最終章、開幕です
第79話 英雄行進
雲が走り、土の色が風の帯の中に渦巻いている。
新オスティアに駐留している全てを駆り出した防衛艦隊の中央に位置するアルビオン。広く張り出した翼、造波抵抗を完全に無視した全体の形状。そして何よりも奇妙だったのは、その船が空中を音も立てずに進んでいる点だろう。
艦の頭脳とでも言うべき艦橋に新オスティア総督クルト・ゲーデルの姿があった。
クルトの眼は、二十年前の大戦末期から魔力が枯渇している地域に向けられている。
「たった数時間で一度は落ちた島々まで浮き上がっている。これは完全なる世界が何かしようとしていると見て間違いないでしょう」
墓守り人宮殿を始めとして、二十年前に魔法の使うことの出来ない不毛の大地になって墜落した島が魔力の奔流の影響で浮かび上がってしまっていた。
クルトの脳裏を過るのは忌まわしくも愛おしくなる二十年前の光景か。
「ですが、まさかこうやって再びオスティアが浮かんでいるところを見られるとは」
こんなこともなければ喜ばしい光景ではあるのだが、ただ喜んでばかりもいられない。艦橋から空の上を見れば、天空に視覚化されるほどの魔力の川が流れている。
このオスティアの島々を押し上げた巨大な魔力溜りの影響が魔法世界全土に広がっているのは各地からの情報で掴んでいた。
「現状の被害は?」
「世界的に多少の混乱が見られるようですが今のところはまだ何も」
光り輝く魔力の川は連合のみならず、帝国やアリアドネ―などの世界の至るところから確認できるという。幻想的ではあるが、明らかに異常と分かる現象に世界の人々の心に恐れを抱かせた。
「空以外に異変は見られませんからね…………各艦の連携は密に。特にリカード議員やテオドラ皇女、セラス総長とのホットラインは切らないように」
「了解です」
何かで問題があった時に把握、もしくは対処するにはホットラインが必要不可欠。元老院の議員であるリカード、ヘラス帝国の第三皇女であるテオドラ、アリアドネ―の総長であるセラスとは常に話が出来るようにしておかなければならない。
「まさか私がこの混成艦隊の暫定的なトップを任せられるとは……」
この異常事態にオスティアに駐留していた艦隊を緊急発進させ、原因と思われる墓守り人宮殿の空域にやってきた混成部隊は指揮系統を一本化するトップを決めなければならなかったのだが、どの勢力が担おうとも後で角で立つので新オスティアの総督であったクルトが暫定という形で引き受けざるを得なかったのだ。
中立国であるセラスも適任であるのに、この地がオスティアという理由だけでトップに任命されたのだからどう考えても面倒事を押し付けられたに過ぎない。
「そ、総督! こ……これは! ぜっ前方に敵影多数!」
「何!?」
オペレーターの唖然とした声が艦橋に落ちる。艦橋に詰めていたクルトもまた、背筋に生じた冷たい汗を感じながら、目前を覆い尽くす敵集団を見つめた。
「て……敵集団総数計測不能……! 概算で五十万を越えています!!! 更に数は上昇中!?」
艦橋に絶望的な沈黙が垂れ込めた。
敵集団の数は、波濤の向こうに凄まじい容量の海水を抱える大津波のようだった。陸地全てを洗い尽くして呑み込んでしまう、最後の大審判の災害だった。まるで、生まれた時からのありとあらゆる記憶を奪われたかのように、鍛えられた兵士達の誰もがただ呆然と硬直した。それほどに戦力差があり過ぎる。
(こ……これはッ非常にマズイですね!!)
前大戦の焼き増しのような光景を前に、クルト・ゲーデルは歯噛みを覚えた。
前大戦の時は十分な準備と戦力を整えての戦いであったのに比べ、今回の戦力はその十分の一にも満たないとなれば予想だにしない状況に頭の中が真っ白になる気分を味わった。
視線が外に吸い寄せられ、動かなくなる。「総督……!」と低く叫んだ少年執事がこちらを見たようだったが、反応する神経も働かなかった。迎撃の指示、艦隊移動、新オスティアの避難勧告とすべきことは山ほどあるのに、喉に何かが詰っているかのように奥から言葉が出てこない。
混成艦隊の兵力は合わせても一万に届くかというところだ。五十倍の敵に敵うと考える方がおかしい。
「タカミチの方はどうなっている? 援軍は!」
「いえ、まだ何も……」
この緊急事態に一時休戦して共にアルビオンに乗り込み、通信室で各国に渡りを付けている高畑に一縷の望みを託すも、たった五時間足らずで国が動けるはずもない。
二十年前の再現とでもいうべき観測データは各国に送られているが会議を開き、軍を派遣するにはあまりに時間が短すぎる。
隠されていた真実を暴いたクルトではなく、紅き翼の高畑が矢面に立って動いてくれた方が融通が利くだろうと目論んだが事態の進行が速すぎる。
「敵総数百万を越えました!?」
オペレーターの声が最早ひっくり返って裏声になっている。
味方はない。援軍は間に合わない。希望もない。百倍に広がった戦力差を前にして頭の空白が次第に大きくなり、生まれる先から思考を呑み込んでゆく。
何人生き残れる、とクルトは絶望の諦念の中で呟いた。正規の軍事行動ではない作戦に何人が全力を出せるか。端から勝ち目のない戦いを前にしてクルトの心は折れかけていた。
「勝てるのか……」
知らずに零れたクルトの諦めの声に、少年執事が頬を痙攣させた。
押し付けられたといっても曲りなりにも新オスティア防衛のトップを任せられたクルトが諦めれば、下にいる兵の士気が地に落ちる。ただでさえ数で圧倒的に負けているというのに士気も落ちれば蹂躙されるだけだ。
『らしくねぇな、クルト』
諦めたクルトを叱咤するように低い男の声がスピーカーを通して艦橋に響き渡る。響いた声には聞き覚えがある。
知った声。アスカ・スプリングフィールドという名前一つが脳裏に浮き立った。
「本艦より南西に飛行船の反応をキャッチ! 映像はそこから広域に向かって発信されています」
「映像を出しなさい」
クルトはオペレーターが指示を求めてきたので映像を出すように指示する。
数瞬後、艦橋に映る映像が切り替わり、一人の青年を映し出したことで、再度、目を見張った。
ウェスペルタティア王国最後の王女、魔法世界では現在でも「災厄の魔女」または、「災厄の女王」と呼ばれタブー視されていたアリカ・アナルキア・エンテオフュシアの僅かな面影を持つ精悍な表情を浮かべたアスカ・スプリングフィールドの姿が画面に映っている。
「アスカ……スプリングフィールド………」
呆然と名を呼んだのは、はたして誰だっただろうか。モニターから目が逸らせない。
『世界全てを敵に回しても勝利するとかほざいてたお前はどこ行ったよ』
短めの逆立てた母親譲りの金髪の髪、精悍な顔に光る蒼穹の瞳は不思議な引力を持っていた。がっしりとした筋肉に覆われた身体をエヴァンジェリンお手製の肩や縁に血のような赤いラインの入った黒いシャツに身を包んでいる。
女性が好む男の顔は二種類ある。繊細か精悍かだ。アスカの顔は明らかに後者だった。顔よりも目で人を引き付ける人間は少ないが、確信とも言える自信と自負が生んだ余裕を感じさせる佇まいが埋もれそうな存在を異様な程に目立たせていた。
頬に走る一筋の傷跡。本来なら醜悪に映るであろう傷さえ、強烈な存在感を失わせるに至らせるどころか、寧ろその傷こそが精悍な顔立ちを一層引き立たせていた。
「…………これほどの事態を目の当たりにすれば諦めたくもなります」
人の戦う意思を挫くためには、恐怖と諦めが一番効果的である。圧倒的な物量を見せつけ、歯向かえば必ず死が待っているという恐怖、或いは決して敵わないという諦観。人の手から武器を捨てさせるには絶対的な力で屈服させるのが早道であり常道であると歴史も物語っている。
