魔法先生ツインズ+1   作:スターゲイザー

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第56話 此処にいる

 時間が一番優しくて残酷だ、と言っていたのは誰だろうか。生前に言われたことを覚えていたのか、幽霊になってから誰かが言っているのを聞いたのか、本当のところは分からない。その言葉の意味だけは良く理解した。

 夢や愛と恨み辛みも、希望も絶望も何もかも、時間は全てを押し流す。

 誰とも話せず、誰にも見えず、誰にも認識されないまま、これからも永遠にこの地に留まるのかと考えると途方に暮れる。幽霊だから死ぬことはないし、狂うことが出来ないから欠落だけが大きくなっていく。

 六十年の時間の果てにさよに残ったのは、『友達が欲しい』という願望だけとなった。

 自分を認識してほしい、自分を見てほしい、自分と話してほしい、と願望が膨れ上がり、生前の気性か『友達が欲しい』と心の欠落を埋める願望が生まれたのだ。いや、正確には『友達が出来れば良い』と受動的な願いである。

 願いは抱けども、さよは諦めていた。存在感の薄い幽霊だから誰にも気づかれなくても仕方ないと。

 変わったクラスになっても諦めは変わらなかった。驚きはあったが。

 六十年見てきた中でも最も個性豊かな面々が揃い、複数の留学生を迎えたクラスメイト達が起こす騒動は見ているだけでも楽しかった。十歳ぐらいの子供先生二人と、十歳とはいえ女子校なのに男子生徒を迎え入れてからは毎日がお祭りのようで、決して自分はその輪に入れないと知っていても見ているだけで良かった。

 それでも自分には気づいてくれないのだろうなと三年時の修学旅行の班決めをしている中でも思っていた時だった。

 

「相坂がまだ決まってないじゃないか。お~い、相坂」

 

 彼――――アスカ・スプリングフィールドは、きっと幽霊になってから始めて名前を呼ばれたさよの喜びを知らない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 アスカ・スプリングフィールドが首を巡らせてみても、目に映るのは赤、赤、赤。そもそも自分の目が見えているのかどうかすら分からない。

 自分にはちゃんと足があるのか、聞こえている呼吸音は自分のものなのだろうか、自分は何をしているのだろうか、自分は誰なのだろうか。思考が、感覚があやふやになっていく。

 

「ぐっ…………っ、がぁ…………」

 

 そこは寒くて暑い不思議な空間だった。背筋が凍るようで震えが止まらないのに、皮膚に異常な湿気が纏わり付いて吐く息が生温い。

 アスカは血のように真っ赤な『赤』だけが支配する世界にいた。『赤』が血だと判断したのは匂いだ。このまま血を連想させる『赤』の牢獄に居続けたら自分が発狂してしまうのではないかという恐怖にとり憑かれそうだった。

 『赤』以外の色はアスカ自身と両手足を拘束する鉄色の拘束具だけ。アスカは牢獄のような場所で手首・足首に頑丈な鉄の輪が嵌められていた。

 鉄の輪は鎖で結ばれていて、手首から上に吊るされた格好になっている。足首は固定されていないが、代わりに足首に嵌められた輪と鎖が異様な重さだった。それに身体を引っ張られる形になって、アスカは殆ど身動きが取れない状態だった。

 鉄の輪は恐ろしく硬く、恐ろしく大きく、なにがあろうと砕けることもなければ外れることもない絶対的な拘束であるように感じられた。

 

「フン! ククク………」

 

 せめて拘束している鎖を外そうと考えたアスカの腕が、ぼんやりと白色の魔力光に包まれる。途端に鎖の先から雷光が迸って鉄の輪に伝わって全身に稲妻が奔った。

 

「グァアアアアアッ!」

 

 悲鳴に近い呻き声を上げて、アスカは身体を激しく痙攣させた。腕の魔力は、途端に拡散して消えてしまう。

 プスプスと焼け焦げた匂いと蒸気を発するアスカの身体は完全に力を失って、がっくりと垂れ下がった。

 

「無駄だと分かっているのに諦めの悪い。何度目ですか」

 

 何度繰り返したか分からない愚行に呆れたように聞き覚えのある男の声が聞こえた。アスカの直ぐ目の前から。

 声の主は、アスカの傍らにいた。閉じていた目を開ければ、それはアスカに似た背格好の人間だった。だが、誰かは分からない。相手は、まるで影がそのまま固まったかのように真っ黒に塗りつぶされていたからだ。

 

「殺されたのも合わせれば十回以上じゃないか」

 

 名無しに返しながら、ペッと床に血を吐き出す。電撃で内臓がやられたらしい。

 

「ここは俺の中――――現実には存在しない、謂わば幻想空間みたいなもんだ。肉体の死に意味はない。精神が死なない限り、ここでは生きていられる」

「だとしても死は実感として残る。十回も繰り返せば、普通ならばとっくに発狂死してもおかしくないものを」

「生憎と諦めの悪さだけが取り柄なもんでな。待っていても無駄だぞ。俺は、絶対に諦めない」

 

 解けないと分かっていても、アスカは手首の戒めを解くための虚しい努力を続けていた。頭上にある手首に向かって必死で魔力を集中しようと、何度目かの試みを開始した。また雷撃に全身を焼き尽くされると分かっていても。

 

「グギギギギギギギギッ――――!?」

 

 目玉が裏返りそうなほどの電撃に身を焦がしながらも、諦めも悪く愚行を繰り返し続ける。

 走る稲光を眩しそうに目を細めながら眺めていた名無しは、アスカが傷つき疲れ果てて鎖に吊るされるがままになるのを待ってから口を開く。

 

「そう、アスカ・スプリングフィールドは諦めない。諦めた時、足を止めた時が終わるのだと知っていたから」

 

 名無しはそう言って笑う。善悪を知らない子供が、与えられた玩具を壊すように楽しげに笑っていた。

 

「父親の跡を追う道は果てしなく、一度でも足を止めてしまえば村の人達を犠牲にした罪悪感から前に進むことが出来なくなる。前に進むことで、君はずっと罪悪感から逃げ続けてきた」

 

 遠慮のない、脳の内側まで覗いてくるような瞳。紅い朱い赤い眼は、血のように感じて気持ち悪い。

 アスカはこの人物を知っている気がした。そう、魂の底までよく理解しているから、こうまでアスカが見ようとしていなかった真実を言える。

 

「これは当然の結果だ。こんな無様な結末こそが君には相応しい」

 

 こちらの抱く違和感を知ってか知らずか、名無しはいかにも苛立たしげな表情と声で言葉を続けた。

 名無しの言う通りだった。罪悪感から眼を背け、向かい合おうとしなかった。あまつさえ、挑発に乗ってこんな様を晒している。無様としか言いようがない。

 突然、足元にぽっかりと開いた暗くて深い穴に、アスカは真っ逆さまに堕ちていった。それほどの眩暈を覚えた。これまで流してきた血も、堪えた涙も、呑み込んだ怒りも、無念も、なにもかもが無に帰する。

 やはりとも、まさかとも、よもやとも、思って感じて願った。

 幾度と泣く味わってきた類似した不安、或いは不審。もしかしたらなんて推測をずっと見ない振りをしていた。だが、ありえてはならない悪夢は目の前にいた。

 名無しは彼が忘れて、見なかった振りをしたもののの亡霊だった。彼が追うべき罪科の象徴であり、彼の行ってきた行為の結果であり、詰まるところは宿命の尖兵だった。

 動かぬと見えた勝利のはずなのに、名無しの眉が寄せられた。

 

「…………どうして笑っている?」

「?」

 

 不審と共に放たれた言葉にアスカは最初意味が分からずに首を傾げたが、名無しが言うのならば嘘はないのだろうと笑みを深めた。

 

「ああ…………笑っているのか、俺は」

 

 自分でも意識しなかった表情の変化を理解し、自らの内側を捲り返したようだった。

 やっと本来の自分に戻れた気がした。ずっと騙していた。ずっと偽ってきた。本当の自分をようやく見つけた気がした。

 

「はは……」

 

 くぐもった声が喉から漏れる。

 何で自分がこんな目に合わなければいけないのか、という思いはある。だけど、これらは何時かは向き合わなければならないアスカ自身の宿業なのだ。

 

「…………分かってる」

 

 アスカは泣きたくなった。訳もなく理由もなく、小さな子供のように泣き叫ぶことが出来れば、どれだけ楽になれるか。でも、それだけはしてはいけないと知っていた。歯を食い縛って、何時ものように前を向く。

 

「分かってる…………俺が間違っているのは分かってる」

「間違えていると理解しているのならば諦めてしまえばいい。周り全てに、自分にさえ嘘をついて…………自分を演じ続けてきた。もう、いいでしょう? いい加減に全てを捨てて楽になっても」

 

 目の前に名無しは、皮肉に歪んだ苦笑でこちらに斜に見やった。それはきっとその通りであり、事実であるのだろう。少なくとも今、突きつけられた事実に苦しんでいることが証明している。

 

「出来ない。俺は前に進み続けなければならないんだ」

 

 それはもう決意したことだ。信念としたことだ。それを曲げることは間違っているし、曲げる意味もないことだ。だから拒否した。すると、向かい合う名無しは心底呆れ果てた様子で溜息を吐く。

 

「君は何も理解していない。父を目指し、前に進んだところで君に残るものは何もない。英雄が残した負債に苦しめられるだけだ。ナギ・スプリングフィールドは間違えた。あの時、あの場所で、どうしようもなくなったタイミングで現れるべきではなかった。住んでいた場所も家族も多くを失って、それらを引き起こしたのが自分達だと気づいた君達が縋れるのは、あの時に現れた絶大な魔法使いである父しかいなかったのだから」

 

 それは決して憧れなどではない、と名無しは断言する。

 

「別の者があの地獄から救い出してくれたならば、きっと君達はその人に憧れを抱いただろう。だが、決して全てを賭けてまで追おうとしなかった。それが何故か分かるか?」

「父親、だったから……」

 

 改めてアスカは考えた。もしも、自分を助けたのがナギではなく他の誰かであったならと。

 

「あの日、君にはネギと違ってナギと出会った記憶が殆どない。覚えているのは、おぼろげな背中と誰かが頭に触れたことだけだ。後からナギが村を助けに来たことを聞かされ、ネギの記憶を見ても自分は本当にナギに救われたのか実感が持てなかった」

 

 次の言葉が放たれた後も、前の言葉はまだ宙を彷徨っていて、少しずつ闇に溶けながら余韻を重ねているようだった。

 

「父親に憧れ、求める子供の願いを阻む者はいない。ああ、誰にも理解できなかっただろう。まさか、息子が父と同じになることで罪悪感から目を逸らし、恐怖から逃げるなど思いもしないから。君はナギ・スプリングフィールドを父親だからという理由で都合の良い逃げ場所にしたんだ」

 

 纏わりつく響きを振り払おうとしたが、どうすれば逃れられるのか分からなかった。頭の芯が痺れていく。まるで心の中に麻酔を打たれ、感覚の無い痺れた部位がどんどん広がって身体全体を侵食していくようだった。

 

「誰かを助けたいという願いも何もかも、立派な魔法使いである父ならばそうあるだろうとする姿を真似したいるに過ぎない。君の全ては父親と同じになることで、あの日の自分を救おうとしている。抗弁するならしてみろ。人を救う立派な魔法使いには必要ない強さを求める理由を答えてみせろ!」

 

 名無しの糾弾に、アスカの胸に氷点下の理解が滑り込んだ。彼は楽になりたいのだ。この身を苛む罪悪感と苦しみから解放されたいのだと。

 

「罪悪感と恐怖から逃げても全ては過去にある。過去から目を逸らしている限り、君に救いはない。全てを僕に明け渡し、君は楽になればいい」

「ああ。諦めたら、捨ててしまえたら楽なんだろうって…………ずっと思ってたさ」

 

 アスカは腕の力を抜き、身体を伸ばして、だらりとぶら下がりながら、悔しげに細めた眼を伏せた。目の前の名無しが言っていることは事実だと誰よりも良く知っている。戦いの果てに偽物の想いを糧にして進むアスカ自身に得るものはきっとない。戦いで得られたものなど何もないと、今までの経験から分かっているから。

 

「親父に憧れて求めた。いや、親父に成れれば全部上手くいくのだと、ずっと思ってた」

 

