魔法先生ツインズ+1   作:スターゲイザー

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第66話 大戦の亡霊

 

 

 

 

 

 

 

 無数の丸太で組み上げられた櫓の中で、激しい炎を噴き上げている。風に煽られ、丸太で組まれた井桁の中を狭苦しいとばかりに暴れていた。旧世界の電灯のような効率的な明るさではなく、ひどく無駄が多く膨大な熱を撒き散らす危なげな光である。

 夥しいほどの火の粉を夜気に撒き散らす度に爆ぜる音が風音に混じり、咆哮のような音へと変わる。

 中央に据えられた棺は半ばまで灰に変わり、その中に収められていた個人の亡骸も既に荼毘の煙となって天に昇りつつある。

 バチバチと大きな音を立てて燃え盛るその炎を遠巻きにして、葬儀に参列している者達が粛々と故人への祈りを捧げていた。赤々と焚かれた篝火に照らされて、参列者達はその姿からは在り得ない不気味な影を揺らしていた。

 影の中でうねうねと触手をくねらせながらも葬儀は続く。

 領主の妻に相応しい、厳かで豪奢な葬送だった。だが、参列者の群れに混じっている少年は故人の冥福を祈るでもなく、ただ悔し気に表情を歪めていた。

 

『父上……』

 

 妻を亡くしたばかりの夫である父ならば自分のこのやるせない気持ちを分かってくれるのではないかと、隣に立つ自分と同じように耳が長く尖った男へと縋るように顔を見上げた。

 

『父上……っ』

 

 父は泣いていた。声を上げることなく、轟々と燃える炎を見つめて無表情に滴を頬に垂れされている。だが、それだけだ。少年のように悔しさを感じていないようにも見えた。

 

『父上……!』

 

 涙以外に感情を窺わせない父に少年は憤り、優しかった母の温もりを永遠に失って心の余裕がなく大きな声を出さずにはいられなかった。

 魅入られるように炎を見つめていた父は今更少年に気付いたように彼を見下ろした。

 

『葬儀の席だ。静かにしなさい』

 

 何時もと何も変わらない父に少年は言わずにはいられなかった。

 

『何故、母上を殺した奴らを糾弾しないのですか! これでは母上が浮かばれません!』』

『あれの死は両者の諍いを仲裁して起きた事故だ。誰にも責任はない』

 

 彼らの都市は発展を続けている都市ではある。大戦によって居場所を失った人々が押し寄せてきているお蔭で発展は加速しているが、種族を問わずに受け入れているからその分だけ問題も大きい。

 まだ大戦が終わってそれほどの時間も経っていないから人間と亜人の溝は深く、毎日のように諍いが起きている。

 領主の妻はその諍いを止めようとして命を落とした。誰にも彼女を害するような悪意はなく、純然たる事故であることは多くの目撃者が証言している。

 

『彼らも自らの咎は受ける』

 

 事故とはいえ、人一人を殺した罰は当然受けなければならない。過失ではなくとも相応しい刑罰を今も受けていることだろう。

 

『でも、彼らが諍いなど起こさなければ母上は……!』

 

 少年にだって分かってはいるのだ。それでも母を失ったばかりの子供にとって、理解と納得はまた別の問題なのだ。

 

『彼らにも彼らの事情があるのだ。帝国と連合、人間と亜人、両者の溝は未だ深く、今のお前のように癒し難い痛みを抱えている』

 

 大戦が終わったから仲良くしろと言われても、簡単に許容出来はしないのだ。両国の間には深く癒しきれない溝が厳然としてあり、その溝がある限りは火種は水面下で燻り続ける。

 

『互いを理解する為には急いではならない。焦ってはいけない。力尽くで革新的に成し遂げたとしても長続きはしないからだ』

 

 そういった心の変化を、結局は人の中にゆっくりと理解が芽吹くのを待つしかないのであると語った父の炎に揺れる横顔を見つめた少年は、荼毘の煙となって天へと昇って行く母を想った。

 

『両種族が何の蟠りもなく暮らせる都市を造る。これはお前の母の願いでもある』

 

 息子と同じように亡き妻の魂が天へと還っていく姿を幻視しながら、父は今までの時間を追想するように遠い目をしていた。

 

『私の代では無理かもしれない。次はお前に託すことにあるかもしれない』

 

 ポツリと零されたその言葉は、もしかしたら母を失った父が漏らした微かな諦観と焦りだったのかもしれない。それでも少年にとっては想いを継ぐに十分な理由となった。

 

『安心して下さい、父上。お二人の願いは僕が……』

 

 両種族の間に生まれた自分の役目であると、強く心に刻んだのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ノアキスの守備隊に拘束されたアスカ・スプリングフィールドが連れて行かれたのは暗い、地下にある必要最小限の灯りのみが照らす廊下の突き当りの部屋、石で覆われた地下の一室であった。つまりは牢屋である。

 牢屋の中はひどく暗い。ねっとりと、身体に纏わりつくような暗さだった。そんな陰鬱な闇の中に、旧世界でいえば蝋燭に当たる魔法具の灯りだけが灯っている。あまりにも淡く弱々しい光はかえって闇の深さを強調するようにも思えた。

 

「封楼石を付けるなんて、よほど警戒されてるな」

 

 動きを遮る鎖で繋がった黒い手枷と足枷に触れ、アスカは少し楽観し過ぎたかと考える。

 本来のアスカの力なら、この建物自体をあっという間に廃墟に変えることも、或いは傷一つつけることなくここから脱出することだって、そう難しい芸当ではない。

 にもかかわらず、アスカがこうして大人しく虜囚の辱めを甘んじて受け入れているのは、この手枷足枷によって彼の力の大半が封じられているからだ。魔力や気の力が阻害されていて身体強化も碌に使えない。このちっぽけな金属の塊によって、常人をちょっとだけ凌駕するくらいのレベルに制限されてしまっている。

 

「捕まるんじゃなくて逃げるべきだったか」

 

 アスカはまた飛び切り大きなため息を吐き、壁側の小さな窓にかかっている格子越しの向こうに広がる青い空を見上げた。高く、遠い空だった。

 この牢屋で一晩を明かしたものの、特に取り調べも何もなく放置の常態である。これは堪ったものではないと立ち上がって牢へと近づき、大きな口を開ける。

 

「お~い、俺の話を聞いてくれよ」

 

 看守の一人ぐらいはいるだろうと、冷たい牢に顔を押し付けて向こう側を見ようとしても魔法で灯されている燭台の火がユラユラと揺れているだけで誰の姿も見えない。

 かなり広いのか、声は反響するだけで返事は返って来ない。牢を握るとこちらも封楼石で出来ているのか、魔力も気も一切通さない。

 

「困ったな、これは」

 

 顔に牢の跡が付く前に離れ、予想外の展開に嘆息する。

 事情を話せば直ぐに釈放されるだろうというアスカの楽観的な予測は見事に外れ、既に半日近く虜囚の身である。とはいえ、牢に入る時に空腹を告げるように腹が大音を発してくれたので飯は食べさせてくれたが、朝に目覚めてからは食事どころか一滴の水も飲んでいないので再び空腹が襲ってきている。

 

「腹減ったぁ! 何か食わせろ!!」

 

 空腹は人をイラつかせる。物に当たるように牢を蹴りつけるが、ビィィィンと音を響かせるだけでビクともしない。

 

「五月蠅いわね」

「おわっ!? 隣に人がいたのかよ……」

 

 極間近、正確に言うならば隣から女のイラただし気な声が聞こえて来て、気配を感じずこの牢屋に一人だと思っていたアスカは少し驚いた。

 

「あなたより三日前からいるわよ」

「へぇ」

 

 先客がいたことで少しは空腹が紛れたアスカは、女がいる方の牢屋の壁に凭れて座り込んだ。よく気配を探れば、薄いが確かにそこに人がいることが分かる。

 どうやらかなりの達人のようだと看破して、つまらない虜囚の状況に楽しみを見い出した。

 

「アンタは何をやって捕まったんだ?」

 

 互いにやることもない虜囚であることには飽き飽きしているので、話題は捕まった理由を知ることから始まる。

 

「下着ドロを捕まえる時にやりすぎてしまっただけ」

「…………ちなみに、どれぐらい?」

 

 声におどろおどろしい感じがして問いを撤回したくなったが、一度聞いたのならば引き返すのも変だと思って詳細を聞く。

 

「生きていることを後悔させたぐらいには。下着ドロをするような女の敵に生きている価値はないのよ」

 

 それはアカンやつだろ、と内心で思いつつもアーニャやネカネでも同じぐらいはやるだろうことを知っているので特に突っ込みはせず、要は過剰防衛で捕まったのかと納得したアスカは頭の後ろで手を組んで枕にする。

 

「何も言わないのね。やり過ぎだと言うかと思ったけど」

「身内に同じようなことをするのがいるからな。嫌な言い方だけど慣れてる」

 

 本当に嫌な言い方だと考えていると、隣の牢屋にいる女が薄く笑う気配を感じる。

 

「で、アナタは何をやって捕まったのかしら?」

「大の大人数人が寄ってたかって子供をボコってたとこを止めて追い払っただけで、捕まるようなことは何もしてない。まあ、守備隊が来た時には加害者も被害者もいなくて勘違いしたかもしれないけどよ」

 

 経緯を話すと音沙汰がないことにイライラとしてきた。

 もしかしたら目撃者を探して情報を集めているところかもしれないが、それにしたってまずは当事者から事情を聞くのが先ではないかと思うのだ。悪いことをしたわけではなく、世間的に褒められる行為のはずなのに、こうして虜囚の憂き目に合う理由が納得できない。