「あの敵の集団と、墓守り人の宮殿から観測される魔力の総量から推定すると、この事態は二十年前の再現です。先程の君と私の話は年単位の危機の話ですが、これは数時間単位の目前の危機。この事態に対して新オスティアに駐留していた連合、帝国、アリアドネー、全ての勢力が手を結び混成艦隊を編成して対処しますが、増幅を続けている敵にどこまで対処できるか」
永久不変であると思われた平和が仮初めのものに過ぎず、これから徹底的に破壊し尽くされるのだという予兆。過去の再現という、形ある絶望だった。地獄の光景だった。或いは、やはり神話か。
「あの時は希望がありました、紅き翼という希望が。ですが、彼らはもういない。最後までいたジャック・ラカンも敵に敗れました。希望は既に潰えたのです」
奇しくも二十年前と似たような状況。でも、あの時は皆の希望である世界を救う英雄・紅き翼がいた。
今はもう彼の英雄達は誰もいない。ゼクトは二十年前に行方知れずになり、ナギ・スプリングフィールドも十五年前に行方不明に、アルビレオ・イマと青山詠春は旧世界にいる。ガトウ・カグラ・ヴァンデンバーグは十年前に死に、ジャック・ラカンですら敵の前に敗れた。
『……………』
アスカはクルトの言葉を聞いて暫く黙っていた。数多の召喚魔達が群れ集いこれから始まる激しく争うことになる戦場を、ただじっと目を瞑って立っていたがゆっくりと口を開いた。
『俺がいる』
もう打つ手は無く、このまま終わってしまうのかと絶望と恐慌に陥りかけていた艦橋を静かにさせてしまう、淡々とした―――――しかし、確かな『芯』を持った声音。けして威圧的ではなく、ゆっくりと聞く者に染み入っていく言葉。
その言葉をヘラス帝国の旗艦に乗り込んで聞いていた第三皇女としてテオドラは、自分達が求めたとはいえまだ少年のアスカに酷なことをさせていると自覚しながらも部下に「映像を世界に発信せよ!」と指示を出していた。
「これは………帝国の艦が中継して魔法世界中に映像が中継されています!! 」
オペレーターの困惑した声を聞いてもクルトは帝国というより、恐らく指示したであろうテオドラの意図が分からずに戸惑って動けない。
疑問は何をするのかという欲求に変わり、視線を泳がせて咄嗟の判断に躊躇う。
不動の中、クルトは更に響く声を聞いた。
『馬鹿になるほど敵は強く大きい。嘗ての英雄は誰もいない。ああ、こんな絶望的な状況はそうないだろうな』
幾多の大軍を指揮して数多の戦いを勝利に導いていた将軍の如くアスカの表情が不意にすりかわった。例えるなら何度もリングに叩きのめされながら、なおも挑み続ける挑戦者のように。
『だが、俺がいる。俺がいる限り、世界を終わらせたりなんてさせない』
漆黒の衣を纏って、アスカはひどく自然に佇んでいてる。
古代、自らの民を連れて海を割ったモーゼの如く、ただ静かな瞳で前を見つめていた。その在り方があまりにも静かで、こちらの内面までも鏡のように映してしまいそうだった。
『世界の為に戦った
迸った声音に誰もが気圧された様子で脚を止めた。
人々はアスカに注目していた。良くも悪くも、人々はスプリングフィールドとエンテオフュシアという名に敏感に反応する。
『戦争の遺恨は未だ消えず、種族差別も根強い。領土問題は何時までも後を引いて、個人の価値観にまで干渉することは出来ない。この世界は未だ多くの問題を抱えている』
息をつく間をもって、この世界が眼を逸らし続けてきたものを口にする。
世界を壊す言葉がある。世界を癒す言葉がある。相応しい時、相応しい場所で、相応しい人物がその言葉を口にした時、掛け値なしに世界はひっくり返る。言葉とは、情報とは、それだけの価値と可能性を秘めた概念なのだから。
『俺がこの世界で見てきたものも、あくまで氷山の一角だろう。それで世界の全てを理解できたと錯覚するつもりもない。完全なる世界の目的も今は少し理解できる気がする』
メガロメセンブリア連合の都市の一つに流れる街頭映像の中のアスカが語り出す。あくまで重厚に。一語一語噛み締めるかのように。
『あらゆる理不尽、アンフェアな不幸の無い楽園は確かに魅力的だ。それでも俺は完全なる世界を認めることは出来ない』
映像を見ている誰かが唾を飲み込んだ。誰かは目を大きく見張った、誰かは過去を反芻するようにゆっくりと息を吸った。
誰かは、様々な思いを抱えたままで胸を押さえた。誰かは、ずっとずっと幼い頃に失われてしまった宝物を見るかのように切なく表情を歪ませた。
『ここに至るまで幾千年』
強い。誰の目にも明らかなほど覇気を発する声と目の中の光。どこか静謐な雰囲気を漂わせていながら息を呑むような独特の雰囲気がアスカにはあった。語るアスカの声には特別な艶が聞き取れた。カリスマといってもよい。
『ここに切り替わるまで二十年だ』
その視線は見ている者達全てに目が合っているような錯覚を感じさせ、心の底まで見通せるほどの澄み切っていた。
一字一句、聞き逃すまいとしながら、殆どの人々がアスカと目が合った、と後に主張した。
『苦難を乗り越えて今に辿り着くまでに築き上げた物を無駄にしない為に、今を生きる者として次へと繋げる為に俺は戦おう』
悲しい結末も、しかし絶望のみで終わりにしなければ、その先に見いだせるものがきっとある。希望とはつまり、そういうことなのだろう。
『それに奴らにもいい加減に好き勝手やられて振り回されっ放しなのも飽きた。今度はこっちがやり返す番だ』
映像の向こう側でアスカがニヤリと笑った。
死のうが生きようが、英雄とは特別だ。だからこそ信仰になる。だからこそ万人の縁になる。そうなった時点で、その者はもう人間ではない。
英雄とはそれだけの価値がある。それだけの価値があると皆が認めるからだ。
これからアスカが成そうとしていることは、ただの人間に成し遂げられることではない。人間でありながら人間以上を求める。人間が人間以上を求めればこそ、英雄は生まれいずる。本人が求める求めないに関係なく、資質と絶好の場を持ったものは、そういった『枠』に押し込められる。まるで、生贄のように。
「あの敵の集団を突破し、墓守り人の宮殿まで辿り着かなき、奴らが行おうとしている儀式を止めなきゃならない」
目前の軍勢と呼ぶべき召喚魔の群れは、それだけで十分な脅威である。如何にアスカが強かろうと、あれだけの数の敵と戦いながら更に完全なる世界を相手取ることは不可能だろう。
「俺だけでは無理だ。まだ足りない」
土壇場という言葉がある。もともとは罪人の首を切る刑場のことで、転じて、物事が決しようとする最後の最後、決定的な場面や瞬間を指す。
逃げ場のない絶体絶命の窮地に立たされた時、土壇場に際して試されるのは、その人間の性根と運の強さだ。正面から力でねじ伏せるか、それとも機転を利かせて身を躱すか。切り札を使うか、ハッタリをかますか、本人次第だ。
世界を動かすには個人はあまりにも小さすぎる。だから、アスカは誠意を以て言葉を重ねる。
次に言うべきことを定めて、血を吐く思いで口を開く。頭の中が熱くて、ぐるぐると渦巻いてしまって心が保てない。
「どんなに強くたって俺は一人だ。一人で世界を背負えるほど俺の手は大きくない」
映像の向こうに沢山の未来を作っていく人がいる。その人達に訴える。アスカ一人の声は弱くて小さくて、両手を伸ばしても守れるものは限られている。それでも、だからこそ真剣に語る。少しでも未来がより良きものに近づけられた幸せだ。
不意に憧れ続けて来た男達のことを思い出した。ずっと想い続けていた。誇らしい、あの生き様。ちょっとでも近づけただろうか。否、これからは追い越す気持ちで行こう。それを多分、彼らも望んでいる。
