魔法先生ツインズ+1   作:スターゲイザー

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第78話 星に願いを

 

 

 

 

 

 ウッドハウスのテラスにあるベットチェアに身を鎮めているアスカ・スプリングフィールドは寄せては返す波の音を聞いていた。

 

(久しくなかったな…………こんな時間は。世界がこんなにも単純なら良かったものを)

 

 ずっと気持ちがささくれ立っていたので波の音だけが響き渡るこの空間とただ無為に静かに過ごす時間が無性に愛おしい。

 時間の流れが外界と違う別荘で既に五日目に突入している。肉体そのものに傷や疲れは残っていないのだが、気持ちがとりとめもなく浮いている感じがする。

 

「ああ~」

 

 特に意味もなく力の無い声が口から漏れる。

 自堕落な状態に陥っているのは自覚していた。この五日間は、寝る・食う以外に多少体を動かすしかしていない。

 体に降り積もっていた疲労と傷の後遺症を解消するには休むのが一番良い。精神的にも今まで知った真実の重みで神経が張り詰めていたので休養は必要だった。

 

「ん」

 

 ベッドチェアに寝そべったまま寝ようかと考えたアスカは、人が近づいてくるのを察して起き上がった。

 直前で逡巡するように歩みを止めたものの、こちらが気配に気付いたことが切っ掛けだろう。背後から声をかけてきた。

 

「アスカ……」

 

 声をかけてきたのは長谷川千雨だった。他にも人の気配がある。

 ベッドチェアから起き上がった姿勢のまま振り返ると、千雨の消沈した面持ちは、はっきりと言えば辛気臭い。テラスの入り口で佇む千雨と姿は見えないが複数の気配を感じ取る。

 

「今、大丈夫か?」

 

 お互いに沈黙して見詰め合う中で、隠れている者達の意思を代表して千雨がこちらの返事を待たずにそのまま言ってきた。

 

「話がしたいんだけど……」

 

 遂にこの時が来たのだと諦めにも似た気持ちが湧き上がってきた。寧ろ遅すぎたぐらいだ。

 避けたい気持ちもある。だけど、向き合わねばならない時でもあるのだと覚悟を決めなければならなかった。

 

「分かった。で、何の話がしたいんだ?」

 

 アスカは頷くと、ベッドチェアから足を下ろして向きを変えた。促すつもりで問いかける。

 

「あの、その……」

「俺が知っていることが気になるんだろ?」

 

 気ばかりが急いて舌を縺れさせる。千雨の縋るような表情を見て、アスカは深々と息をついた。

 

「あのクルト・ゲーデルって人との話は聞いたけど、私達には分からないことが多すぎる」

「そうだな。なら、まずは俺が知ることから話すとしよう」

 

 視線を左右に這わせたのに理由はない。単に魔法世界に来てから他者に話を聞かれないようにする癖が染み付いていただけにすぎない。

 肩を竦めて告げてから、アスカは嘆息した。力尽きたような心地ではあった。

 この楽園のような安息も直に終わる。人は楽園を追放され、楽園と比べれば地獄のような外界へと赴く。資格のあるなしに関係なく、魔法世界にいる全ての者が当事者となるのだから。

 

「世界に寿命がある…………と言ったら、どう思う?」

 

 沈みかけた太陽が、燃えるような最後の輝きを、辺り一帯に放っていく。

 

「どうって…………それはなんにでも始まりと終わりがあるものじゃないのか。地球だって何億年か後には太陽に呑み込まれるって聞いたことがあるぞ」

「魔法世界はもっと特別でな。世界が存続するだけで、魔力が少しずつ消えていってるんだ。どっちも総量から微々たるものだけど、そうやって少しずつ命を失うと世界は寿命を迎え、いずれ死んでしまう。それが地球よりも圧倒的に速い。十年、百年単位の話だ」

「…………じゃあ、この世界は十年後、百年後には、どうなるんだ?」

 

 一瞬、儚い期待が千雨の胸に宿るが、続く言葉がそれを打ち砕く。

 

「消えるだけ。後には何も残らない」

 

 アスカの呟きは周囲が静かなだけに怖いほどによく通った。

 

「笑えるだろ、魔法世界は現実には存在しないんだ」

 

 魔法世界の真実と完全なる世界の目的、大国達の計画を話し終えてヘラヘラと笑っているアスカの顔を誰もが見る。

 

「…………どうしてそんなに悠長に構えていられるんだ? 世界が消えるんだぞ」

 

 滅びを素直に憤れる千雨がじっとこちらの言葉を待っている。

 大したことが言えるわけではなかった。また自分は彼女らの期待を裏切ることになるわけだ――――と、アスカは内心で独りごちると、自然と肩が落ちるのを自覚した。膝に手をついて、自分が何時の間にか辞儀をしているような体勢になっていると気づく。

 

「我に秘策有り、だ。この世界は消えやしない」

 

 体勢を上げて、彼は呟く。

 

「………………」

 

 笑みを湛えて自信満々に告げたアスカがまるで泣いているようで千雨は続く言葉を失った。

 

「その秘策を言う気は無いのか?」

 

 暫くの沈黙の後にポツリと問う。

 

「ない。言っても意味がないからな」

 

 その後、何度か問い質してもアスカは頑として首を縦に振ることはなく、やがて根負けした千雨は話題を変えることにした。

 

「いきなり神楽坂の首を絞めだした時はびっくりしたよ」

「驚かせたのは素直に悪かったと思ってる」

 

 明日菜が偽物であると告げられ、ジャック・ラカンの消滅に動揺していたところに偽物が現れて我を忘れてしまった自分の不甲斐なさにアスカが頭を掻いた。

 

「明日菜の偽物――――確か栞とかいったか。今はどうしてる?」

「古菲と長瀬が交代で見張ってる。変なことはしてないみたいで大人しくしてるってよ」

「見張りなら真名もやるかと思ったが二人だけなのか?」

「ん、ああ、あの二人はどうにも相性が悪いからな。口喧嘩だけだが五月蠅いし、龍宮には外れてもらった。まあ、その所為で高音先輩と佐倉が酷いことになったが」

 

 どうにも千雨は煮え切らない態度だが相性はあるものだと納得したアスカも気にすることはなかった。後半は意味が分からなかったが。

 

「口喧嘩するなら元気ってことだな。正体暴いて目的と完全なる世界の情報を聞き出す為にやり過ぎちまったから元気なら良かった」

 

 つい、勢いで殺しかけた少女のことを気にしていたアスカは安堵の息を漏らす。

 

「怯えてたぞ、あの子」

「いや、悪かったって。悪気は…………少しあったが、あそこまでやる気はなかった」

 

 スプリング号から見た光景を思い出した千雨は「本当かよ……」と訝しげであった。

 千雨が艦橋から見たのは総督府のテラスで明日菜の首を絞めるアスカの姿である。錯乱を疑い、色んな者が止めようとする前に偽物の姿が暴かれなければ問題は大事になっていたことだろう。

 

「知れたことは大きいんだ。それで良しとしようぜ」

「加害者のアスカだけには言う資格がないぞ」

「本当にすまなかった」

「後で良いから、ちゃんとあの子にも謝っておけよ」

「ああ」

 

 一生ものトラウマを植え付けてしまった自覚があるのでアスカも大人しく言うことを聞いている。

 会ったら物凄く怯えられそうだが、その時はその時であると開き直っているアスカに千雨はもう一度聞かねばならなかった。

 

「アスカが言ったことは栞って子に聞いたのと同じ内容だった。アイツは世界を救うことは神でもなければ不可能だって言っていたのに、本当に魔法世界は消えないのか?」

 

 確かめるような眼差しを見せ最後の確認というように千雨が聞いてくる。

 