 言いながらアスカの脳裏に浮かんだのは、父も無く、母も無く、周囲全てが敵だと思って過ごした最初の頃の魔法学校での記憶だった。

 兄や幼馴染、スタンや最も親しい従姉にすら心を開けず、授業で学んだ魔法は暴発しっぱなしのアスカに魔法使いとしての才能はないようだったからフラストレーションが溜まっていた。手近にいた年上だからって偉そうにしている上級生相手に腕っぷしを鍛えようとして喧嘩を売り続けた。そうすることが強くなる道だと思い込むことで意地を張り続けた。

 

「…………でも」

 

 アスカは手首に渾身の力を込めて鎖を破ろうとする。この牢獄において、それは絶対に許されないこと。雷光を発してアスカの身体を打ち据えた。

 

「ぐあっ!」

 

 暗黒に染まっている牢獄に、アスカの悲鳴が木霊する。苦痛に耐えながら、腕に込めた力を抜こうとしないアスカを、続く言葉を待っている名無しが見ている。

 

「助けてくれてありがとう、ってナナリーが言ってくれたんだ。人を傷つける拳しか持っていなかった俺に」

 

 思い出す、思い出す。名無しの糾弾で暴かれた心の奥から、記憶が連鎖するように湧き出してきた。

 

『君にはまだ難しいかもしれないけど、よく考えるんだ。誰かを助けるなら守るなら、考えることは無駄にはならない』

『覚えとれよ。次は負けへん』

『私は不死者だ。お前達が死ぬまで待ち続けよう』

『傍にいて』

『俺達の子供に生まれてくれてありがとう』

 

 刹那に想起する記憶は断片的だ。それでも十二分にアスカの力となった。

 

「色んな人と出会って、友達が出来て、親友(ダチ)と戦って、仲間になって」

 

 全力で力むあまり、アスカの目の前がすうっと暗くなる。刹那、その脳裏に、今まで出会ってきた人たちの姿が去来する。

 ここに至るまで随分と時間をかけた。寄り道もした。どれほど進もうとも、行程は僅かとも縮まらない。休まず、諦めず、迷わず、眦を強く引き絞って長い道を進み続けてきた。果てはあるが求める父の背中はずっとずっと遠く、間にいる高畑の背中にも近づいた気はしない。

 あまりにも遠すぎたから、足を止めることなど考えもしなかった。腰を休めたら、足を止めたら、あまりの道程の過酷さに挫けてしまうから。

 アスカはもう一人ではない。ある時は励ましてくれ、ある時は敵として雌雄を決し、ある時はアスカの苦しみが決してアスカだけのものではないことを教えてくれた。

 何もなかった自分を変えてくれたナナリー、指針を示してくれた高畑、共に道を歩いてくれるネギ、背中を押してくれるアーニャ、帰る場所で待ってくれているネカネ、仕方なさげに送り出してくれたスタン…………他にもウェールズにいた時でさえ数えきれない人達がいてくれた。

 明日菜達と出会って、小太郎と競い合って、千草を困らせて、エヴァンジェリンと戦って、麻帆良に来てから楽しくて仕方がなかった。

 そうした出会いがあったからこそ、アスカの裡にあった欠落は埋められていった。満たされてゆく。満たされてゆく。まるで、一枚の写真のように、勢ぞろいした皆が目蓋に映る。その幸せな風景が段々白い光に包まれて、ついには真っ白になった。

 

「…………このままじゃ、逃げたままでは駄目なんだ! このままじゃ、もっと駄目になってしまう! だからっ!」

 

 痛かった。脳髄よりも深く、もっと強く心の奥底に深く突き刺さるかのよう熱情。電撃によって切れた額から流れた血に濡れた顔を上げて、髪を振り乱しながら叫ぶ。

 全身を震わせて手首に全力を集中した。雷光はアスカの身体を絶え間なく舐め、その度に表情が異様に引き攣ったが、それでも諦めようとはしなかった。

 

「グハッ!」

 

 食い縛った歯の間から、思わず呻き声が漏れる。だが、尚もアスカは力を込め続けた。手首の鉄の輪はビクともせず、それどころか牢獄中から容赦なく電撃がアスカの身体を走り続ける。

 

「あ―――――あ、はあ、はあ、あ――――――」

 

 もう、自分の呼吸音しか聞こえない。

 

「だから…………目を背けちゃ、駄目なんだよ!」

 

 自らが吐いた言葉で、アスカの中でなにかがゆっくりと、だが劇的に変化させてゆく魔法の言葉だった。

 この想いは偽物なのかもしれないけれど、アスカ・スプリングフィールドが持っている意志、胸の中に宿っている熱は本物だ。ヒトの温かさを、心強さを、肌身に染みて感じ続けたから、矛盾だらけでも偽善の奥の彼自身は変わらなかった。

 

「なら、直視してみるがいい。君の罪と、他者の悪を」

「あ――」

 

 鎖から伝わってくるのが増えた。今度は肉体ではなく精神を侵す波が心を浸食する。

 

「――――」

 

 人を黒焦げにするほどの熱病にでもかかったのか、頭の中は遠くに溶けて、耳から流れ出したかのよう。

 どうかしている。もう脳みそはないみたいなのに、体は痛みを訴え続け、空っぽの頭は律儀にそれを受け入れている。空洞なのは頭だけじゃない。胃も心臓も所在は不明。耐え切れない吐き気、吐く物など残っておらず、吐き気は際限なく増していく。

 その悪循環に、歯を噛んで耐える。意識は保てる。自分だけの痛みなら、自分だけが耐えればいいだけ。そんな事なら、何時ものことだから問題はない。

 

『クルシイ』

 

 だけど、問題はこの声と纏わりつく気配だった。

 聴覚に訴えかけるものではない。直接、アスカの脳内に語りかけてくる。数え切れない悲痛な叫びが、アスカの心と身体を激しくかき回している。それは絶望であり、憎悪であり、憤怒であった。

 

『タスケテ』

 

 足を掴まれる感覚に、アスカは足元を見下ろす。

 そこには、死が積み重なっていた。子供も、老人も、男も、女も関係なく、大量の屍と腐臭が積み重なっていた。屍の山から生えてきた無数の腕がアスカの足に絡み付いている。さらに、ぐにゃりと伸びた別の腕が、アスカの身体を押さえ込んだ。

 

『シニタクナイ』

 

 どれかが言った。空気の振動ではなく、直接精神へ訴えかける声。耳の奥で、鼓膜の内側で、頭蓋骨の深奥で延々と木霊する。

 何度も何度も何度も何度も何度も――――声ならざる声で、言葉ならぬ声で、アスカに囁きかけてくる。纏わりついた濃厚で人を侵す呪詛は、それだけで人間を狂わせる。

 聞こえるのは怨嗟の叫び、全身を掴んでくる亡者の手。腐臭が漂い、数えきれぬほどの人々の断末魔と呪詛の言葉が胸を抉る。

 見えるのは夥しいまでの生首と、同じ数の首を失った身体とが原型を留めずに腐り果てている。

 鼻も眼球も耳も唇も、何もかもが区別がつかないほどに皮膚が蕩け、ギトギトの髪の毛が白く覗いた骨の内側まで絡んでいる。未だ白骨と成り遂せていないだけに転がった生首達の姿は地獄さえかくやと思わせる異常性を漂わせていた。

 

「あ――は、あ――」

 

 聞こえるのは己の呼吸だけで、頭の中は空になって久しいのに、声はずっと響いてくる。それが誰の声なのか、アスカには分からない。

 エヴァンジェリンの六百年、超に埋め込まれた呪詛に込められた百年、彼ら・彼女達が抱いた正負の感情全てがアスカの中に雪崩の如く押し寄せてくる。

 

『モドシテ』

 

 死んだ彼らが声を揃えて生きていた頃に戻りたいと願っている。山を成して積み上げらた彼らの骸が嘆願する。

 このまま闇に呑まれれば最後の理性も跡形もなく消し飛び、自分は人としての生を終える。後は死と殺戮のみを屠る忌むべき魔獣へと変貌するだけだ。敵も味方もなく、世に終焉を齎すべく、世界に生きとし生けるもの全てが滅び去るまでただひたすら万物を破壊し続ける、破壊の為の破壊者へと。

 腐乱し蛆の湧いた全ての顔が希う声に何度も力尽きて挫けそうになりながらも、それでもなお、アスカは足掻きを止めようとはしなかった。その光景を、名無しは信じられないという面持ちの見つめていたが、どこか納得しているようにも見えた。

 傷つけたくないと偽善で覆い隠した建て前で明日菜達から離れようとした。その果てに気付いたことがある。望んだモノが在る。求めたモノがある。進むために、逃げない為に足掻くアスカを拘束するビクともしないかと思われた手首の金輪とそれを結ぶ鎖が、微かに軋んだように見える。

 次の瞬間、先程に倍する雷撃がアスカの全身を包んで激しく踊り、怨嗟の声が無限に脳裏でガンガンと鳴り響く。

 

『タスケテ、モドシテ、シニタクナイ、クルシイ、タスケテ、モドシテ、シニタクナイ、クルシイ、タスケテ、モドシテ、シニタクナイ、クルシイ、タスケテ、モドシテ、シニタクナイ、クルシイ、タスケテ、モドシテ、シニタクナイ、クルシイ、タスケテ、モドシテ、シニタクナイ、クルシイ、タスケテ、モドシテ、シニタクナイ、クルシイ、タスケテ、モドシテ、シニタクナイ、クルシイ、タスケテ、モドシテ、シニタクナイ、クルシイ、タスケテ、モドシテ、シニタクナイ、クルシイ、タスケテ、モドシテ、シニタクナイ、クルシイ、タスケテ、モドシテ、シニタクナイ、クルシイ、タスケテ、モドシテ、シニタクナイ、クルシイ、タスケテ、モドシテ、シニタクナイ、クルシイ、タスケテ、モドシテ、シニタクナイ、クルシイ、タスケテ、モドシテ、シニタクナイ、クルシイ、タスケテ、モドシテ、シニタクナイ、クルシイ、タスケテ、モドシテ、シニタクナイ、クルシイ、タスケテ、モドシテ、シニタクナイ、クルシイ、タスケテ、モドシテ、シニタクナイ、クルシイ、タスケテ、モドシテ、シニタクナイ、クルシイ、タスケテ、モドシテ、シニタクナイ、クルシイ、タスケテ、モドシテ、シニタクナイ、クルシイ、タスケテ、モドシテ、シニタクナイ、クルシイ』

 

 アスカの頭の中で慟哭と怨嗟に満ちた魂が断末魔の叫びを上げ、無数の声が反響して木霊する。何千何万何億――――人類全てが同時に発した断末魔の叫びのようであった。老若男女、様々な声が入り乱れているが、ありとあらゆる絶望、苦痛、嫉妬、怨嗟などが複雑に絡み合い、断末魔の叫びとなって吹き荒れる。

 

「ぐ、ああああああああああッ………ああああああああああああああ!」

 

 耐え切れないと、魂が、肉体が悲鳴を上げる。やがて痛みすら感じなくなり、落ちているのか、それとも昇っているのか、留まっているのかさえ判然としない。アスカ・スプリングフィールドという存在が木端微塵に切り裂かれ、破片すらも凌辱されて自分を失っていく。

 肉体が喰われ、精神が裂かれ、魂が呑み込まれる。記憶が千切られ、自分の名前すら忘却し、何が大切だったのかも分からなくなる。

 悪意と負の感情に全てが掻き消えるその寸前。

 

『アスカさんなら大丈夫です。私が護ります』

 

 何かが散り散りになったアスカを繋ぎ合わせて、守るように悪意の前に立ち塞がる。

 人の形を取り戻したアスカに、間に何かがあっても人を簡単に発狂死させるには十分な負の感情の塊が押し寄せ続ける。鍛え上げてきた強靭な精神力で、辛うじて、薄皮一枚の危うさで飲み込まれることから踏みとどまっているに過ぎない。

 

「――ぐ、あ――は――」

 

 失い、奪い、殺されてきた人達の怨嗟の声。気が狂う。彼らの声を聞く度に胸が深く抉られる。どれだけ善行を積もうとも、死者は二度と戻らない。それが覆すことの出来ない現実である以上、アスカに彼らに出来ることは何もない。

 でも、アスカ・スプリングフィールドは知っている。理解している。痛感している。どれほど過去から目を逸らそうと、どれほど無かった事にしようと過去は消せない。ずっと背後から亡霊のように追いかけてくる。だが、逃げることはできない。この亡霊たちはアスカが心の中から捨て切れなかった過去に対する負い目を感じている限り離れはしない。