ここまで来た。思えば遠くまで来たものだ。どれだけの山を登り、森をかき分け、暗闇を咀嚼して進み続けてきたか。過去の哀しみも失敗の数々も、もはや敵ではない。自分を育み、ここまで育ててくれた。
「だから―――――」
映像には映らない死角にいる刹那達は演説を聞く。
アスカ一人で戦うわけではないにしても、現在の状況は限りなく絶望的といってよい。
「だから、みんなの力を貸してくれ」
訴えはまるで祈りの様だった。
人間でいて、人間の社会を守りたいと思うなら、ほんの少しでも人間らしくいられるように、きちんと悩むべきだ。結局の所、人が人を信用するのは、卓絶した強さでも冷徹な判断でもなく、そうした脆さや弱さなんじゃないだろうか。アスカが戦うのは強さ故じゃない。
苦しみだけに囚われて選択できないものは愚か者だ。しかし、苦しみもせずに安直な判断を行う者はもっとも大事なものを失う。
(……ああ)
と、アスカは口を開きながら知らず知らずの内に胸の中で呟く。
その手が震えてしまうのを拳を強く握り締めることで抑え、前のみを見つめて言葉を繰り続けた。考える必要はない。これまでに見たこと、感じたことが澱みなく言葉になって溢れ出てくる。神託を口寄せする巫女の心境とは、このようなものなのかもしれない。
「俺をあの場所へ行かせてくれ。そうすれば敵の悉く打倒すると約束しよう」
何時だって喪うのは怖いし、痛いのは嫌だし、死にたいわけでもない。代わってくれるものなら誰かに代わってほしいくらいだ。その思いが強かった。逃げることは、容易かった。
本音のところを言えば、理性は今からでもそうするべきだと思っている。これほど全てが上手く行く勝算のない戦いも、これほど追い詰められた状況も知らない。ひょっとしたらおかしくなっているのかもしれない。感情に従ってわざわざ窮地に向かっている自分は、狂気にでも犯されているのかもしれない。
だが、アスカはそれを望まない。怖いからといって逃げていたらどこにも行けない。進んだ先に天国があるとは思わないけど、やるべきことを放り出して、何時か後悔しない為に。
「夢を見せてやる! お前達が戦ってきたことが無駄でなかったと思える世界を俺が護る。だから、俺についてこい!」
心に訴えかける。やろうと思ってやれることではないし、やっていいことではない。
言葉にしてしまって、体が震えた。世界を護るなどと、一人の人間が言えることではなかった。どうしようもない恐怖と空に昇るような高揚で、全身に鳥肌が立った。アスカの中の、誰もが持っている当たり前の弱さが、これは無理だと泣き言を吐いた。
『俺が世界を救ってやる』
モニターの映像を注視するクルトの体が震えた。今度こそクルトの心が奥底から震えた。
眼球がひどく熱く、どうかすると零れてしまいそうで、抑えるのに必死になった。映像に注視する皆に気づかれないのように、そっと隠した。
それから深く息を吐いた。
まるで、自分の身体の中の空気を全部入れ替えてしまおうとするような、深呼吸みたいな息だった。ずっと窓も扉も閉め切っていて、当たり前に腐りかけていた空気を、一気に解き放ってしまったような気分だった。
津波か何かに、色んなものを根こそぎ攫われてしまった気分であった。
驚愕、歓喜、激情。或いはそれらがぐちゃぐちゃになった、希望の萌芽といってもいい、心の動き。『スプリングフィールド』の血族、『英雄』の息子とはそういうものであった。
(もう大丈夫だ。ここに、英雄がいる)
そう感じた。そう信じた。
ただの少年が多くの艱難辛苦を乗り越えて英雄になろうとしている。
英雄とは、それだけの価値がある存在なのだ。希望といってもよい。その一人がいるだけで何とかなるかもしれないという―――――現実逃避染みた夢想を呼び起こさせる存在。人間は、そんな夢想だけで生きていけるのだと、クルトは知っている。
「……おお」
「……ああ」
どっ、とざわめぎが人々を渡った。心の底から湧き上がって来るざわめきだった。喝采に至るような熱狂ではなくても、その言葉は確実に人心を捉えていたのだ。
モニターの少年に応えるように、ある者は小さく頷き、ある者は拳を握り締めた。艦橋にいる軍人達の絶望に染まっていた表情は、ある予感と感情に輝いた。
期待であった。予感に基づく期待。つまり、二十年前の焼き増しといえる光景のように、これから生まれる新しい英雄と肩を並べて戦えるという事実が、この絶望的な状況の最中にも表情を輝かせているのだ。人間にとって根本的な、自分が光の側にいるという実感。英雄とはまさにその象徴であった。
今のアスカは『ナギ・スプリングフィールド』に等しかった。
魔法世界を救った英雄と、今の少アスカは比肩しうる存在だった。長き時を、数多の出会いを、幾多の試練を乗り越え、多くの経験を経て、少年は遂に父と母の領域にまで登りつめたのだ。
「アスカ!」「アスカ!」「アスカ!」「アスカ!」「アスカ!」「アスカ!」「アスカ!」「アスカ!」「アスカ!」
クルトが乗っていたアルビオンがあまりの熱気に煽られてか揺れた。
歴史が動く瞬間に立ち会えた人々の熱気はことに凄まじかった。誰もがせきを立ち、声を張り上げた。やがてはアスカの名を喉も割れよとばかりに歓呼し続ける。
「王の帰還、か……」
憧れの英雄に出会った子供のように、或いは砂漠でオアシスを探し続けた旅人のように、呆然と我知らず呟いたクルトの声に少年執事が怪訝な顔を振り向ける。
空白だった頭になにがしかの火が灯り、クルトはブリッジ内を見渡した。信じるという以外になんの後ろ盾も持たない、無謀で闇雲な衝動に取り憑かれた顔、顔、顔。今退いてどうなる。ここで勝負を下りて誰に赦しを乞おうというのか
『そして――――』
そこで言葉の意味が、員に浸透するように一拍を置いた。
最も効果的な言葉を切り出すのに、最も効果的なタイミングを待つ。彼らの理解と感情が、ちょうど目的のラインに達するだろうタイミングを見計らったアスカは深く息を吸い、こう告げたのだ。
「完全なる世界との長きに渡る戦いに決着を着ける!」
宣言の後に、ドッと声にならない世界中から集められた熱気が自身の身体を叩いたのをアスカは感じた。
それは、この映像を見た全ての人々の驚愕であり、一瞬遅れて無理に押し込めた歓喜であった。
終わったと夢見ていて、しかし現実には何も変わっていなかった戦いの終わり。それが今まさに生まれいずる英雄と成らんとしているアスカの口から言葉にされたのだ。だからこそ、彼らは否定も出来ず、かといって鵜呑みにも出来ない矛盾に追いやられた。これみよがしの希望にすぐさま飛びつかぬのは、これが二度目だから。
それでも期待は消えない。なにせ彼は紅き翼のジャック・ラカンに勝ち、ナギ・スプリングフィールドの息子で、彼らの跡を継ぐ者。あまりにも強大すぎる絶望の前に現われた希望の光に期待したのだ。
時代を、歴史をその手に掴んだ人物には時にこうして劇的が瞬間が訪れる。後の歴史において、識者はこの瞬間をそう評した。
「……っ」
強く心臓が鼓動を打った。緊張だと、その正体が悟るのに少しかかった。アスカは彼らの希望を一身に浴びて、瞼を閉じる。
姿が見えなくても彼らの想いが集まって希望の火が灯ったのが分かる。
服を突き抜けて、身体の中心を直接炙るかのような激しい熱。何千、何万、何億人もの視線と興味とが綯い交ぜになった、激しく荒々しいまでの圧力。今まで人を指揮したり、注目されたことはあっても、これまでに感じたことのある熱とは全く比べものにもならないベクトル量。
