされていたことを暴こうとしている千雨に口封じもせず、さして気にしない態度は逆になにかあるのではないかと勘繰らせる。

 

「千雨さんなら誰かに言いふらすなどしないと分かっていますから、その心配はするだけ無駄です」

 

 恥ずかしげもなく言い切る茶々丸に千雨の顔は真っ赤に染まった。

 

「信用してくれるのはありがたいけどよ。裏切っても知らねぇぞ」

「信用ではありません」

「は? それが信用じゃなかったらなんだんだよ」

 

 ぶっきらぼうな口調での照れ隠しはあっさりと否定されてしまった。

 

「私はクラスの人達をずっと観察していました。その中には千雨さんも含まれています。貴女が不必要に知られてはならない情報を触れ回らないことは分かっています」

 

 それを信用しているのではないかと千雨は思いもしたが口にはしなかった。他にも気になったことがあったからだ。

 

「クラス全員を観察してたってんなら聞かせてくれ。魔法の事を知ってる奴はクラスに何人いるんだ?」

「人数ですか? 私の知る限りではクラスの半数になるかと」

「半分もかよ!」

 

 どちらかといえば単純な興味で発した質問だったが、予想の斜め上をぶっ飛んでいく返答に手摺を思い切り叩いてしまった。

 そんなことをすれば叩いた手が痛くなるのは必然で、千雨は痛みに腕を抱える。

 

「大丈夫ですか千雨さん?」

 

 腕を抱えて痛がる千雨に茶々丸が声をかけるが当の本人は別のことを考えていた。

 

(マ、マジかよ。転校したくなったぜ……)

 

 痛みに打ち震えながら全力で世界に向け、声を大にして叫びたい衝動を抑える。

 時間と共に痛みは徐々に収まって来たので顔を上げると、茶々丸が心配そうに見ていた。

 

「もう大丈夫だ。しかし、クラスの半分も知っていて秘密の必要があるのか?」

「元より関わっていた方や止むを得ずに知ってしまった方が大半ですので」

「マジか。とんでもクラスだと思ってたが真正かよ」

 

 麻帆良祭に入ってから遭遇する出来事は常識を通り越してもはや異次元染みていた。今回のことはその駄目押しだった。

 溜息と共に、千雨は軽くこめかみを押さえた。

 

「頭痛でも?」

「原因のアンタが言うな」

 

 と、千雨は眉間に皺を寄せた。

 千雨の反応を勘違いしたのか、茶々丸は焦ったように口を開いた。

 

「本当なら一般人が関わることはなかったのですが、何分命のかかった緊急事態もあったので」

「イノチ?」

 

 信じられない単語が出て来て千雨はその言葉を直ぐには呑み込めなかった。

 

「イノチって、あの命か?」

「生命・LIFE、死ぬと無くなる命です」

 

 否定してほしかったのに肯定され、千雨は乾いた喉を潤すために唾を飲み込んだ。

 

「そ、そんなに危ないことしてんのかよ」

 

 やけに呑み込み辛くて喉に引っ掛かる。声が情けないほどに動揺していた。支えが欲しくて掴んだ手摺を持つ手は震えていた。

 

「人にはよりますが、表の世界に秘匿されているだけあって危険を伴います」

 

 千雨は言葉を続けられない。

 あまりにも突然かつ予想外過ぎる状況の連続に、頭が撹拌されたみたいだった。

 

「これは極端な例ですが、アスカさんは修学旅行で一回、一か月前の嵐の夜に一回、それぞれ死にかけています。修学旅行の時は一時心臓が止まったと聞いています」

「心臓が止ま……っ!?」

 

 物騒な単語の羅列に千雨の心臓が高くなった。

 胸に手を当ててドクドクと心臓がしっかりと動いていることを確かめたのは、思わず不安になってしまったからだ。

 胸の内、肋骨に包まれた中に心臓は確かに脈打っている。そのことを確かめずにはいられないほどショックが大きかった。

 

「嘘じゃ、ないんだよな」

「詳細は省きますが、事実です。そしてこれからも危険は続くと思われます。そういうお人なのです」

 

 胸に手を当てる千雨を見た茶々丸は眉尻を僅かに下げた。

 下げた眉尻は表情を悲しげに他人に見せ、人形然とした茶々丸の顔を彩る。

 

「なんだよ。なんでそんな……っ!」

「理由は考えない方がいいかと。一般家庭に生まれ、普通の世界で育ってきた千雨さんには理解できない事柄です」

 

 激昂しかけた千雨を前にして茶々丸はどこまでも冷淡に話し続ける。

 

「勘違いしてほしくないのはアスカさんだからこれほどに危険な目にあっているのであって、魔法に関わることが即悲劇に繋がるというわけではありません。戦うことも無く一生を終える人が大半なのですから」

 

 熱を持たず、冷たさすら持たず、虚空に消えるが如く目の前の人型は話し続ける。

 

「悲劇ではありましょう。ですが、世界で最も不幸というわけでもありません。遭遇した事々全て有り触れた悲劇の一つに過ぎず、五体満足で生きているのだから自分は幸福者であると以前に仰られていました」

 

 生きているのだから死者よりも幸福だと、傍にいてくれる人がいるから孤独である者よりも幸福だと、上ではなく下を見ているアスカの理屈に千雨は顔を歪めた。

 