「墓守り人の宮殿で明日菜を助けることが出来れば確実にな」

 

 今のまま世界を存続するには墓守り人の宮殿にアスカも行く必要がどうしてもあるのだ。墓守り人と心を重ねたことで得られたこの情報を伝える気は無いので苦笑いを浮かべて誤魔化す。

 

「心配しなくても世界は続いてくさ。だから、千雨達だけでも麻帆良に帰れ」

「え?」

 

 きょとんとした声を上げる千雨に、アスカは決然として言った。

 

「皆には魔法世界の為に戦う理由はないだろ。自分のいた世界に帰るんだ」

「それを言ったらアスカだって」

「知っての通り、俺のお袋はこの世界の人間だ。親父も英雄として深いところまで関わってて、俺自身も英雄なんて言われて周知されちまってる。二十年前の再現が起きようとしている中で誰も帰さしちゃくれねぇよ。テオドラがこの別荘を貸してくれたのも俺を回復させるためだからな」

 

 あの時、墓守り人の宮殿から湧き上がった光は二十年前の再現を示していた。本来ならばアスカ達は戦いを選ばずにオスティアにあるゲートを起動させて旧世界に帰ることが出来るのに、テオドラから別荘を渡されて休養を勧められたのにはアスカに回復をさせるために他ならない。

 

「ジャック・ラカンは消えた。嘗ての英雄は誰一人としていない。テオドラ達は俺に英雄の役をやれって言ってんのさ」

 

 アスカはクルトによって付けられた傷を負っていてナギ・スプリングフィールド杯で負ったダメージも蓄積している。貴重な別荘を与えたのはアスカに紅き翼の代役を求めたからには他ならない。

 

「それはアスカがしないといけないことなのか」

 

 精悍な横顔からは、年齢以上の風格が漂う。鋭さと涼やかさが入り交じった眼差しは荘厳にすら思えた。

 アスカの瞳の奥には、正義や悪を超越した、もっと強固な信念があった。誰が何を言おうと、周囲がどのように考えようと、自分の信じる道だけをやり抜こうとする男の信念があった。

 

「俺がやると決めた。俺じゃないと意味がない。だけど、そのことにお前達まで巻き込む気は無い。だから、麻帆良に帰れ」

 

 それは奇妙な最後通牒だった。事実に向かって問われたわけではない。ここでどう返事をしようと、それを覆すことは出来ない。

 だがそれでも、ここでは本当に最後の意志を決めなければならないのだと、なんとはなしにそう思えた。アスカは言葉を吐く前にしばし迷い、告げた。

 

「私には、よく分からないよ」

 

 千雨の声は、僅かに震えていた。だがそれも大きな動揺ではなかった。なにかに立ち向かうように足を踏ん張ってから、あとを続ける。

 

「アスカの言っていること、凄く自分勝手なように聞こえる。だって大きな物事を左右するような力を持った上で、それを言うんだから」

 

 客観的に考えれば、アスカは強さを極めた一人として見れる。ナギ杯での戦い振りを見ていれば誰だってそう思うだろう。

 疑うようにこちらを見ている千雨に、アスカは笑いかけた。

 

「力か、どうだろうな」

 

 千雨から視線を外して、別荘内の沈んでいく夕陽に目を移す。そこで言葉を止めたのは我知らずに拳を握っていたから、それを開いて身体から力を抜く。

 反論しようとした気配を察して、遮るように続ける。

 

「完成度で言えば俺はまだ親父にも至ってないだろう。魔法ではエヴァに及んでいない。生物的な限界を言えばジャックに勝つ自信はないな。頭ではネギに逆立ちしたって足元にも届かない。機転ではアーニャに及ばず、人を纏めることに関しても千草に勝つ自信はない。剣でも全盛期の詠春に及んでいない。さて、俺に何がある?」

「でも、アスカは現に強いじゃないか」

 

 同じ否定を繰り返して、千雨が口を噤んだ。迷っているのか、単に困惑しているのか本人も判別がつかなかったのだ。

 事実、アスカはラカンに勝利し、ネギにも勝ってここにいる。そんな人物が否定しても説得力はない。それでも言葉が出なかったのはアスカの目の中にある鈍い光を見てしまったからか。

 

「俺はただ強いだけだ。個人の力なんて自ずと限界がある。一人で世界相手に戦えやしない」

 

 ノアキスでのことを思い出して、クルトとの話を思い出して、アスカは強く拳を握る。

 

「墓守り人の宮殿には明日菜がいる。完全なる世界が発動すれば明日菜は世界の機構に組み込まれることになる。世界が終わりを迎えるその時までずっとだ。そんなこと、認められるか」

 

 アスカは既に心を決めた者の静けさを漂わせ、淡々と言う。

 もう決めてしまっている。こうなった彼の心を変えることが出来るなら、最初からこうはなっていない。

 千雨も何かがしたかった。いや、しなければならない。

 世界は急な坂道を転がり始めている。このまま放置すればとんでもないことになる。それが目に見えているのに、こんなふうにじっとじていられるはずがない。何かをしなければ。

 

「私達だって神楽坂を助けたのは同じだ。一緒に」

「戦うってか? 止めとけ。こんなバカなことをするのは俺だけで十分だ」

 

 不意に、喉元に刃を突きつけられたような心持ちになった。縋るような眼で見つめる千雨の視線を振り切って、アスカは立ち上がって浜辺へと下りる。

 

「英雄なんてのは成らなくていいならそっちの方が良い」

 

 そうして、転がっていた小さな石を湖面に投げ込んだ。それはどこか、ままならぬ運命に抵抗だけは表明して見せよう、という志にも見えた。

 

「アスカは一人で英雄になる気か」

「ああ、明日菜を助け出せるなら俺は英雄だろうが何だろうがなってやるよ」

 

 もう一つ、石を投げた。

 アスカの言葉は明瞭だった。少女達が今まで見たことのない横顔で、男の声だった。やるべきことを見出した男の眼差しだった。

 

「これから先は生き死にがかかってくる。千雨達はまだ中学生に戻れるんだ。どっちかを選ぶなんて考えるまでもないだろ」

 

 作り物の星々に照らされる孤高の戦士の肖像。心も体もあまりにも強すぎて、逆に放逐されてしまったような、何故だか悲しくなってしまう光景。

 

「帝国・連合・アリアドネ―他の全ての勢力の混成艦隊が墓守り人の宮殿に向かっている。分かるか、賽はもう投げられてるんだ。テオドラ達は俺が旧世界に戻ることを許してはくれない。けど、お前達は違うんだ」

 

 その場にいた皆を圧倒する気迫の篭もった物言い。それがアスカ・スプリングフィールドの、これから辿る艱難辛苦を物語っている。

 

「栞って奴の話からすると敵の人数はそう多くない。英雄に役目を押し付けられるのは俺だけで良い。テオドラ達からも確約は取っているからお前達は麻帆良へ帰れ」

 

 『お前達』という、自分を蚊帳の外に置いた言い方に違いを思い知らされて、急所を突く針が含まれているのを感じ取った千雨は我知らず拳を握り締めた。

 

「一緒に戦ってくれるって言ってくれただけで十分だ」

 

 嘲るのではなく、蔑むのではなく、ただ確認するだけのようなアスカの口調。

 

「生物っていうのは困難から逃げるように出来ている。苦しみから、哀しみから、遠ざかりたいと思う」

 

 息も切らせず、アスカは言い切って笑みを浮かべた。

 

「無理をして、歯を食いしばって、自分を殺して、人間は――――――生物はそんなことをしなくてもいい。戦うのは英雄の役目だ」

 

 その笑顔の穏やかに、千雨は思わず言葉を呑む。アスカがあまりにも超然としていて、どこか遠い世界の人物に思えたからだ。

 