その渦に、半ば意識を奪われそうになりながらも、深呼吸して気持ちが落ち着けば、熱は決して不愉快ではなかった。寧ろ、こちらの内側の何かを励起するかのような、心地良い熱さだった。心臓が何時もより高く鳴って指先まで血を押し上げるように思えた。
(これで後には退けない)
この後は問答無用で戦いが行われる。これを見た者の中には救援にと戦場へ来る者もいるだろう。そして様々な人が死ぬかもしれない。
自分の発言と行動に、これから始まる戦いで失われる命が、魔法世界数十億人の命がかかっているのだ、とアスカは悟ったのである。
自分が殺すのだと。この手で殺す命と、この背中に背負う命。どれ一つだって、自分なんかの手に負えるものではない。それでも無理矢理に歯を食い縛る。
不安。その一語に集約される影が肩から滲み出し、握り締められた拳を震わせた。
自分の行動に確信を持てない不安。それでも精一杯の虚勢を張り、確信があるかのように振る舞わねばならない重圧と、みんなを騙しているのではないかという自責の念。それらが渾然一体となって押し寄せる。信じるということの重さと難しさを満身に受け止める。
昔、誰かが英雄は人ではないと、人外のものだと言っていた。それは多分、こういう意味だろう。人間の精神では受け入れられないものを受け入れて、擦り切れていった成れの果てこそが英雄なのだ。
だけど、アスカは抵抗する。擦り切れていく自分に、それでもしがみつく。鑢にかけられているような精神を、それでも絶対に手放さない。
英雄なんてのは言葉だ。
英雄なのだから仕方が無い。百万人殺すような人間は、もう人間ではないのだから崇め奉るしかない。そんな優しくて、卑怯な言葉。機械的に少数の命を切り捨てるようになったら、それはもう英雄でもない。人間ですらありえない。それはただの怪物だ。
罪を噛み締めるように、ゆっくりと深呼吸する。
自分が成したことで逃げ道を塞ぎ、騙すことばかり上手くなったことを考えると、あまりいい気持ちはしない。色々と変わっていったものに想いを馳せる。
望まれてなくても、誰かを助けたかった。そんな、子供っぽい幻を追った道の先として、たぶんアスカはここにいる。
自分の環境、自分の内側。一つずつ思い返すことで、自分のアイデンティティを確立する作業。ずっと染み付いていた感性や思考の癖が変わったことを感じている。こんな風に、自分を変えてしまったものは何だろうと。
出会った人は多い。関わった事件も多い。移ろっていく季節は、どうしても人間を変えてしまう。それは自然なことで、忌避するようなものでもない。
(多いな……)
瞼を開いて前を見る。
空も、地上も、見渡す限りが召喚魔によって覆い尽くされている。いっそ見事だと思えるほどに数え切れない程の敵ばかりだ。アスカの優れた視力には、もう一体一体の区別がつくほどにまで召喚魔の群れは迫っていた。圧倒的な数であるが故、暗い雨は群れ全体を一つの巨大な雲のように見せる。悪意を懲り固めた黒雲だ。
自分の行動が待たれているのを無形のプレッシャーから感じる。押し潰されてしまいそうなほどの、その重み耐える。
命の重みであった。しかし、アスカは躊躇わない。
「みんな、行けるか?」
問われた少年少女達の誰もが口を開けず、自分の呼吸音だけを耳にしていた。
概算で五十万を越えて増え続ける軍勢は脅威を通り越して絶望しか齎さない。これからあの軍勢の中に飛び出していく。あの軍勢を越えて墓守り人の宮殿に到達して完全なる世界を打ち倒し、級友である明日菜を取り戻さなければならない。
今まで何度も戦いに赴いてきたが、これほどの激戦を予感させるものはなかった。
(…………アスカさんは緊張しているのだろうか?)
桜咲刹那は自分自身に尋ねた。
この場には演説をしたアスカの他に飛行船の上にいるのは刹那・小太郎・楓・真名・古菲のみ。茶々丸は飛行船の操縦で、副操縦席に木乃香がいる。それ以外はテオドラから借りた船で離れた宙域にいる。
僅かに心拍数が上がっている気もするし、唇も少しばかり乾いているのだから恐らくそうなのだろう。死ぬリスクを背負って、これから文字通りの死地に赴くのだから当たり前。そこに戦慄を覚え、だが同時に、彼女は昂揚に似た感情の昂ぶりを感じていた。
「怖気づいていいぜ。正直に言って俺は怖い。これほど怖いと思ったことはないってぐらいにな」
この部分だけはアスカも正直に何の衒いも飾りもなく自分の言葉を連ねる。
周囲の者達に渦巻く様々な策謀に気づいている。それでも絶望はしない。してはならないと自分を定め、英雄として求められる役割を演じ続ける。
「はん、アスカ。この程度で怖気づいとんのかい。情けないのう」
小太郎が彼らしく粋がった台詞が吐いているが、流石の彼も少し顔色が悪い。
「怖いね。だから、頼む。誰も死ぬな。死んでくれるなよ。誰かに死なれると俺が千雨に殺されてしまいそうだ」
お道化る小太郎に合わせたアスカの言葉に少女達は普段の彼らのやり取りに薄く笑った。
刹那は、自分の心音に耳を澄ましてみた。
鼓動は高く、速い。高揚しているのではない。緊張しているだし、不安を感じてもいる。少しばかり、怖がる気持ちもあるのかもしれない。今まで味わったことのなかった感覚にしかし、刹那は微笑んだ。
これから戦場に出るのだ。生と死が一瞬ごとに交差する場所へ行くのだ。平静でいられるはずはない。だが震えているのでもなければ、重圧を感じているわけでもなかった。
精神と肉体は、何者にも縛られてはいない。五体には力が漲っている。激しく熱を持ったものではない。静かで清涼な力だ。一点だけ炎が灯っているのは、心と体の中心、魂とでも呼ぶべき部分だけだ。
「さて――――」
アスカは戦場の空気を感じようと、酸素を肺一杯に吸い込んだ。
もはや選択肢はなく、退くべき道も残されていなかった。いや、例えそうでなかったとしても、やはり自分が進むべき方向は一つに定められていたのかもしれない。
次々と、過去の記憶が脳裏に蘇る。幾度も傷つき、倒れながらも、ここまで戦ってきたのは何のためだったか。色褪せることなく想起される思い出は、必ずしも楽しいものばかりではなかった。だが、今となってはその全てが懐かしい。
多くの戦いを潜り抜けてきたが、これが最後になるかもしれないかと思うと、アスカの皮膚の上に緊張の微電流が流れた。
その最後が、自らの生命の終了を意味しているのか、或いは完全なる世界を打ち倒し、目的の達成を意味しているのかは分からない。最も完全なる世界を打ち倒しても、それが即、アスカの目的達成に繋がるわけでもなく、それを考えれば、些か気が急きすぎているとアスカ自身でも苦笑を禁じえないが。
目的地は墓守り人の宮殿。全てはあそこから始まり、あそこで終わるのだ。
(あそこに明日菜がいる)
アスカの意識の大部分を占めるのは、宿敵であるフェイトのことも、世界のことでもなかった。あるのは明日菜に会って、なんとか自分の手元に引き寄せたいという欲望だけである。
この道の終わりに、彼女は、笑顔で立っているだろうか。これから行く目的を想起したアスカは体の奥底から無限の力が湧き出るように感じた。
「………………明日菜」
瞼を閉じれば、そこには一人の少女が映っていた。
彼女を想うだけで、膨れ上がり、腹腔からふつふつと温度を上げていくものがある。気管を突き上がって喉を熱くする
分かっているのは、如何なる運命であろうと、もうそれを悩む時期は過ぎたことだけ。今自身がやるべきは抗うこと。戦うこと―――――明日菜を取り戻すこと。
戦う理由がここにある。己の裡から膨れ上がる熱が、自分の背中を押している。
戦士をやる気にさせるのは、結局、命を危険に晒して見せることでしかないことを、アスカは良く知っている。人は利得では動かない。それを超えた何かかを与えてくれる戦士に従うのである。