「酷い理屈だ。酷過ぎる。あんたもだ、茶々丸さんよ。なにも思わないのか?」

「私は、機械です。人ではない私には、人の心は分かりません」

 

 茶々丸は言いながら自分の腕を内側から開いた。

 剥き出しになる内部構造。人間ながら筋肉と血管があるべき場所には、多くのワイヤーケーブルや人工筋肉といった機械部品が詰め込まれていた。

 

「だから、なんだ」

 

 動揺しなかったといえば嘘になる。千雨は絡繰茶々丸がロボットであることは見た目の時点で判断がついていた。それでも実際に現物として人間としての差異を示されれば動揺もする。中身が人間でなくても、人型をしているものに感情移入してしまうのは結局人間としては自然だろう。呑み込み切れたかといえば出来ていないと答える。が、今回のことはまた別問題。

 

「人の心が分からない奴が、そんな悲しそうな顔をするものか」

「悲しそう? ガイノイドの私は人の感情を理解する機構は存在しません。悲しそうな顔などありえません。発言を撤回して下さい」

「じゃあ、流れているその涙はなんなんだ」

「涙?」

 

 言われた茶々丸は目元を確認するために手を上げたが、頬に触れる前に落ちて来た小さな水滴が触れた。

 茶々丸は上げた手に落ちた水滴を見る。

 一瞬、雨が降り出してきたかと思ったが空模様は雲が所々にあるが快晴そのもの。梅雨の時期だというのに雨が降る様子は無く、これからもなさそうだった。次の可能性として天気雨を疑ったが、一滴だけ振るなどありえない。となれば残る可能性は一つだけ。茶々丸自身が涙を流しているということ。

 

「これは涙? 私が泣いている?」

 

 目元を触り、目から溢れ出るレンズ洗浄液を見下ろした茶々丸は声に隠しきれぬ動揺を滲ませた。

 

「他人を想って泣ける奴が人の心が分からないなんてことはない。お前は優しい奴だ、茶々丸さんよ。私が保証する」

「千雨さん……」

 

 千雨が手を伸ばし、頬に流れ続けるレンズ洗浄液をスッと拭って触れて来ても茶々丸は拒絶しなかった。

 優しいとはいえない粗っぽさだったが、今の茶々丸にはひどく心地良かった。

 

「笑えよ。泣いているよりかは笑っている方がずっといい」

 

 口の中に両手を突っ込まれ、広げて笑みの形に無理矢理にするところ辺りが千雨らしい。

 されている茶々丸には堪ったものではないが、さりとて力尽くで振り解くほどの嫌悪感は覚えなかった。千雨にされるがままに口を動かされる。

 

「あの……気にされないのですか? 私は人間ではないのですよ」

「今更だ。魔法使いやらビルを生身で潰せるなんてほざく奴がいるんだ。宇宙人がいようが超能力者や未来人がいようがもう気にするもんか」

「超能力者なら修学旅行の時に戦った敵の中にいたそうですが」

「いんのかよ超能力者!?」

 

 まさかの返答に驚きつつ、次いで頬を触った千雨は戦慄した。

 

「柔らかい……。この柔らかさでロボットだと?」

 

 ふにふに、と何度も抓り、引っ張る千雨の目の光がどんどん消えていく。

 

「信じらんね嘘だろありえねぇつうか寄越せこら。ネット中毒者を舐めんじゃねぇぞおい」

 

 ごく普通の少女と変わらない。寧ろよりきめ細かくて柔らかな肌は千雨の指に追従して色々な形に変わっていく。

 十代どころか赤ん坊のように瑞々しい肌は作り物であると分かっていても、夜更かしによる睡眠不足が原因で少し肌が荒れ気味な千雨には羨ましいやら妬ましいやら。

 女としてのあれこれが内心から湧き上がって来たのと、想像以上の柔らかさが心地良くて手の動きが止まらない。

 

「あ、あの千雨さん……」

 

 絡繰茶々丸と呼ばれるヒトガタは、自分の頬に触れて抓って撫でて当初の目的である笑顔云々が頭から消え去っている千雨を困惑した目で見る。

 次第に狂気じみた目をしてきた千雨に諦めて茶々丸は手を下ろした。

 はたして、茶々丸は知らなかった。

 刹那に過った、とても微細な心の動きをなんというのか、まだ茶々丸には分かっていない。

 茶々丸は気付かない。自分の感じた、自分の中に生まれた思考の正体を。誰かに命令されたからではなく、自分自身がある種の指向性を持って思考せざるを得なかった衝動の意味を。始めて彼女は自分という意志を以て、長谷川千雨を見ていた。

 

「ドキドキ、ワクワク」

 

 計らずとも見詰め合うことになった千雨と茶々丸を、興味津々な顔でアスカがしゃがみ込みながら見ていなければ、何時までも観察し続けていたことだろう。

 

「うわぁっ!?」

 

 真っ先に反応したのは千雨であった。

 茶々丸の頬を触っていた両手を引きながら後退り、勢いが良すぎた為に背後の手摺に思いっ切り激突する。

 手摺の高さが千雨の腰辺りだったので、向こう側に落ちるなんてことは無かったが勢いよく当たったので相当痛い。思わずしゃがみ込んで腰を抑える程度には。

 

「すまんすまん。驚かせる気はなかったんだが」

 

