魔法先生ツインズ+1   作:スターゲイザー

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第76話 熱に浮かされて

 

 

 

 

 

 ナギ・スプリングフィールド杯決勝が終わった後、ネギ・スプリングフィールドは会場医務室のベッドに横たえられていた。両眼を閉じ、呼吸こそしているものの、ピクリとも動かない。

 ベッドの隣の丸椅子には宮崎のどかが腰を下ろし、心配げにネギを見つめている。

 この部屋のもう一人の住人であるアスカ・スプリングフィールドは包帯塗れで壁に凭れて腕を組み、そんな二人を傍らから見下ろしていた。

 強い消毒液の匂い、規則正しい心電図モニターの音。点滴が音もなく透明な液体を垂らし、管に繋がれた右腕に最低限の栄養を送り続けている。何時もならアスカこそがベッドに横になっている立場なので、既視感と同時に強い違和感を覚える光景だった。

 ナギ・スプリングフィールド杯はアスカの勝利という形で幕を下ろした。

 勝者は全身包帯だらけの満身創痍。本来ならば彼もまた横になるべきであるが本人は無理をしているのか治癒術士の勧めを拒否している。反対に敗者のネギには傷がないのだから。

 壁に凭れたままアスカは何も語らず、のどかも敢えて口を開かないとなれば部屋の中は沈黙が支配していた。

 沈黙を打破したのは部屋に入って来た第三者である。

 

「よう、ご苦労さん」

 

 明日菜達を後ろに連れたジャック・ラカンが現れ、壁際のアスカに一度視線をやってからのどかに声をかけた。

 

「ラカンさん」

 

 のどかは、そちらへ振り返ると立ち上がった。礼儀正しい少女のことである。座ったまま相手をしては失礼と考えたのであろう。

 歩み寄って来ようとしているのを制止してベットへと近づき、一気に騒々しくなった部屋にも関わらず眠り続けるネギを近くから見下ろす。

 

「で、坊主の様子はどうだ?」

「………………悪くはありません」

 

 と、のどかは治癒術士から聞いた悩ましげな現状に眉尻を下げる。

 

「重度の急性魔素中毒に似た症状があったようですけど、今は健康体でただ眠っているだけだと」

 

 話を聞いたラカンは腰を屈めてネギの顔を良く見て、「成程」と治癒術士もさぞ困惑しただろうと内心で納得する。

 

「幾ら闘技場お抱えの治癒術士でも闇の魔法(マギア・エレベア)の浸食の事例を見たことはねぇだろうからな」

「それじゃあ、やはり異常が」

「いや、それはねぇ」

 

 不穏なことを言った自覚はあるので不安にさせてしまったことは悪いと思っているが、治癒術士が健康体であると言った意味がのどかにはちゃんと伝わっていないことに少し息を吐く。

 基本的に拳闘士に傷は付き物である。治癒術士には説明責任があるものの、ネギほどの優れた魔法使いの傍にいたのどかが魔素中毒のことを知らないなどとは考えもしないから健康体と言えばそれ以上の説明は必要ないと思ったのだろう。

 

「治癒術士が言ってたんだろ、健康体だって。俺の目から見ても今の坊主に異変があるとは思えねぇ」

 

 ネギはとても穏やかな寝顔で規則正しい寝息を立てている。少なくとも悪夢を見ていることだけはないようだった。

 ライトグレーの検査着を着せられたネギから視線を逸らし、明日菜や千雨達と話しているアスカの方へと振り返る。

 

「アスカから見て坊主の状態はどうなんだ?」

「さっきから寝てるだけって言ってただろ。俺の方が重傷だっつうの」

 

 問われたアスカは木乃香の治癒魔法を受けて必要の無くなった包帯を明日菜の協力を受けて外しながら言い、体の調子を確かめるように肩を回す。

 

「ネギは心身共に健康そのものだよ。今はちょっと疲れて寝てるだけだ。その内に起きるだろ」

 

 回復次第が思っていたほどではなかったのか、少し眉を顰めたアスカにのどかが顔を向ける。

 

「でも、どんなに声をかけても体を揺さぶっても起きません。やっぱり何か異常があるんじゃ」

「それだけ疲れてるってことさ。今は休ませてやれ。起きる時は自分で起きる。ネギは寝坊助だからちょっと遅いかもしれないけどな」

 

 不安がるのどかに適切なアドバイスは出来ない。拳で撃ち抜いたあの時の感覚を他人に伝えるのは難しいからだ。

 どのように伝えたら良いものかとアスカが悩んでいるとラカンが肩に手を乗せて来た。

 

「治癒術士もアスカも問題ないって言ってんだ。嬢ちゃんは心配し過ぎだって」

 

 ラカンに太鼓判を押されてものどかの不安感は消えないらしい。

 まだ不安げにネギの方を見て、こちらから視線を外したのどかの隙を伺うようにアスカの首をどの太い腕で抱え込んだラカンが、「今の内に外に出ろ」と小声で言った。

 

「なんで? つか、痛ぇよ」

「兄弟で理解し合ってても嬢ちゃんにはそんなことが分かるわけねぇ。坊主がこうなったのは試合の後だ。どうしてもアスカがここにいると気にしちまう。坊主が目覚めれば解決するんだが直ぐには目覚めねぇんだろ?」

「そんなに時間はかからねぇと思うけど、直ぐにとは言えねぇな。分かった。外に出るよ」

 

 小声で話しているがのどかはネギを見ながらも、こちらを気にしている意を感じたアスカはラカンの言うことも最もだと判断する。ネギのことについては放っておいても問題ないとしてものどかの精神衛生上、よろしくないだろうというのは鈍感なアスカにも分かるので部屋から出ることにする。

 

「あ、私も行くわ」

 

 付いてきた明日菜をお供に医務室を出たアスカは、さてどこに行くものかと頭を悩ませる。

 

「これからどうするの?」

 

 目的もなく医務室を出たアスカの横に並んだ明日菜が問いかける。

 

「夜には舞踏会に参加しねぇといけねぇからそれまで時間潰しだな」

 

 試合は昼間で時刻は既に夕方である。夜には新オスティア主催の舞踏会があり、オスティア終戦記念祭の目玉であるナギ・スプリングフィールド杯の選手は余程の事情がなければ参加することが決まっている。

 

「ナギ杯出場者は出ないといけないんだっけ」

「面倒臭せぇけど大会要項に書かれてたし、諦めるしかねぇ」

「でも、どうして選手が舞踏会に出ないといけないの?」

 

 特に優勝を果たしたアスカは絶対に出ろと大会運営から口を酸っぱくされて言われたので参加しないわけにはいかない。

 大会参加者ではない明日菜にはそこら辺の理由を知らないらしく、聞かれたアスカはどうやって答えたものかと頭を回す。

 

「俺も聞いた話なんだが」

 

 ノアキスにいた頃に領主から聞いた話を思い出す。

 

「ナギ杯の出資は主に商人がしていて、決して少ない金額じゃねぇ。それでも出資が続くのはこの舞踏会が理由なんだと」

「みんなそんなに踊りたいってわけじゃないわよね」

「この舞踏会には各国の政財界から多くの奴が参加するらしい。商人達や金持ちはそこで政財界と繋がりを作るんだと」

「つまり、選手は客寄せパンダってわけか。世の中、世知辛いわね」

 

 明日菜の言い方は身も蓋もないが正にその通りである。

 貴人公人との繋がりは金で買えるものではない。基本的に分野が違えば繋がりを持ち難いので、ナギ杯を観戦してファンになった彼らを選手を餌にして繋がりを持とうとする。オスティア終戦記念祭を盛り上げるだけではなく自分達の利益にも繋げる辺り商人は油断がならない。

 

「決勝の夜に舞踏会をやるなんて正気の沙汰じゃねぇ。体が持たねぇよ」

「本当なら決勝は昨日に終わってるはずで、一日延期になったのはアスカとラカンさんが準決勝でやり過ぎたからじゃない。文句言わないの」

「へいへい」

 

 決勝戦が一日延期になったのはアスカとラカンの準決勝で闘技場を壊しかけた所為で、復旧と障壁の強化をしなければ観客が危険だったからである。

 

「体の方は大丈夫なの? また短期間に治癒魔法を使ったわよね。さっきも体が持たないって言ってたし」

 

 なるべく人に会わないように闘技場を出たところで明日菜が先程の会話の際にアスカが漏らした言葉を心配していた。

 

「六、七割ぐらいって感じだな。痛みとかはないけど、どうにも体に力が入らない」

 

 アスカが拳を握ったり開いたりしながら答えると明日菜はもっと心配げな顔になってしまった。大丈夫なことを伝える為に安心させるように微笑む。

 

「心配すんなって。今の状態でも明日菜よりは強いぞ」

「むー、そんないことないわよ」

「じゃあ、試してみるか」

「やらないわよ。あんだけ戦っといてまだしたりないの?」

「まあ、我慢はするさ」

 

 呆れられてしまったが心配げな顔をされることは無くなったので良しとする。

 戦い足りないのも嘘ではない。ネギとの戦いで到達した咸卦・太陽道の真髄を誰かに試したくて仕方なく、戦闘狂と呼ばれても無理はない心境にある。とはいえ、生半可な相手と戦っても消化不良で逆に欲求不満が重なるだけ。