 

「もしかしたら領主に目を付けられたのかもしれないわね」

 

 伸ばした足の踵で怒りに任せてゴンゴンと床を抉っていると隣の女がふとそんなことを呟いた。

 

「何のことだ?」

「その前にナギ杯のことは知っているかしら?」

「ああ、まあ一通りは」

 

 理由が分からなくて首を捻っていると、隣の女はナギ・スプリングフィールド杯を知っているかを聞いてきたので頷きを返す。

 

「大戦後十年を記念して開かれた世界最強を決める拳闘大会で、優勝賞金は百万ドラグマ。今年は決勝大会がオスティア終戦記念祭に開催されることもあって、前回以上の盛り上がりが期待されてるとかなんとか」

 

 アスカがナギ杯のことを知ったのはまだ魔法学校を卒業したての時のことで、調べたカモとネギから話を聞いたのでよく覚えている。麻帆良で学生をやるという卒業課題があったから、どうやっても魔法世界に渡ることはないと考えていたので悔しい思いをした。

 大会は、発起人である紅き翼のジャック・ラカンが商人であるドルゴネス等の有力者がスポンサーとなって立ち上げた。未だに戦禍の色が色濃く燻る民衆の娯楽として、戦後に事情があって奴隷とならざるをえなかった者達への助けの手としてなど、様々な憶測が流れているがラカンから真実が語られたことはない。

 

「大会が代理戦争の側面を持つことは知ってるかしら?」 

「昨日会った商人のおっちゃんもそんなことを言ってたな…………待てよ、領主が目を付けたってまさか」

 

 女の目を付けたという言い方と、代理戦争の側面があるナギ杯。世界で未だ消えない種族差別、異種混合のノアキスの状況と、商人が言っていた領主の行動を思い返していると、パズルのピースが次々と嵌っていく。

 

「俺にナギ杯に出ろっていうのか?」

「そろそろ、話に来るんじゃないかしら」

「勘弁してくれよ……」

 

 魔法世界に来た当初ならば参加しても良かったが、今は仲間が世界中に散り散りになって大変な時だ。惹かれるものはあるが、今の目的は全員で麻帆良へと変えることなので大会に参加しているような場合ではない。

 そこでふと違う考えが浮かんだ。

 

「もしかして、アンタも誘われた口か?」

 

 下着ドロに対して過剰防衛をしても魔法薬があるのだから治癒は簡単のはずだ。その薬代にしても下着ドロから徴収すればいいのだから、厳重注意はあっても三日も拘留する必要はあまりないはず。となれば、アスカと同じように牢屋に入れられているのは選手として出ないかと誘われているのではないかと考えるのは簡単だった。

 

「その通りよ。同じように牢屋に入っているよしみで教えといてあげようと思ったのよ」

「まだ牢屋にいるってことは断ったってことか」

「当然よ。私にはやることがあるのだから。なのにあの領主は私が代表になるまで牢屋から出さないって」

 

 好意でアスカが牢屋に押し留められている理由を教えてくれた女の事情は分からないが、選手になって大会に出ているような余裕はないらしく領主に不満を漏らしていた。

 

「領主にそこまで出来るものなのか?」

 

 代表にならないからと牢屋に押し込めておくことが可能なのかとアスカは首を捻る。

 

「一応はこの都市の最高権力者よ。理由は後から幾らでも作れるわ。一週間、牢屋に入ってよく考えろですって」

 

 下着ドロに生きていることを後悔するぐらいのことをしておいて大した反省もしていないのは話をしていれば分かるので、反省をしろってことで拘留期間を伸ばしたのだろうかと内心で推測しつつ、ふと気になったことがあった。

 

「やることがあるって言ってたけど、なにかあるのか?」

「…………ある人を探しているの。その人を見つけるまで私は止まることが出来ない」

 

 アスカの問いに最初は逡巡した女はやがて自分の目的を語り、一拍の間を置いた

 

「貴方は、エヴァンジェリン・A・K・マクダウェルを知っていますか?」

 

 良く知っている名前にアスカの肩がピクリと浮き上がり、リズムを取っていた足を止めた。

 

「お前……」

 

 何かを言おうとしたアスカだったが、遠くからガチャリと鍵を外したような音の後に誰かが牢屋のある地下に下りて来た足音を聞いて口を閉じた。

 足音の主は入り口の方から真っ直ぐにこっちを目指して近づいて来て、アスカの牢屋の前に止まると「出ろ。領主様がお待ちだ」と言って鍵を外して牢屋を開けた。

 

「へいへい」

 

 出してくれるなら理由はともかく。それにこしたことはない。どうあれ、差し招かれては囚われの身であるアスカには逆らいようのない立場にある。牢屋から抜けると少しは気分も変わって伸びをすると、背中の骨がポキポキと鳴った。

 

「こっちだ、来い」

「分かった」

 

 鍵を持っている男は慇懃無礼な言い方で入り口の方を指し示して先に歩き、手枷は外してくれないのかと思いながら後を追って歩き出す。

 アスカがいた牢屋よりも入り口側にあった女がいる牢屋を通りかかった始めてその姿を見る。

 年齢はまだ若いだろう。見た目的にアスカよりも三歳から五歳は年上のようで、黒髪のショートボブの髪に黒目と日本人の要素は持っているが、顔立ちは南欧系をしている。粗末なローブとボロボロの旅装を纏ってはいるが中々の美人だ。

 

「んじゃ、行って来るわ」

「もう会わないことを祈るわ」

 

 冷たい返事に閉口しながら先を行く男が「何をしている」と催促してくるので、大人しく女との短い邂逅に終わりを告げて牢屋から地上へと上がる。

 地下への入り口の所で留まっている男の横を通る際に鍵の位置を確認して、わざとさも躓いたように見せかけて近づく。

 

「何をしている」

「悪い悪い。こんな物を付けられた所為でバランスが取り難いんだよ」

 

 一歩の距離があるところで男が言っているが、目的を達成したアスカはその距離から近づかない。

 無言の男の後について、たっぷりと足首まで沈むような絨毯の上を歩かされていく。

 枷がジャラジャラとなって五月蠅いことこの上ないが男は鍵を持っていないのか、単純に外す気がないのか、放っておかれている。男が何も話そうとしないのでアスカは周りの調度品を眺めることしか出来ず、まだかと考えながら暫く歩いていると牢屋がある地下への入り口から一番遠い部屋の大仰な扉の前で従者が立ち止った。

 

「…………こちらで、領主様がお待ちになっています」

 

 流石に雇用主である領主が近くにいるとなると言葉と態度を改め、そう言って頭を下げてそのまま、ガチャリとドアが開けられる。

 部屋は薄暗く、アスカは石造りの牢獄を何となく連想した。

 さほど広くもないのに、部屋の四隅には埃みたいに暗闇が溜まっていて、それがふとした拍子に化け物となって立ち上がってくるんじゃないかと、原始的な戦きに捉われる。

 簡素ながらも上品に纏められた広い室内。どこか暗い、広い部屋の中央に巨大なチェースボードを思わせる正方形のテーブルがあった。中央奥には重厚な執務机が置かれている。

 その中央奥の机の向こうに一人のまだ若い男性が座っている。

 アスカよりも一回りぐらい上の見た目で、茶色い髪をオールバックで纏め、縁なしの洒落っ気なしの実用を重視した眼鏡をかけている。彫りの深い顔は厳しそうな表情を浮かべていて、着ているグレーのスーツはファッションに関する感覚が絶望的に終わっているアスカの目から見ても上質なものだと解った。他の何よりも男を示す特徴は、やはり人間種ではありえないほどの耳の長さと尖り具合か。

 亜人か、という内心でのアスカの推測が聞こえたわけでもないだろうが、領主として執務をしていたらしい男は顔を上げた。

 

「やっと来たか」

 

 男は椅子から立ち上がりもしなければ、挨拶をすることもしない。ただアスカを値踏みするかのように鋭い瞳で見ていた。その礼儀の欠片もない態度に、さしものアスカも感じるものがあったが場合が場合なので抑える。

 

「来い」

 

 アスカに向けて言われた命令口調に反抗したくなったが、今は相手の出方を見る方が先決と大人しく従うことにする。

 部屋は一目で高級と分かる調度品が並んでいたが、しかし空気そのものが放つ高級感と言おうか、生半可な人間など鼻で笑い飛ばされそうな高潔な雰囲気が、揃いも揃って一流どころといった品々を決して下品に見せていない。

 取りあえず、執務机に近づきすぎない距離で立ち止まると座ったままの領主と向かい合う。

 

「貴様の名前はアスカ・スプリングフィールドで相違ないか?」

「ああ」

 

 言葉少なに聞かれたことを肯定すると、無礼だとでも思われたのか領主の眉間に皺が寄る。

 

「まずは謝罪しておこう。市場を荒らした君の容疑は晴れた」

「なら、この封楼石を外してくれないか」

 

 今まで時間がかかったのは、やはり目撃者からの捜索と聴取に時間を取られた所為かと謝罪よりも先に手枷を外すように求めると、領主は執務机の引き出しから中から鍵を取り出した。その鍵を執務机のアスカ側に置く。

 要は自分で外せということかと解釈したアスカは鍵を手に取って鍵穴に差し込んで錠を外していく。

 

「ふぃ、ようやくスッキリしたぜ」

 

 カチャリと簡単に外れた手枷を手に持ちながら自由になった手首をグルリと回す。

 

「これで俺は釈放されるってことでいいのか?」

 

 無理だろうな、とは思っているが敢えてそう聞く。

 