 どこで手に入れたのか綿菓子を持ったアスカは申し訳なさそうに頭を下げた。

 痛みに涙目になっていた千雨と、彼女の腰を擦っていた茶々丸は揃ってアスカを見て、自然とその後ろにある山を見た。

 山といっても比喩表現である。実際はうず高く積まれたヌイグルミやらだった。

 

「なんだその山は?」

「あっちこっちでしてきたゲームやイベントの景品」

 

 唖然とヌイグルミの山を見ていた二人は、ふと気が付けば辺りから視線を向けられていることに気が付いた。

 負の想念が混ざっていたり、畏怖の念が込められていたり、多種多様の感情が込められている。主に前者が景品を提供させられた屋店の店主やイベント関係者、後者がその観客達といったところだろう。

 

「すげぇよ、あいつ。あの体格で麻帆良一の怪力と噂のマッスル羅王さんに腕相撲で勝利しやがった」

 

 千雨が声のした方向を見ると、木製の机が真っ二つに裂けているのと噂の当人であるマッスル羅王さんらしき人物が沈んでいる姿が見えた。

 

「なんのこっちもだ。肺活量麻帆良一との誉れ高い金鮫灰汁さんよりも長く水の中で耐えてたぞ」

 

 茶々丸が声のした方向を見ると、水が入っていたのだろう透明バケツの前で、びしょ濡れな金鮫灰汁さんらしき人が地面に横になって、仲間らしき人物に腹を押されて口から水を噴出させて虹を作っているところだった。

 挑戦系の屋店やイベントがあった半径数十メートルで似たような光景が繰り広げられていて、辺りは死屍累々と表現するに相応しい様相を呈している。

 千雨は周りの様子から大体の状況を理解した。理解できてしまった。

 

「お前は祭り荒らしか」

「手加減はした。したはず。した、と思う。したかな? まあ、楽しかったからOKってことで」

「アホか! どう考えてもやり過ぎだろうが!」

 

 美味そうに綿菓子を頬張りながらどんどん自信がなくなっていって、しまいには胸を張るアスカに周りの惨状を示した千雨。

 

「衛生兵! 誰か衛生兵を呼んでくれ!」

「メディ―――ック!!!」

 

 悪乗りしまくった麻帆良生が現状を愉しむのと比べて、イマイチ周りの空気に乗りきれない茶々丸が助けにいくべきかどうか迷っていた。

 

「ちょっとやり過ぎたと反省はしている。でも、楽しかったから後悔はしてない」

「お前、前はもう少し自重してたのに、武道大会で頭打ちまくって、自重をどこかに落としてきてないか?」

 

 辺りを見渡してうんうん頷いているアスカの前で、千雨はがっくりと肩を落とした。千雨の反応を楽しむかのようにアスカはニヤニヤと笑っているだけなのだから怒る気力すら湧いてこない。

 そんな千雨を慰めるべきか、同意すべきかで悩んでいる茶々丸の姿は周りに男達の癒しになったことだろう。

 

「これはこれは。面白い物を見た」

 

 茶々丸にほんわかしたり、千雨に同情したり、空気が混沌としていた場に現れたのは弾丸の女。

 

「見物料は百円だ。払えねぇなら帰ってくんな」

 

 食べ終わった綿菓子の棒を現れた弾丸の女――――龍宮真名に向けて、アスカは無駄に演技臭い不遜な動作を取りながら告げる。

 

「金取んのかよ。しかも安い」

 

 千雨は突っ込まずにはいられなかった。

 しかし、真名は動じない。顧みない。予想の斜め上を行く。

 

「高いな。タダにまけてもらおう」

「駄目だな。だが、この海賊クマさんのヌイグルミを引き取ってくれるなら考えよう」

 

 値切る真名に向けて、アスカは背後に置いてあった景品の山の中で最もスペースを取っている二メートル級のヌイグルミを前に出した。

 右目をアイパッチで覆い、湾曲した刃を持つ剣であるカットラスを握り、もう片方の手が義手でフックになっている海賊クマさんを見た真名の目の色がハッキリと変わった。

 

「違う。全く分かっていない」

 

 真名が顔を俯けながら言うのを見た千雨は、ようやく常識人が帰って来てくれたのだと期待する。

 だが、千雨は真名を知らなさ過ぎた。

 

「子分シリーズをつけて、寮の私の部屋まで届ければ完璧だ」

 

 顔を上げた真名の、グラリと瞳の中の熱が揺れようとも熱意は折れず曲らず貪欲である。

 だぁっ、と蹴躓いた千雨を除いてアスカと真名の熱すぎる視線が混じり合う。

 数秒の拮抗の後、先に折れたのはアスカの方だった。

 

「負けたよ。サービスとしてカチカチ山の狸さんと兎さんシリーズもつけよう」

 

 アスカがこれまた無駄にイイ笑顔で差し出したのは、背中に背負った燃える柴に気づいていない狸と憎悪に狂った物凄い目で火打ち石を打ち付ける兎のやたらと精巧に作り上げられているヌイグルミである。

 

「あまりにも過激すぎてトラウマ製造機と名高いヌイグルミは断らせてもらう。というか、誰がいるものか。断固拒否する」

 

 見ることすら苦痛だと、最早ヌイグルミとしての存在価値を鼻から蹴飛ばしている二体から視線を逸らす真名。

 

「なに? 背中に大火傷してトウガラシ入りの味噌を塗り付けられて苦しんでいる狸と嘲笑う兎、泥船が崩れて溺れかけている狸と艪で止めを刺す兎もあるのに」

 