 明日菜レベルならばようやく、といった感じか。傷つけたいわけではないし、舞踏会の前にこれ以上疲れるわけにはいかないのであくまで冗談である。

 

「試したいけど、これだけ相手にやったら死ぬしな」

 

 夕方の新オスティア市街は相変わらず人でごった返している。こんな中で意を取り込もうとすれば、脳が処理しきれずにパンクする。

 一人相手に慣れない内に多人数に使えば良くても廃人になってしまう。追々とやっていくしかない。

 

「説明聞いたけど、よく分かんなかったのよね。どういうこと?」

「俺にも説明し難いんだよ」

 

 概念として理解しているが言葉にすると途端に陳腐になってしまう。これがネギであれば言葉にして上手く説明できるのだろうがアスカの限界でもある。

 

「じゃあ、私に試してみてよ」

 

 言われたアスカが一歩離れて距離を開けて向かい合ったのを見た明日菜は少し身構える。

 少しの興味とアスカの欲求不満を解消する為に提案したのだが、アスカが集中を始めると妙に心臓が高鳴った。ドキドキと、指先まで鼓動するみたいに痺れる。目の前の景色まで鼓動一つで震えているようだった。

 

(なに、これ……)

 

 人間なのだから欠点があるのは当たり前。どんなに仲の良い友達でも、どんなに長い時間同じ時間同じ夢を見てきた仲間たちでも、必ずどこかに隙間がある。それが当たり前なのに、今はアスカと繋がっていると確信している。否、どんどん重なっていっている。

 

「んー、失敗か」

 

 内側からアスカの声が聞こえてきたと思ったら、まるでアスカと一体になったかのような感覚が途切れた。

 ハッ、として何時の間にか伏せていた顔を上げると、目の前にアスカの顔があった。

 精悍な顔には頬に大きく傷痕が走っていたが、恐ろしいとか無残といった印象を感じさせない。飄然たる顔にある傷痕さえもその男の魅力に変えている。

 

「つか、やり過ぎたか。てい」

「あ痛っ!?」

 

 見惚れていると頭をチョップされて、ようやく正気に戻った。

 

「これが副作用だな。まだ中層ぐらいでこれだと深層にまで繋がり過ぎると自分と相手の境界が曖昧になる」

 

 分かるような分からない感じだが、やはりなんとなく分かるような気がした明日菜は頷いた。

 

「凄かった。うん、凄かった」

 

 明日菜の口から上手い言葉が出てこない。

 最初から余分な言葉を重ねなくても気持ちの全てが通じ合う感じがあったのだが、途中からは通じ合うどころか溶け合って一つになっていくような不思議な陶酔感があった。

 溶け合ったのはまだ表層だけであったが、副作用という意味が良く分かる。

 

「いや、これは失敗だ」

 

 反対にアスカは大きく息を吐いていた。

 

「相手を理解するのにこれは何の苦労もなく出来てしまう。関係を続ける努力を怠ったら、言葉を惜しんだら人として腐っていくしかない」

 

 人は楽な方に怠けていく性質があるから、有用かもしれなくてもそれに頼り過ぎれば堕落してしまう。

 自分の殻に籠ってネギと分かり合うことを怠った。だからこそ、アスカはこの力を余程のことがない限り使う気は無いと決めた。

 

「そうかしら」

 

 アスカが決意を決めていると明日菜がにんまりと笑って下から顔を覗き込んで来る。

 

「なにがだ?」

「恥ずかしがって言葉にしてくれない人には良い薬だと思うけど」

 

 言われて思い当たる節があるのか、アスカは心持ち明日菜から顔を逸らしながら頬を掻く。

 

「感謝はしてるさ」

 

 何を望まれているかは理解しているが主導権を握られたままの状態で言うのは面白くない。後で話のネタにされたり揶揄われる気配がする。断じて照れ隠しではない。

 

「ラカンとの戦いの最後の時、明日菜の声が無ければ俺は敗けていた。準決勝の時だけじゃない。今までも明日菜には随分と助けられてきた」

 

 街中で足を止め、遅れて足を止めて振り返った明日菜と視線を合わせる。

 人混みの中で足を止めた二人を迷惑そうに周りの人たちが避けていくが、向かい合って互いがいるだけの世界に浸っていて気づかない。

 

「エヴァンジェリンとの戦いから、ハワイでもそうだし、ヘルマンの時には随分と迷惑もかけた。学園祭の時のことも碌に礼は言ってなかったからな。改めて言うよ。ありがとう、明日菜」 

 

 明日菜の背後から風が流れて舞った髪の一房を握ったアスカが手を顔に近づける。まるで髪の毛にキスするかのようで。

 

「俺は明日菜が――――あ?」

 

 認識阻害付きのサングラスを付けていなかったまま街中を歩いていたので物凄く注目されていたことに遅まきながらアスカも気づいた。

 英雄ジャック・ラカンや偽ナギ・スプリングフィールドを倒して第二回ナギ・スプリングフィールド杯に優勝したアスカは世間の注目の的である。とても目立つということはいらん輩も呼び起こしてしまうことにも繋がる。

 

「アスカ・スプリングフィールド選手だ!」

「見つけたぞ。者ども出会え出会え!」

「新オスティア出版の者ですが、お二人はお付き合いを……」

「高額賞金首!!」

「お前を斃せば俺も英雄に」

 

 集まるわ集まるわ。目的も違えば種族まで違う人々が周りから蟻の如くどこからともなく現れて殺到する。

 これほど野卑た気配を撒き散らす者達が集えば二人だけの空間も維持できない。

 

「…………良いところだったのに」

 

 アスカはどうでもいいことはベラベラと喋るのに大事なことは裡に秘める傾向にある。本当に珍しく素直に心情を吐露してくれていたのに、とんだ邪魔が入った明日菜はその手にハマノツルギを呼び出して握った。

 

「良いところだったのに!!」

 

 咸卦法までしてハマノツルギを振るって集まって来た不届き者達を纏めて吹き飛ばした。

 

『あ――っ?!』

 

 明らかに害意を持って向かって来る武器を握る賞金稼ぎが優先的にぶっ飛ばされ、空のお星さまになっていくのを見送ったアスカに範囲外にいた近くの店主のおっちゃんが近づく。

 

「よう、兄ちゃん。姉ちゃんを止めなくていいのかい」

「止めて。今の俺に触れるのは止めて」

 

 ギャーギャーワーワーと割と一大事になっているがアスカは羞恥で真っ赤になった顔を両手で覆っていた。割と恥ずかしい言動と行為をよりにもよって街中でしていたことに気付いて、穴があったら入りたい心境である。

 祭り中の新オスティアで諍いが発生するのは珍しい事ではないが少しやんちゃが過ぎた。

 

『届け出のない私闘は違法である。全員その場を動くな』

 

 声量拡大魔法で周囲に響き渡ったその瞬間、時間が止められたかのように全員の動きがピタリと止まった。

 面倒事は御免だと、アスカ達は逃げようとした。だが、彼らは直ぐに足を止めることになった。前後左右から多くの鎧軍団がアスカ達を取り囲んでいたのだ。蟻も漏らさぬ包囲網、といった様子である、

 

「治安を乱す犯罪者どもめ、貴様らは包囲されている。無駄な抵抗は止めて、大人しく投降しろ!」

 

 その囲みの一歩後ろに立っている指揮官らしき男が、アスカ達に向けてがなった。

 閲兵式もさながらの、ビッシリと整列した百人を超える鎧軍団によって包囲されていた。どこを見ても完全武装した騎士だらけだ。

 仕舞われたゲームのコマのように並ぶ騎士の列が真ん中で一直線に割られた。鎧を身に着けずに裾の長いコートを纏った眼鏡をかけた男が歩み寄って来る。アスカは、男のどこか尊大な態度に、一目で嫌悪感を感じていた。

 

「彼らを残して確保して下さい。後はそちらに任せます」

 

 その男が口を開き、近くにいた鎧にそう言うと集団が動き出してアスカと明日菜以外を捕まえて問答無用で連行していく。

 

「どうする、アスカ」

「今は様子見だな。俺達を残したってことは何か用があるってことだろ」

 

 ハマノツルギをカードの戻して明日菜が不安そうに身を寄せてきたのを庇いつつ、寧ろ遅すぎた男の胎動に思考を巡らせる。

 私闘関係者を粗方連行し終えたことを確認した男は、アスカ達に向かって足を進めて小声であれば他者に声が聞こえない距離で立ち止まる。

 

「既に知っていると思いますが改めて自己紹介させていただきます。メガロメセンブリア元老院議員、MM信託統治領新オスティア総督クルト・ゲーデルです」

 

 そう言って男――――クルト・ゲーデルは優雅に手を胸に当ててお辞儀する。

 完璧な社交辞令を身につけたクルトの振る舞いは、ある種の貴族を思わせる。身体の線は細く、彼の肌は、女性並みに色白だ。傍らにいる従者の少年が白鞘の刀らしきものを持っているが、少年の振る舞いもあって、これまで果実の皮を剥く程度にも使われたことはないと思わせるには十分だった。が、そんな華奢な外見が、見る者には逆に、高価だが枯れやすい上質の蘭のような高貴な印象を与える。

