魔法先生ツインズ+1   作:スターゲイザー

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第64話 世界が変わって

 

 

 

 

 

 長谷川千雨が魔法世界にまで来たのは相坂さよの遺言といってもいい『自分の分までアスカを見てほしい』を守る為である。でなければ、元来保守的である千雨が魔法世界に来ることはまず有り得なかった。

 それでも世界を移動することに対した不安を抱かなかったのは、アスカの強さが周りに比べても隔絶していたことが大きい。アスカの強さを信頼していたということだが、襲撃にあって追い詰められればパニックを引き起こしても無理はない。

 パニックを起こした千雨が縋りつくとなれば、やはりアスカしかいない。例え死ぬほどの大きな怪我を負っていたとしてもだ。

 

『アスカっ! 危ないって! 早く逃げないと―――――』

 

 展望テラスから抜け出した千雨は、天井から降り注ぐ瓦礫の雨の前には無力でしかないのでアスカの腕に縋りついた。その耳に焦った様子の明日菜の声が聞こえる。

 当のアスカは千雨と明日菜に腕を引っ張られていることにも気づいた様子はなく拳を握り締めていた。恐怖に慄いて目を瞑っていた千雨にはアスカが誰を睨み付けていたのか、当然ながら知る由もない。

 変化があったのは、足下から照らされたらしい光が瞼を通して目に焼き付き、体が浮かび上がるような錯覚を覚えた時だった。

 

『フェイトぉぉぉおおおおおおおおおおおおお――――――――っっっ!!』

 

 地の底から響いてくるようなアスカの怒号を契機として、世界から急に重力が消えてなくなったかのように足元の感覚が消えてなくなった。

 

『千雨さん!』

 

 どこかに連れて行かれそうな恐怖にアスカに縋りつく力を強くしたところで、茶々丸の声が聞こえて千雨の意識は急激な光の爆発に呑み込まれるように消えていった。

 

 

 

 

 

 半身が温かく、もう半身が冷たいという矛盾に苛まれながら真っ先に覚醒した聴覚が音を捉える。パチパチ、と火の爆ぜる音が契機となって千雨の意識がゆっくりと覚醒していく。

 

(……!?)

 

 頬に当たる熱を感じて千雨は目を開けようとして、彼女はひどく後悔した―――――鈍い、だがはっきりとした痛みが頭蓋を震わせる。

 まず視覚があって、それから嗅覚が追いついてきた。実際に頭に穴が開いていたとしたら、こういった痛撃を覚えるのではないかと、千雨は感じた。更に泥臭いとも思った。泥というか、鉄さびが混じった腐葉土というか、鼻にチクチクくる刺激臭が満ちている。

 暫く無言で耐えると痛みは消えなかったが、それでも慣れることは出来た。ゆっくりと瞳を開くと、一時だけ痛みを忘れた。

 

「ぁ……」

 

 星が瞬く夜空へと煙の筋が立ち昇ってゆく。傍らでは地面に座り込んだ誰かが火を焚いており、背後の木に映り込んだ影がゆらゆらと揺れていた。金髪と日に焼けた白皙の肌。座っていても分かる背の高さ、服越しでも分かる体つきも引き締まっているアスカが知性と意志力を宿す眼差しを火に向けている。

 野宿には慣れているのだろう。草を毟った剥き出しの地面に落ち葉や枝を集めた焚き火があって、炎の周囲では串に刺された何かの肉が香ばしい匂いを漂わせている。横たわったままユラユラと揺れる影を見上げ、千雨の声に反応してこちらを見たアスカと視線を合わせた。

 

「起きたか」

「ん、ああ……ぃ!?」

 

 咄嗟に身を起こそうとして、アスカの物らしいローブがかけられていたことに気づく。硬い地べたの方には千雨の物らしいローブが敷かれていて、その上に寝かされた体が強張りきり、体を起こす動作に反応して痛みに悲鳴を上げる。

 

「ずっと寝てたんだ。無理すんな」

 

 中途半端に起こした体が痛みによって体勢を保つことが出来ずに倒れ込みかけたところを手を伸ばしたアスカに支えられる。

 更に肩を引き寄せられ、アスカの肩に頭を置くと徐々に痛みも引いて来て随分と楽になった。

 

「喉渇いてるだろ、飲んどけ」

 

 そう言ってアスカは近くに置いてあった木製の陶器を千雨の前へと差し出した。

 差し出された陶器の中の透明な水がチャプチャプと揺れ動き、喉の奥がひり付いていることに気付いた。千雨は考える間もなくそれを受け取って渇きを癒すために一気に呑み込む。

 眠っていたとはいえ、眠る前の激動で疲れきっていた体が、歓喜に震えて脈動するのが分かる。生きていると感じさせる感覚に喜びが湧いて来て、全身の熱が鼻の辺りに集まってきて千雨は空を見上げた。

 汚染されていない空気の中で夜空に瞬く星々は、千雨が今まで見たことのないほど綺麗だった。

 

「なんで泣くんだ」

「え……」

 

 小さくなっていた焚き火に枯れ木をくべつつ、アスカがぼそりと問う。星空を見上げたまま、千雨の頬が濡れていた。次から次へと滴って、止まらなくなっていた。

 

「知らない、馬鹿。泣けちゃうんだから仕方ないだろ、そんなの」

 

 ごしごしと涙が流れる頬を擦る。擦った先から熱い滴りがしとどに零れ落ちた。

 アスカは何も聞かず暫しの間、肩を貸しながら千雨に何も言わず何もしなかった。

 千雨の頭の上では風で樹上の葉が鳴り、星が遠い彼方に流れていく。静かな夜だった。それほど暗くもない、豪勢とは言えないが篝火もある。まるで夢の一時のような幻想的な世界だった。

 やがて千雨の涙が止まった頃、アスカがゆっくりと口を開いた。

 

「悪かったな、こんな目に合わせてしまって」

「いいよ、少しは覚悟していたことだから」

 

 ボソリと漏らしたアスカに千雨は恨み言を言わなかった。胸の底に吹き荒れているだろう嵐を、黙って抑え込んでいた。やり場のない苦しみを受け止めて耐える強さを、彼女は最初から持っていた。

 

「私、どれぐらい眠ってた?」

 

 快適なベットではなく素肌剥き出しの地面に直で寝ていたので体のあちこちが痛んでいた。起き抜けに関節も痛んでいたので長時間寝ていたのだろうことは間違いなく、恨み言を言いたくなかったから代わりにその疑問が口を突いて出た。

 

「一日半ってところだな」

「じゃあ、今は二日目の夜か」

 

 今いるのは森のような場所のようで頭上を見上げれば辺りの木から伸びた葉が生い茂り、垣間見える空は暗く星が瞬いている。まだ頭に残る鈍い痛みと倦怠感がズシリと体を覆っているので、随分と長いこと眠っていたようだった。

 ボゥ、とする頭で揺らぐ炎を見ていて、ようやく自分がアスカに肩を抱かれていることに気付いた。全体重を預けてもピクリとも揺るがず、人が伝える温かみの安心感に全く違和感を抱いていなかった。

 

「ご、ごめ――っ!?」

 

 頭に走った鈍痛に身を離そうとした体が硬直して顔を顰める。

 

「転移酔いと魔力酔いが併発してるんだ。まだ無理しない方が良い」

 

 引き離しかけた体が肩を掴まれて引き寄せられる。相変わらず千雨が全体重をかけてもビクリとも揺るがないのは頼もしい限りではあるが、年下とはいえ自分よりも体の大きい男に肩を抱かれている現状は年頃である千雨には些か面映ゆい状況だ。

 気恥ずかしいのは勿論のことだが、千雨自身がこの肩を抱かれている状況を嫌なことだと感じていないことにも問題はある。

 

「転移酔いと魔力酔いって?」

 

 努めて今の状況を意識しないように違うことを口にする。

 

「あの時、ゲートポートで世界を繋ぐ要石が壊されたことで扉を繋ぎとめていた魔力が暴走したんだ。暴走した魔力が爆発するんじゃなくて転移の方に回ったのは運が良かったんだろうな」

 

 千雨を見ることなくアスカは定まった形も無く揺れ動く焚き火の炎を見つめながら、当時の状況を思い出すように目を僅かに細める。

 