 更に出してきたヌイグルミ達は、精神攻撃に耐性があるつもりの千雨でも直視すると夢に出て来そうな感じがして、心持ちでもヌイグルミから視線を逸らした。

 逸らした視線の先で、アスカの後ろにある景品の山の中にも直視してはいけない物が散見されることに気づいて顔を真っ青にした。

 

「なんでそんなのが屋台やらイベントで景品として出てんだよ」

「一部のマニアックな人には好評なようで、心の傷を抉ってくれるところが他のヌイグルミにはなくていいとそこそこ売れたと聞いています。作成者が麻帆良生だったようで、売れ残りを景品として出したのではないでしょうか」

「アホばかりか、この街の住人は」

 

 茶々丸の解説を聞きつつ、コソコソと集団の中に隠れようとしている奴らが作成者達だなと当たりをつけた千雨は、改めて麻帆良生の救いようのなさを実感するのであった。

 

「まだまだあるぞ。本当は怖い日本昔話シリーズが盛り沢山。醜い女に纏わり憑かれる浦島太郎等々、今なら出血大サービス! 誰か欲しい人は手を上げて! つか、押し付ける!」

 

 と、アスカが宣言すると遠巻きに眺めていた観衆は、我先にと蜘蛛の子を散らすように逃げ出す。

 

「逃げんなこら!…………どうすんだよ、これ」

 

 誰も呪いのアイテムを押し付けられたくはない。あっという間にいなくなった観客達にガックリと肩を落としたアスカは途方に暮れたように、三割ほどとても一般には出回りそうにないキチガイアイテムを見遣る。

 そんなアスカに真名は近寄ってポンと肩を叩いた。

 

「引きとれるやつは私が貰おう。勿論、タダでだ」

「キチガイなやつは残す気満々だろ」

「当然ではないか」

 

 中学女子三年の平均を遥かに超える胸を張る真名にアスカは敗北感を湛えた表情で歯を噛み締めたが、やがては諦めたのか身体から力を抜いた。

 

「分かった。その提案を受けよう」

「よし、交渉成立だ」

 

 ガッシリと伸ばした手を握り、いい商いをしたとばかりに真名が笑う。

 携帯で宅配業者を呼んでいる真名を尻目に、千雨は選り分けられたキチガイアイテムを注視しないように意識をばらつかせながら見る。

 

「あの存在自体が害悪なヌイグルミはどうするんだ?」

「学園長に送り付ける」

 

 ケケケ、と嫌な笑い方をするアスカに学園長に対して色々と溜まっているものがあるのだなと直ぐに直感した千雨は、それ以上は聞かなかった。聞いたら自分の中の学園長のイメージが崩れると分かったからだ。

 

「いいのでしょうか?」

「しっ。私は何も聞いちゃいないし、見てもない」

 

 茶々丸は気にしているようだが千雨は全力でしらばっくれた。

 別に学園長のイメージが壊れたところで困りはしないが、共犯者にはなりたくないので知らない振りをすることにしたのだ。

 やってきた宅配業者が賞品の山を積み込むのを眺めて去っていくトラックを見送ったアスカが真名を見る。

 

「で、何か用があったんじゃないのか?」

 

 日が陰って来て地面に移る影が伸びていくのを見るともなしに見ていた真名は苦笑を浮かべた。

 

「本当ならルール違反なんだが、どうしても聞きたい事があってね」

「なにを?」

「いや、その前に……」

 

 ルール違反とは何を指しているものなのか、それとも聞きたいことをそのものを指しているのか。アスカはどちらとも取れる問い方をした。

 先の会話もそうだが以前とは少し感じが変わったアスカを真名は探るように見た。

 

「君は本当にアスカ・スプリングフィールドか?」

 

 同じようなことは千雨や茶々丸も感じており、事の真偽を見守るように両者を見る。

 問われたアスカは目を丸くして、次いで悪戯っぽく笑った。

 

「俺がアスカ・スプリングフィールド以外の誰に見えるんだ?」

 

 問いに問いで返すアスカを真名の魔眼を以てしても偽りは見破れない。ならば、本物であると断定できるのだろうが、どこか精神的に固いところがあったのに今は全力で生を楽しんでいる者特有の溌剌さがあった。生き急いでいたアスカには到底なかったはずのものだ。

 

「他の誰にも見えない。だが」

 

 前とギャップがあるのだとは、真名も口には出さなかった。

 

「なんでもない。私の勘違いだ」

 

 真名は武道会でアスカに何があったかを伝手で知っているので変化があっても無理はないと思っていた。この変化が急すぎて違和感が強いのだと頭を切り替えた。

 

「肝心の聞きたいことってなんなんだ?」

 

 脇道に逸れた主題を珍しくアスカが元に戻す。

 首を傾げるアスカに真名は真剣な表情になって口を開いた。もうその頭には微かにあった違和感はなくなっていた。

 

「この世界に魔法は必要かどうか、その是非を聞きたい」

 

 まるで自分にこそ問いかけるかのように真名はひっそりと呟いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 夕方になっても麻帆良祭は大いに賑わっていた。

 学生などどこも数が集まれば騒がしいに決まっているが、今回は特別である。一年に一度の行事であり、学園都市を上げての祭りともなれば騒がぬはずがない。バイタリティの豊富さでは定評のあり過ぎる麻帆良住民達は文字通りのお祭り騒ぎを繰り広げていた。