「麻帆良で待っててくれ」

 

 千雨はもう一度アスカの横顔を見遣った。

 そこになにかがあると期待したわけではない。ただ、誰もが未来を思い描けない中で、彼だけが未来図が出来上がっているという感覚は間違いなく千雨の中にあった。

 やはり自分達には見えないものが見えている。もはや疑う余地はなく、

 これがアスカ・スプリングフィールドという男なのだと、皆は認識するしかなかった。こんなに近くにいるのに手が届かないという寂しさと共に。

 分かっているつもりだったのに、それを錯覚と思い知らせる脅威としての目の前の現実。

 この事実を認めたくないという苦渋を飲み込みながら……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 例えアスカ達がどれだけ悲壮な覚悟を持っていたとしても、『完全なる世界(コズモ・エンテレケイア)』にとっては何の意味も成さない。ただ知ったとしても「それがどうした」と一笑に付すだけの代物であっただろう。

 何故なら彼らは造物主(ライフメーカー)使徒(人形)であり、世界に絶望した者達で構成されている。

 『墓守り人の宮殿』の最上階にて、窓の前に備え付けられた木製の長椅子に座って窓枠の縁に頬杖をついた学生服を着た白髪の少年は、ゆるりと長い脚を組みかえる。

 彼の名はフェイト・アーウェンルンクス。

 その整った顔立ちに浮かぶ表情には、まだ幼さが残っている。恐らく体格や容姿から見て十代後半だろう。しかし、少年らしい明るさや若いエネルギーのようなものはない。彼からは、『熱』というものは一切感じられない。

 乱雑に刈られている白髪にやや隠れるように見える瞳も冬の海のように青い。更に最も印象的なのが肌の色だ。まるで死者のように病的に青白かった。青白く均整の取れた顔立ちに浮かぶ表情は人形のように薄い。

 体格は異常なまでに細く、戦士が持つべき肉体には見えない、着ている学生服のように、学生をやっている方が釣り合いが取れている。だが、それでもどんな屈強な軍人よりも彼は強かった。鞭のようなその体は、外見からは想像も出来ないような高い戦闘能力を秘めている。

 頬杖を付いているフェイトは、数時間前に戦ったジャック・ラカンの言葉を思い出していた。

 

『けど、楽しかったろ。もちっと楽しめや』

 

 二十年前から連合・帝国上層部がひた隠しにする魔法世界の秘密。魔法世界の無慈悲な真実、絶望に沈み神を呪うもおかしくはない真実。魔法世界の住人であるジャック・ラカンには避けようのない現実だったはずだ。

 フェイトが見てきた者はみな前者だった。

 何故、真実を知りながら二十年もの長き間、この意味無き世界をそんな顔で飄々と歩み続けられるのか問うた。

 

『なんだ。テメェ、んなこともわかってなかったのかよ。真実? 意味? んなことは俺の生には何の関係もねぇのさ!』

 

 どんなラカンの攻撃もフェイトの前では無意味だった。結果は決まっていた。

 事実、ラカンは塵となって肉体は消滅し、その魂は『完全なる世界(コズモ・エンテレケイア)』へと送られていった。だが何故か、ラカンの言葉はフェイトの脳裏にずっと残っている。

 ずっとずっと、呪いのように耳の奥で木霊するラカンの声に重なるように背後から聞こえてくる足音。その主がフェイトの斜め後ろで歩みを止めたのを聞いて、重く静かに口を開いた。

 

「何か用かい、デュナミス」

「貴様の従僕から頼まれたのだよ。主が浮かない様子だとな」

 

 影法師の如く揺らめくローブを身に纏う偉丈夫であるデュナミスは心底どうでもいいことだとばかりに口遊む。

 

「そんなことで来たのかい。君がそんなに殊勝な男だとは思わなかったよ」

「まさか! 奴らのことなどはどうでも良いが、同じ使徒の貴様の様子は私も気にしているのだ」

 

 フェイトの従僕――――調達をデュナミスは自然と見下している。否、そこらにいる虫けらと大差ない意識しか向けていない。

 

「彼女らも完全なる世界の構成員で僕の部下だ。そんな言い方は止めてもらおう」

「考えておこう」

「ふぅ、前も同じことを言っていたね。変えるつもりがないならハッキリと言ったらどうだい?」

「分かっているなら気にしなければいい」

 

 デュナミスにとって、魔法世界に生きとし生けるもの全てに対して万事この有様。至高の主を頂点として使徒を同格とし、それ以外を虫けら以前と認識している。誰よりも主の使徒であることを誉れとしているデュナミスは優先順位と価値観が余人とは違い過ぎる。

 

「所詮は奴らもいずれ消え去る幻でしかない。そんな者らに気を使う必然性は認めんが、いないよりかはマシであることは事実ではある。口にして欲しくなければ、貴様も話題に出さぬことだ」

 

 あくまで己は人形であると規定し、そのままであるから味方である調達に対する認識は精々が役に立つ虫けら程度。完全なる世界はクルトと高畑によって組織はほぼ壊滅状態なので、虫けら程度でもフェイトに対する忠誠は本物だからいないよりはマシと本気で思っている。

 

「それで普段は無口を装っているなら、とんだ役者ぶりだよ」

 

 少女達の前では無口を装って外面を取り繕うが、主の役に立てないのならば疾く死ねという態度をフェイトの前では隠しもしない。

 今回もああだこうだと彼にとってはどうでもいい話を延々と聞かされるよりは、現状唯一の同志と見ているフェイトといる方がマシだと判断したのだろう。

 

「姫巫女の奪取に成功し、遂に計画が実行される。長い雌伏の時から解放されるのだ。小娘数人の囀りぐらいは我慢しよう」

 

 そこには、やや陶酔するような響きがあったが直ぐに苦い物も混ざった。

 

「だが、ジャック・ラカン(古き英雄)の排除には成功したものの、アスカ・スプリングフィールド(新しき英雄)は必ず来る」 

「だろうね」

 

 フェイトは薄い唇を動かして言葉を紡ぐ。

 

「主の係累であることは理解しているが墓守り人の考えることは分からん。あの者さえ邪魔しなければアスカ(英雄)を排除出来たものを」

「協力はしてくれているが厳密には仲間というわけじゃない。墓守り人には墓守り人の考えがあるんじゃないかい」

「だとしてもだ。主の不利益になるのならば排除もするが、墓守り人がいなければ魔界の協力は継げられん。悩ましいものだ」

 

 本来の予定では総督府への襲撃の目的は、嘗ての英雄ジャック・ラカンと新しき英雄アスカ・スプリングフィールドの排除であった。

 前者についてはフェイトが果たしたが、後者に関しては墓守り人の邪魔によって為せなかった。

 

「邪魔をした自覚はあるみたいだから、これ以上の介入はしないと明言していたんだろ」

 

 介入すれば自分を如何様にでも扱うといいと暗に込めた墓守り人の目的が読めないが、計画の成就を目前としているフェイトとデュナミスには邪魔さえしなければどうでもいいことである。

 

「その所為でアスカ(英雄)を生かしてしまった。あの二人の息子である奴ならば必ず我らの計画を邪魔しようとするはずだ」

 

 姿を現したとの情報は未だ彼の手元に届けられていなかったが、フェイトとデュナミスの中ではアスカが邪魔をしていくるのは規定事項のように眼前に横たわっていた。

 

「紅き翼の後継か。言い得て妙だろうね」

 

 特にフェイトには絶対の確信があった。

 ゲートポートの一件に始まり、新オスティアでの邂逅を経て、ハワイでの初対面時に互いに相容れないと直感した理由も分かっている。

 