「市場を荒らしたのはゴロツキ共と調べはついた。が、そのゴロツキ共を容易く退かせた貴様に興味がある」

「男に興味があるって言われてもな」

「茶化すな」

 

 張ってる空気を和らげるためにお道化て見せたのに、冗談が領主には通用しなくてアスカも閉口して口を閉じるしかない。

 どうにも余裕のない男だと二十歳ぐらいに見える年若い領主の背に乗っている重圧らしき物が目に見えるようで、年を経れば苦労でハゲそうなどと口に出せば相手が激怒しそうなことを考えつつ出方を待つ。

 

「貴様の隣の房に入っていた女から粗方の事情は聴いているだろう。貴様の腕を見込んで雇ってやる」

 

 これはまた随分と上から見た物の言い方だと聞きながら思い、どう断ったらいいものかと手の中で枷を外した鍵を弄びながら先程の従者からスった牢屋の鍵が入っているポケットを意識する。

 大した妙案も浮かばず、ここは率直に断るしかないだろうと口を開く。

 

「悪いが他を当たってくれ。俺にはやることがある」

 

 反応を窺うと、何故か領主は冷笑を浮かべている。

 

「仲間を探すために、か」

 

 予想外の反応に手の中で弄んでいた鍵を落としてしまう。動揺したと分かり易く相手に示してしまった後悔よりも、何故そのことを知っているのかという動揺の方が大きかった。

 

「名前が分かれば調べるのはそう難しい事ではない。スプリングフィールドという名前となれば特にな」

 

 サウザンドマスター――――ナギ・スプリングフィールドの名の大きさまで考慮せずに本名をそのまま名乗ったのは失敗だったかと悟ったが時は既に遅し。

 

「サウザンドマスターが旧世界英国の家の出であることは有名な話だ。ゲートポートが英国にあることも、先のゲートポートの一件の前にゲートが使われたことも、入国した者達の中でゲートポートの破壊に巻き込まれて行方不明になっている者達がいる。その中に貴様の名前を見つけるのに半日もかかってしまった」

 

 半日もかかったというが、アスカからすればこれほどの短時間でそこまで調べ上げるだけでも驚嘆ものである。

 アスカがウェールズのゲートからメガロメセンブリアに来たと思い至ることが出来れば、ゲートポートにいたはずなのに僅か三日で五千キロメートル近く離れたノアキスに現れたとなれば、転移事故に巻き込まれたと推測することは出来る。

 行方不明者のリストを手に入れることさえ出来ればアスカの名前を見つけることも容易く、もしも入国管理局のデータベースに侵入できれば近衛名義で入国した麻帆良生のことまで芋づる式に分かることだろう。

 

「私に協力してくれるならば、貴様の仲間の捜索をしてやる。腕に見合った報酬も与えよう」

「断る」

 

 悪い条件ではないと思ったが特に受けるべき切実な理由も無いので即答で切り捨てる。

 

「ふん、これを見てもそう言えるか」

 

 予想済みの返答というように領主は一枚の紙をアスカの前に差し出した。

 仕方なく受け取ると、中心には毎日鏡で見ている見覚えのありまくりの顔が映った写真があって、上部には『WANTED Dead or Alive』と記された文字と共に印刷されている。

 

「俺の手配書、か?」

 

 角度を変えて、どう見てもそうとしか見えない手配書を手にしたアスカは「百万ドラグマか……」とその賞金額を他人事のように呟いた。

 

「どうやら余程、元老院の恨みを買っているようだな。明晩にもメガロのゲートポートを破壊した主犯として指名手配されることだろうよ」

「俺は何もやってない」

「やったかやっていないかは組織にとっては別問題だ。奴らにとって情報操作などお手の物。今頃、証拠映像でも偽造していることだろう」

「おいおい」

 

 と言いつつも、アスカは母親であるアリカのことを知っている者が元老院にいるのではないかと当たりをつけた。

 アルビレオや叔父らから聞いた話を纏めると、災厄の女王と言われている母親の評判が正しいものではないとなれば処刑を推進したメガロメセンブリア元老院としては、処刑されたはずなのに生まれているアスカらの存在が露見するだけでも都合が悪くなる。

 生死問わずの手配書を発行して指名手配しようとている辺り、殺意が高すぎなのは明白で余程生きていられると困るらしい。

 

「私に尽くせ。そうすれば罪を消してやる」

 

 自信満々に領主は言うが、相手は世界を二分している大国のトップである。狭間の都市の領主程度に出来るとはとても思えない。

 

「出来るのかよ、アンタに」

「貴様が私の下に付くというなら可能だ」

 

 椅子に座ったまま組んでいた足を組み替えた領主の言い分を聞こうと続きを待つ。

 

「正直に言えば、正攻法ではどうにもならん」

「おい」

「話は最後まで聞け――――どうにもならんが、時間を稼ぐことは可能だ。ナギ杯まではな」

 

 なんとなく結末が見えた気がして、アスカは領主の向こうにある窓の向こうを見た。

 どこかで鳥が鳴いている。牧歌的な風景に馴染む長閑な泣き声じゃなくて、苦痛を訴えるような、何だか痛ましげな泣き声だった。

 

「ナギ杯で優勝した代表選手には栄誉と賞金が与えられるが、輩出した都市には幾つかの特権が与えられる。罪人の特赦も可能だが、貴様がやっていないというなら第三者機関による公平な再捜査を行わせることも可能だ」

「つまりは罪を消す為には俺にナギ杯に出て優勝しろ、と」

 

 個人の武勇で負けるつもりはないが、流石に巨大な組織相手だとどこで不覚を取るかもしれない。第一、指名手配などされたら大っぴらに動くことが出来なくなり、どのような制約がかかることになるか分かったものではない。

 仲間の捜索、自身の指名手配、その他諸々を頭の中で秤にかける。

 

「ちっ、分かった。アンタの提案を受け入れる。但し、協力もしてもらうぞ」

「貴様が自らの腕を証明してからだ」

「は?」

 

 まずはアリアドネ―に連絡を取ってもらうかと考えていると、早速の領主の発言にこの選択で良かったのかと迷うアスカだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 自らの腕を証明しろということで領主の館から闘技場にやってきたアスカが引き合わされたのは鶏の頭のような髪型をした男だった。

 

「へっ、お前さんが領主肝いりの強者ってか」

 

 トサカ、と名乗った男の名前が髪型通りで笑いかけたが絶対に怒ると思ったので内心に留めていると、何故か間近でメンチを切られた。

 

「まだガキじゃねぇか。逃げんなら今の内だぞ? バルガスの兄貴は強いからな」

「ああ、はいはい。御託はいいから、顔近過ぎ」

 

 闘技場の選手が入場する入り口前の廊下で何が楽しくて、大した良くもない男の顔を近づかれても気持ち悪いだけであるので、メンチを切っているトサカの顔を押し退ける。

 

「ふん、バルガスの兄貴はガキの頃にあのサウザンドマスターをボコ殴りにしたっつー話もあるぐらい強いんだぞ」

 

 顔を押し退けられても凄んでいるトサカに、そんなに凄いなら代表を下ろされるはずがないだろうと思いもしたが、そのことを指摘すると面倒くさいことになりそうなので「へー、そうかい」と適当に受け流しておく。

 

「五分持ったら褒めてやるよ。まあ、テメェのようなガキじゃあ、二分も持たねぇだろうがな」

「お前、審判なんだろ。いいから、早く行けよ」

 

 どこからそのような自信が出て来るのかと考えたが、もしかしたらこうやって脅すことで気勢を削ぐ作戦なのかと思うことにしてトサカを追い払う。

 悪態を付きながら先に闘技場に向かうトサカを見送って背後を振り返ると、アスカの後に釈放された隣の房にいた女が立っている。

 

「結局、受けたのね」

 

 若干、呆れ気味の女に苦笑を返す。

 従者からスッた牢屋の鍵があったので逃げる時に助けてやろうと思ったのだが、アスカが代表になる意思を表明すると女も解放されたのでその必要もなくなった。

 

「断れない理由があったからな」

 

 下手に断れは領主は元老院にアスカがノアキスにいることを伝えそうだし、一人ならば逃げるのは簡単だが千雨と茶々丸が共にいるとなると彼女らに迷惑をかける。

 指名手配をかけられたままでは今後の行動にも支障が出て、ナギ杯に優勝する必要はあるが以前から出たかった大会に出れるのだからこれで由とするしかない。有名になればテレビ放送もされるだろうから、見た誰かが来るかもしれないので悪い手ではないと思うことにする。

 

「まあ、頑張って。応援ぐらいはしてあげるわ」

 

 それだけだと告げ、女が身を翻して去っていく。見送ることなくアスカも闘技場に向かって歩き出す。

 所詮は二人の関係は偶々牢屋が隣り合っただけのものでしかなく、互いの人生が僅かに重なっただけの短い付き合いだ。アスカも女も互いに名前を知ることも無く別れる。

 

「ああ、そういえば」

 

 アスカは女に牢屋で『エヴァンジェリン・A・K・マクダウェルを知っていますか?』と聞かれたことを思い出し、振り返ってもう随分と小さくなった女の背中に向かって「おい!」と呼びかけた。

 

「なにかしら? もう用はないはずだけど」 

「牢屋でエヴァのこと聞いてただろ。エヴァなら旧世界の日本にある麻帆良ってところにいるぞ」

「なんですって!」

 

 随分と食い付きがいいなと思いながら、女から悪意やその他は感じなかったので会ってどうこうすることもないだろうと「学園長に俺の名前を出せば会わせてくれるだろうよ」と告げる。

 

「私、あなたの名前を知らないのだけど」

「ああ、そっか。俺はアスカ・スプリングフィールドだ」

 