 

「以前はまともに話も出来ませんでしたが、ようやくこの機会が訪れました」

 

 和やかに話すクルトの全身からは、滲み出るような風格がひしひしと伝わってくる。果たして彼は切れ者か、曲者か、或いはその両方か。多分、三つ目の答えが正解だろう。

 見たところ、年齢は三十代を少し回ったぐらいといったところだろうか。どう考えても四十代には達していない。そんな若さで、オスティア新総督の地位にまで登りつめた男だ。並の人物のはずがない。

 よく見れば、面立ちも悪くない。ぴたりと撫で付けた亜麻色の髪、筋の通った高い鼻梁といい、引き締まっているが荒々しさはない。最も、見る限り当人はそんな自分の見栄えを鼻にかけているようなところは毛頭ない。

 人に見られることに慣れ、自分を魅力的に見せる術を心得ている男のものだった。彼のような職種に就き、また俳優と見紛う整った顔も授かった者には、特に珍しいことではない。が、気負わず、諂わず、鏡の前で演じるように自己を演出しきれる厚顔振りは、生まれや育ちだけでは説明がつかない、この男に備わった特殊な資質であるのかもしれない。

 

「邪魔もなく話せる絶好の機会がこのような街中なのは優雅ではありませんが、再びの再会を喜ぶとしましょう」

 

 アスカは驚きに息を呑んだ。驚いたのには単純な理由があった。身の危険を感じたのだ。

 クルトはいきなり身を乗り出してきて、病気になった息子の熱を測ろうとする親のような親密さが許す近さで、アスカをマジマジと眺め始めていた。

 

「おい」

「おや、これは失礼」

 

 アスカが顔を引きながら言うと、一つ咳払いをしてやや落ち着いた感のあるクルトが身を引いた。

 

「再会に年甲斐もなく興奮してしまいました」

 

 そう独り言のように言っている間もクルトの目は片時も休まずに動き続け、アスカの頭から爪先までを凝視続けた。薄く笑ったその顔に、危険な男、と直感が囁いた。

 

「話をしませんか、アスカ・スプリングフィールド君。私は君に興味がある」

 

 そう言い、向かいにいるクルトの所作は、礼節は身を守る武器と心得ている者のものだった。洗練された物腰は相手にも同等の礼節を要求する。見た者が威圧されるほどに。元より礼法とは、単に小奇麗な所作やテーブルマナーに留まらない。それは、相手との交渉を有利に運ぶための一連の技術の別名でもあるのだ。

 

「話しぐらいなら別にいいけどよ。ただ、話すのに後ろの奴らは必要ないんじゃねぇか? それに確か記念祭期間中の新オスティア市内での公権力の武装はアリアドネ―騎士団にしか許されてないはずだぞ」

 

 アスカは拳を握り締め、無言の目をクルトに向けた。そうして体に力を入れていないと、クルトのペースに呑まれてしまいそうな危機感があった。

 

「いやなに、私は幼少より虚弱体質でしてね」

 

 クルトは腕を振り上げて大袈裟な動作をしつつ、この行為を言い訳するように言った。

 

「これでもこの地の総督ですから一人では外出もままならないという身分です。彼らは極々私的なボディーガードのようなものですが偶々市内を視察している時に私闘を見つけては放ってもおけません」

「つまり、仕方のない事だと?」

「官邸に来て頂けるのであれば別ですが」

「悪いが忙しいんでね。舞踏会前にそんな時間はない」

「残念です。ならば、このまま話すとしましょう。彼らは壁の花とでも思って下さい」

 

 言葉こそ丁寧だが、つまるところは圧倒的な戦力を背景にした脅迫であった。

 虚弱体質だとか、全ての言い分に眉を顰めるがクルトと一対一で向き合う方が危険なのはアスカが一番強く感じている。

 

「試合は見せてもらいました。驚愕し、驚嘆し、感激しました。君の才能は億の賛辞にも値する」

 

 世辞と分かっていても、堂々と語られれば反駁することも出来ない。アスカは無言を通した。それよりも新オスティアの提督を任じられた男の、自分に対して向けられる奇妙な関心が気になり、アスカはクルトの瞳をマジマジと覗き込んだ。

 

「ジャック・ラカンとナギ・スプリングフィールド、その両方に勝利した君の力は本物だ。全く以て空前絶後で前代未聞。ああ、本当に期待以上と言っても良いでしょう」

 

 青い瞳には思ったほどの強圧さはなく、むしろ何かを求めるような揺らぎがあった。何を求めているのだと深く瞳の奥を探ると、体中を舐め回すような執着質な色も含んでおり、違和感としか言いようのない隠微な空気を醸し出しているのだった。

 

「最強と呼ぶに相応しい力を手に入れた君は一体ナニをするというのです? 平和な国の学園の戻って平穏に暮らすというのはつまらないでしょう」

 

 礼節に則った持て成しは上辺のことに過ぎず、威圧的な空気が流れている。

 

「俺は俺のやりたいようにやる。例え周りがどう思おうと、お前がどう思おうと関係ない」

 

 力なくば叶わない。力は直接的な武力だけを指し示さない。クルトが用いる権力もまた力である。力のない者の言葉など誰も聞こうとはしない。無論、アスカもそれは理解しているつもりだ。だが、相手の言葉に反抗するようにぶっきらぼうに言い返す。

 

「関係ない? 君が、それを言うのですか」

 

 黙ってアスカの言葉を聞いていたクルトははぐらかすような笑みを浮かべ、すっと手を振って言った。その表情はまるで、やんちゃな子供の悪戯を大目に見る親のものだ。

 

「どういう意味だ?」

 

 くすり、とクルトが笑った。

 それから仰々しく、深々と頭を下げたのだ。あたかも忠実な臣下が主に傅くみたいな荘厳ささえ覚える、異様な光景だった。

 

「私は――――災厄の王女の息子としての貴方とお話がしたいのですよ」

 

 腹の底でなにかが断ち切れ、揺れていた秤が一気に傾くのを感じながら、今度こそアスカの顔から、すぅっと表情が消えた。一瞬で、あらゆる感情が漂白されたかのような変化であった。「話、だと?」とアスカは鉄面皮で応じた。

 

「おおっと」

 

 思わずといった拍子でクルトが一歩後退る。

 

「誤解しないでください。そのことで貴方を告発したり、脅したりする気はありません」

「なら、なんだ?」

 

 アスカの瞳は、極点の冷気を秘めたままであった。先ほどまでも決して愛想が良かったわけではないが、今は純粋な敵意を放っていた。ずっと内に秘めていたとは信じがたいほどの存在感が圧力となって圧し掛かる。

 二十年の時間が経過しようとも色褪せるどころか輝きを増したジャック・ラカンを倒した男から発せられる圧力に、クルトはスーツの胸元を抑えるだけで耐えた。

 

「――――――嘗て知った時は驚きましたよ。まさか、あの人達に子供が生まれていたなんてね」

 

 と、流石に気圧されはしたのか微かに嗄れた声で囁く。

 

「私は貴方に従いたくて、やってきたんですよ」

 

 と、クルトは悪戯っぽく笑いながら告げたのだ。

 

「俺に?」

 

 片眉を上げたアスカに、クルトは深く頷く。

 この男の反応は、妙に人を安心させるところがあった。カリスマ性、というのだろうか。彼にしたがっていれば大丈夫と思わせるような風格。その肩が、そびやかされる。

 

「ええ、貴方に」

「………………」

 

 静寂が満ちた。硬く、重苦しい沈黙だった。

 爆弾にも似て、ひどく微妙な性質を含んだ沈黙を再び破ったのは、やはりクルトであった。

 

「大英雄の息子であり、自らもノアキスを救って英雄と呼ばれ、嘗ての英雄を越えた戦士。更に世界最古の王国の血を引く数少ない末裔の一人ですらある」

 

 クルトは、ゆっくりと呼吸を整えながら言う。その顔色こそ蒼褪めてはいたが、けして怯んではいない。寧ろ愉しむように、唇の端が歪んでいた。

 

「大国との繋がりを持つ君は望めば世界を支配することすらも可能だ。如何ですか、私と手を組んで世界を支配してみますか」

 

 理不尽なギャンブルを勧める悪魔のような口調で、物騒なことを言い出したクルトにアスカは「アホらしい」と返す。

 

「んな面倒なことに興味はねぇ」

 

 この男は危険だ、と内心の叫びが心身を強張らせ、アスカは両の拳をきつく握りしめた。

 

「それは良かった。私も君がそんな俗なことに賛同したら斬らねばならなかったところです」

 

 何時までも通りを封鎖しているのは、終戦記念祭開催中であることを考えれば決して良い事ではない。何よりもクルトという男から感じられる奇妙な粘着性がアスカの感性に触る。

 冗談だと分かりづらいクルトのジョークにアスカは「いい加減に本題に入れ」と先を促した。

 

「分かりました。では、本題に入りましょう。私の目的はただ一つ、アスカ・スプリングフィールド君――――――――私と手を組みませんか?」

 

 僅かにイラついた様子のアスカが本題を促すと演技然とポーズを崩さないまま、端的に自らの目的を口にした。

 