「紅き翼もとんだ厄災を残したものだ。どうせ表舞台から消えるのならば痕跡すら残さずにいなくなれば良いものを」

 

 デュナミスが心底気に入らないとばかりに鼻を鳴らして吐き捨てる。

 二十年前から始まった紅き翼(ナギ・スプリングフィールド)との因縁。しかし、二十年の間に当時の紅き翼の主力は大多数が死去・もしくは一線を引いているのに、その後を継いだ者達がとことんまで完全なる世界の邪魔をしてくる。

 

「きっと向こうも完全なる世界(僕達)に対して同じことを思っているよ」

 

 壊滅したはずの組織が再び蘇っているのだから思っていることは互いに同じだろうことはフェイトも想像に容易い。

 

「ふん、これもタカミチとゲーデルの所為だ! 奴らがあれほどしつこくなければ、これほどの苦労もなかったろうに」

 

 『完全なる世界(コズモ・エンテレケイア)』も最盛期には十万に届く大規模組織だったにも係わらず、今ではフェイトと当時の唯一の生き残りであるデュナミス、成人すらしていない小娘五人のみ。

 

「タカミチ一人ならばどうにかなった。問題はメガロメセンブリア本国が温存していた精鋭部隊とゲーデルの組織力だ」

「それで追い詰められて取ったのが死んだふりってのは情けなくないかい?」

「これも兵法の一つだ。卑怯などではない」

 

 大戦を生き延びた『完全なる世界(コズモ・エンテレケイア)』残党を『悠久の風』タカミチ・T・高畑によって蛇のようなしつこさで(しらみ)潰しに狩られた。更にメガロメセンブリア本国が温存していた精鋭部隊とクルト・ゲーデルの組織力によって追い詰められ、全滅寸前。

 何とか死んだフリをすることで全滅したと思い込ませることに成功した。現状を見れば実際、殆ど全滅に近かったが。

 

「旧世界でテルティウムの生存を知られたのは痛手だった。あの所為で行動に制限がついてしまった」

 

 旧世界・ハワイで主の捜索にて各地の依頼を請け負っていたフェイトが麻帆良にいた英雄の遺児と接敵、交戦したことで完全なる世界が未だ存続していることがバレた所為で行動に制限がついたことをデュナミスが皮肉る。

 

「お蔭で黄昏の姫巫女の存在も知れたんだ。今更、嫌味を言うのは止めてくれないかい」

 

 デュナミスの鉄面皮は変わらないが、個人で動くフェイトと違って組織としてのかじ取りをしなければならない身としては愚痴の一つも言いたくもなるのだろう。

 

「嫌みではない。黄昏の姫巫女を発見したことは素直に称賛している。但し」

 

 主の所在と共に急務であった黄昏の姫巫女の在り処を知れたことは望外のことであった。崩壊が間近に迫る世界のことを考えれば、例え英雄の誕生を手助けしまったとしても十分に割に会う。

 

「新しき英雄を未然に殺せていれば、な」

「…………」

 

 まるで運命に護られているかのようにアスカは生き抜いて来ている。

 ハワイから始まり、フェイトが差し向けたヘルマンに続き、ゲートポートでの接敵も、そして総督府への襲撃に至るまで、とことんまで何かに導かれるようにして生きる道を駆け抜けている。

 油断もあったし、何回も横やりやアスカへの救援があったというのも理由の一つではある。

 

「しかし、彼がいたからこそ姫巫女も魔法世界に来たんだ。何も悪い事ばかりじゃない」

 

 新たな敵を生んだことは間違いないが、態々贄が自分からこっちの世界に来てくれたのだ。ランダム転移に巻き込まれた後に見つけた後は誰かしらが傍にいて奪う機会がなかった。その機会があったのはナギ杯決勝後。

 

「今更過ぎたことを悔やんでも意味はないよ。姫巫女の奪取が成功し、機能を停止していた造物主の掟(コード・オーブ・ザ・ライフメカー)も起動できた。止まっていた歯車を動かす時が来た」

 

 一人でいた油断をついて、黄昏の姫魅子である神楽坂明日菜を確保して墓所深奥に至り、『造物主の掟(コード・オーブ・ザ・ライフメカー)』を手に入れた。二十年前に成し得なかった大計画を成就しようとしている。

 

「新たなる英雄もまた同時にだ。全く、忌々しいばかりだ。奴ら英雄は何時も我らの邪魔をする」

 

 だが、歴史は繰り返されると言わんばかりに二十年前同様に自分達に立ち塞がる者がまた現われた。

 それがアスカ・スプリングフィールドであると、ハワイで、ゲートポートで、二度に渡って互いを認識した瞬間に根拠も証拠もなく第六感にも似た部分が感じ取ったのだ。……………敵、だと。

 

紅き翼(ナギ・スプリングフィールド)の跡を継いだアスカ・スプリングフィールドか、主の使徒(人形)たる僕達か、そのどちらかが魔法世界の行く末を決める。それでいい」

 

 まるで運命の女神に選択権を委ねるような口ぶりであったが、無論彼は女神の愛籠を座視して待つつもりはない。

 

「ふっ、戻って来てから覇気がないかと思えばこれはこれは。しかし、貴様に奴を倒せるか?」

「彼はジャック・ラカンに勝ち、僕は造物主の掟(コード・オーブ・ザ・ライフメカー)が無ければ負けていた。戦っても勝つことは難しいだろう」

 

 それを聞いて、始めは理解できず不審そうに眉を顰めていたデュナミスの顔色が、やがて一変する。

 ナギ・スプリングフィールド杯の中継を二人も見ていた。

 準決勝ではナギ・スプリングフィールドに並ぶジャック・ラカンを真っ向から捻じ伏せて見せた。 

 決勝ではフェイトですら初見で相対すれば成す術もなく破れたかもしれない技法を持つネギ・スプリングフィールドをアスカは越えた。

 過去を越え、現代を退けたアスカは間違いなく当代最強。

 クルトの会談の中継を見て、確信を強めた。

 何かに導かれるようにアスカとフェイトの激突は必至で、もしかすると『完全なる世界(コズモ・エンテレケイア)』は全滅するかもしれないが、計画さえ成功すれば彼はそれでも構わなかった。

 アスカさえ潰れてしまえば、後はどうとでもなる。

 

「それでも勝たなければならない。億千万の敗者達の為に」

 

 フェイトの瞳から放たれる光には、女神の襟首を掴んで足元にひれ伏せさせるような気配さえあった。

 どちらが世界の命運を握るか。

 勿論、自分達である、という自負がある。その自信を裏付けるように無意識に撒き散らされた獰猛過ぎる覇気が柱や床、窓に次々と罅を入れていく。 

 

「ならば、どうする?」

 

 問いにフェイトはデュナミスを見て、互いの視線が交わった。

 漆黒の肌に埋め込まれた赤い瞳に、その者の本質を見抜かんとする鋭い光が宿っていた。その瞳を真っ向から見つめ返して、フェイトは「僕を再調整してくれ」と言った。

 

「……なに?」

 

 デュナミスの顔が、微速度的な慎重さをもって硬くなる。 

 どういう意味か、と探るような視線を向けてくるデュナミスに、フェイトは唇を吊り上げながらも微笑とは懸け離れた笑みを浮かべて答えた。

 

「言っただろう、今のままで勝てないのならば対策を講じないといけない」

 

 そこでフェイトの吊り上げた唇の角度が深くなる。

 

「能力を限界にまで上げる必要がある。一僕の全てを賭けて彼を倒そう」

 

 と、呟いた顔は殆ど恍惚といった表情だった。ぞくりとしたものを感じて、デュナミスは石になった唾を飲み下した。

 激烈なるその視線に縫い止められたかのように、デュナミスの体が震えた。視線の主であるフェイトは長椅子にダラリと座ったままだというのに、その体から立ち上る雰囲気は肉食獣の酷薄さを漂わせ、周囲を威圧する。