「発動した強制転移に巻き込まれて俺達はここに飛ばされた。千雨の今の症状は、その時の強力な魔力で行われた強制転移に酔ったんだ。安静にしてれば直に治るさ」

「そうなのか……」

 

 森は深い。頭上には枝葉が重なり、その天然の天蓋に、炎の赤い光が巨大化して映っている。火の届かない向こうがぼんやりとしか分からず、千雨は思わず身震いした。

 元々、夜は人間にとって恐怖の対象だった。それを忘れたのは、電灯が闇という闇を駆逐したからである。夜を恐れるのは、原初の本能なのだ。夜間の森といっても無音になることは決してない。虫の声、そして獣の足音。川でもあるのか、水の音も聞こえてくる。

 

「転移で飛ばされたってんなら、ここはどこなんだ?」

 

 転移前にゲートポートの展望テラスから見た風景は人が造り上げた文明があったが、今いる場所は千雨が殆ど見たことのない高く太い木が乱立する森のようで、随分と遠くに飛ばされたのではないかと思って訊ねた。

 

「メガロから大分離れた場所だな。確か……」

 

 説明しながらゴソゴソとアスカが背中側に手を回すと、ローブかズボンのポケットに入れていた紙を取り出して千雨にも見えるように広げた。

 

「これは?」

「魔法世界の地図だ」

「…………本当に異世界なんだな」

 

 広げられたのは見覚えはないが地図と分かる物で、魔法世界の物と伝えられれば地球とは違う異世界なのだと強く実感する。

 表情の選択に困っている千雨に苦笑したアスカは、右手で地図を持ちながら千雨を支えながら左手で現在位置を指差す。そうすると余計に接触面積が増えたので千雨は赤面したが焚き火の赤さに照らされている中ではアスカも気づかなかったらしい。

 

「今、俺達がいるのは北のメセンブリーナ連合と南のヘラス帝国の国境線に近いここだ。ゲートポートがあったのはここのメガロだから、大体五千キロメートル以上は飛ばされたことになる」

 

 まずはメガロメセンブリアが指差され、そこから現在地である中心部の海に近い湾岸部にほど近い陸地を教えられる。地図上では数センチだけの短い距離に感じるが、地図の左下に千キロメートルから二千キロメートルの単位が縮尺の表記が記されているので、アスカが言うように五千キロメートル以上は飛ばされた計算になる。

 千雨にとっては一瞬で行われた世界間移動も五千キロメートルの移動も非現実性では似たようなものだ。遠い世界のような出来事に鈍痛が止まない頭でアスカの説明を聞いていると、他の皆はどうなったのかと疑問が湧いてきた。

 

「他の奴らは?」

「分からねぇ。自衛能力を持ってない千雨とのどかだけはなんとかしようと思って、ネギにのどかがしがみ付いていたのは見えたし、千雨は直ぐ傍にいたからな。後は咄嗟に分身をして誰も一人にならないように蹴飛ばしたりしたけど居場所までは分からねぇな」

 

 あの時、我を忘れているように見えたアスカだが、千雨よりはよほど事態に対処しようとしたようだ。それに蹴飛ばすという辺りが実にアスカらしい。

 

「魔法世界の総面積は地球の三分の一とはいえ広大だ。それでも皆を探して麻帆良に帰らないとな」

 

 決意を露わにするアスカの影が大地に揺れている。

 ねっとりと絡みつくような深い闇は、人間にはどこまでも容赦ない。そんな夜の闇の中で赤みがかった幻想的な色で炎は燃える。とある神話では炎とは神から人への贈り物であるらしい。気ままに揺らめくその姿に、神や精霊の存在を感じ取った太古の人々の気持ちを千雨は理解できた。

 

「気の長い話になりそうだな」

「そうでもない」

 

 地球で言えばユーラシア大陸にいるたった十人近くを見つけなければならないのだと考えれば、途方もない非現実的なことだと理解できてしまう頭があったから思ったままを口にすると意外にも否定が返って来た。

 

「俺達はまずアリアドネ―に向かうことになっていた。そのことは全員が知っている。こういう事態になれば、みんなまずはアリアドネ―を目指すだろう」

「そうか、なんもないわけじゃないんだな」

 

 示された場所は今いる場所とはメガロメセンブリアの真反対の場所で、アリアドネ―までは何万キロメートルもあるが千雨の胸には大した不安はない。

 流石にゲートポートのような事態が何度も起きるとは考えたくはなく、そのような事態がなければ異常なまでの強さを持つアスカが共にいてくれることは万の軍が付いていてくれるに等しい安心感を与えてくれる。

 見知った相手とはいえ、異性と二人きりであることが千雨にはとても運命的に感じられた。

 

「怪我、大丈夫なのか?」

 

 アスカは左肩と、見える右足、そして腹部の部分の服が破れ、素肌が露出している。ゲートポートで負った負傷はその時に木乃香が治療したが、治癒魔法も服までは直してはくれない。アスカの左肩に凭れかかるようにしている千雨の頬に温かい素肌が触れていた。

 少し頭を持ち上げて左肩に手で触れると、先程まで千雨が凭れかかっていたからか体温より温かいような気がした。

 

「木乃香の治癒魔法のお蔭ですっかり治ったよ」

「そっか、良かった」

 

 何故か少しの苦笑を覗かせたアスカに疑問を覚えつつ、文明の欠片も無い場所にいながらも不安を覚えない人肌の温もりが心地良くて瞼を閉じた。このまま眠れば熟睡出来るだろうという予感を抱きながら身も心も預けきる。

 

「ここにいるのは私達だけか」

 

 視覚が閉じると聴覚の感覚が鋭くなる。

 聞こえるのは虫の鳴き声と風で揺れる葉の擦れる音、バチバチと火が弾けている。なによりも大きく聞こえてくるのはトクトクとリズムを鳴らす心臓の音。アスカの心臓と千雨の心臓の音が重なって、世界がたった二人だけで構成されているような錯覚に頬が緩む。

 

「いや……」

 

 他人の心臓の音を聞いていると安心するという話はどこで聞いたのだったかと夢現のまま考えていると、アスカが何かを言おうとした瞬間に近くの草むらがガサゴソと音を鳴らした。

 風か獣かと千雨が目を開けると、木の影に半身を隠しながら焚き火の光に照らされて明らかに人と分かる影が薄らと浮かび上がっていた。

 

「ん? なぁっ!?」

 

 度肝を抜かれて座ったまま千雨の体が数センチ飛び上がり、幽霊かと思ってアスカにしがみ付く。さよで耐性がついているはずなのに、やはり初見では怖いらしい。

 

「な、ななななななな……」

「茶々丸もいるんだが、って言おうとしたんだけどな」

「へ?」

 

 涙目でアスカに助けを求めていると、困った様子で返って来た言葉に目を丸くして木の影にいる人影を改めて見てみると、炎が揺らいで絡繰茶々丸の姿を炙り出す。

 暗がりから現れた茶々丸は片手に見覚えのある杖を持ちながら二人に向かって歩いていき、焚き火の向こう側で立ち止まると二人を、特に千雨を見下ろして小さく口を開いた。

 

「…………昨夜はお楽しみでしたね、と言った方がよろしいのでしょうか?」

 

 ボソリと呟かれた言葉の意味が最初理解できなかったが、今の千雨は飛び跳ねた際に体勢を崩してアスカの腕に抱かれて胸にしがみ付いている状況なので誤解を招きかねない体勢であることを否定できなかった。

 

「ち、ちが――!?」

「冗談です」

 

 急いで否定しようとしたところで茶々丸に真顔で冗談だと告げられた千雨の目が点になる。

 

「あまり揶揄ってやるなよ、茶々丸」

 

 そう言いながらもアスカも千雨の慌て具合が面白いのか、クツクツと笑いながら言っている顔を見上げた千雨は自分がようやく担がれていることに気付く。

 

「こ、このボケロボが……!」

「動くなって。また倒れるぞ」

「でも!」

「楽にしてろ」

 

 ここは茶々丸に一発かましてやらないと気が済まないと動こうとするが、それよりも早くアスカに体を押さえつけられる。大した力も入っていないのに抑え込まれているのは、単純な力と技量の違いもあるが千雨の体調が思わしくないことも理由の一つである。

 血が上った所為でクラクラとする頭を押さえながら、焚き火の向こう側に座った茶々丸を恨めしそうに睨む。

 