最後の戦いになると確信して、アスカは心を決めた。
「―――――行くぞっ!」
頭部に乗ってアスカが叫んだ直後、茶々丸が操船するスプリング号が飛ぶ。
最初はゆっくりと、やがて速度に乗って最高速度に達し、遥か遠くに見える墓守り人の宮殿へ向かって疾走する。
「子供らに任せてばかりはおられまい! 全艦!!! 主砲一斉射撃!!!」
「撃てぇッ!!」
ヘラス帝国第三皇女テオドラの号令と同時に、ヘラス帝国群の艦船から主砲が一斉に放たれ、前方に立ち塞がる召喚魔達を串刺しにして飲み込んだ。戦艦から放たれた圧倒的な光量を持つ強大な精霊弾が、魔法世界の行方を左右する戦闘開始を告げる凶暴な号砲だった。
「英雄の道を拓けよ!!」
戦闘の始まりを告げる光が爆ぜ、墓守り人の宮殿への長い道を篝火のように飾る。
「撃て! 撃ち続けろ! 砲身が焼け付くまで撃ち続けるんだ!」
ヘラス帝国軍に負けじとメガロメセンブリ連合旗艦スヴァンビートに乗るリカードが叫ぶ。
「彼らをあの場所へ、墓守り人の宮殿への道を開きなさい!!」
セラスが指揮するアリアドネ―の艦からも戦乙女騎士団が出撃し、撃ち漏らした召喚魔に向かって行く。
アスカ達が行く道を作るために、ヘラス帝国軍とメセンブリーナ連合、更に中小様々な国で構成された混成軍から放たれた火砲の嵐が波頭のように広がる召喚魔達を次々と飲み込んで爆発した。モーセが神の力により海を割ったかの如く、見る見る内に目の前に直線的な道が造られて行く。
「往けよ、英雄!!」
様々な勢力によって空けられた空間に、射撃を放った艦達の横をすり抜けてアスカ達を乗せたスプリング号が先を急ぐ。
「フェアリー・テイル・マイ・マジック・スキル・マギステル」
一度は砲撃によって開かれた道も瞬く間に閉じていき、黒い波が迫る。
自ら突っ込んだ飛行船に群がろうとする黒い波は、さながら荒れ狂う大海原に投げ出された一艘の小船と鳥の群れのようだ。しかも、雨滴の一粒一粒が凶暴な破壊力を有している。 それでも目的のものが、そこにあるのだから多少濡れたとしても雨の中に飛び込んで行かねばならなかった。
「来れ雷精、風の精、雷を纏いて吹きすさべ南洋の嵐」
召喚魔達に立ち塞がったのは、飛行船の船首の上に立つスカ・スプリングフィールド。
アスカ・スプリングフィールドというちっぽけな獲物を逃がすまいと両手を広げ、高波となって襲いかかる。周りを取り囲まれ、こちらの全てが彼らの作る影の中に落ちる。
既に戦闘開始のための撃鉄は下ろされた。二度目はない。後戻りは出来ない。これっきりのチャンスなのだ。必ず成功させなくてはいけない。アスカは昂ぶる感情と緊張を抑制するどころか、大きく息を吸い込み、それを声と共に吐き出した。
「雷の暴風!!」
開幕の号砲に次ぐ英雄の一撃が黒い波を一直線に引き裂く。
英雄の最大威力の魔法によって数千単位で消し飛ばしながらも、現在進行形で増え続けている召喚魔には大した痛手にはならない。
雷の暴風で開かれた道が徐々に狭まり、前方が塞がれる前にアスカは黒棒を呼び出す。
「おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっっっっ!!」
手に握った黒棒に魔力を流してスプリング号を超える巨大な雷の刀身を形成すると、雄叫びを上げながら前を塞ぐ敵の集団目掛けて突っ込んだ。大気を震わせる咆哮と共に、空を切り裂くように巨大な雷刀で敵を薙ぎ払った。
雷刀から放射線状に広がる剣閃が道を塞ぐ大小関係なくあらゆるものを吹っ飛ばしていく。
切り裂かれた召喚魔が魔力へと還元され、辺りには一瞬屠殺された召喚魔から発せられた憤怒の風が吹き荒ぶ。
瞬く間に雷刀が切り返され、召喚魔達はスピードを全く緩めなかった突進によって同じ末路を辿る。
大半の召喚魔は瞬く間に振るわれたこの二撃によって第一陣が半壊したが、運良く攻撃を受けなかった固体も少なからずいた。
二撃を突破して足の速い大型召喚魔二体が迫る。人間の体など容易く引き裂く鉤爪を猛禽のように突き出し、昆虫めいた形状を持つ二体が間近で散開する直前、アスカは黒棒を持っていない方の手を大型召喚魔に向けた。
「雷の投擲」
各々の軌道を読んで放たれた雷の槍が召喚魔の行く手を遮る。
腹部に雷の槍を食らった昆虫めいた形状を持つ二体の召喚魔が四肢を散らし、爆散する。爆発の光輪が咲き乱れる中、迎撃の邪魔になると巨大な雷刀を消して黒棒に紫電を纏わせるに留める。
前方から接近していた召喚魔達が怯んだ隙を逃さず、アスカが躊躇なく跳んで一気に肉薄した。
攻撃を避けながら回避運動に入っている真ん中に突っ込み、黒棒を一閃してドラゴン型の召喚魔達の体を上下に両断する。
追いついたスプリング号の屋根に着地しつつ、前へ前へと先走る思惟を押し返し、硬い圧迫が前方から寄せてくる。次の瞬間、それは無数の気配となって現われ、数秒とかからず視界に現われた。
「せっ……!」
間近に迫って振り下ろされた召喚魔の鉤爪を躱し、すれ違い様に頭部を蹴りつける。頭部を吹き飛ばされて尚も飛び掛かろうとする召喚魔を頭頂から唐竹割りをしたアスカの背後から迫る無数の黒い波が襲い掛かる。
「刹那!」
アスカとペアを組んで空中を担当している刹那に向かって声を張る。
それだけで刹那にも意図が伝わる。
「任せてください!」
気合いの入った返答と共に、刹那がアスカの背後に迫る無数の群れの前に飛び込んで、振り被った夕凪に気を溜める。
「斬空閃――っ!」
アスカの背後を守るべく刹那が飛び上がり様に放たった剣閃が黒い波の正体である召喚魔達の存在を許さない。剣を振るった軌跡通りに気の力を刀身から飛ばし、影を消滅させる。
際限なく湧き上がってくる黒身の存在たちを、刹那は一刀の下に両断していた。常人ならば一体であろうと逃れられない死の化身。
「斬空閃!」
死の化身を一刀の下に数体纏めて屠っていく。アスカに襲い掛かった哀れなガーゴイル型の召喚魔達は、刹那が放った気の刃によって次から次へと全身を寸断され、己が敵の選定を見誤ったことを、身をもって学ぶことになった。
剣の乱舞は斬撃の竜巻を生み出す。そこに近づく召喚魔を待ち受けているのは、吹き飛ぶか、斬り砕かれるか、叩き潰されるかのどれか一つ。
「はっ!」
スプリング号の右翼側の迎撃に当たる古菲の持つ棍棒―――――神珍鉄自在棍が彼女の気合の声と共に長さを遥かに伸ばして虚空を切り裂き、全体の補助をする真名が腰溜めに構えたサブマシンガンを放つ。
振り回した神珍鉄自在棍が数体纏めて吹っ飛ばし、そこに真名の黒光りするサブマシンガンの弾丸が放たれ、体を貫かれた召喚魔達が爆発の中に消えた。
トンプソンM1921。通称トミーガン、トムソン銃、シカゴ・タイプライター。退魔の刻印が施されたトンプソンM1921の弾丸が次々と敵召喚魔へ着弾し、正確に、着実に敵を撃ち抜いていく。
銃身の付け根につけていた
「来たりて伸びるアル!!」
古菲の手首がしなり、神珍鉄自在棍が真名に襲い掛かろうとした召喚魔を襲う。
柱と見まがうほどに巨大な棒となった長い神珍鉄自在棍が正確に広げていた翼に当たり、軌道をずらされた所に弾を換装し終えた真名の突撃銃が火を噴いた。広げていた翼を抉り、空を飛べなくなった召喚魔が落ちていく。
「やるな、古」
真名が感心している間に神珍鉄自在棍はシュルシュルと縮んでいった。
「まだまだこんなものじゃないアル」
古菲が右手を一振りすると、普通の大きさの棍となった神珍鉄自在棍で近くにいた召喚魔の頭を叩き潰す。、
「ふんっ! 疾空黒狼牙っ!」