 平坦だった先程と変わって喜びの感情も露わにしている女に自らの名前を名乗ったアスカに、遠目でも分かるほど女は肩を落とした。

 

「教えてくれた礼よ、一応私の名前も教えておくわ――――イシュト・カリン・オーテよ」

 

 何故か名乗る前に一拍を置いた女は随分と間を置いて自らの名前を告げた。

 アスカがその理由を考える前に闘技場の入り口から怒り心頭と言った様子のトサカが顔を出す。

 

「おい、コラァ! さっさと来やがれ!!」

「分かってるって。じゃあな、カリン。エヴァに会えるといいな」

 

 トサカに急かされてアスカは急ぎ歩きで闘技場の入り口の向こうへと姿を消していく。その姿を見送った女――――カリンは、台風が通り過ぎたような唖然とした表情で入り口を凝視している。

 

「変な奴だったわね……」

 

 それだけを言い残して、カリンはアスカとは反対に通路を進んで闘技場を出ていく。

 二人の道はほんの少しだけ重なっただけで短い時間で別れる。彼らの道が再び重なるのはそう遠い未来ではないが、今はまだそのことを知ることはなくカリンは彼女の目的である人物の居場所が分かったのでその足取りに不安はない。

 

「エヴァンジェリン様、今行きます」

 

 イシュト・カリン・オーテ――――百年後に結城夏凛と名乗ることになるカリンは意気揚々と目的地に向かって足を進める。

 

「乱入者だと? まあいい。誰にしろ、俺が勝つだけだ」

 

 カリンと再び再会することを露ほど考えてもいないアスカは、トサカ同様に目の前にいるスキンヘッドの大男の自信はどこから来るのだろうと素朴な疑問を覚えていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 長谷川千雨は自身の選択を大いに後悔していた。少女を拾ったことに対するものではない。絡繰茶々丸だけを働かせるのは申し訳ないと自分も申し出たその選択にである。

 

「ほら、千雨。三番卓に持って行きな!」

「はぃいいいいいい!」

 

 権限を持っていたクママチーフの紹介で闘技場に併設された飯所で働くことになったのは別にいい。だが、まさかここまでこき使われるとは思っていなかった。

 

「次は五番卓だよ。間違えないようにね! その後は四番卓を片付けな!」

「はい!」

 

 返事ははっきりと聞こえるように。最初にした時に耳が蛸になるぐらいに聞かされた注意を二度も受けるのが嫌で、しっかりと返事をしながら与えられた指示通りに行動する。

 カウンターに乗せられた料理をお盆に乗せて五番卓に配膳して、その帰りに食事を終えて会計を済ませている四番卓の食器を片付ける。飯所なのだから基本は慌てず騒がず、しかし迅速に行われければ次の客が席に座れない。となれば回転率が悪くなり、業績に響くと脅しをかけられている。

 

「初歩の初歩の魔法も使えないんだい。お荷物だと思われたくないんならその分だけ動きな」

 

 食器を片付けて戻ると、疲れを見せる千雨にクママチーフが忠告のように告げて自分の仕事に戻っていく。

 こちらの世界ではガスで火を点けるのではなく、魔法で簡単に同じことが出来る。逆にいえば日常の中で多くの魔法が取り入れられており、全くの無能力な千雨では躓くことが多い。魔法が使えない自分の食い扶持だけでも稼ごうと思えば、クママチーフの言うようにその分だけ働くしかない。

 

「ただいま戻りました」

 

 五十席はある飯所を、案内・注文・配膳・片付けまでを千雨他数人で回していると、買い出しを頼まれていた茶々丸が戻って来た。

 

「おお、戻ったかい茶々丸。買い出しご苦労だったね。厨房に持って行ったらアンタもホールに出ておくれ」

「了解です」

 

 魔法世界の通貨に精通していないので金勘定が出来ず料理も上手くはない千雨と比べ、茶々丸はオールマイティな能力を発揮して重宝されている。ロボットなので力もあり、給仕も料理もプロ級ということもあって随分と頼りにされていた。

 一人で何人分もこなしているので、魔法が使えなくても茶々丸に対してクママチーフは千雨ほどには物を言わない。

 茶々丸は外に出ていたのでパッと同僚に魔法をかけてもらって全身を綺麗にすると、ホールの状態を一通り見渡して自分で判断すると動き出す。

 

「千雨も茶々丸を見習いな」

 

 新入りなのに出来るオーラを発して率先して給仕する彼女の姿に満足そうな笑みを浮かべたクママチーフが千雨にそう言うが、断言しても良いが自分はああはなれないと千雨は思う。

 とはいえ、口に出している余裕はなく、黙々と言われた通りに目の前の仕事を片付けていくことしか出来ない。

 朝から数時間休む暇も無く働き続けていると、一番客の多かった昼飯時が終わって客が減り始めた。

 

「客も引けてきたし、千雨と茶々丸は一端休憩しな」

「分かりました」

「はい」

 

 昼食の書き入れ時を終えて、夕食の書き入れ時までの少し間ならば自分達だけで持たせられると判断したクママチーフの命令に素直に頷いた二人は店の裏手に回る。

 

「はぁ~、疲れたぁ」

 

 昨夜もそうだったが、今日も一段と疲れたとまだ終わっていないのに既に疲労困憊の千雨は、置かれていた木の箱に座りながら肩を落とす。

 

「お疲れさまです。どうぞ、お水です」

「サンキュー」

 

 千雨の二倍以上は動いている茶々丸からコップに入ったキンキンに冷えた水を礼を言いながら受け取り、一気に喉の奥へと流し込んでいく。

 

「くぁ~、上手ぇ」

 

 魔法で作った氷で冷やされた水は、魔法世界に来たばかりの時に呑んだ最初の水と同じく物凄く美味かった。

 魔法世界に来て常識が壊されることばかりだったが、旧世界では当たり前だった文明の利器の便利さや水の当たり前の安全の貴重さといった、普段ならば気にもならないことが大切なのだと気づかされるばかりだ。

 

「まさかこの年で働かせられることになるとはな」

 

 カランコロンと残った氷が入ったコップをユラユラと揺らしつつ、千雨はまだ当分は先になるはずであった働く大変さを身を以て思い知っていた。

 働いて銭を得るというのがどれほど苦しく辛く、今まで両親が飢えを感じさせることも無く育ててくれたことを深く感謝した。旧世界に戻れれば親孝行をしようと心に決めていたりもする。

 

「シェリーはどうだったんだ?」

 

 ふと買い出しのついでに拾った少女――――自身の名前も覚えていなかったのでシェリーと名付けた――――の様子を見に寝床に帰った茶々丸に問いかける。

 

「大人しくしていましたよ。私が出た時には昼食を食べて寝ていました」

「飯食って昼寝たぁ、良いご身分だ事で」

 

 飯所にハクを同行させるわけにもいかないので一緒に残したはずなので、今頃一人と一匹で夢の中なのか。千雨だって勝手にご飯が出て来て腹が膨れたら寝てもいいなら甘えたいものである。

 

「それとアスカさんのことなんですが」

「!? なにか分かったのか?」

 

 幼い頃に遅くに仕事から帰って来た父親が寝ている自分を見た時もこんな感じに思っていたのだろうかと千雨が考えていると、茶々丸が思いついたように口にしたアスカのことに敏感に反応する。

 本人としては落ち着いているつもりだろうが、茶々丸には隠している本心が丸分かりの顔と態度であった。

 

「釈放はされたみたいなんですが、何故か闘技場に向かったそうで」

 

 これはまた厄介事か、と最早慣れさせられてしまった嫌な予感が千雨に直感させた。

 どうにもアスカは騒動の渦に巻き込まれる定めがあると千雨にも分かってきて、今回捕まったことも何故か闘技場に向かったことも厄介事の前触れであるような気がして気が気ではなかった。

 はぁ~、と千雨が長い溜息を漏らすと茶々丸も察してくれて、暫しの間だけ二人の間には沈黙が下りて通りの向こうからの喧騒だけが耳に届く。

 

「お~い、茶々丸」

 

 沈黙を破ったのは店の内側から開いたドアで、隙間からクママチーフが顔を覗かせて茶々丸を見る。

 

「休憩のところ悪いんだけど厨房のヘルプに入ってくれないかい? 領主様から急遽予約が入っちまって人手が足りないんだよ。店長が給金に色付けるからってさ」

「分かりました、直ぐに行きます」

 

 では、と茶々丸が千雨に頭を下げて店内へと戻っていったので一人になるかと思ったが、クママチーフが何故か茶々丸と入れ替わりに外に出て来て千雨の隣の木の箱に座った。

 千雨が疑問符を浮かべているとクママチーフは手に持っている果実が乗った小さな平皿を差し出した。

 

「私も休憩なんだよ。ほれ、食べな」

「あ、どうも」

 

 動いていたのでお腹は空いている。勧められるがままに果実を一つ取って口に運ぶと、ジンワリとした甘みが広がって頬が落ちそうだ。

 疲れた体に果実の甘みが染み渡って来て、何個か貰って食べている千雨をクママチーフがジッと見つめていた。そのことに遅まきながらも気が付いて姿勢を正すと、「怒ってるとかじゃないよ」とクママチーフは首を振った。

 

「すまないね。本当ならもう少ししっかりと教えてあげたいんだけどこっちも忙しくて、つい厳しくし過ぎちまう」

「いえ、そんな。食事だけじゃなくて寝床まで用意してもらったのに文句なんて言いませんよ。現に私は茶々丸よりも使えませんし」

「あの子が出来過ぎるんだよ」

 