「失礼しました、千雨さん。体調が悪いのにかこつけて今の状況を楽しんでいるように見えたもので」

「ぬぐっ?!」

 

 先程の緩んだ表情を見られていたとすれば千雨には抗弁のしようもなく、意識はしていなかったが状況を楽しんでいたと言われればその通りなので、図星を刺されて文字通り言葉に詰まった。

 こちらを見ている茶々丸の目が恨めしそうに見えるのは千雨の思い過ごしか。

 

「環境も変わって千雨も弱ってんだ。あんま苛めてやんなって」

 

 ポンポンと手近にあった頭を軽く触る程度にアスカに何度か触られると更に茶々丸の視線の刺々しさが増した気がする。

 ガイノイドである茶々丸がどう見ても嫉妬しているように感じた千雨は慌ててアスカから体を離して、体一個分の距離を開けて座る。まだ少しフラつくが気張れば一人で座ってられないほどではない。

 アスカから離れると茶々丸の視線の刺々しさが減ったが、千雨は内心で人肌が感じられないことに物足りなさを覚えながら茶々丸が離れていた理由を問う。

 

「で、なんだって茶々丸さんはいきなり現れたりしたんだ?」

「近くに知っている魔力反応がありましたので確認に行ってました。まだアスカさんも万全ではありませんでしたので」

「万全じゃない?」

 

 見知った魔力反応も気になったが、通常通りに見えるのに万全ではないとはどういうことかとアスカを見る。その理由は茶々丸が教えてくれた。

 

「完全回復呪文とはいえ、完璧ではありません。しかも短時間に負傷と治癒を繰り返しておりますので、その反動は大きいです。当初は千雨さんと同じく寝込んでいたのですよ」

「ニ、三時間で起きたけどな」

 

 言い換えればニ、三時間起き上がれないほど反動が大きかったということでもある。

 

「今はどうなんだ?」

「…………やっと七割ってところだな」

 

 千雨の問いに対してアスカは拳を握ったり開いたりしながら、渡航前にメルディアナ魔法学校校長から言われたことを身を思い知っていた。一日半かかってまだ七割の回復しかしていないのだから。

 寝込んでいる千雨の守りも必要であるから、そのぐらいならば起き抜けのアスカでもなんとか役目をこなせても動くとなるとまだ不安が大きかった。

 千雨が飲むのに使った陶器も茶々丸が木から削り取ったものだし、焚き火の木や葉も彼女が集めたものだ。大半のことを茶々丸に任せてこの一日半を回復に費やして、ようやく七割程度の回復しかしていない。

 

「私が戻りましたのでアスカさんも休んで下さい。体に障ります」

「肉を食ってからな。栄養付けてねぇと持たない。もう焼けただろう、千雨も食うか?」

「何の肉だよ、それ」

「多少、固いけど食えるやつだよ。何か腹に入れとかないと明日から持たないぞ」

 

 アスカが地面に刺さっていた串を二本抜いて、先に肉に齧り付きながら千雨に差し出す。

 食べれる肉であることは間違いないが、アスカは何の肉かは言わなかった。このような森の中に豚や鳥、牛がいるとは思えず、となれば現地の獣の肉と考えた方が自然で、千雨としては遠慮したいが起き抜けの腹が空腹を主張している。

 

「食べれるんだろうな?」

「不味くはない」

 

 些か言い方に不安に感じながら串を受け取って、匂いだけは上手そうなので慎重に端っこを齧って見た。

 

「固い……」

「だろ」

「しかも、味が薄い」

 

 かなり強く噛んでようやく切り取れた肉の味はかなり薄く、確かに言うように不味くはない。当然、上手くもない。

 

「最初は獣臭くて食べれなかったんだぞ。水で洗ったからどうしても薄くなるのは仕方ない」

「香辛料が何もありませんでしてから」

 

 ロボットなので食事を取る必要のない茶々丸はともかく、黙々と食べているアスカも必要だから口に運んでいるのであって、もっとまともな物が食べたいと顔に書いてあった。

 肉の味付けをする香辛料を当然ながら持っていないので、獣臭さを取る為に水で洗ったから必然として薄い味しかしない。焼いても尋常じゃなく固い所為で千雨は数口で諦めた。その間にも黙々と食べたアスカは二本目に取り掛かっている。

 眉間に皺を寄せて固く薄い肉を食べているアスカに、千雨は地面に敷いてあったローブを引き寄せてポケットに手を入れてある物を取り出した。

 

「カロリーメイトあるけど、食べるか?」

 

 千雨が取り出したカロリーメイトを見たアスカは一瞬動きを止めるが、「お前が食えよ」と機械的に肉を口に運ぶ作業を再開する。

 

「肉、食えないんだろ。果物とかは俺が食い尽くしちまったし、食える物は食っとけ。お前の物だしな」

「でも」

「アスカさんはたんぱく質を取らないといけませんので。千雨さんもそれだけでは明日から持ちませんよ」

 

 やんわりと茶々丸にも諌められ、手元のカロリーメイトを見下ろした千雨も確かにこの程度の量では空きっ腹は膨らまないと小さな子供でも分かる。仕方なく無理をして食べる。だが、なんとか一本を食べたところが限界だった。まだ満腹にはほど遠いが、顎が疲れて食べれそうにない。後はカロリーメイトで誤魔化せば、明日までぐらいは持つだろう。

 

「で、魔力反応はなんだったんだ?」

 

 千雨とは違って残っていた肉の全てを食べつくしたアスカは心なしか少し元気になった声で茶々丸に問いかけた。

 

「魔力を発していたのはこちらです」

「これは、ネギの杖か」

 

 背後に置いていた杖を茶々丸が差し出すと、受け取ったアスカは手に持ってジロジロと杖を検分し、その形と魔力反応からネギが受け継いだナギの杖だと判定を下す。長年見てきたので間違えることはありえない。

 

「探知範囲に他の反応はありませんので、あのドサクサで手放してしまったものと思われます」

「となるとネギとの合流は当分の先の話になるな。取りあえず、俺の発動媒体と黒棒は茶々丸が持っててくれたのは助かったよ」

 

 どうやら茶々丸が離れていたのは、探知範囲で反応があった知った魔力反応の確認に向かっていたようだ。結局、あったのは杖だけであったことに期待していたアスカが僅かに肩を落とす。

 杖を傍らに置いたアスカの胸には、六年前に杖と同じく父から譲り受けた水晶の魔法発動媒体が揺れている。

 ふと、発動媒体があるなら制限なく魔法を使えると聞いていた千雨は疑問をぶつけることにした。

 

「魔法が使えるってんならアリアドネ―まで飛んで行くのか?」

 

 生身で空を飛ぶことに一抹期待と大半の不安を覚えて問いかけると、「俺一人なら飛んで行くことも出来たんだけどな」とアスカが苦笑と共に否定する。

 

「私の魔力ジェットでは十五分程度しか全力運転が出来ません。上空には野生の飛竜種も飛んでいますから私達が共にいては足手纏いになります」

 

 申し訳なさげに眉尻を下ろす茶々丸がその理由を告げるが、主に足手纏いなのは常人の範疇にしかない千雨の方である。ここに足止めを食っているのも千雨が目を覚まさなかったからで、そのことを重々承知しているから余計に肩身が狭い。

 

「ネギの杖があるから全員でってのはやれねぇこともないだろうけど、疲れるからもう大陸横断なんて俺もしたくねぇからな。近くにある街から出る船を使おうって茶々丸と決めてたんだ。確か、ノアキスって名前だっけ」

 

 生身で大陸横断するなんてお前だけだ、と突っ込みは内心だけに留めておいて、千雨は街という単語に文明の香りを感じて顔を上げた。

 

「遠いのか?」

「朝早くから出発すれば夕方ぐらいには着くだろう。だから、今日はもう寝とけ。明日は歩くぞ」

 

 頭に手を伸ばされて大した力を入れられたわけでもないのに逆らうことが出来ず、横にならされた千雨は更に上からローブをかけられて「あぶ」と口から変な声が漏れる。顔にかけられたローブを肩まで下げると、何時の間にか茶々丸がアスカの隣に移動していることに気付いた。

 

「アスカさんも休んで下さい。火の番なら私がしますから」

「意地を張ってもしょうがねぇか。頼むわ」

 