その間に小太郎は背後から迫る召喚魔に、影が滲み出るように空間が歪んで生まれた狗神を両手に留めて真っ直ぐ踊りかかり、抜き打ちに右手を頭部に叩き込んだ。そのまま頭部を蹴って即座に反転。
背後で爆発して消えていく召喚魔には目もやらず、上空から近づいていた一体に返す刀のように左手に留まっていた狗神で屠り、素早く体を翻して放っておいたら自分を置いていくスプリング号の上に着地する。
「ほっ」
最後尾で後を追って来る召喚魔の首を持っていたクナイで三体纏めて刈った楓を飛行船は置いていく。
「遅れているぞ、楓っ!」
真名の目は常に全体を見渡していた。敵を倒すことに注視し過ぎてスプリング号に置いていかれかけている楓に向けて叫ぶと、彼女も置き去りにされては叶わないと虚空瞬動で後を追う。
数知れぬ光条が切り裂き、微塵に燃え尽きる炎が散りばめられた虚空。その果てにある墓守り人の宮殿は、今にも手が届きそうでありながら、尚も遠かった。
順調に進んでいるアスカ達の姿を、茶々丸は飛行船で操縦しながら自分の目を通して全世界へと中継している。
「おぉ、あの大群の中を駆け抜けてゆく……」
中継で黒い波の中を希望の光が進んでいく姿を見た誰もが伝説の再現を夢見る。
ただの兵士であれば希望に浸ることも出来るが指揮官には許されない。
「気をつけなさい! 我々が突破されればオスティアの市民が巻き込まれます!」
アリアドネ―の戦乙女騎士団の戦いをアリアドネ―部隊の旗艦で指揮しながら、戦士達を鼓舞するようにセラスが叫ぶ。
戦艦から出撃した数多の魔法使い・戦士が召喚魔と接敵し、空域の至る所で激戦が繰り広げられている。
容赦なく行われる敵の攻撃に戦士が落ち、船が傷つき、混成艦隊も苦戦している。飛び交う混成軍の砲弾が命中しようとも一向に減らない敵の大群を一条の矢が突破した。
「突破した……っ!」
召喚魔の波を越えてグングンと上昇していく飛行船。逆巻く雲海が轟然と渦巻き、足元を激流のように流れていく。
下に視線を移せば、魔法世界全体に広がっている魔力の川の発信源であるオスティア宙域を超大規模積層魔法障壁が白い膜のように覆い隠している。
咸卦法・太陽道を発動しているアスカに向かって魔力が渦を巻き、使った端から力が回復している。逆に使わなければ回復し過ぎて内側から破裂しかねないので、力を使わなければならない状況は有難い。
上昇を続けていく飛行船と共に取り付いてくる召喚魔の数は減り、遂に頂上へと到達する。
「茶々丸!」
『行けます! 栞さんの言ったように障壁はありません!』
操舵を続けながら観測していた茶々丸がアスカの声に応える。
栞の情報通り、上部中部は魔力が台風のように凪いでいて障壁がないので内部の墓守り人の宮殿が見えた。
『突入します! 何かに捕まっていて下さい!』
飛行船を操縦している茶々丸の声がスピーカーを通して聞こえ、近づいていく距離に比例して増していく圧力に軋む船体に各人が捕まる。
濃霧のように前の見えない魔力のバリヤーの一歩内側に入れば、宮殿全体をハッキリと認識することが出来る。
「これが、墓守り人の宮殿……!?」
二十年前の大戦の最終決戦地。全てはここから始まり、そしてここで終わるのだ。
「!?」
下降の勢いそのままに上層に下りようとした瞬間、スプリング号に何かが飛来して来た。
「白い雷!」
気付いたアスカが白い雷を放って撃ち落とすが、何かは途切れることなく宮殿上部の塔から次々に撃ち出されている。
「な、なんや?」
「大方、迎撃兵器の一種だろう。この宮殿が古代のものと思えば当然あって然るべきものだ」
困惑しつつも狗神を放つ小太郎に銃弾を放ちながら真名が推測を披露する。
その間にも船体を貫いて余りある大量の巨大針を各自で迎撃しているが、何時までも持つものではない。
「栞殿も態と言わなかったでござろうな」
「どうするアル? このままでは持たないアル」
なんとか上部に下りようとするが巨大針の集中砲火にこれ以上は近寄れない。
弾き、吹き飛ばし、消滅させているが、果断なく飛来して数が多すぎてスプリング号が被弾するのは時間の問題であった。
「上部に下りるのは無理です!」
「仕方ない。下へ回るぞ!」
『了解です。急速降下します!』
刹那が巨大針を弾きながら叫ぶのを聞き、アスカが指示を出すと茶々丸がスプリング号を動かす。
上部への降下を諦め、巨大針の集中砲火を避けて離脱する。宮殿から距離を取れば巨大針の密度も下がり、降下することも可能であった。
向かって来る巨大針を弾きながら下部へと回り込む。迎撃を続けながら空中に浮遊している宮殿だから飛行船の発着場を探す。
『有りました! このまま突っ込みます!』
アスカよりも先に飛行船の発着場を見つけた茶々丸の外部スピーカーを通した声が注意を促す。
未だ向かって来る巨大針を魔法の射手で迎撃していたアスカも船体に捕まる。
「くっ」
巨大針から逃げる為に安全な着地など望むべくもない。スプリング号は船体下部を削って発着場の地面を穿り返しながら止まった。
「全員無事か!」
衝撃に揺れた頭を振って気付けをしながらアスカが仲間に問うと船外にいた者達からボツボツと返事が返って来る。
「お嬢様!」
『ちょっとおデコ打っただけで、うちと茶々丸さんも無事や』
木乃香の声が外部スピーカーから聞こえ、刹那も安心したように肩から力を抜いた。
『主機は大丈夫ですが、船体に穴が開いています。修理しなければ飛ぶのは難しいでしょう』
次いで茶々丸の声も聞こえ、カチカチと何がしかのスイッチを押す音が辺りに反響する。
「いざとなれば自前で空を飛べるんだ。修理は後回しだ。先へ――」
「いいえ、貴方達は先へ進めません」
進もう、と続けようとしたアスカの声を遮るように第三者の涼やかな声が発着場に響き渡った。
「動くな、止まれ!」
声が聞こえた方角に誰もが首を巡らし、真名が近づいてくるその人物を牽制する叫びながら銃を向ける。
敵地である墓守り人の宮殿にアスカ達以外の第三者がいるとすれば敵以外にありえない。真名が警戒するのは当然で、追従するように地面に下りたアスカが構えを取る。
「!?」
数秒の静寂の後に瓦礫の上に立って姿を現したその人物を見た時、誰もが例外なく驚愕を露わにした。
「こんにちは、皆さん」
「ザ、ザジ・レイニーデイ?」
口元だけで薄く微笑んだザジ・レイニーデイの登場に誰もが動揺を隠せない。
まさかの人物にアスカすらも次の行動に移せず、目の前の人物が本物なのかと目を疑う。
「本物のザジなのか?」
銃を向けながらも真名にもザジの真贋がつかないようであった。
「出席番号31番のザジ・レイニーデイで間違いはありません。姿を真似た偽物に見えますか?」
「…………いや、気配はザジと変わらない。だが、ザジはこんな異質な圧迫感を放つ奴じゃねぇぞ。似たようなのなら嘗て感じたことがある」
真贋はさておき、今までに類似する者が殆どいない圧迫感を放つザジを見るアスカの目は鋭い。
嫌でも古い記憶と苦い思い出を想起してしまうその圧迫感の持ち主を想起して口を開く。
「ヘルマン―――ー奴と同じ圧迫感だ。ザジ、お前は悪魔だな。それもかなり高位の」
六年前にアスカ達の村を襲った悪魔の一体、そして数ヶ月前にも麻帆良で対峙したヘルマンと良く似た圧迫感からザジの正体を割り出す。
「正解です」
ニヤリ、と表現した方が良い笑みを浮かべたザジは「私の方が偉いですよ」と付け足すのを忘れなかった。そこには拘りがあるらしい。
「だろうな。ヘルマンとは強さも段違いみたいだ」
思わぬ相手の出現ではあるがやることは何も変わらない。邪魔をするというのならば等しく敵であり、倒して前に進むだけだ。