 

「覚悟は出来ているのか?」

「一戦だけ持てばいい。どうせ、アスカさえ倒せば障害はない。後はデュナミスの好きなようにすればいい」

 

 吊り上がった薄い唇から零れ出る言葉は、空気中の水分を凍結させてしまうかのように冷たかった。

 高いのか低いのか判然としない。一度聞けば忘れられない特徴的な声でありながら、心には何も残らない無機質な響きだった。

 

「アスカは必ず来る」

 

 来ないはずがない。いや、二十年前と同様の場所と環境という雌雄を決するには相応しい舞台に来ざるをえまい。

 

「君達も戦うのだろう?」

「勿論ですわ。センパイもきっと来るやろうし」

 

 そう言ってフェイトが少し離れた場所を見ると、月詠が姿を現して言った。

 

「私達もです。フェイト様に救われたこの命、どうかこの世界を救済するまで遣い潰して下さい」

 

 同じように現れた四人の少女達が跪き、代表して焔が先制する。

 少女らは、それぞれ大人に成る前に傷つけられた。だからといって、世界から除き得ない痛みや苦しみを振りまく役目につく理由も正当性も無いのだ。巨大な変革の時に、彼女らは優しい答えを出せない。

 

「彼らも全力をかけてくれる。なら、僕もそれに答えよう」

 

 少女らの宣誓を胡散臭そうに見るデュナミス、相も変わらず殺意を肌一枚に収めた月詠、瞬きもせずに凝視してくる部下の少女達の顔を順々に眺め、再び最初のデュナミスへと視線を戻して留めた。

 

「アスカは嘗ての英雄を越えて来る。僕も過去の誰よりも強くなろう」

 

 そう言うフェイトの瞳は澄んでいる。デュナミスにはその言葉に嘘の翳を見ることは出来なかった。彼はフェイトの言う話が事実だと気付いたのだ。

 

「良かろう、テルティウム。貴様を最強にしてやる」

 

 語ったデュナミスの顔はまるで、フェイトの吐き出す凍気に当てられてしまったかのように青白く――。

 

「時間はそれほど残されていない。早速取り掛かろう。なにせ」

 

 だが、フェイトはそれ以上の言葉を明確に言語化せず、ただ含みのある微笑みを深くさせるだけだ。獲物の喉笛をかっ喰らう、その機をじっと息を殺して窺う獣のような目で遠くを見ていた。

 

「――――――――――ならば、私もまた主の望みの為に全霊を尽くさねばならんな」

 

 そのデュナミスの言葉もまた誰にも聞かれることなく虚空へと消える。

 後顧の憂いを断ち、すっきりと露払いを済ませてから造物主()の念願を果たす。そこに変わりはないのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 夜はまだ丑三つ時を数えている。

 アスカは予定通りの時間に目を覚ますと一つ一つの装具を身に付けていった。

 耳に届くのは静かに響く波の音だけで、他に届く音はない。まるで嵐の前の静けさだと、装具を身に付けるアスカは考えるともなしに考えた。

 これから世界を賭けた戦場に赴く。この判断は正しかったのだろうか、と迷いがまた頭を擡げた。この先に待っているのは、世界を救うために、世界を救おうとしている相手を倒すための戦い。大した矛盾だ。

 こんな夜中に起きて誰とも会わないまま出て行こうとしているのは、眠る間にも彼の中に高まってきていた張り詰めた内圧が、外気に乱されることを恐れたためである。

 

「――――さて、行こうか」

 

 装具を身に付けて準備を終えて、外に出るためにドアの前に辿り着いた。

 ドアを開けなければならないのに、手が石になったように動かない。ここまでハッキリと足が竦むのは何時以来かと思った。

 絶望的な戦いに向かったことは、もう数えきれない。だが、今度は完全に生還の可能性はゼロだ。激しく動悸がしていた。傷一つ負っていないのに、息が乱れた。

 

「行くぞ」

 

 自分に言い聞かせるように声を出すと、ようやく体が動いた。

 ドアを開けてウッドハウスを出ると出口の横の壁に犬上小太郎が体を預けていた。ヘルマン戦後に二年を共にした彼は何一つ変わらない。

 

「………………」

 

 絆の銀で一心同体になったこともある彼らの間に、世界を賭けた戦いに赴こうとも言葉は必要ない。

 小太郎は頷きだけをしてロフトの階段を下りるアスカの後に付いて下りる。そうするのが当然の務めだというように、この位置だけは絶対に誰にも譲る気はないと態度で示していた。

 

「私も行きます」

 

 ロフトの階段を下りきると脇に直立不動で茶々丸が立っていた。彼女の瞳には機械仕掛けにはあるまじきな逡巡が見られたが、横を通り過ぎたアスカの顔に何かを見たのか、迷いを振り払い、小太郎の後ろに付いて歩き出した。

 

「世界を救う大仕事だ。報酬は弾んでくれよ」

 

 真名は大きな戦いを目前に控えながら、その気配は凪のように静かだった。穏やかに微笑んでさえいる。余裕――――があるわけではないだろう。彼女はこの場にいる誰よりも多く修羅場を経験している。もしかしたらアスカよりも。このような危機的な状況でも凪を保っていられるだけの胆力を身につけていた。

 

「うちは明日菜の親友やもん。付いて行くで」

「必ず取り戻しましょう」

 

 砂浜に星に照らされた海が波を刻む中を一同が突き進む。やがて砂を踏み締めて進む途中で木乃香と刹那が寄り添って立っていた。彼女らは固い決意を胸に秘めた顔をして、茶々丸の両脇に並んだ。

 

「仲間は多い方が良いでござるよ」

「足手纏いにはならないアル」

 

 別荘の転送ゲートがある桟橋の前に古菲と楓が並んで立っていた。彼女らは固めた拳を突き合わせて道を譲るように両脇に寄り、二人の間を通るアスカ達の最後尾に着いて歩く。

 桟橋を歩くアスカは後ろを付いてくる者達に呆れていた。

 

「馬鹿だよ、みんな」

「その先頭を歩くアスカが一番の馬鹿やっちゅうことや」

「はっ、違いねぇ」

 

 小太郎の揶揄に笑みを返したアスカは少しばかり顔を斜め上に上げた。込み上げるモノがあったのかもしれない。

 

「「「「「「「………………」」」」」」」

 

 彼らは幾分早足、幾分大またで余所見せず、ただ前を見て無言のまま靴音を桟橋の上に響かせた。

 背後にある複数の気配を感じて絶え間なく足を前に進めながら、己一人の心の内に緩やかに沈降していった。

 アスカ・スプリングフィールドは死神の気配に敏感だった。

 年齢に似合わぬ修羅場を潜り抜け、生と死の境界を何度も彷徨って来た所為かもしれない。目に見えず、音も聞こえず、それでも骸から生命が抜け落ちる瞬間を待ち受けている何か(・・)が間近にいれば、何となくそれと察しがつく。

 とりわけ、耳元でその時を待ち侘びている死神の獲物が掛かることを想像している歓喜を感じる時は危険度が跳ね上がる。

 そして今もまた、いや、嘗てないほど明確に己の背後にいる死神が歓喜しているのを感じ取った。それが逃れようのないものだと分かってしまい、心のどこかで観念していた。きっと自分はこの戦いで死ぬことになるのだろうと。

 分かっていたからこそ覚悟もしていた。

 だからこそ、今さらそこには喪失も嘆きも在り得ない、それが道理だ。当然の帰結だ。なのに何故、歩く膝が震えるのだろうか。喉元に息が詰まるのだろうか。表情には、微かな恐れの色が混じってしまうのだろうか。