 茶々丸はガイノイドなので睡眠は必要ない。アスカも全快したわけではないので茶々丸の勧めに従って休むことにしたようで、その会話を聞いている間にも千雨は直ぐに睡魔が襲って来てウトウトとしてしまう。

 瞼が重くなって目を閉じると急速に意識が沈み込んでいく。

 

「じゃあ、寝る前にゼンマイ巻いとくか」

 

 なんのことだと千雨は疑問を抱いたが瞼が重くて開けられず、気にはなったが睡魔に呑み込まれて意識が徐々に落ちていく。

 

「…………お、お手柔らかにお願い――」

「魔力が有り余ってるからな、全開で行くぜ!」

「■△○☆◇▼●■△○☆◇▼●■△○☆◇▼●?!!!」

 

 茶々丸が何かを言いかけたが、妙にやる気に満ちたアスカの声の直後に人の可聴域では聞き取れない音が聞こえ、ドッタンバッタンと騒ぐ音が気になったが千雨の意識は闇へと落ちて言った。

 実に胸がスカッとするような良いことがあったような気がして、今度は何となく良い夢が見れそうな気がした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ネギ・スプリングフィールドは暑いのが嫌いになった。もっと言えば、ここを抜け出れたら砂漠になど絶対に足を踏み入れるものかと心に決めていた。

 

「砂漠なんて大っ嫌いだ……!」

 

 髪はざんばらに乱れ、今や砂と汗の臭いしかない。朧な視界に入るのは、大地を埋め尽くす砂・砂・砂ばかり。

 もう二日も何も口にしていないので水分を求めて犬みたいに舌が出る。そんな自分をみっともないと思う脳も、ドロドロに溶けてしまっていた。足が動いているのだって単なる本能で、ネギの意志なんてこれっぽっちも介在していない。

 ただ、脳でさえないどこかがこんなところで死ねないと思った。死ねるはずがないと。

 

「のどかさん……」

 

 背中に少女――――宮崎のどかの重みを感じ、一歩一歩、直ぐに消え去る足跡を刻みながら移動を再開した。

 ネギはのどかと共にゲートポートの強制転移に巻き込まれて砂漠に飛ばされて来た。

 魔力と転移に慣れていないのどかは酔いを引き起こして昏睡状態が続いている。一日も安静にしていれば十分に治るが、砂漠では碌な水分も食事も与えてやれず安静にさせてあげることも出来ない。

 太陽が地平線を離れて久しく、悪意に等しい熱線を斜め上からぶつけてくる。真上に差し掛かるこの時間は、日陰になるものも極度に少ない。

 魔法で気温自体は何とかできても強すぎる紫外線だけは避けようがない。露出している手の甲の皮が日焼けで勝手に剥がれ、ネギは額にかかるローブの布越しに、目前に茫々と広がる砂漠に目を向ける。

 周囲は見渡す限りの砂、砂、砂。場合によっては口笛でも吹きたくなるほど幻想的だったが、三日も見続ければ続けば流石に飽きる。どこまで歩いても風景に変化はなく、単調そのものだったからだ。

 皮膚を炙り、脳を沸騰させ、全身の体液を渇いた粉に変える太陽の光。意識を集中しているのが難しくて、何時間も歩いていると、それだけで頭がぼんやりとしてくるのだ。汗は掻いた端から蒸発し、粉のように細かい砂は隙間とあらばどこにでも入り込んでくる。心身を蝕む砂地獄の恐ろしさと厄介さを身を以て思い知らされる。

 そのくせ、陽が落ちた途端に辺りの気温は急速に下がり始める。日中とは別世界のような寒い世界が広がり、動き続けなければ砂漠で凍死してしまうのではないかというぐらいだ。あまりの寒暖さの所為でネギは寝ることも出来ず、この二日間眠ることもなく歩き続けている。

 人体は砂漠での生存に適していない。いくら鍛えても大自然に勝てるはずがなかった。霊長類だ、食物連鎖の頂点だと威張ってはみても、所詮は陸地の一部しか征服できないのだ。過酷な自然の驚異を体験してこなかった身には奇異に思える苛烈な太陽を見上げ、未知の惑星のものとしか思えない砂の大地に目を戻す。

 なだらかな勾配が続き、斜面を登った先には下りが続き、下れば登りが続く。それが永遠とも思えるほどに続き、地の果てまで終わりがないかのように感じていた。

 生きている生物の姿を全く見かけず、二人を残して全ての生物が滅んでしまったかのような錯覚さえ覚える。

 きゅう、と音がした。その発生源を知って、ネギは罅割れた唇で微苦笑する。こんな時でもお腹が鳴ることが馬鹿みたいだと笑わずにはいられない。

 

「行けども行けども砂漠ばかり。町はどこにあるんだ」

 

 背中ののどかを抱え直し、罅割れた唇を舐めながらネギは誰にともなくぼやいた。

 唇を舐めても、砂と僅かな塩気があるだけで水分なんて欠片もない。今ならバケツ一杯の水だって飲める。

 

「何時まで持つか」

 

 ゲートポートで眩い光に包まれたかと思うと、意識が薄れて気がついた時には二人とも熱砂に焼かれて寝転がっていた。気が付いたら砂漠のど真ん中にいたなんて、冗談のような話だった。

 頬を撫でる熱風と焼けた鉄板のような砂に嬲られて目が覚めたが、腹の減り具合や、喉の渇き具合から考えて、それほど長い間、気を失っていたとは思えなかった。

 混乱していて守る対象であるのどかがいるお蔭で冷静さを失うことなくいられた。暑すぎるので風の魔法で周囲の気温を下げ、遮断できない紫外線は着ていたローブを頭まで被ることで遮る。

 ネギの見立てではのどかは転移酔いと魔力酔いを併発している。安静にして回復を待たなければ衰弱していく一方だ。

 問題は食料も水も持っていなかったこと。オアシスもないので補給が出来ず、日陰でも熱線によって砂は熱い。半ば砂に埋もれて寝ていても、例え魔法で気温を下げようとも容赦なく水分を奪われる。

 うろ覚えの知識を総動員して、なんとか地中から水を得ようとしたが全て失敗に終わっていた。根っこを齧ろうにも植物が見当たらない。動く物は蠍一匹すらいなかった。完全に不毛地帯だったのだ。

 

「……うぅ」

 

 背中で少女が苦しそうに呻いた。背中に背負っているのどかを首だけを振り返れば、苦しそうに眉間に皺を寄せて歯を食い縛っている。

 当初はまだマシだった顔色も青紫色に変わっていった。この状態で三日目に突入しているのにまだ耐えられていることが奇跡のようなものだった。叶うならば安静に出来る場所で医者に診てもらいたいところだが、歩けども砂漠から抜け出せる気配がない。

 

「頑張って下さい。もう少しで町に着きます」

 

 嘘である。坂道を転がり落ちるように体調が悪化していくのどかに、少しでも生きる希望を持ってもらおうとついた嘘だ。体力を温存するためには黙々と距離を稼いだ方がいいと理性では分かっていても、音の無い自然の沈黙に耐え切れずに思わず声を発してしまったのだ。

 夜も急激に下がった気温に曝されないようにのどかに魔法をかけ続けていた。如何にネギが莫大な魔力の持ち主であろうとも使い続けていれば何時かは底をつく。

 のどかのことを考えれば空を飛んで行くのが最善だが、どこに町があるのか皆目見当もつかず、浮遊術で空を飛んで探しても見当たらない。どっちに行けばいいのかも判断がつかない中で出来たのは、魔力の消耗を抑えて耐え続けるしかない。

 自分の杖があればまた違っただろうが、指輪の発動媒体しか状態では魔力消耗が多いので博打に出れない。

 

「くそっ」

 

 空には飛行機どころか、鳥さえも見かけない。

 救出のあてがなくても動かないことが唯一の正解だったと分かっていても、無謀だと分かっていても、動かずにはいられなかった。

 この砂漠の中で魔力を使い尽せば、ただの子供になってしまうネギでは、今の疲労状況では恐らく一日と持たない。これ以上の魔力の消費を極力抑えるために、三日目の今日は使っているのは風で周囲の気温を下げるだけ。のどかを背負うのは自前の体力である。

 ネギは直ぐに空になった頭で足を動かし続けた。それだけは砂漠の良いところだった。不安も迷いも汗になって蒸発し、身の内に留まるということがない。吹き付ける熱風も手伝って、思考という思考が毛穴から流れ落ちてゆく。