 悪い印象を抱かれないように無難な言葉で返すと若干の苦笑を滲ませたクママチーフも果実を口に運ぶ。

 どう見てもクマのヌイグルミが動いて喋っているようにしか見えず、相変わらず慣れないのだが苦笑を滲ませたり果実の甘さに頬を緩ませている表情はとても人間っぽい。こうして傍にいると存在感もあって、確かに生きていると確信を抱かせるに足る材料も多い。

 

「アタシも雇われの身だからね。出来ない奴を抱え込むなんてこたぁ出来るはずもない。言ったことは本心だけどアンタは良くやってるよ」

 

 そう言われると全身を支配する疲労感も心地良く感じるのだから不思議だ。どうにも慣れない感覚に全身をもぞつかせていると、通りの向こうから誰かが喧嘩をしているような声がする。

 

「この声、またアイツらかい。懲りないねぇ」

「アイツら?」

「亜人迫害主義者――――連合の軍人崩れだよ。千雨は人間だから問題はないけど、アタシら亜人にとっちゃいい迷惑だよ」

 

 声で判断できるほどに何回も問題を起こしている奴らが近くにいるというのは千雨の精神衛生上良くない。

 千雨自身は亜人に偏見も持っていない。ファンタジーな世界観に目が眩みもするが、こうやって隣り合って会話を交わせる相手を迫害しようとする気持ちは正直良く分からない。

 生まれ育った日本が法律で平等を謳う稀有な国で相手を対等に見ようとする土壌があったればこそであるが、千雨としては生まれや育ちで相手を差別するのはあまり気分がよくならない。

 

「どこもこんな感じなんですか?」

「ん? ああ、そういやアンタ達は旧世界出身なんだったけ。それじゃ知らないのも無理はないか」

 

 そう言ってクママチーフは通りの向こうに目を向ける。同じように千雨も視線を追ったが、通りの向こうでは騒動も収まったらしく誰かが行き交いしているだけで別におかしいところはない。

 

「二十年前の戦争のことは知ってるかい?」

「人伝ではありますけど、一応は」

「じゃあ、詳細は端折るよ」

 

 そう言ってクママチーフは手に持っていた果実を空中に投げて行儀悪く大口を開けて落ちて来たのを食べる。

 

「南北大分裂戦争――――要は二十前の戦争はそりゃ酷いもんだった。どこぞの村が焼き討ちにあったとか、報復で村が虐殺にあったとか、当事者として言うなら世界の終わりってのが明確にイメージできるぐらいにはみんな荒んでたね」

 

 千雨の世界――――旧世界において、生まれ育った日本はもう五十年以上戦争をしていない。祖父母世代の戦争の話を好んで聞く性格でもなかった千雨には伝聞でしか知らない戦争の体験をしたクママチーフは遠い目をしながら語る。

 

「お国の為、自分達の種族の為、みんな兵士になって戦争をしてたよ」

「でも、終わったんですよね。えと、英雄のお蔭で」

「まあね。でも戦争の決着は結局曖昧なままだったんだよ。悪いのは全部戦争を引き起こして戦禍を拡大させた完全なる世界とその関係者ってね。種族間の問題は何も解決しちゃいないんだ」

 

 物語ならば英雄が世界を救って「めでたし、めでたし」で終わっても、現実ではその後にも世界は続いていく。戦争は終わって全ての問題が丸く収まったわけではない。どちらが勝ったわけでもない以上、戦争の中で生まれた恨みと屈辱、憎しみと差別の火種は燻ったままだ。

 

「軍人の方が互いに対して、どれだけあくどいことをやっていたかを良く知ってるから差別主義者になりやすいんだよ。恨み骨髄ってやつだ。これは軍人に限った話じゃないけどね」

 

 メガロメセブリア連合とヘラス帝国。大戦が終わった今でも、二つの巨大国家は表面上では仲良く手を繋いでも裏側では睨み合い、焼けつくような緊張状態を維持しているのだと告げ、僅かな自虐を覗かせたクママチーフに千雨が言えることはない。

 

「軍人ってのは戦時には多ければ多いほど良くても、終われば一変して仕事のない金暗い虫だ。徴兵されて兵士になった奴は、あっという間に切り捨てられる。帰る場所が残ってるやつはまだ良い。問題は、はいさよならってされても故郷が無くなっちまった奴さ。居場所を失くして仕事も無くて、中には奴隷にならざるをえなかった奴も多いだろうさ」 

「奴隷……」

 

 千雨の認識としては、奴隷など前時代的なものに過ぎないがこの魔法世界では未だに蔓延っているのだ。

 

「奴隷って言っても、正式な登録がされたやつは条約で過度な虐待や暴力から保護されてる。条約を破るほどの奴隷主は監視装置も兼ねた首輪で報告されて罰則を受けることになってんだ。自由は制限されるが、安全を不十分ながらも守っているのも事実だ」

 

 クママチーフは千雨の感じ方を少し否定しつつ、癖なのか首元を触る。

 そんな癖が出来るとしたら長いこと首に何かを巻いていた証。つまりは首輪かそれに類するような物で、そんな物を付けるとしたら先の話の流れから奴隷を連想するのは容易い。

 

「もしかしてクママチーフも奴隷に?」

「…………昔の話さ」

 

 それ以上のことは語らず口を開かず、無神経な質問をしたと口を噤んだ千雨も踏み込んで聞くほどの勇気もなかったから二人の間に沈黙が下りる。先に口を開いたのはクママチーフの方だった。

 

「辺境ならともかく、帝国と連合の幅を利かせて勢力圏じゃ、人間か亜人の自分の種族の至上主義か横行していても珍しくない。この都市は良いところさ。両国の狭間にありながら、どんな種族であろうと受け入れてくれる。他で居場所を失っちまった奴であってもね」

 

 僅かな笑みを浮かべたクママチーフの横顔を見ながら、千雨は今日の客の顔ぶれを思い出していた。人間も亜人も、中には悪魔まで平然と客として来店する。彼らの間に隔意は感じられず、席を共にして和気藹々と食事をしていた。

 

「何の因果か、亜人を受け入れられないって奴がこの街に集まってきちまってるんだよ。多分、奴らも今までいた場所を追われたんだろうね」

 

 誰もが心に傷を負っていて、ただ自分の居場所で健やかに過ごしたいだけなのにどうしてこんなにもすれ違ってしまうのかと、千雨は胸に込み上げる悲しさで一杯だった。

 千雨の泣きそうな顔を見たクママチーフは困った顔をして頭を掻いた。

 

「まあ要は人間のアンタには危険はないだろうけど、女の子なんだから一応は気をつけなって話さ」

 

 涙を見せないように顔を下げた千雨の頭をポンポンと肉球のついた手で撫でるように叩くと、よいしょとおばさん臭い言い方で立ち上がった。

 

「休憩はおしまいだ。闘技場で急に試合が組まれたって話だし、直に野郎共が飯を食いに来るだろうから戦場になるよ。覚悟はいいかい?」 

「……はい!」

 

 ゴシゴシと浮かんだ涙を拭い、元気よく返事をするとクママチーフはニカリと笑って「良い返事だ」と言いながら千雨の背中をバシンと叩いた。

 この後も頑張ろうと気合を入れてもらったところで、通路の向こうから随分と大きな数人の男の声がした。

 

「だから~! お前、頭おかしいって」

「おかしくねぇよ。出来るからやるっつってるだけだ」

「それがおかしいって言ってんだよ。お前が強いのはまあ、分かった。バルガスの兄貴が手も足も出なかったんだから認めてやる。でも、一日に五戦するなんざ、体が持つわけねぇだろう」

「それだけのペースで試合しねぇと大会の規定数に届かないって言ったのはトサカじゃねかよ」

「言ったけどよ。普通は一戦すれば最低でも三日は休むものなんだ。折角の代表なんだからもっと堅実的に行こうぜ」

「一々何戦もするのは面倒くさいから十人纏めて()らね?」

「ひ・と・の・は・な・し・を・き・け・よ!!」

 

 どうにも一人がもう一人の無茶を止めようとして言い合いになっているようだ。そしてその片方の声には千雨は物凄く聞き覚えがある。

 丁度、通路の前を通りかかった集団の中に聞き覚えのある声の主を見つけて、思わず「アスカ!」と大きな声で名前を叫んでいた。

 

「あ、千雨じゃん。昨日振り」

 

 声に気付いて通路の先にいる千雨を見つけて片手を上げたアスカに向かって、千雨はヒラヒラの給仕服のまま走った。

 走って走って、十分な助走の距離を走ってアスカに向けて一メートルちょっとのところで踏み切って飛んだ。振り上げた蹴りを再会を祝福する顔へと叩き込む。

 

「軽いわ!」

 

 言いながら蹴った千雨の振り上げた足の間にあるピンクの生地はしっかりとトサカの目に焼き付いたそうな。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 どこかの空き倉庫のように開いた空間の室内に多くの男達が集まっていた。遂にいざという時が来たのだ。結果がどうであれ、これがなにかの始まりになるという予感は全員に強く働いていた。

 

「――――武装は揃ったか?」

 

 大型冷蔵庫めいた巨漢であるブラットの声が静かに暗闇の中へと響き渡った。

 

「抜かりなく。全員の鎧と盾、武器も行き渡っています」

「よし」

 

 返って来た返答に頷いたブラットの目には、暗闇の中にいる居場所を失くした者達のギラついた眼差しを見つめて瞼を落とした。

 

「二十年前に戦争は終わったと、政治家共は言いやがる」

 

 言いながらも、今も瞼の裏に焼き付いているのは戦争の光景だ。

 