 

「俺は、謝らない」

 

 アスカは彷徨う魂たちに向けて震える声で言った。アスカは目の前にいる名無しを、その向こうにいる蹲ったままの『自分』を見据えた。全身を震わせ、腕を広げる力を更に強める。

 ごめんなさいと言う代わりに、何もしてあげられない代わりに願った。彼らを救う存在がいてもいなくてもいいから、せめて彼らが安らかなところに逝けるようにと。

 自分が踏みつける全てに頭を下げて、それでもアスカは前に進むことを選択した。

 多くの物を奪い、多くの死を重ねてきた。その痛みに耐え、悔いる事が、失われたものへの鎮魂に他ならない。間違え、過ちを犯し、全てを背負って進むと――――――もはや、飛び散る雷光や無限に木霊する怨嗟の声さえ意に介さない様子で、アスカは全身を屈めるようにように持てる全ての力を手首に込めていた。

 

「ガッ! ………グギギギギギギ」

 

 ブスブスと白煙を上げながらも、アスカは更に腕に力を込めていく。アスカの腕が、左右に僅かずつではあったが、開き始めていた。錯覚ではなかった。ほんの僅かずつ、その幅が広がっていく。

 

「…………諦めろ。諦めろ! 諦めることが君の幸せなんだ! 今更、過去を拾ったって捨てた物が戻るものか!」

 

 名無しの声が、うわ言を繰り返す。引き裂かれた心の悲鳴がアスカの耳に叩き付けられる。叫んだところで何か変わる訳でもないことを知りながらも叫ばずにはいられない感情がアスカを呑み込む。

 

「君に分かるか? 置き去りにされた僕の孤独が、悪を押し付けられた僕の気持ちが! 僕が、どんなに辛かったか……」

 

 叫びを聞いたアスカの心が軋む。アスカの精神の奥底に封じ込められていた寂しがって泣いている幼い子供の自画像(イメージ)が、触れた先から緩やかな波紋のように伝わってきた。 

 

「僕は此処にいたんだ。何時だって此処にいたんだ」

 

 幼子が寂しがって声を上げ、わんわんと泣きじゃくっている。

 

(どこで間違えてしまったのだろう?)

 

 唐突にそんな疑問が湧き上がった。

 名無しの闇の正体は、日々の中で積み重ねられた想いそのものだった。だがアスカは名無しの願いを拒絶したのである。受け入れるわけにはいかなかった。

 

「でも、君は僕を探そうとさえしなかった…………僕は此処にいるのに!」

 

 あの時の少年のままに、両腕で頭を抱えた名無しが叫ぶ。

 胸の奥底から沸き上がった感情がアスカの声を詰まらせた。大きく肩を上下させ、喘ぎ声を漏らしながらもアスカはなんとか顔を上げた。しゃくり上げるような息を一つすると、声を震わせながら言った。

 

「俺も、此処にいる」

 

 ひくっ、と名無しの息を呑む気配が伝わってきた。

 

「嘘をつくなっ!!」

 

 喉を切り裂かれ、血に塗れた声を吐き出すように名無しが言いながら両腕を伸ばしてくる。がしっと音を立てて、子供とは思えない力で、指先がアスカの喉下に食い込んでくる。

 

「う、ぐぐぐ……………」

 

 アスカは名無しの正体に気付いた。

 その正体は認めたくない自分。影、闇、破壊衝動の塊、となんでもいい。誰しもが持つ、自分自身を嫌悪する自分だ。アスカの心の虚を反映した、最も弱く、惨めで、哀れで、ちっぽけな影。アスカが心の奥に封殺しようとしていた、あの頃の弱く守られるだけの幼子の姿そのままに。

 会話にはならなかった。最初から声も届かなかった。世界中のありとあらゆるものが、自分自身でさえ気づこうとせずにここまで追い詰めた。

 

「このまま、死ね!」

 

 感情を全く感じさせない顔で名無しが言った。アスカの首に食い込む指の力が増し、嫌な音を立てて首が後ろへ反り返っていく。

 

「嘘……じゃ、ない」

 

 アスカは、必死の形相で両腕を持ち上げ、名無しの手首を掴んだ。鎖に拘束されたまま全力を込めて、その手を引き離しにかかる。それはアスカの精一杯の抵抗だった。だが、相手にならない。これは素手で重機に立ち向かうようなものだ。

 アスカの心は、捨ててしまえといっている。こんな想いをするぐらいなら、悲劇を繰り返すぐらいなら全て諦めてしまえと。その方が楽なのに、どうしても捨てられない。彼の心のどこかが違うと叫んでいる。

 

「僕と君、何が違うっていうんだ」

「違う」

 

 それでも、そんなのは関係ない。ガチガチと、今にも死にそうな体を無理矢理に動かして眼前の己を睨みつける。

 

『間違ってもいいんです。偽りでもいいんです。命が失われない限り、生きていれば何度でもやり直しが出来ますから』

 

 誰かが寂しそうな表情を浮かべてそんなことを言っている。

 

「親父の、叔父さんと叔母さんの、俺達を守ってくれた村のみんなの背中を覚えてる。タカミチの辿り着けないかもしれないと知っていても先を進む背中を知っている」

 

 アスカはまだ生きている。間違えたというのならば正せばいい。偽りであろうとも前に進むこの気持ちは本物だと胸が張れる。ここで諦めてしまったら、生かしてくれた皆の意志を無駄にする。

 

「間違いであることなど、どうでもいい。偽物だからどうした。始まりが偽物でも間違いでも、そこで得たものと失ったものは俺だけのものだ」

 

 どれだけ善行を積もうとも、失った命は戻らない。アスカの生涯はきっと悔いながら続いていくだろう。それでもアスカは苦難と共に償い切れぬ罪を少しでも償おうと抗い続ける。感じ、傷つき、恐れさせる心。脆くて、効率が悪くて、時にはない方がいいと思える生身の心が叫んでいる。

 

「この歩んできた道程こそが俺とお前の違いだ」

 

 肺が悲鳴を上げている。熱い痛みが胸の突き刺し、体中が焼かれたように引き攣った。それでも言葉の限りに訴え続ける。

 

「蹲ったままの弱い自分を肯定できない君は何も変わってなんかいない!」

 

 名無しは頑なに認めようとしない。

 

「ああ、弱い自分に価値なんてないと思ってた。でも」

 

 護られるだけの自分に、弱い自分に価値なんてないとアスカはずっと思っていた。

  

「俺を護りたいと言ってくれる人がいた。俺の隣にいたいと言ってくれる人がいた」

 

 明日菜が彼を誑かしたわけではなかった。アスカが求められてもいないのに、心が動いて戦おうとしていた。だからこそ、明日菜の為にどこまでのことをしてやるのかと、ふと恐ろしくなった。本当は明日菜を救うという戦いをアスカがしたい欲だった。彼は傲慢な悪だった。

 

「正しくなくていい。間違っていてもいい。俺は俺で、アスカ・スプリングフィールドのまま、進み続ける」

 

 言い切ったアスカの左手の薬指に装着されたペアリングの片割れが絢爛に輝く。

 

『俺とお前は対等やって分からせたらぁ!』

『まだ告白だってしてないんだから、勝手に終わらせてんじゃないわよ!!』

 

 朱の闇を払う荘厳な光を厭うようにアスカの首から離れた名無しが、忌々し気にペアリングを睨み付ける。

 

「彼女との指輪が反応してっ!?」

 

 名無しの意識がペアリングに集中したその僅かに出来た隙をアスカは見逃さなかった。

 

「うおおおおおおおおおおああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!」

「!!!」

 

 アスカはわざと(・・・)魔力を暴走させ、獣染みた咆哮を上げた。

 安定させることなく、体内に爆発的に湧き上がった魔力が全身を駆け巡り、傷つける。その瞬間は不意にやってきた。ごくゆっくりと伸びているように見えた手首の鎖が、突然ブチッと音を断てて引き千切られた。砕けた鎖の破片と共にアスカの身体が床に堕ちる

 すると世界の色彩が反転する。それまで辺りを包んでいた闇の帳が、さあっと晴れ上がっていくのが分かった。見ると、数メートルほど離れたところに名無しが経っており、驚愕の眼差しを向けていた。

 

「ごほっ……!」

 

 血を吐き出してアスカは呻いて笑った。内臓はグチャグチャで骨があるのかも分からない状態だったが、体の奥から無限の力が湧いてくるかのようだった。

 アスカの笑みに名無しが恐慌を来たしたように目を見開いた。

 

「うわぁあああああああああああ――――ッッ!!」

 

 叫ぶ名無しを中心に穢れた空気が凝り、人の形をした悪意が顕現したような瘴気が振りまかれる。清浄な気配とは全く次元の異なる遥かに穢れた空気。沸騰する寸前の熱湯にも似て、沸々と空気が泡立っている風にも感じられた。その空気が渦巻いた。

 

「ハアアァァァアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!」

 

 咆哮を続ける名無しの全身に紋様が浮かび上がり、熱を孕んだ白い蒸気が立ち上る。

 放射される白い蒸気に呼応して名無しの中の力が桁違いに膨れ上がっていく。渦巻く力が、まるで純白の竜巻を形成していく。この濃厚すぎる白さは異常だった。それこそ、暴力的なまでの白さというしかない。

 何色にも染まれるようでいて、何色にも染まることを拒んでいるかのような色合い。それは常闇よりも深淵よりも深い黒と本質的には同義である。このような光を発するだけでも異常。どれだけ濃密な恨みを、どれだけ積み重ねれば、これほどにも白に至れるのか。

 表で小太郎と明日菜の前に立つアスカの姿と同じく魔獣となった名無しは、一瞬の内にアスカの懐へと飛びこんでいた。

 

「がはっ!!」

 

 先程まで戦っていた時よりも数倍する威力を秘めた拳が空気を灼く。名無しの拳から危険を感じて咄嗟に展開した障壁さえも突破して腹に食い込んでいた。有り余ったエネルギーは、一点に収縮しきらず、爆発した。

 音速を超えた速度と、常識外れの威力は衝撃波を生み、地面に地割れを引き起こす。

 驚愕に息を飲んだアスカの腹に、魔獣の拳がめり込んでいた。下から掬い上げるようなアッパーによって斜め上に弾き飛ばされる。

 

「ハァアアアアアアアアアアアアアアア!!」

 

 魔獣の姿となって、今や人間の限界を遥かに超えた身体能力を持った名無しに不可能などなかった。

 名無しは拳を戻しざま、一瞬にして上空数百メートルの高さにまで跳ね跳んて吹き飛んで行ったアスカを追いかけるように、足元を爆発させて破壊しながら宙に舞い上がった。

 

「くっ!」

 

 名無しから放出されると力の量がさらに跳ね上がる。パワーとスピードが爆発的に増した拳が、アスカを追い抜いて頭上からさらに破壊的な一撃を見舞った。かろうじて掲げた両手で頭部の一撃は防いだものの、今度は直角に地面に向かって急降下を始める。

 

「オオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオォッ!!!」

「!」

 

 名無しの感覚ではゆっくりと落下していくアスカに、渾身の攻撃を見舞った。更に先程戦った時とは比べ物にならないほど威力とスピードの増した拳で、アスカの顔といわず、胴体といわず、滅茶苦茶な勢いで叩き込まれていった。

 その威力はアスカが全力で張った障壁を容易く貫通し、空の上でボールのように跳ね回る身体に確実にダメージが蓄積していく。

 防御動作を取る余裕のない音速を超えた圧倒的な速さに、先程とは違い圧倒的に増した膂力に、体から迸る迷いのない敵意に、奈落よりも暗い暗黒の意思に。しゃにむに向かってくる名無しから放散されるように、凄まじい殺気が伝わってくる。アスカは胸苦しいような圧迫感を覚えた。

 

「くっ!」

 

 アスカが苦し紛れに振った右腕が空を切った。

 視界のどこにもその姿を認めることが出来ない。確実に捉えたはずなのに手には何の手応えもなかった。そこには残滓のように空気が纏わりつき、消えていくのみである。名無しの欠片もなかった。

 アスカの全身に正面から凄まじい力が叩き付けられた。殆ど水平の体勢で飛んでいたアスカの身体が立ち上がり、強引に後ろに圧し戻される。

 