 なんにせよ、没頭できることが目に前にあるのは、いまのネギにとって救いだった。その間は余計なことを考えずに済む。なにも出来ない自分の無力を呪い、ぶつけどころのない怒りを持て余さずに済むのだから。

 

「のどかさん」

 

 声をかけてみたが当然ながら帰る声はなかった。

 背中越しに早い心臓の鼓動と、胸の弾力が伝わってくる。ブラは外した。少しでも風通しを良くして過ごしやすいようにするために外したのだ。緊急事態なので了解を取ることも出来ない。

 顔が赤く火照っているのに発汗はない。医療の知識がないネギにも明らかな異常だと分かった。

 のどかを助けるには急がなければならないという気持ちと、進むべき道も分からない中で消耗は間違っているという気持ちの矛盾した想い。

 だが、ネギの肉体も確実に限界へと近づいていた。

 のどかを守るために魔法を使い続ける所業。積もりに積もった疲労はコップに水を溜めるように流れ続ける。三日間の間、碌に休まずに魔法を使い続け、ずっとのどかを背負って歩き続けた消耗。

 せいぜい、後半日保つかどうか。幻覚も、幻聴も、まだのどかを守ると誓った理性が許していないが段々と時間の感覚が麻痺して足が機械のように動くだけ。

 

「……ん?」

 

 ネギは焦点が定まらなくなりつつあった目を瞬かせた。そうしないと視界の先に映るモノが本物であるかどうか確信が持てなかったのだ。

 やがて薄れた視界が定まった先に、熱による蜃気楼の如く揺らいでいるが動く黒点を発見したのだ。

 

「ぉぉぉぃっ」

 

 水分を失って乾いて張り付いた唇を引き裂き、流れ込んでくる血で潤した喉で掠れた声で叫んでいた。

 小さく、自分の耳にしか聞こえないか細い声。

 自分達のような迷子が他にいるとは考えられない。同じようにどこかに転移したであろうアスカや小太郎や生徒達ならば可能性があるが、こんな場所にいるのは自分達だけだと思いたい。

 

「人だ」

 

 残った魔力で視力を強化して、視線の先にいるのが確かに人で、集団で砂漠を渡っている旅人のように見えた。

 これでのどかを助けられる、と思った。

 人がいるなら水もある。集団なら余分な食べ物や、こんな砂漠を渡る為に緊急的に用意している薬もあるかもしれない。それに町まで連れて行ってもらえればのどかを医者に見せることも出来るだろう。

 

「……助け、て……」

 

 駆け出したかったが、のどかを背負ったまま走る力はもう残っていなかった。

 大きな声も出ず、これでは気づいてもらえない。このままでは気づかぬまま行ってしまう。そう考えたネギは背中に背負っていたのどかを片手で抱え直し、唯一使っていた魔法を解く。すると世界が切り替わったかのような熱風と上昇した気温が襲うが構わない。

 

「ラス・テル・マ・スキル・マギステル」

 

 強烈な陽射しが容赦なく降り注ぎ、熱砂がジリジリと体を焼く。吸収した熱が頭に籠って放出されない。四方から熱風を浴び、まるで電子レンジに入れられたような気分だった。

 問題は熱だけではない。絶えず砂塵が叩きつけ、視界を奪い、呼吸を困難にしている。

 

「魔法の射手!! 光の一矢!!」

 

 全ての魔力のこの魔法に込めて、天に向けた拳から放った。

 空へと昇っていく光の矢が中空で破裂する。残ったネギの魔力が全て込められた光の矢の破裂は派手だった。目論見通り、真下にいたネギには間近で花火が炸裂したような音と光が盛大に広がった。

 空に広がる大輪の花のような光に相手は気付いたようだった。視力を魔力で強化しなくても向かってくるのが見えた。

 助かると考えたネギの緊張の糸も切れた。安堵で一気に膝が抜けた。

 

「……え?」

 

 のどかを背中に乗せたまま、視界が傾いて地面が迫っていく。膝が折れてそのまま砂の上にうつ伏せで倒れ、次第に意識が遠のいていくのを感じた。

 

(助けてくれるなら悪魔でもいい)

 

 消えていく意識の中で薄らと思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 アスカ・スプリングフィールドは文明人であると同時に野生人でもある。霞を食って生きられるほど生命力旺盛ではないが、星空をテントに野の花をベッドにして野営しても苦にならないほどだ。

 こと、サバイバル能力は、かなりのレベルである。その気になれば何の道具もない状態で無人島に住まいを築き、手際よく食料を調達し、火を起こし、そこそこ快適な新生活を手に入れることも可能だ。だが、アスカは現代社会に生きる男子である。そのような生活力をわざわざアピールしたとは思わない。

 しかし、そういう場面に陥った時、彼の能力は実によく働いた。

 森が奏でる歌がある。それは優しく吹く風に、心地良く枝葉を揺らす木々の囀りだ。森はどこまでも続く。植生が豊かで人の手が入っていないために緑の密度が濃いのだ。まだ日中だが、山は薄暗くあった。

 森の木々は、その数メートルはあろうという身体の中に押さえ込めない生命力を、枝葉の鮮やかさに反映させていた。太陽は昼に近づくにつれ高く、真っ白く輝きを強める。

 並んで歩くことができず、先頭をアスカ、続いて千雨、殿を茶々丸の順で進む。

 ネットアイドルとして夜型である千雨は日の出と共に起きるのは苦痛ではあるが早くに寝たこともあってスッキリと目覚めることが出来た。半日以上も歩くとなれば体が持つかと心配にもなったが、アスカが簡易パスを繋いで魔力供給をしてくれたお蔭で大した疲れもない。

 

「これぞ雄大な自然也ってか」

 

 目の前にはどこまでも自然豊かな風景が広がっていて、雄大な自然を前に感動を覚える前に皮肉を言ってしまう辺りが千雨らしい。

 南の方角の山稜が、朝の光を帯びて金色に輝いていて、空は高く陽射しも明るい。周りは人の手の入っていない原生林。どれもこれも樹齢何百年という巨木である。涼しげな樹肌を持った木々が、互いに一定の間隔を置いて立ち並び、遥か天上で泡立つように重なり合っている。森の中は分厚い枝葉の天蓋に遮られて薄暗く、空気はひっそり澱んで寒いほどに冷たかった。木々が濃いために、その光は何分の一も大地には届いてはいないようだ。

 背の低い樹木は育たないらしい。互いに広く間隔を開けた大木の幹が何百もまるで柱のように並び、柔らかな下草や樹の幹にこびりついた蒼い苔が様々な色合いの緑を連ねた絨毯となって敷き詰められた空間は、太古の民の神殿を思わせて、厳かに静まり返っている。地面は太い根に押し上げられて波打ち、幹の隙間を早朝の薄い霧が漂っている。人の声は聞こえず、もちろん車の音も聞こえない。耳に届くのは、どこか遠くで水が流れている音だけ。

 

「ん?」

 

 樹上で生活する動物か魔物だろうか、奇妙な吠え声が木霊する。それに驚いたのか、あちこちで鳥らしき生物が鳴く声と羽ばたきが無数に唱和して、密林の静寂を押し破った。

 千雨の前を何かが素早く動いていく。「あっ」と声を上げた時、別の影が千雨の直ぐ目の前をヒラヒラと飛んでいった。

 近くに生えていた樹の葉が騒めき出す。そして枝葉の陰から何百という蝶が、太陽に照らされて黒く輝く羽をはためかせて空へと舞い上がっていく。羽根を散らして遠い空へと飛んでいく。

 千雨は虫が好きではないが、こんなにも綺麗な蝶ならば触ってみたいと思って無意識に手を伸ばしていたが触れる前にアスカに止められた。

 

「その蝶に触らない方が良い」

「へ? なんでだ。綺麗じゃないか」

「千雨さんが知らないのも当然ですが、その蝶は見目は良いですが人を簡単に殺す毒を持っているので危険種指定されています。足元の花も毒性があるので気をつけた方が良いかと」

 

 手を止められて少し不満を持ったが、その理由は直ぐに茶々丸が説明してくれた。

 

「毒!?」

 