「確かに奴らにとっては終わったのかもしれない。あれ以来、大規模な抗争がないのは事実だ」

 

 血の臭いも、硝煙も、人々の嘆きも、慟哭も、油の臭いも、全てが大戦の時のまま。どの場所も、死と悲しみと怒りとで満ちていた。殺し殺させ、奪い奪われ、憎しみが憎しみを呼んで悪循環となり、永遠に終わらないと思われたまま戦争は英雄が呆気なく終わらせた。

 実際には英雄にも自分達のような一兵士には理解できない苦労があったのだろうが、きっと理解することは永遠に来ないだろう。

 

「戦争が終わってどうだ、何かが変わったか? いいや、何も変わっちゃいない。なら、俺達は何の為に戦ったんだ。何の為に」

 

 善人も悪人も、若人と老人も、男も女も関係なく、理不尽に死は襲い掛かる。戦のあるところに付き纏う、ただの宿命だった。

 馬鹿でも分かっていたから、それでも失わない為に戦場に身を投じたのだ。国を、民を、友を、家族を、愛しき人達を守る為に。

 

「俺達は戦争で何もかも失って、居場所を失くしたゴロツキだ」

 

 実際、戦争が終わってみたらどうだ。戦争が終われば多くの兵隊は用済みとなる。それでも自分の居場所へ帰れるならと雀の涙程度の退職金を手に帰郷してみれば、あったのは焼き尽くされて何もなくなった焼野原だけだ。

 失意に暮れても生きていく為には身銭を稼がなければならない。だけど、戦争直後は職なんて殆どなくて腕に自信のあった者はまだ良い。中には奴隷に身を窶した者も多い。

 

「時は満ちた」

 

 護るべき者も、掲げるべき信念もないままに彼らは立ち上がる。

 

「俺達の戦争を終わらせるぞ」

 

 平和は盤石ではないと教えてやるのだ。一つ切っ掛けがあれば、二十年に過ぎない平和など簡単に覆ってしまうのだと。

 

「敗れ去り、忘れ去られていった者達よ。さぁ、亜人共に恐怖を刻み直してやろう。戦争はまだ終わっていないのだと教えてやるんだ」

 

 自分達の戦争を終わらせる為に、と最後は祈るような切実さを漂わせ、ブラットは口を閉じた。

 しんと静まり返った部屋に、それぞれの中に反響した言葉を受け止め、咀嚼する一同の沈黙が降り積もってゆく。

 

「やりましょう」

「やってやるぜ。亜人の奴らからこの地を奪い返すんだ!」

 

 そう言ったのはキンブリーか、シスハーンか、ドドロケか、それとも他の誰かであったか。

 最早、誰が言ったかは問題ではない。ブラットから発した熱は伝えられ、最初の想いがどうであったかなど関係はないのだ。

 彼らはもう、ただ死んでいないだけで生きてはいない。正しく亡霊のような存在だ。

 

「ここは俺がいた場所だ。返してもらうぞ」

 

 大戦の後も彷徨っていた亡霊が今動き出す。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 地平線を縁取る簡素な石造りの建物が並び、木の葉と分かる緑が陽光に降り注ぐ。

 従者の案内で屋敷らしき建物に通され、とある一室に足を踏み入れたネギ・スプリングフィールドは、窓から降り注ぐさんざめく光の中で屋敷の主と対面する。

 

「ようこそ、ネギ・スプリングフィールド君。歓迎しましょう」

 

 部屋の奥には動物か魔物かの毛皮を前にした立派な執務机が設置されている。その手前には広く重厚なテーブルが置かれ、対面する形でソファが二対置かれていた。

 窓の向こうに広がる青空を背に、仕立てのよさそうな服を着た亜人の女が両腕を広げる。

 

「ネギ・スプリングフィールドです。この度は貴重な魔法薬を分けて頂き、ありがとうございました」

 

 ネギは殆ど何も考えないで前へ進み、求められた通りに応じる。握手を交わし、口元だけを笑みの形に緩めた亜人の女の目は油断のならない光が灯り続けている。飢えた獣が目の前にいるような錯覚を覚えた。とはいえ、商人ともなればそうなってしまうのも無理はないのかもしれないと、ネギは周りにそういうタイプの人がいないので自分を納得させることにした。

 ネギとのどかはドルゴネスの一団に助けられ、お礼を言いたいと申し出た身。魔法世界でも通用するかも分からなかったが頭を下げて礼を言った。

 

「なに、困った時はお互い様だ。おっと、遠路遥々旧世界から来てくれた客人を立たせるわけにはいかないな。座って話すとしよう」

 

 勧められてソファに腰を下ろしたネギの対面に亜人の女が座る。

 

「旧世界から輸入した豆でコーヒーを準備させたのだけれど、聞けば出身は英国との話。紅茶の方が良かったかな?」

「いえ、そんな…………僕はコーヒーも好きですので。お手間をかけさせてしまい、申し訳ないです」

「なら、良かった」

 

 ここまでネギを案内してくれた従者が持ってきたコップにコーヒーを注ぎ、ネギに差し出す。対面のソファに座った亜人の女のグラスには酒が入っているのは微かな酒気が鼻に届いて分かった。

 ネギがカップを手に取って最初に口を付けるのを待ってから、亜人の女もカップを傾ける。

 互いに一口飲んで口を湿らせてから先に口火を開いたのは亜人の女。そのソファの後ろにコーヒーを入れてくれた従者が影のように控えている。

 

「部下から聞いていると思うが自己紹介をしておこう。私の名はドルゴネス。見ての通り、しがない商人だ」

 

 最後の辺りが遜った文言ではあるが、ネギ達を助けてくれて部下であるという魔法使いの話では、幾つかの闘技場を経営して多角的な商品の売買を行っている世界トップクラスの商人と聞いていたので、思ったより若いなというのが第一印象だった。

 メルディアナ魔法学校や麻帆良学園都市のトップに収まる者達から考えて、世界トップクラスの商人ともなれば六十代以上を想像していた。よく思い返してみれば関西呪術協会の長である近衛詠春が四十代であったことを考えれば、目の前にいる亜人の女のように今が働き盛りと言える年代の方が相応しいのかもしれない。

 顔の皺や単純な見た目の要素から判断するに四十代後半といったところか。人によっては三十代と言っても通用する若さを備えている。目の所為だ、とネギは思った。日焼けか地かは分からないが褐色の肌に輝く一対のギラリとした目、鋭いという言い方では足りない冷たい瞳が年齢よりも若く見せている。

 

「聞いた話ではゲートポートでの事件に巻き込まれ、強制転移で仲間とバラバラになってしまい、二日もあの大砂漠を彷徨うことになるとは災難なことだ。あの事件は今でも犯人は分かっていないとか。随分と苦労したようだ」

 

 助けられた後に分かったことだが、ネギ達がいたのは北のメセンブリーナ連合の外れ、テンペルラとタンタルスとの間にある大砂漠を彷徨っていたらしい。そこをメセンブリーナ連合で商いを終えてタンタルスに向かっていた商団に遭遇できたことは限界だったネギ達にとっては実に幸運な出来事だった。

 商団に発見された時、のどかの状態は命に関わるものであったらしいと回復した後でネギは聞かされた。

 魔力酔いと転移酔いを併発して体調不良になっていたのに、砂漠にいて二日も何も飲まず食わずだったから脱水症状に陥っていて更に体調不良に拍車がかかって一刻を争う状況であったと。

 ネギも魔力切れにのどか以上に脱水症状に陥っており、睡眠不足と極度の疲労も相まって同じように危険な状態であったらしい。

 

「回復できたようで何よりだ。相方の子の具合はどうかね?」

「眠っています。そちらの治癒術士さんの話では直に目を覚ますと。何から何までありがとうございます」

 

 カップを置いてソファの背凭れに身を預けたドルゴネスは足を組んで、その鋭利な光を放つ眼でネギを見つめる。

 

「私に任せて貰えれば、仲間の捜索も手伝うが……」

「いえ、そこまでお手を煩わせるわけにはいきません。命を助けて頂いただけで十分です」

 

 かなり高価な魔法薬で治癒したと聞かされ、更に仲間の捜索まで手伝ってもらうとなると、そこまでお世話になりすぎるのは流石に良心が咎める。

 

「そうか…………こうして実際に会い、話をした中で君を信頼に足る人物であると信じることは出来る。が、私も商人でね。信頼だけで失った商品の代金の埋め合わせをするわけにはいかない。善意で提供することは出来ないのだよ」

 

 要は二人が飲んでしまった薬の代金を支払って欲しいのだと解釈したネギは膝の上に置いた手をギュッと握る。

 

「頂いた薬の代金は必ずお返しします。今は手持ちがありませんが、賞金稼ぎでもなんでもして必ずお返しします…………あの、ところで僕達に使われた薬のお値段は幾らぐらいに?」

「君達の治療に使った薬の名は『イクシール』。魔法世界で最高級の薬だ。一瓶百万ドラグマを二瓶使ったのだから合計二百万ドラグマになるな」

「二百万ドラグマ!?」

 

 自分達に使われた薬の代金のあまりの高さにネギは一瞬聞き間違えたかと自分の耳を疑った。

 

「高いと思うかもしれないが相場では真っ当な値段だよ」

 

 ネギの驚きを当たり前の事実として受け止めたドルゴネスは艶然と微笑んだまま足を組みかえる。

 

「不当、とは言わないでくれよ。連合で商いを終えた後だから殆ど商品も残っていなくて、君達を助けるにはイクシールを使うしかなかった。望むならば当時の商品の目録を見せても構わない」