「これは物理的なものじゃない。衝撃波? …………まさか生身で音速を突破してるっていうのかよ?!」

 

 アスカを襲ったのは音速を突破した時、裂かれた大気が生み出した衝撃波だった。音速を超えて動くなど人の領域を超えている。アスカは衝撃波と名無しの両方に翻弄されながら、らしからぬ戦慄を覚えていた。

 独楽のように回る視界の端を燃える何かがよぎった。

 

「そこか!」

 

 アスカは振り向き様に無詠唱の魔法の矢を三本を神速で放つ。だが、魔法の矢が届く前に、それはその空間から消えており、アスカは残影の跡を追って体を旋回させ、連続で幾つかの魔法の矢を連射する。

 しかし、その熱線は的外れな場所を貫くだけであり、高速で動き回る名無しを捉えることは出来なかった。その全身から迸る白色の光の燐光が残像を引き、魔獣のシルエットをオーラの如く浮き立たせた。

 

「が、ぐっ」

 

 名無しの体から溢れ出る力が彼の体躯を超音速の砲弾に変えていた。この時の名無しのスピードは音速を超えており、超々高速の突進が大気の壁を突き破った衝撃波がアスカを木の葉のように吹き飛ばす。

 浮遊術で急制動をかける側面に光が走る。アスカは即応して蹴りを放ったが、名無しはまた残影を残して姿を消した。直後、背中から衝撃を受ける。

 

「後ろ!?」

 

 吹き飛ばされながら視界の端に蹴りを放ったらしい姿勢の名無しの姿が一瞬だけ見えた。

 死角に潜りこんだ名無しが冷たい波動を背中に叩きつける。アスカは感知しえた気配に意識を凝らして、体勢を整えるよりも先に雷の斧を振り返りながら放つ。だが、やはりそれは空を切って、代わりに何時の間に近づいたのか防御を掻い潜って拳が腹に食い込んだ。

 

「ぐはっ」

 

 肺に溜まっていた息が無理矢理に吐き出される。吐かれた空気の中に血霞が混ざっていた。

 痛みを堪えて、正面にいる名無しに向けて拳を放つも既にそこにはいない。幼い子供に紙を鉛筆を渡して出鱈目な線を書かせたような、白色の光の燐光が目を疑いたくなるほどの目まぐるしい動きの軌跡を描く。

 

(捉えきれない、速すぎる!)

 

 それでいて攻撃は的確。異様な力が込められた攻撃が急所を抉っていく。深く決まれば致命傷になる攻撃ばかりだ。ギリギリで致命傷だけは避けていくがじり貧である。このままでは遠くない内に限界が来る。

 痛みに支配されながら反撃しようとするする意識の中の一方で思考する余裕もあった。

 何故、負けられないと思うのか。

 何故、勝たないといけないと思うのか。

 何故、倒さなければならないと思うのか。

 何故、殺さなければならないと思うのか。

 何故、何故と自問自答が混濁した意識の中で交錯する。

 

「がはっ」

 

 何度目か、名無しはもはや数えることすら出来なくなった拳打を受けて血の塊を吐き出した。

 

「!?」

 

 次の攻撃は運良く掲げていた腕に当たった。だが、パワーの差がありすぎて当たった瞬間に軋んだと思ったら鈍い音を立てて折れた。

 

「ぐがぁ――!?」

 

 苦痛の呻きはサッカーでオーバーヘッドキックに近い形で蹴り落とされて続かなかった。

 上下逆さまで真下にある地面へと、急スピードで墜落していくのを痛みで鈍い頭で理解したアスカは浮遊術で急制動をかけた。

 なんとか地面に降り立ったアスカの真正面から急旋回して突進してきた名無しがありとあらゆる角度から、両手の拳、肘、掌底を取り混ぜて、手が四本にも八本にも何百本にもあるかのように打ち込む。

 

「がっ」

 

 アスカは途中からそれらの攻撃を受けることも受け流すことも出来なくなり、まともに喰らい続けた。

 竜巻のように回転して瞬きの間に放たれた左右の蹴りを腕を上げて防御しようとするも、名無しは鳥のように宙を舞って全体重を乗せた膝蹴りをアスカにお見舞いした。

 遂に吹き飛び、地面を削り取りながら進み、どこかの壁へと叩きつけられる。

 

「ぐっ」

 

 ズルズルと壁を滑り、地面に倒れ込んだ。

 薄れゆく意識の中で見上げた壁には何故か見覚えがあった。その家はアスカとネギの、ネカネとその両親が暮らした家だ。

 あの日に焼き尽くされて今はもう残っていない過去の象徴を目にして、内側から溢れ出る何かに急かされるようにアスカの体が動いた。

 

「なっ!?」

 

 ゆらりと立ち上がる人影を見て、名無しはこの戦いで初めて呻いた。

 まるで蜃気楼のように、肉体の中心の芯を失ったかのように立ち上がるアスカは、これ以上は動きたくなった。もうどうでも良かった。あまりの心の痛みに、直前まで抱えていたものが全て消え去ってしまった。心の内側をボロボロにされたアスカは、ここで殺されてしまうのならそれでも構わないのかもしれないと思ったのに、体は無気力な意志に反して勝手に動く。

 屈する気配などどこにあるのか。

 動くアスカに明確な意思はない。だから、自分が何に対して怒っているのか、何を悲しんでいるのか、どうして自分はこんな痛くて苦しい思いをしてまで戦おうとしているのか分からない。思い出せない。何かを考えるのがひどく億劫だった。 

 

「あぁ――」

 

 哀しい。苦しい。吐き気がする。身体が、心がバラバラになりそうだ。思考能力は低下して、湧いてくるのは嫌な過去や悪意ある妄念、そして苛々と不快な思考だけだった。

 見えない殻に閉じ込められていた何かが頭をもたげた。熱くて、狂おしい、ずっと忘れていた何かが。

 蜃気楼のようだったアスカが拳を握って明確に動いた。

 

「まだ動く力が――――」

 

 殴りかかる体は満身創痍。踏み込む速度も取るに足らなければ、繰り出す一撃もキレを失って凡庸と成り果てている。

 

「ぐっ!」

 

 技術も何も無い、子供が喚いて出鱈目に振るったようなあまりにも凡庸な一撃。しかし、その攻撃は今までのどの一撃よりも受けた名無しには重く感じた。

 三度、四度、五度と何度となく拳が、脚がぶつかる。止まらないばかりが、攻撃はどんどん加速していく。

 鬩ぎ合う攻防の激しさは、今までの比ではない。一撃ごとに速度も重みも、そこに込められた想いすらも天井知らずに跳ね上がっていく。十を数え、百に届こうとする拳撃は最初は圧倒していた名無しの攻勢から盛り返したアスカが並び、両者は完全に拮抗している。

 空間が破裂し、立ち入るモノは瞬時に爆散する。飛び散る力の余波だけで、並みの魔法使いの最大攻撃に匹敵する。余人がこの光景を見たならば弾け飛ぶ力は花火の如く見えたかもしれない。

 

「「――!」」

 

 二人は同時に上げていた腕を振り下ろして、絡みつく黒雷と纏わりつく雷を解き放った。

 眩い閃光、轟く爆音、高速で大気を駆ける二人の属性は丁度両者の中心点で衝突する。色だけが違いあれど術式の構成も、そこに込められた力も同等であった為か、黒雷と雷は衝突した途端、双方共に爆散する。飛び散る雷の解れと火の粉が突風を起こして土煙を巻き上げた。

 

「僕の、力が弱くなっている!?」

 

 名無しが何かを叫んでいるがアスカはそれを理解していない。ただ、前へ前へと進み続ける。

 二人の攻防は、反発しながらも溶け合う両者の心の具現だった。

 黒雷の槍と極雷の槍は、それぞれに目的を定めて飛翔する。いずれもフェイントや予測を織り交ぜた高度な戦術。ぐるりと宙返りして回避しながらも、アスカも名無しも攻撃の手は休めない。

 両者の力の衝撃で剥離する空間は、あたかも世界の涙の如く見えた。

 

「「雷の暴風!!」」

 

 近距離で放たれた両者同時の魔法が爆発し、途方も無い力で地面に叩き付けられる。体のあちこちが痛む。しかし、流石に至近距離の爆発に巻き込まれた相手もただではすまなかったようだ。傷ついた体を押さえ、荒い息をついている。

 

「クソッ……!」

 

 荒い息をつきながら、名無しが吐き捨てる。黙したまま、アスカが名無しを睨み据える。

 

「人は自分を見れば不愉快になる」

 

 アスカは歯を食い縛って喋り続けた。

 

「でもな、どんなに不愉快でも、どんなに嫌いでも、どんなに憎くても、自分自身を殺すことは出来ない。自分自身を辞めることは出来ない。人を呪うってのは自分が屈折していくことが分かるから辛いんだよ」

 

 使った試しのない脳の領域が蠢き、頭に熱を帯びせるのを感じながら口が動く。次の瞬間には術で骨も残さず消し飛ばされるかもしれないが、構わない。目の前の相手にだけは膝を折りたくない。

 互いに極限の疲労にさらされていた。そして次の一撃が勝負を決めると理解した。

 これ以上闘うことが出来ないのはアスカも同じ。もう体外も体内もボロボロ。こうやって立っているだけでも精一杯。全く同じ力、戦術、技術、手の内が全て同じなので決着が着くことはありえない。

 

「生き残るのは僕だ!」

 

 先に動いたのは名無しの方だった。

 空間に白色に輝く魔力の光が迸った。拳に1001の雷の魔法の射手を収束させて纏い、圧縮された魔力が放つ高音でビリビリと大気を揺らしながら、目の前の相手に向かって走る。

 

「この馬鹿野郎がぁ!」 

 

 ほぼ同時に1001の魔法の射手を右腕に収束させて、雷華豪殺拳を放つべくアスカも飛び出した。

 

「「このおおおおおっ!」」  

 

 最後の攻撃だった。瞬間、世界の全ての音が止む。

 繰り出される両者の一撃が重なり、渾身の拳を相手に叩きつけた。結果――――名無しだけが弾き飛ばされた。

 

「がはっ!」

 

 白目を剥いて仰け反り、まるで至近距離から砲撃を受けたように名無しの体が遥か後方に吹き飛ばされた。地面に激突した名無しの体は、二、三度バウンドし、そして完全に力を失った。

 

「…………何故、だ。何故、僕が負ける? ありえない。こんなことが、ありえていいはずがない」

「分かっていないのは、お前の方だ」

 

 ずっと、アスカは一人で戦っているつもりだった。しかし、それは大きな間違いだってことがアーティファクトの偽物とはいえナギと試合後に話をして、ようやく気付いた。

 知らず知らずの内に多くの人達に力を貰い、助けてもらっていた。今の一撃もそうだ。

 

「俺とお前は互角。なら、勝敗を分けるのはそれ以外の力だ」

「……犬上、小太郎……」

「俺の最高のダチだ。明日菜の力もある」

 

 あの一瞬、表で小太郎の一撃がこの世界にも影響を与え、その力がアスカに流れ込んだからこの勝敗となった。

 

「俺はもう、一人ぼっちだった僕(・・・・・・・・)じゃないんだよ」

 

 例え過去から逃げ続けてきたとしても、あの日から目にしたもの手にしたものは明らかにアスカ自身のもの。もう孤独ではないのだ。

 

「抗ってどうなる!? 君にとっては地獄が続くだけだ!!」

 

 アスカを見据える名無しの眼光が、憎悪で鋭さを増す。寂しさから生まれた憎しみが、また寂しさへと戻っていた。

 

「僕を追いやったところで何も変わらない!」

 

 確かにそうかもしれない。この苦痛を共に分かち合えば、どんな願いも幾つでも想いのまま。これから歩む道の先に、喪ったものに見合う輝きが在るかどうか分からない。それでもアスカには言わねばならない責任があった。

 

「ここで足を止めたらあの日、俺を逃がしてくれたみんなの意志を無駄にする。俺は止まらないっ!!!」

 

 言う通り、アスカと名無しは何も違わないかもしれない。何かを手に入れてもきっと変わらない。アスカの、名無しの求めているのは………多分、人や物じゃない。

 

―――――痛イ

 

 悲鳴が聞こえる。

 

「だから、僕を拒絶するのか!」

 

―――――痛イィ………! 痛イィ………! 痛イィ……………!