「とはいっても、直ぐには信じられないでしょうから、こちらも誠意を見せましょう」

 

 アスカの目の奥には容易には拭えない不審の光が宿っている。互いの間に横たわる溝をどこまで自覚しているのか、クルトは口元をふっと緩めた。

 

「二十年前の君の母君の真実、そして六年前に君の故郷の村を襲った犯人。もしも君が全てを知りたいというなら思うなら私と手を組むべきだ」

 

 アスカの沈黙に、若きオスティア新総督は頷き、とんでもないことを言い放ったのである。

 

「無論、この程度のことは貸しなどとは申しません。例えば君の仲間を旧世界へ戻す為のゲート行きの協力ですね。協力関係を築くにあたってのこちらからの好意だと思ってくだされば結構です」

「それはつまり協力しないなら逆の強権も働かせられるぞ、ということか」

 

 苦い表情を浮かべたアスカの言葉に、明日菜がハッと振り仰いだ。

 それだけ過激な発言だったが、クルトは困ったように微笑したきりであった。

 

「どのように取られるかは、人によるかと」

 

 優しく、しかし厳かな声でクルトは言う。

 アスカの言葉を否定せず、直接肯定もしない。相手の想像に任せるやり方だ。政治では何時もそんなやり方が交わされているのか。

 

「…………」

「いかかです?」

 

 再び、クルトが問う。

 暫くアスカは反応しなかった。クルトも急かすことはしなかった。待つことには慣れていると言うかのように、クルトはアスカの返答を待っている。正しく準備を整えれば、後は時間の流れこそが全てを解決すると経験によって知り尽くしているようでもあった。

 

「――――俺は」

 

 やがて、返事があった。

 見咎められぬように、クルトはこっそりとにやついた。

 

「協力――」

 

 その先を続けようとしたアスカの手が不意に熱くなった。柔らかなものが触れていた。明日菜の指であった。

 明日菜の手が彼の手を包んでくれていた。その温もりが、彼の全身の血を温かくしてくれる気がした。

 血が出るかと思うほどに石のように固く握りしめられた拳を丹念に解いて、明日菜の手とアスカのそれが重なった。白磁の如き指は、アスカの傷らだけの手の甲を癒すように撫でて慈しんだ。

 アスカが顔を横を向けると、明日菜は何も言わずに首を横に振った。合わせるように亜麻色の髪が揺れた。

 明日菜の強さとは、立ち向かう意志であり、新しいことから逃げない勇気だった。人間と関わることを諦めない、握ってくる手の感触だった。

 握った手の平は、アスカよりも強い力で握り返してきた。体温が伝わる距離にいると、少女の髪と汗の気配を感じた。そんな些細な出来事が何故か嬉しい。

 

「ありがとう」

 

 言いながら、アスカは目を閉じていた。闇の中に一点、光が灯ったような彼女の体温を感じていたからだった。まるで明日菜が、溺れる者の掴む藁のようだった。

 アスカが微笑む。やっと明日菜が安心できるような、温かい微笑だった。きっとなんとかなると、そう思える笑顔。

 

「どうやら時が悪いようですね。答えはそうですね…………舞踏会で聞くとしましょう」

 

 明日菜の存在を認識したことでアスカの心が移り変わり、旗色が悪くなっていることを持ち前の観察眼から察知したクルトはあっさりと退くことを決断した。

 

「では、また後程。良い返答を期待しています」

 

 旗色悪しと見るや即座に身を翻したクルトはそう言い捨てて、先程までの奇妙な執着はどこに消えたのかと思うほどにあっさりと去っていく。

 協力を断ろうと口に仕掛けたアスカの機先を見事に制し、あっという間に鎧集団共々に通路からいなくなってしまった。

 あまりの素早さにアスカが唖然としている間に封鎖が解かれた通路には人が戻って来る。

 せき止められていた通路には多くの人が行き交いを始め、その中でアスカ達だけが取り残された。

 

「何はともあれ、一難去ったか」

 

 知らずに力の入っていた肩を落としつつ、繋ぎっぱなしの手を辿って明日菜を見たアスカはゆるく笑みを浮かべた。

 

「助かったよ。明日菜がいなけりゃ、奴に取り込まれてたところだ」

「ううん、何のこと言ってるのかよく分からなかったけど、アスカの助けになったのなら良かったわ」

 

 頼りにしてもらえることを、彼女は何時も望み続けてきた。だから、彼女は誇らしく頬を上気させていた。この世で最も美しい物を手に掴んだように、オッドアイの瞳が喜びと期待に輝いていた。

 

「ありがとう、アスカ」

 

 弾ける笑顔が、アスカの網膜に焼き付いた。

 

「なんで、明日菜が礼を言うんだよ。逆だろ、普通」

「言いの。私がそうしたいんだから」

 

 どうにも気恥ずかしくなって明日菜を見れなくなってそっぽを向くも、直球の明日菜の言葉に続く言葉に窮する。

 

「少し疲れたな。どこかで休むか?」

「舞踏会までそう時間はないでしょ。それにあのクルトっての対策を取らないと。舞踏会で絶対に関わって来るわよ」

「それはそうなんだが……」

 

 話題を変える為に休憩を提案するが明日菜の言うことは至極真っ当なもので反論の余地がない。この疲労感を抱えたまま宿に戻ってもトサカ辺りに鬱陶し気な目で見られるのは確実。

 腕を組んで悩み始めたアスカに苦笑した明日菜が折衷案を考える。

 

「私が一緒に付いてってあげるから心配なんかいらないわよ。休憩せずに飲み物でも買って飲みながら早く帰りましょう。皆と対策を考えないと。ここで待ってて、何か買って来るから」

 

 足取りも軽く、散り出した群衆の向こうへ行こうと、少女の背中が遠ざかろうとした。

 

「明日菜」

 

 その前に一度だけ、名前を呼んだ。

 少女が、進みかけた足を止めて立ち止まる。振り返って、どうしたのかと問いかけてくる顔に「その……」と、言い淀む。少し悩んだ末になんでもないと口にして、

 

「キンキンに冷えたのを頼む」

 

 リクエストを不器用に口にした。

 明日菜にとっては、それだけで十分だった。

 

「うん、分かった!」

 

 もう一度、本当に嬉しそうに明日菜は笑ったのだ。

 

「待っててね。直ぐ戻るから」

 

 どうして、この時に胸に抱いた不安感に気がつかなかったのかと後になって深い深い後悔と共にアスカは思う。

 

 

 

 

 

 魔法世界には旧世界の日本のように自動販売機はない。魔法世界では人力による店での販売が主流である。

 木製のコップ込みでアスカの希望通りの冷たい飲み物を購入した明日菜の姿は、離れた場所から少し歩いた多くの人が行き交いする噴水広場にあった。

 つい、色々と考えてしまう。さっきまでの高ぶった気持ちは、まだ収まりきらず、明日菜の胸と内心を熱く乱していた。

 

(嬉しいな……)

 

 その胸を、そっと押さえる。

 嬉しいことには変わりなかった。まるで、キラキラと光る宝石のような、何より大切な贈り物だった。

 

「――――さ、帰ろ」

 

 思わず噴水に見入って止めていた足を進めようと、視線を動かしたその時だ。

 何か見てはいけないものが視界を過った。

 

「な、に?」 

 

 見てはいけないと分かっているのに、明日菜の目が本人の意思を裏切って周辺を彷徨う。人が多く集まった広場の片隅――――――不自然然に誰もいない街灯の近くに影がいた。

 

(え……っ)

 

 明日菜の呼吸が止まった。理由は分からない。なのに、一人でに明日菜の膝が、精神よりも先に身体がその影の正体に気づいたようにガクガクと震え出したのだ。

 これは、致命的だ。けして近づいてはならない死神だ。逃げなくてはならない。なのに、足がちっとも動いてくれない。

 

「あなたは、誰?」

 

 何時の間にか、明日菜はどうしようもなく震えていた声で尋ねていた。

 群衆の中で、影はゲートポートで見たデュナミスという男が着ていた僧衣のような服を纏っていた。違いといえばデュナミスが黒に対して薄い紺というぐらい。

 

「我を忘れたか、姫御子」

 

 と、明日菜に問われた影が嗄れた声で答えた。

 目深に被ったフードで顔は見えない。皺枯れた声から老人かと思ったが子供のように背が低く、喉元に覗く肌は若さが見える。

 老人と思ったのは声だけではなく全てが空虚で遠い存在感にあった。同じ場所に立っているとは思いないほど、気配がない。いや、生気がない。この影に比べれば、まだしも木乃伊の方がよほど生きている。

 影がゆっくりと顔を持ち上げる。その動作に合わせるように、悪戯するように吹いた風が影のフードを捲り上げて顔を外気に晒す。

 

「―――――ぁ」

 

 フードの下に隠されていたのは知らない顔だ。勉強は駄目でも人の顔を覚えるのには自信がある。少なくとも覚えている中で会ったことはないと断言できる。全く見たことのない他人としてならば。

 鏡の向こうで見つめ返してくる顔だ。見覚えは嫌というほどある。

 明日菜をそのまま幼くしたような顔をした影は、まるで怯える明日菜を嬲るようにゆっくりと近づいて来る。

 

「来ないで!」

 

 近づく幽霊に怯える子供のように懇願するが影の足取りに遅滞は見られない。

 頭のどこかで警鐘が鳴り続け、膝の震えがどうしても止まらない。逃げられない。靴の裏は地面に貼りついたまま、身体は指一本まで強張っていて明日菜の意志に従わない。血管は見えない毒に冒され、神経はありえない指令に狂い、脳髄は真っ白に漂白されていく。

 何をするでもなく、何を語るでもなく、ただいるだけで少女をグラグラと揺さぶり続ける。

 

「そうか、記憶を消されているのだな。ならば、思い出させてやろう」

 

 ゆっくりと影が持ち上げた指先から光が伸びて明日菜の額に当たる。

 

「な……何よこれ!?」

「案ずるな、ただの解除呪文だ」

 

 光が当たって額に浮かび上がった魔法陣からグルグルと回転して光を増す。

 異常事態にようやく周りに助けを求めることを思いついた明日菜は辺りを見渡した。だが、これだけ目立つことをしているのに周囲の人々は明日菜達の様子に気がついた様子もない。そこで一つの異常に気がついた。

 

(………人が、いない……!?)