 当たり前だ、生命が死を怖れるのは本能的なことだ。ましてやアスカはまだ十二歳――――納得して生命を終えることなど出来るはずもない。

 

(本当に、本当にやれるのか)

 

 その時から隠していた恐怖が露になり始めた。踏みしめた足がそのまま奈落へと落ちていきそうな接地感のなさ。全身の細胞が逃げたい、と叫んでいた。神経が恐怖に震えていた。呼吸が苦しい。行けば戻れない。その確信がある。

 行けば会えない、もう二度と。幼馴染のアーニャにも、未だ目覚めぬネギにも、故郷で待つネカネも、指導してくれたエヴァンジェリンにも、共に笑いあった仲間にも、故郷で待っている村人達にも、麻帆良で出会って来た色んな人にも、もう二度と会うことは叶わなくなる。

 未練がないと言えば嘘になる。未練など山程あるに決まっている。強がってはいたが、内心、逃げ出したくて仕方が無い。それはつまり失うことを恐れ、未練を抱くほど大切なものがあるという証だ。

 

(でも、やるしかない)

 

 耐え難い喪失感に内心で自分に言い聞かせる。何度目かの声で何とか、自分の死は必要なことである、と自身を騙すことに成功した。

 しかし、それでも尚、彼の表情からは恐れの色は消えない。身体の震えは止まらない。なのに、アスカの足は確実に一歩を踏み出している。何を成すべきかを知っているから。

 

(……………そうだよな、死ぬ事を怖れるな、なんて誤魔化せるはずもない)

 

 強張った表情を引き攣らせて、ぎこちない嘲笑を浮かべる。アスカは自分を騙す事を諦めると、何とか恐れを表に出さないように、努めて表情を引き締める。

 次に上がった彼の表情は仮面のように無表情だった。

 関わる者が増えれば、同時に責任も増えていく。負けられない、という言葉がどんどん重みを増して気がつけば世界を背負うことになった。

 そしてアスカは微かに震える。己の背に背負った運命とやらは、ただ自らが選んだ道を突き進んだ結果として世界を背負わせる。

 怖くないと言えば、嘘になる。それでもアスカの足は、一歩一歩前へと進む。その姿は、どこかしら十字架を持って死刑場へと歩いて行った聖者を思わせた。

 死ぬのは恐ろしい。死とは、どんなものか。自己の一切が無になるというのは、どういう状態なのか。苦痛は、あるのか、ないのか、それを全て知っている。怖い。煩悶するほどに、胸の動悸が早鐘になる。

 今なら、まだ間に合うのだ。今なら、何もかもを放り出し、急流に浮かぶ落ち葉の如く翻弄される流れの外で生きていける。ならば、どうして自分は踏みとどまらず、前に行くのだろうと自問自答は続く。

 この世界に生れ落ちてから十と二年。そこそこ上出来の人生だったように思う。ろくでもないこともあったが、そこは仕方がない。

 考える度に、アスカの心に様々なものが浮かぶ。辛い時、苦しい時、常に自分を励まし支えてくれたネカネ、自分に道を指し示してくれたアーニャ、己の半身ネギ、麻帆良で京都でハワイで出会った多くの人達もあったりもした。

 それらの思い出が、繰り替えし、繰り返し、幻影のように脳裏に浮かぶ。幸福の記憶も、受難の過去も、大切な歴史だ。分け隔てなく、思い浮かぶ。

 目から熱いものが零れた。

 求めるならば、もう少しだけ、楽しい時間をみんなと一緒に過ごしていきたかった。望めるならば、もう少しだけ、そのような時間を過ごしていきたかった。けれど、もうそのような贅沢は叶わない。

 あんなにも忌避していた日常の一コマが、ここまで追い詰められて他の何にも増して輝きを放ち始めた。暗闇の中でだけ輝きを放つ月のように。それらが失われてしまう。これまでのことも、関わった人たちの想いも。どうする、と自問し、再び自分の掌に目を落としたアスカは、一つしかない自答を得て笑みから肩を震わせた。

 

(そうか、そういう、ことだったのか)

 

 反問し、黙々と歩んでいたアスカに、ようやく一筋の光明が見え始める。ともすれば、悲壮な決意に心を焼かれそうになっていたアスカの肩から、ふっと力が抜けた―――――そうなのだ。なにかを守りたい。なにかを救いたい。そこに、理由はいらない。理由などない。守りたいから、守る。救いたいから、救う。そこに沸き起こるのは、無償の気持ちだ。

 終わった後の事を想像してみる。

 

――――――答えは、簡単に見つかった。

 

 世界中の人間が笑顔で平和に暮らせる時代が訪れたとして、そこにアスカの知る人たちがいないことが、明日菜が笑っていないことが認められない。

 特別な理由など、なにもない。これから自分が行おうとしているのは、自然に芽生えたごく当たり前の気持ちに、ただ真っ直ぐに添うだけのことなのだ。

 別荘の出口に近づいたアスカは、どこか晴れやかだった。

 

『待っててね。直ぐ戻るから』

 

 不意にあの時に別れた明日菜の声が聞こえ、その瞬間、アスカの思考は戦いへの道とは別の空間を浮遊していた。何故、明日菜との会話を思い出したのか、彼自身にも理解できないでいた。

 それは、過去に一度、振り払ったことであった。戦いを止めるという誘惑を。戦いを止めて人並みの生活をする。その夢想がどれほど甘美なことか。安寧と悠久の時の流れに身を任せていくことの、どれほど穏やかなことか。差し伸ばされた手を振り払った生活がどれほど…………。

 

(感傷だ)

 

 アスカは、ぎり、と奥歯に力を込めて、その幻夢を粉々に噛み砕いた。

 今の彼にそれは出来ない。元を正せばこの結果に至ってしまった原因の一端はアスカにもある。その責任は取らないといけない。望みは、増やそうと思えばいくらでも増えていく。きりがない。既に幸せと言える時を十分に過ごしたのだから、それで良しとしよう。

 思いを封じ込め、脇へと押しやる。心の奥に眠る―――――確かに存在するもう一つの面を前へと持ってくる。そして無理矢理に笑った。不敵な笑みを、戦士に相応しい笑みを。

 やれやれ、と声が返った。自分の中にいるいるもう一人の誰かが苦笑を浮かべたような気がした。

 前に向かって続ける歩みのどこにも震えはなかった。最早、成すべきことを成すのみという、厳粛な気持ちが彼の中に満ち、想いはは穏やかですらあった。

 今、アスカは自分が強いのを感じていた。自分の中に強さを見出すことが出来た。経験が、この強さを得さしめたのであろうか。それまで彼を支配していたのは不安だった。今、不安は極小さく、片隅に退いていた。小さくならなかったのは寂しさだった。いるべき人がいない寂しさが。

 

「全員いるのか」

 

 桟橋の先にある転送ゲートには別荘にいる全員が揃っていた。

 視線を目の前の顔ぶれに向けた。順に彼女達の顔を順に見ていく。千雨がいる。高音がいる。愛衣がいる。美空がいる。ココネがいる。

 アリアドネ―戦乙女騎士団の夕映、新オスティアで静養中のネギと付き添いののどかは別荘内にいないので、別荘内にいる全員がこの場に集まっていることになる。

 

「みんな、お前の行動は見え見えやっちゃうことや」

 

 後ろにいた小太郎がアスカの肩を小突く。

 

「折角の大舞台やんけ。一人でケリをつけようなんざ、せこすぎるちゅうねん」

「セコイってなんだよ。俺はだな、みんなの為を思って」

 

 小太郎の物言いに困惑しているアスカに木乃香が笑った。

 