 

 名無しが黒い涙を零す。悲鳴がアスカの胸を抉る。逃げることは出来なかった。他人の振りは出来なかった。いなくなることは出来なかった。もういい加減に眼を逸らすのは止めよう。

 

「違う! 新しい全く違う自分なんていらない。俺は進む。自分で自分を誇れるようになるために!!」

 

 純粋な闇から醸成された、混じりけの無い悪意を前にアスカは心の叫びを上げた。

 変わることを望めば苦悶を強制され、変わらないことを望めば悲劇を与えられる。人ばかりが苦しむ。最も、人であれば誰もが苦しむのだから、それは平等な幸福なのかもしれない。

 

「君は、僕が邪魔なのか!? なら、僕は一体何だっていうんだ!? 何のために生まれた!!」

 

 自分とは違う仮面を被ることを強いられたり、強い心的外傷を受けたり……………苦痛に見舞われた場合、人は自我を守るために人格の解離を引き起こす。受けた痛みを、記憶から切り離して、自分ではない他の人格に起こったことだと脳が記憶して苦痛から逃れる。

 あの日からアスカは弱い自分を理想と違うと拒絶して否定して心の奥底に押し込んだが、自分自身ですら気が付かなかったそれを修学旅行で刻まれた闇の魔法の紋様が呼び起こした。

 

「お前がいたから俺は強くなれた。ここまで来れた」

 

 足を引き摺り、全身がズタボロになって半死人の風体で名無しの下へ歩み寄りながら放たれたのは落ち着いた声だった。

 アスカの顔を名無しは惹きつけられる様に見入る。そこには強がりも自己否定も欠片も残っていなかった。名無しは息を呑むような顔で、鮮やかな変貌を見つめる。

 

「俺はお前だ」

 

 ずっと抑え続けた心の闇。負の部分を心の底に押し込めてきた。

 名無しの正体はアスカの中にある心の闇。

 アスカ自身。アスカのことをアスカよりも分かる存在。アスカ自身が受け入れられなかったことも受け入れざるを得なかった存在。闇の魔法の適性者。どれだけ自分を強く保っても、心のどこかにある負の感情と結びついて育んでしまったもう一人のアスカ。

 倒すことも追い出すことも不可能。自分はこんなにも子供だった。ちっぽけで惨めたらしい人間だ。その事実から目を逸らし続けた結果として、今の自分があり、捨ててきたからこそ名無しがある。

 

「お前は俺だ」

 

 アスカが自覚したことで魔法使いの魔法が解ける。

 気がつくとそこには、一人の小さな男の子が、不安そうな面持ちで立っていた。 

 華奢な身体つきの幼子だった。背も低く痩せていて、金髪で蒼穹の瞳の可愛らしい容貌をしていたが、その眼だけがギラギラと闇の炎のように燃え上がっている。苛烈で頑なで、他者を受け入れない鋼の萌芽が見受けられる。

 味方なんていないと思い込み、自分が世界に一人で生きていると錯覚していた哀れな子供。孤独を当然のように受け入れ、寂しさを殺して世界を拒絶する、暗く哀しい瞳をしていた。その瞳は、己の無力を痛いほどに噛み締めてきた者に特有の思い詰めた瞳だった。

 

「ずっと押し付けてきて、ゴメン」

 

 アスカは傷ついた体を引き摺って一歩ずつ少年に近づいていった。

 少年は逃げ出さなかった。何も言わずにアスカをじっと見上げている。恐らく、殴られても、罵られても、黙ったまま彼の目を見続けるに違いない。

 手を伸ばせば届くまでの距離まで、ゆっくりと歩み寄って傷ついた身体に鞭打ち、よろよろと少年の前に腰を屈めた。少年と目線の高さを合わせる。彼の瞳は近くから見ると、驚く程に澄んでいた。

 

「成長しただろ、俺」

 

 アスカは名無しの頬に手を伸ばした。

 温もりと涙の跡。凍えるような心の震え。あらゆる少年の感情の機微が掌を通じて伝わった。

 

「俺はここまで変わったんだ。もう、大丈夫だ。一人で立って歩ける」

 

 突然のことに名無しは目を白黒させていたが、名無しはあまりの上から目線の言い分に少し腹が立ってきた。明日菜や周りの人たちに散々言われて多少は自覚していたとしても、それを自分に言われると何かムカつくものを感じるから不思議だ。

 

「判るよ。僕もね、ずっと昔から()てたから」

 

 そしてあの時に取り残された小さな体を包むように抱きしめる。 

 アスカは名無しであり、名無しはアスカだった。故に、その時互いは一つになった。ようやく全てを取り戻した。長い長い空白の時を飛び越えて。

 

「今までありがとう」

 

 抱きしめられた名無しもおずおずとアスカの背中へと手を回し、ポタリと双眸から清らかな雫を垂らした。

 その瞬間、世界が消失してアスカの視界は閃光に包まれた。失ったものが自分自身であるなら、その心の鏡に写した。心に届く光とは、ただ言葉の温もり以外にはないのだから。

 

「ありがとう。今までご苦労様」

 

 一人、何もない空間に怪我もなく立つアスカは胸に手を当てて無類の感謝を捧げる。

 

『僕からの最後のお願い。彼女を救ってあげて』

 

 もう一人のアスカからの言葉の真意は考えるまでもない。気付いていた。気づかされた。その事実にアスカは震えた。

 

「…………なんでだ」

 

 愕然として、信じられなくて、叫び出したいぐらいなのに、そのことを知った衝撃が逆に感情を平坦にした。

 

「なんでだ」

 

 言わずにはいられなかった。今、言わなければ何時言うと言うのだ。

 あれだけの呪詛に侵されたはずなのに、正気を保っていられたことが最初からおかしかったのだ。百年かけて熟成され、満ち満ちた祟り神クラスの怨霊群の呪詛に一個人の魂と心が耐えられるはずがない。

 なのに、未だにアスカが正気を保っているというのならば理由が必ずある。

 

「なんでだよ」

 

 呪詛とアスカの間に入ることで守り続けた誰か。木端微塵にされ、破片すらも凌辱されていたアスカを拾い集めて誰か。押し寄せる悪意を阻み続けた誰か。

 

「なんでだよ!」

 

 名無しと合一することで理解したアスカは叫んだ、今叫ばずに何時叫ぶと言うのか。

 

「なんでだよ、さよっ!!」

 

 アスカの視線の先で、黒い血管を全身に浮き渡らせた相坂さよが儚すぎる笑みを浮かべて、ボロボロと体の端から崩れて消えていきながらそこにいた。

 

『良かった…………間に合わないかと思いましたよ』

「そうじゃない! そうじゃないだろ! なんで、こんな!」

 

 もっと言うべきことがあるのに、アスカは心に色んな感情が交錯して上手く言葉にならない。

 

『…………私が、したかったからです』

 

 自分の状態を誰よりも分かっているくせに、淡く微笑むさよにアスカは激昂した。

 

「始めからおかしかったんだ。確かに呪詛も闇の魔法の浸食も酷いものだったけど、本当ならあんなものじゃなかったはずだ。理由を考えれば簡単だった。俺は誰かに守られていた。お前だったんだな、さよ」

 

 百年分の呪詛とエヴァンジェリンが体験してきた記憶とでも呼ぶべき呪詛は一個人に耐えられるものではなかった。アスカは護られていた。その誰とは目の前にいる者のことを知れば考えるまでもない。

 

『その甲斐はありましたよ。こんな私でもアスカさんを守れました。これでも我慢は一番の得意なんです。なんせ六十年も幽霊やってましたから』

「俺を護る為に呪詛と浸食に晒されて、霊体がボロボロじゃないか。なんで、そこまで……」

『私の名前を呼んでくれました』

 

 自我の浸食と魂の汚染、待っているのは自己の消滅だ。人であることすら忘却して、魔を撒き散らして人を仇名す獣となる。よしんばそうならなくても、汚染された魂は輪廻の輪に戻れず、消滅して永遠の無へと至る。

 どのような末路に至ろうとも相坂さよという自己を消滅させていきながら、彼女は笑みを崩さない。それどころか満足げにすら見えた。

 

『ありがとうございます…………こんな幽霊の私でも一杯お友達が出来ました。アスカさんのお陰です』

「俺がしたことなんて、切っ掛けと少しの手助けだけだ。大したことはしてない」

 

 頭まで下げて礼を言うさよに、アスカは自分のお陰だという彼女の言葉に首を振る。

 

『六十年間、誰にも顧みられなかった私を始めて認識してくれました。それだけでも十分だったのに、私に一杯の物をくれました』

 

 崩れ落ちた霊体の破片がアスカの体に触れ、さよの記憶が流れ込んでくる。

 

『一杯、一杯、幽霊の私には勿体ないぐらいの思い出があります』

 

 修学旅行の班に呼ばれた時の喜び。

 人形に入ってハワイに行けたこと。

 間接的であっても人と話せたこと。

 多くはなくとも友達が出来たこと。

 千雨に憑りついて楽しかったこと。

 その全てが綺羅星の如く輝いていて、さよがどれだけ嬉しく思っているのかが伝わってくる。

 

「もっとこれから沢山の思い出を作れるだろ! そんなんじゃ……」

 

 それ以上、言葉を続けることが出来なかった。別荘でのエヴァンジェリンの薫陶で一から魔法への勉強をし直されたアスカには今のさよがどのような状況にあるのか、考えなくても分かってしまう。

 

『我慢以外に取り柄はないと思ってたんですけど、こっちの才能もあったみたいですね』

「馬鹿野郎! 出来たからって、なんで俺を庇って呪詛を引き剥がして自分に移したりしたんだ!! 幽霊のお前の方が呪詛がどれだけ危険なものか分かったはずだろ!」

 

 なんてことのない言うさよに、アスカは頭を掻き毟って吠えた。

 呪詛を操る陰陽師か死霊術士か。系統はともかく、さよには殆どアスカに定着していた呪詛を引き剥がして自分に移し替えるだけの才能があった。それでも完全にとはいかず、さよがアスカに憑りついた状態で影響を受けたわけだが、さよを襲った苦痛はアスカとは比べ物にならなかったはず。

 

『六十年の中で始めて、私の名前を呼んでくれました』

「だから、それは!」

『エヴァンジェリンさんのように、もしかしたら他の人も私を認識できていたかもしれません。それでも最初に私の名前を呼んでくれたのは貴方なんです、アスカさん』

 

 アスカにとっては何でもない出来事であっても、さよにとっては違う。生きていれば人生観が変わるほどの大きな出来事だったのだ。

 

『決めていたんです。アスカさんに何かあったら絶対に助けになるって』

「俺はこんなこと望んでない」

 

 アスカが生かされたのはさよの犠牲があってこそ。力を失った言葉は虚しく響き渡る。

 

『貴方がいなければ、今の私はありませんでした』

 

 さよが見える少数の人間は積極的に彼女に関わろうとする者はいなかったし、アスカという切っ掛けがなければ彼女自身も自分のことが見える者が他にもいるとは思っていなかった。

 

「努力したのはさよで、受け入れたのはみんなだ。礼を言うならみんなに言うべきだ。俺なんかの為に犠牲になっていいはずがない」

『私に気づいてくれたのは貴方です。最初に切っ掛けをくれたのは貴方です。私の最初の友達は貴方です』

 

 胸に右手を当てて呟くさよの姿は、薄らと透ける身体も相まってアスカが途中で言葉が途切させるほどに神秘的な光景だった。

 

『貴方が当たり前に私と接してくれたから皆さんも恐がらずにいてくれました』

 

 人間の発明した言葉は未完成で、相手に伝えたいことの半分も届かない。どれだけ万言を尽くしても、どんなに熱心に語ろうとも言葉は殆ど蒸発して消えてしまう。それは寂しい。そして虚しい。それでも言葉に込められた気持ちだけは相手に伝わっていると信じたい。

 

「さよ……」

 

 藁人形に憑いてだがクラスメイト達と自分で交流を交わすことが出来た。沢山の友達が出来た。だが、誰だって普通とは全く違う得体の知れない幽霊と進んで接しようとはしない。しかし、それも誰かが普通に接していれば話は別だ。何時だってアスカが率先してさよに話しかけることで、彼女の輪は徐々に広まっていった。見えなくても、話せなくても、触れなくても、アスカを通せば交流を交わすことも可能だった。

 

『だから、もう寂しくないんです。本当ですよ? 私は、私に出来ることをしました』

 