アスカが僅かに爪先に力を入れたのを見てザジが体を後ろに引いた。そこはアスカの射程圏外で、当てるには魔法を放つ必要が出て来る。
「ここにいるってことは敵ってことだろ。仮にもクラスメイトなんだ。せめて理由を聞かせてくれよ」
半年にも満たないとはいえ同じ学び舎で学んだ級友であること考えれば、ザジが容易ならざる相手であると認めつつも、その目的を知らない間は安易に倒すわけには行かない。
「皆さんを傷つけるつもりはありません」
穏やかに微笑みながら、無口キャラはなんだというぐらいに流暢に話すザジ。その表情とは裏腹に圧迫感が更に高まる。
「そうとは思えんがな」
「嘘ではありません。皆さんがここで退き返すならば、ですが」
圧迫感に苛なまれながら真名が皮肉を口にすると、ザジは少し苦笑しながらも圧迫感を強めて空間全体に広げるような魔力を発する。
「この世界はいずれ滅びます」
規定事項であるように魔法世界を結末を語る。
「その崩壊に巻き込まれて魔法世界十二億の民の多くは消えます。なんと生き残ったとしても、待っているのは生物が生きていくには過酷すぎる不毛の荒野。彼らが生きるには地球を目指すしかない」
仮に地球に辿り着けたとしても、異邦人でしかない魔法世界人が歓迎されるとは限らないとは誰にでも想像がつく。
「悲惨な悲劇を回避するためにはフェイトさん達の計画通り、この世界の全てを『完全なる世界』に封ずる他はない。これこそが最も血の流れない未来となるのだから」
追い詰められた魔法世界人に手段を選べるはずもなく、下手をすれば地球人類と血で血を争う戦争が始まるかもしれない。悲劇を回避するには他に手段はないのだと語るザジ。
「世界を救った英雄と女王の息子が、こんな無謀な行動に出ることがないよう祈っていましたが」
「無謀、無謀ね。勝手に未来を決めてんじゃねぇよ。俺にはこの世界を救う方法があるぞ」
どうでもいい、とばかりに小指で耳を穿った出て来た耳糞を息で吹き飛ばしたアスカが他の方策について語ると、ザジはありえないと首を横に振る。
「魔界の研究機関の試算では、最短で九年六ヶ月の後に魔法世界の崩壊が始まります」
「何やと!?」
アスカの一歩斜め後ろで話を聞いていた小太郎が速すぎる魔法世界の崩壊に驚きの声を上げる。
「如何なる計画があろうとも十年で世界を救えるはずがありません。分かったのならばこの世界のことは忘れて旧世界に帰ることです」
数十年スパンで考えていた者達にとってはあまりにも早すぎる崩壊の予告に、しかしアスカは驚いた顔一つ見せずに反対の耳に小指を突っ込んでいた。
「で、言いたいことはそれだけか」
「聞こえていなかったのですか? この世界の崩壊は不可避だと」
「十分に聞こえてるつうの。まあ、言いたいことは分かったよ。その様子だと墓守り人から何も聞いてないのか」
もっと焦って然るべきのところで妙に余裕のあり過ぎるアスカに始めてザジが笑みを消した。
「あのような馬鹿げたことを本気で行う気ですか?」
笑みが消えた後に残ったのは無ではなく、怒り。小太郎達には分からない理由でザジは怒っている。
「世界と個人、どちらを選ぶかなんて決まっているだろう」
「…………貴方は、進んで贄になるつもりだというのですか」
二人の間で共通の事柄が分からないから、贄という言葉が何を示すのかが他の者には理解できない。
「明日菜が待ってんだ。先を進ませてもらうぜ。邪魔をするなら遠慮なく倒させてもらう」
他の者達がその理由を問い質すよりも早く、話題を変えるようにアスカがザジの目的を問う。
「貴方と戦えば私も只ではすみません」
ザジは他のことを口にしようとするもアスカから発せられるプレッシャーは大きくなるばかりで、仮に贄の問題を穿り返そうとすれば先鋭攻撃を仕掛けて来る。そう予感させるプレッシャーにザジも諦めてポケットに手を入れた。
「致し方ありません。このような手を取りたくはなかったのですが」
「アーティファクトカード!?」
優れた目を持つ真名が真っ先に気付き、遅れて気づいて対処しようとしたアスカが踏み込むも、ザジはカードからアーティファクトを発動している。
「幻灯のサーカス、発動」
「しまっ!?」
ザジまで目前というところでアスカの視界は光に包まれた。
「…………あぁあああああ………ぐはっ!!!」
アスカは何か嫌な悪夢を見た気がして大声を上げながらベッドから掛けられていた布団を吹き飛ばして飛び起きた。
「はぁ、はぁっ………ここは?」
ベッド上で起き上がった姿勢で暫し、アスカは茫洋とした視線を前へと向けて息を荒げる。
一分か数分か数時間かどれだけの時間、息を荒げていたのか分からない。時間の感覚も曖昧な中で眼だけを動かして周りを見渡す。
見覚えがないのに見た記憶があるという不自然な感覚。
何時も勉強をするために使う机、日本に来てから出会って親友になった犬上小太郎に勧められてお気に入りになった漫画が入った本棚、自分が現在寝転がっているベッド。何時もと同じ天井、何時もと同じ壁のシミ、朝の光――――。
「なんだ……」
何も変わったところは無い。昨日、自分の意志でこの布団に寝転がって寝た記憶がある。なのに、何故だろうか酷く違和感があった。まるで寝すぎた時のように頭がガンガンする。
「誰かいないのか?」
焦燥感に追い立てられるように布団を跳ね除けてベッドから飛び降り、日本に来てようやく与えられた自分だけの部屋から出る。
扉を開けて出た瞬間に足裏にひんやりとした木の感触。毎朝丁寧に磨かれているのだろう、埃一つ無い。昨日と何も変わらない廊下にも違和感が抜けない。
首を巡らせれば、 隣には双子の兄であるネギの部屋。何もおかしいことはない。おかしいことはないのに、おかしいとアスカの中で何かが叫ぶ。
違和感を抱えたまま、廊下をドタバタと走って廊下を駆け下り、誰かがいるとすれば一番可能性の高い居間へと辿り着いた。
「いないのか、誰も!」
冷たいフローリングを踏んで居間へと足を踏み入れ、声を張り上げても暗い部屋からは誰も答えてくれない。
「……………」
暗い部屋、誰もいない部屋、寂しい部屋。居間への入り口から見て右斜め奥に広いダイニングキッチンと四角いテーブルがある。逆側には真新しい絨毯の上に大人三人が並んで座れそうなソファーが収まっていた。
朝のはずなのに分厚いカーテンが敷かれており、外の朝日が部屋を照らすことはないので家具は輪郭程度しか映らないが人の影は見当たらない。
いもしれぬ孤独感に苛まれて腕で己が体を抱きしめる。後少しで寂しすぎて泣き出そうとしたその瞬間にパンッとクラッカーが鳴り響いた。
「「「「「ハッピィバースデー!!」」」」」
「……!?」
突然、点いた明かりと同時に鳴り響く幾つものクラッカーの音とかけられた声。点けられた明かりの先には、暗がりで分からなかったがテーブルの上には食欲をそそる匂いを醸す美味しそうな料理が並べられていた。
壁には色取り取りの地図が貼り付けてあり、旧世界や魔法世界の各所で色んな人と撮った写真が飾られている。
「何をビビッてんのや」
「アンタのために来てやったんだから少しは嬉しそうな顔をしなさいよ!」
クラッカーを片手に笑いながら言う二人。見覚えのある二人である。
変わらないツインテールのおしゃまで気の強い少女と、大して背の変わらない黒髪のやんちゃそうな少年。
「……小太郎……アーニャ?」
犬上小太郎とアンナ・ユーリエウナ・ココロウァの良く知る二人である。
小太郎は関西呪術協会からの交換留学生として麻帆良にやってきていて、アスカの同級生にして親友である。アーニャはロンドンで占い師見習いをしているはずで、まだ別れてから半年も経っていない。
二人とは何度も顔を合わせているのに何故か強い違和感があった。