「疑っているわけでは……」

 

 当時の目録を見せても構わないと言うぐらいだから、本当にネギ達を助けるにはイクシールを使うしかなかったのだろう。

 五万ドラグマもあれば魔法世界一周が出来ると言われている中で四十倍のドラグマが必要だと言われれば現実を認めたくなくなるのが普通で、二十年は遊んで暮らせるほどの大金を稼ぐには滞在期間である一ヶ月ではとても無理だ。

 その考えもあくまでネギ達の都合だって、商人であるドルゴネスからすれば使った商品の代金は耳を揃えて返してもらわねばならない。

 

「二百万ドラグマ、それだけの損失を出せば商会で何人の首を切らねばならないか。商会には家族を持つ者も多い。職を失えば何人も路頭に迷うことになる」

 

 ネギのこれからの行動次第で何人もの人生が左右されるのだと言外に滲ませる。突如として降りかかった他人の人生の重みにネギは閉じ合わせた唇を僅かに蠢かした。

 与えられた情報を咀嚼するための時間であり、それでいて何一つ決意させない、決意させる余裕のない最初から計算され尽くした時間のようにネギには思えた。

 ドルゴネスはネギの様子に気付く素振りもなく、続きを口にする。

 

「はっきりさせよう、ネギ君。君は二百万ドラグマを支払えるかな?」

 

 即座に返せる金額ではないとドルゴネスも分かっているはずのなのに、敢えてそう聞いてくることにネギは目の前の人物から化けの皮が外れていくような気がした。

 

「賞金稼ぎでもなんでもして、必ず払います」

 

 例え滞在期間を伸びようとも、やはり命に代えられないとなればネギには支払う義務が生じる。

 

「保証は?」

「え?」

「払ってくれる保証は、と聞いている」

 

 保証は、と聞かれてもネギには確約できるものを何一つ持っていない。それこそ、この身一つしかないネギが大金を払える保証を確約できるはずもない。

 答えられないネギの対面で嘆息したドルゴネスは薄く微笑んだ。

 

「私は商人だ。確たる返済の保証がなければ、君を告訴しなければならなくなる」

「告訴って、そんな!?」

「君ならば会ったばかりの者が二百万ドラグマもの大金を必ず支払ってくれると何の保証も無く信じられるかい?」

 

 告訴という事態にネギの顔色がハッキリと変わった。続けるドルゴネスは、ネギの反応を予め見越していた顔だった。

 あくまで穏やかな声が、真綿の感触をもって心身を縛り付けてゆく。この世に人を誑かす悪魔がいるとしたら、こんな声で囁くのかもしれない。不気味なまでに静かな黄土色の眼に射竦められ、返す言葉のない唇を噛み締めたネギには言葉を聞くことしか出来ない。

 

「とはいえ、私もそこまでのことはしたくない。君を信じているからね」

 

 事実を受け止め、理解させるのに十分な間を置いて、ドルゴネスが改まって声を付け足す。それも計算ずくの声であったが、ネギは伏せた顔を上げられなかった。

 

「だが、だからといって、返済の保証が出来ない相手を自由にさせることもまた出来ない。君と私の間ではまだそれだけの絆はない。それは分かっているね?」

 

 早口でありながら、述懐する重みを持った声が鼓膜をわんわんと震わせる。その通りだと認めるしかないネギは頷きつつ、苦い唾を飲み下して這い上がる吐き気を堪えた。

 

「僕が必ず返済できる保証が欲しい。そういうことですか?」

「正解だ」

 

 良く出来ました、と胸の前で手を合わせてパンと鳴らしたドルゴネスは出来の悪い生徒を見るようにネギを目踏みするように見下ろし、懐から一枚の紙を取り出して机に滑らせる。

 

「私が用意できる保証がこれだ」

 

 嫌な予感がして手に取りたくはなかったが状況が許してくれない。震える指先で紙の先を摘まんで目の前に広げて読むと、そこには魔法世界の言語で『奴隷契約書』と記されている。

 

「奴隷契約書!?」

「世間では死の首輪法等と言われているものだ。旧世界では前時代的であっても国際法上で制定された立派な条約だよ」

 

 正式名称『ニャンドマ条約』。災厄の女王が自らの国を滅ぼした後に推進した奴隷を公認する条約である。オスティアの大地が落ちた後に難民となった国民達の当座の生活基盤を作る為の苦渋の決断だったと解る。

 ネギが知らないはずもない。魔法学校の教科書にも悪名で載っていた己を生んだ母の顔が脳裏にちらつき、ネギは笑っているともつかない肩を微かに上下させた。

 

「一つ言い忘れていたが、私は奴隷商でもある。この程度を用意するのは容易い事だよ」

 

 枯れた大樹を、ネギは思った。既に枯れ果てた大樹が、それでも養分を吸い上げ、根を張った土地さえも腐らせようとしている、そんな図を想像した。

 

「…………あなたはっ!」

 

 言葉ではなく、絶対に相容れないなにかが風圧となり、体面にいるエギの体を揺れさせた。

 

「この制度は確かに個人の自由を奪う物だが、建前上とは言え所有者には奴隷の保護義務も発生し、奴隷契約を解くための必要な資金を都合できれば解放される」

「…………二百万ドラグマを払うまであなたの奴隷になれと?」

「返す気があるのなら構わないだろ? 別に相方の子でも私は構わないが」

 

 かっと頭に血が上ったものの、直ぐには何を言われたのかも分からない衝撃が心身を痺れさせて処理しきれない憤怒が口元を歪ませる。

 

「さあ、ネギ君。お返事は?」

 

 死刑宣告にも似た言葉を耳にしながらネギは唇を噛み締める。その途端、口内に鉄の味が広がった。

 ドルゴネスには悪意は欠片もない。ただ利用価値があるから利用する。生粋の商売人と言えばそれまでだが、利用される当人としては虫唾が走るのを押えられない。あまりの身勝手さに吐き気すら覚えるほどだ。

 だがそれでも、ネギとのどかが助かったのは彼ら商人のお蔭なのだ。助けられた者が助けた者に不平を言う資格などない。助けた対価を望まれ、払うのを拒むのならば命を差し出さねば釣り合わない。

 

(僕らは魔法世界に来るべきじゃなかった)

 

 ネギは静かに閉じていた瞼を開くと、覚悟を決めて頷いた。

 

「…………判りました」

「では、サインを」

 

 狡猾なまでに鋭いドルゴネスの双眸が閃き、人差し指がぐいと曲る。魔女の呪いの如く不吉に、猛毒の鉤爪の如く凶悪に奴隷契約書を指差してサインを求める。

 膝についた両手を握り合わせたきり、ネギはなにも言えなかった。何も言えないまま、何も考えないまま、サインをしてしまうのは驚くほど呆気なく終わった。

 

「確かに」

 

 サインがされた奴隷契約書を自分の下へ引き寄せ、確認したドルゴネスは背後にいた従者に渡す。

 奴隷契約書を受け取った従者は口の中で何かを呟くと、その姿が一瞬で消えてなくなる。

 

「どこへ?」

「ここ、グラニクスの移民管理局。奴隷契約の書類を提出しに行ったのさ」

 

 僅か数節の詠唱だけで転移魔法を行える優れた魔法使いに瞑目したネギの疑問に答えつつ、ドルゴネスは一片の感情も示さずに言い放った目が本来の魔性を取り戻し、揺らがぬ光を放つ。

 ドルゴネスがグラスを手に取って口元に持って行き、傾けて喉の奥に飲み物を流し込んだぐらいの僅かな短い時間で従者は戻って来た、その手に首輪と水晶球を持って。

 首輪と錠を従者から受け取ったドルゴネスが何かを呟くと、床に魔法陣が浮かび上がる。

 部屋全体を埋め尽くすほど魔法陣の範囲は広く、ネギの目と感覚には自分と首輪が引き寄せられていることを感じ取った。

 

「さあ、立つんだネギ君。我が奴隷よ」

 

 既に奴隷契約は成っており、主であるドネットの命令に対してネギに拒否権はない。

 先に立ち上がったドルゴネスに習ってネギもソファから立ち上がると、視界の中では何重にも魔法陣が複合していく。首輪が一人でにドルゴネスの手から浮かび上がって、どんな魔法使いにも単身では外すことは不可能と言われている契約が交わされ、一瞬の光の後にネギの首に装着される。

 首輪はピタリと肌に張り付いているが息苦しくはなく不快感も少ない。ネギがそんな感想を抱いている間に首輪に突如として出現した錠が通され、鍵穴から鍵が生み出されて一瞬でまた消える。

 光はやがて輝きを失っていき、残ったのは首輪を付けられたネギと主であるドルゴネスと従者の三人だけ。

 

「契約事項が果たされれば再び鍵は現れるだろう。さて、これで君は私の奴隷になったわけだ」

 

 契約を見届けて満足げな笑みを浮かべていたドルゴネスが、ソファから離れて壁一面の窓に歩み寄る。

 

「それでは始めよう、ファウロ」

 

 何を始めるのかと訝しんだネギに背を向け、ドルゴネスは壁一杯に取られた窓の外に夜を間近に控えた街の風景が広がっているのを眺める。

 林立する建物の影が大地に黒々としたシマを描き出し、その彼方にゆっくりと沈んでいく夕陽は、旧世界よりも澄んだ大気の向こうで微かな陽炎に揺らめいていた。

 

「イガ・イラッハ・イ・ラハップ・イラックル 醒め現れよ、底に這いづる闇蜥蜴、鎖を以てして敵を覆わん 闇鎖の捕らえ手」

 