 満足したように微笑むさよに、そうじゃないとアスカは歯を食い縛って言わなければならなかった。

 

「だからって呪詛に囚われたままじゃ、成仏だって出来やしない。輪廻の輪にも戻れず、怨霊となって人に仇名すようになる。そんなことを」

『助けてくれるって信じてますから』

 

 信頼しきった瞳を向けてくるさよにアスカはそれ以上の言葉を継げない。

 

『望んだ席は空いていません。そもそも死んでいる私が望むことじゃない。でも、ただ消えゆくんじゃなくて、一度ぐらいヒロイン役をやりたいと思ったんです』

 

 向こう側が見えてしまうほど薄くなっているのに呪詛を示すような黒い血管だけは消えない。今も尚、呪詛に苦しみ続けているはずなのに一度もそんな姿を見せることなく、思わず気持ちよさに眠ってしまいそうな陽だまりの如く優しい微笑みを浮かべながら、さよは残る言葉を口にする。

 

『アスカさん、私を助けてくれますか?』

 

 そのたった一言を口にする為だけに彼女は地獄の苦しみに耐え続けた。

 

「…………ああ、必ずだ。必ず、助けて見せる。救って見せる。俺に――」

 

 過去を取り戻し、自分自身を再構築したアスカは嘗て口にした誓いの言葉で彼女に約束する。

 アスカはもう無条件の期待を抱けるほど無垢ではなく、蛮勇を叫べるほどの無知でもない。出来ることと出来ない事の区別もついて、呪詛に囚われて魂の根源から浸食されたさよを救う術はないと明確に理解している。

 それでもアスカは言わねばならない、為さねばならない、やらなければならない。助けを求める声を前にして、アスカが坐して待つなどありえないから。

 

「俺に、出来ない事なんてない――――っ!!」

 

 言葉は力を持つ。村人達の石像の前で誓ったように、不可能を可能にする為に叫んだ。

 

『待っています……』

 

 さよは何かに引っ張られるようにアスカから離れて行く。アスカもまた感じていた。何時の間にか装着された右耳の絆の銀が熱を持っている。それが意味することはただ一つ。誰かがネギのマスター権限で呼び出した絆の銀を使ってアスカと合体し、その結果として呪詛の源となったさよがアスカから弾きだされようとしている。

 

「待ってろ! 必ず救って見せるから!!」

 

 徐々に遠ざかり黒に覆い尽くされようとしていたさよは、アスカの言葉に安心したように微笑んで消えた。完全にアスカから分離したのだ。

 その姿を見送ったアスカは決意を込めて拳を握り、合体したことで漲る力に痩身を震わせながら毅然と顔を上げた。そのすぐ目の前に、仮契約カードが浮かんでいる。

 軽装の鎧を纏った神楽坂明日菜が描かれた姿と『黄昏の姫騎士』と記された称号のカードを握り、彼方の空からハマノツルギを手にして下りてくる明日菜に向かって手を伸ばす。

 

「やってやる……! 俺に力を貸してくれ、明日菜っ!」

「任せなさい!」

 

 アスカの言葉を聞いた明日菜は破顔し、伸ばされた両者の手が互いを掴んだ時、世界を黄昏の光に染め上げた。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 爆炎が全てを呑み込み、爆発の跡が空間を震撼させる。

 燃える天空の余波が肌を震わせる中で、魔法を放った術者である超鈴音は行った実験の結果を観察するような眼差しで前を見据える。

 

「…………避けたカ。いや、直撃を逸らしたと見るべきカ」

 

 滞空する爆煙を掻き分けるように下層から抜け出したネギの状態から、防御陣を加工して燃える天空を真っ向から受けないようにして逸らしたと推測した。

 

「それでもダメージは多イ」

「かはっ……くっ」

 

 苦悶の叫びを上げながら杖を操作してなんとか空中に留まることの出来たネギだが、反魔法場(アンチマジックフィールド)発生装置が作動している中では広域魔力減衰現象によって空を飛んでいるだけで魔力を大量に消費する。

 そして超は戦いにおいて、手加減することはあっても容赦をすることはしない。

 

「ラスト・テイル・マイ・マジック・スキル・マギステル」

 

 超の始動キーに反応して、刀身まで真っ黒に染められた刀がぼんやりと光を発する。

 

「火精召喚、槍の火蜥蜴29柱」

「風精召喚、行って!」

 

 ネギの風精召喚と似て非なる系統の魔法を放つ。放たれた29柱の槍の火蜥蜴は、当然のようにネギへと槍を向けて突貫していく。

 迎え撃つようにネギも同数の風精を無詠唱で召喚して放つが、魔法減衰下でも全力を発揮できる超とは勝負にならない。4分の1が中間地点まで辿り着けずに魔力を失って霧散し、半数が激突に耐え切れずに消滅した。残る4分の一も数体を巻き添えに出来ただけで、20体以上の槍の火蜥蜴がネギの下へと襲来する。

 

「くっ」

 

 魔力減衰現象下では下手な迎撃は自身の魔力を消耗するだけだ。迎撃よりも回避を選んだネギは杖に乗って、その場を脱する。追尾機能がある槍の火蜥蜴もその後を追う。

 ネギは常時少数ながらも持っていた魔法薬をバラ撒く。無作為ではなく、風を操作して槍の火蜥蜴に当たるように操作する。

 数体に魔法薬が命中し、爆発が起こって他の個体も巻き込む。より少ない消耗で迎撃を行なうために計算された行動だったが、迎撃に集中し過ぎたが為に急接近した超に反応が遅れた。

 

「上手いネ。が、周囲の警戒が疎かになているヨ」

 

 黒刀を振り下ろしてくる超にネギも父の杖に風を纏わせて対応する。

 ガギギギ、と金属と木がぶつかっているとは思えぬ音が二人の間で響き渡る。上段から振り下ろされた黒刀を頭の上に横向きに掲げたネギが受け止める形だ。

 

「その受け方、失敗ネ」

 

 ガチン、と超が黒刀の柄に付けられた不釣り合いな銃のトリガーのような物が引いた。瞬間、ネギは全身に走った「この場から離れろ」という警戒警報に従って、自らに風の鉄槌を放った。

 

「がっ!?」

 

 自分が放ったとはいえ覚悟もしていなかった為、横っ腹に走った無形の衝撃に口から思わず飛び散った唾を気にすることもなく、視界から超の姿が一瞬にして消える。魔力減衰現象下であったから全力で放った風の鉄槌は威力を減衰しながらもネギの肋骨に罅を入れながらもその目的を達した。

 

「ふむ、今のを避けるカ。勘はいいネ」

 

 先程までネギがいた場所に小規模の爆炎が奔り、黒刀に炎が纏わりついていた。そのままあの場所にいて鍔迫り合いを続けていたら障壁を貫通してやられていたことだろう。下手をすれば父から譲り受けた杖が真っ二つに斬られていたかもしれない。

 肋骨に入った罅の痛みに呻きながらネギは黒刀に注目していた。今の魔法は超が放ったものではなく、黒刀から放たれたものだと感じ取ったからである。

 

「ん? これが気になるカ」

 

 肋骨に走る痛みと常ならぬ魔力の消費の速さに頭痛を覚えるネギの視線から考えを読み取った超は、未だ紫炎を纏う黒刀を掲げる。

 

「言うならば私の切り札その2といたところカ。魔導機(マジック・デバイス)――――魔力減衰現象下でも魔導士が魔法を使う為のサポートアイテムヨ」

 

 もう一つの切り札を自慢げに軽く振り、真っ黒の刀身に光が奔ると紫炎が幻であったかのように消える。

 

「魔力減衰現象下で魔法が減衰されるのは、フィールド下では魔力結合が解除される為ネ。魔導士が魔法を放つ場合、魔導機(マジック・デバイス)は人間では不可能な演算能力で術式の構成を複層構造にすることで減衰を遅らせているヨ。それでも減衰しないわけではないから魔導士が戦う場合は遠距離ではなく近距離がどうしても多くなてしまうネ」

 

 このようにと、強化服に光が走ったと思う瞬間に超はネギの背後に現れていた。超自身の魔法使いとしてのレベルはそこまで高いものではないのに、アスカにも匹敵する移動速度だった。

 ネギは振り返ることを諦め、背後に障壁を障壁する。

 

「なんで、ぐっ!?」

 

 障壁は簡単に切り裂かれ、背中を浅く切り裂かれる。ローブを着ていたお蔭で深手には至らなかったが、衝撃は大きかった。

 

「これには障壁破砕効果も付与されているネ。詠唱を肩代わりしたり発動を高速化してくれたり補助をしてくれているお蔭デ、魔導士達は色んな魔法を素早く展開できるヨ。魔力減衰現象下で威力を見込めなくなた分、機械のサポートがある分だけ魔導士の方が圧倒的に魔法使いよりも圧倒的に速イ。これもまた魔法使いが廃れてしまた理由の一つネ」

 

 無様に退却して追撃を警戒するネギを追うでもなく見下ろしながら魔導機(マジック・デバイス)の解説をする超。彼女の本質は研究者であり、そういう人種はえてして自らの研究成果を語りたがる。

 ネギは今負った背の傷と肋骨のジンジンとした痛みに耐えながら、密やかな策を打つ。

 

「近距離専門が多いなら魔導士よりも剣士や戦士を名乗った方がいいんじゃないですか」

 

 知覚領域を少しずつ広げていく。確かに超は魔導士であり魔法使いではあるが、ネギの感覚では魔力減衰現象下でなければ真っ向から戦えばもう少しマシな戦い方が出来るはずである。

 

「近接専門は魔導騎士と呼ばれているネ。まあ、私はどちらも中途半場だから戦う者としては三流と言われているヨ」

「それだと追い込まれている僕の立場がないんですけど」

「ネギ先生も近距離は専門ではないだろウ? それに初めて魔力減衰現象下での戦闘でここまで戦えている時点で私よりは素質があるネ」

 

 超が策に気づいた様子はない。思った通り、超はネギよりも魔法使いとしての格が劣る。このまま策を実行を移せるかがネギが勝利できるかの鍵になる。

 自身の残魔力量を考慮し、片手に杖を持って突進する。

 

「全然、嬉しくはありませんね!」

「喜んでほしいネ!」

 

 杖と剣が鍔迫り合いをし、互いの得物を持っていない拳がぶつかる。超が強化服に仕込まれているスタングローブを使ってこちらの自由を奪おうと全身に電流を流し込んでくるのを、ネギも雷撃を放つことで相殺する。

 

「ほう、雷属性も使えるのカ!」

「僕は風だけじゃありません!」

 

 確かに風属性を得手としているが、ネギは光も雷も使えるし、適性はそこそこだが火の属性も使用することが出来る。

 魔力によって身体能力を強化しているネギと、強化服によって向上している超の腕力は完全に拮抗していた。一瞬でも力を弱めた方が負けで、魔力減衰現象下で十全に魔力を扱える超に持久戦は圧倒的にネギの方が不利。

 

魔導機(マジック・デバイス)がある以上、魔法の速度で私を超えることは出来ないネ」

 

 言う超の顔面の直ぐ目の前に予兆なく魔法陣が展開され、そこから放たれた爆炎が障壁を張ったネギごと呑み込む。

 

「ぐ……あッ!?」

「紅き焔」

 

 吹き飛ばされた直後、詠唱無しで白き雷や風の鉄槌と同格の魔法が一瞬で放たれる。

 詠唱破棄の魔法の威力は詠唱有りと比べれば格段に落ちるはずなのに、相違ないどこから寧ろ威力が上がっている。これも魔導機(マジック・デバイス)の効果ということか。

 自分が焼け焦げる匂いを嗅ぎながら、ネギは辛うじて意識を繋ぎとめる。

 

「隙有りネ♪」

 

 楽し気な声と共に腹部に衝撃が走る。拳打によるダメージと同時に放たれた電流によって内臓が蠕動し、口から胃の内容物を出したい衝動に駆られるも、続く蹴撃によって蹴り飛ばされた為、意識が飛ばないようにするだけで精一杯だ。

 

「さあ、どうするネ。魔力減衰現象下で遠距離魔法は使えず、接近戦しかない中でも高速処理がある魔導機(マジック・デバイス)がある私には魔法展開速度で劣り、技術も同じときているヨ。大人しく降参でもするカ?」

「まさか……」

 