 辞書を読みあげるような茶々丸の説明に飛び跳ねながら千雨はあちこちへと目を向け、その方向全てに見たこともない植物や昆虫がいることを悟って全てが危険に見えた。

 僅かに見覚えのある要素を兼ね揃えながらもどこか違う無数の昆虫が緑の世界に満ち溢れていて、ネットアイドルをしていることから生粋のインドア派であった千雨にもより新鮮に映っていたのだが、とてもデンジャラスなゾーンに見えて来た。

 

「地球とは全然、植生も違うからな。俺の魔力が覆ってる限りは大丈夫だと思うけど、無闇矢鱈に触らない方がいいぞ」

 

 今もトンボに似た姿形をした昆虫が、小さな小川の上で勇ましく羽を動かして滑空してゆく。

 目に入るのは濃い緑ばかり。捻じくれた木々と鬱蒼と茂る枝葉、それにぶっとい蔦のお蔭で、地表近くには陽の光も碌に射してこないために薄暗く、千雨の視力ではほんの十メートル先を見通すことも難しいだろう。

 流れる風に垂れ下った枝が揺れ、濃緑の光沢ある表側と淡緑の柔らかな葉裏が交互に閃いた。足元はふかふかとした黒土。うっすらと生えた苔の上には、様々な獣らしき者達が通った跡がある。緑の大気が胸を安らげる。

 どこかで小さく鳥らしき鳴き声が聞こえた。小枝がざわめく。

 

「綺麗だ、本当に」

 

 千雨は感激したように言い、麻帆良よりも圧倒的に澄んだ空気を取り込もうと深呼吸した。見上げれば、緑の天蓋がうねりながらどこまでも続き、空は葉擦れの隙間の小さな幾つもの煌めく点に過ぎなかった。風に吹かれて見る間に次々と移動していく。

 

「綺麗なだけじゃないんだよな」

 

 アスカは後ろを歩く千雨に聞こえないようにボソリと呟きながら、歩きやすいようにネギの杖で足元の枝や葉を刈り取りながら序に危険な物も排除していく。

 森の中を歩く際に、気をつけねばならないことがある。道に迷わないで進もうなどと思わないことだ。本当のところは違うかもしれないが、太陽の位置や持っている地図を見比べて進む。木々の枝が頭上を覆い隠そうとも空を飛べば問題ないといっても、不規則に聳える木々のため、真っ直ぐ進むことなど望むべくもない。

 周囲360度目につく範囲全てが森の中。どれだけ遠くを見つめようとも変わらない。同じところをグルグルと回っているだけかもしれない、と思い込まされる光景と近くの木の幹に手を触れても先程も同じ形の木があったように思えてくる。道の高低差はそれまで歩いてきた距離を勘違いさせ、下草を払い、乗り越えながらの行程は体力を削る。

 全ての要素が容易に体力も集中力も奪い去っていく。

 本来、遭難したのならば、一所で動かずに助けを待つのが定石なのだろうが、救助などお世辞にも期待できない状況ではある。ある程度進んだら立ち止まって進路を確認する作業を続けるので一般人である千雨には良い休憩になっていた。

 生まれてから今まで屋根のない場所で眠ったことなどないし、扉のない場所で用を足したこともない。虫を見て慌てるのは通常では虫がいないことが前提で、足下のあらゆる草の裏、土の中、闇の上、あらゆる場所に何かが棲息していることに慣れると気組みも変わる。

 看板を探せばどこにでも食べ物を見つけられたのは、そこが文明のある所だったからだ。そんなことも、こういう機会にでもめぐり合わなければ自覚できない。もっとも、森の中は汲まなく食料だらけではある―――――空腹に耐えかね、その内にそこら辺や身体中に群がってくる虫を摘んで食べるようになるまで、何日かかることだろうか。

 もし、アスカと茶々丸がいなければ森にいる魔獣に一日と待たずに食われたかもしれない千雨。如何なく能力を発揮するアスカのお陰で、多少の不自由はあっても安全と食料が確保されており、直ぐにどうこうなるという心配だけはせずに済んだ。

 日はまだ高い。朝早く出発したので、このペースならば夕方までには目的地に着くだろうとアスカは脳裏に描いた地図で目算しながら判断する。

 そして―――――振り向かずに視線だけで探る。木々の枝に遮られても真夜中ほどの暗さにはならないが死角に入ると驚くほど見えない。それでもうっすらと見えた。

 あちこちの木々や地面から伸びる豊かな葉に隠れるように忍び寄ろうとしている獰猛な気配の数々。獲物が絶好の隙を見せるのをじっと凝視している。戦慄は感じなかった。ただアスカは、静かに行動しただけだった。

 

「――っ!」

 

 ギロリ、とアスカが殺気と共に睨みを放った瞬間、獰猛な気配達は手を出せば自分達が狩られるのだと分からされた。獲物になるのは御免と尻尾を巻いて逃げることを選択する。

 

「ひっ!? な、なんだ!?」

「兎かなんかだろ。遠ざかっていくし、心配はねぇよ」

 

 ガサゴソと狼ぐらいの体格の魔獣達が逃げ去っていく音に千雨がビクついているが、気にさせることでもないと大したことではないと伝えるとホッとした様子を見せる。兎などと言ったが、本当はライオンよりも凶暴な魔獣なのだがわざわざ怖がらせることも無い。

 その後も何度か魔獣がアスカの感知範囲に入ったが悉く殺気を向けると直ぐに退散した。

 

「むぅ、リハビリが出来ない」

 

 アスカとしては、この程度の殺気で逃げるような相手では回復明けのリハビリにもなりはしない。

 

「どうかしたか?」

「なんも襲って来ねぇなって思ってただけさ」

「止めろよ、怖いこと言うな」

「聞いてきたのは千雨じゃねぇか」

 

 千雨がそう言うと思ったから口に出さなかったのだ。怖くなったのか、背中にピトリとくっ付いてきた千雨に溜息を漏らす。勿論、実際に魔獣を引き込むのは駄目だなと千雨の反応から感じ取ったためである。

 魔法世界に連れてきてしまった負い目があるので千雨の気持ちを無視してまで自分の意向を優先させることは出来ない。ならば、バレないようにすればいいのだが、そうは問屋が卸さない。

 

「…………」

 

 見張るように最後尾に茶々丸がいるのでアスカは変なことは出来ない。

 茶々丸も二年間、小太郎とエヴァンジェリンと同じく二年間を過ごしたので考え方が大分バレている。アスカならば大半の魔獣を寄せ付けないようにすることは可能だと知っているので変な行動は取れない。

 アスカが昨夜のねじ巻きを張り切り過ぎたことに原因の一端はあるかもしれないが、どちらにせよ茶々丸の目はアスカの行動を見逃しはしないだろう。

 闘いたくて仕方ない体が悶々としたエネルギーを溜め込んでいると、足元を覆っていた葉や枝が無くなっていることに気付いた。

 

「ん? 森を抜けたか」

 

 木々の群れが途切れて、目の前に鏡のように美しい湖が姿を現した。

 向こう岸まで五十メートルぐらい。楕円形の湖で、鏡のように水面に微かに、泡が浮かんでいる。湖面が太陽に照らされてキラキラと光っていた。小さな槍のような形をした魚達が忙しげに泳いでいくのが見えた。

 

「わぁ……」

 

 人の手が入っていない自然そのままの湖をアスカの後ろから顔を出して見た千雨は呆けた声を上げた。

 ただ荒涼とした風が吹くに任せている。乾き切った水色の、そんな空。彼方から吹き降ろしてくる風は、当然の如く澄んでいた。鮮烈で汚れなく―――――そして人に吸われることを拒むほどに。

 

「魔力供給していたとはいえ、朝から歩きっ放しでしたから、ここでお昼休憩にしませんか」

「そうだな、そうすっか」

 

 魔力供給による疑似身体強化で通常よりは疲労を覚え難いとはいえ、何時間も歩き続けていたので疲れないわけではない。自分を基準にして物事を考えてはいけないと周りから散々に言われているので休むことにする。太陽が天頂近いので昼食に丁度良い。

 取りあえず、一休みできると分かって早々に日陰に腰を下ろした千雨の近くでアスカが靴を脱ぎ始めた。

 

「んじゃ、湖に潜って魚でも取ってくっか」

「いえ、ここは私が」

「機械なんだし、水に濡れたら駄目なんじゃないのか?」

「新ボディになって水洗い可になりましたので大丈夫です」

「仮にも女に服を脱がせるのはな……」

 