 

 ナギ・スプリングフィールド杯を終えて、オスティア終戦記念祭は最大の盛況で新オスティアのどこでも多くの人達の姿が見えていた。この噴水広場にも多くの人が行き交いしていたのに、気がつけば広場には他に誰もいない。遠くから人の生み出す喧騒と話し声が聞こえるのに、視認できる範囲には人影は見受けられなかった。

 

「あ、あぁあああああっ!?」

 

 直ぐに周りの事を気にしている余裕はなくなった。明日菜の記憶が上書きされていく。いや、忘れていたことを思い出される。結果として神楽坂明日菜という存在が根底から否定されていく。

 唇が本人の意思を無視して、一人でに動く。

 

「墓、守り……人」

 

 衝撃が走った。自分の口走った名称が、この目の前にいる影を指す敬称であると思い出してしまったからだ。

 墓守り人と呼ばれた影が、口の端を歪ませて地獄からの囁きのように告げる。

 

「我が末裔よ。自身の罪の重さに耐えられるか」

 

 歌うように、呪うように墓守り人は呟いた。幼いような、老いたような、不思議で奇妙な声だった。

 影の笑みはやはり死人のようにしか映らなかった。生気が無さ過ぎて、人というより蝋人形か何かに見える。

 

「助けて、アスカ」

 

 ぱしゃん、と明日菜の手元から落ちたコップが地面に落ちて地面を染めていく。

 その手で、アスカから指輪が魔法陣の光に照らされて虚しく輝いていた。

 

「……………終わったぞ」

 

 地面に倒れ込んで動かない明日菜を見下ろした墓守り人は僅かな哀れみをその眼に滲ませたが声を発した瞬間には消え失せていた。

 

「ありがとうございます、墓所の主」

 

 墓守り人に言葉に答えたのは通路の影から現れた一人の少女であった。

 

「協力してもらってなんですが、本当に良かったのですか。彼女は貴女の……」

「姫巫女がおらねばこの世界は確実に滅ぶ。となれば、否はない。それは分かっておろう、栞」

 

 栞、と呼ばれた少女は墓守り人の言うことが正しいからこそ、一時の気の迷いを口にした自分を恥じるように俯く。

 

「一人か世界、どちらかを選べと言われれば答えは決まっているが、この者の幸せな姿を見た後で揺らいでしまうのは仕方のない事。お前まで犠牲を必要だからと割り切る必要はない」

 

 感情の揺らぎを感じさせない声で言う墓守り人には、栞が感じている後ろめたさがあるようには見えない。

 

(そう、私は後ろめたさを感じている)

 

 意識を失って倒れている少女の目元は濡れている。

 果たして封印されていた記憶が解放されたからか、もう英雄の下には帰れないと悟ったからか、その涙の理由は他人でしかない栞には分からない。

 世界の贄たる姫巫女としてではなく、どうしても先程まで監視していた時に見た一人の少女の印象が強すぎた。

 

「何時までも人払いの結界を張っておくわけにはいかん。早く偸生の符を使え」

「…………はい」

 

 理屈で理解は出来ても感情で納得は出来ない。それでも与えられた任務、為すべきことは為さねばならない。

 

『必ず君をお姉さんと会わせてみせるよ』

 

 世界を守る為に、約束を果たす為に躊躇ってはいけない。この為に栞は完全なる世界に協力しているのだから。

 栞はフェイト・アーウェンルンクスが十年をかけて完成させた偸生の符を取り出して、明日菜の傍に跪く。

 

「ごめんなさい」

 

 何に謝っているのか、自分でも分からないまま偸生の符を二人の間に置いて、果物ナイフを取り出して明日菜の指先を薄く切る。

 皮一枚切られた指先から血がポタポタと地面に置かれた偸生の符に向かって滴り落ちる。

 明日菜の血に染まっていく偸生の符が地面に魔法陣を作り上げ、明日菜と栞の体から自動的に魔力を吸い上げて輝きを増していく。

 やがてマナが魔法陣の中に満ちていき、ぼんやりと輝く魔力は渦を巻き始め、何本もの細長い帯のようになって栞の体に絡みついていく。

 不意に目も眩む輝きが魔法陣を満たした。光が薄れて晴れた先には、栞が立っていた場所に倒れている明日菜と瓜二つの神楽坂明日菜が立っていた。

 

「偸生の符――――貴様のアーティファクトは外見だけでなく、特殊な自己暗示によって性格反応まで本人そっくりと化す変装術。テルティウムも手間のかかるアーティファクトを作るものだ。不安はあったが成功したか」

「この時の為にフェイト様が十年をかけて完成させたのですから成功するのも当然です」

 

 栞は、明日菜そのもの声で言ってから、彼女の顔でにっこりと笑った。

 

「早く戻らなければ彼の英雄に怪しまれますので直ぐにスイッチを入れます」

「では、私も姫巫女を連れて撤退するとしよう」

 

 当初決められた通りに神楽坂明日菜の奪取に成功した完全なる世界の作戦は進行する。

 明日菜を連れて墓守り人が姿を消し、明日菜の姿をした栞が成りきりのスイッチを入れたところで通りに人が戻って来た。

 

「どうしたんだ、明日菜。なにか結界が張ってあったみたいだが」

「あ、アスカ」

 

 その直ぐ後にアスカが現れ、先程までこの通りにあった結界の名残りに不審げな表情を浮かべている。

 

「また決闘騒ぎよ。巻き込まれたから邪魔だって結界を壊しちゃったら、戦ってた人があっという間に逃げちゃった。その時にコップ落としちゃったから買い直して来なくちゃ」

「いや、いいさ。宿に戻って飲めばいい」

 

 不審に思っている様子はなく、明日菜が言うことを疑っている様子もない。それでも話すアスカは何故か一定距離から明日菜に近づかない。

 

「さあ、行こうぜ」

「うん」

 

 この時はまだ誰も気づいていなかった。破滅へと進む世界の傍らで、終わりへと加速していることを。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 会場となっているホールに向かうまでに廊下には豪奢な絨毯が敷かれており、アスカの革靴を踝まで包み込んだ。

 

「……うはっ」

 

 何とも言えない感触に、アスカが呻く。

 ある意味で贅沢のそのものの触感でもあったろう。同じ重さの黄金にも匹敵しようという絨毯に、廊下に並んでいる他の調度品も何一つ見劣りしない。それでいて主張の激しさから全体の調和を乱すこともなく、コーディネーターの優秀さをさり気なく証明していた。

 

「なんや場違いな気がするで」

 

 隣で着慣れないタキシードに身を包んだ犬上小太郎があちこちを引っ張りながら隣を歩く。

 ナギ・スプリングフィールド杯本選出場者は舞踏会に招待されて話題の花にならねばならない。小太郎と共にタキシードを纏ったアスカが会場ホールに辿り着くと同時にゆっくりと曲が流れ、その流れに合わせてゆったりと時間が流れてゆく。

 

「うおっ……!?」

 

 今まで努めて気にしないようにしていた会場中の視線が実体を伴って突き刺さるように感じて素っ頓狂な声を上げてしまった。声は幸運にも口の中だけに留まったお陰で周囲には知られることはなかった。

 改めてアスカは自分が会場にいる参加者だけでなく楽隊やボーイに至るまで、ありとあらゆる人が自らの一挙手一投足まで観察するような視線を向けられているのを悟り日和った。

 

「飯でも食うか」

「こんな周りから見られて食ったって美味かないやろ」

 

 舞踏会開始前、それこそ会場に入ってから直ぐに、幾人者が近づきたいという顔を隠しもせずに周囲と牽制し合って距離を計っている姿を見れば、まるで晒し者にされているような気にもなって嫌気も指して来る。さりとて近づいて来た者がどういう気質で、何を目的に自分に近づいてくるのか、進んで腹芸をしたくもない複雑な心境であった。

 本選出場者の二人は、特に優勝したアスカに向けられる会場中の視線は物理的な力を持つのではないかと思うほどで、どれだけホールに幾つかある机の上に乗っている料理が美味しそうに見えても視線が気になって味を堪能できないだろうことは想像に容易くなく、ガックリと肩を落とす。