 と、答えつつも接近戦では確実に超の方が2枚も3枚も上手であることを認めないわけには行かない。忘れていたわけではないが、彼女は以前の古菲と同等の実力を持っている。ネギも戦えなくはないが、近距離から正面から戦って勝てる相手でもない。

 一発逆転を策に託すなど、ネギの性格ではしたくないのだけれど状況はそうもいかない。

 

「ラス・テル・マ・スキル・マギステル」

「ラスト・テイル・マイ・マジック・スキル・マギステル」

 

 距離を詰められれば嬲られるだけ。ネギは始動キーを詠唱することを選択していた。ネギの背後に無数の魔力球が発生し、超も合わせるように始動キーを唱える。

 

「魔法の射手、連弾・火の1001矢!」

「魔法の射手、連弾・光の101矢!」

 

 ネギは超が放とうとする魔法の射手の数にギョッとする。倍どころではなく、十倍の数である。

 

「は、反則だぁっ!?」

 

 思わずネギはそう叫んでいた。ただでさえ、魔力減衰現象下でネギだけが一方的に消耗を迫られているというのに、超は魔法を使用しやすくする道具(マジック・アイテム)まであって、まるで当てつけるかのように10倍の魔法の射手を放ったことに言わずにはいられなかった。

 

「勝負とは、これ無情なものネ」

 

 ネギが魔法の射手を放った直後、激突の結果を見ることなく急速に反転離脱して逃げ出した背中に向けて超は侘し気に呟く。自分が絶対有利と分かった上でやっているのだ。

 魔法の射手同士の激突はほぼ超側の勝利という形で、ネギがその場に留まらなかったのは正解だったといえる。反転離脱から急速上昇したネギの下を1000近い魔法の射手が駆け抜けていく。

 

「もう我慢の限界です!」

 

 超に遊ばれていると理解したのか、ネギの顔が真っ赤だった。血管まで浮き立たせ、精一杯僕怒ってますという風情だが、超には下手な演技だとバレバレである。

 

「僕の全魔力を受けて下さい!」

「そう言われたのなら、ラスボスとして受けて立たないわけにはいかないナ!」

 

 何か思惑があるのだろうが、このような挑発を受けてしまっては悪役の役割(ロール)をしている身では受けて立つしかない。真正面から受けて立ち、例え何らかの罠や策があっても正面から叩き伏せる気持ちで中空に浮かぶ。

 彼我の距離はそこそこ離れている。ネギは全魔力を込めると言ったことを素直に信じるならば、遠距離魔法…………上位古代語魔法の可能性が高い。だが、ネギの残魔力と魔力減衰現象を考えれば、上位古代語魔法の中でも最上位クラスよりかはランクは下げてくるだろう。広範囲攻撃呪文よりも一点突破型の魔法を放ってくる可能性が高い。

 超の推測に結論が出たところで、二人ほぼ同時に詠唱を開始する。

 

「ラスト・テイル・マイ・マジック・スキル・マギステル!」

「ラス・テル・マ・スキル・マギステル 来れ雷精、風の精!」

 

 ネギの詠唱を聞いて、超は自らの推測が当たっていることを確認する。

 超が放とうとしている最初に使った燃える天空に対してネギの魔法は貫通力のある雷の暴風である。単純に正面から打ち合えば雷の暴風が力負けするのは必至。

 

「雷を纏いて吹きすさべ、南洋の嵐!」

 

 詠唱が短いネギの方が魔法発動が早い。強大な術であればあるほど、発動に必要な呪文は長くなり詠唱速度の差が生じる。燃える天空よりも雷の暴風の2小節は長い。同じ系統の術で対抗しても力負けすることは目に見えていた。だからこそ、より早く発動できる術を選んだネギはそこを見越して必勝をきたしたのだろうが、超には詠唱を代行する魔導機(マジック・デバイス)がある。

 

「燃える天空!」

「…………雷の暴風!」

 

 魔導機(マジック・デバイス)で詠唱を省略した超の燃える天空の方が発動が早く発動し、ネギの雷の暴風はワンテンポ遅れて放たれた。

 超の手から放出された極炎と連鎖する空間爆裂があっという間にネギとの中間地点を越えて、遅れて放たれた雷の暴風が威力に乗る前に呑み込むかのように広範囲に広がっていく。

 

「この程度なのカ……」

 

 超の位置からはネギの姿は見えないが逃げられるタイミングではなかったし、燃える天空に呑み込まれたことは間違いない。 

 黙々と上がる爆炎が視界を遮り、魔力の残滓が辺りを覆っていて感知も難しい。勝利の実感は湧かないが、これで終わってしまうのだと思うと気が抜けてしまった。

 

「!?」

 

 ビクン、と超の背筋に何かが奔った。まだ終わっていないのだと、まだ決着していないと勘が叫んでいた。

 

「まさカ」

 

 ネギの居場所を確認しようと、魔導機《マジック・デバイス》の力も使って感知の精度を高める。すると、着弾した場所にネギの姿がない。

 

「まさカ――ッ」

 

 更に感知域を拡大すると、直上にネギを発見した。超に向かって一直線に降下してくる。

 ネギは超が気づいたと分かると急加速、更に落下速度を上げた。

 

「この程度で私は倒せんゾ――っ!?」

 

 見上げた空に異変を感じた。夜空で見えにくいが、積乱雲が形成されている。超の明晰な頭脳はすぐさまこの異変に明確な答えを導き出す。

 

「私の火属性魔法を使って上昇気流を――」

 

 ネギがニヤリと笑って――――環境操作系のものを意図的に攻撃に転化した魔法によって引き起こされたダウンバーストが起こった。ある種の下降気流に過ぎないそれが、ネギの禁呪指定環境操作系魔法によって圧縮されて空気の弾丸となって振り降りる。

 

「行っっけえええええええええええええええええええええええ―――――――――ッ!!」

 

 対処するよりも早く、ダウンバーストの勢いを受けて更に加速したネギの一撃が避ける間もなく超の頬に突き刺さる。ネギの全重量と加速による増加に、ダウンバーストの勢いを合わせれば障壁を展開しようとも簡単に突破された。

 意識が途切れるほどの一撃だったが、超を襲った副次効果が意識を取り戻させた。

 

「がっ、ぐっ……!?」

「ぐぁっ……!?」

 

 エヴァンジェリンを圧倒したカネ神を一時とはいえ抑え込んだダウンバーストの威力は留まることを知らず、超重量の壁が圧し掛かって来たかのように二人して落ちる。

 スカイダイビングなど目ではない勢いで急降下を始めた二人。あっという間に雲を突き抜け、どんどん街が迫っていく。あまりの急降下の速さに意識は散り散りとなり、空気が体を動かす妨げとなる。

 

浮遊(アンチグラビディ)システム…………がぁっ!?」

 

 超が空を飛ぶために必要な強化服の腰に備え付けられている機能を作動させるも、ダウンバーストの下降気流の中では過剰な稼働を強いられてボンッと軽い音を立てて爆発した。もしかしたら先の攻撃でどこか破損していたのかもしれない。

 空を飛ぶ手段を浮遊(アンチグラビディ)システムに依存していた超には、普通ならともかくダウンバーストの影響下で高度を維持する手段は少ない。

 風の勢いで顔の形すら変形する中で藁をも掴むつもりでネギを見ると、彼は勝利を確信した顔でニヤリとほくそ笑んだ。思わず超はカチンとくるぐらいにはイラッときた。

 

「このまま一緒に落ちましょう」

 

 旅は道連れ世は情け、とでも言うようにちゃっかりと超を下側にして風を避けているネギは、魔力切れなのか顔色を真っ青にして逃げないように四肢に絡みついている。

 風よけにされ、四肢を拘束されては超は動きようもない。

 

「わぁ――っ!? 空中制動、飛行魔法――っ!!」

 

 ネギが魔力切れでは超がどうかしなければ二人とも壁に叩きつけられた蛙よりも酷い結果になることを予測できてしまって、割と混乱しながら魔導機(マジック・デバイス)を使って落下速度を落としていく。

 瞬く間に都市の全貌が見え、何度も制動をかけているがあまりにダウンバーストの勢いが強すぎる。

 空中制動と飛行魔法を行なうということは現在地、もしくは上へ昇ろうとする力を働かせることになる。ダウンバーストの下降気流の只中にいる超には上下に揺れる衝撃が襲い続け、彼女に縋りつくネギが必死にならなければならないほどだ。

 どうにか当初の10分の1以下まで落下速度を抑えたものの、飛来した隕石のような速度で二人は麻帆良湖へと墜落し、世界樹の天頂付近にまで水飛沫を上げて着水した。

 暫くの後に湖岸に手がかかる。

 

「ぶはぁっ――っ! 死ぬかと思たネ……」

 

 先に水面から疲労著しい顔を上げたのは超である。

 垂れる水が鬱陶しいのか、犬の如くブルブルと顔を振って振るい落とした超は一歩ずつ、ゆっくりと湖面から上がっていく、左半身を遅らせて。それも当然のことで、左手に魔力切れを起こしたネギを引っ張っているからだ。

 

「……現在、進行……形で、あぷ……僕は死に、そう……です……」

 

 魔力切れで碌な身動きが出来ないネギは早めに引き上げてくれないと溺れそうであった。しかも超はネギが首を伸ばさなければ呼吸が出来ない絶妙な位置で襟を掴んでいる。

 超としては、ネギの所為で成層圏からパラシュートなしスカイダイビングをやらされたような気分だったので、このままネギが足掻いて力尽きるのを待つのもいいような気持ちだが流石にそうはいかない。

 

「はぁ……」

 

 と、大きく長い溜息を吐いてネギの襟を掴んだまま一度は止まった歩みを進める。完全に水面から抜け出したところで、襟を掴んでいたネギを前方に放り投げる。

 背中から地面に落ちたネギが「痛っ」と苦痛に呻いているが、彼のしたことに比べれば超の行為など可愛い物である。

 

「自殺紛いの方法で相打ちに持ち込もうとしたのは評価するガ、魔力切れを起こしては敗けを認めるしかあるまイ?」

 

 黒刀を地に伏せたまま魔力切れで動くことが出来ないネギに突きつける。

 魔力を扱うには精神力が必要になる。逆にいえば魔力を失えば意識を保っているのも辛くなる。目が霞むのだろう、焦点が定まっていないネギが何故か薄らと笑った。

 

「試合に敗けても、勝負に勝つのは僕です」

「何ヲ――?」

 

 この決定的な状況で勝ち誇れる理由が分からず、一瞬思案した超の視界に走った影。

 自らの勝利を確信したネギが魔力切れで気絶したのを放っておいて影に反応しようとするも、ネギに突きつけていた黒刀に何か小さな物体が飛来して想像以上の衝撃に身体が流れて次の動作が遅れる。

 

「アーニャ・バスターキイィィ――――ッック!!!」

 

 超が弾かれた黒刀に体を流されながら向かってくる影を見ると、そこにあったのは小さな靴の裏であった。

 

「へぶんっ!?」

 

 避ける間もなく鼻っ柱に靴がめり込み、口から変な声が出るのを途絶えていく意識の中で他人事のように聞いていた。

 意識の断絶は十秒にも満たなかっただろう。背に土の感触があり、目の前にはフォークがあった。

 

「何故、フォークがあるネ?」

「超さんが危険なことをしないようにですよ」

「…………この声はネカネ先生カ。フォークが目に刺さりそうだから下げてほしいのだガ」

 

 視界一杯にフォークが独占している状況を回避したくて超は、フォークを突きつけている主がネカネだと声から判断してお願いしたのが、クスクスと思わず背筋がゾッとする漏れ出た笑い声が耳に入って冷や汗が止まらない。

 

「どうしてアスカに呪詛なんて叩き込んでくれた超さんに私が配慮しなければいけないのかしら?」

 

 ドッキーン、と音が聞こえそうなほど超の心臓が大きく鳴った。

 

「マジよ。ネカネ姉さんがマジだわ……」

 

 横から聞こえてきた声はアーニャのものだ。察するに先程の超を蹴った足は彼女のものだろう、『アーニャ・バスターキイィィ――――ッック!!!』と名前も入っていたことだし。となると、黒刀を弾き飛ばしたのはネカネが投げたフォークなのだろうかと疑問が過るが、今の超に大事なのは自分の身の保身である。

 