「うちらは世界がどうこうやなくて明日菜を助けたいんや。アスカ君が認めてくれんでも行くで」

「明日菜さんの友人として放っておくことは出来ません」

 

 笑う木乃香と意気込む刹那。

 世界の為ではなく、ただ友の為にと戦場へと赴く覚悟を滲ませる。

 

「学友の危機を見過ごすわけにはいかんでござる」

「ここで退いては女が廃るアル」

 

 イマイチ本音が見えない笑みを浮かべる楓とやる気満々な古菲。

 

「アスカさんが行くならばどこまでも付いていきます。マスターもそれを望まれています」

「連合や帝国から莫大な褒賞が出るんだ。この仕事を放りだす気は無い」

 

 本音を隠して建前を語る茶々丸と世界でも学友の為でもなく金銭の為であることを隠しもしない真名。

 

「私はさっさと麻帆良に帰りたいなぁ、なんて」

「美空、空気読んで」

 

 麻帆良に帰りたい美空をココネが宥めている。

 

「世界を巡る戦いに私の力不足は認めざるをえません。くぅ、どうして私はこんなにも弱いのですか」

「まあまま、お姉さま。皆さんの留守を守るのも大切な仕事です」

 

 傷はないものの些か憔悴している様子の高音と彼女を抑える愛衣。

 

「ここまで来たんだ。今更、アスカと神楽坂を置いて麻帆良には帰れるわけがねぇ」

「しかしだな、千雨」

「なにも全員で行くってわけじゃない。高音さんと佐倉も守ってくれるって言ってくれた。戦えない私達は大人しく待ってるよ」

 

 それを聞いて、アスカは再び瞼を閉じた。

 ゆっくりと息を吐く。とても長い溜息だった。体中の空気を出し尽くすような、本当に本当に長い溜息であった。たった十秒ばかりに、これまでの人生全てを流し込んだみたいな、少しだけ嬉しそうな溜息だった。

 

「まだ引き返せるぞ」

 

 アスカとて、今更彼女達の想いがこの短時間で翻意するとは思っていない。だが、既に一線を越えているアスカと違って彼女達はまだ線の向こう側にいる。

 今回の戦闘は彼女達の想像している以上に激烈になるだろうし、最悪の場合、彼女達自身の生命が失われるか、或いは手が血で汚れ、こちら側に来てしまうことも考えられる。そうさせたくはない。

 事態は刻一刻と破滅への道を突き進んでいる。相手はアスカと同格クラスの相手が複数。きっとアスカには他者を気遣うだけの余裕すら今回の戦闘では得られないかもしれないのだ。故にアスカは敢えて最終確認のように尋ねたのである。

 

「ここで背を向けたら、うちは一生後悔することになる。この選択の結果がどんなものであってもうちは受け入れる。アスカ君は自分の心に従って」

 

 否定しようと思った。だが、それを否定するのは間違っている気がする。代わりに木乃香は、そっと囁いた。

 

「絶対に明日菜を助けような」

 

 言い切った黒色の瞳は、まるで天宮を支える不動の石だった。

 

「覚悟してくれ、なんて格好のいいことは言わない。こんな馬鹿なことに付き合って死ぬ義理はない。全員、死ぬな」

 

 最後は祈るような切実さを漂わせ、アスカは口を閉じた。しんと静まり返った部屋に、それぞれの中に反響した言葉を受け止め、咀嚼する一同の沈黙が降り積もってゆく。

 

「当然、アスカも死ぬなよ」

「大丈夫だって。心配しないでくれ」

 

 千雨とアスカの声が沈黙を貫くかのごとく響き渡る。それが、二人の抱いた覚悟の室であるようにこれまで聞いたことがないほど、硬く、重かった。そこには断固とした意志の力が感じられた。  

 

「明日菜は必ず救い出す。世界だって救って見せるさ」

 

 アスカの声を聞いた千雨は、彼の成すことがそれほど無理なものではないような気がしてくるのを感じた。理屈ではない。何故そんな気持ちになったのか本当に不思議な気持ちだった。

 

「俺が、やるんだ」

 

 右腕を握り締め、アスカは一語一語噛み締めるかのように言葉を紡いだ。少女達へ向けてというより、内なる自分自身に対する決意の言葉だったのかもしれない。

 戦うのだ。世界のために――――――というと大げさな気もするが、本当はそんなところではない。

 

「勝算はあるんか?」

「あるに決まってるだろ。勝つのは、何時だって俺だ」

 

 重たい沈黙を挟む間もなく小太郎から発せられた愚問に対する返答が耳に届いた。

 

「アスカ君……」

 

 木乃香はその声から信念の固さを感じていた。

 信念というのは貫かなければならないものではない。何があっても貫きたいと思う強い気持ちのことを言うのだ。逆に信念のままに進み過ぎて破滅へと至らんとする危うさもあった。

 

「卒業式」

 

 ふと、アスカの決意を青い顔をして聞いていた千雨が唐突に言い出した。

 

「みんなで一緒に学校を卒業しよう。一人でも欠けたら許さないからな!」

 

 千雨の双眸は、ハッとするほど健気なものだった。

 

「それだけじゃない。戦いが終わったら、助けた神楽坂を囲んでみんなでパァーッと騒ごう」

 

 千雨の瞳には、本気で信じることの意味を知っている者のみが持つ力強い光があった。アスカのように敵と立ち向かわないからといって、どうしてか弱いだけの少女だと決めつけてしまったのか。

 彼女も戦ってきたのだ。不安に押し潰されまいと、必死に歯を食い縛って耐えてきた。運命に立ち向かおうとしている戦士が、ここにも一人いたのだ。

 アスカ派自分の迂闊さを、傲慢さを恥じた。出口が見えない孤独感と戦うことは、誰にもでも出来ることではない。全てを放棄して死んでいくよりも、ひたすら待ち続ける方が辛いこともあるのだ。

 

「パーティやるんやったら、世界なんて救うんやから世界規模でやろうや」

「それ、ええな。みんな呼ぼう。クラスのみんなもお父様達や知り合いみんな」

「私も微力ながらお手伝いさせてもらいます」

「準備が捗りますね。マスターもきっとお喜びになられるでしょう」

「五月に頼んで超包子で料理を作ってもらったらどうアルか」

「どうせなら魔法世界の人達も招待してはどうでござろう」

「そうなると生半可な会場では収まり切らなくなりそうだな。金勘定も大変そうだ」

「英雄を讃える会となれば、いっそのこと麻帆良を貸し切った方が」

「お姉さま、流石にそれは暴走し過ぎでは」

「美味しい料理……」

「なんでもいいから早く帰りたい」

「全部終わったら、また前みたいに学校へ行って…………昔みたいになれるよな」

 

 みんなが精一杯の笑顔で互いの笑顔の奥にあるものに触れないように言葉を続ける。嗚咽にも似た荒い息遣いをアスカの耳に響かせた。

 

(強いな、みんな)

 

 アスカは皆の言葉を別世界の人の言う事のように感じた。それでも少女達の声にはアスカの煩悶を吹き飛ばす勢いがあった。

 

「ああ、きっと必ず昔のように戻す。戻して見せる。パーティーして学校に通って、みんなで卒業しよう」

 

 そういう道もあるはずだと思おうとしたが、まったく実感が湧かなかった。他のみんなはともかく、自分にはそういう選択肢は残されていない。

 濡れて光る瞳を見返し、みんなともっとたくさん話しをしていればよかったな、と苦い感慨を噛み締めたアスカは、千雨に応じて笑みを返した。何とも言えぬ、噛みしめるような声だった。もう戻れぬ故郷を思い返す旅人の声に似ていた。

 上手く笑えた自信はなかったが、明日菜を含む皆を麻帆良に戻すことこそが自らの役目だとアスカは分かってきた。

 アスカの歪んだ笑みに千雨が息を呑んだ。

 