 と、どっちが魚を取って来るかで揉めているのを眺める。

 正直に言えばどちらが潜ろうとも千雨としては労せずに食料に有りつけるのだろうから、どうでもいい問題である。疲労と心地良い暖かさ、どうにも眠ってしまいそうな条件が揃っていて食事が出来るまで一眠りするかと瞼を閉じようとしたところで。

 

「ギャァアアアアアアアアアアアアアアアア!!」

 

 ガラスを引っ掻いた音のような声が辺り一面に響いて、眠ろうとしていた千雨はビクリと地面から五十センチは体を浮かした。

 

「な、なんだ!?」

 

 キョロキョロと辺りを見回して、アスカと茶々丸が横の方を見ていたのでその視線を追うと、向こう側の水辺で二匹の生き物が格闘していた。

 

「蛇女だな」

「蛇女ですね」

 

 先程の声の主らしい片方の生き物――――五メートルを超す人間の女性の上半身に下半身が蛇が、もう一匹の方は二メートル程度でブタのような体つきをし、ゾウの鼻のような口吻を持っている。

 

「あれは獏ですね」

「獏?」

「旧世界では伝説上の生き物とされている生物です。これは別に珍しい事ではなく、旧世界で伝説上とされている生物は大体魔法世界にモデルがいます」

「そうだったのか、初耳だ」

 

 アスカと茶々丸がそんな会話をしている間に、とぐろを巻いた妖蛇が獏を絞め殺そうとしている。千雨はファンタジーそのままな生物同士の戦いが怖くなって、立ち上がって急いで二人の下へ向かう。

 二人の下へ辿り着くとアスカが腕を組んで戦いを見守っていた。

 

「どっちも不味そうだよな」

「食べる気なのかよ!」

 

 スパン、と緊張状態に突入しているのに食べネタから離れようとしないアスカに、走りながら跳び上がって頭を平手で叩く。共に立っていると身長差の関係で飛び上がらなければ頭を叩くことが出来ないのは少しずるいと千雨は思った。

 

「助けないのですか?」

 

 どうにも戦況は体格の大きさを生かした蛇女が優勢に進めているようで、見た目的に動物と大差ない獏に感情移入したらしい茶々丸がソワソワとした様子で問いかけて来る。

 

「自然界の掟ってやつがあるのに、可哀想だからって割り込むのはどうかと思うぞ」

「それは、そうなのですが」

 

 千雨としては下手に人間ぽさを残している蛇女も怖いし、あまり可愛げのない獏もどっちもどっちにしか感じないが茶々丸には違うらしい。そうこうしている間に蛇女は獏を絞め殺したらしく、とぐろを解いて口を何倍にも大きく開けると獏を一飲みにし始めた。

 

「うわ、グロ……」

 

 上半身の大きさは人間と大差ないのに二メートル近い獏を異常なほど開けた口から呑み込んで行く様は、千雨が思わず漏らした感想通りアスカも眉を顰めている。胴体が獏の形に膨らみ、下半身に呑み込まれていくのは傍目に見ていても気持ちの良いものではない。

 

「食欲失くした……」

「私も……」

 

 食べるという行動で今のを思い出すので昼食時に関わらず、一気に食欲が減退した二人はそれぞれ揃って口元を抑えている。先ほどのバイオレンスな光景は、うっかり気を抜けば朝食に食べた果実をリバースしてしまいそうな力があった。

 

「あ」

 

 茶々丸の間の抜けた声に二人が顔を前に向ければ、周囲の水を沸騰させ、人面邪身の蛇女が天空へ向けて飛翔していた。分かり易く言うならばアスカ達のいる場所に向けて跳んだのだ。

 高く舞い上がると、頭を返して急降下する。三人の近くの水面すれすれでふわりと止まると顎を外れるほど開いた。無数の尖った牙が露になる。

 

「オギァァァァァァァァァアアアアアアアアッ!」

 

 大地を震わすなような咆哮が響き渡った。周囲の大気がビリビリと振動し、産声のような咆哮の大きさに全員が耳を抑える。

 

「やる気満々だな」

 

 耳を両手で抑えながらアスカが呟くと、蛇女は一声鳴いた後は身をくねらせ、一直線にこちらへ向って来る。

 

「茶々丸は千雨を頼む!」

 

 何もないと思うが、アスカは後ろに叫んで迎撃する為に走り出した。すると蛇女は微妙に方向を変え、接近してくる。

 全長は七、八メートルはあるだろうか。胴が細く見えるが、それでもアスカよりは遥かに太い。頭部は若い女のようで、ざんばらの髪が風に嬲られている。直径だけは人間大の大きさの顔は嗜虐の色で染まっていた。頬の深いところまで切り込んだような口には唇がなく、隙間なく並ぶ牙が剥き出しになっている。どことなく、笑っているようにも見えた。

 

「俺達は餌ってことか、分かりやすいねぇ。これなら遠慮しないでもいいか」

 

 スピードが乗る前にアスカは蛇女に接近、素手の右拳を突き出した。

 

「!」

 

 蛇女は驚異的な旋回性能で軽く出した拳を回避すると、完璧に油断しているアスカの背後を取って首筋に牙を突き立てている。牙はアスカの皮膚を突き破り、服に鮮血が滲ませている。

 

「バ~カ、分身だっつうの」

 

 噛みつかれている分身がダメージで消えて、真横に現れた本体が蛇女の顔を殴りつけた。

 バヅンッ、と音が響く。殴打というより、破裂したような音だった。一撃で蛇女が傾ぐ。蛇女の口の牙が折れて僅かに彼我の距離が開く。アスカは一気に間合いを詰め、左右の拳を連続して叩き込んだ。打撃に圧され、蛇女が後退する。

 

「ギャギャアアアアアアッ」

 

 不快気に唸りを漏らした蛇女がガスを漏らしたような異音を発して口中より吐瀉物のような液体を吐き出した。

 青緑の不気味な色の液体は危うく避けたアスカの脇を掠めて、数メートル後方の地面に撒き散らされた。ジュウジュウと音を立てて、地面から煙が立ち上る。砂が溶けてヘドロのように濁っていた。

 

「毒液か」

 

 呟くアスカの虚をついて、蛇女が身をくねらした。凄まじいスピードでアスカ目がけて突っ込んで来た。

 蛇女が今度は炎を吐く。毒液に火とは芸が細かいと思いつつ、苦し紛れで狙いが甘いので易々と躱し、跳躍する。両手を重ねて力を込め、落下の勢いを加えて殴りつける。轟音を立てて蛇女の顔が砂浜の地面に深く埋まった。

 振るわれた尾は片手で受け止められる。アスカは尾をそのまま両手で持ち、力に物をいわせて振り回す。十秒ほど振り回した後に斜め上の上空へ放り投げる。

 放物線を描いて頭部がある重さの関係か頭から落ちていく蛇女を追って跳び、右腕を向けて魔法の射手・雷の一矢を放った。

 掌から放たれた雷球が尾を引いて飛び、避ける間もない蛇女の眉間に命中して、砂場に近い水上に咲く爆発が上がった。蛇女の悲鳴に倒したかと思った瞬間、炎の向こうから火傷塗れの蛇女が顔を出す。

 顔が焦げ、牙が幾つか折れていたが致命傷ではない。

 

「ケギァァァァァァァァァアアアアアアアアアアアッ!」

「結構、丈夫だな」

 

 跳んでいるアスカが感心しながら手に持っていた杖を握り直すと、蛇女が突進しながら顎を開いた。

 牙が触れる直前、アスカは思い切り後ろに仰け反った。バランスを保つ事を考えず、いや寧ろ積極的に倒れ込む。下は砂浜、痛くは無い。直ぐ目の前で、ガチン、と音を立てて顎が噛み合わされる。

 

「――アスカっ!?」

 

 蛇女が圧し掛かり、アスカの姿がその下に消えた。盛大に砂が舞い上がり、千雨が悲鳴を上げる。

 アスカはそのまま勢い余って通り過ぎようとする蛇女の無防備な腹へ、紫電を纏わせる杖を持っている右腕を突き上げる。杖の尖っている方が中ほどまで埋まり、強い手応えに引き摺られそうになる。

 

「ギィィィィィャァァァァァアアアアアッ!」

 