「え、あ、いや…………私は貴女の生徒ヨ? 傷つけるのはよろしくないと思うのだガ」

「ネギまで傷だらけにしといて、何を今更。今の私はこの子達の姉なの、ごめんなさいね。そもそも、アナタ…………退学届出してるでしょ?」

 

 生徒という立場を免罪符にして逃げることは出来そうにない。ネカネの声音はどこまでも冷ややかで、超のことなどどうでもいいという感情が透けて見えている。

 こういう人だったのかと内心で戦慄しながら割と超が真剣に危機に瀕していると、フォークが横から避けられた。

 ようやく開けた視界に、アーニャがネカネの持つフォークを避けてくれたのだと知る。

 

「まあ、ネカネ姉さんも落ち着いて」

「私は十分に落ち着いています」

「いや、どう見ても落ち着いてないから」

 

 ヤバいわこのブラコン、とアーニャが口の中で呟いた言葉が聞こえなくても分かった超も深く同意する。

 フォークを避けられても超が五体投地したままの体を起こせないのは、顔の直ぐ近くにネカネの左足があるからである。右足は黒刀を持っている超の手を踏んでおり、恐らく少しでも体を動かそうとすれば、ネカネは躊躇なく超の顔か首を踏み潰そうとするだろう。冷ややかな声音から考えるにネカネは躊躇なくやる。

 ネカネさんは下着の趣味がいいのだナ、と視界に映る白い下着を見ながら現実逃避気味な超だった。

 ふぅ、と溜息を漏らしたアーニャがしゃがんで超の顔を覗き込む。

 

「ねぇ、超。負けを認めてくれない? どう考えても私達の勝ちでしょ」

 

 完全に死に体なので敗北を認めるのは吝かではないが、腑に落ちない点がある。

 

「その前に聞かせてほしい。どうして二人がここに?」

「私達がここの防衛戦力に配置されてたからに決まってるじゃない。まあ、大した力になってないけどね。しかも魔法まで使えなくなって何も出来なくなっちゃって、まだ戦えた刹那達にに後を任せてここに避難してたらアンタ達が落ちてきたってわけ」

 

 アーニャが言った直後、近くで光の柱が上がった。

 麻帆良湖岸近くにあった残り二つの内の一つのポイントが超側の戦力によって落とされたことを示している。

 

「ところで、さきの私の魔導機(マジック・デバイス)を弾き飛ばしかけたのは……」

「ネカネ姉さんが投げたフォークよ」

「この魔力減衰現象下でネカネ先生の魔力では、もう身体強化も使えないはずなのに、あの威力はなんだたヨ」

「さあ、ネカネ姉さんだし、何が出来ても不思議じゃないけど、早くアスカの呪詛解いてくんない? 正直、ネカネ姉さんが怖いから」

 

 一瞬光の柱を見上げたアーニャが再び超を見下ろして告げた。

 超もかなりネカネが怖い。視線が突き刺さるというのは分かるのだが、発せられるプレッシャーで心臓が不整脈を引き起こしそうなほどだ。

 

「無理ネ!」

「――――超、死ぬ覚悟を持って言ってる?」

「ほ、本当ネ。なにせあれは私にもどうにも出来ない代物だかラ」

 

 ゴォォオオオオ――――ッ、と音が聞こえそうなほどネカネからのプレッシャーが高まって言い訳染みた抗弁を重ねる。

 

「大丈夫だヨ。100年後に曾孫の私が生まれているのだから無事に決まているネ」

「…………へぇ、ということはアンタはアスカの直系なんだ」

「はっ?! しまった誘導尋問カ!?」

「アンタが勝手に喋ったんでしょうが」

 

 致死のプレッシャーに負けて、真実かどうかは分からないが情報をゲロッた超にネカネの威圧が弱まった。

 

「じゃあ、呪詛が解けないんなら負けを認めてロボットを退かせないよ。もう勝負はついたじゃない」

 

 残るポイントは一つ、火星ロボ軍団の首領である超はここで地に伏して起き上がることすら許されないのだから試合も勝負もついているはずだとアーニャは言う。

 

「私の負けは認めるネ」

 

 超の敗北は確定した事項であるが、それと火星ロボ軍団の敗北は決してイコールではないのだと示す様にニヤリと笑う。

 

「これはネギ先生に言たのだガ、『ラスボスをやるのならば第二形態や第三形態があれば別だガ、人間の私が変身など出来ないから代わりに切り札や奥の手を二つや三つ持ていなければ面白みがないネ』。一つ目の切り札が広域魔力減衰現象を引き起こす反魔法場(アンチマジックフィールド)発生装置。もう一つが魔導機(マジック・デバイス)だガ、何時私の手がこれだけしかないと言た?」

「…………どういう意味よ。流石のアンタもこれだけやったらネタ切れじゃないの?」

「私のような小物は物語の中では精々中ボスだと言うことだヨ」

 

 ボンッ、と三人の遥か上空を飛んでいた飛行船が爆発した。その閃光が微かに夜空に光った。

 

「奥の手は最後まで隠しておくものダ」

 

 一瞬走った閃光を覆い隠す様に大きな影が空に広がり、徐々にその大きさを広げていく。

 翼の羽ばたく音が徐々に大きく耳に入り、それに従って周囲の風が徐々に激しく乱れてくる。単に巨大なだけではない。あまりにも圧倒的な力が、自身の存在を繊細に意識に刻み込み、曖昧な認識を許さないのだ。

 

「何かが落ちてくる!?」

 

 アーニャが気づき、叫びを上げた直後に高速で飛来した影が四人の直上にその姿を現し、その大きな翼を広げた。

 言葉もなく、アーニャとネカネは呆然と翼を広げるそれ(・・)を見上げた。

 大きい。ただひたすらに大きい。頭頂までの高さは、優に十メートルを越えている。大きな首を支える雄偉な体躯。血のように紅い両眼が、苛烈な光を放っていた。牙を剥き出しにした口腔から、灼熱の呼気が漏れた。

 岩石を削りだしたような直線と平面だけで構成された鋭角的な体躯。口腔には凶悪な牙が幾重にも並んでいる。そして、無骨な身体の中で、別の生き物のようにのたくる尻尾だけは、生々しく生物的な野太い蛇のような形をしているのだ。

 その姿は旧世界では空想の産物とされているが、魔法世界に存在するある生物に酷似している。

 

「ど、ドラゴン!?」

「正確には違うネ。未来の技術の粋を結晶した機械仕掛けの竜――――機竜ヨ」

 

 アーニャの驚きを超が訂正する。

 改めてアーニャが機竜を見上げれば、ぎっしりと並んだ牙や鱗の一枚一枚に至るまで鉄ではない金属で構成されていることが確認できた。機械であるはずなのにその圧力が肌でも感じられるようだった。

 

「あの機竜は古龍と同等の戦闘力を持つヨ。科学と魔導のハイブリットエンジンで動く機竜は魔導機(マジック・デバイス)と同じく魔力減衰現象の影響を殆ど受けないネ。私から君達に言わせてもらおうカ。機竜と戦う気はあるカ?」

 

 古龍とは、言うなれば現代に生きる神話の怪物である。その強さは正に一騎当千で、御伽噺に謡われし怪物級の強さを誇る。吸血鬼の真祖と並んで最強種と謳われる存在は伊達ではない。

 数ある幻想種たちの象徴であり、畏怖である君臨者。時に魔となり、時に神として現われる万獣の頂点。

 ただでさえ、麻帆良では全開状態のエヴァンジェリンぐらいしか拮抗出来そうな人物はいないのに、魔力減衰現象下でも変わらぬ力を振るうというなら誰にも勝ち目があるはずがない――――例え英雄であっても。

 ニヤリと絶対の自信を匂わせて笑う超は、最後通告のように言葉を続ける。

 

「負けを認めて我が軍門に下るが――」

 

 言葉の直前で極大の悪寒が四人に奔った。

 凝縮した闇が間近に現れたかのように産毛を総毛立たせた四人の視線の先で、どこからか出現した黒い靄が一直線に機竜に向かって行き、鋼の機体の裡に入り込んだ。

 

「明日菜達は上手くいったようね。皺寄せがこっちに来たみたいだけど」

 

 今まで何度も感じてきた嫌な予感にアーニャは唇の端をヒクヒクとさせて機竜の変化を見守る。ネカネもアスカは無事かもしれないという点には安心したようだが、同じように呆けたように機竜を見上げている。

 

「これは流石に想定外ネ。こんなはずではなかたのだガ……」

 

 ようやくネカネの拘束から抜け出ることが出来た超も一緒に呆然と機竜を見上げていると、こちらを見下ろす眼と眼が合った。どこまでも苛烈で負の塊のような瞳は見ているだけでも悍ましい。

 生命持つ存在ではない機竜が過去と未来の負の化身となって、敵も味方もなく、世に終焉を齎すべく世界に生きとし生けるもの全てが滅び去るまでただ只管に万物を破壊し続ける破壊の為の破壊者となった。

 負の源泉となった機竜は極めて具体的な滅びそのものであり、そして自分達はそれに晒されているのだと悟った。

 

「ガアァァァアアア…………」

 

 大気が震える。何かを激しく擦り合わせるような音。それが竜の喉の奥から響いて来ると気付いた。

 機竜の顎が開いて、傍目からでも分かるほど極大な力を持った炎が呻いている。

 感じられる力は明らかにここら一体の更地に変えても余りある。気付いた時には、回避が間に合わぬ威力ではない。魔力減衰現象下が極まっているこの状況では碌な障壁も張れないとなれば防御にも意味はない。

 そんなタイミングで気絶から目を覚ましたネギは、死の具現から皆を守ろうと魔法を発動する。

 

「くっ、うぷっ」

 

 魔力切れの気絶から回復したばかりで極大の炎から皆を守る障壁を張れる魔力なんてない。障壁は張れず、喉の奥から込み上げた大量の血がネギの口元を濡らす。

 

「けほっ」

 

 ネカネか超かアーニャか、それともネギのものか誰かが咳き込んだ。

 ネギも急激に意識が薄くなったように肺が痛んだ。体を折って咳き込んだ。目に針金を差し込まれたようだった。喉が締め付けられた。空気中の水分が急激に下がったようで暑くて暑くて、死んでしまいそうだった。目が乾いた。

 機竜の口が開かれて、極大の黒炎の塊が降って来る。

 

「太陽が……落ちて来る」

 

 近くからネカネの驚愕を押し殺した声が聞こえた。

 全てを滅却する避けようのない死が降って来る。誰もが諦め、超ですら絶望に沈んだ面持ちで見上げるしかない中で、その声が聞こえた。

 

「無極而太極斬」

 

 聞き慣れた、でも違う声が聞こえ、横合いから走った白色の斬撃が極大な炎に到達したと思った瞬間には、最初からそんな物は存在しなかったとばかりに黒炎が掻き消された。

 消しゴムで消されたかのように黒炎が消えても、夢か幻かのように生き残った実感が持てない4人の耳に、ザッザッザッと近づいてくる足音が聞こえた。グルルルルル、と唸った機竜が近づいてくる人物を警戒するように羽ばたいて距離を開ける。

 ネギが霞む目で近づく人物を見る。

 亜麻色の髪を登頂で縛って後ろに流した鎧を纏った騎士が、両耳の絆の銀を揺らして明日菜のハマノツルギを手に勇ましく立っている。

 

「は、はは……遅いぞ……」

 

 ネギが微かに笑う。理屈なんて分からなかった。ここに至る理由なんて欠片も知らなかった。しかし、確実にネギは笑っていた。楽しそうだった。

 

「――――後を頼む」

 

 肉親の息遣いを間近に聞いていられる安心を感じてネギは瞳を閉じた。全身から力が抜け落ちた。頼れるのは思いを乗せた言葉しかなかった。世界の全てがその思いを耳にしたのに違いない。

 生まれて初めて、ネギは父への憧れもない祈りだけの存在になっていた。

 

「任された」

 

 騎士は意識を失ったネギを見下ろしていた。

 そんな騎士にアーニャが恐る恐るの風体で口を開く。

 

「ねえ、私達はアンタをなんて呼べばいいの?」

 

 一拍の沈黙の後に騎士が口を開く。

 

「――――アスカナでいい」

 

 アスカでもあり明日菜でもあり、そのどちらでもない騎士は二人のよく似た笑みと共に自らの名を名乗った。

 




今話・作品の裏話が見たい方は活動報告にて。

次回、第五章の最後

 『第57話 百年後の勝者』

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