 何を始めるのかとネギが訝し気な目を向けていると、ソファの後ろに立っていた従者――――ファウロが詠唱をしつつ、左手を水平に上げて呟いて指を鳴らす。

 

「――――なにをっ!?」

 

 避ける暇などなかった。ネギの足下に橙色の魔法陣が浮かび上がり、円に内接する六芒星の頂点から魔力で作られた鎖が飛び出し、両腕、両足に絡みついて動きを封じる――――この一連の出来事が指を鳴らした音が消えるより前に起こった。

 星の頂点から一本ずつなんてものではない。一つの頂点から何十本という鎖が跳ね上がり、魔力で編まれた鎖が四肢に取り憑いて螺旋状にネギを包み、体を瞬く間に雁字搦めにして隙間なくビッシリと覆い尽くしていく。

 五秒を数える頃には、ネギがいた場所には人型をした鎖の塊がいた。呼吸をする鼻と口の部分だけが露出しているのはファウロのせめてもの情けか。

 ネギは緑色の魔力光を光らせて、身体強化を施してなんとか鎖を振りほどこうとするも、ファウロが指を鳴らした後に開いた掌をグッと握り締めると、鎖がギリギリと食い込んでネギの体が苦悶に折れ曲る。

 

「資格を問わせておくれ、小さな魔法使い。君に私の求めるものがあるかどうか」

 

 安全圏に退避しているドルゴネスは苦悶するネギを見て陶酔した吐息を漏らす。

 まるで罠に落ちた獲物を見つめる狩人のようだった。イブに禁断の実を食べさせた蛇もこんなに風に笑っただろうか。

 

「ぁぁっ――」

 

 露出したネギの口から苦しげな呻きが漏れる。鎖の塊の内部から緑色の粒子が魔法陣に向かって流れていく。六芒星の頂点から魔法陣全体に広がっていく緑色の粒子は、やがて橙色の輝きに変換されて鎖の強度を上げていく。

 ネギがもがけばもがくほど緑色の粒子が増えていく。

 

「ふふ、吸い出して変換した君の魔力を使って強化した鎖だ。破れはしない」

 

 鎖を現出させ続けるファウロのことを良く知っているドルゴネスが囚われの身になったネギを嘲笑う。

 他人の魔力を吸い出して自らの魔法を強化する技術は、並みの魔法使いで出来ることではない。伝説や英雄クラスではなくても、ファウロもまた一流の魔法使いと呼ばれるに値するだけの力があった。

 

「君に恨みはないが、これも必要な事だ。許してくれ」

 

 ドルゴネスは瞳の奥を凍らせて表情だけは申し訳なさそうな体裁をとりながら心底愉快そうに言って、ファウロは更にグッと拳を握り締める。鎖に包まれたネギからは苦しげな叫びが漏れた。

 

「ああああぁぁっ――――!!」

「――!?」

 

 ネギの魔力が爆発的に膨れ上がる。鎖の内部から迸る緑色の閃光が部屋を染め上げ、ファウロが更に拘束を強めようとするが既に遅かった。落雷のような音を立てて、ブチブチと鎖が千切れていく。

 内部から腕が見え、足が見えてくる。最後に右手で顔を、左手で胴体に巻き付いている鎖を引き千切った。六芒星の魔法陣は消え、千切れ飛んだ鎖は床に落ちる前に橙色の粒子を僅かに残して最初から存在しなかったように霧散する。

 

「――っ!」

 

 ネギに向けて拳を握っていたファウロの左腕がハンマーで叩かれたように真横に弾かれる。操っていた魔法を強制的に破られた反動で、左腕は風船が破裂したように内側から爆発した。骨は辛うじて繋がっているが裂けた肉の隙間から見え、千切れた筋肉や神経が剥き出しになっている。

 

「ファウロが全魔力を使い、ネギ君の魔力も使ったというのに力尽くで破るとは…………なんと凄まじい潜在能力。私の目に狂いはなかった」

 

 従者であるファウロがかなりの惨状であるのに、主であるドルゴネスは平然としている。それどころかファウロが負けた事実を喜んでいるようですらあった。

 ネギは魔力を集中させた足で地面を蹴り、自身を短時間とはいえ拘束した高位魔法使いであるファウロを打倒すべく距離を詰める。十m程度の部屋の中であれば三~七mを超高速で移動出来る瞬動術ならば、ほぼ部屋の真ん中にいるネギの射程範囲内に入る。

 その一足の踏み込みで、部屋の壁に近い場所にいた魔法使いまで一秒とかからずに距離を詰めることに成功する。

 

「――くっ!?」

 

 ガンッという壁を殴ったような音。放った掌底はファウロが最後の力を振り絞って瞬時にう展開した障壁に阻まれた。魔力光である橙色を薄めた半透明の障壁の向こうで、ファウロが口の端を釣り上げてニヤリと哂う。

 

「ちっ!」

 

 舌打ちをして障壁が壊れるまで何度でも拳を叩きつけようと、更に拳を振り上げたネギを見てファウロは哂いを深める。

 ネギは選択を間違えた。ファウロではなく、ドルゴネスを狙うべきだったのだ。

 

拘束(カプテット)、ネギ・スプリングフィールド」

 

 ドルゴネスが手に持っていた水晶球を手に、何事かを呟くと水晶球がバチッと紫電を発して光った。

 

「うぐっ……!? ああああああぁぁぁ!!」

 

 ネギは自らの報いを、体を襲う雷撃と衝撃で思い知らされる。

 体の芯にまで届く衝撃に立っていられなくなって床に蹲ると、ドルゴネスが壁から離れて歩み寄って来る。

 

「幾ら条約で過度な虐待や暴力から保護されているといっても奴隷は奴隷。主への反抗を許さない為にこのような道具も用意されている。とはいえ、痛いのは少しの間だけで、もう動けるでしょう」

「何のためにこんなことを……! 別に僕は反抗したりしてなかったのに」

 

 ただ上下関係をネギに刻み込む為だとしても反抗的な意思を見せていなかったのにここまでされる理由が分からず、まだ痺れる四肢に力を入れて立ち上がりながらドルゴネスを睨み付ける。

 

「言っただろう、君に私の求めるものがあるかどうかと。喜べ、少年。君は私の求めているものを確かに持っている」

 

 値踏みするような目がすっと柔らかくなり、微笑したドルゴネスが一歩距離を詰める。縮まった僅かな距離にネギは我知らず後退っていた。

 こういう笑い方をする大人は安心させておいて寝首を掻く。油断がならないと、本能的な直感で察知した恐怖に駆られ、女の動きに神経を集中させたネギは、「ネギ・スプリングフィールド。そう、君はスプリングフィールドなのだろ」と発した硬い声に虚を突かれた。

 

「スプリングフィールド――――二十年前に良く聞いた名だ。その名とその顔から察するにネギ君、君はサウザンドマスターの縁者ではないのかな」

 

 正面から浴びせられた問いかけではない断定する口調と表情は、他の考えを受け入れる余地のない声だった。ドロリとねばりつく声が鼓膜を苛み、得体の知れない感情が胸に食い込む。そう、分かっていたはずだった、とネギは今更の理解を噛みしめた。 

 だからこそ、ネギは答えることなく沈黙を選んだ。

 

「答えないか……まあ、いい」

 

 目下の者であるネギが無礼な態度を取ってもドルゴネスは気にした素振りを見せない。それどころか実に楽し気にしている。

 

「サウザンドマスターの縁者である君に協力してもらいたいことがある」

 

 一瞬前とは打って変わった事務的な声で言う。口調こそ軽いが、内容は恫喝そのものだ。

 

「私に君をプロデュースさせてくれたならば、二百万ドラグマを稼ぐことなど容易い。半月後のナギ・スプリングフィールド杯に出さえしてくれれば二百万ドラグマに届かなかろうと解放を約束しよう。契約書に追記してもいい」

 

 視線を動かさず、ドルゴネスは子供に言い聞かせる声を重ねた。

 

「入国管理局に知り合いがいてね。魔法世界への滞在期間はもう一月もないのだろう。君の大事な少女は私の手の中。選択肢はないと思うが?」

 

 流石に顔を上げ、ドルゴネスを睨み付けたネギは、直ぐに無言の目を床に落としていった。この女は姑息だ。自分の意見を押し通す為なら人の弱点に付け込むのにも躊躇がない。反感を新たにしたネギを尻目にドルゴネスは話を続ける。

 

「こちらの準備は整っている。後は君次第。私に協力してもらえないかな?」

 

 頷いてしまえ、とどこからともなく声が聞こえる。幻聴ではない。ネギの心の独白である。

 ドルゴネスはのどかを人質にとって脅迫している。今やネギの未来はドルゴネスの手中にあり、彼女はそれを完全に掌握している。ネギには屈して頷く以外の選択肢が残されていない。逆らう術などなく、従うより他なかった。

 

「のどかさんの安全を保障して下さい」

 

 そう言うしかネギに出来ることはなかった。この決断が、もう麻帆良学園都市に戻れないようになるのかもしれないという予感が、言ったネギの心の隙間に滑り込んだ。

 

「ようこそ、ネギ君。この世界は君を歓迎するよ」

 

 現実の裏に暗く深い渦が覗いているようだった。何もかもが薄ら寒かった。状況が手の内をすり抜けてゆくのを感じて、なにも出来ない拳を握り締めた。 

 

 

 

 

 




トサカ、バルガス、クママチーフがノアキスにいること。ドルゴネス関連は本作設定です。

カリンは『UQ HOLDER』の登場人物です。本作設定では数十年ぐらいエヴァンジェリンを探しています。




次回は『第67話 怒りの日』

更新は一週間以上後になるかと

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