 そういう雰囲気も寄与してか、出店やフリーマーケットも大変に繁盛していた。

 生命に溢れて鮮やかなのに、何かが終わるような切迫感をどこかに抱えている陽光に照らされ、大通りに面してテーブルと椅子を店外にも設置したオープンカフェに高畑と明日菜の姿はあった。

 テーブルの上には高畑が頼んだアイスコーヒーが置かれていた。明日菜の前には良い香りを漂わせるダージリンと華麗なフルーツパフェ。しっとりとした美味しそうな生地の上にには、フワフワのクリームやホワイトチョコレートが可愛く盛られており、トロトロな苺のコンポートが注がれ、その上から凍らせたバナナや細工切りされた林檎など、一手間かけたフルールが重ねられていた。舌に乗せた時の味わいは元より、まずは目でも楽しんでもらおうという趣向は、バティシエのセンスが十分に発揮されている。

 

「高畑先生?」

 

 意味もなくパフェに対する考察を重ねていた高畑は声をかけられて、ようやく我に返る。

 喫茶店に入って腰を落ち着けるまで、夢を見ているような気持ちのまま映画を見ていたはずなのに、自分のいる場所も状況も何一つ把握できていなかった。

 

「今日の高畑先生、考え事多いですよ。さっき私が言ったこと覚えてます?」

 

 体面に座る明日菜は一瞬、怒ったように眉根を寄せたが香りを楽しむようにダージリンを呑んだ。

 怒ったような言葉や表情とは裏腹に、唇の端にはクリームの欠片がくっついていて女の子の満足度を示してもいた。

 

「……………」

 

 明日菜が言ったことどころか、一緒に見た映画の内容すらあまり覚えていない。

 学生制作の映画ではあるが、能力に定評のある麻帆良生が作ったからか凡百の物と比べると断然面白いと毎年評価される。

 しっかりと座席に座ってスクリーンを見ていたはずなのに、今日の明日菜の変わりように意識を取られて全然記憶に残っていない。意識が向いていなくてもスクリーンは見ていたので、ぼんやりとでも覚えていていいはずなのに手元にあった映画のパンフレットを見ても、情景も音声もさっぱり記憶に残っていない。

 

「もしかして、私何か気に障ることしましたか?」

「いや、そういうわけじゃないんだ。ただ、なんて言ったらいいのかな」

 

 申し訳なさそうな顔をする明日菜に、目の前の映像や相手を放っておいて上の空になっていた高畑は慌てて否定した。

 少なからず困っている少女の表情も、彼にとっては全く大袈裟ではなく宝物だった。幾ら見ても飽きないだろうと思った。

 考えが纏まらず、間を取ろうと手をつけていなかったアイスコーヒーを啜る。

 

「このお店、美味しいって評判なんですよ。朝倉から聞いたお勧めなんですから味わってください」

 

 にっこりと銀色のスプーンを持ち上げて、女の子が主張する。

 

「ああ、朝倉君の情報か……」

 

 高畑は語尾を曖昧に濁した。

 女の子ということもあって、こと甘い物に目がない。その中でも情報通の朝倉和美のお勧めとあらば、まず外れはない。にも関わらず、高畑の口に入ったアイスコーヒーの味は全くない。余裕がなさすぎるのだ。

 何を飲んでも、何を話しても、一向に身の入らない高畑は視線を明日菜から大通りに移した。

 激しい陽光は、とりわけ濃い影を作る。人通りが多い所為でそららの影が一塊になって、一つの生き物に化けたように見えた。地面に貼りついている生き物は、きっと人間の足下で、人間には聞こえない呼吸をしているに違いない。

 そんな妄想をかき立たせる、熱に浮かされたような光と影の踊り。

 

(何を考えているんだ、僕は。もっと集中しろ)

 

 思考の脇道から抜け出そうとすると、望んだ方向とは逆に進んでいるような気すらして完全に思考の迷路に陥っている。

 らしくない態度、らしくない反応、目の前で高畑を見据える明日菜が気づかぬはずがない。

 

「外に行きましょうか」

 

 有無を言う暇はなく、また言わせる様子もなかった。

 立ち上がった明日菜が伝票を掴むより早く条件反射的に高畑の手は動いた。

 

「誘ったのはこっちだからね、僕が払うよ」

 

 年上の見栄を見せ、高畑が手早く会計を済ませて喫茶店を出る。

 映画は二時間を超える大作だったのと、喫茶店で過ごしたのも合わせてそれなりの時間が経過していた。既に太陽は西に傾いていた。

 道も壁も、一様に赤い夢を見ている。ともすると、世界中が燃えているような、そんな錯覚に囚われる。

 

「ほんと、いい天気」

「明日も晴れそうだ、きっと。暑くなるよ」

 

 夏の強い斜陽が明日菜の横顔を柔らかく照らし出す。まるで影絵の如く、高畑の視界の中で明日菜の存在だけを浮き立たせている。

 明日菜の穏やかな輪郭が、夕焼けの溶けた赤にぼけてゆくようだ。一日の間に随分と伸びてしまった顎のところの髭をザリザリと撫でながら、高畑は目を細めて明日菜を見つめた。紅と黒に支配された空間は、そこだけが世界から切り離されたようでもあった。

 夕陽の赤さが目に染みる。

 