「ホラ、こっちやで!」
末だに信じられぬ面持ちのアスカの腕を横合いから現れた近衛木乃香が引っ張って、先にネギ・スプリングフィールドが座っているケーキが用意された上座の席へと連れて行く。
「よっと、主役の席はここですよ」
「せ、刹那まで……」
混乱の収まらないアスカは立ち上がろうとしたが背後に回った桜咲刹那が肩に手を置いて抑える。
辺りを見渡したアスカの斜め前に後ろ手のまま神楽坂明日菜が歩み寄って来る。
「誕生日おめでとう、アスカ」
その笑顔に、全ての言葉を封じられる。
「ん? どこか痛いの? 怪我でもした?」
明日菜の言葉は、アスカの意識の外をついた。一瞬、止まった息が、直ぐには出ずに詰まった。
「どこも痛くない。怪我もしてないから」
「でも、痛そうな顔してるわよ」
明日菜が近寄って来て、そのままアスカの頬に手を伸ばした。
「……っ」
その手をアスカは払えなかった。彼女は誕生日に浮かない顔をしている自分を心配しているだけで、払う理由がないと思った。
自分でもおかしいぐらいに硬直した身体は、明日菜の手をすんなりと受け入れてしまった。
「なにかを隠しているみたいだけど我慢するのは良くないわ」
ちょっと怒った顔で明日菜が唇を尖らせた。
なにも隠していないと緩く頭を降るアスカを見つめた後、明日菜は「じゃあ」と腕を組んだ。
「辛いことも、苦しいことも、みんな忘れしまえばいいのよ。今はそれが出来る」
そうなのだろうか、と自問がアスカの脳裏に響く。
「おめでとう、アスカ、ネギ」
「おめでとう」
答えが出る前に、背後から聞こえてきた聞き慣れた、だけど殆ど聞いた事の無い声がアスカと隣りに座ったネギへとかけられた。
「……………!」
アスカは振り向けない。見てしまえば戻れない。この優しい世界に甘えてしまう。
「父さん、母さん、ありがとう」
だけど、隣りのネギが声の主たちへと答えてしまった。
知りたくなかった。分かりたくなかった。見たくなかった。しかし、ネギの声に導かれるようにアスカは後ろを振り返った。
「………どうして………」
振り返った先、そこにいたのは自分の隣にいるネギを大きくして繊細さを減らして野性味を足したような男性。そして自分を大人にして柔らかさを足した女性。ナギ・スプリングフィールドとアリカ・アナルキア・エンテオフュシア。自分とネギの父と母だ。
口から零れ落ちた呟きに自分が困惑する。
「…………親父、お袋…………」
確かめるようにそっと呼びかけると、ナギが優しく微笑んだ。
「なんだ? 折角祝ってやってるのに嬉しくないのか?」
何時もとは様子が違う様子で自分達を見るアスカを訝しげに見ながら問いかけるのはナギ。
「少し顔色が悪いようじゃの。風邪でも引いたか?」
心配げなアリカの温かい手がアスカの頬を撫でた。
「何でもないって。ちょっと夢見が悪かっただけで」
居心地の悪い様な、使われた試しのない神経にじんと熱が通うような、曰く言い難い気分は違和感として強く残っている。
「あ、あれ…………どうして、涙が」
アリカの言葉に涙が自然と溢れて来た。抑えようとしても、拭っても次から次へと流れて来る涙にアスカは困惑した。
「大丈夫じゃ」
アリカがいきなりアスカの頭を抱え込み、抱きしめた。
彼女の胸に顔を埋める形になり、アスカは戸惑う。頭の後ろに触れるのは唇だろう。彼女の肌の温もりが汗の甘い匂いと共に伝わってくる。
「アスカは精一杯やった。誰も責めないし、私が責めさせはせん」
彼女の吐息が頭を撫でる。アリカの汗なのか、水滴が一つうなじに落ちたのをアスカは感じた。
「これでも、ずっと心配しておったんじゃぞ」
声に何時もの溌剌さはないが囁くようなアリカの言葉は真剣そのものだった。
「お袋……」
「辛いことも、苦しいことも、何もかも忘れてしまえばいい。私が許す」
ほんの少しの間を置いて、彼女は言った。
身体を抱く母の腕に力が篭り、その身の温もりをより強く熱く感じた。伝わってくる彼女の鼓動は速い。
ずっとこのままでいたい。このままこうやって触れ合っていたい。そうすれば、もう辛いことは何もないのだ。傷つくことも、傷つけることもない。誰かに恨まれることも、恨む必要もない。
今のアスカは陽の匂いに包まれていた。ずっとこうしていたかった。そしてそれは当然の求めるべき権利のあるものだった。他の皆には家族がいるのだから、どうして自分が求めてはいけないのか。
「最初からどうしようもなかったのだから苦しむ必要なんてない。忘れてしまえばいいんじゃ」
アリカの言葉が目覚めてから胸の中に感じていた空虚な部分に染み込んでくる。
これがアスカの望んでいたもの。ささやかだけど、皆がいて、満たされて、幸せな日常の世界。なのに、その時になってアスカの中で強烈な違和感が蘇る。
抱擁が解かれ、優しい笑みを浮かべている目の前の女性が母なのだと思い込もうとした。
「改めて誕生日おめでとう、アスカ」
それは家族が誕生日を迎えた、どこの家庭にも一年に一度ある極普通の親から子供へ向けた言葉だった。しかしこれまでのアスカにとっては、幾ら望んでも得られなかった、かけがえのない一言だった。
「…………ありがとう」
答えるアスカの胸に、切ない気持ちが込み上げる。我知らずに頬を再び涙が流れ落ちた。
「泣くことなんてないじゃいの」
閉じた瞼では分からない近くから明日菜のからかうような、とても優しい慈しむ声が聞こえた。
「実はアスカは泣き虫だからな」
ナギから慰めているのかけなしているのか分からない声がかかった。慣れているような感じでアスカをポンポンと軽く動作には愛が溢れていた。
開かれたカーテンの向こうから、瞼を透かして窓から差し込んでいるらしい陽の光が眩しい。
陽の眩しさに目が潰れてしまえば、こんな幸せな光景を目に焼き付けておけるのにと思った。
開いた瞼には先程と変わらない幸福な光景が広がっている。どうしても夢のように思えて何も乗っていない取り皿を見下ろしていた。
「食べへんのかいな。こんな美味そうやのに」
「じゃあ、私が取ります。アスカはから揚げが好きだったものね」
天ヶ崎千草が問い、ネカネ・スプリングフィールドが率先して動いて何もなかった皿の上に油が薄らと浮いたから揚げがアスカの目の前に現れた。微かなレモンの香りがアスカの空腹を刺激した。
だけど、何か大切なことを忘れているような気がした。
考えなければいけないことがあるはずだった。追求しなければならないこともあるはずだった。けれど、みんなの笑顔を見ると、何も考えられなくなった。何も追求できなかった。
(…………………)
これで、いいのだろうか。
みんなが楽しそうに、今のこの日々を送っている。満たされて、みんな、表情は明るい。だから、何も思い悩むことなどないのだろうか。自分はこのまま、何も言わず、何も考えずにいればいいのだろうか。
ここは幸せな世界だ。大きな争いは根絶され、不正義も膨れ上がることはない。奇跡も犠牲も英雄も必要としない当たり前の日常である。
家族と友人に囲まれているアスカを中空から見下ろしたザジが小さく微笑む。
「心から望んだ世界。だからこそ一度囚われしまったが最後、逃れようは無い。純粋な己の欲望にこそ、人は抗いようもなく囚われる」
完全なる世界は、招かれた者が一番強く望んでいることを再現する。ここには、恐怖も絶望も、苦痛もない。完全なる世界の中で、人々は永遠に生き続ける。終わることのない、幸福な夢を見ながら。
「ここは全てを断ち切る場所、永遠の園、無垢なる楽園」
その世界の名をこそ、完全なる世界という。
儀式発動まで残り五時間二十五分十二秒。
次話『第80話 完全なる世界』