 蛇女が叫び、砂浜の上をのたくった。引き裂かれた腹から血と、赤黒い何かが零れ出し、砂浜を赤く染める。

 砂の半ばまで埋まりながら、アスカは杖を蛇女の腹部に深く突き立てている。だが、蛇女は悲鳴を上げながらもアスカを逃がそうとはせず、そのまま更に押し込んでくる。圧力が高まり、息が詰まる。

 

「お・も・い・ん・だ・よ――――ッ!!」

 

 アスカは圧されたまま、全身に自身の魔力光である白色に覆われながら魔力に任せて身体強化を施し、杖を持っていない方の手で蛇女の腹を殴りつけた。

 

「ギャァアアアアアアアアア!?」

 

 体を貫いている杖の直ぐ横を殴りつけられ、再び蛇女の悲鳴を上がる。

 悲鳴を上げて力が緩んだところを足を抜いて蛇女を上空に蹴飛ばして、地面から立ち上がる。視界の端に、茶々丸に圧し留められた泣き出しそうな千雨の姿を認め、早急に決着をつける決心を固める。

 

「雷の槍!」

 

 素早く腰を落としつつ捩じり、捻りこむようにネギの杖に雷の槍を纏わせて落ちて来た蛇女に叩き込む。腰から肩、腕、拳と伝わった螺旋の衝撃を込められた雷槍が避けようも無く蛇体の胴を貫いた。

 貫かれた蛇女の体から紫色の血が吹き出すよりも早く、「来い、黒棒」と言って呼び出した黒い刀を握ったアスカの右手の筋肉がローブ越しにでも分かるほどに盛り上がる。

 

「オラァッ!」

 

 弾けた鱗の中に深々とめり込んだ雷槍を引き抜くことなく、もう一方の手に持つ黒棒に魔力を纏わせて蛇女の体を斜めに切り裂いた。

 同時に雷槍を引き抜くと、間欠泉の如く紫色の血と透明な体液が迸る。それを軽やかな足取りで避けて、アスカは空中に飛び上がった。見下ろした蛇体は満身創痍。大量の出血で染まっていた。

 

「フェアリー・テイル・マイ・マジック・スキル・マギステル 来れ、虚空の雷。薙ぎ払え、雷の斧!」

 

 勝負を決めるべく、黒棒を送還してネギの杖を使って雷系の上位古代語魔法である雷の斧をその動きと共に振り下ろした。

 空気を切り裂いて飛来した雷の斧が着弾して上がった炎の中から響く蛇女の絶叫。高く高く響いたそれは、やがて弱まり、尾を引いて消えた。

 炎が鎮まった後に、焼け焦げ一部が煮立った砂浜の中央にアスカは降り立った。骨も残さず焼き尽くしたのか、蛇女は死骸もない。

 

「やり過ぎたか?」

 

 焼けて結晶化した砂はガラスのようにジャリジャリしていて、跡形も残さずには流石にやり過ぎた気がしたアスカの頬にタラリと汗が流れていく。

 

「ま、いっか……ん?」

 

 どうにも力の調整が鈍っているのはまだ本調子ではないからか。特に千雨と茶々丸に被害があるわけでもないので気にしないことにしたアスカだったが、近くの茂みが妙にザワザワとしていることに気付いて顔を向けた。

 よくよく思い返してみればアスカがいる場所は先程まで蛇女と獏が最初に戦っていた場所である。千雨達は対岸にいるので急ぐ理由も無いからついでに確かめようと茂みの方に歩いていくと、こちらが掻き分けるより早く音の主が飛び出して来た。

 

「獏の、子供か?」

 

 茂みから飛び出した獏の子供らしい小さな生物は、アスカの足首ほどまでの高さしかなく、先程の獏を親とするならばまだ赤ん坊ぐらいだろうか。

 赤ん坊の獏はアスカに向けて盛んに唸りながら両足を地面に踏ん張って威嚇している。先程の獏が親だとするならばと考えたアスカは、ふと眉を曇らせた。親である獏は蛇女と共にアスカがこの世から消してしまった。どのような方法でも元に戻すことは出来ない。

 アスカが動かずにジッと見下ろしてくるので緊張が解けない赤ん坊獏が我慢の限界を迎えようとした時に、何事かと思った茶々丸と千雨がやってきた。

 

「おい、アスカ。どうしたんだよって…………なんだそりゃ?」

「獏の赤ちゃん、のようですが」

 

 やってきた二人は対照的な反応をする。千雨は怪訝な表情で獏の赤ん坊を見ながらもアスカから離れず、反対に茶々丸は威嚇している獏の赤ん坊の傍にしゃがみこんで、「大丈夫ですか」と何やら優しく話しかけているではないか。

 茶々丸が言うと、特にアスカに最大の警戒をしていた獏の赤ん坊は、全身をピクンと震わせて小さく唸った。

 

「お母さんはどうしたのですか?」

 

 獏の赤ん坊はまだ唸っていたが、諦めずに茶々丸が指を近づけてゆくと、キョトンと瞳を丸くして鼻面を突き出した。

 

「危ない!」

 

 赤ん坊とはいえ、魔獣は何をするか分からないと千雨が悲鳴を上げた。

 獏の赤ん坊は、わざわざ体を伸ばして茶々丸の指の匂いを嗅ぎ、溜息のような声を漏らした。茶々丸は獏の赤ん坊の傍にしゃがみ込んで、そっと喉を撫でてやった。獏の赤ん坊は気持ちよさそうに目を細め、しっぽの先まで伸びて見せる。

 

「危なくないです。千雨さんも撫でてみますか?」

 

 茶々丸は呆気にとられる千雨を振り返って誘った。

 千雨はごくりと唾を飲み込んで膝をつき、茶々丸のやったようにしてみた。獏の赤ん坊は一瞬ビクリと緊張したが、結局大人しく撫でられ、頬ずりをして甘えるのだ。

 

「うわぁ、すべすべだ。凄く手触りがいい。わっ、舐めてる舐めてる。くすぐったい」

 

 随分と人懐っこい獏の赤ん坊に千雨も直ぐに毒気を抜かれて笑っている。だが、どれだけ獏の赤ん坊は千雨達に気を許しているように見えてもアスカから視線を外していない。

 

「どうやらさっきの蛇女に喰われた獏がこいつの母親みたいでな」

 

 親を呑み込んだ蛇女をこの世から抹消してしまったアスカの力を赤ん坊とはいえ、野生で感じ取っている獏は警戒しているようだ。

 

「まだ赤ん坊のようですから、このまま置き去りにするのは……」

「周りからしたら良い餌だからな」

 

 千雨とじゃれている獏の赤ん坊の親の片割れがいれば別だが、今を以て現れないとなると別行動を取っているか、最初から行動を共にしていないかのどちらかになる。このまま放置して離れれば、周りの魔獣達の手頃な餌にしかならないだろう。

 アスカとしては別にそれでも良いのだが、懐かれた様子の千雨とさっきからジッと獏の赤ん坊を見ている茶々丸が見捨てられるとは思えない。

 

「元からここで休憩するつもりだったから離れるまでに親が来れば返す。来なければ連れて行く。それでいいんだろ」

「はい、ありがとうございます」

 

 諦めてアスカが折衷案を出すと、親がいれば当然そちらの方が良いと茶々丸も受け入れて感謝を示すように深く頭を下げる。

 

「なあなあ、こいつの名前はどうすんだ?」

 

 二人の下へ千雨が獏の赤ん坊を手の平に乗せてやってくる。

 名前を付けると親がいた場合に別れ難くなる、とは満面の笑みを浮かべる千雨には面と向かって言えなかった。どうにも千雨は自分に甘えてくれる獏の赤ん坊が琴線に引っ掛かったらしい。

 当の獏の赤ん坊は千雨の掌の上で悠然と座り込み、前脚を開いて指の股まで丁寧に舐めだした。

 

「そうだな、そのままバクでいいんじゃないか」

「獏は中国の聖獣・白澤と混同されることもあります。ハク、でどうでしょうか?」

 

 アスカの適当さを見抜いたのか、聖獣から肖った名前を気に入ったらしい獏の赤ん坊――――ハクは一声吠えると、それでいいというように茶々丸の手を舐めた。

 

 

 

 

 






次回『第65話 自由交易都市ノアキス』

帝国と連合の狭間の都市で、アスカは未だ終わらない戦争の現実を知る。





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