「でも、あんまり暑いのは嫌だなぁ」

「夏だからね。暑いのは仕方ないよ」

「女の子は日焼けも気にしなくちゃいけないんです」

「男には分からない悩みだね」

 

 太陽が少しずつ沈む街中を、これといって中身のないことを喋りながら歩く。速くもない。遅くもない、のんびりとしたペースである。

 日の入りが遅い夕焼けの豪奢な赤に染められ、遠い祭りに騒ぐ人達の声もなにもかもが満ち足りているようだ。

 夕陽の茜色に照らされて染め上げられている街は、オレンジ色の夕陽とそれによって生み出された黒い影によって鮮烈なまでに塗り分けられている。どこか現実味がなくて、どこか外国の写真を見ているようだった。その向こうには、建物の向こうに沈み行く太陽。この街を、この世界の全てを照らしながら、少しずつその光を失っていく。

 もう何百回となく見てきたはずなのに、高畑はまた同じ風景に見惚れてしまっていた。

 高畑の好きな時間だった。ベッタリとした赤い光は、何もかもを覆い隠してくれる気がする。そうすると、世界の虚偽が少しだけ薄れるように思えて、高畑の気持ちは軽くなるのだった。

 

「煙草、吸わないんですか?」

 

 隣を歩く明日菜が唐突に、しかし様子のおかしい高畑の本質を問うものだった。

 

「折角のデートだからね。後一本しかないから大事に取ってるんだよ」

「高畑先生は吸い過ぎなんです。体を悪くしますよ」

「分かってるんだけど、止められないんだ。こればかりはね……」

 

 日が暮れていく。一日の終わりを告げて、或いは夜の訪れを告げて、地平線に大きな夕陽が落ちていく。一際大きく見事な夕陽だった。

 

「変ですよね。昔は私が吸って欲しいって言ったのに」

「八年も前のことなのに良く覚えてる」

「忘れませんよ。私にとっては大切な記憶ですから」

 

 風に靡く明日菜の髪が高畑の視界を遮る。赤い陽光に支配されて遠い日の残照を見るように過去を回想する。

 戦いの日々から一転した穏やかな日常、明日菜を守るべく力を求めた非日常。

 懐かしく、今は遠い幸福な日々。

 風の吹く方に眼を向ければ、ごく小さな住宅街に囲まれた公園がある。ブランコもシーソーもペンキが剥げて久しいが、案外錆は浮いていない。誰かが大切に使っていて、時折であっても手入れをされてきたらしい。それだけ住民に愛されてきた場所なのだろう。

 夕方の斜陽が、それらの年月を浮き彫りにするようでもあった。

 どこにでもある穏やかな日常。こんな日常を多くの人達が抱え続けている。そんな幸福な日々が一日でも長く続いてくれたらと、永遠に逃げ切れるはずもないのに考えずにはいられない。

 この時が幸せすぎて、幻のように儚く感じる。そして罪悪感に駆られて仕方ない。まだ振り切れていない今の彼が、この幸せな幻を見続けていいのかと。

 どうしようもなく煙草が吸いたくなった。

 

「最後の一本、吸ってもいいかな」

「どうぞ」

「ありがとう」

 

 礼を言って、夏物スーツの胸ポケットから煙草の箱から最後の煙草を取り出す。

 肺までは吸い込まず、口の中で香りを楽しみ、残った煙を空へと吐き出す。絡まった紫煙はクルクルと形を変えながら、紅い空の向こうへ吸い込まれていく。

 幾本もの電柱と電線が暗く、柵のように風景を切り分けている。賑やかさを少し離れただけで、建物や地形が作る無数の影が風景に滲み出すようだった。

 

「やっぱり高畑先生が煙草を吸ってると落ち着きます」

「そうかい……」

 

 そしてそれっきり会話が途切れて静寂が降りて来る。

 夕暮れの少し澱んだ空気の蒸し暑さが凝り固まって、高畑の額で小さな汗の粒に変わって音もなく流れ落ちていく。

 公園の前を通り過ぎると緩やかな坂を下っていく。真夏の熱気に柔らかくなったアスファルトに落ちる二人の影が、ユルリと溶けて一塊になっていた。

 祭り帰りらしいすれ違う家族連れを横目に見遣って、高畑は再び空を見つめていた。雲一つない、夕陽に染められた真っ赤な空に一匹の鴉が鳴きながら横切っていく。

 何年経っても、辛い時も悲しい時も、不思議な郷愁を誘うこの色は変わらない。日々、日没は早くなり、夕闇はただ深くなる。

 

「綺麗になったね、明日菜君」

「え?」

「さっき会った時は見違えたよ。もう、子ども扱いは出来ないな」

「突然なんですか。変な高畑先生」

 

 ゆっくりと沈みかけた夕陽が、笑う明日菜の横顔を鮮やかに染め上げている。顔も体も、全てが夕陽の色に染まっていくように見えた。

 ずっとそうしていれば夕焼けに消えてしまいそうでもあり。足を踏み出したなら夕焼けの向こう側までも歩いて行ってしまいそうに思えた。この幸せもすらも今にも壊れそうな砂上の楼閣のように感じて、煙草を持っていない方のポケットの中に入れている拳に力が籠る。

 無論、錯覚だ。あまりにも鮮やかな夕映えが想起させる、少し変わった物思いに過ぎない。

 