 

「見た目は美味そうなんだがな」

 

 社交界で出される料理のメニューは、富の威力を示すまたとないチャンスだ。

 大抵は調理されすぎている上、重いソースがふんだんにかかっていて舞踏会で踊る合間に食べれたものではないが、主催者であるクルトはその辺りも抜かりなく配慮していた。立食用の大皿に並んでいるのは、こなれのいい肉類とスープ、サラダばかりで、動いても響くような重いものはなかった。

 タキシードを合わせなければならず、時間が無くて軽い物しか食べれなかったアスカと小太郎には垂涎の料理に見える。

 

「飯食ってれば周りの相手をせんでいいんならええんやけど、俺はともかく優勝者のアスカは放っておいてくれへんと思うで」

「うへぇ」

 

 広大なダンスホールには各国の高級軍人や官僚、名立たる事業家といったそれなりの立場にいる者達が集まっていて、ホール壁面に陣取った楽隊が静かな舞踏曲を演奏する中、数組のカップルがステップを踏む光景が展開されていた。

 

「あかん。こんなところにいるだけで腹一杯や」

 

 上品に舞踏会を楽しむためのその空間は、心地の良い旋律が流れているのとは裏腹に、些細な振る舞いがその者の評価を根底から覆しかねない社交界という魑魅魍魎の住む世界。

 保身に凝り固まった男や、権力のある男に取り入ろうとする接近する女達の涼やかな笑みの皮を被って談笑している様は、小太郎にとってはさぞ長い歴史が作り上げてしまった人間の醜い業のようにも思えることだろう。

 

「お? 向こうの奴らがお前と踊りたいんちゃうか、アスカ」

 

 先刻からナギ・スプリングフィールド杯を制して一躍有名人の仲間入りを果たしたアスカに、いの一番にダンスの相手を勤めようと近くで淑女の群れ達からチラチラと視線を送られてくるのが場違い感を助長していた。

 

「折角、知らない振りしてたのに」

「同伴者を連れて来てればこんな苦労もせんかったんやけどな」

 

 淑女達が身に付けているドレスは胸元を露出しているのも珍しくないが決して下品には見えないように装飾品があしらわれている。宝石が装飾されていても過多と呼ぶほどでもない。単に煌びやかというのではなく、広大なホールにさりげなく置かれた調度品も相まって、えもいわれぬ気品を漂わせていた。

 男は女性陣よりかは服装のバリエーションは少ない。色も黒や黒に似た系統の色のタキシードや自国の軍服と、服選びにかかる苦労は女性に比べれば万分の一にも満たないだろう。

 

「小太郎も誰か連れて来て踊ったら良かったんじゃないか。楓とか古菲と仲良いじゃねぇか」

「お前がそれを言うんか?」

 

 と、何故か呆れ果てた目で言われたのが解せないアスカであった。

 

「仲間内で気取って踊れるかいな。それこそアスカだって、明日菜の姉ちゃんどころか誰だって選び放題やのに連れて来てないやないか」

「俺の場合は厄介事に巻き込まれるのは分かってたからな。残った奴らに危険がないってわけじゃないし、戦力差的にこの方が無難だろ」

 

 理由を付けてはいるがクルトとの対面を考えれば誰か一人ぐらいは傍にいてくれた方が助かるのは事実である。舞踏会は同伴推奨で、街中でのクルトとのことを思い出せば明日菜が傍にいてくれれば心強い。千雨は忌憚のない意見をぶつけてくれるし、他の誰だって決してマイナスにはならない。

 

「心配して付いて来ようとした明日菜の姉ちゃんに妙に冷たかった男の言うことには思えへんな」

 

 誰もが明日菜の同伴を疑っておらず、アスカも当初はそう考えていた。

 

「俺にも分かんねぇんだ。考え過ぎだとは分かってんだけど」

 

 今の明日菜には違和感を覚え、他人のように感じるなどと。

 気配は変わらない。性格や何かが変わったわけではなく、間違いなく本人と自信を持って断定できるのに、何かが違うと心のどこかが囁く。

 明日菜に対して妙に冷たかったというのはアスカ自身がその理由に辿り着けていないからの対応なのだ。

 

「この舞踏会が終わったら麻帆良に帰る。その時に謝るよ」

「まあ、二人の問題やから俺に言わんでもええけど」

 

 アスカが煮え切らない態度で言うと小太郎は少し考える仕草をしながら言って、視線を近づいてくる者達に向けた。

 

「あ、あの犬上小太郎選手とアスカ・スプリングフィールド選手ですよね。どちらか私と踊って頂けますか?」

「いえ、アスカ様。私と」

「小太郎選手、わたくしと踊りませんか?」

 

 男同士の会話を邪魔しないように待っていたが一人を皮切りに次々と集まって来る淑女達。

 

「アスカ選手、帝国拳闘協会の者ですがお話を」

「本選出場者として今大会のことについて、どう思われますか」

「私は連合の軍事教官なのですが、貴官の強さの秘密は」

 

 ダンスの誘いならまだしも、有名人と話がしたいセレブから、取材をしたい記者から、軍人に至るまで次々と話しかけてきて収集がつかなくなってきた。

 判で押したような愛想笑いを浮かべた者達一人一人に丁寧な対応をしていたら面倒臭すぎる。

 ダンスを求める淑女には、取材を求める記者や話がしたい軍人をそれとなく矢面に立たせて、アスカが対応出来ない姿勢でいると早々に諦めた者達の中から誘ったり誘われたりしてこの場を離れていく。

 それを繰り返しても人は中々減らず、それどころかアスカや小太郎を目的として続々と人が集まってきている。

 粘り強い者と諦められない理由があるのか意地でも離れないとする意志が垣間見える者もいる。

 このまま続けることによって生じるストレスから来る胃痛と妥協した場合の面倒を天秤に掛ける。その場合、簡単に想像できる現状維持と、もしかしたら現状打破に繋がる未知を比較すると秤が後者に傾くのは自然の流れといえた。

 

「後は任せた、小太郎」

「お、おい!?」

 

 三十六計逃げるに如かず。徐々に気配を薄めて、全員の意識から自分が外れた瞬間にこっそりと退避する。後を任された小太郎にとってはいい迷惑である。

 

 

 

 

 

 逃げ出した先の上階のテラスからは、新オスティアの街並みが見える。既に夜の帳が降り、世界全体が群青色に染まっていた。新オスティアの街を浮かび上がらせる無数の光は、人々が息づく証。

 新オスティアを一望できるテラスには、現在は舞踏会が行われていることもあってアスカ以外に立ち入る者はいない。中心市街や総督府から伝わってくる賑わいを遠くに聞きながら空を見上げる。

 

「よお、こんな所にいたのかよ。なに一人で黄昏てやがんだ」

「見れば分かんだろ、ジャック。人に酔ったから涼んでんだよ」

 

 遅れて会場ホールに来たらしいジャック・ラカンがその巨体に合わせた特注らしいタキシードを纏って現れ、アスカの横に並んで空を見上げる。

 

「小太郎が一人で困ってたぞ。アスカはどこ行ったてな」

「要領が悪いんだよ、アイツは。逃げたもん勝ちだ」

「違いねぇ」

 

 あっさりと小太郎のことを見捨てた二人が見上げた先に、乳白色の河の流れのように無数の星久が夜空を満たしている。標高が高く空気が澄んでいるせいか、空には零れ落ちそうな満天の星空が広がっており、見る者の心を強く打つ。

 

「こっちの空も地球と変わらねぇな」

「変わるわけねぇだろ。違うのは場所だけなんだからよ」

 

 例え世界が違おうとも、見上げる先にあるのは同じ夜空だった。位置は違えど見たことのある星が同じ形に並び、一瞬たりとも同じ姿ではいない夜の地上を見下ろしている。

 不同の世界たる大地を、ある意味最も正確に映している鏡のような不変の空は、空を見上げる人間の慰めであること以上の意味を持っているはずだった。

 

「お、流れ星」

 

 アスカが人の夢想に過ぎないのかもしれないと思っていると、ラカンが満天の星が一つ短い軌跡を描いて星空を横切って流れていくのを見て弾んだ声を上げた。

 

「流星群か」

 

 それは奇妙に胸を騒がせる光だった。流れた星を追うように、次の星が流れる。流れ星は新たな流れ星を呼び、遂には豪雨の如き流星群と化し、その勢いは、時が経つにつれて益々激しくなっていた。

 降るような、という表現そのままの星空から零れ落ちた。

 

「珍しいこともあるもんだ。何かが起こる前触れってやつかね」

 

 星たちが哭く。そんな、千年に一度あるかないかの天の異変は凶兆か、あるいは幸福を呼ぶ印か。テラスに佇ずんで金の髪を夜風に靡かせるアスカが澄んだ蒼の瞳をじっと眇めながら夜空を眺めている姿を見たラカンが表情を緩める。

 

「クルトの奴と接触したらしいな」

「ああ、カミソリみたいな奴だった」

「言い得て妙だ。成程、今のアイツはその言葉が最も似合う」

 

 クツクツと的確な表現に笑ったラカンはテラスの欄干に凭れかかり、流れていく星を眺める。

 