「絶対だからな! 約束守らなかったら針千本飲めよ!」

 

 微かに息を呑んだ後、彼女は精一杯、これまでの人生で一番の笑顔で細い糸が千切れないか確かめないように告げた。

 きっとみんなも分かっている。みんなでハッピーエンドなど、ありえないということは。それでも敢えて口にせずにはいられなかったのだろう。誰だって奇跡を信じたい――――――こんな時は。

 

「それは怖いな」

 

 アスカはその約束は決して守れないと知っているからこそ、そう言うしかなかった。

 約束を守るという言質が出ない。これが今生の別れになるかもしれない、という予感が千雨の中に湧き上がった。

 アスカは自分がきっと生き残れないと予感していた。やり残したことは数多くある。しかし、それを投げ打ってでもやらなければならないことがあった。

 これが最後の戦いになるだろう、となんとなく彼はそう思った。失敗は許されない。未来を守りたいと思った。そのために、この命を使おうと。それでも不思議と悲壮感はない。

 弱かった自分、そして泣いてばかりいた過去の自分を受け入れ、自らの意志で歩んできたのだ。

 

「あれはしないんでござるか?」

 

 更に言葉を言い募ろうとした千雨より先に楓が言った。

 

「あれ?」

「古は知らないでござろうが、修学旅行の時にこうアスカが言っていたのでござるよ。『俺達に出来ない事なんてない』と。拙者はあの誓い文句が好きでござってな」

 

 少しワクワクとした様子の楓がハワイの戦いには参加しなかった古菲に説明する。

 

「私も少し、あの言葉がないと気合が」

「じゃあ、ここでみんなでしようや。ほら、集まって集まって」

 

 頬を染めた刹那が主張すると木乃香が賛同して皆を円形に集め出した。

 

「あ~、なんか漫画とかであったね。こんなシーン」

「最終決戦前に主人公と仲間が誓い合うやつって、定番ですけど燃えますよね」

「少年漫画的な?」

「そんなのがあるのですか?」

「お、高音さん。ちょっと興味あり?」

 

 アスカを中心とした円陣を組んだ中で隣り合った美空・愛衣・ココネ・高音は楽し気な笑みを浮かべる。

 

「ほれ、アスカ。音頭取れ」

「なんで、俺が……」

「何時も言い出しっぺはお前やろが」

 

 小太郎に促されるも自分の仕切りではないのにこのような状況になって戸惑うしかないが、全員から期待に満ちた目で見られると安易に断るわけにもいかなくなる。

 

「え~、あ~、こういう時になんて言ったら分かんないんだが」

 

 今までは責任を知らず、その場の勢いと流れで突き進んできたので改まって注目されると緊張して言葉が出てこない。

 

「これは明日菜を取り戻す戦いで、これからの魔法世界を左右するものでもある」

 

 普通ならば後者の方が大事だがアスカは敢えて前者を強調することを口にした。

 

「敵は巨大だ。嘗ての英雄は誰もいなくて、絶望しても何もおかしくない」

 

 完全なる世界も大戦期に比べれば遥かに弱体化しているが、こちら最強クラスに到達しているのはアスカだけ。途中の邪魔も必ず入るだろうし、不安要素は多い。

 

「諦めるなら今の内だ。引き返すなら今しかない。残りたい者は残れ。止めはしないし、その方がきっと良い。これから向かう場所は戦場だ。命の保証なんて出来ない」

 

 この中にあっても古菲と真名にも及ばずに戦力不足を通知された高音と愛衣が少し悔し気に顔を伏せた。全員で行けばその分だけ守りに手を割かざるをえないので、残って非戦闘員を守る者も必要になると、理屈では分かっていても辛いものがある。

 

「それでも付いて来てくれるなら、俺が勝利を保証する。明日菜を助け、世界を救って見せる。なんたって」

 

 この戦いは神の定めた運命なんかじゃないと、人間には自身の戦いの結末を変える力があるはずだと。自分がこの日のために生まれてきたような不思議な使命感が、アスカを駆り立てていた。それでもアスカは何かに祈るようなことはしなかった。祈って何かが起きるのなら、とうに起きているはずだったからだ。この世に救世主はいないから、自分なりのやり方でいくしかない、そういうものだ。

 

「俺に出来ないことはない」

 

 拳を斜め前に突き上げる。真似をして全員が拳を突き上げる。

 ココネは絶対的に身長が足りないが突き上げられた拳が一点に集まり、アスカも胸が熱くなった。

 何度も繰り返し口にし、その度に叶えて来た誓いの言葉。その時には何時もネギとアーニャが共にいた。あの二人がいないことがとても寂しかった。

 

「俺達に出来ない事なんてない!!」

 

 アスカの内側から火が燃え上がり、周囲に伝播していく。その火は、千雨に、木乃香に、刹那に、楓に、古菲に、真名に、茶々丸に、美空に、ココネに、高音に、愛衣に、そして小太郎に灯り、たちまち燃え上がって炎となった。まるで辺りの気温が上がったようだった。熱は互いに放射し合い、力強い渦となった。

 

「「「「「「「「「「「「「俺達に出来ない事なんてない!」」」」」」」」」」」」」

 

 異口同音に叫んでご満悦になっている者の中で一際強く拳を握ったアスカが腕を下ろそうとして、咄嗟に千雨はその手を掴んでしまった。

 

「行って来る」

 

 言って異様に強い力で動いたアスカの腕から千雨の手が離れていた。背中を向けて歩き出したアスカを見つめる。

 あまりにも頼りない亀のように鈍い歩み。背中は直ぐそこ。手を伸ばせば今なら届く。追いかけようと思えば、幾らでも出来ただろう。だが、千雨は動けなかった。自分の身を省みない人間を止めるだけの強い理由と想いを千雨は持っていなかった。

 

「アスカ!」

「アスカ君!」

「アスカさん!」

 

 背後から涼やかな声が追って来たが、彼はもう振り返らなかった。もう言葉はいらない。受け取るべきものは、全て受け取った。もはや後には引けない。振り返るつもりもない。ただ、前へ進むだけだ。 

 千雨は決して振り返ろうとしない背中を見つめれば見つめるほど、ひどい胸騒ぎがした。

 あの背中は進み続けて二度と戻っては来ないという、思い込みに近い感情を異様なほど強く感じていた。

 或いは苦しく、或いは悲しく、或いは甘酸っぱい感情であった。

 ぎゅ、と唇を噛む。自分が耐えられるように、この身が引き裂けてバラバラになってしまわないように。一体、何時の間に自分はこんな感情を覚えたのだろう。覚えてしまったのだろう。

 

「アスカと出会えて良かったよ」

 

 ゲートに辿り着き、輝いて転移する寸前に千雨が言った。

 会えて良かった。千雨はその気持ちを噛み締めた。ポロリと零れた瞳にアスカは面食らった思いでその顔を見返した。潤んだ瞳に見据えられ、予想外の疼きが胸の底に走ったが、立ち止まるな、と命じる頭の中の声の方が強かった。

 

「俺も、みんなに出会えて良かった」

 

 アスカが震えた唇で早口に言った直後、姿が消えた。魔法世界の未来を懸けた戦いの場所へ転移した。

 パズルのピースは最後のアスカの選択によって全て揃った。噛み合った運命の歯車は、いま敢然と回り出し、最後の刻を目掛けて唸りを上げて加速する。選択は成された。後は己を信じて成すべきことを成すだけ。

 そして時計の針が午前零時を指し示す。魔法世界の命運を賭けた六時間が始まる。

 

 

 

 

 







次話より最終章 英雄編『第79話 英雄行進』


 
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