「明日菜君を引き取って八年。あの小さな子供だった君が大人の女性になっていくことに月日の流れを感じてね。この夕陽の所為で少しセンチメンタルな気分なんだ」

 

 幾多の虚言によって成り立ったその光景は、だけどひどく眩しい。

 

「最初の頃とは比べ物にならないぐらい良く笑うようになった。これは雪広君のお蔭かな」

「それと身寄りのない私を引き受けてくれた高畑先生のお蔭だと思います」

 

 交差路の前で立ち止まった少女の唇から、自然と言葉が零れていた。

 立ち止まった明日菜に引かれるように足を止めた高畑は静かに続きの言葉を待つ。

 

「ありがとうございます。こんな私と一緒にいてくれて。昔のことはあまり憶えていないけど、高畑先生のお蔭で毎日が楽しかったです」

 

 夜でも昼でもない、いい加減で曖昧な時間。曖昧な時間の中で目を閉じる。歌うように、懐かしむように言葉が紡がれていく。

 恋するように、抱きしめるように、今までの時間を慈しむように、遠く細く長くその声音は流れていった。

 明日菜は真っ直ぐに高畑に向き合っている。或いは視線の先にいるのは、ただ赤く遠い夕焼けと、高みに広がりつつある闇夜かもしれなかった。

 

「明日菜君、今の君は幸せかい?」

「はいっ!」

 

 問いに明日菜は、飛びっきりの笑顔で答えてくれた。

 高畑は明日菜の成長を実感していた。同時にもう大丈夫だとも思った。

 これまで二人が積み重ねてきた時間が、全部ここに繋がっているように思えた。師が望んだ夢は、真実を知っても壊れないと思えた。

 高畑がいなくても、今の明日菜は生きていけると確信していた。周りから愛されて、健やかに生きていける。誰よりも明るく、しなやかに力強く、師であるガトウが願ったように。

 一方的な庇護と依存から二人は解放されたのだ。依存し合う関係から抜け出し、別々の道を歩むことが出来るようになったことは嬉しくもあり、寂しくもあった。しかし、心から拍手をしたい気分だった。

 

「なら、良かった。それが聞きたかったんだ」

 

 高畑は大人だから、子供の前では痩せ我慢でも平気な姿をして余裕を見せねばならなかった。

 

「デートはここまでだね。ほら、彼らが待ってる」

 

 高畑の視線の先、別れている片方の道の先にアスカらがいる。木乃香も、刹那も、ネギも、のどかも、何故か千雨と茶々丸も。

 自分は彼らとは共に行けない。だから、せめて笑顔で送り出そうとした。太陽が地平線の向こうへと消えて暗くなっていることを有難いと思った。こんな泣きそうな顔を見られずに済む。

 数歩、頭を下げてアスカ達の下へと歩き出した明日菜が、くるりと振り返った。

 

「タカミチ、ありがとう。行ってきます」

 

 ひどく素直に明日菜は笑ったのだ。

 始めて会った時、少女は感情を感じさせない小さな女の子だった。それが、今ではしなやかで力強い、色づき綻んだ一人の女性へと成長していた。

 

「あ……」

 

 だから、高畑は絶句した。その笑顔のあまりの純粋さが、在りし日を思い起こさせる呼び名と合わさって胸の打ったのだ。

 

「アス……」

「また明日」

 

 名前を呼ぶことへの一瞬の逡巡。その間に、明日菜は妖精のように身を翻す。纏めていない髪が軽やかに揺れる。そして、夕暮れの街に吸い込まれるように走り去っていった。

 これから先の道のりには、もう誰の先導もない。誰の握り、誰の手を引いて歩くのか。誰も決めてくれない。明日菜が自分で決めて、自分で選んで行く道に高畑は関われない。

 みんなと合流した明日菜がアスカに何かを渡して慌ただしくなりながら去って行く。その姿を高畑は一人で見送る。

 

「やれやれ」

 

 少し間を置いて、深い溜息と共に呟いた。自分の半分の年にもならぬ少女に諭された気分だった。

 そうしたことが今後もっと増えるのだろうと、頭の隅で考えていた。年老いた者が若い相手に追い越されるのは世界の道理だ。

 

「フラれちゃいましたね、タカミチ君」

「…………アル。何の用ですか?」

 

 何時の間にか、隣にフードを被ったアルビレオ・イマが立っていた。

 神出鬼没のこの男がこのタイミングで現れても高畑は大して気にしなかった。そのような心境でもない。

 

「お払い箱にされた騎士を笑いに来た、と言ったらどうしますか?」

「どうもしませんよ。この結末は最初から分かっていたことです」

 

 気が付けば、吸っていたはずの煙草が根元まで灰になっている。携帯灰皿を取り出して煙草の始末をすると、途端に口元が寂しくなった。

 

「…………最善を尽くしたつもりです。危険から遠ざけ、要因を根元から排除して来ました」

 

 やがて、高畑は仏頂面で口を開いた。誰かに聞いてほしかったのかもしれない。その相手は明日菜の過去を知る限られた者しかおらず、アルビレオは絶好の相手だったのである。

 

「例え明日菜君が世界中を敵に回しても、僕だけは味方でいるつもりだったんです」

 

 多くの人の手助けを借りたとしても、高畑は明日菜を十年近く育て続けた。この男が口にする以上、それは掛け値なしの真実であった。本当に世界を敵に回したとしても、高畑だけは明日菜を守り抜くだろう。そんなことはずっと昔から知っている。