「カミソリの刃は使い方次第で容易く人を傷つける。アイツをそうさせちまったのは俺達紅き翼が不甲斐ないと思っちまったからだ。まあ、俺は謝る気は更々ないが」

 

 唯我独尊なラカンは勝手な言い様をしつつも、どこか郷愁を感じさせる目をしていた。彼は彼なりに思うところがあるのだろう。

 

「アスカ、お前は強い。もしかしたら俺よりも強いかもしれねぇ。いや、それはねぇか」

「試合に勝ったのは俺だから強いに決まってるだろ」

 

 ふっ、とアスカが結果を持ち出して反論するとラカンは思わせぶりな笑みを浮かべて笑っているだけだ。

 

「俺からお前に何かを言うことはもうねぇ。言っちまったら方向性を決めちまうからな」

 

 ラカンは軽く自分のうなじを叩く。

 世界を守れとも、敵と戦えとも決して言うことはなく、静かな眼差しでアスカを見る。その顔には、なにかに耐えるような表情が浮かんでいるのが見えた。アスカはトクンと跳ねた心臓に手をやり、瞬く星久に目を凝らす。

 

「俺が知る全てをクルトのガキに渡しておいた。それを知った上で、お前はお前の望む通りに生きればいい。俺から言えるのはそれだけだ」

 

 短く告げた。そのまま欄干から身を話し、ゆっくりと歩き出す。

 

「お前の進む道に幸多からんことを祈ってるぜ」

 

 テラスから去っていくその一歩一歩が、まるで岩を引き抜くような重い重い歩みであった。気配だけで他人のあらゆる干渉を跳ね除ける、強い信念に満ちていた。

 

「アスカ様」

 

 ラカンの姿を見送ると、入れ替わるようにテラスにスーツを着た幼い少年がやってきた。

 執事らしい所作のその少年が街中でクルトの傍に控えていたのを記憶しているので、クルトの遣いであることは間違いないだろうが驚くべきことにアスカよりも幼い。クルトの所は人手不足なのだろうかとの疑問が脳裏を過ぎる。

 

「クルト・ゲーデル総督が特別室でお待ちです」

 

 どうあれ、クルトの従卒らしき少年に差し招かれてはアスカに断る理由はない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 新オスティアの街並みが見下ろせる高い建物の屋根の上で白いスーツを纏ったフェイト・アーウェンルンクスは祭り中とはとても思えない陰気な顔していた。

 

「何も知らない、哀れで儚い木偶人形達。人の自我など錯覚による幻想にすぎない…………などと言ったところで慰めにもならないね。まあ、僕も大した違いはないけど」

「―――――――やれやれ、頭の良いバカの言う事は敵も味方も訳わかんねぇな」

 

 フェイトの背後数メートル離れたところに新たな影が作り出させる。その男の名はジャック・ラカン。救世の英雄の一人にして強靭な戦士でもある男がフェイトの歩みを邪魔するように立つ。

 

「懐かしい姿じゃねえか。前のままじゃガキ過ぎて見栄えが悪かったがアスカに合わせたか?」

「祭りに紛れるのに子供の姿は面倒が多いから調整しただけだよ」

「へっ、本当かね」

 

 その言葉に気を害したように眉を顰めたフェイトの反論を全く信じていないラカンは分かり易すぎるほど挑発的に鼻を鳴らす。

 

「お前、招待状はあんのかよ? 招待されてねぇ奴は入れねぇんだぞ」

「僕は悪者だからね。そんな決まりは無視させてもらうよ」

 

 上がる花火の爆発の光に二人の姿が照らされて、屋根に二つの影を作り出す。

 

「少し意外だったね。貴方は世界のことに興味がないと思っていたけど、彼に情でも湧いたかい?」

 

 数秒の沈黙の後にフェイトが口火を切った。

 

「世界はどうでもいいんだが、今のアスカは本調子じゃねぇ。アイツを狙うってんなら俺が相手になってやるよ」

 

 腰を落とし、半身になったラカンが戦う気になっているのを見てもフェイトは動かず構えすら取ろうとしない。

 

「昨日今日会った仲にしては随分と入れ込んでいるね」

「とことん戦えば通じ合うものがあんだよ、男にはな。テメェにはないのか?」

「…………全くないとは言わないけど、君のように本来なら戦う必要のない相手と戦う気にはならないよ」

 

 ラカンの戦意に反応して微かに指を曲げて戦う準備を続けるフェイトは少し不快そうに表情を顰めた。その顔にラカンは本当に珍しいものを見たように瞬きをする。

 

「どうもお前は前の二人とは違うな。どうにも人間臭ぇ感じがする。どうした、世界と人生に飽いたか」

「戯言はそこまでだよ。言葉で理解し合えるなら二十年前も紅き翼と完全なる世界は闘っちゃいない。さっさと始めよう」

 

 喋っているとペースを崩されると理解してか、軽く膝を曲げたフェイトにラカンも臨戦態勢を取る。

 

「戦うのには賛成だが、見たところテメェは最強クラスのようだが俺にもアスカにも負けるぜ。そのことを良く理解しているからお前もアスカが完全じゃない今を狙った――」

 

 んだろう、と言いかけてラカンが息を止めた。

 真っ白なキャンバスに絵の具を染み込ませたようにフェイトの気配が劇的に変わったのである。

 

「関係ないね」

 

 それまで動かなかったフェイトが一歩前に出ながら静かに言った。地獄の底から聞こえてきそうなひどく熱した声で、それまでの硬質な雰囲気からは考え難い変化だった。

 ラカンは唇を歪めて、唐突に頬を押さえた。火傷しそうなほどの異様な熱を、そこに感じたのだ。

 

「本当のことを言われて怒ったか」

「黙れ」

 

 挑発に引き出された言葉を放ったフェイトの何かを押し込めたような形相は、普段の人形のような無表情だけに酷く暴力的に思えた。

 殺気が、その形を異形に見せた。暗がりでも怒りに満ちた表情が窺える。

 

「ジャック・ラカン、君はここで舞台から退場しろ」

「はっ、やって見せろ」

 

 二メートルを超える巨体を覆う窮屈なスーツの上からでも瘤のように膨れ上がった筋肉が分かる。

 一瞬の後に激突するかと思われたその瞬間。

 

「アーティファクト発動、無限抱擁」

 

 花火の光を浴びて大きな影は隠れていた少女が発動したアーティファクトの空間に呑み込まれ、やがて二人の姿はその場から消え去った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 執事服の少年はアスカを先導するように歩き出した。まずダンスホールに戻ると周囲の人がさり気なく道を開け、向かう方向から二人が踊らずに中座すると分かったのか楽隊の演奏の熱が冷めたようにアスカには感じられた。

 

「おい、アスカ!」

 

 小太郎が気づいて声をかけてくるが生贄にした負い目があったのでそそくさとダンスホールを抜けると、絢爛豪華な舞踏会の空気は成りを潜め、最低限の照明しか灯されていない廊下は薄暗く石細工の廊下を歩く足音が奇妙に大きく聞こえるようになった。

 さっきまでの豪奢な部屋から一転して、辺りは静けさに満ちていた。

 薄暗い照明の下、広々とした通路を無言で進んでいく。

 魔法学校の廊下と似たような作りでも、アスカの記憶にある魔法学校のは古びても垢抜けた印象のあったのとは違って、ここには全てのものが頑なに変化を拒む息苦しさがある。時間を被った柱や壁、調度品の数々は、やはり余所者を萎縮させる空気を放っているように思えた。

 そんなことを思うのはアスカだけであるが、歩き続ける自身を小さな背中を追って、屋内に充満する空気を振り払って後に続く。

 幾つもの部屋が並ぶ廊下をすり抜けた先で、奥まった場所に辿り着いた。

 目の前には真っ白い壁があった。壁に直接埋め込まれたようなドアのの前に立ち止まった。

 

「こちらです」

 

 少年従卒は如何にもわざとらしく、恭しい一礼を送った。

 

「僕は貴方が羨ましい」

 

 両脇に翼の生えた壮麗な飾りが施された女の像、髪の長さと造型からいって女らしき天使に挟まれた部屋がクルトがいる特別室なのだろうと考えていると、執事少年が唐突に言った。

 

「なに?」

「いえ、あの村の悲劇から出発した貴方が心配してくれる仲間と強大な力を手にしていることが少し羨ましく思いまして」

 

 執事少年は少し目を伏せる。

 アスカだって分かっていた。先程の小太郎がアスカを責めたのではなく一人で行動していることを怒っていることを。恐らく仲間から共に行動するように言われていることは想像に難くなかったから。

 

「どうぞ、中へ。我らの主がお待ちかねです」

 

 何か合図でもあったのか執事服の少年が手を前に伸ばすと、瞬間、天まで届くような高い両開きの扉がうやうやしい音をたてながら自動的に開いて行く。

 暗い闇に満たされた世界に光が溢れ、温かい空気がアスカの肌を撫でる。まるで、この門の向こうは別の世界だと主張しているようであった。運命を告げるように、どこかで鐘が鳴った。

 

「今も世界に悲劇は満ち溢れています。旧世界、新世界を問わず。英雄と呼ばれるようになった貴方は、真実を知った上でどうのような選択をするのでしょうね」

 

 執事少年が誰にともなく言った言葉を耳に入れながらアスカが扉を潜り抜けた途端、音を立てるような閃光が正面から照らされて視界が真っ白に塗りつぶされた。

 思わず手を翳しながらも、細めた目を光の向こうに向ける。常人に倍する速さで回復した視界に、それまで見えなかった世界が眼前に浮かび上がり、アスカは何秒かの間、息が出来なくなった。

 炎が見えた。アスカ・スプリングフィールドの視界を炎が埋め尽くした。

 肌に熱を感じないことを考えれば幻かホログラムか。が、そのようなことは問題ではない。

 見覚えのある光景が燃えていく光景は、あの日の思い出したくもない人の焼ける臭いと、家が崩壊して巻き上げられる塵芥の臭いが交じり合った香りを脳が錯覚させる。

 家の壁にある小さな傷、道の隅に生えた名も知らぬ花、今となってはあらゆることが懐かしい。石化された人々が回復したからといって村が一度滅んだ事実は変わらない。

 耳には今でも染み付いている。遠くから腹の底に響くような爆音、全てを燃やし尽くす炎が燃えるバチバチという音。熱くて熱くて、たまらなかった。もし地獄が本当にあるのなら、ここが地獄だった。煉獄が本当にあるのなら、ここが煉獄だった。炎は幼いアスカの愛した全てを蹂躙するだろう。これは過去なのだと、既に定まってしまった運命だと思うと哀しかった。

 あの時と同じ炎の中を一歩、また一歩とアスカの足が進む。

 眼の前を幼い自分とネギが横切ったのを見て、アスカは驚きのあまり瞬き一つ出来なかった。

 

(小さい――――なんて小さいんだ)

 

 背丈の事だけを言っているのではない。

 見ている世界も、感じているものも、あまりの小ささに絶句すらした。

 本人達は走っているいるつもりでも歩くよりも弱々しく、失われる悲しみと襲われる脅えに満ちていた。

 助けを求める声も、炎に半ば掻き消されて、あたかも慈悲を請う瀕死の呟きの如くであった。この災害の前に抗うことも出来ない少年達のなんと弱々しく幼いことか。

 

(そうだ)

 

 あれからもう主観時間で十年近くも経っているのだと、アスカは改めて認識したのである。進むべき道を探して彷徨い、眠れぬ夜を過ごし、奪われた者に泣き、思わぬ仲間を得て、多くの出会いと別れを繰り返してきた。

 

「ようこそ、アスカ・スプリングフィールド君。私の特別室は如何かな」

 

 その時、新たに聞こえた声の方向へとアスカは顔を向けた。素早い動きだった。一秒でも長く、声の主から意識を逸らすわけにはいかなかったからだ。

 

「慌てることはありません。これは全て映像。君達の治療の為に抜き取られた過去の一部でしかない」

 

 切れ長の目が周囲を撫で、中心に立つアスカに留まると端整な顔が暫し笑みを湛えた。

 折り目の入った白いスーツを着こなし、一部の隙もない立ち振る舞いを見せる彼の姿は、上品で優雅だ。

 白い端整な顔は柔和だが、同時に周囲を引きつける存在感をスラリとした全身から放っている。やや華奢な感も受けるが、ひ弱そうではない。殻だから発せられる研ぎ澄まされた空気、そして眼鏡の置くから覗くやや吊り上がって見える切れながらの鋭気を秘めた双眸は、触れたら切れる鋭利な刃物のようだ。剣を水底に沈めたまま凍りついた、夜の湖面のような瞳の奥に怪しい光を宿す若者である。

 強固な意志を感じさせる、目鼻立ちのハッキリとした知的な風貌。同年代らしい高畑と比べれば意外なほど若いが、別荘を頻繁に利用していた彼と比べるだけ無駄だろう。

 

「誰の目にも悲劇と分かるこの地獄から君は立ち上がってここに辿り着いた。これは決して余人には出来ないことです」

 

 ライト・グリーンの瞳が如何にも冷徹そうに見えたが、クルト・ゲーデルは意外にも優しい微笑みを浮かべていた。

 

「歪むことなく正道の英雄足る位階にまで成長した君には格別の敬意を表します」

「御託はいいから本題に入れ」

「ええ、勿論分かっていますとも」

 

 相手が自分を慰めようとしているのだと取り、アスカは過去の傷に無遠慮に触られて憮然としてそれを退けようとする。しかし、クルトは穏やかに、だがあくまで冷静に言葉を継ぐ。

 クルトは小さく咳払いをした。優しい父親が、自分の子供達を膝に乗せて素敵な絵本を読んであげようとする、それはそんな咳払いだった。

 

「一つ、観て頂きたいものがあります。元々、そうするつもりでお呼びしましたので」

 

 クルトが手を上げると、空間にに異変が生じた。壁や地面をスクリーンにして、映像が映りこんだのだ。同時に激しい喧騒が聞こえる。それは人間同士の怒号であったり、悲鳴であったり、或いは重いもののぶつかる激突音であったり、何かの爆発音であったりした。通常、人の日常では聞くことのない規模の轟音。

 これは戦いであり、戦争であり闘争である。地上を埋め尽くすほどの大勢の人影が激しくぶつかり合っているのだ。

 戦うのは厳めしい甲冑を身を包んだ騎士であり、黒いローブを着て空を飛ぶ魔法使いであり、手に手に剣や槍、斧といった無骨な武器を持ち、激しくぶつかり合っていた。時折聞こえるのは、魔法か気によるものか分からぬが起こった爆発。その爆発に巻き込まれて、多くの者達が石ころのように容易く吹き飛ばされていく。

 

「これ、は……」

 

 何気なく呟くアスカ。その問いに答える声があった。

 

「ええ、ご想像の通りかと」

 

 クルトの頷きに、アスカは我知らずに拳を握り締めてから、こう口にした。

 

「これは、大戦の記録」

 

 これらの状況を、アスカは天空より俯瞰しながら眺めていた。ひどく現実味のない光景。にも拘わらず、吹き上がる血の生々しい臭い、黒煙の焦げ臭い臭い、生暖かい風、陰鬱で絶望的に重い空気、何もかもが本物のように感じられた。

 

「――――そう、記録です」

 

 と、クルトが言って、映像に赤髪の男が映り込む。

 

「嘗ての紅き翼の記録。結局勝てなかったその記録ですよ」

 

 噛んで含めるように、嘗て紅き翼の一員だった青年が口にする。

 アスカはその言葉に不穏なものを感じ取り、背筋がざわつくような気分になって問いかけた。映像に視線を戻す。

 

「何を言っている? 紅き翼のお蔭で戦争は終わったんだろ」

「ええ、戦争は終わりました。ですが、これほどの英雄がいて、これほどの熱量があって、これほどの尊い犠牲があって、どうして彼らは勝利できなかったのでしょうか」

 

 アスカの問いかけにクルトはおかしな答えを返した。

 視線の先では、凄まじい轟音と共に、周囲を光で埋め尽くす雷が地面に落ちる。一本や二本ではなく、無数の雷が連続で地上に降り注ぎ、人間がゴミのように焼き尽くされて吹っ飛ばされていく。明らかに自然現象ではない。 

 

「ナギ・スプリングフィールドは間違いなく英雄でした。彼が率いた紅き翼は最強チームだったといって間違いないでしょう」

 

 独り言のようにクルトは話し続けた。その言葉にはほどよい分量の哀惜が加えられている。だが何故かやはり、その滑らかすぎる語調の所為か、誰かに対して完璧な演技を行っているかのような印象が漂う。

 

「それでも彼らは勝てなかった。勝てなかったのです」

 

 奇妙な違和感がアスカの脳裏を渦巻いた。

 アスカは映像に意識を映して自分が生まれた足跡を振り返っていた。永い永い道のりを。まるで走馬灯のように。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 世界中のあらゆる施設、場所、様々なメディアが乗っ取られ、一つの映像を流している。

 

『これは、大戦の記録』

『――――そう、記録です』

 

 酒場のラジオが二人の男のやり取りを流し、街頭のテレビがその姿を映し出している。

 

『嘗ての紅き翼の記録。結局勝てなかったその記録ですよ』

『何を言っている?』

 

 帝国も連合も関係なく、様々な国の地域の地区の、あらゆる場所のメディアが乗っ取られて大戦の真実が流される。

 

『これほどの英雄がいて、これほどの熱量があって、これほどの尊い犠牲があって、どうして彼らは勝利できなかったのでしょう』

 

 二十年の間、大国の思惑によって頑なに封印されていた真実。

 

『ナギ・スプリングフィールドは間違いなく英雄でした。彼が率いた紅き翼は最強チームだったといって間違いないでしょう』

 

 歴史の闇に埋もれ、やがては誰も真実を知らぬままに忘却された真実が白日の下に晒される。

 

『それでも彼らは勝てなかった。勝てなかったのです』

 

 全てはクルト・ゲーデルの計画通りに。

 

 

 

 

 







原作との変更点:クルトの目的、ラカンの言葉、明日菜の誘拐のタイミングと過去バレ、紅き翼の真実が全国生放送

次回『第77話 想いを継いで』



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