 

「だと思います。というか、君が最善を尽くさないとは思いませんよ。だから、もういい加減に肩の力を少し抜いても罰は当たりません」

 

 まるで、子の全てを見通す親のような言い方。十年以上も共にいて、年長であったアルビレオが高畑を宥めるのは当然と言えた。

 

「心配なのも分かりますが、そろそろ君も子離れをするべきです。彼女は君が思っているよりもずっと成長しています」

「それはそれで寂しいんですが」

 

 アルビレオの忠告に少し間を置いて高畑は呟いた。

 

「変わるのが悪いことではありません。変わるのを避けられるわけでもありません」

 

 特に神楽坂明日菜は――――はアスナ・ウェスペリーナ・テオタナシア・エンテオフュシアとしての記憶を消された時点で変わってしまっている。アスナはもういない。高畑が守り続けてきたのは神楽坂明日菜なのである。

 

「ガトウが命を賭して守り、そう在れと願った存在が彼女です。彼女は自らが幸せだと言った。君は誇っていい。師の遺言を叶えたのだから」

 

 幸せになれ、とガトウは最期にアスナに言った。遺言と言っていいだろう。

 高畑は師の遺言を護り、アスナとしての記憶を、特にガトウの記憶を念入りに消した。失意に暮れた彼女の意志を確認することなく。この選択が正しかったのか間違っていたのか、今となっても高畑には判断がつかない。

 辛い記憶を封印して、アスナは明日菜となってただの子供として育った。ガトウの遺志の通り、高畑が願った通りに。どこにでもいる当たり前の人間として幸せに生きてきたと思いたい。なればこそ、一個の人間だからこそ、誰だって変わるのは当然なのだ。

 

「守られるだけの少女が手の中から飛び出して、神楽坂明日菜として自らの生き方を模索しているのです。君もまた彼女に依存する生き方を変えなさい。そうしなければガトウにだって胸を張れないでしょ」

 

 生きることは、変わるということ。それは人との関係だって同じ。昔と同じような関係を、ずっと続けていくのは不可能なのだから。それでも誰かと関わっていたいなら、少しずつ変わっていく関係を受け入れなければならない。

 

「何より明日菜ちゃんに父親が用済みになっても、それは喜ぶことです。女の子は父から離れて男を知り大人になる………………何時の時代もね」

 

 そう嘯いて、自分も随分年をとったと、二十年前の子共だった頃の印象の強い高畑にこのような話をしている自分にアルビレオは苦笑を深めながら思った。

 

「女の子は強かなのですよ。きっと、自分の幸せを掴み取れる。少女の恋心は大人達の思惑なんか簡単に吹き飛ばすだけの力を持っているのですから」

 

 女の子は男の子が思っているような守られるだけの存在でも、騎士を待ち続けるだけのお姫様でも、お嫁さんになって子供を抱くだけの存在なんかでもない。お姫様だって時には戦うのだ。守ろうとする騎士の剣を分捕って、何をしているんだと叱咤しながら敵に向かっていく。偶にはそんなお姫様がいてもいいだろう。

 

「お姫様を守る君のお役目は御免ということです。別の相応しい子が担ってくれますよ。君は君自身の幸せを見つけてもいいのです」

 

 余人には窺い知れない感慨を秘めて、黒い瞳が揺れていた。

 

「ねぇ、タカミチ君」

 

 と、アルビレオは呟いた。

 

「新しい子達が、次の世代が自らの道を歩み出すのは良いことだと思いませんか」

 

 歌うような声で、祈るような声で、夢見るように続ける。遠い日に見た流星を思い出すように、その眼は細められていた。

 高畑には声に込められた感情は分からない。ただ、複雑な感情だけが色濃く、混ぜられすぎた油絵の具のように渦巻いているのは分かった。

 ふと、視線を明日菜が進んだ道ではなく高畑がいる道の先を見ると、そこに一人の女性が立っていた。

 

「高畑先生」

「しずな先生…………どうしてここに?」

「明石教授に言われたんです。ここに来るようにと」

 

 少し息を荒げた様子から急いで来た様子が分かり、その言葉の意味を考えるとデート前に電話していた明石教授が含んでいた応援の意味を理解する。

 

「お一人なら私と一緒に祭りを回りませんか」

「え?」

 

 驚く暇もあればこそ、先程までそこにいたはずのアルビレオの姿が忽然と消えている。

 

「…………僕で良ければ」

 

 伸ばされた手を取る。その温もりはとても高畑の心に染み入ってきた。

 距離を縮めて明日菜が進んだ道とは違う方へと歩み出した二人を空中から見下ろしたアルビレオは笑みを深くする。

 

「ねぇ、ナギ。あなたなら一体どう思ったでしょうね」

 

 ゆっくりと。ここにはいないナギ・スプリングフィールドを思って、アルビレオ・イマは呟き続ける。

 

「貴方達の子供は、貴方達とよく似ていて、だけど違う道を歩いて行きますよ」

 

 その問いは、今までと違ってひどく切ない響きを湛え、夏の闇に染み入ったのであった。夏の生暖かい風に吹かれて、けれど、これはこれでいい気がした。

 

「子が私達を追い越して行ってくれるのは嬉しい事です。あなたならなんと言ったでしょうね、ナギ」

 

 本当に、本当に嬉しそうな声で呟いたのだった。

 


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